今、眼を閉じた
風が、結んだ瞳のなかに入りこみ、飛び跳ねる小人の黒い影

今、からだの末端で珠になり、落ちようとしているすべての赤い血よ
今、からだの末端で珠になり、落ちようとしているすべての赤い血よ
今、からだの末端で珠になり、落ちようとしているすべての赤い血よ
今、からだの末端で珠になり、落ちようとしているすべての赤い血よ

世界が。真夜中の保育室が。

私は待っています
汚されることを、あなた方が争うことを
破裂する怒りを、抑えきれない叫びを、力まかせに投げつけられる感情を
私は待っています

私は待っています
ほんの一瞬の諍いと、永遠に続く抱擁を
愛すべきくだらないお遊びと、それを喜び合うことを
無数の踊りと行進を、誰も統べない合唱を
見捨てられることのない、あなたたちを

それらすべてが、すっかり片付けられてしまった真夜中
月光と水平線の交差点のように静かに、私は待っています
あなた方がまた訪れ、そして幸福な気持ちでまた去ることを
私の身体中に貼りついた、あなたたちの痕と共に
私はずっと待っているのです

研究所跡より

あの犬は、ずっと実験を受けていました。
詳しくは申し上げられませんが、抑圧についての実験だったようです。
研究所はわたしが爆破したのですが、実験動物たちの殆どは逃げることをしません。
自由の意味が分からないのです。行先の自己決定などしたことがないのです。
かわいそうに、ありもしない檻の中で、今日も実験が始まるのを待っています。
わたしはもう、これ以上何を爆破したらいいのかわかりません。

あの犬は、年老いた研究員の女性に頭を撫でられるのが好きでした。
その女性の手から、キャベツや林檎をもらうのが大好きでした。わたしにはそれをしてやることもできません。
わたしも一匹の実験動物なのですから。

双生児諱(イミナ)

過去形で語りえるのならば、
私の名前は希望だった。
屈折し、枯渇し、孤立し、黒化した、
這いずり廻る希望だった。

現在進行形でしか語り得ないのであれば、
私の名前は絶望である。
屈折も、枯渇も、孤立も、黒化も経ていない、
塗りつぶされた絶望である。

ここが過去なのか、現在なのか、おまえにはわかるか。
未来の話がしたいのであれば、窓を閉じて出ていけ。
どのみち、おまえから離れはしない。
私がおまえの絞殺であれ、抱擁であれ、
私たちはずっと一緒なのだ。

わたしが旅に出る理由

お前が自分を蔑む時、お前は他人の眼を借りてる。
お前を蔑んだやつの眼を。
そして多分、お前自身だった眼を、そいつに預けてしまっている。

捜し出して、取り返して来い。
見つかるまでは帰ってくるな。

地獄

昨夜、母さんが泣いていた。薄暗い部屋の中で一人で。
古い木の机に、涙の円が音もなくはじけた。
窓の外では鴉が、自分の羽を白く塗っていた。

ごめんね。と、母さんは言った。
世界は汚く、どんどん悪くなっていて、私はあなたを守りきれないかもしれない、と。
それだけじゃない。私自身も弱く、そして悪いのよ。
そう言って泣いていた。

そんなことはどうでもいいから、泣かないでくれと思った。
世界なんてどんな地獄でもいいから、母さん、どうか泣かないでください。と、思った。

こどもたちは

こどもたちは気づいている
わたしたちの憎しみに

こどもたちは浴びている
わたしたちの返り血を

こどもたちは拒んでいる
わたしたちのエニグマによって暗号化されることを

こどもたちは知っている
愛しあうことのやり方を

こどもたちはとっくに会議を済ませ、議決している
わたしたちから未来をかっさらうことを

こどもたちは知らない
それらを一度は全て忘れてしまうことを

わたしたちは教える
それらの思い出し方を

さかさまのタイムカプセル

おれよ、待ってろ。たすけにいくぞ
弱いお前の続きだが
あのころほどに、無力じゃないぞ
そこでしっかり叫んでおけよ
お前がすぐにみつかるように
力いっぱい叫んでおけよ
必ず見つけに行くからな
無駄なあがきをやめるなよ

支配者はいらない

どんな正義があったって
どんな怒りがあったって
どんな叫びがあったって

支配者よ、おまえをアタマから呑みこんでやる。オロチみてえにな。

どんな道筋があったって。
どんな暴力があったって。
どんな美意識があったって。

支配者よ。必ずみちづれにしてやる、何もできずに死ぬがいい。

支配者よ。たった一度だけ、おまえを支配してやる。
おれがくたばるその時に、おまえを抱いて沈んでやる。

ぼくが選んだこの眼のなかに

鏡の奥にある雑貨屋へ行って、新しい眼を買った。
世界が地獄に映る眼を。
その眼でみると、なんだって地獄に見えると聞いたから、それを選んで買ったんだ。
眼窩に嵌めこんだ。世界を眺めて呟いた。
「やっぱりだ。地獄だ」

一緒に行った恋人は、世界が天国に見える眼を買った。
色とサイズは、おそろいにした。
細かい細工はちがっても、ぼくらの眼はよく似ていたから。
眼窩に嵌めこんだ。世界を眺めて呟いた。
「やっぱりだ。天国だ」

確かに、片目ずつ産まれればよかったのだ。
ふたり同じようなことを思いながら見つめ合った。
天国と地獄が混ざり合って、小さなくちづけを交わした。

廃墟を遡って

廃墟を通って、魂がやってくる
鴉が啄んだ林檎のように
みずたまりの向こうからやってくるこどもたちのように
悪気ない告死鳥の戯れのように
得体のしれない魂たちが、わたしに吸いこまれてゆく

冷たく透き通ったある冬の日に、わたしはふと休暇を取り
一縷の郷愁を手がかりに廃墟を遡ってみた
途中、幾千もの魂とすれ違った
道々気づいたことだが、廃墟を遡れば遡るほど、すれ違う魂たちは光量と純度を増していた
それとは逆に、出口に向かうにつれ、廃墟の瓦礫や割れた鏡との接触が、光の魂たちを得体の知れない異形へ変えていた
だんだんと、瓦礫や千切れた鉄骨よりも、光の群れが密度を増していく道中
魂たちは最早、笑ったり泣いたりをしていた
わたし一人だけが静かだった
静かに、廃墟を遡っていた

いくつもの鏡を抜け、みずたまりを潜り、星空を逆さまに落ちて
どうやら廃墟の終わりまでたどり着いた
両親の顔を描いた児童画が貼られた朽ちた扉を開けると、真っ白な部屋のまんなかで、産まれたばかりのわたしが、あたたかい魂の塊と戯れていた
そこはもう、まるで寒くなかった
休暇は今日までの分しか取っていなかったが、わたしはもう帰り道を考えなかった
それどころか、何一つ考えることをしなかった
あの赤ん坊を包む、光の一抹になってしまうことにして、眼を閉じて光の中に飛び込んでいった

それから先のことは何も覚えていない
ただ、なにか矛盾を持たない叫び声が、おぎゃあと一つ響いた気がする

美しい

産まれて一秒の時も、生まれる前も、その前も
一歳の時も、三歳の時も、五歳の時も、七歳の時も、
十歳の時も、十二歳の時も、十四歳の時も、十七歳の時も、
十九歳の時も、二十二歳の時も、二十八歳の時も、
三十三歳の時も、三十八歳の時も、四十一歳の時も、四十九歳の時も、五十五歳の時も、
六十六歳の時も、七十七歳の時も、八十六歳の時も、九十二歳の時も、
九十八歳の時も、百六歳の時も、その後もずっと、

あなたは美しい。
世界中の砂時計のすべての砂が拡散し、永遠と星屑になってしまったように、
ずっとずっと美しい。

絶望、おまえをぶっ殺す

絶望、おまえをぶっ殺す。
おまえは私の恋敵だ。
蝿みたいにしつこく、あのひとにまとわりつきやがって、おかげでわたしは昨夜もキスをもらえなかった。
この怒り、煮えたぎったアヒージョにして、ぶっかけてやるからな。

絶望、おまえをぶっ殺す。
おまえはわたしの親の仇だ。
おまえのばら撒いた虚脱の税制が、巡り巡ってうちの家族旅行をダメにした。
この野郎、おまえのタイヤはすべてパンクさせるからな。

絶望、おまえを絶対にぶっ殺す。
おまえなんか、わたしの模倣犯に過ぎないんだ。逃げられると思うな。
自分のことをゆるやかな完全犯罪とでも思ってんのか?この空を永遠に曇らせる沈黙だとでも?
ふざけんな。バケツいっぱいの青空とジャクソン・ポラックとバースディ・ケーキをおまえにぶっかけてやるからな。

絶望、おまえがかつてわたしであったのなら、わかるだろう。
おまえはわたしから絶対に逃げられやしない。
今度はおまえが逃げる番なんだ。
さあ、逃げろ。わたしが煙草を一本吸う間、逃走の時間を与えてやる。
だが、わたしは何処に逃げようとも余さずおまえを捕まえて、何度でも必ず絶対にぶっ殺す。

「          」

ある日突然、一組のかぎかっこを与えられて放り出された。

何もかも好きにしろと言われて、ほんとうに放り出された。
こんなもん渡されて一体どうしろっていうんだ、と言いたかった。
一切は教えられない。教えないのではない、おまえ自身が獲得するよりほかにないのだ。
私を放り出した手はそう言って、夜風の中で私の頬と頭を撫でた。
突然無責任に放り出したにしては、ずいぶんと優しく温かな手だった。

その夜から、私はからっぽのかぎかっこを両手に持って、あなたと出会うまで、この地上をずっとうろうろしていたというわけなのだ。

「          」

茜強迫

藍と茜がどろどろに溶けあって混じる、夏の夕暮れの帰り道に
君が嘘をついた

手足を今にも折れそうなぐらい、がくがくと震わせて
死にかけた蝋人形みたいに真っ白な顔で、激しく息をきらせて
破裂した心臓に内側から絶えず打たれながら、冷たい汗に溺れて
片っぽしかない左の犬歯をむき出しにして
まるで二度と会えないみたいな、ねじくれた笑顔を浮かべながら

だいじょうぶだよ、ってぼくに言った。

反射する牢獄

愛のまがい物が、悲しみのまがい物が、
背中合わせになって、全面鏡張りの屋敷に吸い込まれていく。
ぼくもいっしょに吸い込まれた。魂を粉飾したまがい物だと見做されたのだ。
確かにずっと胸が痛んでいた。

何もかもを鏡が形作っている広大な屋敷で、
ぼくはそこに映りこむすべてのじぶんを見ようとし、すべてのじぶんから見られようとする。
反射する無数の自画像の中で、どれがじぶんなのかを失認して錯乱する。

生きて戻るには、鏡を割ってしまうよりほかない。
このまなざしの牢獄を砕くことによって、はじめて会いたい人に出会えるのだ。
壊せ壊せ、壊してしまえ。
おまえの作った鏡を壊せ。

大きな布をかぶせて

粉々に割れてしまった鏡のように
とりかえしのつかない出来事の前で
裸足で呆然と立ち尽くすしかないときがある
誰かが来てくれるまで、わたしは自分を失っている
誰かがわたしを隠す大きな布と、わたし自身を持って駆けつけてくれるまで
眼や口や耳を空洞にして
わたしはそこで立ち尽くしている

大きな布がなかった場合
わたしは空洞のまま、そこにひとり、とり残されている

調書うたかた

調べに対し少年は、
自分の体内では不定期に残酷なシャボン玉が生産されており、これが弾けるときに魂を傷つける。
などと話しています。

シャボン玉はいくらかの苦しみと共に体外に排出することが可能ではあるが、その場合身近な人間に触れてはじけ、結果傷つけてしまうことが殆どだ。
とも話しており

警察は、生産と排出をコントロールすることが出来ず、とめどなく溢れてしまったシャボン玉が被害者に向かった結果、今回の事態を引き起こしたのではないかと見ています。

また、傷つけられた被害者の少女は、調べに対し
「愛している」とだけ繰り返し供述しています。

青ざめたひと

きらびやかな光の中で
かぐわしい空気の中で
あたたかい微笑みの集合の中で
わたしはひとり、青ざめている

此処でなのか
置き去りにされた何処かでなのか
わたしはひとり、青ざめている

いずれにしても、わたしはいまだに
言葉やら、感覚器やら、隠された回路やらを使って
青ざめたひとと、連絡を取ろうとしている

私の幽霊

さみしくて、くるしくて
ベッドにうずくまって泣いていたら
11歳の少女が傍にやってきて囁いた。
『わたしとさよならしたからよ』

『あの頃、暗闇の中で幽霊とともに踊り、世界を思うがままに操って、神様よりも母親よりも、あなたを愛し許していた、わたしの傍を離れたからよ』

自虐する光のみちづれ

(ⅰ)自虐する愛のハラワタ

わたしは汚くて生きる価値のない泥水です。
あなたのなかにいさせてください。
何一つお役立ちすることのできない泥水ですが、だからこそ、あなたのなかでしか生きられないのです。

ご要望があれば、死んだカタツムリの殻から音を盗んできたり、
あなたが大切に書いた葉書の上に嘔吐したり、
精神的な鈍器であなたを際限なく痛めつけるぐらいのことはできます。

ですが、わたしを光の中に放たないでください。
お願いですから、今まで通り虐げていてください。
わたしはあなたのハラワタのなかでしか、生きることができないのですから。
そのことを愛と呼ぶのであれば、確かにわたしはあなたの愛です。

(ⅱ)光の魚

おまえの美しさは光の魚に似ているのだから、解き放たれて澄明の空を泳げ。
季節そのものとして薫るおまえの匂いは消えはしない。わたしがいつまでもそれを覚えているから。

望むことは、おまえが自由であることだ。
何者にも支配されず、明るい交渉ができることだ。
おまえがわたしにそうしてくれたように、ひとの魂の、いちばんあたたかい窓を覗いてくれ。

もう行くのだ。誰もおまえを傷つけることはできない。
再演されるすべての傷は、祠を建ててここに封じ、光の空を泳いでゆけ。
わたしが空を仰ぎ、ここからおまえを呼ぶとき、その名に愛しているとルビを振るから。

(ⅲ)増殖とみちづれ

わたしが複製されてゆく
わたしのなにもかもが

窓辺に置かれた花の種に
美しい虚空の青空に
浴室に置き去りにされた、まだ血の付いた剃刀に
広場で遊ぶ、こどもたちの笑顔に

わたしが複製されてゆく
かつてわたしが複製されたように

閉じ込められた時間と感覚の中から
優しく抱擁された温もりから
こどもの時に呑んだ茜色のソーダと、焼きたてのパンの香りから
すべての惨劇の報道から

わたしが複製されてゆく
今のわたしが消えてゆく

わたしは自分のハラワタを強く握る
左のわき腹、あのひとの好きだった花を彫ったあたりに向けて呻く
おまえはいくな、おまえはわたしとみちづれになれ

瞳と月のまじわるところ


瞳に対する偏愛に導かれ
普段閉じられている小窓から庭へ出た
秘密と夜闇、それから芝生と虫たちの鳴声が、素足にまとわりついていた

あなたの瞳を想い、夜空へ月を浮かべた
涙も光も残像も
すべてそこから降るものを
一糸まとわず浴びていた

詩的無境界仮説

はじめて「愛している」と口にしたとき、
わたしはその言葉に溶けて、この世界に揮発してしまった。
火星の地平に酒を撒いた時のように
(極度の乾燥のために、酒は地表に触れる前に蒸発し、中空で光りながら風になる)
あなたに届く前に世界に溶けてしまい、溶けたわたしはもう二度と戻らなかった。

あれから幾度となく、わたしは「愛している」を放ち、
放たれたそれらは結局のところ、それぞれが著しく姿を変えて帰ってきたが、
(例えばひどく狂喜し、愉快に飛びまくる透明な鳥として。
傷口を埋める、時間を超えた生薬として。
まだ血の乾かない刃物として。
火傷と窒息を連れた涙そのものとして)

あの時はじめて放った「愛している」だけは、今の今まで帰ってこない。
たった一人で夜空を見上げるとき、どうしても懐かしく思われるのはそのためである。

少女と包丁

少女は、なんでも切れる包丁を持っている
ゆりかごから墓場まで、まっぷたつにすることが出来る包丁を持っている
彼女はまだ誰にも見せたことのない隠しポケットに包丁を潜ませ、時折、刀身に指を当てている

音叉を叩く時のように、心を静かな水面にして、水と刃物の共鳴を聴く華奢で、多くの荷物を持つ事をしない彼女の瞳の奥が、冷たく波打って見えたのなら、
それは少女の刃紋が生きているからだ

悪意を切ることが出来る
人間と弱さとに分断することが出来る
差別を切ることが出来る
境界線に沿ってまっぷたつにし、一つを空に、一つを海に投げ捨てることが出来る
批判を切ることが出来る
批判そのものをまっぷたつにし、沈黙か死かを選ばせることが出来る
さみしさを切ることが出来る
自分とさみしさとを切り分け、生き残りをかけて闘わせることが出来る
自他を切ることが出来る
少女をこちら側に。相手は向こう側へ。分かつことが出来る
何もかもを、まっぷたつに切ることが出来る
そして一つを取り、一つを取らないことが出来る

少女は、なんでも切れる包丁を持っている
無数の傷と共に日々を生き延び、這いずり回り、そのたび汚れる
だが、少女は包丁を持っているし、彼女自身それを知っている
時折、少女はその刀身に掌で触れ、まばたきもせずに、無慈悲な刃の音を聴く
煌びやかではなく、多くの言葉も持たない、たった独り歩く彼女の姿が、
夜を切るように妖しく光ったのなら、
それは、少女の包丁があなたを反射したからだ

燃えあがる秘密の星

わたしは多分、かつて火炙りにされた異教徒のような秘密を一つ持っている。
嫌われたり、怒らせたり、殺されたりするから、絶対に言わないだけだ。
話したことなどない。人に言えることなど、ほんとうの秘密ではないのだ。

秘密は今、わたしひとりの中にある。
だから恐ろしいのだ。
この秘密を分かち合えるひとがいたなら、わたしは今ある世界のすべてを捧げてしまうかもしれないという、殆ど確信に近い予感がある。

幸いにして、不幸にして、まだそんなひととは出会っていない。
そのひとに出会ってしまった日は、おそらくわたしが燃やされる日だろう。
そして灰になり、空に舞い上がった私は、空と宇宙の境い目からこの星を見るのだ。
あちこちでうつくしい秘密の模様を描いて燃え上がる、この星のありのままの姿を見るのだ。

現実と似ていることを意味しない

おはよう

私の眼は今日も偏見し
私の手は今日も偏愛し
私の声は今日も誇張し
世界はとても美しく、すばらしいのです

おやすみなさい。愛しています。

死ぬなデストルドー

もう、ぼくを殴る人はいない。
ぼくが自分で殴っている。

もう、ぼくを閉じこめる人はいない。
ぼくが自分で閉じこめている。

生真面目にそんな反復で日々を過ごしていると、ぼくの心臓の隣の奈落で、いつしか小さないきものが産まれた。
暴力から孵化したそのいきものは、殺してくださいと、涙ながらにぼくに頼んだ。

おまえを殺すくらいなら、ぼくが牢獄を引き裂いてやる、と答えた。おまえを閉じこめる牢獄を。
でも、もう牢獄はない。
ぼく自身が牢獄なのだから。

だからぼくは、この小さないきものを傷つけないようにそっと胸のポケットに入れ、奴等の裏をかいて跳ぶ脱獄の計画を、今夜、月の光と謀議するのだ。

携帯電話ください

すみません。携帯電話を買いたいのです。
通話ができて、GPSがついていて、心臓に直結するタイプの充電ケーブルのやつ。
なんなら、心臓に直接埋めこむことのできるやつを。

あの人は、いつも地図も持たずに黙って行ってしまうのです。
静かな方へ、静かな方へと。
その度に私は帰りを待っているのです。
待ちながら、知らないうちにあの人が、出口のない森の中や、音のない水たまりの底や、静寂の向こう側へ行ってしまわないか、とても心配なのです。

ですので、あの人の鼓動を手元耳元に置いておきたいのです。
とはいえ、たまに声を聴きたいじゃないですか。
静寂との馴れ合いを、邪魔してやりたくもなるじゃないですか。
ですので、それができる携帯電話を探しているのです。
私の好きな人に送りたいのです。

仇敵

この世界に、仇敵のないものがいるのだろうか。
それを屠るために、自分だけの刃物や拳銃を携えていないものがいるのだろうか。

わたしの身体一面に彫られては揺れる凄まじい炎が、絶えず殺しのための金属を錬金している。
この仇敵は、いったい何時何処で、私の世界に出現したのか。
何時から、わたしは殺意の塊になったのか。
何故わたしはそれを殆ど全く思い出せないのか。

その一切が隠されている。隠された場所だけで呼吸し、殺しあう。
殺しあう前に、これだけは訊いておかなくてはならない。
おまえに触れる前、わたしはいったい誰だったのだ?

新生物

ご覧なさい。
あれ自体が世界と繋がろうとする、いきものです。

分泌される承認欲求や、遊離する外傷や、自他に対する攻撃などは、その過程の副産物であって、主体ではありません。

繋がろうとする試み自体が呼吸し、蠢きながら移動し、あらゆる境界を攪拌する、健気で唯一の新生物なのです。

あのいきものの処遇を、今後はあなたひとりにお任せいたします。
よろしければ名前をつけてあげてください。

予言する心臓

美しいものを手に入れた。
美しいものを手に入れた。
美しいものを手に入れた。
心臓の形をした時計。

ペテン師だらけの蚤市で偽商人から買ったものだが、わたしにはわかる、これはホンモノだ。まだ出会ったことのない、わたしの愛するひとの心臓に違いない。

文字盤と針は虚飾なので剥がして鴉に食べさせた。
あとには、鼓動が唯あるばかりだ。
そのひとに出会うまでわたしは、じっと目を閉じたまま心音に耳を澄ませ、すべての夜を越えてゆくのだ。

もう一度注文する

私が注文したのは、絶えず枝分かれして増殖する永遠に不完全な骨と、
そこに次々ぺたぺたと受肉していく世界だ。
完全性などという隣に添えられたタンポポの如き供花は口にしない。
下げてくれ。

もう一度言うぞ。
不完全性の魚だ。不完全性の魚をここに持ってきてくれ。
生でも全くかまわない。そこらじゅうを泳いでいるだろ。
わたしも絶えず空腹であるのだ。

忘れられた巨人

はげしく怯える巨人の心臓の中にいる
闇一面に、ひかりの血管が這う夜空が、巨人の慟哭に震えている
成層圏にまじわるほどの巨躯に反し、その心臓はわたしたちの掌のなかで
あまりに小さく締めつけられている

白い月と黄昏が混ざり合う
一日の僅かな時間の空白に、街中のあらゆる人々が耳をふさいで姿を隠す
巨人の哭き声があまりにも痛ましくて、誰もが聴くのを恐れるのだ
(自分が責められているようだと、怒りだしさえする者もある)
プラネタリウムは割れ、鳥たちもすべて飛び去ったあと
わたしは此処で、滂沱する月とともに、黙って慟哭を浴びるよりほかない
(おまえが哭くということは、哭けないことよりずっとよいのだから)

美醜の肖像

あなたはとても綺麗に私を描いてくれます。
迷いのない筆の流れは、銀河の輪に舞う美しい旋律のように線を描き、星の光の無限反射のように私を塗っています。
額装され、壁に飾られた美しい私を観ると、膝が震えて、涙が溢れてきます。

私は、今すぐ額の前から逃げ出して、汚れた影を呑むために、夜に飛びこみます。そして醜さを露わにし、私を醜いものとして扱ってくれる人にさらわれてゆくのです。傷つくためにです。

額の中の美しい私は、蔑むことなくそれを見つめています。
ひとすじ、涙を流しながら。いつまでも末路まで、見つめているのです。

惑星

やがて何もかも過ぎ去るのだという時点から観測するならば、確かに此処は既に巨きな墓標なのだろう。

だとすれば、なんと賑やかで愛すべき墓標だろうか。
その墓誌の、なんと型破りで愉快なことだろうか。
我々は、なんと自由な幽霊たちであろうか。

廃墟に吊られた懐中時計だけが、まだ時を刻んでいる。
愛している、愛していると、秒針が鳴く。
鼓動…

傷と無傷の狭間より

いやしくも命ある限り、
私は傷つける何者かであり、傷つけられる何者かであるだろう。
それはコインの表裏だし、鏡の彼我だし、一度閉じられた円環の頭と尾だ。
私たちは、予め出血を約束された会話する傷口なのだ。
(かつて私は、深い森の奥で弾ける鳳仙花の種だったし、
あなたは北極星から零れ落ちるひかりの一抹だった)

だが、たった今の時点に於いては、私たちは寧ろ愛しあっているのだということも明らかにしておきたい。
まだ何も話し合わず、何も突きつけ合っておらず、離れ離れで、未だ出会ってすらいない私たちはお互いに無傷だ。
であるばかりか、遠く離れて互いを何も知らないまま、見知らぬ誰かの幸いを真昼の風に無邪気に祈りさえしている。
その誰かはあなただったかもしれないし、祈ったのは私だったかもしれない。
(たった今も、私は砂漠の真ん中で干からびかけている一匹の蜥蜴だったし、あなたは真冬の海に落ちていくひとひらの雪の結晶だった)

(やがて私たちは、交差して同じ惑星に落ちていく、一対の流れ星になる)
いずれ私たちは出会い、しかも傷つけあうだろう。
しかし、胸の片隅で小箱をひとつ用意し、私とあなたの間に置いておいてもらえないか。
小箱には、まだ出会っていなかった頃の私たちが入っている。
お互いが、あるいはどちらかが血を流しすぎた時、卓上に置いた小箱を開けて、ふたりで黙ってそれを眺めてみないか。
(開いてみると、そこには私だった頃のあなたと、あなただった頃の私が入っている。
ふたりはまだ出会うことなく、世界中のだれかに向けて幸いあれと、虚心する昼に、何も捧げず祈っている)

とこしえ、密輸されゆく

一億年か、一億十四年前の荒野で
裸の人影が、身体中を震わせて、空に向かって何かを叫んだのだ
その残響が密輸された

現実に忍び込んだ虫を通じて
殺しあいとまぐあいの、糸引く粘糸の延長として
父の手と母の手の誤差の中に隠されて
それは密輸された

なんとかって哲学者が、叫びを解明しようとがんばったらしい
もちろん、星を渡る風や、海を渡る微生物といっしょに
だがどうしても、人影の叫びは再現できず
形を変えてますます密輸されることになった

ある時は物語の中に
ある時は旋律の影に
ある時は踊り子の残像に隠されて
それは密輸された

ある時は繋がれた兄妹の手に
ある時は弾け飛ぶ花の種の飛沫に
ある時は土に還る屍に隠されて
それは密輸された

それは分裂と増殖を伴って拡がる性質を持っており
いよいよ空を半分も覆いつくすほどに密輸された
捉えようにも増えすぎており、そして形を変えすぎており、捕まらないのだ
それは密輸される。もちこまれたことにさえ、誰も気づかない

もう耳の聞こえなくなった祖母の独り言の中に
争いの果てに刺殺された青年の最期の言葉に
ぼくの心臓か、きみの心臓の脈動の中に
それは密輸され、密輸してゆく

あの日、人影がなんと叫んだのか、誰も知らないのに
密輸に加担しないものは未だいない

人ら皆、天使として産まれ

天使として産まれ
悪魔とされ吊るされた骸

天使として産まれ
天使のまま去っていった子

天使として産まれ
人間の如く生きた者たち

ぼくら、名前をもう一度言え