私は千村まひろの傷口だ。彼女の傷痕のなかに住んでおり、彼女の無傷にも内在している。また、彼女のあらゆる亀裂に住んでいるし、亀裂そのものであるとも言える。例えば唇が、瞼が、性器が開くことは、彼女にとって傷痕が再度裂けることを意味する。もちろん、それは繰り返し裂ける、毎日のように。私たちは叫ぶ。
私と共にいることは痛みを伴い、終わらない治療を要し、身体からは血を、心からは魂を流すことと一緒だ。だが、まひろは殆ど一度も私を責め立てたことはない。
それどころか、自分の身体を引き裂いて、その内部に隠れる私を抱きしめようとすらした。決して諦めることなく、まひろは私を探した。言うまでもなく、その度に彼女は傷ついた。
隠さずに言う。私はそんなまひろが、大好きだった。
まひろは傷けてよい人を探し、傷つけてくれる人を探していた。
傷つけてよい人などいないという意見もあるだろう。まひろと私もしばしばそう考え、誰かを傷つけるたびに、反省や後悔に近い感情を抱いた。
だがしかして、傷つけてよい人などいないのであれば、私を含むこの世界中の傷痕は一体なにを意味しているのだ。
まひろの生を支える傷への渇望はなんなのだ。
私たちは何のために産まれたのだ。
まひろが探知する、傷つけてよい人と、傷つけてくれる人は、その絶対前提として、愛か、愛の出来損ないを持っていなければならなかった。
相手が持っていない場合、まひろは、まず与えた。持たない相手からは、それを奪うことも損なうことも出来ないからだ。
主に恋愛という手段がとられた。どのようにすれば、相手が幸福になるかを、まひろは常に考え、実践してきた。優れた盗賊と心理学者が同時に仕事をするように、彼女は相手の心を掴んだ。そのために差し出せるものは何でも差し出した。
それを愛と呼ぶならば、まひろは多くのひとを愛したし、それを憎しみと呼ぶのなら、まひろは多くのひとを憎んだ。
どちらにせよ、すべては私のためだった。傷口が(悲惨な魚のエラのように)新たに開くことでしか、呼吸ができない人間もいるのだ。呼吸口としての傷口が塞がることを防ぐために、彼女は常に愛を破壊する必要があった。
そのための相手を探し当て、引き寄せることは、まひろにとって容易い事だった。
独りでは埋めることの出来ない致命的なさびしさを持っている人間を見つけ(あるいはおびき寄せ)一時的にそれを埋めてやればいい。そうして愛のまがいものが出来上がる。そして、思う存分さびしさの穴を埋めてやった後に、拒絶する。こうして傷が産まれる。
まひろ無しでは生きられないと思わせてから拒絶することで、一組の支配関係が成立する。相手は自分にすがる。まひろは距離を保ちつつ絶対に相手を赦し受け入れることをしないので、経緯は様々だが、最終的に関係は破局する。その瞬間に、まひろはやっと安心することが出来る。
「やっぱり、最後にはだめになり、捨てられた」
そう呟くために、彼女は自分の持っている殆どすべてを差し出して傷つけ、傷つけられようとした。愛されないという予言の成就のために。
こうして後には傷だけが残り、集成する。
傷つけ合った人々が十人を越したあたりで、まひろは、記憶をフォルダ分けすることをやめる。消しゴムのかすを一つにまとめるように、一塊の傷にしてしまう。
どこまでも献身的なブリーダーのように、まひろは私を育てた。自分自身を愛し、育てるようにだ。その度に傷は肥大し、まひろを圧迫していった。
だが、彼女は決して私を捨てようとはしなかった。
「あなたがやっているのは恋愛ではないよ。支配と操作だよ」
大学生の時、まひろが演者として参加していた演劇サークルで、脚本を書いていた女性にそう言われたことがある。稽古後の打ち上げで入った安い居酒屋で隣席に座った脚本家はだいぶ酔っていた。
まひろは、彼女の目をまじまじと見つめた。酒で濁った眼がまひろを見ていた。一学年上の脚本家と面と向かって話すのは殆ど初めてだったが、長年に渡って同じ犯人を追い続ける刑事のような目だと思った。
その頃、まひろは既に(演劇サークル内の数人を含む)数多くの人と傷つけあっており、脚本家は、その中の何れかを耳にしたのだろう。あるいは、まひろの日常的な振る舞いを観察して、そう指摘したのかもしれない。支配と操作。間違っていない。指摘されたのははじめてで、誰にも教えていない秘密を理解されたという奇妙な嬉しさがあった。
ふふふ。と、まひろは笑った。可笑しい?と脚本家は言った。
「いや。その。他の人から見ると、恋愛の様に見えるんだなって思って」と、まひろは言った。
「ちがうの?あなたにフラれた未練のせいで死ぬ死ぬ詐欺のプロになった伊藤くんとは?その伊藤くんから、あなたを守るんだって公言してはばからない菅原くんとは?恋愛関係にないの?」と、脚本家は言った。
ない。と思った。まひろにとっては、傷つけ合うことが目的なのであって、恋愛自体はそれに最も適した手段であるに過ぎない。
「先輩。そもそも恋愛って何ですかね」と、まひろは訊いた。まひろに好意を寄せるサークルの男性の一人が割って入り、何話してるの?と言いながら、まひろの肩を掌で触った。すみません、ちょっと大事な話をしてるんで。と、まひろは普段の彼女からは想像もできない程冷たい声で言った。人に好意を持たれやすい、拒絶時のショックが倍加して相手を支配しやすい。という理由から、まひろは常日頃、誰に対しても優しく振る舞っていた。ショックを受けた男は、尻尾を丸めた犬のように去っていった。
「あなたはどう思うの。恋愛ってなに」と脚本家は言った。
「聖化された欲望じゃないですかね」少し考えてから、まひろはそう答えた。脚本家はにやりと笑った。まひろの言葉の棘が気に入ったようだった。
「わたしは少し違う。恋愛とは、その人の人間性が最も色濃く表出する関係の形だと思っている」
脚本家はそう言った。
「でも先輩、さっきわたしのやっているのは恋愛ではないと仰いましたよ。まるで、本物の恋愛が何処かにあると言わんばかりじゃないですか。先輩は、本物の恋愛をご存知ですか」と、まひろは言った。
「なるほど」と、脚本家は頷いた。「ごめん。謝る。そんなもん、みんなそれぞれ違う」赤くなった顔をかくんと落として、彼女は謝罪する。
「いいんです。先輩は間違っていません。わたしの人間性が、支配や操作を嗜好しているだけだと思います。先輩の仰ったように」と、まひろは言った。
「わたしが知りたいのは、なにがあなたをそうさせているのかということなの」顔を赤くし、唇の端から涎を垂らしながら脚本家は喋る。「あなたはすてきだし、頭もいい。でも、何があなたをそうさせるの」
複数の恋愛感情をもつれさせ、サークル内の人間関係を崩壊に導くという理由から、ほどなくして、まひろは演劇サークルを追放され、脚本家と会うこともなくなってしまった。
だが、彼女に言われたことについては今でも度々考える。
恋愛。その人の人間性が最も色濃く表出する関係の形。
何が私たちをそうさせるのか。
何が私たちを、私たち足らしめているのか。
恋愛によって他者を傷つけることについての呵責に対して。わたしにだって言い分がある。と、まひろは思う。
確かにわたしは人と自分を傷つける。だが、それの何が悪い。
そもそも、わたし自身の意思で、傷つけてやろうという目的を持って接近した人など一人もいないんだ。好きだの、愛してるだの、挙句の果てには守ってあげたい、救ってあげたいとぬかして近づいてくるのは、いつだって向こうの方じゃないか。
それは支配と呼ばないのか。
好意を。愛を。庇護を。救済を。尖った一種の拘束具であると知らずに突き付けてくる奴らに対して、わたしは逆にそれを使って拘束してやっているだけだ。そして、その思いあがりの一切合切を台無しにしてやりたいだけだ。
かわいそうなひとだと、言われたこともある。それも一度や二度じゃない。だが、それを決めるのは、わたし自身だ。
わたしにだって言い分がある。
そんな奴らは、傷つけていい。わたしを愛そうとする奴らなんて、みんな。
まひろには、ある種の人間を庇護欲を刺激する雰囲気があった。元気のない子供だとか、汚れた子猫だとか、傷ついて怯えている小動物の気配。相手の機嫌を不器用に伺う視線や、極力邪魔にならず役立とうとする健気さ。いつも何かに飢えているような寂しげな瞳。
確かに、一部その通りだったかもしれない。彼女はかつて、元気のない子供だったし、汚れた子猫だった。ただ、子供は硝子の破片を握っているし、子猫は差し出された手に噛みつくということを、誰も理解していなかっただけだ。
人を救いたがる種類の人間が特に、彼女に惹きつけられた。彼らは、まひろを救う権利を求めた。時にはそれを巡って争いさえした。そしてどういうわけか、その救済は恋愛によってもたらされるのだと信じていた。さらに言えば、彼らは救済の報酬として、まひろからの絶えざる報酬を求めた。
そういった種類の人間こそ傷つけられるべき対象だと、まひろは考えた。
彼女は一旦、救済を受け入れ、報酬に相手の望むすべてを捧げたのちに拒絶することによって、相手が愛と呼ぶ何かを、同量の傷に変換して返した。
多くの場合、相手は戸惑い、すがり、彼女を責め立てたが、まひろにしてみれば、貰った同額を返金にしたに過ぎない。相手の財布には愛が入っており、まひろの財布には傷が入っていたというだけのことだ。
傷の貯蓄は、彼女が元気のない子供だった時代に行われた。
その時代に、人の喜ばせ方と、傷つけ方を学んだ。言葉を喋れるようになった時期~元気のない子供が汚れた子猫になるまで、の期間がそれに相当する。
年齢で言えば、四歳から十三歳までの時期だ。
母親は、まひろに対して溺愛と折檻の間を行ったり来たりする専業主婦で、父親はその振り子を恐れるように家に寄り付かない風俗通いが趣味の大人しい公務員だった。夫婦仲が良くないことは幼い頃のまひろの目から見ても明らかだったが「あなたのために離婚はしない」という説明だけは、予め母親から受けていた。
「あなたのためだったら、なんだってしてあげる」が口癖の母親だったが、思い通りにならないことがあると、その言い分は「あなたのためだったら、なんだってしてあげてるのに」に変わった。確かに、献身的にと言っていいほど娘を可愛がる母親だったが、その分、反発されることに耐えられなかった。軽微な反発に対しても逆上し、すると普段は娘に示している献身が同量の怒りへと裏返った。怒りに我を失った母親は、まひろを家から締め出したり何日も無視したりした。何度どのように謝っても口をきいてもらえず、ついにまひろが諦めると「自分が悪い癖に何故謝るのを諦めるのか」と、髪を掴まれて、また振り回された。
愛情を注ぐための器。まひろは、自分自身をそう理解した。ただし、溢れると愛情は液状の傷へ変ずる。
まひろの嗚咽と母親の呵責が器から溢れてしまうと、母親はまひろを抱きしめて、ごめんね愛してると何度も言った。その度に、小さなまひろは母親の頭をぽんぽんと撫でた。すると母親は安心して、また何日か、まひろを溺愛する。だが、些細なきっかけでまた逆上し、突然に壁を蹴り、髪を掴んでまひろを責める。永遠に続くかと思われる叱責と無視が再開される。許しを乞う声と嗚咽が器から溢れると、最後には涙ながらの謝罪と抱擁で終わる。その繰り返しだった。
望まずして、相手の望んでいることを察知する癖と、ひとの追い詰め方を身を、まひろは身を持って持って学んだ。前者は母親を怒らせまいとする警戒。後者は怒らせてしまった後の体験からだ。
その学習の繰り返しは、終わらないレコードの回転ようなものであり、まひろの願いはレコードの回転を止めてしまうか、もしくはその外へ放り出されるかの、何れかとなった。
十三歳の夏に、一学年上の先輩に好きだと言われた。自転車置き場だったか、体育館裏だったか、覚えていないが放課後に人気のない場所に呼び出されて告白された。図書委員会の先輩で、委員の仕事を色々と親切に教えてくれる人だった。小さな声でぼそぼそ喋る猫背の少年。
まひろは、幾つかの意味で何を言われているのかわからなかった。そもそも、ひとを好きになるというきもちが、わからなかった。
ひとはひとを好きになるのだ、という噂は聞いたことがある。だが、それは読み方だけを知っていて意味がわからない難しい単語のようだった。まひろにとって、ひとは好きになるための生き物などではなかった。顔色を窺って、その暴力を受けないように反応するための生き物だ。
曇り空の灰色と、真夜中に見上げる月明かりと、感情のなさそうな生き物の目(鳥や魚や昆虫)と、観葉植物と、川や湖の水音と、砂漠や廃墟の写真集は好きだ。だが、これらは、そこに人がいないという理由から好きなのだ。
それに、よしんば噂がほんとうだったとして、自分を好きになる人間がいるという可能性を信じることが出来なかった。まひろにとって自分とは、支配と暴力の間を行ったり来たりする顔のない振り子でしかなく、人に好かれるに足る存在であると想像がしたことがない。責められたり殴られたりした後、母親から「愛している」と言われることはある。だが、それが愛を模した一種の呪いでしかないということには、さすがにうすうす感づいていた。顔を真っ赤にして話す目の前の内気な少年が母親と同じことをするとは思えないが、だとしたら、このひとは一体何を言いたいのだろう。と思った。
まひろが知りたかったのは、好きだという言葉よりも、その奥にある具体的な願望だった。それを知らなければ、叶えることができないからだ。
ありがとう。でも好きだと言われてもどうしたらいいのか、わたしにはわかりません。と、まひろは正直に言った。猫背の少年は、とりあえず友達からはじめてくれないだろうか。と気の毒なくらいに緊張しながら言った。まんがのようにだらだらと汗を流して話す彼を見て、わかりました。と、まひろは答えた。断って相手を不機嫌にさせるよりも、細かいことを考える前に承諾してしまったほうが危険が少ないという経験則から導き出された返答だった。
だが、この新しい友達は、まひろを不安にさせた。相手の求めるところを察して従えなければ、何らかの被害を被る。というのが、当時のまひろの世界観だった。被害を忌避するためには従うべき欲望が明確であるほどによかったのだが、少年が何を求めているのか、当時のまひろには、さっぱりわからなかったのだ。
放課後になると、少年はまひろの教室の前まで、一緒に帰ろうと誘いに来た。周りには冷やかされたが、少年はあまり気にしていない様子だった。他の同級生のように無邪気にはしゃいだりすることの少ない落ち着いた少年だったが、逆にその大人びた雰囲気のせいで結構人気があるんだよ、と同級生が教えてくれた。
飼っているゴールデンレトリバーの可愛さだとか、ユーチューバーの恋愛事情だとか、家族旅行で見た美しい海の色だとか、少年の他愛もない話を聞きながら一緒に下校した風景を、大人になってからも、まひろはたまに思い出す。二人はセイタカアワダチソウの生い茂った川沿いの道を歩いて帰った。朱い落陽の溶ける水面を、無数の蜻蛉や羽虫が飛んでいた。時折、釣り人が魚を釣り上げる水音が、ぱしゃっと響いた。空気は夜に溶けてゆく太陽の香りがした。
ある程度の時を経て、はじめて口の中に広がる味もある。甘酸っぱい果実そのもののような落陽に包まれた夕暮れの風景。あの内気な猫背の少年にとっては、二人で話をしながら夏の夕暮れを歩いて帰るだけで十分だったのだ。夕暮れは彼にとって、特別な味がしたことだろう。だが、その頃のまひろにとっては、すべてが無味無臭だった。
「先輩は私に、どうして欲しいですか」と、何度か率直に質問してみたが、少年は恥ずかしそうに口ごもってしまい、明確な答えが返ってくることはなかった。
今でこそ、世の中には相手に多くのことを求めない穏やかな愛もあるのだと、まひろにも理解できる。だが、その頃のまひろにとってそれは、知らない国の知らない風習に等しい未知だったし、一緒にいるだけで満たされる安心があるということも、二つか三つほど高次元の情報に相当した。意味が分からないのではなく、存在することを知らなかった。
同じ太陽を食べつつも、人々はそれぞれ、全く別の味を感じる。
少年はまひろに、型落ちのスマートフォンをプレゼントした。彼の兄からのおさがりで、通話機能は使えないがWi‐Fiに接続して端末として使える。それを使って、自分とSNSで繋がって欲しい。と、少年は言った。使い方がわからないと、まひろが言うと、図書委員の仕事を教えてくれた時の様に丁寧に、設定や使い方を一から教えてくれた。
幸運にも、自宅のルーターの裏にパスワードが印字されていたため、家族に知られることなくネットに接続することが出来た。自分自身は依存症と言っていいほどスマートフォンを手放さない母だったが、まひろがネットに接続することに対しては、まだ時期が早いと考えていた。まひろの方も母親の考えがわかっていたので、わざわざねだったことがない。
スマートフォンをプレゼントされた事。そもそも、親しく付き合っている男子がいることを、まひろは家族に隠した。言えば、詰問があり、不機嫌があり、場合によっては母親の暴力があるだろうと予測した。
まひろの成長と共に、母親からの叱責や暴力は減っていったが、それは母親の情緒が安定に向かったからではない。どのようなきっかけで母親が不機嫌になるのかを、まひろの方が予め予測して回避に努めたからだ。父親はますます家に寄り付かず、母親はスマートフォンで誰かの悪口ばかりを拾って読んでいた。
刺激しないための方策として、ひとまず沈黙に勝る安全装置はない。
そのため、日々の膨大な沈黙の一部は秘密となり、まひろの身体に沈殿していった。
いつか酷いことになる。という少女期の漠然とした予感は、自らに溜まってゆく秘密がいずれ暴発することを、無意識が予め知っていたためだと、まひろは考える。
暴発の予感は必ず当たる。私たちのなかの秘密が、それを知っている。
必ず破裂することを。私たちが裂けることを。
家族に隠れて、まひろと少年は他愛もないメッセージのやり取りをした。二人で帰る通学路での会話と同じく、どちらかと言えば少年が話を投げかけ、まひろが相槌を打つ形でのやり取り。どんな話に対しても、まひろは積極的に興味を示し、会話を拡げる努力をした。
どう反応すれば喜ばれるのかをまず考え、相手が気持ちよく話せるように会話を導く素養が、まひろにはあった。相手が上機嫌でいる間は暴力や叱責を受ける可能性が減るという考え方から、それは磨かれた。
まひろなりの生存戦略として彼女の前半生で練磨され続けた能力だったが、少年を含めたある種の(数少ない)人間のなかには、それに対して違和感を覚える者もいた。
彼らは、まひろが殆ど常に相手を機嫌よくするためだけに喋っていることに気づく。そして、そこに彼女自身の欠落を発見し、彼女にそうさせている自分に対しても欠落を感じる。
そして最後には必ず、悲しそうな顔をする。彼女に好意を抱いている者ほど、それに気づき、悲しそうな顔をするのだ。
少年との穏やかな交際は、そう長く続かなかった。スマートフォンが母親に見つかったことが破局のきっかけだった。
校則で禁じられているスマートフォンを学校へ持って行くことをはせず、まひろはそれを自室の机の中にしまっておいたのだが、母親が時折、まひろの部屋のあらゆる扉と引き出しを開けて調べていることを知らなかった。
母親は引き出しの奥にしまわれたスマートフォンを発見すると、四桁のパスコードを突破し(安易にも誕生日に設定していた)その中身を隅から隅まで調べてから、まひろの帰りを待った。帰宅し、目を合わせずにただいまを言って自室に向かおうとする娘を呼び止め、彼女は犯人に証拠品を見せるかのようにスマートフォンを掲げた。そしてゆっくりと暗唱した。
「毒親。恩着せがましい親。境界性人格障害。自己愛性人格障害。ニルヴァーナ。平気で嘘をつくひとたち。父親、家にいない。仮面夫婦。家庭内別居。影響。死にたい。一人暮らし。小説家になる」
まひろは、自分の内臓がその場から逃げ出したがっているのを感じた。ありとあらゆる臓器が、ここにいたくないという信号を強烈に発し、発汗とめまいになって彼女を駆り立てた。母親が羅列した単語は、まひろの検索履歴の一部だった。
「いかさま山羊」
そう母親が言った時、まひろは胸を抑えて、その場に崩れ落ちた。
「そんなとこに座ってないで、こっちに来てちゃんと椅子に座りなさいよ」と、母親は言った。
いかさま山羊は、少年にも内緒でまひろがメッセージのやりとりをしているSNSアカウントの名前だった。〈死にたいという小さな光〉とプロフィールに記したそのアカウントは、どちらかと言えばネガティブな内容ばかりを書き込むまひろのアカウントに対して、理解と共感を示すメッセージを何度も送って来た。話して辛さが少しでも減るのなら、話してみてくれないか。と、いかさま山羊は言った。後から推測するに〈死にたい〉などのキーワードで検索していたのだろう。山羊と繋がっているアカウントは、どれも一度はその言葉を口にしていた。
それまでのまひろにとって、負の感情を抱くことは罪悪だった。言葉にしろ、態度にしろ、まひろが辛苦を発することは母親の強い怒りを呼んだからだ。少しでもそれらが表出しようものなら、母親は、まひろがどんなに恵まれているのか。自分がまひろのためにどれほど多くのものを捧げてきたのかを大声で聞かせ、他者と比べて自分は恵まれていると思え。と怒声をあげた。それでも、辛いだの苦しいだのと甘えたことを言うのは、自分や、より恵まれない人の何分の一かでも辛さを味わってからにしろ。そう言って、まひろの髪を掴んで家から締め出した。
そのような罰から発する罪の意識から、まひろは自分のフラストレーションを心の向こう側に封印していたのだが、SNSにおける匿名という非実在的なイメージが、限定的にその封印を解いた。SNSは現実というよりも、現実に似せたフィクションであり、フィクションの世界でならば、何を言っても自由ではないのか。そういう考えから、まひろは殆どはじめて、他人に本音を打ち明けた。
「離婚するしないは自分の勝手なのに、私のためみたいに言わないんで欲しいんです」
「じぶんがどんなに一生懸命に尽くしている良い人間なのかを、聞いてもないのに何故かアピールしてくる。コンプレックスの裏返しじゃないかなと思う。第一、本当に良い人間は、良い人間であることについて他人の承認を必要としないのではないでしょうか」
「欲求不満の解消?それで八つ当たりが収まるんなら、どんどん解消してほしい。あの人はもう、麻薬中毒患者みたい。怒りに依存してる」
スマートフォンを操作しながら、母親はまひろが、いかさま山羊に送ったメッセージを読み上げた。
「よく言うわ」と、母親は言った。まひろは震える声で、はじめて母親に対して明確な怒りをこめて「返して」と言った。
「返しません」と、母親は言った。「がっかりだよ。あんたには本当にがっかり。あたしが十何年もがまんしてきたのは、何もわかってもらえてなかったってわけだ。全部無駄だったって。ねえ、あたしが何を怒ってるのかわかる?あんたがあたしについて、わかってくれない事じゃない。こそこそと、どこの誰だかも知らない奴に好き放題なことを言ってることに対して頭にきてんのよ。言うなら言うで正々堂々あたしに言いなさいよ。しかも何?これ読んだら全部あたしが悪いことになるじゃない。あんたの方に原因がないって本当に言えるの。ねえ!怒りに依存ってなによ。あたしが怒りたくて怒ってるとでも思ってんの?」
喋っているうちに、怒りが膨張して怒鳴り声になった。怒鳴り声が大きくなるごとに、まひろには母親の言葉の意味が分からなくなった。言葉は意味を失い、それは怒りと恐怖を示す鳴り止まないサイレンとなって、鼓膜を苛んだ。脳を直接殴られているような音がした。
「お願いだから、返して」と、まひろは哀願した。
「ねえ、いかさま山羊のこと、先輩は知っているの」
その言葉でまひろは、母親がスマートフォンのなかのすべてに目を通しているだろうことを理解した。「先輩は知らない」と、小さな声で答えた。
「あたしの方から、先輩には連絡しておいたからね」と、母親が言う。まひろは青ざめる。なにを。とだけ、震える小声で訊いた。
「勝手なことをしないでくださいって。子供にいつネット環境を開放するかは、あたしの方で色々考えてるし、男の子との付き合いだってまだ早い。あんたら、いくつだと思ってるの。ちょっと普通じゃないよ。はっきり言って気持ち悪い」まさに気持ち悪いものを見る目をして、母親は言った。
「そんなこと、先輩に送ったの」
「まあ、もう少し柔らかい言い方ではあるけどね。わかりました。ってだけ返事来たよ。あんたもわかりなさい」
キレる。という言葉の意味を、まひろは初めて知った。足元や空気中を這う自分の血管がぶちぶちと音を立てて千切れてゆく音を確かに聴いた。まだ歴史の浅いこの言葉は、自分と世界を繋ぎとめる理性が、諦めによって切断される音を指すのだと思った。内臓たちよ。わたしを見捨てて逃げ出してしまえ。と、思った。心から悪いと思った。耐え難いストレスに悲鳴をあげる自分の内臓にも。優しくしてくれた先輩にも。
あの時、諦めずに冷静に反論を続けるか、すべてを諦めて言いなりになるか、どちらかを選べばよかったのだろうか。と、後になってから、まひろはしばしば思い返す。だが、どのような選択をし、例えそれによって母子関係の決壊を回避したとしても、別の形で決壊は訪れたことだろう。と、彼女は結論する。壊れるべきものは、必ず壊れるのだと。
まひろは黙って、玄関に向かった。ちょっと待ちなさいよと言う母を無視して外に出ようとすると、母親はまひろの髪を掴んで引きずり倒し、鼻血が壁に飛ぶまで娘を殴った。遠くから、親を無視するなっていつも言ってるでしょう!という叫び声がした。表情筋と脳を繋ぐ回路が切れ、鼓膜と感覚が切れ、視界と認識が切れた。無抵抗と沈黙だけが、まひろに出来る最後の抵抗になった。
腕が痺れるまで殴ってしまうと、母親はまひろを抱きしめて、ねえ、わかって。あんたのためなの。あんたが大事だから。ごめんね。と、泣きながら謝った。まひろははじめて、母親を許さずにこれを無視した。許しが返ってこないと知ると、母親はさらに逆上して、再びまひろを殴った。あたしはあんたを許すって言ってるのに、あんたはあたしを許さないって言うの?と、母親は叫んだ。まひろは身心を繋いでいた全ての回路を切断し、勝手にしろと言い残して考えることをやめた。
いくつかの壊れる音が聴こえた。それは母親の叫び声だったし、帰宅した父親の母親に対する怒声だったし、硝子の割れる音だったりした。ずっと音もなく壊れていたものが、今、音をたてて壊れなおしているだけだ。と、まひろは思った。一切の意思を渡すまいと、まひろは胎児の姿勢でうずくまった。母親が何度髪を掴んで引きずりまわしても、帰って来た父親が泣きながらまひろを抱きしめても、二人が刃傷沙汰すれすれの喧嘩をはじめ室内のことごとくを破壊しても、まひろはその場に横たわって身体を丸めた。胎内回帰への姿勢では、もちろんなかった。彼女は、今ある大事なものをかき集めてハラワタにすべて隠し、それが壊されないように守ろうとしたのだ。
その時、なにを守ろうとしていたのか、まひろ自身にもはっきりとはわからない。だが、どうしても守らなければならなかったことだけはわかる。誰にも渡してはならないと思ったことも。
だが、必死で守ろうとしたものを、なんと呼べばいいのかだけがわからない。
真夜中。窓から差し込む月明かりが、横たわったまひろの顔を照らしていた。十六人の兵士たちに蹂躙された後のような家のなかに人の気配はなく、粉々に割れたすべての破片が、ただしんとしていた。
眼を開けていたのか、閉じていたのかわからないが、数時間眠っていたらしい。強い尿意に促されて、まひろはよろよろと起き上がってトイレに向かった。乾いた血が、ぱらぱらと床に落ちた。壁に手をつきながら歩き、やっと便座に座ると、産まれてから一番長い排尿をした。
家の中で、凡そ壁に投げつけられて割れる類のものは全て割られていたし、踏みつけられて歪む類のものは全て歪んでいたし、怒りを叩きつけられて壊れる類のものは全て壊れていた。
父親が好んで見ていたアメリカの刑事ドラマを思い出した。犯行現場をプロファイリングすることによって犯人像を予測するスマートな心理分析官が主人公だった。徹底的に破壊されたこの現場を見て、スマートな彼はどのような分析をするのだろう。と、思った。こんなもんに心理もクソもあるのだろうか。こんな、ただの惨状に。
玄関に父親の靴はなかった。寝室から、母親のいびきが聴こえた。そっと覗くと、母親は涎を垂らして眠っていた。ジャック・ダニエルの瓶が足元に転がっており、部屋全体がひどくウィスキー臭かった。
割れた食器や灰皿や窓硝子の破片が床を埋め尽くしていた。父親の吸う煙草の吸殻や、鍋からぶちまけられたスープや飲みかけだったアイスコーヒーがそれらを汚していた。あちこちにまひろの血が跳ねて付着していた。
窓から差し込む柔らかい月光が、壊れた家庭を照らしていた。
廃墟を見る時に感じるような、寂しさと清々しさが交わる空気のなかで、まひろは自分でも驚くほどの安らかさを感じていた。いつかこんなことになると思っていた。こうなる材料はすべて揃っており、その中で暮らしていることを、わたしは知っていた。知っていながら、ただ何もしなかっただけだ。そう思った。
いつの日か、母親の干渉や暴力に耐えきれなくなって彼女を拒否する日が来るだろう。母親は娘の反抗に逆上して暴力を振るい、その後泣いて謝るだろう。だが、許すことにも疲れ、まひろは何もかも放棄するだろう。求めるものが与えられないとわかると、母親は再度逆上し、もういいと喚き散らして暴力に戻るだろう。父親は母親を責め、まひろを助けようとするが、結局は母親の暴力に負けて家を出るだろう。彼は、一度はまひろを連れ出そうとするが拒否されればすぐに諦めるだろう。まひろは母親同様、父親も信じないだろう。現状を、彼が避けようとした母親からの怒りが爆発した結果であることを認めず、自分たちを一方的な被害者の立場に置こうとする父親の手をとることはないだろう。誰もが「自分は悪くない」と叫びながら暴れることだろう。被害者たちは、すべてを壊すだろう。壊されたものだけが、潔いだろう。
殆ど寸分の狂いもなく、すべてはまひろが考えていた通りになった。この日が来るのをずっと恐れていた。自分が耐え切れなくなり、家庭が決壊してしまうことを。だが、実際に決壊してしまえば、もう何も恐れなくていい。
この日から、まひろは自分のなかに、ひとりの予言者を飼うようになった。予言者は言う。私たちは予め、壊れるだろうという予言のなかに暮らしており、壊されることによってはじめてそこから自由になれる。
まひろはなるべく足音を立てずに、割れた破片の隙間を歩き、洗面所で顔を洗った。固まった鼻血が溶けて、排水溝に流されていった。顔を上げ、鏡を見た。とても久しぶりに、自分の顔を見た気がした。
マッチを擦れば引火して爆発するのではないかと思うほど酒気に満ちた部屋の中で、母親のいびきの隙間をかいくぐって、まひろは荷造りをした。いびきは獣の鳴声のように大きく、多少の物音で目を覚ますとは思えなかったが、なるべく音をたてずに荷物をまとめ、母親の財布から金を盗み、少年から貰ったスマートフォンを回収した。
アディダスの黒いスニーカー。トリコロール柄の厚手の靴下。レーヨンのジーンズ。無地の黒いトレーナーと、フード付きのモスグリーンのフライトジャケット。肩掛けのトートバッグ。
汚れが目立ちにくく、適度な防寒性があり、人目を引かないありふれたデザインであること。まひろが無意識に選んだのは、そういう衣類だった。これから汚れ、寒さに晒され、隠れて過ごすことを、彼女は無意識に想定したのだ。これもまた、一種の予言だったと言える。事実、その通りになった。
家を出る前に、まひろは玄関に掛けてある鏡に映る自分の顔を見た。殴られた頬は時間が経つにつれ熱を帯びて腫れあがり、そのせいで顔の半分は岩山のようにごつごつと歪んでいた。まるでモンスターだなと心のなかで呟いて、まひろは笑った。鏡の中のまひろは、取り残されることが哀しかったのだろう、ひとすじ涙を流していた。
フライトジャケットのフードを被り、顔の半分をマスクで隠して、まひろは脱獄囚のように身を潜めながら夜の町を歩いた。十月の涼しい風が、熱を持って腫れあがるまひろの頬を優しく撫でていた。
行く当てもなく、頼れるひともいなかった。友達がいないわけではなかったが、傷ついた自分を見せることができるほど信頼できる相手はいなかった。人を不快にさせないことを主軸として生きているまひろには心を開ける友人ができなかったし、そもそも親密さというものが体感として理解できなかった。安心感から生ずる感情や関係性があるということが。
それでも、行く当てをなくし、無意識に拠り所を探そうとするまひろの心に、二人の人間の姿が浮かんだ。先輩といかさま山羊だ。まひろはファミリーレストランに入って無料の無線LANに接続し、メロンソーダを飲みながら少年にメッセージを送った。
母親が少年に送ったメールについて謝ってから、会いたいですと送ると、すぐに、何処にいるの?と返信が来た。居場所を伝えると、少年は家を抜け出し、自転車に乗って会いに来てくれた。
腫れあがったまひろの顔を見て、少年は怯えと戸惑いの色を顔に浮かべた。まひろはそれを察して、反射的に明るい笑顔を作った。すみません、モンスターみたいですよね。と、彼女は言った。いやあ、母と喧嘩になってしまいまして。失礼なメッセージを送ってしまって、すみませんでした。ごめんなさい。これ、お返ししますね。夜遅くにすみません。早口にそう言って、スマートフォンを返してから、店を出ようとした。
ちょっと待って。と、まひろを引き留め、少年は説明を求めた。母親が送ったメッセージに従い自分との交際を止めるつもりなのか。その怪我は家族に殴られたのか。家に帰って平気なのか。自分に何かできることはあるか。何故つくり笑いをして話を避けようとするのか。真剣に心配してくれたが、心配されればされるほど、まひろはどう答えていいのかわからなくなり、何を謝っているのか自分でもわからないまま、謝罪した。
他人に助けを求めるためには、それなりの信頼と努力が必要だが、まひろにはその一切が欠けていた。傷ついたまひろを見て、少年が浮かべた戸惑いの表情について、迷惑をかけてしまった。と、まひろは解釈した。迷惑をかけた相手に頼るわけにはいかなかった。何故なら、頼ることによって、より迷惑をかけてしまうことになるからだ。
何を言っても、「だいじょうぶです」と「ごめんなさい」しか言わないまひろから話を聞くことを、少年は悲しそうな顔で諦めた。失望されたと思ったまひろは、より深く頭を下げて謝り、スマートフォンを返したかっただけなんです。もう家に帰りますから、そんなに心配しないでください。と、嘘を吐いた。
少年と別れたまひろは、しばらくの間、右足と左足を交互に差し出すだけの運動そのものになった。何も考えたくなかった。心を空っぽにして、何処を目指しているわけでもなく歩き続けているうちに、県を横断する大きな河に巡り合い、導かれるように、水の流れに沿って歩き続けた。
澄んだ風の流れる、良く晴れた真夜中だった。満ちかけた月が、静かに地上を照らしていた。まひろは、真夜中という時間がそれほどまでに美しいものだということを知らなかった。言葉を失った自分と、人のない夜の静けさが、二枚のうすものがふわりと重なり合うように感じられた。行く当てもなく、何も求めていないという点に於いて、自分たちは同じ生き物なのだと思った。そう思うと、静かな夜に生息する寄る辺ない全てに対して、強烈な愛おしさを感じた。何の条件付けもなく、夜は少女の生息を許した。
河沿いの草地に生息する虫の声が愛おしかったし、月を横切る鳥が愛おしかったり、草花の呼吸とその香しさが愛おしかったし、無料の神秘を描く空が愛おしかったし、それらを見るために我が足を支えてくれる大地が愛おしかった。じぶんという身体を、なんの抵抗もなく受け入れてくれる、真夜中の空気に感謝を感じた。何もかもを失った夜は美しく、このまま、愛おしいという気持ちだけを抱いて歩き続ける、一個の自然になってしまいたいと思った。
だが、そういうわけにもいかないことを、まひろは知っていた。彼女は予言だったのだから。予言し、それに沿う、ひとつの運命だったのだから。歩みを止めるわけにはいかなかったのだ。
予言がなお、彼女を呼んでいた。
壊れよと我を呼ぶ声があり
足の裏に水膨れが出来るまで夜の河沿いを歩き続けた後、まひろは寝床と食料を求めて、街の方角へと移動した。疲れと、行く当てのない無力感が、彼女から思考を奪っていた。人間たちが箱庭の中に昆虫を放り込み、その生態と行動を見下ろして観察するように、自分がどこに向かうのかを上空から観察して面白がっている奴がいるんじゃないかと思った。憎しみを感じたが、見上げる力は残っていなかった。
母親の財布から盗んだ会員証を使ってネットカフェに入店し、個室で横になって身体を休めた。店内販売のカップヌードルとコカ・コーラでとりあえずの空腹を満たし、四時間ほど眠った後、貪るように闇金ウシジマくんを読んだ。あまりに酷い話ばかりで、自分の境遇が少しましに思えた。
好きなだけまんがを読んでしまうと、店のパソコンを使ってSNSにログインした。いかさま山羊からメッセージが届いていた。最後に〈死にたい〉と投稿して以来、更新がないがどうしている?という内容だった。行くところがなくて困っている。と、まひろは山羊に送り、その理由と経緯を簡単に説明した。ネット上で〈家出〉と検索すると、推奨される行き場所や持物までもが案内されるが、自分の求める情報はそういう類のものではない。しかし、そもそも自分が今どんな情報を求めているのかが分からず困っている。と、まひろは送った。
すぐに返信が来た。今、きみに必要なのは安全に休める場所と時間だ。よく一人で孤独にがんばった。誰にでも出来る事じゃない。と、山羊は言った。普通ならば、母親の支配と自己愛に吸収されて自分の頭でものを考えたり判断したりが出来なくなるところだ。だが、きみは違う。支配されない、強い心を持っていた。立派に戦ったんだ。行く当てがなく不安だと思うがSNS上で〈家出〉と検索するのはやめておいたほうがいい。家出少女を標的にした性犯罪や誘拐・監禁。最悪の場合、殺人事件に巻き込まれる可能性もある。
何故、そういった事件が後を絶たないのか、今のわたしにはよくわかる。と、まひろは送った。人には家が必要なのだ。居場所が。身体を休めてゆっくり眠れる場所が。まずはそれからなのだ。私が欲しいのは、どうしたら安心して眠れる場所を手に入れられるかなのだけれど、ネットにも載っていなければ、教えてくれる誰かもいない。
いかさま山羊は、まひろの所在を訊き、自分の住んでいる場所はその隣県である。と、言った。事情があって家にいることが出来ない行き場のない少年少女のためのシェアハウスを知っている。きみに紹介したい。と、山羊は言った。
いかさま山羊が到着するまでの三時間で「血の轍」と「殺し屋1」と「アシュラ」と「ヒミズ」と「タコピーの原罪」を読んだ。どれも痛々しいまんがだったが、読んでいるうちに、自分のなかの痛みが登場人物の痛みとぶつかって、相殺されるような感覚を覚えた。
何故、人は生きる痛みを嫌いをながら、一方でそれを表現し、またそれを読もうとするのだろう。まひろが、そういう疑問を明確に抱いたのは、この日からだった。何故、他人の痛みを読むことによって、自分の中の一部が癒されていくのを感じるのだろう。
傷が、別の傷に結ばれてゆく。運命の赤い糸の正体など、もはや暗黙のうちに人々は承知している。それが何故、赤いのかということも。
「まず、これだけは信じてほしい。ぼくは味方だ。よくがんばったね」と、隣県から三時間かけて軽自動車を走らせ、まひろを迎えに来た山羊は言った。ネットカフェを出ると、辺りは夕闇に包まれようとしていた。まひろは山羊に言われるままに軽自動車の助手席に乗り込み、車窓の向こうが再び夜に沈んでいくのを眺めた。
「すぐにわかったよ」と、いかさま山羊は言った。「きみは、きみの書く文章にそっくりだった」
「文章?SNSで書いてたやつですか」と、まひろは言った。
「そう。ぼくはなんのとりえもない中年だけど、ひとつだけ人より優れた能力を持っている」と、運転しながら山羊は言った。普段なら、それはなんですかと訊き返すところだが、疲れと無力感のせいか、言葉が出てこなかった。山羊は勝手に話を続けた。
「人間の内面は外見に表れる。例えば、清潔感やセンスは大きな手掛かりだ。メイクの仕方や、髪や歯の手入れとかね。そして、言葉と言うものもまた、ひとつの外見なんだ。よく観察してみれば、ちゃんと内面を覗ける。例えそれが匿名のSNSだったとしても」
まひろはこの男の顔を殆ど思い出すことが出来ない。父親と同じくらいの年齢だと推察した。体臭と肌のくすみが似ていたからだ。中肉中背で、親切な不動産の様な話し方をした。すでにSNSで、母親のことをはじめとした個人的な事情を話していたせいか、普段なら抱くはずの警戒心を抱かなかった。ネット上でのいかさま山羊は、徹底して聞き役を貫き、まひろから話を聞きだした。世界で唯一じぶんのきもちを正直に打ち明けたのが顔も知らない人間であるというのが不思議だった。
「ぼくはきみに似た境遇の子を、もう何人も保護したけど、全員が自分の言葉通りの外見をしていたよ。例外なく」
「わたしの言葉って、どんなでした」と、まひろは言った。
「きみそのものだ。傷ついていて、守ってほしいと思っている。安心したいと思っている。でも、それらを呪いの言葉で固める。愛されないという絶望の殻で覆う。誰も、その殻を割ることは出来ない」と、いかさま山羊は言った。
家出人の集まるシェアハウスに向かう途中、いかさま山羊はスターバックスのドライブスルーに寄って、ベンティサイズのフラペチーノを買ってくれた。自分の分は払います、と、まひろは言って代金を差し出したが、山羊は受け取らなかった。これから必要になるから持っていたほうがいい。と、彼は言った。
夜道を走る車のなかで、まひろは、相談の形を選び、いかさま山羊に話しかけた。頼られたり、相談を受けることを好むタイプの人間だと考えたからだ。
「山羊さんを待っている間、ネットカフェでまんがを読んでいたの」と、まひろは言った。
「どんなまんが?」と、いかさま山羊は言った。闇金ウシジマくん。血の轍、アシュラ、殺し屋1、ヒミズ、奇子。と、まひろが答えると、いかさま山羊は嬉しそうに笑った。なんというか、痛々しい本ばかりだなあ。
「そうなの。ずいぶんとまあ、みんながひどい目にあってた。破滅したり、拷問されたり、復讐されたり。なんであんな辛いことを描くんだろう。そして、何故わたしは好んでそれを読むんだろうって思って」
「それは君だけじゃない。多くの人々が、安全圏から他人の苦痛を眺めることを好むからだ。だから金を払ってでも、それを見に行ったり読んだりする。痛みは循環して、スパイラルになるだろう。誰かが、誰かのために痛みを製造する。需要があり、供給があるというわけだ。この循環は欲望に沿って段々拡大する。一種の経済活動だな。みんなが惨劇を欲しがってる。世界が腐っていた方が安心する奴らがいるんだよ」
メッセージのやり取りをしていた時と同様、いかさま山羊は穏やかな笑みを浮かべながら淀みなく話す。
「わたしはもっと別の理由もある気がする」と、まひろは言った。
「別の理由」と、いかさま山羊は言った。
「傷と同時に、ひとは癒しを求めているんじゃないかって思うの。癒されるためには、まず傷つかなくてはならない」
「パンドラの箱に最後に残ったのが希望であるというよりも、最後に希望を残すためにパンドラの箱が創られた。みたいな言い方だね」
「そう。傷と癒しは切り離せない。むしろ、癒されるために傷つこうとする人すらいる。お母さんもそうだったのかもしれない。わたしを殴ることで、癒されたかったのかもしれない。だから殴った後に、抱きしめたのよ。そうするしかできない病があって、しかもそれを愛と呼ぶ人もいる」
「きみは賢いね。そして、とてもかわいそうだ。でも、今だけは安心していいよ。悪いようにはならない。ぼくは味方だ。きみの味方になりたい」と、山羊は言って、左手でまひろの頭を撫でた。
「ねえ。山羊さん。あなたも傷ついていますか」と、まひろは言った。薄笑いを浮かべて運転していた男の顔の表面が、一瞬剥がれ落ちたように見えた。作り笑いの消えた男の顔から、まひろは目を逸らした。
「何故、そう思うの?」と、山羊は言った。
「あなたが自分で言ったのよ。世界が腐っているほうが安心する奴らもいるって。よくわかる。わたしがそうで、あなたもそうだという事が。わたしに寄ってくるのは他人か自分を傷つけたがっている人たちばっかりだし、わたしも、そういうひとにしか心を許すことができない。本棚に並ぶたくさんの本の中から惨劇の本ばかりを選ぶように。だから、あなたも惨劇なのよ、きっと」そう思ったが、言わない方がいいと判断して「なんとなく」とだけ、まひろは答えた。真実だとすれば、それは現状を破壊する類の真実であるという予感がしたからだ。行く当てもなく、疲れ果てた少女は、もうこれ以上なにも破壊したくなかった。そのためなら、自分自身だけは、どんなに破壊されてもかまわないと思った。
急な眠気に襲われ、まひろはそのまま目を閉じた。隣で、いかさま山羊の薄笑いが完全に剥がれたような気がした。
安心していい。ぼくは味方だ。という、いかさま山羊の言葉を信じたわけではなかった。あの時買ってもらったフラペチーノの中に薬物が混入されていたのかもしれない。あるいは、張り詰めていた精神的な疲れが車内の生温い暖房と保護されたというかりそめの安心感で一時的に切断されたのかもしれない。
気が付くと柔らかいベッドに寝かされ、耳元で山羊がなにか囁いていた。安心するのにいちばんの方法がある。きみは身を任せるだけでいい。何も考えなくていい。そういうことを繰り返し囁いていた。山羊の身体からは、有機的な金属の匂いがした。それは今までに嗅いだことのない匂いで、凡そ人間には思えなかった。言葉を話すというだけの得体の知れない生き物が、自分の服を脱がして皮膚の上で這いまっているようだった。その正体を知るために相手の心臓の音を聴いておけばよかったと、後になって思う。だが、その時まひろは山羊の言う通り、安心するために何も考えずに身を任せる、ひとつの柔らかいベッドの延長と化していた。侵入される感触がどうしても嫌で、唇を手で覆いキスを拒んだこと。破られるような痛みによって一度目を覚まし、自分の身体の上で蠢く山羊を見てすべてを理解して、諦めてもう一度目を閉じたことを覚えている。
殆ど抵抗はしなかった。身体にも意識にも抵抗するだけの力など残ってはいなかったし、母親が怒って暴れだした時と同じように、諦めればいつかは終わる。と、静かに自分を納得させたからだ。すべてが終わってしまうと、まひろは山羊に抱かれたままもう一度深く眠った。金属的な指が、自分の目から零れた涙を拭いた感触があった。眠りに落ちるまで、山羊の手が子供を寝かしつけるように、まひろの身体を優しくぽんぽんと叩いていた。
ここまでは概ね、予言通りだった。予言できなかったのは、次に目を覚ました時に山羊の姿がなかったことだ。気配もなく、荷物もなく、書置きもなかった。まひろのジャケットのポケットから、母親の財布から盗んだ三万円のうち二万円が消えていた。
いかさま山羊の不在と消滅を確認してから、まひろは裸のまま、もう一度ベッドに座り込んだ。金を盗まれていたせいで、山羊が二度と戻らないだろうことは理解できた。
前後の記憶が曖昧で、ここが何処で自分が誰なのか、うまく思い出すことが出来なかった。誰かがピンセットで自分を摘まみ、見知らぬ映画のワンシーンの中に置き去りにしたのかと思った。思わずカメラを探したが、彼女を見つめるレンズは何処にもありはしなかった。取り残された部屋の中で、まひろはたった独りきりだった。何処から来たのかもわからず、何処にいくのかもわからなかった。
見渡してみると、部屋のすべては柔らかいキングサイズのベッドを中心にして作られていた。ついさっきまで、いかさま山羊が自分を破いていたベッド。真っ白なシーツに、まひろの破られた部分から流れた血が付着していた。
壁紙も、冷蔵庫も、玄関に備え付けられた自動支払機も、備え付けの電話も、質素な化粧台と椅子も、シャワーも、浴槽も、煙草の焦げ跡が残るカーペットも、照明も、照明を消した時の暗闇も、その部屋のすべては寝具のために用意されたものだった。
すべては寝具から生じ、寝具へと帰るのだ。と、まひろは思った。もう一度なにもかもを諦めて、ベッドに横たわって目を閉じた。ベッドは、世界の終りのように柔らかかった。
枕元で鳴る電話の呼び出し音で目を覚ました。受話器の向こうで、誰かが「お時間ですが」と言った。何もわかっていなかったが、まひろは「わかりました」と言った。
見知らぬ床に散乱した洋服を着てから、ひどく空腹なことに気づいた。部屋を出ようとすると外側から施錠されていた。玄関の脇に備え付けられた自動精算機が「退出の際は、ご精算をお願いします」とアナウンスをした。親切なアナウンスに従い、一泊分の金を払って、狭い廊下を通り、薄暗い階段を降り、建物の狭い出入口から出ると、雲一つない青空の中心で太陽が眩く輝いていた。無数の光の棘がまひろを貫いた。通りがかった黒い肌をしたドレッドヘアの外国人が、まひろの顔を見て「ダイジョブ?」と声をかけた。まひろは「だいじょうぶだよ」という気持ちをこめて彼に微笑みを返した。
家を出てから経過した時間がわからなかったし、自分のいる場所がどこなのかもわからなかったし、置かれている状況もわからなかった。確かなことは、下腹をえぐるような空腹感だけだった。なんでもいいから食べたいと思いながら当てもなく歩き、たどり着いたコンビニエンスストアで食料を買った。
会計の時、化粧の濃い女性店員が、まひろに「だいじょうぶ?」と声をかけた。さっきも見知らぬ外国人に言われたなと思いながら、何故?という顔で相手の目を見ると、女性はエプロンから絆創膏を一枚取り出し「おばちゃん、いっぱい持ってるから、これ持っておいき」と言って、まひろに差し出した。なんと返していいのかわからず「おばちゃんじゃないです」とだけ、まひろは言った。いいえ、お若いです。おばちゃんと称するほどの年齢じゃないと思います。と言いたかったのだが、言葉がうまく出てこなかった。今度は女性の方が呆気に取られて言葉を失ってしまったが、まひろの言わんとすることに気づくと微笑んで「ありがとね。痛いとこに貼ってね」と、彼女の手に絆創膏を握らせた。
駐車場に座り込み、サンドイッチといちごミルクを胃袋に流し込んでしまうと、停めてある車のウインドウに映った自分の顔を眺めてみた。母親に殴られた部分の腫れは殆ど引いており、一体なにを心配して「だいじょうぶ?」と言われたのかが分からなかった。痛いところに貼ってねと渡された絆創膏を、何処に貼っていいのかもわからなかった。
生きて彷徨う〈わからない〉の塊になって、まひろはふらふらと歩きだした。
聞いたことのない名前の小さな町を彷徨いながら、この国はなんて親切なんだ。と、まひろは思った。電柱には住所が書いてあり、青看板は道筋を案内し、ところどころに地図がある。従って駅までたどり着けば路線図があり、指定された乗車券買えば、何処へでも行ける。なんてことだ。この国があまりにも親切すぎて、わたしは家に帰れてしまう。親切な案内のせいで、現在地もすぐにわかってしまった。家から三〇キロほど離れた場所にある地方都市だった。電車に乗れば九十分で家に着いてしまう距離にあった。
乗り込んだ各駅停車の列車の中に、まひろ以外の乗客の姿はなかった。遅めの午前の車窓から差し込む眩しい光が、まひろの身体の上をきらきらと横切っていった。荒野ならばよかった。すべてが名前のない荒野で、地図も道しるべもなければ、わたしは家にたどり着けずにすむのに。と、まひろは思った。
自宅へたどり着いたのは正午近くだった。家のなかがどうなっているのかは、想像もつかなかった。当日にいたるまで、まひろがそれを忌避するために繰り返し予測してきたのは、自分の反発で母親が怒り狂い、誘発によって父親との仲も決定的に破綻し、さらに飽き足らず関係性も含めた家のなかの何もかもが母親の怒りによって破壊される場面までであり、実際に起きてしまった後のことは考えたことがなかった。予測によって避けられると考えていたからだが、思い知ったように壊れるべきものは必ず壊れる。
玄関に鍵はかかっておらず、父親の靴はなかった。薄暗い家の中に灯りはついておらず、リビングの方から昼のワイドショーの声がした。廊下の隅に大きなごみ袋が置かれていて、昨夜壊れた物が分別されず詰め込まれていた。
リビングへ行くと、母親はソファに座りスマートフォンをいじっていた。まひろに気づくと、顔だけで振り向き、あら。おかえりとだけ言って、再び画面に視線を戻りしてタップとスワイプを続けた。
まひろは冷蔵庫を開け、飲みたくもないコカ・コーラの蓋を開け、一口飲んだ。甘ったるい炭酸が喉を焼いた。テレビの中では、知らない俳優の不倫報道が流れており、一瞬、昨日のすべてが夢だったのではないかと思ったが、壁に飛んだ自分の鼻血の痕や、割られ尽くされがらがらになった食器棚を見て、そうではないことを確認をした。
「学校には風邪だって言ってあるから。ご飯食べた?」と、振り向いて母親は言った。その落ち着いた声色は昨日とは全く違っており、一昨日とはまったく同じだった。見たこともない生き物を見るような目で、ふたりは見つめ合った。表情だけですべてを伝えてしまうと、母親はまたスマートフォンに視線を戻し、テレビのボリュームを少し大きくした。まひろは「食べた」とだけ落ち着いた声で答え、リビングを出た。長い間、顔色を窺って生きてきた彼女には、母親の表情と態度がなにを示しているのか、すぐに理解することができた。昨夜のことは、すべてごみ袋に入れて片付けてしまいたいのだ。まひろにも、それに関して触れないことを求めているのだ。
まひろは、洗面所で服を脱いで、鏡の前に立った。顔の腫れは殆ど引いていたが、母親に殴られた口のなかは切れていたし、いかさま山羊に破られた部分は未だ痛んだ。鏡のなかの自分が、まるで別人のように見えたが、だとしたらもとの自分がどのような姿をしていたのか、もう思い出すことができなかった。ジャケットのポケットから、見知らぬ町のコンビニエンスストアでもらった絆創膏が落ちた。
私はこの日、実態となって産まれた。まひろは母親の顔剃り様の剃刀を左の手首に当て、ゆっくりと引いた。一秒遅れて、剃刀の軌跡に裂け目が、赤く笑うように開いた。流血するほどの傷ではなかった。開いた傷口に、あまりにもたくさんの感情が流れ込んできた。それは殺意だったし、渇愛だったし、命乞いだったし、緊縛された沈黙だった。私はそのすべてを吸いこむための、彼女の限りない空洞として産まれた。隠れてしまいたい。と。まひろは言った。私は彼女を匿った。まだ血の溢れる傷口に潜り込んだまひろの、長い長いかくれんぼがはじまった。
だいぶ後になって、彼女の伴侶が言った。
「あなたはその時、傷つくべきだった」
「傷ついていた。あの日、わたしはとても傷ついてた」と、まひろは反駁した
「ちがう。もっと、ちゃんと傷つくべきだった。あなたたちは傷を無視した。無視された傷は、必ずあなたに復讐に来る」
伴侶の言ったことは正しい。あまねく傷痕のなかでも、その存在を無視された傷は必ず主張を続けるからだ。私はここにいるのだと、気づいてもらいたがるこどものように。
まひろは、しばしば自分の身体を切り裂くようになった。切り裂いた手首に包帯を巻いて登校すると、一部の同級生は揶揄する意味でのあだ名をまひろに与え、担任教師は形ばかりの個人面談の場を設けた。
「自傷はよくない。したくなる理由があるのならば話してほしい」という意味のことを教師は言った。その質問や説諭のすべてに対して、まひろは嘘で答えた。自分のことを心配しようとする他人を彼女は信じることができないし、そもそも自分を傷つけることはいけない事なのだという話調が不快だった。彼女は私を庇ったと言っていい。うわべだけ納得を装うことで、つつがなく面談は終わった。
この時、既にまひろは一種の虚言症を患っている。それは虚栄心や劣等感から生ずる虚言症のように、自分を理想化した嘘を吐くという種類の症状ではなかった。後から少しずつわかったことだが、自分の本心を言おうとすればするほど、激しい緊張と動悸に襲われ、眼から失禁するかのように止めどなく涙が溢れてしまうのだ。それを回避するために、彼女は仕方なく嘘と沈黙を使った。
虚飾する必要がないため率直に言うが「愛されたい」というのが、まひろ自身が閉じ込めていた本心であり「愛されない」という思い込みが涙だった。
また、自傷は痛みを伴った赤い涙だった。悲しい時には泣いた方がいい、だとか、溜め込まずに話したほうがいい、という理屈と同じくらい、血を流すことは、まひろにとって自然なことだった。寧ろ、まひろにとって、痛みほど信頼できるものはない。そこには一切の誤解や齟齬がない。痛みはただ、自分と同じように痛いだけなのだ。
面談があった日、教師はまひろの母親にその内容を電話で報告している。家の中が破壊された夜以来、母親はネグレクトと言っていいほど、まひろに干渉しなくなっていた。手首の包帯を一瞥すると「まあ無理せず好きにしてくれていいよ。普通でさえいてくれれば」と、ウィスキーを呑みながら言った。
まひろの中学卒業と同時に、両親が離婚した。音もなく崩れ落ちる砂の城のような離婚だった。最後の一年は、三人揃って食卓に着いた日が一日もなかった。約束されていた崩落が前兆もなくやって来ただけであり、まひろは殆どなんのショックも受けなかった。どのような経緯と話し合いがあったのかも知らないが、まひろの親権は母親が持つことになった。家を出ていく時、父親はまひろに、抱きしめていいかと訊いた。まひろは少し驚きつつ、頷いた。
「ごめんな」と、父親は泣きながら言った。「いいんだよ。お父さん」と、まひろは言った。父親の涙を見たのははじめてだった。わたしと同じだ。ずいぶんと涙を溜めていたんだな。と、思った。涙を禁じる傾向にある家庭だった。泣けば許されると思うな。という母親の教えもあったが、それ以前に相手の涙を受け入れる余裕を持つ者が誰一人いなかったためだ。
父親の体温は温かった。その謝罪と抱擁が、今まで以上にまひろを見捨てることの証左だったとしても、前よりもずっと彼のことが好きになった。もっと泣いて謝って抱きしめてほしいとさえ思った。
自宅から遠く離れた、演劇部のある公立高校を選んで受験し、まひろは入学した。学力で言えばもっとレベルの高い高校に入ることもできると教師に勧められたが断った。学校見学の際、まひろは案内の職員に演劇部のことばかりを質問し、可能であれば部活動の様子を実際に見学した。十キロ以上離れた場所にある公立高校の中で、熱心に活動している演劇部がある高校は二校だった。
一校には、生徒主導のオリジナル演劇と映像作品の制作を主とする自由度の高い部があり、もう一校には、顧問主導で古典的な演劇だけを上演する、どちらかと言えば古臭く封建的な部があった。まひろは後者を選んだ。目的は、演技そのものにあり、物語や演出の創造とは、なるべく無関係でありたかったからだ。
「おまえは不思議な奴だなあ」
自身も元舞台役者だったという演劇部顧問の老教師が、入部して一年近くが経った頃、まひろにそう言った。
独断と独自性を避けよ。一人一人が舞台という機構を動かす不可欠な部品の一つであることを自覚し、解釈を一塊にせよ。というのが、彼の演出方針だった。十代の少年少女たちに理解、実践させるにはやや偏狭な方針だったが、まひろは誰から見ても、それに対して最も忠実な演者だった。演出家の指導や解釈に合わせて何十回でも演技を微調整し、OKが出ない限りは、どんな小さな台詞や動きでも、いい加減に進めることをしなかった。ところが、ある日一人だけ呼び出され、正直なところお前に戸惑っている。と、老教師に告白されたのだった。
「おまえほど自分を出さない演者を、おれは見たことがない。演者は演技する時、多かれ少なかれ自分という存在を介して、別人を表現する。その過程で役者の解釈や個性が役に付与され、それらが複数収束することでダイナミズムとなる。これが演劇だ。だが、おまえはちがう。おまえは自分という存在を省略しようとしている。涙ぐましい稽古によって優れた表現力を得てはいるが、台詞や所作のひとつひとつに、おまえがいない。登場人物だけが残っている。理想的な演技の一つのように聞こえるが、演者が自我を持つ人間である以上、本来こういう事態はありえないことなんだ」
「演者は、舞台という装置の不可欠な一部品だと先生は仰いました」と、まひろは言った。部品に自我は必要ないのではないか。という反論のつもりだった。
「その通りだ。どんな演者も、演劇という全体のなかの一部品として機能して然るべきだ。だが、その点に於いても、おまえは違うんだ。どんな芝居、どんな人物を演じるにせよ、おまえだけがたった一人で演劇をしている。沈黙を含めた台詞の発声や表情や所作といった表層能力がなまじっか優れているせいで、寧ろひどく不気味だ。おまえを見ているうちに演劇というものが、演劇だけじゃない、人間社会というものが、不完全性に支えられた舞台であることを痛感したよ。複数の不完全性による調和の結果。あらゆる関係性というものは、そうしたものなんだ。だが、おまえは違う。よく観察すればわかる。人間社会のなかに、うわべだけ人間に似た何かが混じっているのを発見してしまったような感覚だ。命は持っているが、心は持っていない鏡じかけのAIのような。おまえの演技だけが、悪い意味で完璧すぎるんだ。おれの演出はもちろん、周りのすべてと全く調和していない。何故だかわかるか?そこには、余りにもおまえがいないからなんだ。いない以上、おまえは何とも関係していない」
まひろには老教師の評言の半分も理解できず、それで?と訊き返す事しかできなかった。
「すまん。ちょっと感情的になった。悪く思わないでくれ。責めたり、否定したりしているわけじゃないんだ」と、老教師は言った。当たり前だ。と、まひろは思った。入部以来、腹式呼吸から役柄の解釈に至るまで、まひろこそが老教師の演出に最も忠実だったのだから。時には、演出家本人よりも。
「おまえ、この先、役者としてやっていくつもりはあるか」と、老教師は言った。
「正直言って、あまりないです」と、まひろは正直に答えた。
「そうか。おれは役者という職業を、おまえに勧めてもいいと思っている。身体的表現力と、努力する才能は飛びぬけているからな。だが、その上でひとつ言っておきたい。おまえはおれの言った通り、舞台という装置の一部品になろうと健気な努力を続けている。しかし、それは人格を封印しろという意味じゃないんだ。わかるな?」と、老教師は言った。
違和感。
この頃、誰もがまひろに対してそれを感じていた。そして、それを彼女にうまく伝えられないことについて、とてももどかしく感じていた。
「愛してる」と、その頃付き合っていたアルバイト先の先輩は言った。なんとかという大学の、なんとかという学部に通っている、なんとかという名前のひとだった。
「うん」という形に、まひろの唇が動いた。
「でも、好きになればなるほど、おまえがわからなくなる。今のお前が偽物だって言ってるわけじゃない。愛してるって言ってくれるお前を、理由はわからないけれど、とても遠くに感じる時があるんだ」と、彼は言った。
まひろは相手を抱きしめて、大丈夫だよ。と、優しく言った。何も心配しなくていい。わたしはあなたの味方。しかも、世界でただひとりの。
誰よりも熱心に演技に励む傍らで、まひろは週に最低四日はコンビニエンスストアでアルバイトとして働いていた。
・離婚以来、本格的にアルコール依存症への道を直進する母親のいる家に帰りたくなかったため。
・いつ身寄りがなくなってもいいように、金銭の貯蓄をするため。
・転がりこむ家を探すため。
履歴書には書けない志望動機しかなかったが、大まかに言って、以上がまひろの働く理由だった。
たくさんの職種を経験したが、コンビニエンスストアが、まひろのライフスタイルに最も好都合だった。マニュアルが統一化されており、例え恋愛関係のトラブルで店にいられなくなったとしても、別の店舗で働きなおすことが容易であるからだ。
同勤中に、だいじょうぶ?と、三回以上訊いてきた同僚の家に、まひろは転がり込んだ。何を指してだいじょうぶ?と訊いているのかは、まひろにも相手にもわからなかった。慢性的な寝不足ではあったが彼女は健康だったし、身体の傷痕は長袖とリストバンドで隠していたし、営業スマイルと溌溂した責任感のある勤務態度は完璧だった。孤独や辛苦があったとしても、その兆候を一粒だって外面に出しているつもりはなかった。弱さを外面に出すという事は節度に欠いた振る舞いである上に、場合によっては暴力と支配を呼びよせる一種の危険物だと考えていたからだ。
にも関わらず、一定数の人間が彼女に対して「だいじょうぶ?」と声をかけた。そこには、どうしても隠し切れないか弱い香りがあり、嗅ぎ分けるものにとっては一種のフェロモンに感じられたのだろう。
仮宿を見つけるためにはわかりやすいサインだったが、まひろはこのサインを嫌った。その問いかけは、まひろを弱者の立場に置き、自分を強者の立場に置く、卑劣な上下関係の発生装置だと思った。あまつさえ、癒してあげたい、ずっと一緒にいたい。などと言われた日には憎しみさえ覚え、まひろは途端に一切の作り笑顔を止めた。それまで宿賃として相手の願望をことごとく叶えてきた健気な少女の急変に、直前まで彼女を救おうとしていた男たちは一人残らず戸惑い、中にはもとのまひろに戻ってくれ。と、泣いて懇願する者さえあった。それは丁度、仮宿を出よという合図と相成った。
もとのまひろ。そんな少女は、どこにもいない。と、彼女は思った。ただ、仮宿のために相手の願望を推察し、可能な限り実現しただけだ。
それは一度破れると二度と被れないオーダーメイドの仮面だった。割れた仮面の破片を残しては去り、作ってはまた被り、被ってはまた割る。
仮面と仮宿を変えつつ、まひろは演劇と労働と放浪を続けた。
誰かを演じている時だけ、まひろは自分ではなくなることができる。自分でさえなければ、それがどのような人間であってもかまわない。という動機のもとに、彼女は日々を演じ続けた。
学校では大人しく勉強熱心な生徒の演技をしたし、部活動では何世紀も前に書かれた戯曲のなかの登場人物らの演技をした。アルバイト先では感じのいい働き者の演技をしたし、仮宿では宿主の好む少女の演技をした。
演じているという意識のもとに日々を過ごしていると、世界には演技をしていない人間など、ひとりもいないのではないかと思うようになった。演者としての自覚があるにせよ、ないにせよ、すべての人間が同じ舞台に立って演技をすることで保たれているのが、この世界なのだと。
だとしたら人々は、いったい何のために演じているのだろう。と、まひろは思った。
よく、硝子の器の夢を見た。飾り気のない透明な硝子の器。そこに一滴。また一滴と、液体が落ちていく。どこから落ちて来ているのかはわからない。器から液体が溢れそうになった瞬間に目が覚める。どの部屋で目が覚めても、決まって涙が流れている。
暗い部屋の中で、落涙したばかりの目をぱっちりと開き、あの硝子の器か落ちていく液体のどちらかがわたしだったのだ。と、まひろは思う。だが、そのどちらなのかもわからなければ、液体の正体もわからない。
週に一度か二度、まひろは自宅に帰った。母親の安否の確認及び、自分の安否の提示のためだ。
離婚後、それまで三人で住んでいた住居は、引き続き残された母娘が住むことになった。離婚前と比べて生活の水準が下がらなかったのは、父親が生真面目に支払い続けた慰謝料や養育費や住宅ローンの部分が大きかったようだ。とは言え、まひろは離婚に関しての説明をまともに受けていない上に、父親が出て行ってからは殆ど家に帰らなくなっていたため、仔細な部分はわからない。
介護士の資格を持つ母親は福祉施設の非常勤職員として働いていたが、人間関係のトラブルが絶えなかったらしい。方々の施設を転々とする形で職場を変えていた。
まひろがたまに帰宅すると母親は「会いたかった」と、手を拡げ、眼には涙を浮かべながら娘を抱きしめた。たいていの場合、すでに酒に酔っていた。
母親はウィスキーを呑みながら味の濃い料理を作り、まひろを晩酌に付き合わせた。父親の悪口と、職場の悪口と、ワイドショーで報道される炎上事件の登場人物の悪口と、政府の悪口を聞きながら、まひろは食事を摂った。そして培った演技力を発揮し、ゆうに五十を越える種類の相槌を使い分けつつ、相手が欲する返答を示した。大変だね。ありがとう。お母さんは立派だと思うよ。ごめんね、わたしのいるせいで離婚できなかったね。そうだね。そういうひとには放っておいても悪いことが降りかかるから気にしなくていいんじゃないかな。うん。助けてくれる人に囲まれて、お母さんは恵まれているね。きっと、お母さんがそういうひとだからみんなが助けてくれるんだね。わたしのために沢山耐えてくれてありがとうね。今こうしていられるのも、お母さんのおかげだよ。
部活動での即興劇の訓練が役に立ち、相槌はじつにすらすらと流れ出てきた。他者からの肯定が一定以下まで不足すると、母親は床に叩きつけて粉々に割った酒瓶の写真や〈死にたくなっちゃった〉というメッセージを、まひろのスマートフォンに送ってくる。それらを回避するためにも、まひろは定期的に晩酌に付き合い、母親の自尊心らしきものを補給する必要があった。毒草が枯れないように水をやり続ける庭師みたいだな。と、思った。
家に寄り付かないことについては、演劇部や学生寮住みの友人の部屋に泊っている。と、嘘を吐いていた。学校が遠く離れた場所にあるという事情が嘘に説得力を持たせるまでもなく、母親はさほど興味を持っていない様子だった。
「あんた、あんまり帰ってきてないみたいだけど、なにやってんの。普通にしてるの」という質問が母親の口から出るのは、彼女がウィスキーを瓶半分ほど開けつつ愚痴と涙をすべて吐き出してしまった後であり、それは晩酌と会話の終わりを意味した。それ以上、話すことは何も残ってはいなかった。
「普通だよ。普通にやってる」と、決まってまひろは答えた。酔った母親が先に眠ってしまうと、まひろはトイレに行き、喉に指をつっこんで夕飯を嘔吐した。
父親が家にいた頃から、調理するのは母、後片付けをするのは父、もしくは娘という暗黙の了解があった。父が家に寄り付かなくなってからは、概ね娘が父親の役割を代わっていた。習慣的に、まひろは食卓を片付け、皿を洗い、ごみをまとめた。
片付けを終える頃には、夜が深く沈み、寝室からは母親の鼾が聴こえだした。必要な分を残して家の中の灯りを落としてしまうと、懐かしい静寂が家に舞い降り、まひろは家族が壊れてしまったあの夜に、まだひとりで取り残されているような気がした。
あの夜から、この家の空気は何も変わっていない。あちこちの仮宿を放浪するようになってから得た野良猫の眼差しで、まひろは生まれ育った家を、見知らぬ他人のそれのように眺めた。
もともと不在としてしか存在していなかった父親の形に空気が削れ、削れた分の空気を同量のアルコール類が補填していたものの、空気の質量は変わってはいない。日付や秒針は移動しているものの、精神的な変化という意味では停止している。皿は割れ、家具は倒れ、壁は血で汚れたままであり、わたしたちは何故か平気な顔をして、止まった時間の中で夕食をとっている。
自分の鼓動に触れながら、秒針の動きをじっと見つめ、その移動を確認すると、まひろは両手にごみ袋を持って、マンションのごみ置き場に向かった。空き瓶と空き缶が、がらんがらんと喧しい音を立てた。心臓だけがまだ時を刻んでいた。
「きみは自分の沈黙を解読した方がいいよ」
黒革の拘束具で身体の自由を奪われ、まひろに顔を踏まれ罵られながら射精してしまった後、煙草に火を点けてブラッドハーレーはそう言った。「言葉はそのためにある。さもなければきみは、やがて沈黙に喰いつくされてしまうだろう」
ブラッドハーレーは当時、仮宿のためにまひろが付き合っていたフリーターの男の友人だった。その頃、三人で何度か居酒屋やライブハウスへ遊びに出かけたことがある。どんな仕事をしているのか知らないがブラッドハーレーは金持ちで、居酒屋の会計などは常に彼が多めに支払っていた。フリーターの男からすれば自分に懐いている便利な小金持ち程度に過ぎなかったようだが、当のブラッドハーレーはと言えば、その事を承知しつつも「友達、こいつしかいないから」と、笑いたいのか泣きたいのか分からない表情を浮かべ、常に呼び出しに応じていた。
ブラッドハーレーというのは、彼が乗っているオートバイのブランド名であり、そのまま彼のあだ名でもあった。ブラッドハーレーさん。最初こそ、まひろも彼の事をそう呼んでいたが、後々、呼び捨てで呼ぶことになる。
「踏みつけられてうれしいのか。ほんとうにどうしようもないナメクジ人間だな、ブラッドハーレーは。ほら、もっとナメクジみたいにぐねぐねと悦んでみろ」と、囁きながら、まひろは本人の希望通りに彼を踏んだ。
「おまえ、ほんとうはおれのこと好きなんかじゃないんだろ。それだけじゃない。誰のことも好きなんじゃないんだろ」
ある朝、フリーターの男がそう言った。まひろと付き合った男の多くが口にする、彼女にとっては既に慣れ親しんだ台詞だった。愛されないということへの怒りや諦めが、シャボン玉が割れるように弾けた。「好きなんかじゃないんだろ」という質問に対して、まひろは黙秘した。恋という感覚が、まひろには常に欠けていたし、概ね相手の言う通りだと思ったからだ。
「ずっとそうやって、黙ったまま生きていくのかよ。かわいそうな女だな」と、フリーターの男は言った。まひろは仮面を割り、少ない荷物をまとめると部屋を出た。
その日は、午前中にブラッドハーレーと待ち合わせをしていた。通勤通学のために小型二輪の免許を所得しようとしていたまひろに、ブラッドハーレーがオートバイの操作を教えてくれる約束になっていた。
約束の時刻ぴったりに待ち合わせの駅前ロータリーに表れたブラッドハーレーに、急な用事でフリーターの男は来られなくなった。と、伝えるとブラッドハーレーはどうしようどうしようと呟き、見るからに狼狽えてしまった。友人抜きでまひろと二人きりになる状態に、強い緊張を覚えているようだった。気の毒になったので、無理ならいいんです。と、まひろは言った。いや。無理じゃない。と、ブラッドハーレーは自分に言い聞かせるように、まひろの目を見ないまま言った。
後部座席にまひろを乗せたバイクは、高速道路を三十分走って県の外れにある寂れたパーキングエリアへ向かった。タンデムベルトから手を放してもいいのではないかと思える程、滑らかな運転で、二輪のリニアモーターカーに乗っているような体感だった。
施設と言えば旧式の公衆トイレと古い自動販売機しかない寂れたパーキングエリアは、夜になると主にカーセックス目的の車が数台停まるものの、日のある時間帯は殆ど誰も寄り付きはしない、バイクの運転を教わるにはもってこいの場所だった。
終始まひろの目を見ることはなかったものの、ブラッドハーレーの教習は彼の運転同様に淀みなく滑らかで、たいへん分かりやすかった。空き缶や白線を教習所のコースに見立てて模擬的な練習をした後、ブラッドハーレーはまひろに缶コーヒーをおごってくれた。
「きみの元恋人から、えらい量のメールが届いている」と、ブラッドハーレーは言った。元恋人という言い方から、フリーターの男が今朝の別れ話をブラッドハーレーに打ち明けていることがわかった。まひろの方は男の家を出て一分以内に、流れるような手慣れた手続きで、既に電話とメールの着信を拒否していた。
「きみに会って話をしたいって言ってる」と、ブラッドハーレーは言った。
「すみません」と、まひろは言った。「帰り道で事故って、わた しは死んだことにしてもらえますか」
ブラッドハーレーは困ったような笑顔を浮かべて「いいよ」と、言った。
「行くところがなくてですね。色んな所に転がり込むんですけど、どういうわけか何もかもだめになるんです。大事なことなので二度言いますけど、どういうわけだか、何もかもだめになるんです。まあ、最初からわかっていたことなんですけど」と、まひろは言った。静けさに満ちた人気のないパーキングエリアに、のんきな小鳥たちが数羽舞い降りて、ぴよぴよと鳴きながら辺りをうろついていた。ブラッドハーレーは空を見ながら、うううう、と、微睡む子狸のような音を出した。相槌のつもりなのだろう。
「わかるよ」と、ブラッドハーレーは言った。
「わかる?」と、驚いてまひろは言った。「わかるってなにが」
「色んな事がだめになるきもち」と、ブラッドハーレーは言った。
まひろは自分が緊張していないことに気づいた。気が弱く、友達がおらず、必要以上にお人よしのバイク乗りが、じぶんに対して恋愛感情を持っていないことはわかっているし、勿論まひろの方も同様だった。
「ぼくもまあ、色んなものをだめにした。その結果、成れの果てが今のぼくだ。前にも言ったかもしれないけど、ぼくは何も求めてない。ただ、静かに暮らしていきたいだけなんだ。なのに、どうしても色んなものがだめになる」と、ブラッドハーレーは言った。何も求めていない。という彼の言葉には、不思議な説得力があった。争うことを知らない童話のなかの子狸がうっかり人里に下りてきてしまったような雰囲気が、ブラッドハーレーにはあった。
自分に対し何も求めていない人間と二人きりになることは、ずいぶん久しぶりの事のように、まひろには感じられた。それまでは、例え相手が求めていなかったとしても、まひろの方から相手の求めるところを探る習慣があったからだ。自らの安全を確保するために相手の願望に沿いたがる強迫観念は、既に彼女にとって切り離せない臓器に等しいものだったが、ブラッドハーレーに対しては何故だか、その臓器が機能しなかった。直感で、この男が自分を傷つけないだろうことは理解していたし、何なら、二度と連絡を取らない可能性が高いのだ。
「でも、最近思うんだ。これが自分なんだって。このだめな感じと、ずっと一生いっしょにいるんだなって。そういう意味では、ぼく自身が、だめになることを望んでいるとも言える。だって、それこそがぼくなんだから。だめなぼくの、だめな人生こそが」と、ブラッドハーレーは続けた。まひろはブラッドハーレーに対して漠然とした苛立ちを覚えた。きもちはわかると言っておきながら、自分の事情だけを一方的に語ることへの不快もあったが、それだけではなかった。
「変わりたいとは思わないんですか」と、まひろは言った。ブラッドハーレーのくせに。と思ったが、それは言わなかった。
「思うよ。変わりたいと思う。でも、それは自分の本質を認めた上でだ。自分を否定した上で変わりたいと思っても、うまくいくわけないんだよ。きみは自分を否定してるだろ。何度か会ってみて、すぐにわかった。ぼくもそうだったからね」
「ねえ。ブラッドハーレーさん。子狸。喋ってる人の目を見て話せないかな」と、まひろは怒声の二歩手前当たりの張り詰めた声で言った。苛立ちの正体は嫉妬だと思った。どんな形にせよ、自分自身を受容していると語るブラッドハーレーに、まひろは怒りと区別のつかない嫉妬を感じた。
「ああ、ごめん」と、ブラッドハーレーは狼狽えて言ったが、その目は空気中をばしゃばしゃと泳ぎ、まひろの目を見返すことが出来なかった。相手の性質について、ずけずけと語る図々しさと、顔を見て話すこともできない内気さが、彼の中に同居していた。
「あの。ごめん。悪かった」と、ブラッドハーレーは謝った。叱責されたと感じたショックが、冷や汗や意味のない指の動きになって外に溢れていた。しきりに自分の耳や髪に触り、ありもしない壁の隙間から覗き見するようにまひろを窺いながら、彼は何度も謝罪を繰り返した。
いえ、いいんですけど。と、まひろは答えた。怒りや不快感を隠さずに相手に向けたのはとても久しぶりなことで、寧ろ、まひろの方がその事実に驚いていた。しかも、怒りはごく自然にするりと表出した。これは彼女にとって、殆どはじめてと言っていい出来事だった。
「ぼくは、ただ。その。少しわかると思ったんだ。きみのきもちが。でも、ごめん。失礼だった。そんなのは、うん。きみは今朝、男と別れてきたわけだし、配慮が足りなかった」と、ブラッドハーレーは言った。まひろは開いた右手を彼の前に差し出して、言葉を遮った。さっき「目を見て話せ」と叱られたせいか、ブラッドハーレーは瞳を涙で歪ませながらも、なんとかまひろの顔を直視する努力を続けていた。まひろは小さな混乱と、彼の的外れな言動に対する怒りをリセットするために、深いため息を一つ吐いてから言った。
「こちらこそ、すみません。ところで、お腹すきませんか」
「いいや。うん」と、ブラッドハーレーは言った。どっちだよ。と思ったが、それには触れずにまひろは言った。
「サービスエリアまで行って、何か食べましょう。わたし、ラーメンが食べたい。真っ赤な死ぬほど辛いやつ」
ブラッドハーレーはとりあえず安心したように頷いて、まひろにヘルメットを渡した。エンジンに火を点け、ギアを一速に入れると「ねえ。さっき、ぼくのこと子狸って呼んだ?」と、ブラッドハーレーは叫んだ。まひろが聴こえないふりをしていると、バイクはゆっくりと発進した。さっきまでの動揺が嘘だったかのような滑らかな運転で、二人を乗せたバイクは次のサービスエリアへと向かった。
彼はスロットルを開きバイクを発進させた。さっきまでの動揺が嘘だったかのように、無重力の中を走るような滑らかな安全運転を取り戻し、二人を乗せたオートバイは走った。
サービスエリアのメニューの中で一番赤いラーメンを大盛で頼み、きくらげ味玉めんま海苔、あらんかぎりの好みのトッピングをまき散らし、上から酢をどぼどぼとかけて、まひろは音をたてて麺をすすった。ブラッドハーレーは背筋を伸ばし、緊張した面持ちでそれを見ていた。
「ブラッドハーレーさんは、何も食べないんですか」と、まひろは訊いた。
「いいや。ああ、うん」と、ブラッドハーレーは答えた。どっちだよ。と、思ったが気にせずラーメンをすすり続けた。脳みその今まで使ったことのない部分から、分泌したことのない物質が止めどなく流れているという自覚があった。他人に対して、素直に攻撃性の蛇口が開かれたことに自分でも驚きつつ、その分泌に快感を覚えた。
真っ赤なスープが汗腺という汗腺を無理やり開き、辛いというより痛いですよ。と、まひろはブラッドハーレーに言った。わかった。と、言って、ブラッドハーレーは席を立ち水を取りに行った。
「うめえよ?」と、まひろの分だけ水を取って来てくれたブラッドハーレーに向かって、彼女は言った。わざと横柄な態度をとってみることにした。
「うん。とても美味しそうに食べてるね」と、ブラッドハーレーは言った。「ぼくは、きみも知ってるかもしれないけど、人前でものを食べるのが苦手なんだ」
「なんで?」知らねえよと思いながら、まひろは訊き返した。そう言えば、今朝別れた男と三人で居酒屋に行った時も、この男はハムスターのように水とピーナッツしか口にしていなかったなと思い出した。
「食事を見られるのって、恥ずかしくないか。ぼくは、恥ずかしいんだ」と、ブラッドハーレーは答えた。
こういう男と共に時間を過ごすことは、はじめてだった。原則として、まひろは自分に欲望や願望を向けてくる他者としか付き合ってこなかったからだ。どのような形であれ、欲望や願望が分かりにくい他者との付き合い方に、彼女は慣れていない。
「ねえ、ブラッドハーレーさんは、自分を動物に例えると何だと思いますか」と、まひろは言ってみた。
「動物。動物か。なんだろうな」と、ブラッドハーレーは視線をきょろきょろさせながら言った。まんがの吹き出しが彼の頭上に具現化しているかのように、色んな動物を一生懸命想像しているのが見て取れた。
「ハイエナかな」と、彼は言った。「姿勢が悪くて、陰気でさ」
「ハイエナが肉を喰う時に、恥ずかしいって思うかな」と、まひろは言った。
勿論、ブラッドハーレーはハイエナではない。そんなことは、まひろもブラッドハーレーも承知している。にも関らず、彼は言い返すことをせず、小さく「そうだね」と呟いた。
「それからね、ハイエナだって一生懸命生きているの。卑屈な比喩に使ったらだめだよ」と、言って、まひろは真っ赤なスープを飲み干した。そうだね。ごめん。と、ブラッドハーレーは謝った。
「ブラッドハーレーさんは、変わった人ですね」と、真っ赤なラーメンを食べ終わり鼻をかんでしまうと、まひろは言った。そう?そうかなあ。と、何故か照れ笑いを浮かべる彼に対して「褒めてないよ」と、ちゃんと言っておいた。
「どんな人でも、人間関係における偏向ってありますよね。他人の悪口を言いあえる人としか仲良くしないだとか。表面的には仲良くしてるけど心の奥底は絶対に見せないだとか」と、まひろは言った。
「うん。あるね」と、ブラッドハーレーは言った。
「ブラッドハーレーさんは、どうですか。わたしは、正直に言うと、相手の欲望とか願望とかを観察して、それに従う形の関係を作りがちなんですけど」
「なるほど」
正直に話している自分に驚いた。口の中に本音しか喋れない魚が忍び込んでいて、そいつが勝手に喋っているように感じた。
「でも、ブラッドハーレーさんが何を欲しがったり望んだりしているのか、とても見えにくくて。こんなことははじめてなんです。あなた、欲望がないタイプの人じゃないですよね」と、まひろは言った。欲望の匂いはする。だが、その正体がわからない。というのが、彼に対して、まひろが抱いた率直な疑問だった。恋愛感情や性欲とも違う、正体の見えない欲望。
「ええと。けっこう簡単な話だと思う」と、ブラッドハーレーは言った。「ぼくときみが、似たタイプの人間だからじゃないだろうか。きみは他人の中の欲望を探り、それに従おうとすると言う。ああ、そうだな。と思うよ。あいつと、きみの元恋人のことだけど、あいつと付き合っていた時点で、そうだろうなと思う。きみから見て、あいつはどういう人間だった?」
「筋トレとスノーボードが趣味で、世の中や他人に対しては、冷笑的かつ傍観的。にも関らず、そこから落ちこぼれることを恐れて妙に勤勉で社交性が高い。けれども所詮、社会のなかで孤立しないための擬態であり、外装に過ぎない。潜在的な支配欲が強く、極端に言えば所有物しか愛せないし、所有物からしか愛されない。例えば、あなたやわたしみたいに」
思った以上に率直な意見だったせいか、ブラッドハーレーは不自然な声で笑った。
「そう。ちょっときつい言い方な気がするけど、その通りだと思う。なんで別れちゃったの?」と、ブラッドハーレーは言った。
「多分、ほんとうの意味でわたしを支配できないことに気づいたのだと思います。愛による支配が不可能だということに。それで不機嫌になってしまって。でも、愛されないという不機嫌にいちいち付き合う程、暇ではないので」
何故かまた、へへへと笑い声を発し、ブラッドハーレーは何度も頷いた。
「質問を重ねてしまって恐縮なんだけれども、きみ自身の願望は、欲望は、一体なんなんだろう。正直に言って、ぼくもきみと同じような違和感を感じていたよ。このひとは、いったい何を望んでいるんだろうかって」
「わたしたち、お互いの望みを探り合っているんですね」と、まひろは言った。
「西部劇の決闘に例えるとだね。お互いに拳銃を抜いていないんだ。相手が抜くのを待っている」と、ブラッドハーレーは言った。言いたいことは理解できるが、例えとしてはおかしいと思った。
「言っている意味は理解できますけど、例えがおかしいですよ」と、まひろは言った。ブラッドハーレーは恥ずかしそうに顔を伏せて、また「ごめん」と謝った。
「すぐ謝る」と、まひろは言った。ごめん、と言いそうになって、ブラッドハーレーは言葉を呑みこんだ。今にもだんだん小さくなって、サービスエリアの喧騒の中に消えてしまいそうほど弱々しく背中を丸めていた。不意にブラッドハーレーのポケットの中で振動音が鳴った。彼はスマートフォンを取り出し、画面を見て通知を確認した。
「子狸」と、まひろは言った。
「ぼくのこと?」と、顔を上げてブラッドハーレーは言った。
「メール?誰から」
「ええと。あいつからだね」
「なんでひとと一緒にいる時に、スマートフォンばっかり見るの。失礼だと思わないの。ごめんって言わないで。謝るのやめて。ちゃんとこっち見て」
謝ることと目を逸らす事。二枚しか持っていないカードを封じられたブラッドハーレーは、にわかに落ち着きを失った。彼の指が、テーブルの上で世界一へたなピアニストのように動いた。不安の曲しか奏でられないかわいそうなピアニスト。
「なんか、怒ってる?」と、ブラッドハーレーは言った。
「ひとの目を見て話してって、言いませんでしたっけ」と、まひろは言った。ごめん、と言いそうになるたびに、ブラッドハーレーは苦しそうに顔をしかめ、自らの発声を食い止めた。健気な子狸だ。と、まひろは思った。
「うそです」と、まひろは張り詰めていた表情をふっと緩め、やわらかい笑顔になって言った。
「え。ええと。うそってなにが」
「怒ってません。彼はあなたに何て言ってます?」
「じぶんは着信拒否されているので、ぼくのほうから、もう一度話したい旨、きみに連絡してほしいと」
「ブラッドハーレーさんはなんて答えたんですか」
「保留中」どうする?と言いたげな目で、彼はまひろを見つめた。
「どうしたいですか」と、まひろは言った。
「どうしたいって。ぼくの問題じゃない。きみたちの問題だよ」
「あなたには二つの選択肢が残されています」と、ブラッドハーレーの目を見つめながら、まひろは言った。弱々しいみずたまりのような彼の瞳のなかに、瞳孔までぱっちりと開いた彼女自身が映りこんでいた。
「ひとつはわたしと唯一の友達になって、今しつこく連絡してきている、あなた唯一のともだちとの縁をちょっきんすること。もうひとつは、わたしと友達にならずに、あなたを手下のように扱うそいつと、今後ともずっと支配関係の中で友達でいる事」
ブラッドハーレーは、攻撃に備えるように半身に構えてまひろを見た。それでも、言われた通り目を逸らすことはしなかった。
「気のせいじゃなければ、きみもぼくに対して支配的な気がするんだけど」と、ブラッドハーレーは言った。
「どっちがいいかって聞いてるのよ。二万円賭けてもいいけど、わたしといた方が楽しいよ。なんでかはわかるよね」
机の上で、またスマートフォンが震えた。まひろの顔と、液晶画面に表示された友人の電話番号との間で視線を三往復させてから、ブラッドハーレーは画面をスワイプして着信を拒否し、友人の電話番号を着信拒否のリストに入れると、これでいいか?と言いたげな表情で、まひろの反応を窺った。
「それでいい。ねえ、ブラッドハーレー。わたし、あなたが好きだよ。変な意味で」と、まひろは言った。
「ぼくにはわからない。変な意味じゃなくて」と、ブラッドハーレーは言った。額に汗の珠を浮かべていた。たっぷり三十秒、まひろはブラッドハーレーの顔を黙って見つめ続けた。健気な子狸は目を逸らさず、汗の珠がぽたりとテーブルの上に落ちた。テーブルの下で、まひろの靴が、ブラッドハーレーの脛を何度か蹴り、その靴を踏んだ。ブラッドハーレーの足は無抵抗だった。まひろは頬杖をつきながら彼を見つめ、また微笑んだ。
ひとりで暮らすには不自然に広い、オートロック式の清潔なマンションにブラッドハーレーは住んでいた。十二畳ほどの広さの部屋の片隅にパソコンデスクがあり、その対角にすえた匂いのするベッドがあった。在宅でwebの仕事をしているというブラッドハーレーの生活は、主にその対角線を行ったり来たりするものだった。他には、ごみ箱と開梱されていない五箱の段ボールが床に積まれているのみであり、永遠に開業しない謎の事務所のような部屋だった。
「わたしね。半ば家出少女みたいなもんなの。行くところがなくて、あちこち転々としているの。たまに、ここに泊りにきてもいい?」と、まひろは言った。ブラッドハーレーは助けを求めるように、部屋中を一度ぐるりと見回したが、答えは空気中のどこにも書かれていなかった。
「ねえ。噛みついていい?」ベッドから立ち上がり、まひろは言った。答えを待たずに、ブラッドハーレーの二の腕に歯をたて、強く噛んだ。彼は抵抗せず、痛みに身体を震わせて呻いた。湿った音をたてて、ゆっくりと咬合がとかれると、ブラッドハーレーの震えと硬直も一緒にほどけた。自分でつけた歯型の跡を、まひろは唇で優しく撫でた。
「なんで嫌って言わないの」と、まひろは言った。
「だって、きみは噛みたかったんだろう」と、ブラッドハーレーは言った。
平日は主にブラッドハーレーの家から学校に通った。部活動が終わると、コンビニエンスストアで深夜まで働き、制服のままブラッドハーレーの家に転がりむ。いつ行っても、ブラッドハーレーは眠そうな目でパソコンのキーボードをかたかたと叩いていた。
まひろが入室すると、彼はぱたんと仕事を中断した。自分のことは気にせず仕事を続けてくれてかまわない。と、まひろは言ったが、ブラッドハーレーはきっぱりと断った。
「それはできない。きみがこの部屋に来ることで、部屋の人口が一人から二人になる。それは部屋の中が外国化することに等しい。ぼくは外国用の自分にならなくてはならない。言葉も風習も、独りでいる時とは変わる。それは仕事しながらできる事じゃない」と、彼は言った。
「〈気にしない〉ってできないの?独りでいる時と同じように過ごしてくれてかまわないんだけど」と、まひろは言った。
「できればいいんだけど。きみは見知らぬ誰かが銃を持って家に入って来て、気にするな楽にしてくれ。独りでいる時みたいにくつろいでくれ。って言ったら、そうできる?」
「銃なんか持ってないだろ」とは言わなかった。他人に対する緊張が強すぎて、くつろぐことができないきもちはよくわかる。ブラッドハーレーにとって他人は概ね銃を持っており、彼だけが持っていないという感覚なのだろう。
まひろはコンビニエンス・ストアでもらってきた二人分の廃棄弁当を温めなおし、そのうちの一つに甘い缶コーヒーを沿えてブラッドハーレーに与えた。まひろが転がり込んでからというもの、二人の夕食は殆どすべてコンビニエンスストアの廃棄弁当になっていた。最初こそ会食恐怖症から一緒に食事をとることを拒んでいたブラッドハーレーだったが、まひろから「弁当に対する代金と思え」と説得されて諦め、以来一緒に食事をするようになった。二人は床に座り込んで、弁当を食べながら話した。
「わたし、演劇部に入ってるのね。学校で。なんでかって言うと、色んな場面や人間に対応に対応すべく、色んな人格を演じられるようになるためなの」と、まひろは言った。
「なるほど。きみらしいな」と、ブラッドハーレーは言った。
「わたし、すごくがんばってるんだよ。どんな仮面だって作れるようにがんばったの。顧問の先生には、その不自然さを見抜かれて遠回しに叱られるんだけど」
「確かに、三人で呑みに行ってた時と、今とはちがうね。別人みたいだ。あの時は完全に聞き役に徹していたのに、今じゃ喋る喋る」
「そんな昔のことは忘れてしまったけど、自分でも思うよ。今はよく喋るなって。あなたが聞いてくれるから」と、まひろは言った。「ブラッドハーレーは仮面を持ってないね。あなたのような人こそ、かぶるべきなのに。演じているとね、ある程度は緊張が緩和されるよ」
「上手くいかないんだ」と、ブラッドハーレーは言った。
「わたしは、どんな他人も演じられる。だけど自分にだけは、どうしてもなれない」と、まひろは言った。「あなたには自分しかいない。演じようとしても、それができない。どうしても、自分以外の人間になれない。似てる感じするね」
「なるほど」と、ブラッドハーレーは言った。「今のきみも、演じられた仮面なのかな」
「そうだね。ブラッドハーレー用のわたしを演じている。でも、今まで演じてきた色んなわたしのなかでも、今のわたしは結構好きだよ。気に入っている」と、まひろは言った。
付き合った時間や情報の多寡に関係なく、何故か彼の事を詳しく知っている気が、まひろにはした。
見知らぬ国の空港に偶然居合わせた二人の邦人のように。
喫茶店で同じ文庫本を読みながら、隣席で珈琲を飲む、お互いに見知らぬ二人の客のように。
よく手入れされた古いライダースジャケットを着た二人が偶然に街ですれ違う瞬間に、ふわりと舞い上がる革用クリームの香りのように。
瞳孔に秘密の暗号を刻む、尻尾の欠けた二匹の野良猫の、言葉なき集会のように。
交互にその役割を代える、傷と包帯のように。
自分と同じくらいか、それ以上に強い劣等感と人間不信を抱え、しかも無抵抗な人間を見つけたのは、はじめてだった。どのようにして、彼の人格が出来上がったのか知りたいとは思わなかった。一目見ただけで内容の大概が分かってしまうB旧ホラー映画のパッケージの様に、まひろは一目で彼のあらすじが理解できるような気がした。
「どこまで無抵抗でいられるか、試していい?」と、まひろは言った。
「そうしたいのなら」と、ブラッドハーレーは頷いた。
まひろはブラッドハーレーの身体を見たくなった。彼のどこかに自分と同じ刻印が刻まれており、そのために懐かしい匂いがするのだと思った。無抵抗なブラッドハーレーをベッドに引きずり倒し、裸にして縛り上げ身体中を観察してみたが、傷痕らしい傷痕は見つからなかった。仕方がないので、まひろは彼の柔らかい皮膚に歯と爪をたて、あちこちに傷をつけた。痛かったら声を出してもいいよ。と、まひろは言った。歯や爪が皮膚にくいこむ度に、ブラッドハーレーは生温い息を吐いて呻いた。鼻先がくっつく寸前まで顔を近づけると、二人はお互いの瞳に映る自分の姿をじっと見つめた。ブラッドハーレーが目を逸らすと、まひろは爪で彼の乳首をつねりあげ「目を逸らすなって言ってるだろ」と責めた。素直な子狸は、裸眼で太陽を見上げる時の様に目を細め、まひろの眼に映った自分の姿を震える瞳で見つめた。「痛い?やめてほしかったら、やめてっていいな。ちゃんと、自分の口で言うんだ。口がきけなくなっちゃったのか?普段は小賢しいことをべらべら喋ってるこの舌はどうした。ねえ、何か言って。ほら言うの。黙ってたら、ずっとやめてもらえないよ。おまえはずっと大事なことだけ黙ってやがって、だから今、痛い目に遭ってるんだろうが。だいじょうぶだから、聞いてやるから。なんとか言ってみなよ」ブラッドハーレーが弱々しく口を開き何か言おうとすると、まひろはその舌を指で掴んで引っ張った。Eの母音のうめき声しか出せなくなったブラッドハーレーに、まひろはなおも「ほら。欲しいものを言いな。あたしにだけ、今この時だけ言うの。誰にも言わないよ。絶対。二人だけの秘密だから」と耳元で囁いた。舌を掴んだ指から力を抜くと、ブラッドハーレーは震えながら「わから、ない」と言った。ほんとうに分からなかったのだろう。口から言葉を吐く代わりに、目から涙が溢れ出した。まひろは涙の雫を舌先で掬って飲んだ。
「これまでに受けた精神的な痛みを、肉体的な快楽と混合させることによって、中和しようとしている」
あらゆる手段で年下の少女から責めたてられる性行為が終わると、ブラッドハーレーは心理学者の眼鏡をかけ、自分とまひろの性行為を評した。
「わたしは、あなたがして欲しいだろうことをしたまでなんだけど。わたしにとって、セックスもそういうもの。相手の欲しがるものを与えるの。わかるでしょう?」と、まひろは言った。ブラッドハーレーは踏みにじられて射精してしまった後に、何故か必ずセックスの分析と講評をはじめた。五分前まで豚のような鳴き声をあげて悦んでいた男が、豚の鳴声を理路整然と並べなおす様が何だか無性におかしかったが、セックス後の心身の鎮静時間として、まひろはふむふむと彼の話を聞いていた。
「繁殖だけを目的にするならば、事はもっとシンプルだと思うんだ」と、ブラッドハーレーは言った。「単なる繁殖行動に、これだけの多様性が存在するのは不思議なことだと思わないか。ものすごい数のフェティシズムが」
思う。と、まひろは言って、ブラッドハーレーの二の腕を噛んだ。彼は全身を強張らせ、固く目を閉じ、まひろの咬合と痛みが去るのをじっと待った。まひろは、その緊張と弛緩を、肌で感じるのが好きだった。痛みが来て、痛みが去る。他人の身体を通して、それを感じることが。
「きみはセックスに痛みをもちこむ。支配も」と、ブラッドハーレーは言った。
「そうだね」と、まひろは頷いた。「確かに繁殖だけを目的にするならば、痛みも支配も必要ない。でもブラッドハーレー。これは必ずしも、繁殖だけを目的とする行為なのかな」
「ちがうだろう。コンドームの発明は、その証拠のひとつだ」
「じゃあ、何故ひとはセックスをするの」と、まひろは言った。。
「ひとそれぞれだろう」と、天井を見上げながら、ブラッドハーレーは言った。
「ねえ、子狸。わたしの前で、二度とその言葉を使わないで。例え真実だとしても使わないで。わたしをそんな言葉の中に入れないで。そんなつまらないことしか言えない人間にならないで。次に言ったら、もっと本気でひどい目に遭わせてやるからね。あんたを性的に悦ばせてやるって意味じゃなくて」まひろは彼の顔を自分のほうへ向けて言った。まひろには、言われると鳥肌が立つほど嫌いな言葉が二つあった。〈ひとそれぞれ〉と〈普通〉だ。
「世界が腐った理由の半分は、その言葉のせいだとわたしは思ってる。あまりにも個人的な事情に対する礼儀を欠いている。解決すべき問題に向き合うことを先送りにした先がその言葉で、正体はやっつけ仕事のごみ処理場に他ならない」と、まひろは言った。口調こそ静かだったが、怒り狂った猫のように瞳孔が膨らんでいた「その言葉は、一切合切をなかったことにしてしまうの。大きな穴を掘って、埋めてしまえばなかったことになると思っているのと一緒。ねえ、ブラッドハーレー。わたしと話すのが面倒くさいのなら、せめて正直にそう言って。お願いだから、ひとそれぞれなんて言わないで。わたしを穴の中に埋めないで」
喋っているうちに、喉が震えて目から涙が溢れてきた。今、じぶんは本心を言っている。と、まひろは思った。
「ごめん。泣きたくて泣いてるんじゃないの。きもちを、本心を喋ろうとすると、いっしょに涙がでてきちゃうの。悔しいんだけど、自分でもどうにもならない」
「こちらこそ、すまなかった」と、狼狽えながらブラッドハーレーは言った。「二度と言わないよ。抱きしめてもいい?」
「うん」と、まひろは言った。子狸はおずおずと彼女を抱きしめた。
水の流れる場所が好きで、好んで河沿いを散歩した。川の流れる音を聴きながら歩いていると心が安らいだ。まひろが演技することを忘れる数少ない時間だった。水の流れる音を聴き、草の匂いを嗅ぎ、太陽の欠片を飲みながら歩いていると、世界にも自分自身にも何一つ問題がないような気がした。そして、その瞬間だけは本当にその通りだったのだろう。
振り向くと、ブラッドハーレーがのろのろと後ろを歩いていた。眠そうな顔をして、空をゆく渡り鳥たちを見送っている。
「ねえ、あなたって不機嫌にならないね」と、まひろは言った。
「なってほしい?」と、彼は言った。まひろは首を振った。
「不機嫌って嫌い。それを避けるために生きているみたいなもんだよ」と、彼女は言った。
「なんだか不毛な気がするな」と、ブラッドハーレーは言った。
季節になると蛍が見られるという人気のない公園のベンチに座って、まひろとブラッドハーレーはお茶を飲んだ。ふたりの身体を、水音と日光がゆっくりと撫でていった。
「河って好きなの。水の流れるところ。心の錆びを水音と一緒にさらさらと下流に流してくれる気がして。だから定期的に、こうして散歩するの。でもね、一緒に散歩すると、大抵の男の人は不機嫌になるんだ」
心の錆びを河に流している間だけ、まひろが演技を忘れる事がその原因だった。普段は自分だけを見ていくれているはずの少女が一切それをしなくなることに、男たちは不安を感じて狼狽えたのだった。
「期待するから、不機嫌になるんだ。ぼくはきみに期待していない。愛されるわけなんかないから。だから問題ない」
そんなことないよ。と、言いそうになってやめた。愛されたいという期待が、愛されないという絶望を産むことについては賛成だったし、愛されないというラベルの付いた保育器の中にいることによってのみ、彼が安定していることも知っていたからだ。
ある日、ブラッドハーレーは、まひろにアルバイトをやめてもいいよ。と、言った。生活費その他は自分が出すからと。
「嫌」と、まひろは言った。貯金に対する執着があった。弛まぬ労働の結果、まひろの収入と貯金額は母親に生活費を貰う必要がないほどの額になっていた。いつか母親からも見捨てられる日が来るだろうという漠然とした不安から、貯金がないという恐怖に耐えられなかった。
「住ませてもらってるだけで十分だよ」と、まひろは言った。
「学校に行って、演劇部の活動をして、深夜までのアルバイト。テスト勉強して。たまにぼくをいじめて。また身体を壊すよ」と、ブラッドハーレーは言った。確かにまひろは、その過酷な生活によって、しばしば心身を患っていた。自らの健康に対してまったく執着のない彼女は過労や貧血で倒れても、適当な栄養ドリンクで市販薬を流し込んでヨロヨロトと立ち上がり、また学校や職場へ向かった。
「だいじょうぶだよ」と、なんの根拠もなく、まひろは言った。「あんまり空白の時間を作りたくないの。嫌なことばかり考えたり思い出したりしてしまうし、何かしていた方が考えなくて済むからいいの。考えるから怖くなるの」
「それは一種の自傷だよ」と、ブラッドハーレーは言った。
「だったら何だっていうのよ」と、まひろは言った。「仮に自傷だったとして、なんでとやかく言われないといけないの?生きていくためにやっていることを、悪い事みたいに言われたくないんだよ。仮にあんたからお金を貰ったとしても、あんたがいなくなったらどうするんだよ」
いなくならない。とは答えなかった。その時は、また働きはじめればいい。と、ブラッドハーレーは言った。
「ふざけんなよ」と、まひろは言った。「どうせいつかはいなくなるんなら、世話なんか焼かなくていいんだよ」
「心配なんだ」とブラッドハーレーは言った。
「あ。だめ」と、まひろは言った。今から、抑えきれない怒りに飲み込まれるのだという確信があった。閉じ込められた凶暴な何かが、心配なんだという言葉に刺激されて、境界線を越える。傷つけたいと傷つけられたいが混ざり合った、一個の哀願が現れる。
まひろは、椅子に座っているブラッドハーレーの髪を掴み、耳朶を強く噛んだ。呻き声が漏れると、手で口を塞いだ。ガムテープで彼の手足を椅子に括り、アイマスクを被せて視界を塞いだ。ブラッドハーレーの耳朶や、血管の浮き出た首筋や、細い鎖骨。乳首。骨の影が浮き出たあばら。あちこちに強く噛みつく痛みと、優しく舐めさする癒しを交互に与えつつ、謝れ。と責めたてた。なにを?と、ブラッドハーレーは震えながら言った。わたしになにもできないくせに。なにもしてくれないくせに。愛してもいない女に責められて興奮してる変態野郎の癖に。心配してるだなんて見え透いたことを言うな。謝れ。と、まひろは言った。ブラッドハーレーは首を横に振って、嫌だと言った。まひろはガムテープで彼の口を塞ぎ、もう一度耳元に唇を寄せ、謝れ。と囁いた。声を出せなくなったブラッドハーレーの服を剥ぎ取り、長い時間をかけて責めと愛撫を交互に与えた。ガムテープに塞がれた口が、嗜虐と愛玩の間を行ったり来たりしながら何かを叫んでいたが、何を言っていたのかは分からない。
ブラッドハーレーが射精してしまうと、彼の拘束を解きながら、今度ははまひろが謝った。さっきまでの怒りは暴力を伴った性行為の中に溶解してしまっていた。涙声で彼女は言った。
「ごめんね。ブラッドハーレー」
噛みつかれて、あちこち歯型と痣だらけになったブラッドハーレーをベッドに寝かせ、自分もシーツの中に潜り込んで、まひろは彼の肩に顔をうずめた。
「心配してくれてありがとう」と、まひろは言った。ブラッドハーレーは緊張と弛緩を不自然に強いられて疲弊しきった身体をベッドに預け、かろうじて動かせる左手で、まひろの頭を撫でた。殆どの怒りと痛みを余さずセックスに換えて吐き出してしまった後、それらに閉ざされていた本音が涙といっしょに、まひろから溢れ出していた。
「でも、心配されることが怖いの。自由にしていいって言われるのも。わたしは一日に数回の頻度で電流を流されることを前提に育った、檻の中の従順な小動物なの。誰かが檻を開けたとしても、外へ出ることが怖い。ずっと檻の中で暮らしてきたのだから。それに、檻を開けた奴の正体も不明。そいつが毎日、電流の流すスイッチを押していた奴の正体かもしれないのに」と、彼女は言った。
「〈信じられない〉という檻のなかで暮らしているんだな」と、ブラッドハーレーは言った。
まひろは返事の代わりに、ブラッドハーレーの肩を噛んだ。痛みが、繋がった二人の身体を駆け巡り、そしてゆっくりと去った。
「ブラッドハーレーは、痛いの好き?痛くされるの」
「きみが、痛めつけるのを好きなのかと思って」と、ブラッドハーレーは言った。
「あなたが、痛めつけられるのが好きなのかと思ったの」と、まひろは言った。ふたりは顔を見合わせて、くすくすと笑った。
その頃の二人は、向かい合う二枚の鏡のようだった。鏡は日に日に接近した。互いの欲望を自らの表面に映し、反射しあう鏡は、長く見つめ合うにつれて、自分と相手の境界を失っていった。
欲望は、鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中の鏡の中鏡の中鏡の中の鏡の中鏡の中鏡の中鏡の中鏡の中鏡の中鏡の中鏡の中の鏡の中で混ざり合い、それが最初どちらのものだったのか、もう区別がつかなくなっていた。
永続する鏡の中の鏡に、二人は落下していった。彼は彼女の。彼女は彼の。お互いの瞳を、底のない奈落のようだと思った。
ブラッドハーレーがいなくなってなってしまってからのほうが、より彼といっしょにいる気がしたし、彼のことを理解できる気がした。何故取り残されたのかを考えてることによって、まひろは自分と彼について、繰り返し考えることになった。
例えば、ブラッドハーレーの心配と扶助を受け入れ、深夜までのアルバイトを辞めて、安らかに彼のマンションで暮らせばよかったのだろうか。だが、それはできない。父親がそうだったように、いつ彼が自分の前から消えるかわからない。去られることに怯えて生きていくことには、もう耐えられない。
それとも、涙を見せたのがいけなかったのだろうか。涙を流しつつ、本音を打ち明けた相手はブラッドハーレーがはじめてだった。受け入れられたと思った時に流れる滂沱は、一種の快感を伴った排泄となり、まひろは好んでヒステリックに泣き喚いた。入り口は大抵、怒りだった。むしろ怒りは、涙を流すための手段として用いられた。自分のトラウマやブラッドハーレーの性格に怒りながら言いがかりをつけると、涙と本音の蛇口はいとも容易く開かれた。十分に泣き喚いてしまうと、まひろはブラッドハーレーを拘束し、立ち上がれなくなるほど激しく性的に責め立てた。涙とセックスが混ざって射精のなかに溶けてしまうと、事後に束の間の安堵を得ることが出来た。泣き喚くこと。支配的なセックスをすること。果てた後に安堵すること。そのどれが欲しくて繰り返された行為なのか、わからない。泣き喚くまひろを前にすると、ブラッドハーレーははいつも困った顔をして彼女を見つめた。罠にかかって後足から血を流す野兎を哀れむような、悲しげな目。あの顔が見たくて、何度も追い詰めてしまった。
「自分の痛みを、快楽と攪拌してごまかしているだけだ」と、ブラッドハーレーは拘束具を解かれながら言った。射精してすぐ、セックスについて分析をはじめる人だった。
「きみはぼくを責めることで、ぼくのなかに自分の痛みを放り込んでいる。ぼくはきみに責められることで、自分の憎しみを代行してもらっている。痛みや憎しみを、性的な快楽に溶かして、その場しのぎの水溶液を作り際限なく飲み続けている」
「繁殖のためではなく?」と、まひろは訊く。
「痛みや憎しみによって、繁殖しようとする種類の生き物もいる」と、ブラッドハーレーは言った。
「なんだか、悲しい話に聞こえる」と、まひろは言った。
「ぼくもだよ」と、ブラッドハーレーは言った。それが余りにも悲しすぎたからかもしれない。
母親から、長文のメールが送られてきた日だった。愛してるって何?っていう件名の件名のEメールは、家に寄り付かない娘が何を考えているかわからないに始まり、父親もそうだったという戸惑いを経由して、わたしが悪い。死んだ方がいい。に着陸し、血まみれの拳の画像が添付されていた。一週間ぶりに家に帰ると、洗面所の硝子が割れていた。まひろは硝子の破片を拾い集め、家のなかのごみを分別し45Lの袋二枚にまとめた。仕事を終えて帰宅した母親は、久しぶりに顔を見せた娘を抱きしめた。首筋から疲労の分泌物と蓄積したアルコールの混じりあった匂いがした。利き手に包帯を巻いていた。酔って鏡を殴ったらしい。
自分の人生は無意味だった。と、涙ながらに話す母親を二時間かけて慰め、彼女のグラスに際限なく酒を注いだ。あんたが家にいたがらないのは、あたしのせいよね。と、母親は言った。死んだ方がいいよね。まひろ。あたしはいない方がいいでしょ?その方が、あんたも幸せでしょ?
そんなことないよ。ばかなこと言わないで。と、まひろは言った。酔うと、母親はまひろに否定を求めた。意味のない人生。自堕落なアルコール依存症。家族に見捨てられたシングルマザー。母親の提示する称号を、ひとつひとつ否定していくのが、その時期まひろに課せられていた仕事の一つだった。
(自分自身を他人に委ねることで責任を回避する代わりに、世界の心臓とでも呼ぶべき大事なことを対価として支払っている。それほどまでに「わたしには責任がない」と主張したいのだ)
まひろの中の、内なるブラッドハーレーがそう言った。その頃、心の中に小さな理屈屋を住まわせ、彼の言いそうなことを想像して葛藤をやり過ごすという癖がついていた。
(気にすることはないよ。親もまた、完璧じゃない。弱い一人の人間に過ぎないんだ。囚われる必要はないよ)
自分は価値のない人間だ。誰も私を愛していない。産まれてくるべきじゃなかった。意図して自らを否定する言葉を吐き続ける母親を慰めながら、まひろにしては珍しく、ハイボールを数杯飲んだ。酒を飲みすぎることは好きではなかった。翌日に頭痛と後悔が残るし、高揚感のせいで演技の精度が落ちる。何より、泥酔して自他を責める母親の姿が好きではなかった。酒を飲むことでしか得られない正直さになんの価値があるのだろうと思っていた。そんなものは正直さと言うよりも単なる極端さに過ぎない。
「ねえ。付き合ってるひととか、いるの?」と、母親は言った。酔うと必ずされるその質問に対して、まひろは常に「いないよ」と答えてきたが、その夜は濃く作りすぎたハイボールのせいか不都合な質問をやり過ごす演技が二秒半遅れてしまった。それだけの誤差から母親は、彼女独特の鋭さで娘の答えを察知した。
「どんなひと」と、母親は言った。
「バイト先の先輩の友達で、少し変わり者」と、仕方なく、まひろは答えた。二秒半の隙間、頭の中をブラッドハーレーの姿が横切っていた。
「まひろ。あたしみたいになりたい?なりたくないよね。やめときな。あんたは向いてない。男と付き合うの、向いてないんだよ。あたしが育てたんだからわかるの。あんたは搾取される側。男から奪われ続ける側。あたしがそうだったみたいに」と、母親は言った。
「お母さんは、何を奪われたの」と、まひろは言った。
「一言でいえば、時間」と、母親は言った。「あたしは尽くしたよ。あんたの父親が、風俗だの職場の女だのに金を使っている間も、あんたのために努力した。家を守ろうとした。でも、駄目になった。あんたも知っての通り。元旦那に対しての恋愛感情なんて、あんたが産まれてすぐ枯渇してたよ。最初の浮気が分かったあたりの頃かな。それでも、あたしは家事や子育てをちゃんとしてた。恋愛感情はなかったとはいえ、家のために働いてくれるあの人のために、普通の奥さんでいようとがんばったよ。普通なら、そこで即離婚でしょ?でもあたしは、あんたが二十歳になるまではって決めたの。思ってたより五年ばかり早まっちゃったけど、それでも相当がんばったのよ。がんばったでしょ?」
どうして母親はその努力や人間性を他人に認めてもらいたがるのだろう。と、思いながら仮面を被り直し「がんばってくれたよ。お母さん。ありがとう」と、まひろは言った。
「あたしの方こそありがとう。まひろ。あんたがいてくれてよかった」と、母親は顔をくしゃくしゃにして涙を零した。
「ねえ。今からだって遅くないよ。お母さんが、わたしのために使ってくれた時間で出来たであろうことを、これからしてね」と、微笑みを作ってまひろは言った。
「もう遅いよ」と、母親は言った。「もう若くないし、やりたいことをやる気力もない。あんたを大学にやるためのお金もいるしね。元旦那からお金は貰ってるけど多くはないし、仕事の方も大変だし。あたしに自由になる時間なんて殆ど無いも同然だよ」
その通りだ。記憶がなくなるほど飲んだくれる時間も必要だ。と、まひろは思った。自由になる時間なんて殆ど無い。
酔った母親の愚痴や詰問によって、まひろの身体中に見えない傷がいくつも刻まれ続けた。
いつもより多く飲み、多くの涙と愚痴を吐露した母親を寝かしつけ、トイレで胃の中身を吐いた。酒を飲んだ後の嘔吐は、普段よりも酸っぱい苦痛を伴った。
まひろは台所を片付けてから、シャワーを浴びた。裸で浴室に立ち、ぬるいシャワーに打たれながら、剃刀で身体の二カ所に×印を描いた。鎖骨の狭間と、臍と陰部の狭間。痛みと、その色彩が具体的な形となって、傷の交差点から流れ落ちていった。
新しい傷跡を見て哀しそう表情を浮かべつつ、何も言わずに舌先で傷痕をなぞるブラッドハーレーの姿が思い浮かんだ。透明な傷痕に着色しているだけだ。と、彼女は反駁する。なかったことにされるわけにはいかない。皮膚と肉を切り裂くという具体性を与え、血の赤さと液性を与えることによって、痛みははじめて現実を帯び、まひろから排出される。「なかったことになんて、ならない」と、浴室の鏡を見ながら、まひろは呟いた。
流血と眩暈とシャワーの雫が混ざり合う浴室を、這いずるように脱出した。悪い酔い方をしたと思った。世界中の硝子窓が耳元で割れ続けており、すべての破片に引き裂かれた自分の姿が映りこんでいた。砕かれることによって硝子は、彼女の影を破片と同じ数だけ増殖させていた。
廊下の向こうの寝室から、母親の鼾が聴こえた。まひろは、はじめて家出した十三歳の夜にいる気がした。あの夜からずっと、この家に閉じ込められている。仮面を次々に換え、彷徨って家に寄り付かなくなり、自分と似た男の恥部に歯をたてている間にも、十三歳の少女が独りずっと、暗い夜の廊下に置き去りにされている。
壁に飛んだ自分の鼻血をかいくぐり、硝子の破片が散乱した薄暗い廊下を抜けて、月光の差し込むリビングを見たくなった。あの夜、破壊された家の中を静かに照らしていた月光をもう一度浴びることによって、生まれ育った場所が既に壊れているという事実を、もう一度確認したかった。
さっき刻んだばかりの傷口が熱を持って点滅し、何かを伝えようとしていた。まひろは苦労して着衣の仕方を思い出し、脱衣所に脱ぎ散らかした服を再び着直した。いつの間にか、母親の鼾声が止んでいた。壁に手をついて廊下に出ると、自分と同じくらいの背格好の女が暗い廊下に立っていた。最初、母親かと思った。
「お母さん?」と、まひろは言った。
「お母さん?」と、人影は言った。
まひろが一歩足を踏み出すと、人影も一歩足を踏み出し、接近した。もう二歩踏み出すと、人影もやはり、同じだけ接近した。その姿は母親の様にも見え、幼いまひろの様にも見え、物心ついた時から家の中に充満していた壊れるという予感の集合体にも見えた。その瞳は月光の様な酷薄さをたたえており、瞳孔は白骨化した感情の表面だった。
「わたしは、なかったことになんか、ならない」と、人影は言った。まひろの傷口がさらに疼いた。
「わたしを見て」
と、人影は言った。酔って焦点の合わない目を可能な限り見開き、まひろは人影を見ようとした。だが、幾重にも重なった影絵のような姿は乱れて像を結ばず、それが誰なのかは遂にはっきりとわからなかった。
もっと傷つけなければならない。と、まひろは思った。さもなければ、なかったことにされてしまう。誰に向けてなのかもわからない強い怒りが、引き裂けと、まひろに囁いた。透明な傷口の中で小さな囚人たちが暴れているかのような、耐え難い痛みが炸裂した。さっき吐いてしまったせいで、胃の中に内容物は残っていないにも関らず、まひろはもう一度嘔吐したいと思った。身体中に反響している引き裂けという声を酸っぱい胃液にして吐き出すか、さらに 流血に混ぜて排水口に流してしまいたいと思った。一瞬、洗面台の剃刀や、新聞紙にくるまれた鏡の破片に目をやったが、怖くて手に取ることができなかった。これ以上、怒りを誰かの肉体に転写したなら、致死量の血が流れてしまう。
髪の毛を乾かすこともせずに荷物を持って家を出て、下を向きながら逃げるような早足で駅へと向かい、電車に乗った。終電に近い上りの電車には殆ど乗客がいないにも関らず、息苦しさを感じた。過呼吸の兆候が出ていた。爪が食い込むほど強く握った拳を膝の上に置いたままうつむき、まひろは顔を上げることが出来なかった。汚れたコンバースのの爪先だけを見ていると、自分がどこに向かっているのか、わからなくなった。高速で回転するメリーゴーラウンドの中に、独りだけ残されているようだった恐怖を覚えた。自分と乗り物が移動しているのか、それとも静止した自分の周りを風景だけが高速で回転しているのか、区別がつかなくなりはじめた。
同じ車両に乗っていたスーツ姿の男性客が「だいじょうぶですか?」と、まひろに声をかけた。下を向いて自分の不安に没入していたまひろは不意を突かれ、驚いて顔を上げた。上手く表情を作ることができなかった。こういう時、どんな演技をすればいいんだっけ。と、思った。どうしても思い出すことができず、その瞬間の地球上で最も不自然な笑顔を作り、まひろは黙礼をした。
ささやかな間接照明だけを点けた薄暗い部屋で、パソコンに向き合って仕事をしていたブラッドハーレーは、まひろが玄関の扉を開けると、半身で振り向いて「やあ」と言った。数ある二人の暗黙の了解のひとつとして、お互いに「おかえり」と言ったことがない。ブラッドハーレーは、まひろを一瞥してモニタに向き直ったが、すぐに何かに気づいたように再び振り向いて、まひろを見た。血の気ない真っ白な顔をした少女が玄関に立ちつくし、ブラッドハーレーを見つめていた。一瞬、見知らぬ少女かと思った。その時、彼女はいかなる仮面も被っていなかった。
まひろは立ったまま靴を脱ぎ、音もたてずに傍に寄ると、ブラッドハーレーの頬に両手を沿え、その目をじっと覗きこんで、まばたきをせずに「愛してるって何?」と、言った。反射的に怯えた顔になったブラッドハーレーの手足をガムテープで椅子に固定し、長い時間をかけてキスをした。唾液のなかにたっぷりと呪いを含ませて、彼に飲ませた。舌も指先も冷えきったまひろの肌からはマネキンのような無機質の匂いがした。
見られることを嫌って、ブラッドハーレーに黒い布の目隠しをした。普段よりも強い苦痛を与え、同量の愛撫で苦痛を攪拌した。目隠しされたブラッドハーレーは何度もまひろの名を呼んだ。いつもは耳元でずっと彼を責め続ける柔らかい真綿の様な声が、その日はまったく聴こえなかったからだ。まひろ。まひろ。お願い、なにか言って。どうしたの。何かあったの。まひろでしょ?きみはまひろだよね?
まひろは答えずに、彼の身体中に歯形を付け、その起伏を舌先でなぞることを繰り返した。耳の軟骨をこりこりと噛み、耳孔に舌を突っ込んで唾液を塗して掻きまわした。千切れるくらいに指で抓った後、掌を羽毛のように柔らかく使って撫ぜた。
かすれた声で自分の名を呼ぶブラッドハーレーを黙らせるために、ショーツを脱いで丸め彼の口の中に突っ込んだ。痛みと愛撫によって無抵抗になり、見ることも喋ることも出来なくなったブラッドハーレーの姿を見下ろすと、ようやくまひろは僅かな安心を感じた。拘束された彼に跨り、その頭を抱いて、まひろは静止した。犬を撫でるように、ブラッドハーレーの頭を掌で撫でた。
「なにが欲しいのか言って、ブラッドハーレー。痛いのがいい?きもちいいのがいい?両方だよね。どちらもぐちゃぐちゃに咀嚼して口移しにしないと食べられない赤ちゃんだもんね、あんたは。ねえ、愛していないって言って。十回言うの。ちゃんと言えたら、あんたの欲しいものをあげる。もっと痛くして、もっときもちよくしてあげる。愛していないって言いなよ」
そんな責め方をするまひろは、はじめてだった。それを持ち込まないという暗黙の了解が破られ、愛という言葉が部屋に持ち込まれたのも、この時がはじめてだった。いつものように、相手の欲しいものを与えるセックスではなかった。自分の欲しいものも、相手の欲しいものも見失ったまま、彼女は彼を責めた。まひろの胸に顔を埋めたブラッドハーレーは、愛していないと言えと責められて、呻きながら何度も首を横に振った。
「そうよね」と、まひろは言った。「わたしが全部悪いの。わたしが生きていることがいけないの。ただ普通でいるということが、どうしてもできないから。ブラッドハーレー、聞いてる?わたしはいないほうがいいでしょう?死んだほうがいいでしょう?そのほうが、あなたもみんなも幸せでしょう?」もう声色は性的な柔らかさを帯びていなかった。人工音声の抑揚にかけた音読が、まひろの身体を通して再生されているかのようだった。
被虐と愛撫の間をさまよい、緊張で硬くなっていたブラッドハーレーの身体から、ふっと力が抜けた。彼はその気になればいつでも解ける拘束から右手を抜き、口に突っ込まれた彼女の下着を吐き出し、視界を塞いでいた目隠しをずらした。
まひろはブラッドハーレーの耳元から唇を離して、彼の顔を見た。いつものように被虐に悦ぶ子狸の顔をしていなかった。遠い国の戦災の報道でも見るような、憐れむことしかできない無力な目が、まひろを見つめていた。家から出て行った時の父親の眼にそっくりだと思った瞬間、怒りに駆られて右手を振り上げていた。まひろは産まれてはじめて、憎しみをこめて他人の頬を平手で打った。
掌から伝わる音と振動と痺れを通じて、まひろは自分の脳とブラッドハーレーの脳が激しく接続されているような錯覚を覚えた。それは浴びることによって自我を奪う爆風に似ていた。何に対して怒っているのか考える間もなく、彼女は轟音と爆風に呑み込まれて暴力そのものになった。華奢な少女に組み敷かれ、殴られ続けたまま、ブラッドハーレーは憐れむような目をやめなかった。無抵抗な男の鼻孔から血が溢れ出し、打たれる衝撃で赤い雫が壁に飛んだ。右手の感覚がなくなるまで殴ってしまうと、暴力がまひろの身体から、波が引くようにすうっと離れていった。息切れの向こう側に、見たことのある表情が見えた。抵抗することを諦め、なすがままに暴力の終わりを待ちながら、努めて苦痛を否認する。あれはわたしだ。と、まひろは思った。壁に貼りついた自分の血を見ながら暴力の終わりを待つブラッドハーレーの姿は、かつて母親に殴られていた時の自分そのものだった。
ちがう。という言葉が浮かんだ。わたしがやったんじゃない。とすら思った。だが、それを口に出すことを理性が阻んだ。わたしがやったんだ。と、引き裂かれた彼女は認めた。わたしが、怒りにまかせて無抵抗な人間を殴ったのだ。
ごめんね何故違う悪いすべてわたしが悪く分からない。口に出す言葉が見つからなかったが、それが言葉の過剰によってなのか、欠乏によってなのか、判断がつかなかった。代わりに、自分では開けることの出来ない扉が何処かで開き、中から嗚咽が溢れてきた。部屋自体が泣いているような、低く震える嗚咽がしばらくの間続いた。涙が、ぽたりぽたりとブラッドハーレーの胸に落ちた。
やがてブラッドハーレーの手がまひろの肩を抱き寄せると、二人の身体はぴったりと重なり合った。冷たい石のように硬くなったまひろの身体が、彼の胸に抱かれて震えていた。鼻血を拭って赤く染まったブラッドハーレーの掌が、こどもを落ち着かせるようにまひろの頭をゆっくりと撫でた。
「ごめんね。ブラッドハーレー」と、まひろは言った。彼女の体温がゆっくりと戻りはじめ、伴なって身体の震えが止んだ。無抵抗なブラッドハーレーを、力の限り何度も殴った右手が痺れていた。
「謝らなくていい」と、ブラッドハーレーは言った。一時的に暴力に部屋を明け渡していた静寂が戻ってきた。換気扇と空調とパソコンのファンと秒針の音が平常運転を再開し、静かに鳴り響きはじめた。
「やっぱり、だめになってしまうんだよ。わたしの言った通りだし、あなたの言った通り」と、まひろは言った。「わたし、いなくなったほうがいい?死んだほうがいい?」
「他人に決めてもらってはいけない」と、ブラッドハーレーは言った。まひろは彼の肩を軽く噛み、うん。と、言った。
「子狸」と、小さくまとめた恨めしさをこめて、まひろは言った。ブラッドハーレーが、なすがままに打たれ自分を怒らないこと。それができないまひろの性格を知った上で、他人に委ねるなと忠告をすること。マゾヒスティックな優しさに似た性癖がまひろを包み込む反面、自分からは決してまひろを求めてこない事。それらに対する恨めしさをこめて彼を呼んだ後、まひろは言った。
「わたしを愛している?」
永遠を凝縮したような沈黙が部屋の中に流れ、秒針の音がますます大きく鳴り響いた。
「愛していない」と、ブラッドハーレーは言った。
「うん」と、まひろは言った。愛されない。という不安が現実化することは、たびたび彼女を安堵させた。
「ぼくはきみの言う通り、虐められて悦ぶだけの変態で子狸だから。少なくとも、きみが欲しがるようには、きみのことを愛していない」
「虐めてもらえるから、わたしといっしょにいたってこと?」
「すべてがそうではないけれど、間違ってはいないね」
「変態。子狸」と、まひろは言い「狂犬。小娘」と、ブラッドハーレーは言って、お互いに事実を認めた。
「ねえ、ブラッドハーレー。わたしがなにを欲しがっているっていうの」と、まひろは言った。
「きみが今まで探していて、これからも探すもの」と、ブラッドハーレーは言った。
「それはなになの?」
「真実の愛」
まひろはブラッドハーレーの肩に顔を埋めたまま、思わずくすりと笑った。笑うな。と、ブラッドハーレーが言った。静かだが、有無と言わせぬ強い口調で、彼のそんな声を聴いたのは、この時が最初で最後だった。
「嘲笑うな。まひろ。きみはこれから、ずっと探し続けることになる。きみのお父さんも、お母さんも探していたものだし、たくさんの人達が探している。これは、本当のお話なんだ。だから、嘲笑ってはいけない」
「子狸」と、まひろはもう一度言って、ブラッドハーレーの肩を甘噛みした。
〈愛していない〉と〈真実の愛〉。その二つを残して、彼女の子狸は姿を消した。
静かに。速やかに。淀みなく。物音と気配をたてず。ブラッドハーレーは転居した。それは転居と呼ぶには、あまりにも痕跡に欠けており、まひろは消失と言う言葉を、一連の別離にあてた。いつか彼が自嘲気味に自称していたように、人間関係リセット症候群のプロフェッショナルであったことは間違いない。
まひろが自分を見失ってブラッドハーレーを殴った夜から、二日後の夕方のことだった。前日、まひろは母親に呼び出され家事と雑事のために実家に帰宅していたので、彼の消失はその僅かな一日余りの時間で行われたことになる。
合鍵を使って部屋の扉を開け、予告もなしに、まひろはその空洞と邂逅した。いつかいなくなるという予感が一瞬で集成し、空っぽの部屋の形になって彼女の眼に飛び込んできた。なるほど。と、彼女は呟いた。すべての扉と戸棚を開けてみたが、書置きはもちろん、人間がそこに暮らしていたという痕跡の欠片すら見つけることができなかった。
梱包されていない五箱の段ボールが無造作に積んであった辺りに、傾き始めた陽の光が、硝子窓の矩形に切り取られて落ちていた。まひろはその中に座り、ブラッドハーレーのことを考えた。意識的にお互いの素性について話さなかった。年齢はもちろん、誕生日や血液型も知らない。知っていることと言えば、性癖と、お互いの抱える漠然とした孤独が殆ど全てだった。空洞化した部屋の空気を見渡し、深く吸いこんで、ブラッドハーレーなんて人間は最初からいなかったんじゃないかと思った。
まひろは部屋の壁の隅、二日前の夜にブラッドハーレーの鼻血が飛沫した辺りを調べた。血痕は丁寧に拭き取られていたものの、よく目を凝らしてみると、それは微かな黒い染みとして壁に残っていた。染みこんでしまった血痕を消すのは、容易ではないのだ。
なかったことになんてならないよ、ブラッドハーレー。と、まひろは心の中で呟いた。
スマートフォンに残されたブラッドハーレーの電話番号。メールアドレス。いつの間にか暗記してしまったバイクのナンバー。追跡の手がかりが全くないわけではなかったが、まひろは彼を追うことをしなかった。一方的に関係を断ち、痕跡を消していなくなる。まひろ自身も幾度となく繰り返してきた人間関係の切断歴と照合して、追って来てほしくないだろうと推測した。
ブラッドハーレーが何も言わずに姿を消した理由は、まひろにはわからなかった。見当たらないのではなく、思いつく理由がありすぎてわからなかったのだ。彼の消失を責めることはできないと思った。まひろは、一つ一つ納得のいく理由を、自分自身に挙げることが出来た。
人間と社会に対しての怯えの強い男だったし、そのために本来誰かと同居しつつリラックスできる性質を持っていなかった。ノーと言えない気の弱さとマゾヒスティックな彼の性癖につけこんで転がり込んだのはまひろの方からだし、その少女が数カ月の同居を経て激情型のサディストへと羽化し、さらに二人が保っていた距離感の一線を越えようとしてきたことは、彼に消失を決意させる理由としては十分だっただろう。
子狸は山へ帰ったのだ。と、思う事にしつつ、やはり心の一部にブラッドハーレーの形の穴が開いた。ある種の別れは、人間の心に空洞を与えてしまう。去ってしまった者の形に空いた空洞を、残されたものは反芻と補修によって保ってゆくしかない。それが愛であるにせよ、憎しみであるにせよ、忘れることができないという点では同じだ。あるいは、そのような空洞化の重なりによって心という形が彫像されるとすら言える。ブラッドハーレーの消失によって、まひろが学んだのはそういうことだった。とりかえしのつかない空洞を抱えて生きていくこと。
だが、当時のまひろには「なかったことになんてならないよ」と、呟くことしかできない。最終的に、消失したという結果のみが全てなのだ。と、結論づけ、まひろは結果以外について深く考えることをやめた。彼はいなくなり、自分は残される。空洞がすべてを持ち去った。ただ、それだけのことなのだ。そのように自分を納得させ、以前の生活へと戻ろうとした。だが、余りにも強引な事後処理は、そううまくはいかなかった。すべての物事が、結果論だけで成り立っているわけではなかった。
ブラッドハーレーの消失によって、まひろに幾つかの変化があった。それは劇的にではないにしても、消失前/消失後という線引が出来る程度には、まひろを変えた。
体重が減り、今まで以上に周囲から心配されるようになった。だいじょうぶ?だとか何か怒ってる?と言われることが増えたことは、本人にとって心外だったが、この頃のまひろには他人にそう思わせる病的な青白さと、刺々しく張り詰めた雰囲気があった。周囲からすれば突然の変貌に見えたが、もともと演技と努力によって覆い隠していた病や棘が、一時の喪失感による綻びから表出したに過ぎない。
演技の精度が落ちた。演じることによって、自分と言う存在を塗りつぶすことが出来なくなり始めた。何をどのように演じていても、消えてくれない一人の少女が、まひろの中に残った。責めるような目で彼女に見つめられると、どうしても演技に集中することが出来なかった。演技力が落ちた。と、まひろは自覚したが、周囲の反応はその限りではなかった。演劇部の顧問の老教師は、ひとりで演じることをやめたのか。と、まひろに言い、その演技を褒めた。それでいい。周りの望む姿にならなくていい。と、老教師は言い、次のコンクールに向けて主役級の役をまひろに当てがおうとしたが、その矢先に、まひろは受験に専念したいという建前と共に演劇部を退部した。
同級生に声をかけられることが増えた。それまでは、率先して部活動と勉強と委員会と雑務をこなすことで人付き合いの希薄さを意識的に保っていたまひろに空白の時間が増えたことが原因だった。何をするでもなく、教室でひとり本を読んでいるまひろに、同級生たちが話しかけた。まひろは、仮面を作ることが出来なくなっている自分に気づいた。相手が何を望み、どう反応すればいいのかが、それまでのように瞬時に判断できなくなり始めた。数人の友人らしきものが出来かけたが、やがて居心地が悪くなってしまい、卒業可能な最低限の出席日数を計算した上で、それ以上は学校に行かなくなった。
ころころと居候先を変える捨て猫のような生活の中、週に一度は帰宅して母の愚痴などを傾聴し彼女のガス抜きをするという生活サイクルは変わらなかったが、そのどちらも前と比べて上手くいかなくなった。相手の欲望を叶える鏡のような振る舞いに亀裂が入り始めた。まひろに向けて「愛している」と言う男たち。「わたしは誰からも愛されない」と泥酔して泣く母親。どちらに対しても、今までのように慈悲めいた反応を示すことが出来なくなったばかりか、血がすうっと冷たくなっていくような冷たい怒りを覚え、無表情で黙りこくってしまうようになった。男たちは戸惑い、母親は怒って酒瓶を壁に投げつけて割った。
操り人形の操り糸がぷつんと切れてしまったような気分だったが、操り糸と人形のどちらが自分だったのかはわからない。
かりそめの安穏が保てなくなってからわかったことは、だからといって何も困りはしないという事だった。
壊れるべきものは、壊れるんだ。と、まひろはもう一度思った。だから、わたしも壊れるんだ。そう付け加えた。
養育費の受け渡しについて、どうしても話したいことがあるので母親に内緒で面会したい。と、父親から連絡があった。両親の離婚以来、二人が顔を合わせたのは、まひろの十六歳の時と十七歳の時の誕生日の二回だけだった。
父親が面会日に指定した日付は、まひろの十八歳の誕生日だった。学校の傍のカフェで、父親は娘に誕生日プレゼントを渡した。現金三万円の入った封筒。何が欲しいのかわからなかったから。と、彼は笑った。父親は会うたびに小さくなっているように見えた。実際には自分の方が成長したのだと知りつつも、身体以外に一体どこが成長したのかを自覚することが、まひろにはできずにいた。
娘を置き去りにして家を出たという負い目のためか、彼女の前で父親はいつも、罪人のような表情をしていた。後悔と諦めに満ちた悲しげな顔。まひろの方も、彼の顔を見て同情的な看守の気持ちになった。
二人は会う度にお互いの小さな朗報を投げ合う、ぎくしゃくしたキャッチボールをした。期末テストで学年8位だったよ‐ポール・マッカトニーの来日チケットが取れたよ‐貯金額が100万円を超えたよ‐健康診断の結果、悪いところがひとつもなかったよ‐小型自動二輪の免許を取ったよ‐猫を拾ったよ。片足が悪い猫なんだけれど、寒い夜はいっしょに眠ってくれるよ。
母親の話題は最低限以上に口に出さず、お互いの安穏を喜び合う事は白々しさに満ちていたが、それでも二人にとって必要な様式だった。親しく近い関係には戻れないけれど、自分の手の届かない場所で幸福に暮らしていて欲しい。そんな泡のような願いをこめて、二人はいい話だけを報告しあい、それが尽きてしまうと「じゃあ元気で」と言って別れた。もちろん、いいことしかない人生はないことはお互いに承知している。だが、二人とも意図的にカードの裏側を見ることをしなかった。
だが、十八歳の誕生日は違った。家族の眼を直視することが殆ど出来なかった父親が、震えながらじっとまひろを見つめて、しきりに口で呼吸していた。なにか言いたいことがあるのだろう。なんてわかりやすい人なんだ。と、まひろは思った。
「再婚しようと思っているんだ」と、父親は言った。決意に満ちた声色は、真昼のカフェのざわめきを貫いて、まひろの鼓膜に無事着陸した。
「そうなの」と、まひろは言った。他に言葉が見当たらなかった。
「母さんのことを、まひろにだけ任せてしまって申し訳ないと思ってる」と、父親は言った。「反面、まひろが母さんの傍にいてくれて安心もしている。ぼくではだめだったからね」
離婚以来、父親が母娘の関係について言及するのははじめてで、途端に知らない人と話しているような気分になった。悪臭のなかに自分を置き去りにし、その後ほったらかしにしておいて、勝手なことを言う。とは思いつつも、まひろは祝福するように微笑んだ。期待することもされることも諦めて家に寄り付かなかった先代の捨て猫が、再婚というきっかけを通して娘の眼を直視する小さな勇気を振り絞れたのは微笑ましいことだと思った。
「お父さんは、何故お母さんと、結婚したの」と、まひろは言った。父親はまひろからいったん視線を外し、そこに質問の答えが書いてあるかのように、珈琲の表面をじっと見つめた。
「その時は、それがいいことだと思ってたんだ。でも、上手くいかなくなった。お母さんには、お母さんの期待があったんだ。いい家庭を築きたいってずっと言ってた。いいお母さんになりたい。いい人になりたいんだって。結婚してから気づいた。お母さんは、自分の期待と結婚したんだ。そして、ぼくはそれに応えらず、お母さんを傷つけてしまった。ぼくが悪かったんだ」と、父親は言った。
「どちらのせいってことはないんじゃないかな」と、まひろは言った。「壊れるべきものは壊れた方がいいんだよ。そして、甦るべきものは甦る。そうやって世界は続いていくんだよ。壊さないための努力が寧ろ不自然なことだって、たくさんあるんだ」
父親は口をぽかんと開けて、驚いた顔をして娘を見た。
「まひろ。そんなふうに思ってたのか」
「親は親で、ひとりの不完全な弱い人間だっただけだ。って、飼ってた子狸が言ってた」
「とてもそのとおりで、返す言葉もないけど、子狸を飼ってたの?」
「いや。わたしも飼いきれなくなってしまって。山へ帰ったよ。再婚のお相手はどんな方?」
「優しい人だよ」と、父親ははにかみながら言った。「安心できる。まひろと同じくらいの齢の息子さんもいて、その子もいい子だ。彼女に会って、世の中にこんな優しい人がいたのか。と思ったよ。ぼくは今まで、とても息苦しい世界で暮らしていたんだなあって。今は呼吸が出来る。今までは片肺しか使っていなかったみたいな感じなんだよ。まひろにも会ってほしい位だ。向こうさんもそうしたいと言ってる」
「いつかね」と、まひろは言った。「よかったね。お父さん」
この人は、これから自分の手の届かない場所で幸福に暮らすんだ。と、思った。嫉妬と安堵の両方の気持ちが、珈琲の表面で渦を巻くミルクのようにぐるぐると回り、最終的には混ざり合って、ほろ苦くなった。もう二度と、泣きながら抱きしめてはもらえないんだという実感だけが、少し残念だった。
進学する気はあるのか。と、訊く父親に対して、どっちでもいい。と、まひろは答えた。進学したい気持ちはあるが、正直に言って家庭の経済状況がわからないし、母親とそれについて話し合うのも気が引ける。であれば、コンビニエンスストアの夜勤を続けながら資格の勉強などをしてもいい。求めるところは安定と独立であり、手段はどれでもかまわない。というのが、まひろの意向だった。
まひろの学費のために貯めていた貯金があるので使ってほしい。と、父親は言った。新しい家族のために使ってほしいと固辞するまひろに、父親はけじめだと言って譲らなかった。そんな頑な父親を見るのははじめてで、最終的には、まひろの口座へ直接振り込むという条件で、彼女は援助を受け入れた。普段、養育費を振り込んでいる母親の口座ではなく、まひろ自身の口座に直接振り込む形に疑問を呈さなかったことについては、父親も何か察するところがあったのだろう。
進路指導の三者面談の際、教師はまひろの素行と成績を絶賛した。まひろが友人関係に疲れて出席日数を減らす少し前の事だ。正直クラスの中では目立つ存在ではないけれど、その目立たなさが逆に不自然である程、優秀な生徒です。成績は常に高めのレベルで安定しており、部活動への参加も熱心。行事や委員会への参加も積極的で、特に問題が見当たりません。
当たり前だ。と、まひろは思った。特に問題が見当たりませんという言葉で評されるために、自分がどれほどの栄養ドリンクと痛み止めの錠剤を呑んできたと思っているんだ。健全な人間関係を構築することが出来ないという弱点は、部活動と委員会に打ち込むことで隠すことが出来た。共通の目的に沿った会話と役割を演じることは、まひろにとって寧ろ得意とするところであり、それを徹底することで表面的にはクラスでの孤立を避けていた。
濃い化粧をし、防虫剤の匂いがするスーツ姿で現れた母親は、教師の話を聴きながらよく笑った。これも演技なのだとしたら、独りよがりで下手なものだ。と、まひろは思った。
「うちでは普通の子なんですよ」と、母親は言った。「お恥ずかしい話なんですが、この子の父親は失踪同然に家を出て行ってしまいまして。そのせいで大分、苦労もあるんですけれど、この子のお陰でなんとかやっていけています。勿論、わたしも働きに出ておりまして、なかなか娘と進路について話し合う時間などが取れず、この場はいい機会を頂戴したものと思っております」
知らない人が、知らない家の話をしているみたいだ。と、思った。
「いえいえ。こちらこそです。本当にですね。健気と言いますか、真面目と言いますか。正直、自分から前へ前へ主張するタイプではないんですが、誰かがやるだろうと考えて皆が放置している事柄があると、知らないうちにお嬢様が片付けてしまっているというケースが多いんですね。とてもよく周囲を見ていて、察する力に長けていらっしゃる。人の思考や状況の、一歩か二歩先を先んじて考える頭の良さがあります。周りの生徒からの信頼も厚いですね」
と、教師は言った。母親は深々と頭を下げ、礼を言った。しばらくの間、教師からは娘の素行優秀を通じて母の人格賞賛があり(お母様の愛情とご教育の賜物ですね)母からは返礼として、教育への感謝を述べる時間があった(いえいえ、先生やお友達のおかげです)。
不意に甲高い耳鳴りがして、一瞬意識を失いそうになった。この頃、まひろはしばしば耳鳴りと眩暈に襲われている。何故、この人たちは嘘ばかりついているのだろう。なんのために、そんな下手な演技をわたしの前で繰り広げているのだろう。と、思った。自分と世界の狭間に、一枚の透明な膜を感じる。膜の表面には知らない生き物が知らない言葉を喋って演技をしている場面が映写されている。わけもわからずに映像を見せられながら、自分がそこに参加している不自然さが怖くなる。耳鳴りは長くても一秒以内には収まり、膜は瞬きの中に消えたが、そうでなければ立ち上がってその場から逃げ出すか、あなたたちは何をしているんですか?と、声に出して言ってしまったかもしれない。
一通りの挨拶が終わった後、さて本題をと前置きして、教師がまひろの意向を訊いた。お陰で眩暈の余韻から目覚めたが、まひろは答えることができなかった。
「きみ自身はどう思ってる?」と、教師は言った。
一瞬、誰の話をしているのかわからなくなったが、額に手を当て、考えているふりをする時間で何とか思い出した。台詞が飛んだときのために空白を埋める仕草をひとつ以上持っておけという演劇部での教えが役に立った。
まひろが隣県にある大学への進学を希望している旨を告げると、母親の顔から作り笑いが消えた。成績的には十分に合格圏内にある。さらに受験対策として予備校に通うなどで、盤石になるだろう。という教師の説明に反応を示さなくなり、まひろが代わりに応答することになった。
「帰ってまた話そう」と、母親は言った。昇降口で別れるまで、一度もまひろの方を見なかった。
その日はアルバイトのシフトは入れておらず、まだ陽が高い時間に、まひろは帰宅した。マンションの扉を開けると、すでに空気は酒精に満ちていた。テーブルの上に、空いたワインボトルが転がっており、母親は開けたばかりの二本目のワインをどぼどぼとグラスに注いでいた。
「なんで地元の大学にしないの」と、母親は言った。まひろの家に於いて〈何故Aをしないのか〉という語法は、裏返すと〈私は貴方にAをすることを求める〉という質問者の半ば脅迫ぎみの願望を秘めている。
「学費はどうするつもりなの」と、母親は言った。父親からの援助があるし、そうでなくとも奨学金が利用できる。と、思ったが、口には出さなかった。特に父親からの援助について言及した場合、母親の導火線に火を点いて感情の爆発は大規模になるだろうと判断した。
「奨学金だってあるし、だいじょうぶだよ。あたし働きながら通うし」と、まひろは言った。
「あんた知らないの?」と、母親は鼻で笑った。「あんなもん。国がやってるサラ金だよ。しかもね、本人に支払い能力がない時は、連帯保証人に督促が来るの。悪いけど、あたしはそういうのごめんなのよ。まだ、そこまであんたを信用できない」
物事の悪い面をだけを見る特殊な訓練を積んでいます。と、まひろは思う。
幼いころから会話の結果を先に予測する癖があった。日常は、無数の選択肢の中から相手を怒らせないルートを選択するための、地道な訓練だった。しかしこの日ばかりは、それが不可能なことが予めわかっていた。母親は既に怒っているし、その怒りはまひろに県外への進学を諦めさせるために突き付けられた酒臭いナイフと化している。
まひろは深呼吸をすると、机の上に散乱した酒瓶や洗っていない皿をまとめ、一通り洗い始めた。背後から酔った母親の声が聴こえた。
「あんたの志望する大学なら、多分引っ越して、大学の近くになりにアパートを借りることになるでしょ。そうしたら、今まで以上に帰ってこなくなる。地元から通えるところが沢山あるのに、わざわざそうする理由ってある?」と、母親は言った。背を向けて皿を洗いながら、まひろは二つの選択肢を考えていた。今の母親は、ぱんぱんに張り詰めた風船だ。中には怒りとアルコールがたっぷりと詰まっている。自分はそれに針を刺すことが出来る。演劇部で読んだハムレットの台詞が頭に浮かんだ。to be, or not to be.
「あんたが全然帰ってこないのを黙認してあげてた理由は、尊重してあげたかったから。昔みたいに家に押し込めて家出されるより、ある程度の自由を許してあげようと思ったのよ。そりゃ、あたし自身忙しかったっていうのもあるけど。それだって、あんたのために働いているようなものでしょ?それでもだめなの?それでも、あんたは家を出たいっていうの?」
まひろは頭の片隅で、演劇部顧問の老教師の解説を思い出していた。「ハムレットの ”to be, or not to be” という台詞は、様々な形で訳されてきた。〈為すべきか。為さざるべきか〉〈生きるべきか、死ぬべきか〉〈在るべきか、在らぬべきか〉〈このままにあっていいのか、あってはいけないのか〉。〈それが問題だ〉と続き、他にも様々な形で訳されたこの台詞は、読み手の解釈にその意味を広く預ける含蓄がある。この台詞を、自分だったらどう訳するのかと言うのは、時としておまえらの願望を浮き彫りにするだろう。よかったら自分なりに訳してみてくれ」と、老教師は言った。to be, or not to be…。
ばん。と、母親は掌で机を叩いた。「こっちを向きなさいよ。今、真面目に話してるあでしょ?」皿を洗う手を止めて、まひろが振り向くと「何よその顔は」と、母親は言った。自分が今どんな顔をしているのか、まひろにはわからなかった。母親を安心させるための表情を作るのをやめると、顔の表面から最も生臭い仮面がどろりと剥がれて床に落ちたような気がした。
「あんたは会ったことないから知らないだろうけど、あたしの親は大学なんて行かせてくれなかったよ。女に学歴は要らないみたいな古い考えの家だったからね。お金もなかったし。だから、あんたには好きなことをやらせてあげたい。でも、出来るなら家から通えるところにして、たまには、お母さんに顔を見せて欲しいのよ」
「お母さん。落ち着いてくれない?」と、まひろは表情を失ったまま言った。母親はまた、ワインをグラスに注ぎ、一口で半分も飲み干した。注ぐ時と飲み干す時に零れた雫が、机と床を汚した。
「たまに帰るくらいはするし、メールも電話も出来るよ」と、まひろは言った。
「いいや」と、母親は首を振った。「あたしにはわかる。あんたは帰ってこない。あんたの父親と同じように。段々帰ってこなくなって、最後には出て行く。でも、百歩譲ってあの男はいい。今は関係ないから。あんたは違う。あんたはあたしの娘。正直に言うよ。出て行って欲しくない」
わかったよ。と、言いそうになるのを呑みこんだ。代わりに何故?という言葉が口から出た。
「何故?娘だからだよ」と、母親は言った。「それに十八歳って、まだ全然こどもだよ。あたしだって、あんたくらいの齢のころは色んな事が分かってなかった。まひろ。この間言ってた、付き合ってた人とはどうなった?」
まひろは最後に会った日のブラッドハーレーの顔を思い出した。自分では救うことの出来ない動物を憐れむような目。
「だめだったでしょ」と、母親は言った。「何でわかるのかって思った?わかるの。あたしが言った通りだったでしょ。あんたは危うい。独り暮らしなんてさせたら、何をするかわからない」
それはその通りだ。と、まひろは思った。何をするかわからない。
「ねえ、何で黙ってるの。その顔をやめなよ。親をそんな目で見るのは。そんなにあたしが嫌なの?だめな親だから?あんたもあたしのこと、死んだほうがいいって思ってるの?」そう言って、母親はグラスに残ったワインをまた一息で飲み干した。
「他人に決めてもらわないほうがいいよ」と、まひろは言った。怒りがワイングラスの縁から零れそうになり、母親は目を剥いて娘を見た。
「お母さんは、わたしに何を望んでいるの」と、まひろは言った。母親は舌打ちをして、またワインをグラスにどぼどぼと注いだ。
「何って。幸せになってほしいと思ってるよ。多くは望んでない。普通に、幸せに過ごしてくれればいい。確かに、あたしは多くの失敗をした。一生懸命やったけど、あんたにとってそれほどいい母親じゃなかったかもしれない。だけど、あんたの幸せを願っていることだけは、ずっと昔から変わらないよ」
じゃあ、認めてほしい。進学のことだけじゃなくて、わたしにも人格だとか、自尊心だとか、考える頭だとかがあるということ。叩けばいうことをきく動物じゃない。自分を人質にして脅すものやめて。そういうことを思ったが、口には出せなかった。正論をぶつけることによって優位性を奪えば、母親は怒りに駆られ再び暴力を振るうだろう。
また、耳鳴りがした。慣れ親しんだ沈黙が破裂する前兆のようだった。嘘と沈黙によって破裂を免れていた風船が割れる前兆が鳴り響き、まひろは唇の中でゆっくりと針を弄んだ。
まひろの独り暮らしを止めるための母親の説教は、酒による蛇行と迂回を経由して、結局いつもと同じ話の流れに戻った。出て行った夫への呪詛と、娘のために自分がどれほどのものを捧げてきたか。酒量がある線を越えると、話は必ずそこに戻ってくる。そして最後には「ねえ、あたしの娘でよかったと思う?」と「あたしのこと死んだほうがいいと思ってるんでしょ」が交互に繰り返される。そして娘から慰めの言葉を得ると、ありがとう、まひろ。と言って、彼女を抱きしめ、満足して眠る。
だが、その日に限っては、まひろは母親を慰めることをしなかった。慰めの言葉が得られないとわかると、母親は話をまた最初に戻した。延々と続く呪詛を片耳だけで聴いていると、耳鳴りはさらに周波数を増した。繰り返し聴かされてきた話のゲシュタルトは崩壊し、既に単なる質感になり果てていた。棘の鋭さと油のしつこさを持つ黒い質感が投げられ続け、まひろは身体全体でそれを受けていた。
この人の憎しみは何処からやって来たのだろう。と、まひろは思った。彼女を捨てて出て行った夫。話の中にしばしば出て来る、まひろが会ったことのない祖父母。自分の思い通りにならない娘。今は傍にいない家族への怒り。転がりながら周囲を巻きこんで大きくなる黒い雪玉のような憎しみは、いったい何処からやって来たのだろう。
「あたしに比べたら、あんたは恵まれている。あたしが同じことをしたなら、親からもっとひどい目に遭わされた。夜中に裸でベランダに放り出されたり、椅子で殴られたりした。あたしもあんたが悪い事したら叩いたりしたけど、かわいいもんだったと思うよ」と、母親は言った。酔って呪いを吐き続ける母親が、泣いている子供のように見えた。理解や欲しいものが得られない時、泣いたり暴れたりすることでしか感情表現が出来ないのは非力な子供の持つ一種の特権だ。大人になるという事は、泣いたり暴れたりしなくてもいい表現手段を得ることだが、母親はその方法を学んでいない。ずっと泣きながら黒い雪玉を転がし続け、やがては自分自身も雪玉に呑みこまれ、その一部と化している。
酔って手を滑らせた母親が、ワイングラスを倒した。テーブルに拡がった酒を布巾で拭きながら「もうやめたら」と、まひろは言った。
「ええ。これ呑んだら寝るよ」と、母親は言った。
「お酒の話じゃない」と、まひろは言った。「傷つけるの、やめて」
「傷つけるって?あんたを?」
「お母さんを。あなた自身を」
母親は鼻で笑って目を逸らした。何言ってんのよ。何もわかってない癖に。
「笑わないで」と、まひろは言った。「誰かを憎んでも、お母さんの傷が癒えるわけじゃないんだよ。ひとにうつして治る風邪じゃないんだよ。寧ろ、痛みはどんどん大きくなるんだ。伝染の度に毒性が強化される感染症と一緒。もうやめて。お父さんをじゃない。多分、険悪だったあなたの両親をじゃない。あなたの思い通りにならない娘をじゃない。それらに対する憎しみを通して、自分を傷つけるのをもうやめて。わたしはそれを見たくない」
途中から喉の中に硬い石が詰まったようになり、声に涙が混じった。雫が二つ、テーブルに落ちた。
「親をあなたなんて呼ぶんじゃないよ」と、目を逸らしたまま母親は言った。「あたしはね、泣きながら話す奴を信用しないことにしてるのよ。甘えてる。泣けば許されると思ってる奴となんて」
まひろは、何故自分がそうしているのかわからないまま、空になったワインボトルの細い首を掴んだ。嘘しか吐けない鶏の首をぽきりとへし折る様に、瓶の首を砕いてしまいたいと思った。
「あんたも結局あたしを見捨てるんだよ。ほらね、こうなるって何度も言ったでしょ」と、母親は言った。いつものように「そんなことないよ、お母さん」と、言い返すことをせず、まひろは黙っていた。
「あたしが悪いんでしょう?死んだほうがいいと思ってるんでしょう?」と、母親はワイングラスの中の歪んだ風景に向かって呟いた。
「そうだよ」と、まひろは言った。母親は俯いていた顔を上げ、たった今、娘の存在に気づいたかのように目を丸くして、まひろを見つめた。耳鳴りがひときわ強くなり、風船の割れる音がした。中からどろりとした熱い液体が溢れ出し、まひろの身体に降り注いだ。それは、今まで溜めた涙の総量のように熱かった。
「死んだほうがいい」と、まひろは言った。涙の中に閉じ込められつつ喋っているかのように、息苦しく、喉が痛かった。「お母さん、わたし泣いているでしょう。ほんとうのきもちを言う時、わたしは泣いてしまうの。怒られないように、嫌われないように、嘘ばかりついて生きてきたから、ほんとうのきもちを言うのが酷く怖いのよ。だってね、わたし言いたくない。言いたくないんだ。死んだほうがいいなんて、言いたいわけがないんだ」
「あんたが何言ってるのかわからない。あんたの言ってることは、昔からずっとわからない」と、母親は言った。「どうして普通に話すことができないの」
「あなたが悪いよ。死んだほうがいい」と、まひろはもう一度言った。母親の体いっぱいに詰まった憎しみが、そっくりそのまま自分の身体に乗り移ってくるような感覚に襲われた。母親もきっと一緒だったんだ。と、思った。人から人へ乗り移って増殖する黒い影に呑み込まれて、同じことしか言えなくなってしまったんだ。でも、もう言わなくていい。こいつはわたしが道連れにする。
「出て行って」と、母親は言った。まひろが黙っていると、ふらつきながら立ち上がって、出て行きなさいよ!と怒鳴った。まひろはワインボトルを静かにテーブルの上に置き、鞄を肩にかけた。暗い廊下を歩きながら、今度は連れて行かなければ。と、思った。ずっと置き去りにしていた幼い自分と手を繋ぎ、まひろは家を出た。玄関の扉が閉まる時に母親の叫び声が聴こえたが、何と言っているのかは聴き取れなかった。
扉の外は、世界の終りのように静かだった。夜が辺りを包みはじめ、月光が青白くマンションを照らしていた。瞳の表面を覆った涙の膜の中で、街が百個に分裂して笑っていた。唇から溢れた針で自分を刺すと破裂し、中から新しく少女が現れた。彼女はもう泣いていなかった。
まひろは実家のマンションの駐車場でバイクに跨ると、ハンドルで身体を支えたまま、一瞬だけ空を飛ぶように舞い上がり、思い切り体重をかけてキック・スターターを踏んだ。エンジンに火が点き、鉄の鼓動が動き出すと、冷たい真夜中に排気の白煙が溶けていった。ACE125。東南アジアで製造された、カフェレーサータイプの小さなクラシック・バイク。
車影の少ない夜の幹線道路を、まひろのバイクのヘッドライトがあてもなく切り裂いて行った。エンジンの振動を感じながら、鳩尾の一部が引き千切られたように痛んだ。母を傷つけ、幻の臍の緒を力づくで切断した痛みが、スピードと風圧による濾過と冷却を経て結晶化していった。遠くからやって来た暴力が、母親を介して今、自分の中に宿っているのを感じた。癒えることのない黒い影が、まひろの鳩尾で、なおも伝染と拡大を求めている。
鉄の塊に乗って走りながら、自然とブラッドハーレーのことが頭に浮かんだ。ハンドルやクラッチやブレーキを操作していると、彼に教わった運転のこつをいちいち思い出す。膝でガソリンタンクを挟む姿勢で乗ること。低速の時はリアブレーキでスピードとバランスを調整すること。行きたい方向を見ながら走ること。走りながら速度の波形グラフをイメージし、その波形は可能な限りなだらかであること。車体を安定させるためには、自分にとって心地よい速度が必要だ。と、ブラッドハーレーは言った。遅すぎても速すぎても安定しない。自分の速度が大切なんだ。
ブラッドハーレー。あなたがくれた〈愛していない〉を今日使ったよ。と心の中で、まひろは呟いた。母に〈死んだほうがいい〉って言った。わたしが〈愛されない〉という灰の中から甦ると決めたように、彼女が〈死んだほうがいい〉っていう灰の中から、甦ってくれればいいと思うけど、どうなるかはわからない。ブラッドハーレー。もう一度、会いたい。鳩尾に溜まった黒い影を、あなたに飲ませたい。今ならもっと上手に虐めてあげられるのに。
20㎞ほど走った後、見知らぬ町のコンビニエンスストアにバイクを停めて温かい缶コーヒーを飲んでいると、チョッパーの大型バイクが隣に停まり、皮のベストを着たバイカーの男が、珍しい単車に乗ってるね。と、まひろに声をかけた。そうでしょ。と、まひろは言った。
「ナイト・ツーリングかい?」と、男は言った。まひろが答えを探して黙っていると「何処にいくんだ?」と、男は訊いた。
「耳朶を齧らせるか、鳩尾を蹴らせてくれる男を探してるの」と、まひろは笑いながら言った。
「要は、奴隷に逃げられたってことでしょうか?」
清潔なマンションの一室で、女がそう言った。支配人の女の笑顔は柔らかく、一見すると温和な保育士にさえ見えたが、弓なりに沿って微笑む細い目と唇の奥に、氷点下にしか生息しない残酷な蜥蜴を飼っていのが見えるような気がした。
「すごく要すると、そういうことになると思います」と、まひろは言った。耳朶を齧らせるか、鳩尾を蹴らせてくれる男を探してネットサーフィンをしている時に誘導された地元に近い町のSMクラブの求人広告に、まひろは応募した。職種は〈ドミナント〉。業務内容は〈被虐願望をお持ちのお客様とのセッション〉。「フォビアフィビア」というのがその会員制クラブの名前で、支配人の女は菊妃芽と名乗った。
葛藤や喪失感は忙殺するに限る。というのが、まひろの基本的な方針だった。ブラッドハーレーの消失。演劇部の退部。父親の再婚。母親との関係の崩壊。その葛藤と喪失感を忙殺するために忙しさが足りないと考えたまひろは、受験勉強とコンビニエンス・ストアの深夜帯のアルバイトに加え、半ば勢いでフォビアフィビアの面接に臨んだのだった。
「消えたその奴隷とは、恋愛関係にあったのですか?つまり、恋愛関係の延長としての主従関係だったのですか」と、支配人は言った。消えた奴隷と言うのは、ブラッドハーレーのことだ。
「わかりません」と、まひろは正直に答えた。十二畳のリビングの中心に於かれた机を挟んで、面談は行われた。長いスカート丈のクラシックなメイド服を着たおかっぱ頭の少女が、背筋を伸ばしてモップ掛けをしていた。支配人はまひろに少女を紹介することをせず、最初、人間型の自動掃除機が発売されたのかと思った。殆ど物音をたてず、必要最低限の動きで、面接の間中、少女はマンション内の清掃と雑務を続けていた。支配人が紅茶を一口飲んだ。メイド服の少女が淹れてくれた紅茶には、砂糖と一緒に形が崩れない程度に煮こまれたルビー色の苺が浮かんでいた。支配人は面接の間中、舌の上で苺を転がしながらも滑らかな発音で喋った。
「正直なところ、わからないことがとても多くて」と、まひろは言った。「その人に対するきもちがどんな種類のものだったのか。奴隷に対する嗜虐心だったのか。所有物に対する執着と独占欲だったのか、愛玩動物に対する愛着だったのか、恋人に対する思慕だったのか。どちらから頼んだわけでもなく、セックスの時は支配と従属の関係になったんですけど、あれはどちらが望んだものなのか。もともと、わたしのなかにある性癖なのかどうか。だとすれば、相手は誰でもいいのか。何故、セックスに支配や痛みが持ち込まれ、快楽に転化するのか。自分の中にある、支配と嗜虐に対する衝動は何なのか。こちらのお仕事に何か手がかりがないかと思いまして」
「すばらしい。御自分のわからないことが、すらすらと出て来るんですね」と、支配人の女は微笑んだ。
「面接にあたり、必要かと思いまして。自分なりに志望動機を書き出してみたんです」と、まひろは言った。
「とてもいい心がけですね」と、支配人は言った。「わたしたちの仕事は、まさに表出のためのお仕事でもあります。口に出す。声に出す。表情にして出す。痛みにして出す。哀願にして出す。請願にして出す。心にしろ、身体にしろ、そもそも出すことは全ていいことなんですよ。逆に出さないことは悪いことです。欲望の腐敗を招き、病に繋がります。わたしにとって、フォビアフィビアは表出の一助になるための場です。居場所と自己実現ですね」
これまでに受けたどんなアルバイトの面接よりも理念的で丁寧だな。と、まひろは思った。自分の背筋がぴんと伸びていることに気づいた。無意識のうちに、目の前の支配人の姿勢を真似ていた。支配人の姿勢は筋繊維の代わりにピアノ線を埋め込んでいるのではないかと思う程、張り詰めて美しかった。
「こよみ」と、支配人は言った。こよみと呼ばれたメイド服の少女が、はい。菊比芽様と答え、アルミのバインダーを両手で支配人に渡した。誰かの所作を見て恭しいと感じたのは生まれてはじめてだった。
「お紅茶をお下げしてもよろしいでしょうか。お代わりはいかがですか」と、こよみは言った。支配人はメイドの目を見ずに指だけで下げろと合図して、バインダーを開いた。同様の質問を受けて、まひろは頭を下げて礼をし、おかわりを断った。こよみは、それが作法であるように、目を伏せてまひろの顔を見なかった。
「とりあえず、体験してみましょうか」と、支配人は言った。「ひとは行動と体験からしか学ぶことが出来ません。たくさんの〈わからない〉は、すべて行動と体験にしてしまいましょう。自分がどんな種で、どんな花を咲かせるのか、確かめなくてはなりません」と、支配人は言って、バインダーを開いてまひろに見せた。裸で拘束され、ボンデージを着た女に責められる男たちの写真が写っていた。ある者は鞭で打たれ、ある者は蝋燭を垂らされ、ある者は尖ったハイヒールで踏まれていた。
「仰る通りだと思います。よろしくお願いいたします」まひろが頭を下げると、支配人は前歯で苺を潰し、飲み込んだ。
「好きな果物はなんですか」と、支配人は訊いた。ドラゴンフルーツです。と、まひろは答えた。熱帯雨林に育つ甘酸っぱい原色の果実。
「では、セーフワードは〈ドラゴンフルーツください〉にしましょう」と、支配人は言った。こよみが何処からか、黒革の手枷と首輪と目隠しを持ってきて、支配人に渡した。
「今から、責められる側のきもちの入口に立ってもらいます。何故かはわかりますね?相手の気持ちになるということは、セッションの基本と言ってもいいからです。ただ傷つきたいだけならば他にたくさん方法があるのに、何故彼らがわざわざ高い報酬を払ってわたしたちのもとへ来るのかを、身をもって体験してみてください。苦痛は与えませんし、性的な接触はしませんので、安心してください。ただ、最中にどうしても無理だと思ったら〈ドラゴンフルーツください〉って言ってくださいね。直ちに研修を中止しますから」
喋りながら、支配人の顔つきが変わっていくのを、まひろは感じた。表情筋が動いたわけでもないのに、細い体の中から、捕食を躊躇わない血の冷たい動物が現れたような気がした。
「この後、あなたは喋られなくなるかもしれない。今のうちに言っておきたいことはありますか?」と、言いながら支配人は目隠しでまひろの視界を奪った。
「どうして欲しいのか言ってみなさい」と、まひろの耳元で支配人は囁いた。突き放すような冷たい声と、生温い吐息が混ざり合って、耳孔から直接脳を撫でられているようだった。何と答えていいのかわからず、まひろが黙っていると「喋れないのね。そんなお口も要らないね。塞いでしまおうか」と、支配人は言った。冷たい掌が、まひろの唇に触れた。こよみの手がまひろの手足を取り、拘束具を使って椅子の脚に繋いだ。ひな鳥に触る獣医のような優しい手つきが、まひろは手足の自由を奪った。支配人が、まひろの耳孔に指を入れ一時的に聴覚を塞いだ。目に見えるものと、耳に聞こえるものが真っ黒に塗りつぶされ、身動きが出来ない。監禁された意識の中で「どうして欲しい」という問いが反響し続けた。
「どうして欲しいの」耳孔から指を抜き、もう一度、唇を耳元に寄せて支配人が囁いた。それは産まれてはじめての問いのように、まひろを不安にさせた。わたしは一体どうして欲しいのだろう。と、思った。掌や指で、口や耳を塞いだり開いたりしつつ一定の間隔で、支配人は「どうして欲しい」を、まひろの鼓膜に浴びせ続けた。一言放つごとに、声色は冷たさを増していった。この冷たさが極点に達してしまえば、自由を奪われた暗闇の中に置き去りにされてしまうという恐怖を感じた。なのに、正しい答えがわからない。
「ごめんなさい。わかりません」と、まひろは言った。
「上手に答えられて偉いね。でも、わからないのね。答えられたご褒美と、わからなかった罰を与えなければいけないよね。まひろ。どっちが欲しい?」
どう答えれば支配人が満足し、自分は見捨てられずに済むだろう。と、思った。この人は罰を与えたがっているのだから、罰だと答えるべきだ。相手の願望を先回りする慣れ親しんだ習慣がそう言った。
「罰。です」と、かぼそい吐息に似た声を、まひろは吐いた。目の前でばちん、と何かが鳴る音がして、まひろはびくんと身体を震わせた。身体を打たれたわけではないのに、暗闇に閃いた音の衝撃にのけぞった。椅子が傾くのを支配人の手が支えなければ、そのまま倒れていただろう。
「叱られてる時はなんて言うんだ?」と、支配人は言った。
「ありがとうございます」と、まひろは答えた。見えない手に、ゆっくりと首を絞められているかのように、呼吸が荒くなった。暗闇という密室が自分に向けて迫ってくるごとに、支配人の囁き声がより大きく響いた。
「ありがとうっていうのか。それじゃあ罰じゃないじゃないか。ごめんなさいだろう、お嬢様。罰を貰ったらごめんなさいだ。それとも嬉しかったのか。嬉しそうに見えるな。耳まで真っ赤になってるのは何故だ。止めてみろ。そんなに身体を熱くするのを止めなさい。今すぐに」
止めろ。と言われるほど、止められなくなる種類の命令を選んで、支配人はしていた。呼吸の乱れを止めることが出来なかった。視覚を奪われ、手足の自由を奪われ、思考の自由を奪われ、言葉の自由を奪われ、唯一残った呼吸と服従の自由も奪われ、世界には自分と支配人の二人しかいないような錯覚に陥った。
耳元で支配人が「いい子ね」と囁いた。こよみの手が目隠しを外した時、インプリティングされたひよこのように、彼女の胸に飛び込みたい衝動に駆られた。涙と涎が自分の顔を濡らしていることに気づいた。
こよみが手足の拘束を解き、温かい蒸しタオルで、濡れた顔を拭いてくれた。
「お疲れさまでした。もう大丈夫ですよ」と、支配人は言った。「いかがでした?」
「ジェットコースターとか、お化け屋敷を出た後みたいなきもちがします。怖かったのか、きもちよかったのか、ちょっとわかりません」と、まひろは言った。
「そのままの姿勢でいてくださいね」と、支配人は言って、まひろの背後に回った。「身体が緊張でがちがちです。少し怖い思いをさせすぎましたね。申し訳ない。マッサージして、ほぐしてもよろしいですか」と、彼女は言った。まひろが頷くと、支配人の手が、まひろの肩に触れ、ゆっくりと撫でた。冷たい羽毛の様な手だった。
「今のセッションは、誰の欲望が形作ったものだと思われますか」と、まひろの身体をほぐしながら支配人は言った。少し考えてからまひろは「両方だと思います」と、答えた。
「そのとおりです」と、支配人は言った。「わたしはあなたの欲望に叶えましたし、あなたはわたしの欲望を叶えました。支配することとされることに、共犯関係が成立しています。お互いがお互いのことを思いやるタイプのセッションでしたね」
支配人は両手でまひろの頭を持って、右に左にゆっくりと傾けたり、時計回りに回したりした。脱力した頭が、支配人の手の中でぐるぐると旋回した。
「今、わたしはあなたの頭を持って傾けたりしていますが、これもあなたの協力がないと出来ない事なんですよ。あなたがわたしを信頼して身を預けてくださっているから、身体が行きたい方向へ動くのです。わたしは、人間関係の殆どはこの原則に基づくと思っています。例え一方的に見える関係であっても、そこには二つの意思と承諾が存在しているのです。すべての関係は共犯関係にあるのです」
共犯関係と聞いて、まひろはブラッドハーレーのことを思い浮かべた。確かに、恋人友人奴隷、思い当たる彼との関係性すべてを混ぜてしまうと、共犯関係と言う呼称が最も似合うような気がした。
「あなたはとても健気な方のようです。自分の欲望よりも、相手の欲望の実現を優先する傾向にあるようだ。その傾向に従って、支配することとされることの両方が上手なはずです。きっと、いいドミナントになりますよ。相手のきもちに対する敏感さが、奴隷の欲望を優しく察してあげられることでしょう。是非、いっしょに働いてみませんか」と、支配人は言った。
採用が決まったまひろの最初の仕事は、三人の先輩の助手として仕事に同行し、その見学と補助をすることだった。面接を行ったマンションの近場に事務所兼控室としてワンルームのアパートが借りられており、そこで待っていたヒナギクという先輩は、柔かな声と笑顔を持つ、まひろよりも一回りほど年上の女性だった。
ヒナギクは、玄関の扉を開けてまひろを迎えるなり、あらあらあらあらと細い目を弓なりにしならせて笑い、すてきな子が来たのねえ。と、成長した姪と久々に再会する叔母のような声色でまひろを迎え入れた。冷蔵庫を開けて「プリン食べる?」と言うと、返事を待たずに、ペットボトルから注いだほうじ茶と一緒に、まひろの前に置いた。
「ちょっと待っててね。今、準備しちゃうから。楽にして待っててね」そう言ってヒナギクは、化粧台の前に座りメイクを始めた。忙しなさを邪魔してはいけないなと思い、まひろはほうじ茶を啜り、好きでもないプリンをゆっくりと口に入れた。鏡越しに、化粧をしながらヒナギクがまひろに語り続けた。
「一口にマゾの方と言っても、実にさまざまな種類のお客様がいらっしゃいるのよ」と、ヒナギクは言った。マゾの方っておかしな言い方に聞こえるなと思いつつ、まひろは真面目に話を聴いた。「痛みを求める人もいれば、恥ずかしさを求める人もいるし。服従そのものが目的である人もいれば、射精が目的であって服従はその過程に過ぎない人もいるし。性癖と人格が癒着して離れない人もいれば、ジキルとハイドのように完全に切り離されている人もいるの。セッション前とセッション後で目つきが180度変わる人もいれば、終始子犬みたいな濡れた目で見つめて来る人もいるのよ。ほんとうに、ひとそれぞれよね」
「ひとそれぞれですか」と、まひろは言った。鏡の中で、ヒナギクの顔がゆっくりと仕事用の顔に変わっていった。グレーのアイシャドウと真っ赤なリップで目と口を塗り、さらに目尻と口角を釣り上げると、さっきまでの柔らかな表情が逆転して、同量の冷たさになって鏡の中に映った。
「でも、それはお相手するわたしたちも同じで。わたしはどちらかと言えば、お客様に合わせてメイクを変えるけど、そうじゃない女の子もいるのよ。自分に合わせて相手を変えようとするか、相手に合わせて自分を変えるかの違いね。お客様が喜べばどっちでもいいと思うけれど。ひむろさんはどっちかしらね」
フォビアフィビアの勤務において、まひろには、ひむろという別名が与えられた。風俗業独特の偽名性のためだけでなく、ドミナントとしての人格と本来の人格の切り替えをスムーズにするために別名義を持つことを支配人に勧められたからだ。
「まあ。菊比芽様に聞いたと思うけど、ひとは行動と体験に寄ってからしか学べないって言うじゃない?一緒に頑張りましょうね。ひむろさん」と、ヒナギクは胸の前でこぶしを握って言った。極端に吊り上がったアイメイクを隠すためにサングラスを掛けたが、その声色は依然として柔らかく、ママさんバレーに向かう前の主婦みたいだな。と、まひろは思った。
「よろしくおねがいします。プリンごちそうさまでした」と、頭を下げ、空になったプラスチック容器と湯呑を洗おうとすると、ヒナギクは、あらあらそんなのいいのに、わたしがやるのに。と、言って笑いながらまひろに駆け寄った。
アパートのインターホンが鳴り、玄関を開けると私服姿のこよみが立っていた。頭からつま先まで、無印良品の中から特に目立たない服だけを選んだような恰好をして、黒縁の眼鏡をかけている。
「お迎えに上がりました」と、こよみは言って、臍の辺りで手を組み十五度の角度でお辞儀をした。
「今日はメイド服じゃないんですね」と、まひろは言った。
「プレイルームまで送迎をいたしますので。メイド服ですと、あまりに目立ちすぎます」
「わたしはいいと思うんだけどなあ」と、ヒナギクが笑いながら言った。衣装と性具をいっぱいに詰め込んだキャリーケースと共に、三人は車に乗り込んだ。
「ひむろさんは、ドミナント?」
プレイルームに向かう車の後部座席で、ヒナギクは言った。
「不勉強で申し訳ないんですけど、ドミナントとサディストってどう違うんでしょうか」と、まひろは質問した。
「似て非なる者って感じかしらね。ドミナントは精神的な支配。サディストは肉体的な苦痛を含む支配みたいなニュアンス。サディストの対はマゾヒストで、ドミナントの対はサブミッシブ。あとは私生活にすら入りこんでくる、さらに極まった主従関係をマスター&スレイブなんて言ったり。さっきも言ったけど色んな種類の性癖と関係性があるのよ。でも関わっていくうちにわかってくるよ。自分がどのタイプの傾向にあるのか」
「ちなみにヒナギク先輩は?」
先輩だって。やだあ、照れるー。と、まひろの膝をぽんぽんと叩いて、ヒナギクは笑った。
「それもこれから、わかると思うよ。嫌でもわかっちゃう」と、ヒナギクは言った。
完全防音の薄暗いプレイルームで、客の男は新聞を読みながら待っていた。皺のないスーツとシャツを着た背の高い中年男で、服の上からでも引き締まった身体をしているのがわかるタイトなシルエットをしていた。傍らには革の仕事鞄が置かれており、靴はぴかぴかに磨かれていた。証券取引所か銀行のベンチにいそうな佇まいだなと思ったが、実際にはそこは鞭や手錠や拘束台に囲まれたSMホテルの一室であり、まひろは視覚情報と認識がうまく重なりあわない可笑しさを感じた。
「イミヤマさーん。こんにちはー」と、両手を振りながらヒナギクは挨拶をした。「今日はよろしくお願いしますー。ごめんなさいね。無理言っちゃって。この子が新人のひむろちゃんです」
「とんでもないです」イミヤマと呼ばれた男は立ち上がり、まひろの方を向いて一礼した。「イミヤマと申します。よろしくお願いいたします」生命保険の営業レディと顧客の会話のようだなと、まひろは思った。
「イミヤマさんはね、昔からご愛顧いただいているお客様。それはもうお世話になっているのよ。わたしにとっても、フィビアフォビアにとっても、信頼できる方なの。だから今回も、研修に付き合っていただけるようお願いしたのよ」と、ヒナギクは言った。
「ひむろと申します。お世話になります」と、まひろは深々とお辞儀をした。
「こちらこそ、よろしくおねがいいたします」と、男は礼を返した。内ポケットから名刺を取り出して両手で差し出すのではないかと思った。
「でもね、すぐにイミヤマさんじゃなくなってしまうの。何度も何度も、かわいい声で、とってもいい子に鳴けたから、特別な名前をあげたの。ね?」と、ヒナギクは言った。男の肩に人差し指を当てると、細い人差し指から魔法をかけられたように、男はその場に崩れ落ちるように跪いた。跪いた男の目に目隠しを当てると、ヒナギクは耳元で囁いた。
「自己紹介をしなさい」
「ルルです」と、男は言った。声色が一瞬で甲高くなり、震えを帯びた。「ヒナギク様の犬です」
「可愛らしい犬の名前が欲しかったのよね。こんなに立派な身体をしてるくせに、チワワよりもマルチーズよりも甘えん坊なのよね。おまえの情けない姿を、今日は二人に見てもらえるよ。よろこびな、わんちゃん」と、ヒナギクは言った。男とは反対に、声色は低くなり、聴いているものの頭蓋骨を直接揺らすように響いた。
スーツとネクタイとワイシャツとズボンを慣れた手つきで脱がされる間、男はヒナギクの手に身体を委ね、一切の抵抗をしなかった。まひろはそのように滑らかな脱衣をはじめた見た。美しいとさえ思った。脱がせる者と、脱ぐ者の間に、完璧に近い信頼と疎通があり、無駄な動作が殆ど無かった。
「ありがとうございます」と、裸にされた男が言った。ヒナギクは頬に手を当てて「犬なんだから、わんって鳴きな。可愛らしくだろ?」と、嘲笑いながら言った。薄暗い部屋に、わん、という人間の鳴声が反響した。
ヒナギクは、男から脱がせたシャツとスラックスとネクタイと下着と靴下を綺麗にたたんでソファに置き、スーツをハンガーに掛けて吊るした。キャリーケースの中から黒革の首輪を取り出すと男の首に嵌め、リードを繋いで強く引き、奴隷の顔を自分の顔に寄せて微笑みながら囁いた。今日はわたしのおともだちが、あんたの好きな痛いのや恥ずかしいのを見てくれるからね。粗相のないように、丁寧にお願いするのよ。できるわよね?甘えた犬の鳴き声を出しながら何度も頷く奴隷の手を後ろで組ませ、拘束具で固定するとヒナギクは冷たい声で「待て」と言った。男の身体の動きがぴたりと止まったが、呼吸は荒く、半開きになった唇の奥から主人を求める心臓の鼓動が聴こえてきそうだった。
まひろはヒナギクに手を引かれ更衣室に入ると、彼女に手伝われつつ、全身を覆う黒いレザーのキャットスーツに着替えた。自身もコルセット型の赤いラバースーツに着替えたヒナギクは鏡に映ったまひろを見て「似合ってる。最高」と微笑んだ。
「心配しなくてもだいじょうぶよ」と、ヒナギクは言った。「して欲しい事や力加減は、ルルがちゃんと教えてくれるから。ルルはとってもいい奴隷だから、自分の欲しいものがちゃあんとわかるの」
確かに男は丁寧に教えてくれた。裸にされ、目隠しをされ、手足を拘束された一個の不自由が、彼の欲望の一切合切を教えてくれた。
「なにが欲しいの?」と、ヒナギクのハイヒールに背中を踏みつけられながら問われると、男は甲高い声で鞭と蝋燭を哀願した。だんだん強く打ってあげようね?ヒナギクはそう言って、先端が九条に分かれた鞭をまひろに手渡すと、リードを引いて奴隷を立たせ、X字枷と呼ばれる磔型の拘束台に固定した。奴隷は手足を文字通りXの形に広げて拘束され、身動きの自由を奪われた。
まひろが手渡された鞭で奴隷の脇腹の辺りを軽く打つと、拘束された身体がびくりと震え、打たれた部分をヒナギクの皮手袋がゆっくりと撫ぜた。もっと?と、ヒナギクが耳元で囁くと、男はもっと強く打ってください。と叫んだ。言われた通り、まひろは力を強めて鞭を振った。密室に響く打擲音と奴隷の叫び声が、だんだん大きくなっていった。際限なく、より強い痛みを要求する奴隷の身体を、打擲の合間にヒナギクが撫ぜ、耳元で彼を褒めた。偉いわね、さすがよ。後でご褒美をあげなくちゃね。でも欲張っちゃだめ。欲張りすぎたら、もうあげないからね。打っていただいているってことを忘れちゃだめよ、ルル。奴隷はうっとりとした顔で何度も頷き、かしこまりました。申し訳ございませんヒナギク様。と呟いた。奴隷の声の中で苦痛と愉悦が混ざり合い、部屋の空気中でその密度を増してゆく。やがて部屋はその二つを混ぜるための四角いフラスコになり、中にいるものはその混合液に満たされてゆく。
まひろは産まれてはじめて、他人の絶叫を生で聴いた。鞭が空気を切り裂き、身体を打つたびに、奴隷は叫び声そのものになったように震え、まひろも鼓膜そのものになったように震えた。苦痛と快楽を一手に引き受けることによって際限なく叫ぶことを許された奴隷に羨ましさと愛おしさを感じつつ、もっとその絶叫を聴いてみたいと思った。思わず鞭を振るう力が強くなり、奴隷が身をよじって逃れようとするさまを見逃した。ヒナギクの手が一旦まひろの鞭を制止し、痛みの限界点で震える奴隷の身体を優しく愛撫した。幸福そうに溶けた犬の声が、今度は小さく部屋に反響した。
拘束台から解かれ息を切らせながら跪いた男は、床に頭を擦りつけて鞭打ちに対する礼を述べ、次はどうして欲しいの?というヒナギクの質問に、どうか蝋燭をくださいと切願した。ヒナギクは奴隷の目隠しを外し、潤んだ瞳を見つめて「偉いわね。ルル」と、奴隷を褒めた。男がうっとりとした表情でありがとうございます。と言うと「〈わん〉でしょ?」と、冷たく言い放って奴隷の乳首を抓り上げた。「ありがとうっていうときは〈わん〉だよ。それが一番可愛いんだから。ねえ、もっと可愛くしてあげるから、そこに座りなさい」そう言ってヒナギクは、麻縄で奴隷の身体を縛りはじめた。脱衣の時と同じく徹底した協力関係によって、緊縛はこの上なくスムーズに行われた。後ろ手に縛り上げられ、身体中に張り巡らされた縄によって身動きを封じられ這いつくばる男は、梱包された一匹の幼虫に見えた。
ヒナギクからまひろの手に、火のついた赤い蝋燭が手渡された。炎の影が、これからの痛みを期待して波打つ男の身体を舐めまわしていた。蝋燭を傾け、熱い雫を背中に垂らすと、絶叫と共に奴隷の身体がびくびくと跳ねた。これは拷問そのものだな。と、まひろは思った。相手の痛みを想像して反射的に顔をしかめると、ヒナギクがそっと隣に寄り添い、まひろの躊躇を見透かしたように微笑んだ。躊躇ってはいけない。と、その微笑みは言っていた。嬉しい?と、詰問しつつ、ヒナギクは溜まった熱い蝋を垂らした。嬉しいですと叫んで、奴隷はのたうち回った。絶叫が密室に反響し、空気を切り裂くごとに、ヒナギクはより冷たく微笑んで、もっと鳴きなさい。と言った。まひろは、〈共犯関係〉という支配人の言葉を思い出した。確かに、密室は共同犯行現場のように見えた。そこでは、加害者と被害者の思惑が完全に一致しており、責めることと責められることによって、同じ欲望を愛でていた。
男が耐え切れなくなる寸前で、ヒナギクは蝋燭を垂らすのを止め、抱擁と愛撫を与えた。限界の手前が一番きもちいいのよね。と囁きながら、脱力した男の身体中にローションを塗り、ペニスバンドを肛門にあてがうと、犯してくださいと十回言わせてから挿入した。ひむろちゃん、見ててあげてね。ルルも目を逸らしちゃだめよ。恥ずかしいお顔を、いっぱい見てもらいなさい。
ヒナギクに犯される奴隷の濡れた瞳を、まひろは見つめた。幸せそうだなと思った。自分というものを完全に明け渡した、無防備な表情。男は突かれながらごめんなさいごめんなさいと、何度も謝っていた。何を謝られているのかわからないまま、まひろはヒナギクの真似て表情だけで、それを許した。蔑みつつ慈しむような冷たい微笑み。
ねえ、声を我慢しちゃだめよ。いつもはもっと可愛らしく鳴くでしょう?見られて恥ずかしがっているの?恥ずかしがってたら、いい子になれないよ?ヒナギクにそう言われ、奴隷の声がひときわ大きくなった。いい子ね。ねえ、ひむろちゃん。こんな弱くて情けなくて可愛らしい犬っころ、見たことある?どう思う?ヒナギクがそう言うと、奴隷が再び言葉を待つように口をつぐんだ。幸せそう。とってもみっともない。と、まひろは冷たく微笑んだまま言った。そうでしょ?ご褒美あげてくれる?唾を吐きかけても、耳を引っ張っても、首輪を絞めてもいいよ。
まひろは親指と人差し指の爪で、小鳥が餌を啄むように、奴隷の身体の肉を啄んだ。尖った痛みに奴隷の身体がびくびくと震えた。ごめんなさいって言いながらいきなさい。というヒナギクの命令に導かれて男が射精してしまうと、密室に満ちていた共同犯行現場の空気がすうっと引いていった。
ヒナギクは樹脂製のペニスを抜き、縛られて身動きの出来ない男の身体を優しく引き起こすと、彼の頭を自分の胸に埋める形で抱きしめ、痙攣が収まるまで撫で続けた。
すべてが終わってしまうと、ヒナギクは割れ易い陶器を扱うような丁重な手つきで男の緊縛を解いた。自由になった男の身体中を、締め付けられた縄の痕がくっきりと網羅していた。二人は向かい合って正座し、お互いに深々とお辞儀をして「ありがとうございました」と、言った。まひろも習って座り、ありがとうございました。と、頭を下げた。「結構なお点前でした」と続きそうな、丁寧な座礼だった。
まひろとヒナギクは更衣室で着替え、男はプレイルームで着替えた。ボンデージを脱いで私服に戻ってしまうと、ヒナギクの顔から酷薄さが消え、人の好さそうな微笑みだけが残った。ヒナギクにしても、ルルにしても、自分のように仮面を脱いだり被ったりしているのではなく、独りの人間の中の複数の本性が状況に従って表出しているだけのように、まひろには思えた。着替えを済ませてプレイルームに戻ると、既にスーツを着直した男がソファに座って待っていた。背筋はぴんと伸び、先刻までの責めで砕かれた筋金がすべて元通りに戻っているばかりか、清々しい表情と共にいっそう真直ぐに直されていた。
「いかがでしたか。イミヤマさん」と、ヒナギクは言った。
「すばらしかったですね。ひむろさんは、ご経験がおありなのですか?」と、男は言った。先刻まで鞭や蝋燭を振るって責め立てていた女と、のたうち回って悦んでいた男とは思えない落ち着いた口調だった。二人にとって名前は、人と犬を往復するための一種のスイッチなのだろう。
「嗜む程度で。至らぬ点ばかりで申し訳なく思っております」と、まひろは言った。
「イミヤマさんから見て、ひむろちゃんの責めはいかがでした?」と、ヒナギクは言った。
「言葉遣いや、視線や、佇まいはすでに一流」と、男は言った。「観察力もするどい。ただ、鞭や蝋燭の扱い方に修練が必要ですね。相手の求める責めの量を恐らく掴んでいらっしゃるとは思いますが、経験不足のために力の調整が伴っていません。実にもったいない」
「恐れ入ります」と、まひろは言った。
「それから、蝋燭を垂らすときに一瞬の躊躇がありましたね。あれはいけない。仮にもプロフェッショナルなのですから」
確かに躊躇はしたが、あの時男は四つん這いの体勢でおり、蝋燭を垂らすまひろの表情は見えていなかったはずだ。そう思ったのを見透かしたように「わかるんですよ。私くらいになりますと」と言って、男は得意げに笑った。
講評が終わってしまうと、男は鞄を持って立ち上がり、今日は本当にありがとうございました。またよろしくお願いします。と、礼をした。こちらこそです。と、ヒナギクとまひろも頭を下げた。
「いろいろ申し上げましたが、大変素質がおありかと思います。もしよろしければ、また三人でお会いする機会をいただけたら嬉しい。ああ、それと」男は言葉を切り、照れくさそうに視線を逸らした。「幸せそう。と言ってもらえたとき、うれしかったですよ」そう言い残すと、男は扉を開けて部屋を出て行った。
扉が閉まってしまうと、ヒナギクがくすくすと笑った。うちの犬かわいいでしょ、とでも言いたげな笑顔だった。
「晩御飯食べに行かない?」と、ヒナギクは言った。
ヒナギクは駐車場に車を停めて待っていたこよみに、キャリーケースと仕事の報告を託して先に戻らせ、行きつけだという焼肉屋にまひろを連れて行った。
SMホテルから歩いて五分ほどの場所にある、焼肉屋というよりもホテルのバーのような静かな雰囲気の店だった。四卓しかない広い客室は透かし彫りを施されたローズウッドの衝立で仕切られており、薄暗い店内には静かな音量で二胡の調べが流れていた。
紙エプロンを巻いたヒナギクは肉や酒を次々と注文しつつ、左手でトングを器用に使って自分とまひろの分の肉を焼き、右手で箸を使って食べた。数日ぶりに獲物を狩った狩猟民のような忙しない勢いだったが、テーブルの上に油や酒の飛沫をまるで残さない綺麗な食べ方だった。
「食べてね食べてね」と、ヒナギクは言った。手も口もよく動く人だな。と、まひろは思った。
食べながら、ヒナギクはまひろの初仕事を褒めた。「とてもはじめてとは思えない、いいお仕事だったよ。それに、優しいひとなんだなって思った。虐め方に思いやりがあるよね」
思いやりを持って虐めるとはどういうことだと思いつつ、家や学校で褒められ慣れていないまひろは、照れて顔を真っ赤にしてしまった。「かわいい」と、ヒナギクと笑った。「現場では顔色一つ変えずに、わんちゃんを辱めていたのに」
「ヒナギク先輩も」と、烏龍茶を飲みながらまひろは言った。その先輩っていうの、照れるね。部活動みたい。と、笑いながらヒナギクはまひろの薬味皿に花椒塩を盛り、小皿に焼けた牛タンを乗せた。いただきます、先輩。と、まひろが運動部の後輩の演技をして言うと、ヒナギクは笑いを堪えるために手で口元を隠しながらもぐもぐと肉を咀嚼して嚥下し、喉に残った油を洗い流すように生ビールを一息に飲んだ。
「おいしそう」と、思わずまひろは言った。
「仕事のあとって、お腹すくのよね。普段使わない筋肉や脳細胞を使うって言うか。普段、生活する分には誰かを虐めながら悦ばせてやろうなんて思わないもの」と、言ってヒナギクは笑った。
微笑みながら細やかに肉とまひろの世話を焼くヒナギクと、さっきまで冷酷な目つきで裸の成人男性を犬に見立てて調教していたヒナギク。片方しか知らない人は、もう片方の姿を想像することもできないだろうな。と、まひろは思った。
「ひむろちゃんは、今日お客様を責めてみて楽しかった?」と、ヒナギクは言った。まひろは少し考えて「わかりません」と、答えた。「わたしはどうも誰彼かまわず虐げて快感を覚えるタイプの人間ではないのだと、今日参加させていただいて、わかりました。鞭や蝋燭も痛そうでしたし。ただ、幸せそうだな。とは思いました。お客様も、ヒナギク先輩も」
やだー。と口元を押さえてヒナギクは笑い、店員を呼ぶと、また酒と肉を追加注文した。骨付きカルビと上ハラミとサンチェと冷やしトマトと胡瓜たたきと生ビール大ジョッキでいただけるかしら?
「あれよかったわよ。〈幸せそうだと言ってもらえて嬉しかった〉って、あのイミヤマさんが顔を赤らめて照れていたもの。あのひと、基本的にセッションの時間以外はあんまり表情を変えないんだけどね」と、ヒナギクは言った。
「弱さという小動物を、お二人で檻から出して可愛がってあげているように見えました。その小動物とのコミュニケーションが幸せそうに見えたんです」と、まひろは言った。サンチュで巻いた肉を口に迎え入れようとしていたヒナギクの動きが止まり、食べ物を一旦小皿に戻してから、まじまじとまひろの顔を見つめた。
「面白いこと言うんだね。ひむろちゃんは」と、ヒナギクは言った。「色んなタイプのおマゾさんがいるんだけど、確かにイミヤマさんは弱さを隠れて飼っている方なの。きっと誰かに禁じられていたのね。捨て犬を隠れて飼う子供みたいに、弱さを隠してる。多分、普段はとても強くて隙のない人なのよ。詳しくは知らないけど、菊比芽様が言うには、お金も権力もいっぱい持っているみたい。ストイックな性格は、引き締まった身体や着こなしや言動にも表れているよね。でも、だからこそなのかな。時折、弱さを放し飼いにしてあげる必要があるの。定期的にドッグランに犬を放つみたいなものよ。さもないと、閉じ込められた弱さが狂犬化して彼に襲いかかってしまう」
「なるほど」と、まひろは言った。
「それにわたし、男のひとの弱さが好きなの。普段は隠されている弱さが、素っ裸になって甘えに来るのが好き。世の中はいつも強さや正しさを人々に求めがちだけど、わたしはそっちの方が嫌いなの。あの偉そうな奴らが」ヒナギクの顔が、はじめて憎しみに歪んだ。奴隷を鞭打つ時とも違う、個人的な憎しみに満ちた顔。自分の母親が、別れた父親を呪う時の顔に少し似ているな。と、まひろは思った。
「わんちゃんたちの弱さを檻から出して可愛がってあげてると、わたし自身も安心するし、癒やされるの。弱くても汚くても、可愛いんだよって認めることができる。暴力や婬奔に属する、いわば反社会的なSMというロールプレイが、わたしやお客様を精神的に浄化してる部分は確かにあるのよ。強さによって傷つけられたわたしを、お客様の弱さが癒してくれるの。言われてみれば、確かに幸せなことかもね」
ヒナギクはもとの朗らかな笑顔に戻って笑い、新たに肉と酒を注文して大いに飲み食いをした。どれほど飲んでも乱れることなく、奴隷たちの可愛らしさを力説するヒナギクの話を聴くのは楽しかった。愛犬家が飼い犬の健気さや可愛らしさを自慢げに語っているのに似た微笑ましさがあった。みんな奴隷で、みんな可愛い。と、ヒナギクは言った。
まひろも勧められて小瓶一本だけ青島ビールを飲んだ。どちらかと言えば忌避し続けてきた酒を、産まれてはじめて美味いと感じた。苦い炭酸の中に、一日の疲れが溶けていった。
大体の性具は使用しているうちに使い方を覚えることができるが、縄による緊縛だけは別だった。基本的な縛り方だけで数十種に渡り、応用とバリエーションに至っては無限とさえ言える。こればっかりは学習と反復練習しかないのよね。と、ヒナギクは言った。とは言え、フォビアフィビアで勤務するためには研修期間中に基本的な緊縛の技術を体得することが条件になるため、可及的速やかに習得しなければならない職能ではあった。練習台にマネキンとかトルソとか買った方がいいんですかね。と、まひろは相談した。
「そんなあなたに是非とも紹介したい人がいます」と、言ってヒナギクは笑った。「段取りを組むので、後日事務所まで会いに来てね」
呼び出された日時に事務所のアパートの扉を開けると、細長い手足をした小柄な女性が、椅子に座ってまひろを待っていた。白いドレスを着た姫カットの女性は、膝の上で両手を重ね、身じろぎもせず玄関のまひろを見つめていた。
まひろは挨拶をして靴を脱ぐと、女性の傍に寄ってお辞儀をした。はじめまして。ひむろと申します。お世話になります。返事が返ってこないので頭を上げると、女性はまだ椅子に座ったままの姿勢で、身動ぎもせずにまひろを見つめていた。ありとあらゆる美容整形を施した結果のような、整った顔立ちの少女だった。じっと見つめ返すと、生まれたての硝子球のように澄んだ少女の眼にまひろの姿が映った。まばたきが見られなかったので、恐る恐る彼女の口元に手を当てると、そこにあるべき呼吸と体温が感じられず、まひろはやっと彼女が人形であることに気づいた。鞄の中で電話が鳴った。ヒナギクからだった。
「びっくりしたでしょ」と、電話口でヒナギクが言った。
「びっくりしましたよ」と、まひろは言った。
「その子の名前はカミーユ先輩。縄や鞭の練習台になってくれる、由緒正しき先輩です。わたし以上に敬意を持って接するように。人間と違って汚いものを出すことはしませんが、それ以外は人間と一緒です」
人間の出すもの。とまひろは思った。声と吐息と老廃物、それから…。
「教本と縄をいっしょに置いて行くので、がんばって練習してね。ちなみに、カミーユ先輩はオプションの男性器を装着することによって、男の子にもなれます」
電話が切れてしまうと、部屋の中にはまひろとカミーユの二人きりになった。まひろは自分のためにインスタントコーヒーを淹れ、椅子に座ってヒナギクが置いて行った緊縛の教本を読みながら飲んだ。愛をもってして縛れないものはなく、我欲をもってして縛れるものはありません。と、教本の序文には書かれていた。
「カミーユ先輩。よろしくおねがいします」と、挨拶をすると、まひろは彼女の手を取った。白百合のような人工皮膚は触れるとひんやりと冷たく、脱力した腕はずっしりと重かった。細い手首を握ると、その向こうにある硬い骨の存在に触れられるばかりか、エメラルドグリーンの血管さえ透けて見えた。赤い血が流れていてもおかしくないと思った。関節の可動域は人間のそれと殆ど同じであり、まひろは途中から彼女が人形であることを忘れた。痛みを与えないように細心の注意をもって彼女を縛りつつ、途中、何度も確認のためにカミーユの瞳を覗きこんだり、唇に触れたり、心臓に耳を当てたりした。その精巧さによって、次第に室内での生命の定義が曖昧になっていくことに、得体の知れない安心感を覚えた。自分は動く人形であり、彼女は動かない人間である。と定義されても間違いはないような気がした。
教本とヒナギクに教えられた通り、愛と敬意をもってまひろは彼女を縛った。痛みと不安を与えない事。締め付けることと抱きしめることが高いレベルで一致することと、教本には書かれていた。
教本にはさらに〈縛ることによって抱擁せよ〉と、書かれていた。〈愛のない束縛は単なる所有であり、そこには絆も快楽も産まれない〉
まひろは時を忘れてカミーユを縛り続けた。もともと、没頭することが好きだった。勉強にせよ、演技にせよ、バイクにせよ、労働にせよ、自傷にせよ、セックスにせよ、それをしている限りは他の事を考えなくてもよいという行為に、これまでもまひろは、殆ど依存に近い形で没頭してきた。緊縛は、それらと同様にまひろを没頭させた。子供の頃に病的な程に好きだった知恵の輪やあやとりを、肉体を使って追試しているようだった。
カミーユは、透き通った眼を開いたまま、すべてをまひろに預けていた。縄による力加減や姿勢のバランスを誤ると、人体と殆ど違わない重心を持つ美しい人形は椅子から転げ落ちそうになり、その度にまひろは彼女を支え、謝った。何事も、力尽くで上手くいくものではないのだな。と思った。
〈自分ならどう縛られたいかを考えないのであれば、むやみに人を縛らないほうがよい〉という教本の解説の通りに、まひろはカミーユの身体を扱った。必ずしもきつく縛り上げる必要はなかった。肉体の重心と関節の構造を理解することによって、人間という荷物を容易く梱包することが出来ること。そこに苦痛を付与するか否かは、縛る者の判断にゆだねられていることを、まひろは学んだ。
教本の第一章に基本として記された手首の緊縛、足首の緊縛を納得いくまで反復してしまうと、まひろはいったん縄をまとめ、縄跡のついたカミーユの手足を撫でた。
「ありがとう。カミーユ先輩」と、まひろは言った。長い時間をかけ、自分を縛るように彼女を縛り続けていたせいで、人間と人形の境界線が曖昧になっているのを、まひろは感じた。境界を再確認しようとするように、まひろは両手をカミーユの頬にあてると、その顔を覗き込んだ。
なんて完璧な奴隷なのだろう。と、まひろは思った。叫ばず、抵抗せず、痛みを訴えず、愛でられるためだけの美しさを持つ、人間に似た何か。床に跪き、椅子に座ったカミーユの太ももに、まひろは顔を埋めた。
「でも、あなたは人間じゃないのね」と、まひろは言った。「人間であるためには、汚いものを吐きださなければならないもの。声や吐息や老廃物、プシュケーや嘘。わけのわからない叫び。そんなものを。だから、わたしたちはどうしてもあなたになれない」
縄を解かれ、自由にされたにも関らず、人形は椅子から動かなかった。まひろはまだ、自分と彼女を混同させていた。カミーユの胸に耳をあて、耳を澄ました。遠くから聴こえた小さな鼓動はまひろ自身の心音に過ぎなかったが、彼女はカミーユの胸の中で聴こえるものだと思いこもうとした。
「あなたの代わりにわたしは鼓動し、わたしの代わりにあなたは鼓動を止める」と、まひろは呟いた。
夜が訪れるまで、まひろは様々な格好でカミーユを縛り続けた。教本には三十を越える縛り方が解説されており、実践し覚えきるには時間がいくらあっても足りなかった。その日はたまたま仕事の予約が入っていなかったらしい。辺りが暗くなるまで、誰もアパートに入ってこなかった。お陰でまひろは彼女の時間と集中力のすべてを、縛る練習に費やすことができた。
陽が沈み、戸外に鈴虫の鳴声が響き渡る頃、アパートの鍵を開けて入ってきたのは、こよみだった。我を忘れて人形を縛り続けていたまひろは、玄関に立ち驚いたように自分を見つめるこよみの姿を見て、はじめて夢から覚めたような顔で彼女を見つめ返した。
「こんばんは。ひむろさん。熱心ですね」と、こよみは言った。ゆったりとした黒い無地のワンピースを着た彼女を見て、見習い魔女のようだなとまひろは思った。
「こんばんは。こよみさん。すみません、ついつい時間を忘れてしまって」と、まひろは言った。
「こよみと呼んでください。縄の練習をなさっていたんですね」と、こよみは言った。まひろは質問の意味がわからないという顔をして、答えを五秒間保留してから、自分が何をしているのかもわからなくなるほど行為に没頭していたことに気づいた。
「そのようです」と、まひろが答えると、こよみは声を出さずに笑った。
「楽しいですよね、縛るの」と、こよみは言った。
「カミーユ先輩のお陰で」と、まひろは言った。
こよみは薬缶に湯を沸かすと、キッチンの引き出しから硝子のポットを出して、二人分の紅茶を淹れた。カップとポットを一度温め高い位置から湯を注ぐきちんとした淹れ方だった。最後に小さじ一杯分の苺ジャムを湯気の立つカップの底に沈めると、ソーサーとカップをテーブルに置いた。紅茶が冷めるのを待つ間、薬缶に残った湯をバケツに注ぎ、水で割って人肌の温度のぬるま湯を作り、清潔な布巾を浸して固く絞った。
「今日の練習はそのくらいにしておいてください」と、こよみは言った。「後はわたしが片付けておきますので」
ぬるま湯で固く絞った布巾で、こよみはカミーユを清拭をはじめた。あの、手伝います。と、まひろが言うと、こよみはもう一枚布巾を絞って、まひろに渡した。二人は人形の服を脱がしつつ、その身体を優しく清めた。
「丁寧に練習なさっていたんですね。カミーユの身体を見れば分かります。縄の痕でわかるんです」と、こよみは言った。褒められたような気がして、まひろは照れ笑いを浮かべた。
「よかったです。カミーユはある意味、フォビアフィビアで菊比芽様に次ぐ最高権力者ですので。いつでしたか、断りなくダッチワイフとしてカミーユを犯した新人がいまして、その人はアザレアさんに酷いお仕置きを受けましたね。いや、あれはお仕置きと言うよりも制裁でした。ひむろさん、あなたが優しい人で良かった」と、こよみは言った。人体を拘束し縛り上げる練習と優しい人という評価の間に多少の齟齬を感じつつも、とりあえず、まひろは礼を言った。
「アザレアさんって?」と、まひろはカミーユの耳の裏を拭きながら言った。
「ひむろさんにとっては先輩にあたります。後日、研修として仕事に同行してもらうことになると思いますので、その時に詳しくわかりますよ。だいじょうぶ。悪い方ではありません」
カミーユの身体を綺麗に拭いてしまうと、こよみはまひろに紅茶を勧めた。いただいてよろしいんですか?と、綺麗に拭き清められたカミーユを見ながらまひろは言った。カミーユは飲みません。どうぞ召し上がってください。と、こよみは笑いながら言った。まひろは紅茶を一口飲んだ。喉を通った後に苺の香りがふわりと追ってくる熱いダージリンに数滴のブランデーが入っていた。すぐに体の中がぽかぽかと温かくなり「おいしいです」と、まひろとは言った。
「それはよかったです」と、こよみは微笑んだ。
「あの、こよみさんも、縛ったりするんですか?」と、まひろは言った。
「こよみでいいですよ、ひむろさん。わたしも縛ったり、縛られたりします。ひむろさんがカミーユを自在に縛れるようになったら、次はわたしの身体を縛ってもらいます。卒業検定のようなものです。問題がなければ、その後、お客様と一対一のセッションに入っていただくこととなります」と、こよみは言った。
「わたしのことも、ひむろと呼び捨てにしていただければ」と、まひろは言った。
こよみは紅茶を一口飲み、少し考えてから「わかりました。お互いに好きなように呼び合いましょう」と、言った。その後も、こよみが口調を崩さなかったので、まひろも敬語を保った。ふたりは紅茶を飲みながら、先日のヒナギクとの研修について話をした。
「ヒナギクさんが、まひろさんを褒めていらっしゃいました。キャストとしての才能があると」と、こよみは言った。
「キャスト?」と、まひろは言った。
「風俗業界で働いている女の子のことを、そう呼んだりもしますが、ヒナギクさんは女優的な意味合いで仰ったんだと思います。SMは多かれ少なかれ、演劇としての側面を持ちますので。わたしも直感でですが、同じ印象を持っています。他人のために笑うあなたの笑顔はとても優しい。同じように、他人のために責めたり蔑んだりすることもできることでしょう」
不思議なひとだな。と、まひろは思った。こよみの声や笑顔には起伏がなかった。それは水平線のように平坦で、独りきりの風景の中にいるような居心地の良さと、別の惑星から来た異邦人といるような不安を同時にまひろに感じさせた。すべてが彼女の中だけで完結しているような、ゆらぎのなさ。
会話が途切れると、まひろとこよみは、どちらともなくカミーユの顔を見つめた。
「綺麗ですね。カミーユ先輩」と、まひろは言った。
「ええ、ほんとうに。命がないという点以外は、まるで人間と変わりません。そしてカミーユを見ていると、命なんていらないんじゃないかという気にすらなります」
「こよみさんは、命や人間がお嫌いなんですか」
「嫌いではありません」と、こよみは言った。「ただ、わからないだけです。わたしにはひとがわかりません」
まひろはこよみの顔を見た。ひとがわからないと言う無表情の少女を自分が縛っている光景を想像したが、ふたりがどんな表情をしているのかは浮かんでこなかった。
しばらくの間、自分の中に正体のわからない空白を抱えたまま、それを塗りつぶそうとする日々が続いた。可能な限り母親との接触を避けるために、図書館や学校の体育倉庫やネットカフェで切れ切れの仮眠を取り、残った睡魔を振り切るためにバイクに乗って法定速度を超過した。母親や白バイやパトカーの目を逃れつつ拠点を転々し、まひろは受験勉強やコンビニエンス・ストアでのアルバイトや緊縛の反復練習に時間を費やした。
時折「だいじょうぶ?」と声を掛けて来るアルバイト先の同僚の男の家に泊まったりもしたが、やはり以前ほど仮面を上手に形成できず、事態はより悪質な破局を迎えた。まったくもってだいじょうぶではなかったが、それは彼女にとってさしたる問題ではなかった。その頃、最早だいじょうぶではないという事態こそが自然な状態になっており、まひろはその中心でやっと呼吸をすることができていた。
男たちと過ごす時間の中で、空白に呑み込まれたように唐突に仮面が剥がれてしまうことがあった。さしたる前兆もなく、接着剤の弱化の結果のように仮面が剥がれてしまうと、まひろの声と表情の一切が静止し、あらゆる刺激に対して反応ができなくなった。男たちはまひろに呼びかけ、肩を揺すり、戻って来いと彼女を呼んだ。深い深い水たまりのなかにいるような沈黙の向こう側から男たちの声が聴こえる時、まひろは決まってカミーユの瞳の事を考えた。何一つ意思を示さない美しい硝子玉の底から、必死で瞳の表面を目指して浮上し、微かに開いたまひろの口が「何?」と呟くと、おまえの方こそ何なんだ。と、男たちは言った。
時折、剃刀で自分の身体を傷つけた。空白に対する抵抗と、傷口のなかに閉じ込められた自分を探すための試みだった。そのようにして流れるのが赤い血だけだったとしたら、彼女はまさに血液そのものであり、流される血の量には際限がなかった。
ある男は気味悪がって関係を断ち、ある男は無視されたと感じてまひろに怒りを示し、時には殴った。ある男は通院を勧め、ある男は束縛の余りストーカーと化した。
「ひでえ顔してるね。あんた」と、アザレアはまひろの顔を見るなり言った。控室用のアパートの扉をアザレアが扉を開けたとき、自分か相手が部屋を間違えたかと思った。虹色のスポーツサングラスをかけ、ぴったりとしたランニングウェアを着た背の高い女が、息を切らせて部屋に入ってきて、勢いよくアフターストレッチを始めた。
「ちゃんと寝てる?食ってる?うさばらししてる?」と、アザレアは言った。
「どれもしてないです」と、まひろは恥ずかしそうな表情を作って言った。確かに、疲労と緊張の繰り返しによって、まひろの表情は最低限の栄養で、最大限の労役を強いられる囚人のように青白かった。
「いけねえよ。食って、寝て、うさばらししないと」
アザレアは顔をしかめて言った。陸上部の先輩と後輩みたいな会話だなと思った。実際、アザレアの身体はアスリートを思わせるしなやかなな筋肉の塊だった。180センチはあろうかという長身がまとう引き締まった筋肉は、それ自体美しいシルエットの衣装のようであり、部位ごとに自立した呼吸をする命ある生物のようだった。走ってやって来たのだろう、汗ばんだ筋肉の放熱のせいで室温が二度上がった気がした。
「アザレア先輩ですか?」と、まひろは言った。
「ああ。よろしく。ひむろだよね」と、アザレアは言った。決して大声ではないのに部屋中にくっきりと響き渡る、曖昧さのない声質をしていた。ヒナギクと違って、先輩という敬称で呼ばれることに一切の違和感がなかった。よろしくお願いします。とまひろは礼をした。
「ひむろはさ。ドミナントなの?」と、アザレアは言った。
「はい。そのような職枠で採用されました」と、まひろは答えた。
「なるほど、じゃあ文系かな?」と、アザレアは言った。意味がわからずまひろが首をかしげると「あたしは体育会系サディストだからさ」と、アザレアは言った。
「ヒナギクも文系。もうひとりのシノノメっていうのも、どちらかというと文系サディストなんだ。まあ、オーナーの菊比芽様からして、もうがりがりの文系なんだけどね」
「筋肉量の差の話でしょうか?」と、まひろは言った。
「そうだけど、それだけじゃない」と、アザレアは笑って、屈伸運動をした。身体を動かしていないと喋れない人なのかなと、まひろは思った。
「例えばさ、フォビアフィビアでは客の相手をすることを〈セッション〉って呼んだりするだろ。〈プレイ〉でいいじゃんね、って思うわけさ。女の子だって、嬢とか女王様でいいのに、わざわざドミナとか、ミストレスとか、サディストとか細かく分類するし、なんならキャストって呼んだりする。厳密なのはいいけど、なんか演技がかってんだよな」アザレアは床で180度開脚をして、身体を左右に傾けながら言った。まひろはアザレアの見下ろさないように、床に座りこんで話を聞いた、
「SMはそもそも演劇的な側面を強く持つって教わりましたけど」と、まひろは言った。
「ヒナギクに?あいつはそうだろうな。ひむろもそんな感じするね」
「アザレア先輩は違うんですか」
「あたしは違うね。あたしはもう根っからだからさ」と、アザレアは言った。「マゾどもをいじめて、屈服させて、搾り取ること自体が楽しいんだよ。もう生粋なんだ。なんの演技もしてない」
アザレアは立ち上がって冷蔵庫からエビアンのボトルを取り、二人分のグラスに注いでテーブルに置くと、喉をひくひく鳴らして自分の分を一息に飲み干しながら、掌を向けてまひろにも水を勧めた。ありがとうございます。と言って、まひろも一口飲んだ。アザレアの声や身動きには有無を言わさない迫力と強制力があり、水は服従の味がした。体育会系サディスト。と、まひろは思った。水を飲み干してしまうと、アザレアは話を続けた。
「確かにヒナギクなんかは、マゾの欲求をなめ回すように理解して、その望み通りに責めるのがうまいよ。そういうプレイは観察と分析に優れてなきゃ出来ないし、相手によってキャラクターを変える演技力も必要になる。あたしにはできないな。何度か共同でプレイしたことがあるけど、人が変わるもんね。ヒナギクは」
「確かに」と、まひろは言った。ヒナギクが客を虐げる時の姿を思い出した。聖母と拷問官と飼主のエッセンスを調合し、瞬時に奴隷にとっての理想の主を憑依させていた。
「でも、あれは主従が逆なんだよ。ヒナギクが相手の欲望に仕えてるんだ。そして具現化するための努力を惜しまない。奴隷にしてみりゃ楽なもんさ。でもまあ、あいつのそういう優しいところが好きなんだけどね。あたしは相手のためにキャラクターを変えない」
「なるほど」
「ひむろもヒナギクと同じだろうなって、すぐわかったよ。よく観察する文系の目だ。でも、相手のことばっかり考え過ぎてると、そんなふうに顔色が悪くなっちゃうんだぞ」と、アザレアは言った。
アザレアはメイクもせず、ランニングウェアのまま、性具の入ったキャリーカートだけを引いて〈サバンナ〉というプレートが掛けられたプレイルームにまひろを連れて行った。薄暗い部屋に、松明を模した間接照明が揺れていた。ごつごつとした岩壁が、部屋に原始時代の洞窟のような雰囲気を与えていた。
奴隷は既に服を脱ぎ、床に正座をして待っていた。黒革の首輪と、ぴったりしたボクサーパンツだけを身に着けている。アザレアに劣らない筋肉質な男で、座った姿は一塊の岩山のようだった。アザレアは自宅に帰ってきたかのような遠慮のなさで入室すると、正座している男の横でキャリーケースを開け、その場でコスチュームに着替えだした。男は、はばからず服を脱ぐアザレアを神々しい何かに祈るような目で見上げてた。コスチュームはランニングウェアと殆ど同じ構造のシンプルな衣装であり、違いと言えばナイロンがレザーに切り替わっただけで、その姿はやはりアスリートの延長のように見えた。着替え終わってしまうと、アザレアは総合格闘技で使うようなオープンフィンガーグローブを両手に嵌め、まひろに彼女の分のコスチュームを放って「先にはじめてるから着替えてきな」と言った。
まひろが更衣室で豹柄のベビードールランジェリーに着替えていると、プレイルームの方から苦悶の声が聴こえてきた。鞭や蝋燭を受けた時の絶叫とは違うくぐもった声を聴いて、口枷を付けられているのかと思った。着替えたまひろが部屋に戻ると、手枷で後ろ手に拘束された奴隷の首に、アザレアが両手を回していた。くちづけをしているのかと思った次の瞬間、アザレアの膝が男の鳩尾に突き刺さった。低く小さな苦悶の呻きを、自分の中に押しとどめるように、奴隷は耐えていた。
「紹介するよ、ひむろ。こいつはヒロミ。いっぱい殴られるために、こんなに鍛えてきたんだよ。すごいよね」
そう言って、アザレアは六つに割れた奴隷の腹筋を指で撫で、トランクス越しに勃起したペニスに膝を当て弄んだ。後ろ手に縛られた奴隷が悦んで小刻みに震えた。アザレアは痛みにうずくまった奴隷の首輪を掴んで立たせると、唇を耳に寄せて何かを耳打ちした。奴隷がこくこくと頷くと、グローブを付けた拳で、彼の腹を殴った。硬いゴムを叩いたような鈍い音がして、奴隷が前かがみになって苦悶した。
「すごいだろ?こいつほど一生懸命なマゾはいない。筋肉分だけ、殴られたいんだ。殴られた分だけ、溜まっていくんだよ。今日は出したいか?殴られたいか?」
痛みに耐える奴隷の腹筋が波打っていた。ボクサーパンツの下の勃起したペニスを優しく撫でさすりつつ、痛みが引ききる寸前で、アザレアがまた腹を殴った。男の口から涎が一筋、光りながら床に落ちていった。
「耐えられなくなったら言うんだよ?もっと欲しい?」
奴隷の口から溢れる涎を指で掬って舐めながらアザレアが言うと、男はもっとくださいと叫んだ。いい子だ。思いっきり叫んでいいからな。
アザレアの拳は、訓練された美しい弧を描いて男の腹を打った。鍛え上げられた肉と肉とがぶつかり合って弾ける音と、男の絶叫が交互に部屋の中に反響した。腹筋と性器を硬くして「もっとください」と叫ぶ男と、応えて痛みを与えるアザレアの姿を見て、官能的な筋トレみたいだな。と、まひろは思った。
部屋中に響き渡る絶叫がいったん止んだ。アザレアは男を四つん這いの恰好にして下着を脱がせると、まだぴくぴくと震えている奴隷を見下ろしながら、まひろの耳元で「やってみるか?」と、囁いた。まひろは思わず顔に戸惑いを浮かべた。アザレアのように、奴隷を悦ばせる殴り方を訓練していないし、そもそも人を殴打するという行為自体に抵抗を感じた。アザレアは「来な」と、まひろを奴隷の傍に呼び、ピンヒールの踵で背中を踏むように言った。尖った踵を四つん這いになった背中に埋めると、アザレアが指を刺して踏む位置を修正した。指示通りの点を踏むと、男の声がひときわ大きく悦んだ。そのままじっくりと力を入れるんだ。ヒロミはお礼が癒えないのか?それとも、あたし以外のご主人様はいやなのか?と、アザレアは言った。ありがとうございます。アザレア様だけの奴隷でいさせてください。と、男が叫ぶと同時に、アザレアは弓なりにしならせた乗馬鞭で男の尻を打ちはじめた。男の悲鳴と、蔑むような笑い声、鞭の打擲音が大きくなるのに合わせて、まひろは男を踏みつけるピンヒールにゆっくりと力を込めた。踵から、服従の悦びが流れ込んでくるように感じた。
絶叫の声量が最大に達すると、アザレアは鞭を投げ捨て、手でまひろの蹂躙を制止し、真っ赤に染まった男の尻を舐めた。奴隷は最早、声にならない掠れた吐息しか吐くことが出来なかった。アザレアは鍛え上げられた男の筋肉を舐めまわした。捕食する前の儀式のように、獲物の身体中に長い舌を這わせた。本当に変態の筋肉だな。おまえの身体も心も、全部あたしに虐げられるために造ってきたんだよな。情けない声出しやがって。まだ痛みと熱を留めた筋肉の表面から、舌と指先の愛撫によって緊張が奪われていった。すっかり柔らかく無抵抗にしてしまうと、アザレアは男を仰向けにして足を開かせた。
「何日溜めてきたんだ?」と、アザレアは言いながら、皮の手袋を嵌めて男の性器を握った。五日ですアザレア様。と、男が叫んだ。楽しみだね、ひむろ。すごいのが見れるよ。と言いながら舌なめずりをし、手袋の掌の部分で男の性器の先端を擦り始めた。愛撫と言うよりは、性的な火起こしのように見えた。一番敏感な部分に過剰な摩擦を与えられ、その日一番大きな声をあげて男は悶えた。すごい声だろ、ひむろ。聴いたことあるか、こんな酷い声。どう思う?と、アザレアはまひろの眼を見て微笑んだ。奴隷のために演技をしないというサディストの目は、ごちそうを目の前にした美食家のように輝いていた。変態。本当に変態。どんなの見せてくれるのかな。と、まひろは笑った。嘲笑を受けて、男の叫び声がますます大きくなった。ひむろ、そっちの耳元で「いけ」って言い続けてやってくれよ。と、アザレアは言った。まひろは奴隷の耳元で優しく「いけ」と囁き続けた。アザレアは性器を擦る手をますます速めながら、もう片方の耳に向かって「いくな、まだいくなよ」と、囁き続けた。許可と禁止に挟まれた抵抗不能な快楽の中で、奴隷が痙攣しながらもうだめですと叫ぶ寸前に「出せ」とアザレアが囁き、性器ごと白く破裂するような射精が弾けた。男の絶叫と、アザレアの笑い声が部屋の中に反響した。永遠に続くかと思われた射精がようやく収まろうとする寸前、アザレアは性器を掴んで、笑いながらもう一度擦った。男は感覚過敏によって白目を向きながら悶え、もう空っぽになった精液ではなく透明な液体を失禁して今度こそ力尽きた。
アザレアは男の腹筋の表面に撒き散らされた体液を一滴、指で掬って口に入れ、残りを濡れタオルでごしごしと拭った。
「いっぱい出たね。すごいよ」と、彼女は言った。男はまだ射精の余韻に震えながらホームランを褒められた子供のような笑顔で、ありがとうございます。と、呟いた。アザレアは喉を鳴らしてペットボトルのエビアンを飲み干し、男の傍らに座って掌で腹筋を撫でた。やっと痙攣が収まりつつあった男の身体が、また幽かに震えた。
「すごいだろ。ひむろ」と、アザレアは自慢げに言った。「もちろん、みんながこうじゃないよ。どちらかと言えばヒロミは特殊な方。でも、あたしは好きなんだ。マゾとしての物理的な耐久度が違う」
「よかったです」と、まひろは言った。「みんながこうなら、わたしも身体を鍛えなきゃいけない。ジムに通い始めなきゃと思いました」
「行った方がいいっすよ。紹介しますよ」と、男は起き上がって言った。入室してからはじめて見る男の笑顔は、まひろの中の陰鬱さを照らし出してしまうほどに爽やかで、まひろは眩しいものを見る時のように思わず目を細めた。
「格闘技もいいよ。あたしとヒロミはムエタイのジムで出会ったんだ。ヒロミはインストラクターなんだよ。サンドバッグの蹴り方をあたしに教えているうちに、何故か自分がサンドバッグになりたくなっちゃったんだ。ねえ、なんで?」と、アザレアは言った。
「なんでですかねえ」と、質問を受けて男は言った。「アザレア様のキックのフォームが美しかったのと、蹴ってる時の表情がいきいきしていたからですかね。十年もムエタイ講師やってると、そいつが蹴りやパンチに何を乗せてるのかがわかるんですよ。復讐心だったり、恐怖心だったり、子供の駄々だったり色々なんですが、アザレア様の御顔はなんか性的だったんですよね。そんで、キスだとかハグだとかペッティングだとかセックスだとか、全部吹っ飛ばして蹴られたいと思ってしまったんですよ。わかります?」
「すてきなお話ですね」と、まひろは言った。まったくわからなかったが、話しながら男の笑顔がきらきらと輝いているのを見て、本当にすてきだと思った。自分の愛するものを語る人間の姿は、しばしばまひろを安心させた。相手がそれを語っている間は一切の危険がないばかりか、彼女自身も安心することが出来るからだ。
「ひむろ。やっぱりあんたは身体的な責めを得意とするサディストではないみたい。プレイの時の空気の読み方はとてもいいけどね。本当に相手のきもちをよく察する子だよ。だけどさ、いい機会だから、身体的な責め方を一度体験しておこう。ヒロミ、手伝ってくれる?」
「もちろんです。アザレア様」と、職業的インストラクターとマゾヒストの中間の表情をして、男は言った。
二人のアスリートは、六つに割れた男の腹筋を使って、まひろに身体的な責めのこつを教えてくれた。
「マゾは楽器だと思えばいい。鳴らされてはじめて楽器は悦ぶ。大切に扱うのはいいけど、小さな音で鳴らしても意味がない」
アザレアはそう言って、男の腹筋を消しゴムのかすを払うような仕草で打ちはじめた。
「スラップからはじめていくんだ。触れる面積は小さく、打つ手は柔らかく。スラップスラップ。打つ面積と硬さを段々増していくよ。見てな」
筋肉を打つ音が次第に鈍くなり、男は呻き声を漏らした。確かに二人は楽器と奏者のように見えた。軽い打撃には軽い音で。重い打撃には重い音で、楽器は鳴いた。
「平手打ちから掌打へ移行していくイメージだな。体軸を美しく見せる訓練はしておいた方がいい。それで威力が落ちてもかまわない。軸がぶれるのだけはだめだ。自分にとってもマゾにとってもいいことはない。あとは体重のコントロールだ。手でも鞭でもスパンキングロッドでも、打撃に体重をかけるほど痛みはマゾの奥深くまで達するし、軽ければ皮膚の表面を這いまわるに留まる。これは好みの問題であって、どっちがいいとは言えない。やりながらいい音が出るポイントを探るんだ。ほら見てみろ、ひむろ。だんだんうっとりしてきちゃっただろう?」
男の肌が汗ばみ始め、そのまま加虐が加速すれば掌打から殴打に移るのだろうという時点でアザレアは殴るのをやめ、いい子だヒロミ。と、言って男の頬を優しく撫でた。
「弱く軽く打つところからはじめて相手の反応を探っていくのが一番簡単だよ。ただ、ちょっと気になることがあってさ。ひむろ、拳を握って」と、アザレアは言った。まひろが言われた通りにすると、アザレアは男の腹筋を指して「殴って」と、言った。思わず男の顔を窺うと、彼は微笑みながら「いいっすよ」と言った。鍛えていない女に殴られたところで痛くも痒くもないという笑顔だった。まひろは言われた通り、体重をこめた拳で男の腹筋を殴った。硬いゴムのような反動が、彼女の拳を体ごと弾き返した。どう?という表情で、アザレアは男の顔を見た。
「威力や殴り方がどうこうの前に、優しいっすね。躊躇がある」と、男は言った。
「暴力に対する拒否があるな。ひむろには」と、アザレアは言った。
「そうかもしれません」と、まひろは言った。「相手の痛みを想像すると、どうしても反射的に」
「相手の悦びを想像するんだ」と、アザレアは言って、男の肋骨に爪をたてた。男は身体を硬くして小さく呻いた。
「他人の痛みを想像するのはいい。だが、自分に置き換えるな。ヒロミからすれば、それは最も残酷なことだ。ヒロミの感じる痛みを、自分のそれと混同するな。ここではヒロミにとっての痛みを想像するんだ」
アザレアは長い舌で男の首筋を撫でた。けど、おまえはあたしのために悦べよ?と、囁くと、男は全身の筋肉を震わせて「はい。アザレア様」と答えた。
仕事を終えたアザレアとまひろがホテルを出ると、街には夜が降りて来ていた。昼に始めた仕事を夜に終えたに過ぎないが、時間がぽっかりと省略されたような感覚がいつも不思議だった。性的な行為への没頭によって昼を跳躍し、夜の中に着地する感覚。性行為によって置き去りにした昼の中に、いつも何かを忘れてきているような気がしたが、それが一体何なのかはわからない。
「お疲れさまでした」と、ホテルの地下駐車場で待っていたこよみが、送迎車の後部座席の扉を開けて二人を迎えた。車は殆ど音もたてずに静かに発進し、夜の中を走りだした。
「お疲れ様。ひむろ。参考になったかな」と、アザレアは言った。
「体育会系でした」と、まひろは言った。「でも、ヒナギク先輩とは違う意味で優しいとも感じました。ヒロミさんを見ていればわかります。全幅の信頼関係があります」と、まひろは答えた。
「主従関係ね。信頼は大事だよ。信頼しすぎてやりすぎちゃったりするけど」とアザレアは言った。
「でも、アザレアさんは、セーフワード言わせたことないですよね」と、運転席でこよみが言った。セーフワードはプレイの前に設定しておく中止用のキーワードで、奴隷の口からそれが発せられると責める側はただちに責めを中止しなければならない。
「あたしは相手を追い詰めたくてやってるわけじゃないからな」と、アザレアは言った。
「あの、じゃあ何のために責めてるんですか?」と、まひろは訊いた。
「言ったろう?きもちいいんだよ。あたしも嬉しいし、相手も嬉しい。とてもいいことだ」
「誰を責めても。ですか?」と、まひろは訊いた。
「相性はあるよ。でも、体育会系には体育会系のマゾが付くんだよ。心配いらない。ひむろにはひむろに合ったマゾが寄ってくる。そういうふうに出来てんだ」
アザレアのスマートフォンが鳴り、しばらくの間、車内は夜を泳ぐ魚のような沈黙に包まれた。まひろは頭の中で一日の研修の振り返りをし、アザレアはメールの返信をし、こよみは運転に集中した。
「ヒロミから、今日も最高だったってさ。ひむろにも礼を言っておいてくれだと」と、送信ボタンを押しながらまひろは言った。
「こちらこそです」と、まひろは言った。「上手くできなくて申し訳ない」
「上手くできなかった?そうは思わないけどな」と、アザレアは言った。「相手やあたしを悦ばせようとするきもちはちゃんと伝わったよ。それさえあれば、技術なんかは後からついてくるさ」
「痛みに対する抵抗はどうでしょうか」と、まひろは言った。「ずっと考えていたんです。アザレア先輩が仰ったこと。苛虐を、私は拒み、ヒロミさんは求める。わたしはお客様を悦ばせるために、痛みを上手に与えられるようになるのかな」
「難しい話になってきたな。悪いけど、その辺はあたしには答えられない。冷たい様だけど、殴るのが嫌ならリングを降りろとしか言えない。ヒナギクやシノノメなら別の答え方をするんだろうけど」と、アザレアは言った。
「来週ミーティングですよ」と、運転席のこよみが言った。そうだった。と、言ってアザレアが指を鳴らした。
「ひむろもそのうち参加すると思うけど、フィビアフォビアでは月に一度ミーティングがあってさ。そこでマゾからのご意見ご要望の発表と周知があって、仕事の報告と意見交換なんかをするんだ。でも、文系のみんなは地頭がいいもんだから、すごく理詰めで考えるんだよ。ユングとかフロイトとか、深層意識だとか幼児体験だとか、トラウマとか口唇期とか肛門期とかアダルトチルドレンだとかインナーペアレンツだとか、そういう心理学的な言葉がばんばん飛び出るもの。あたしあれ苦手なんだよね。体育会系だから。でも、みんなに聞いてみようぜ。きっと丁寧に教えてくれるよ。こよみ、あの駐車場で停めてくれ」
車が人気のない駐車場に一時停車すると、アザレアはナップサックを肩に掛け「走って帰るよ」と、言った。
「その格好でですか?」と、こよみが言った。ハイヒールからスニーカーに履き替えてはいるものの、アザレアの恰好は上下レザーのボンテージスタイルのままだった。
「夜だし、あたしが走る分にはサディスティックなランニングスタイルということでなんとかなるさ」と、アザレアは言った。
「確かに、お似合いすぎて自然に見えますもんね」
「ひむろも一緒に走るかい?頭の中すっきりするよ」
「わたしは、控室で縄の練習をしようと思います。走るより無心になれる気がします」
「そうか。カミーユを大切に扱えよ。あの子に乱暴したら、誰であろうと、あたしがボコしにいくことになってる。ひむろなら心配いらないけどな」
「肝に銘じます」と、まひろは言った。
「それからな。何でもうまくやりたいと思うのはいいけど、一度にうまくやろうとするのは、逆に傲慢だぞ。筋トレと一緒さ。ゆっくり鍛えればいいんだ。今日のところは、あたしとヒロミの賞賛を素直に受け取っておきな。おつかれ」
一方的に言いたい事だけを言って、レザースーツのままアザレアは夜の中へ消えていった。
控室のアパートに戻ると、まひろはクローゼットからカミーユを抱きかかえて、椅子に座らせた。
「二人きりがよければ、わたしは少しの間、外しますが」と、こよみは言った。
「いいんです。こよみさんも、お仕事がありますよね。遅い時間に無理言ってごめんなさい」と、カミーユの手首に縄をあてながら、まひろは言った。控室の管理はこよみに一任されており、仕事のあった日は彼女が性具の消毒と清掃、控室の掃除をすることになっている。まひろはその時間分、緊縛の練習をさせて欲しいと頼んだのだった。
こよみは紅茶を淹れる準備をはじめ、まひろはカミーユを縛った。一途な反復練習によって、まひろの緊縛は自在かつ淀みないばかりか、応用によって様々な体勢を人形に与えることが出来るまでに上達していた。火にかけた薬缶の中の湯が沸騰し、ぐらぐらと鳴くのが聴こえた。ティーカップとソーサーがかちゃかちゃと小さな音をたてた。ほのかな苺の香りが漂って、部屋の温度が、こよみの淹れる紅茶の分だけ上昇した。
まひろは何時の間にか、控室で緊縛の練習をしている時間に安らぎを感じている自分に気づいた。性行為を経ずして、同じ部屋にいる他人のたてる物音に過敏にならなくて済むのは、殆どはじめてだった。母親の機嫌を察するために身についた癖だが、物音によって他人の性格を推し量る癖があった。乱暴な物音をたてる人間は、乱暴に人を扱う。というのが、無意識下における彼女の偏見だった。その点、カミーユはまひろの手の中で聖なる沈黙を保っていたし、こよみの発する音のことごとくは、地平線の彼方から聴こえるかのように小さく聴こえた。この静けさを求めて、週に数度はこよみの立ち合いの下、控室を訪れてカミーユを縛り続けた。
「すごく練習されたんですね。緊縛に淀みがありませんし、きつすぎるところも、ゆるすぎるところもない」そう言って、こよみは紅茶をテーブルの上に置いた。まひろはカミーユの座った椅子をテーブルの方に向けて茶席への参加を促し、自分も礼を言って紅茶を一口飲んだ。
「こよみさんは、不思議な方ですね」と、まひろは言った。
「そうでしょうか」と、こよみは言った。〈どちらでもいい〉という字幕が見えそうな言い方だった。
「わたし、聴覚過敏が強いんですけど。こよみさんといると、それを感じないんです。こよみさんの発する音や声や仕草が、とても静かだから」
「恐縮です」と、こよみは言った。
暫くの間、二人で黙って紅茶を飲んだ。会話が途切れると、二人は自然とカミーユを見つめた。
「縛られていても、縛られていなくても、カミーユは変わりませんね」と、まひろは言った。
「よく同じことを考えます。とても完全な子です」と、こよみは言った。まひろはこよみを見つめた。彼女はまだカミーユを見ていた。
「こよみさんは、メイドさんなんですか?」と、菊比芽のマンションで出会った時のことを思い出して、まひろは訊いた。
「わたしはわたしですが」と、こよみは言って、また紅茶を一口飲んだ。しばらくの沈黙の後、まひろがまだ自分を見つめていることに気づくと、こよみは話しだした。
「わたしは、ただの事務員です。昔はフォビアフィビアの客でした。菊比芽様に縛っていただいていたんです。ですが今は縛っていただくことはありません。メイド服は、菊比芽様からの頂き物です。菊比芽様のマンションの中でだけ着用します」
事情を省いた事実のみの羅列が非常にわかりにくかったために、まひろは頭の中から幾つかの質問をひねり出さなくてはならなかった。複数浮かんだ質問のうちで、最も大きな関心について、まひろは問いかけた。
「何故、今は縛られることをしないのですか」
「もう必要ないと菊比芽様が仰ったからです。わたしも同じように思っています」
まひろはそれ以上、詳細な説明を求めなかった。こよみとカミーユと共有する沈黙が心地よかったからだ。過度な干渉によって壊れてしまう沈黙だと思った。不意にブラッドハーレーのことを思いだした。散々痛めつけられたあとの子狸が似たような沈黙を持っていた。自分にも相手にも何も望まない、柔らかな諦めに満ちた空気。
まひろは頭の中で今日の仕事の振り返りをしながら紅茶を飲み、カミーユとこよみの顔を交互に見た。カミーユが命のない表情でただ全てを直視しているのに対し、こよみは命ある無表情で何をも見ていないように見えた。二人の間で視線を往復させると、人間と人形の境界線がますます曖昧になっていくのを感じた。沈黙はあまりに自然に部屋とまひろを満たし、このまま黙っていたら紅茶が冷める前に三体の人形が出来上がってしまうのではないかと思った。
「こよみさんは、人に痛みを与えることについて、どう思われますか」と、部屋が人形館になってしまう前に、まひろは言った。
「わたしは痛みを与える立場にありませんので」と、こよみは言った。「痛みを求める立場からしかお答えできませんが、自然なことだと思います。もちろん、ひとは痛みを忌避しますし、出来るだけ痛みのない人生を望むでしょう。世界もひとにそう望むでしょう。ですが、必ず痛みは起こります。必ず起こることに対して、起こらない方がいいと願うのは一種の無策ではないでしょうか」
「傷つくことを前提として生きていくということでしょうか」と、まひろは言った。
「前提としますし、肯定します」と、こよみは言った。「わたしは長い間、痛くない振りをして生きてきました。そういう風に育てられたんです。兄が一人いましたが、反抗期が訪れてから家を出るまでの間、彼はわたしに暴力を振るい続けました。父親は政治家で、息子にその後を継がせる為に過度な期待をかけて教育していました。それは彼自身の人格を殆ど無視するような、強権的な教育でした。兄はいつも見えない鞭で躾けられているように感じていたでしょう。その抑圧が、わたしに向けて放出したのだと思っています。抑圧と暴力は伝染する性質を持ちますので。暴力は年に何度かという頻度でしたが、暴力を受けていない時には前に傷つけられた恐怖と、次いつ傷つけられるかという恐怖に苛まれているので、体感的には毎日殴られているのと変わりありませんでした。ですが、わたしは心理的には彼の味方であろうとしました。幼い頃に無邪気に遊び合った思い出のせいかもしれませんし、彼に対する同情的なきもちもあったのかもしれません」
こよみはそこで紅茶を一口飲み、まひろの顔をじっと見つめた。人形に近い表情は変わらないままだったが、彼女が続きを話そうか迷っているのが、まひろにはわかった。まひろは唇を結んでこよみの目を見つめ、こくりと頷いた。こよみは続きを話しだした。
「わたしを含めて、家族は兄の暴力を見えないふりをしていました。父はともかく、母が暴力の事実を知っていたことは間違いありません。何しろ、現場に居合わせたこともありましたから。あの時、僅かに開いた部屋の扉の隙間から、暴力の現場を母が覗いていたのを、確かにわたしは見ました。ですが、目が合った次の瞬間、母は視線を逸らし、見なかったふりをしてそこから去りました。足音もたてませんでした。ショックで怯えたのかもしれませんし、単に面倒だったのかもしれませんし、父に知れて大事になるのが嫌だったのかもしれません。わたしもそれに習い、見えないふりをはじめました。その日から、わたしは自分の痛みと傷口を見失いました。傷口を見失った血は、流れることもできず、わたしの体のどこかに溜まっていきました」
辛ければ話さなくてもいい。と言おうかどうか迷ったが、こよみの声が変わらずに平坦だったために、まひろは無言で頷きながら傾聴を続けた。
「シノノメさんが言うには」と、こよみは言ってから、ひむろさんの三人教育係の最後のお一人です。医師免許と公認心理士の資格をお持ちなんです。とシノノメについての注釈を付け加え、話を続けた。
「シノノメさんが言うには、病んだ家族という共同体の中で、わたしは透明な傷口の役割を担っていたとのことです。専門用語ではアイデンティファイド・ペイシャントというらしいですが、透明な傷口。という名前のほうが、わたしとしては、しっくりきました。家族全体が痛んでおり、痛みは傷を必要としていました。男性主導の古い旧家のなかで最も弱い存在だったわたしは、ひとまず暴力の終点になりました。父という駅を通過し、母という駅を通過し、兄という駅を通過し、どこからやって来たのかわからない暴力が、わたしに終着しました。それに気づいて以来、わたしの望みは、わたしの中に溜まった暴力を道づれにしてくたばることになりました」
「死にたかったということですか」と、まひろは訊いた。
「ちがいます。わたしは死にたくありませんでした。わたしの痛みとは無関係に、世界は美しかったからです。太陽が。風が。草花が。海が。町が。散歩する犬たちが。トタン屋根の上の猫が。すれ違う見知らぬ人々が。美術館が。喫茶店が。深山が。虫けらが。廃墟が。墓地が。スーパーマーケットが。路地裏が。すべてが美しいが故に、わたしは死にたくはありません」
こよみは口を噤み、まひろは言葉を控え、カミーユはただ静かに聴いていた。三人がそれぞれ別のことを考えているのが、沈黙を通して伝わってきた。沈黙は幾層にも混じりあい、彼女たちに呼吸の仕方を忘れさせた。
まひろはこよみの顔を見つめた。喋るごとに表情を失っていく少女の横顔が、虚空の一点に投影した彼女の思い出を見つめていた。
まひろは、こよみの話を頭の中で再構成しながら、こんな話し方をする人には会ったことがない。と、思った。顔を背けたくなるような痛ましさと、世界を美しいと言明してしまう度を越した素直さが、抑揚のない声調によって同列に語られており、途中からどちらに耳を傾ければよいのかわからなくなって、やがて混在した。それは話と言うよりは、詩の朗読のようだった。
もっと聴いていたいと思いつつ、こよみの横顔が思い出の中で再度傷ついてるのが、まひろにはわかった。それはどんな表情よりも雄弁な無表情のように、彼女には感じられた。
「お辛ければ、それ以上話さなくてもだいじょうぶですよ」と、今度こそまひろは言った。
「すみません」と、こよみは謝った。「続けてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」と、まひろは言った。
「家にいると透明な傷口にゆっくりと齧られているような気がして、日々はひどく不安でした。家出同然に実家を飛び出した後も、不安から解放されることはありませんでした。縛られ、傷つけられることは既にわたしのなかで習慣化されており、思考や選択はその習慣の奴隷であったと言えます。振り返れば、すべての選択に於いてわたしは、自らを損なう選択肢を選んできました。生活は自堕落であり、信頼できる友人は作らず、付き合う男は例外なく暴力を振るいました。フォビアフィビアには、webサイトの〈女性のお客様歓迎。大切に虐めてさし上げます〉という広告を見て、自分から申し込んだものと記憶しています。当時わたしは付き合っていたDV男性と別れたばかりでして、自分を痛めつける材料を欠いていたのです」
自分を痛めつける材料。という言葉が、食料や飲料や燃料と同じように、あたかもインフラの一部であるかのように聴こえた。そしてきっと、その通りだったのだろう。まひろ自身、現在進行形で傷口に水をやっている最中だったから、よくわかった。習慣として、常に痛みを持ち歩かなくては落ち着かないタイプの人間もいるのだ。
「事実、大切に虐めていただきました。わたしはどちらかと言えば肉体的な欲望を求めて応募したつもりだったのですが、セッションはむしろ心理的に行われました。主に菊比芽様とヒナギクさんが、わたしの調教にあたりました。菊比芽様たちは、わたしが隠している言葉を言わせるのがお得意でした。〈自分を粗末に扱ったから〉という理由で、わたしはたくさんのお仕置きを受けました。奴隷用のベビー服を着せられて「見捨てないでください」と言わされながら責められたり「こよみは可愛いです」と叫ばなければセッションに混ぜてもらえなかったりしました。何度「愛してください」と言わされながら犯されたかわかりません。誰しも心の底に抑圧を隠していますが、わたしの場合は主に、分離不安・自己肯定・喝愛の三つだったようです。「見捨てないでください」「こよみは可愛いです」「愛してください」自分では開けられない箱を開かれて溢れ出た言葉によって、透明だった傷口に色と形が与えられました。叫べば叫ぶほどそれは具体的になり、最終的には、泣いている小さな少女の姿になりました。それはもう、透明ではありませんでした。わたしは彼女を両手に抱きしめる事さえできました。性的な行為はきっかけに過ぎなかった気がします。プレイはだんだんとカウンセリングの様相を示し、性的な接触と使用される性具の種類が減っていき、最後には縄と指と声だけになりました。やがて、言わされる言葉が「愛してください」から「愛しています」に変わる頃、プレイ中は常に装着を命じられていたアイマスクが外され、もう縛られなくてもいいのよ。と、優しく微笑む菊比芽様の目に産まれたてのひよこのような目をした自分が映っていました。辛くなったら、独りきりで「愛しています」と呟きなさい。そして本当に誰かを愛してみなさい。と、菊比芽様は仰いました。ですが、わたしはまだ人を愛するということがわかりません。今、ここにこうして働いているのは、どうかもう少しお傍に置いてくださいと頼み込んだからです。ですが、以来菊比芽様はわたしを縛ることをしませんし、わたしからも縛ってくださいとお願いはしません」
そこでこよみは一旦、話を止めた。隣で、カミーユがため息を吐いた気がした。まひろはカップの底に残った苺を呑みこみ、こよみの横顔を見つめた。その顔は再度痛みを潜り抜けたように、もう傷ついてはいなかった。
「痛みを経て、わたしはここにいます。そうでないわたしは存在しえません。わたしは、今のわたしが気に入っています。ですので、わたしは自分が経てきた痛みに対して、同じように愛着を持つことにしています」と、こよみは言った。
紅茶がもうなかったので、まひろは口の中に残った苺の香りをごくりと飲んだ。自分の中の無数の傷痕が再解釈されることで、一斉にざわめくのを感じた。彼女は、別の姿をしたもう一人の自分を見るような目で、こよみを見つめた。まひろの中の古傷も一斉に開いて、こよみを見つめた。
「傷つくことからも、痛みからも、わたしたちは逃れることはできません。外部からも。内部からも。それは形を変えて無限に増殖し、やって来るでしょう。傷ついたという事実をなかったことにするという意味でであれば、忘却も殲滅も不可能です。それは歴史の改変に等しい」
こよみは言葉を切って、まひろの眼を見つめ返した。まひろと、こよみと、傷口の視線が混ざり合って一束の特殊な光線になった。
「ですが、何によって傷けられるのか。また、どのように傷つくのかは、自分自身で選び取ることができるのです」と、こよみは言った
緊張に張り詰めていたこよみの両肩がすっと下がった。長い間飛び続けた渡り鳥がついに陸地を見つけて降り立ち、羽をたたむような脱力だった。それを見て、まひろは話が唐突に終わったことを知った。
「話してくださってありがとうございます」と、まひろは言った。
「あくまで、わたし個人の考え方です。参考になるかはわかりませんが」と、こよみは言って、紅茶を飲んだ。
沢山の質問が、頭をなかを占領する雲のように頭のなかにひしめていていた。こよみは一番手近な場所にある質問をとって投げた。
「あの。こよみさんはいつもそういう話し方をするんですか」
「いつもではありませんが、概ねいつもこういう話し方です。ですが、生まれつきにではありません。以前はもっと混沌とした話し方をしていました。吃音もありましたし、言葉の取捨選択にひどく時間がかかりました。真実に対して欺瞞の量は二十倍に上りましたし、ユーモアは皆無でした。そもそも、自分から話しかけることなど殆どしませんでした。人間に対する猜疑心と恐怖心がわたしの基本的な姿勢でしたので、社交性と言うよりは常にその場から逃げるチャンスを伺っていたと言えます。これは菊比芽様から頂いた言いつけを守っているうちに身についてしまった喋り方です」
「どのように言いつけられたのでしょうか」
「本当のことしか言ってはならないというお言いつけです。その態度は、それによってもたらされるどのような結果にも優先するものと考えなさい。と、菊比芽様は仰いました。言いかけてやめてはならないだとか、相手のための文脈で話してはならないだとか、仔細なルールは多岐にわたりますが、一言で言うと自分とものごとを可能な限り曖昧にしないというお言いつけだと、わたしは認識しています」
「ほんとうのことって何でしょう」と、まひろは言った。「思い浮かんだことをそのまま言葉にすると、酷いことになりませんか。わたしだったら、どろどろの何かが。生物と老廃物と感情の塊をぐつぐつと胃液で煮込んだ身も蓋もない呪いばかりが溢れてきそうで、とてもじゃないですけど、そんなことはできません」
「言葉にしてみたこと、あるんですか」と、こよみは言った。まひろが記憶を手繰ると、過去に涙と本音をいっしょに浴びせかけたのは、母親とブラッドハーレーだけだった。
「あまりないかもしれません」と、まひろは言った。
「では、わからないじゃないですか。言葉にして放ってみたら、思ったより可愛げのある生き物かもしれませんよ」と、こよみは微笑みながら言った。
「わたし、本当の気持ちを言おうとすると、いっしょに涙まで流れてしまうんです。何故なのかはわかりません。泣いている時点で負けているようで、とても悔しいんですけど、どうしてもだめなんです。多分、涙を溜めこんでいる部屋のなかに、わたしの言葉は閉じ込められているんです。どちらか片方を取り出すことはできない」
「わかります」と、こよみは言った。まひろは驚いて彼女を見た。形ばかりの相槌ではなく、彼女は確かにわかると言った。
「どんな味でしたか」と、こよみは言った。
「味。涙の味ですか。覚えていません」と、まひろは答えた。ひどく苦かった気がするが、それはどちらかと言えば、滂沱によって焼かれた喉が吸い込む空気の味だった気がする。
「こんな話を知っていますか」と、こよみは言った。「古代、わたしたちの祖先は泣いている状態が自然だったそうです。産まれたとき、眠るとき、愛し合うとき、狩りをするとき、遊ぶとき、ぼんやりとするとき、死ぬとき。いかなるときも、涙は流れ続けていたんです。それは透き通った水っぽい味だったと言います。どの時点でかはわかりせんが、進化の過程で抑制機能が備わり、ひとは常時泣くことを止めました。進化の方向性が、感情の抑制を必要としたのでしょうね。涙がしょっぱくなったのはそれからです。抑制によって、怒りや悲しみといった感情とより強く結びつき、塩化ナトリウムが混入したからだそうです」
「ほんとうですか」と、まひろは言った。にわかには信じられない話だった。
「ほんとうですよ。見ていてください」と、こよみは言った。まひろはおかっぱ頭の少女の目をじっと見つめた。人間の虹彩の模様を真剣に見つめたのははじめてだった。向日葵の花のような目をしている。と思った。まっくろな瞳孔を囲むように生きた花弁が震えており、やがて花が溺れるように涙が溢れ始めた。流涙は止めどなく、静かにこよみの頬を伝い、膝の上で組んだ彼女の手の甲にぽたぽたと落ちた。泣き続けるこよみの表情はまひろを見つめたまま、ぴくりとも動いてはいなかった。確かにそれは彼女が語った古代の人間のように、自然な状態に見えた。泣いていないまひろの方が、自分に対して不自然な違和感を感じる程だった。
こよみは人差し指で自分の涙を掬い、まひろに差し出した。まひろは恐る恐る彼女の濡れた指先に舌を伸ばし、舐めた。透き通った味の涙だった。しょっぱさはない。どちらかと言えば幽かに甘かった。
「泣いていいんです。ほんとうのことを言いましょう」と、こよみは言った。
「泣いていいんです」と、身を持って諭され、まひろはほんとうに泣きそうになった。涙と抑制の回路が切断され、外された仮面と素顔の隙間から、溜まりに溜まった液体が零れ落ちるかと思った。
「あとはわたしが片付けておきますよ」と言って、こよみは立ち上がり、空になったカップをシンクで洗い始めた。いつもならば率先して清掃を手伝うまひろだったが、その日は喉の奥から「すみません」に似た風切音を発して、せわしなく荷物をまとめ部屋を飛び出した。背後で、こよみが何か言っていた気がしたが聴こえない振りをした。
表はもう夜に飲み込まれていた。すべての街灯に光の尻尾が生えており、歩くたびにゆらゆらと揺れた。それが涙を経た光の屈折だと気づいて、ようやくまひろは自分が既に泣いていることを認めた。
まひろはバイクに跨り、キックペタルを踏んでエンジンに火を点け、夜の街を走り出した。動揺によって運転が雑にこそならないまでも、直線では普段よりも多くスロットルが回され、最高速が更新された。
空も、月も、風も、白線も、街路樹も、流れる車の赤い灯も、すべてが泣いているように見えた。焼けた石を飲んだように喉が熱かった。普段であればスピードが痛みも雑念も引き剥がしてくれる。しかし、その夜は違った。まひろは生温い涙の海を走っており、どこまで行っても世界はその雫の中にあった。
まひろは諦めて人気のない路地裏にバイクを停車させ、エンジンを切って降りた。野良猫が一匹、彼女の目の前を鳴きながら横切っていった。
「なんなの。あのひと」と、まひろは呟いた。溢れた涙が彼女の唇のなかにすうっと入りこんだ。ひどく塩辛い味がした。
数日、人生をさぼることが採択された。誰から勧められたわけでもなかった。それは、まひろのなかの内的国会における強引な閣議決定であり、その決定には主権者であるはずのまひろ自身も逆らえなかった。
通学も受験勉強もアルバイトも実家での家事もしなかったし、仮宿を求めて男の家に泊まることもしなかった。ネットカフェのナイトパックとスーパー銭湯で身体を休めながら、県を横断する河沿いをバイクでゆっくりと走り、居心地のよさそうな土手を見つけるとエンジンを切ってそこで休んだ。
秋が深まろうとしていて、彼女の座り込んだ河沿いの土手を銀杏の枯葉が覆っていた。もう何日も雨が降っておらず、乾いた葉っぱは手で触れると粉々になるほど乾いていた。ぽたり。と、まひろの涙が枯れた落ち葉の上に落ちた。濡れた落ち葉は水分によって束の間の命を与えられたかのように微かに身をよじり、また風に吹かれて飛んでいった。
まいったな。と、まひろは呟いた。泣いていいんです。と、こよみに言われて以来、彼女の言葉を思い出す度に涙が流れるようになってしまった。自分では触ることのできない蛇口を勝手に開かれたような気分だった。他事に意識を集中しようとしても、思考は必ず泣いていいんです。というこよみの言葉に戻ってきてしまい、その度に涙が溢れた。それは、どの道を辿っても結局は同じ出口に至ってしまう迷路に似ていた。だが、出口であるはずの扉は何者かの手によって閉ざされており、最早迷路を歩き疲れたまひろは一旦探索をとりやめ、その場に座り込むよりほかなかったのだった。
雲一つない青空の下で、河がさらさらと流れていた。自分自身では処理できない心の問題を定期的に河に水葬するのがまひろの秘密の生存戦略だったのだが、その時彼女は河に流すべき問題の所在を掴むことが出来ずにおり、ただ流れゆく河の表面の模様と、いちいち溢れて来る自分の涙に挟まれてどうすることもできずにいた。
「だいじょうぶ?」と、背後から声をかけられて振り返った。日傘をさした老婦人が、心配そうな目でまひろを見ていた。
「だいじょうぶです。目にごみが入ってしまって」と、まひろは涙を拭いて微笑んだ。だったらいいのだけれど。と言って、老婦人はまた土手沿いを歩きだした。
だいじょうぶ?と色んな人に言われる人生だな。と、まひろは思った。みんながわたしを心配する。だが、一体わたしのどこを心配しているのだろう。そもそも、だいじょうぶとはどのような状態を指すのだろう。
周囲と軋轢なく日常生活を過ごせているかという点に於いては、母親との関係を除けば殆どだいじょうぶな筈だ。訓練によって、平穏と無害の演技は熟練している。
将来的に健康と社会的・経済的な安定の見通しがあるかという点に於いては、どちらとも言い難い。なんとか生き延びるしかないとしか言えない。
精神的に安定しているかという点に於いてはまったくだいじょうぶではないが、自分にとっては寧ろこの状態こそが常態であり、だとすればわたしには、だいじょうぶという状態こそがわからない。
考えるのに疲れてしまったので、流れる河に再び思考を放り、水音を聴きながらぼんやりと水面の光を見つめた。頭のなかで、こよみの声がした。「みんなあなたが心配なんですよ」と、彼女は言った。また涙が溢れてきて、まひろはちくしょう。と呟いた。
「お嬢さん。お嬢さん」と、また背後から声がした。振り向くと、さっきの老婦人が涙ぐんだまひろを見下ろしていた。
「ごめんなさいね。どうしても心配になってしまって。戻ってきたの」
と、老婦人は言った。皺だらけの顔に柔らかい微笑みを浮かべていた。少しでも病人の痛みを和らげようとする看護師のような笑顔だと、まひろは思った。老婦人は日傘をたたみながら「隣に座ってもいい?」と尋ね、まひろは涙を拭いて頷いた。だいじょうぶ?と、もう一度言いながら老婦人が腰を下ろすと、細い脚の下で枯葉がぱりぱりと音をたてて割れた。予期しない出来事と壊れた涙腺のせいで、いつもならばすっと用意できる仮面の所在を見失い、まひろは結局諦めて素顔にその場を任せることにした。
「あの。だいじょうぶって、どういうことですか」と、鼻をすすりながら、まひろは言った。「何故、わたしがだいじょうぶじゃないって思ったのですか」
「だって、とても悲しそうに見えたから」と、老婦人は言った。「この年齢になると、生きて付き合いのある人よりも、死んでお別れしてしまった人のほうが多いでしょ。喪うたびに後悔というものがどういうものなのか、学ぶの。それでわたし、やらなかったことや言わなかったことはできるだけ少ない方がいいと思って。だから、あなたに声をかけることにしたの。そうしなければ後悔すると思う程、悲しそうだったから」
「それはご親切にどうも」と、まひろは言った。「でも、すみません。わたしはだいじょうぶです。どういうわけかちょっと涙の蛇口が故障しているだけです」
「悲しいことがあったの?」
「いいえ。悲しいことがあったわけではありません」と、まひろは答えた。「知人が。知人の女の子が。わたしに泣いてもいいよって言っただけです。彼女が蛇口を開けたんです。それはわたしには閉められないんです」
打ち明けると、涙声は殆ど嗚咽となって喉の奥から漏れた。要領を得ない説明が心配してくれた老婦人を困らせてしまうだろうことは悪いと思いつつも、困って立ち去ってくれることを期待した。心配される。という状況が苦手だった。多くの場合、心配する者は痛みや悲しみといった感情の除去を勧めてくる。だがまひろにとって、それらは他人よりも近しく親しい存在であり、不用品のように捨てることなど到底できなかった。人生の殆どの問題に於いて、彼女は他人に相談するよりも、自分の感情に耽溺することを選んでいる。
半ば拒絶の意思表示のように、まひろは老婦人にそっぽを向いて流れる河面をじっと見ていた。老婆は立ち去ることをせずに、まひろの背中に小さな手をあて、優しく撫でた。
「ありがとうございます。だいじょうぶですので」と、まひろはやっと掠れた声で言った。
「おともだちやご家族は心配していないの?あなたに何も言わないの?」彼女にとって孫ほどに幼い少女の嗚咽を撫でながら、老婦人は言った。
「何も言いません」と、まひろは言った。両親とは殆ど顔を合わせないし、友人はいない。勤務先の男たちにはよくだいじょうぶかと訊かれるが、見返りにキスなどを求められることが多く、まひろにとってそれは心配というよりも捕食や求愛という言葉に該当する。
「だって。わたしはだいじょうぶなんです」と、まひろは言った。だいじょうぶ。という言葉が今度は〈他人と傷を共有する必要がない〉という意味で使用された。
「ほんとうにそう思っているんのなら、考え直した方がいいわよ」と、老婦人は言った。
「いつも泣いているわけじゃないんですよ。今はちょっとおかしくなってるんです」
「そうかしら」と老婦人は言って、彼女の背中をさすり続けた。背中を撫でる老婦人の手は優しく、身体中の涙が一斉に彼女の慰撫に集められて、まひろの眼や喉を焼いていた灼熱が少しずつ冷めていった。
「あなた、自分の姿見たことある?」と老婦人は言った。
「時々は鏡で」と、まひろは言った。
「それ以外で直視したことは?」
なぞなぞかな?と思いつつ、少し考えてから「ありません」と、まひろは答えた。
「そうでしょ。鏡を介さず肉眼で自分を直視することはできないもの。眼や心はあくまで内部からの眼差しであって、内部からだけでは、自分のことを半分も観察できない。残りの半分は誰かの眼差しを借りることになる」
「あの。宗教や哲学のお話なら、今は間に合っています」
「そんなのじゃなくて、わたしはただのおせっかいばばあよ」と、老婦人は言った。「もしもあなたが、本当に自分のことをだいじょうぶだと思っているのなら、考え直したほうがいいということよ。ほんとうに一目でわかるわよ。あなたがとても混乱して、傷ついていること。しかも、独りだけ平気な振りをしているのが逆に不自然で目立つわ。それがわからないのなら、他の人の眼や指を借りて自分を観察したほうがいい。そういうことが出来るおともだちはいない?」
こよみの姿が浮かんだ。ともだちではない。
「その人に訊いてみるといいわよ」と、老婦人は言った。まひろの表情のなかに、おかっぱの人影を見たのだろう。「あなたがどんなひとかってことを。それは一人ではわからないことなの。ひとは、その周りのひとの姿によって、自分の姿を知らされるのよ」
「自信はないけど、やってみます」と、言って、まひろは乾きかけた涙を拭いた。
「その涙が何処からやってきたのかわからないけど、出所をつきとめたほうがいいわ。さもなければ止めようがないものね」と、老婦人は言った。
まひろが涙の出所について沈思している間、老婦人の手はずっと背中を優しく撫でていた。このままでは日没まで慰めようとするだろうと思い、まひろは立ち上がった。
「もう行きます。心配してくださってありがとうございます」と、彼女は言った。
「なにも出来なくて、ごめんね」と、老婆は言った。とんでもないです。と、まひろは礼をした。
「がんばってね」と、老婦人は言った。何をだ。と思いつつも、まひろは微笑みながら頷いた。
「ひむろは、だいじょうぶじゃないだろ」と、アザレアは言った。
「だいじょうぶじゃないよね」と、ヒナギクは言った。
「いえ。だいじょうぶですよ」と、こよみは言った。
老婦人の忠告を受けメールでこよみに相談してみたところ、せっかくなので複数人の意見を聞いてみましょう。という提案がなされ、ヒナギクとアザレアが招集された。大きな石窯のあるピザ屋のランチタイムで四人は話し合った。自分の意思に関係なく流れてしまう涙については上手く説明できる自信がなかったため伏せ置かれ、議題は専らまひろはだいじょうぶなのか?という点に絞られた。
「ひむろちゃん自身はどう思うの?」と、ヒナギクは言った。溶けたチーズが糸を引く焼きたてのマルゲリータを小さな口で齧り、時折ペリエを飲んでいた。
「正直言って、自分がだいじょうぶなのかそうでないのか、今まであまり考えたことはありませんでした。そもそも、だいじょうぶってどういう状態ですか」と、まひろは言った。
「緊急に解決しなければならない問題のない状態のことを言うのではないでしょうか」と、こよみは言った。
「今の自分に満足しているかどうかじゃないかな」と、ヒナギクは言った。
「いいや。顔だよ。そのばあさんが言った意味がよくわかる。ひむろはひでえ顔してる」と言ってから、アザレアは切り分けたピザを一口で食べ、スパークリングワインで流し込んだ。
「アザレア。少しは言葉選んで」と、ヒナギクが言った。庇いこそすれ内容には同意を示している言い方だった。
「ひどい顔って。どういうことでしょうか」と、まひろは言った。
「誤解しないでね。ひむろちゃんのお顔はとってもすてきだよ」と、ヒナギクは言った。こよみが隣で頷いた。そうだな。と、アザレアも言った。
「目の大きさだの、鼻の高さだの、歯並びだの、そういう話じゃないんだ。これは多分、写真には写らない問題なんだ。匂いに似た何かなんだ。ひむろからはだいじょうぶじゃない匂いがする。言われたことない?」と、アザレアは言った。ないと思います。と、まひろは答えた。
「今まで親しいお友達がいなかったなら尚更だけど。容姿に対して匂いって語られ難いから、無理ないと思うよ」と、ヒナギクが言った。
「それは雰囲気的なものでしょうか?」と、まひろは言った。知っているのだけど、出てこない単語を探すように、ヒナギクとアザレアが首を傾げてんんんんと唸りながら、それぞれピザをつまんだ。
「それは透明な洋服の様なものだと思います。わたしたちはみんな、それを着ています。ですがその透明さ故に、語り合うことをあまりしません。説明しづらいのです」と、こよみが言うと、それだと言わんばかりにヒナギクとアザレアがもぐもぐとピザを噛みながら頷いた。
「裸の王様みたいですね」と、まひろは言った。
「裸の王様が着ていたのは権威という幻想に過ぎませんでした。我々が着ているものは、もう少し複雑です。しかし、他人の眼差しによってしか明らかにならないという点に於いてはあの寓話と同じですね」と、こよみは言った。
「わたしはどんな服を着ているのでしょうか」と、まひろは言った。自分では見ることのできない、透明な衣服。三人は口を噤み、口内でタブーを転がすように黙った。一様に視線を下に向け、もう残っていないピザ生地のくずを摘まんだり、飲み物を飲んだり、手遊びをしたりした。
「言いにくいのでしょうか」と、まひろは言った。
「そのおせっかいばばあが言ったように、みんながあんたを心配しているというのは確かだと思う。心配とまではいかないにせよ、違和感を感じてる。でも、それがどこなのかわからないから、うまく言葉にして指摘することもできない」と、アザレアは言った。うまく言葉にすることのできない沈黙が訪れた。
「一言でいえば、自分を大切にしていない匂いがする」沈黙を破ったのはヒナギクだった。「伴って、誰のことも大切にできない匂いがする。その事実を隠すために、とてもいい子の仮面を被っている。でも、ほんとうは悪い子」
今度はアザレアが、言い過ぎじゃないか。という目でヒナギクを見た。ヒナギクの顔から、彼女が常に浮かべている微笑が消えていた。敢えて感情を表に出さずその執行を通知する死刑執行人のような顔をしていた。
「多分、ひむろちゃんは過去に負った癒すべき傷を癒していない。その漿液の匂いがする。おばあさんが言ったように、みんながそれを知ってる。一目でわかる。でも、あなただけが知らないふりをしている。もしかしたら、ほんとうに気づいていないのかもしれない。傷だらけの女の子が平気なふりをして笑ってることに、周囲は違和感を感じてる。あなたの着ている透明な服は、そういうものだと思う」
「どうしたらよいものでしょうか」と、まひろは言った。
「そのままでいいさ。こよみがだいじょうぶって言ったのは、そういう意味だろ?」と、アザレアは言った。こよみは頷いた。
「だいじょうぶです」と、こよみは言った。まひろに対して言ったようにも聞こえたし、こよみ自身に対して言ったようにも聞こえた。どちらにせよ、結局まひろはそれを信じることにした。
「解決すべき問題。癒すべき傷はあるけれど、わたしはだいじょうぶです」と、まひろは言った。
「その調子だ」と、言ってアザレアはスパークリングワインを飲み干し、店員を呼んでもう一杯注文した。
「ほんとうに、だいじょうぶだって思ってる?」と、ヒナギクが言った。その目は奴隷に言葉責めをする時のように、冷酷さと親密さを兼ね備えて輝き、見つめられる者の言葉に嘘を禁じる光を放っていた。奴隷たちがヒナギクにそうしていたように、まひろも自分の気持ちを正直に吐露した。
「だいじょうぶという状態がどんなものか。わたしにはわかりません」と、まひろは言った。「平穏や。安心や。愛がわかりません。わたしにあるのは、生き延びなくてはという強迫的な使命感だけです。たまに死にたいと思いますし、実際にそう口走ったりしますが、それも生き延びるための放出に過ぎません。悪質なげっぷみたいなものです。多分、自分がだいじょうぶなのか、だいじょうぶでないのかは、わたしにとってさしたる問題ではないのだと思います。でも、みなさんに話を聞いていただいて。ご意見をいただけて。とても楽になった気がします。話すっていうだけで、こんなに気持ちが楽になるんですね」
吐露の副作用によって、また涙が少し溢れ、まひろはおしぼりでそれを拭いた。
「ひむろには、友達が必要なんじゃないか」と、アザレアは言った。
「わたしもそう思うな」と、ヒナギクは頷いた。「口に出していないことが、あまりにも多すぎる。それがあなたの生き方に不自然さと緊張を与え、悪い子にしているのよ」
「悪い子って、どういう子ですか」と、まひろは言った。ヒナギクはまひろの胸元をじっと見つめた。視線が服を貫いて、昨晩切り裂いた切り傷を見透かされている気がした。
「自分に嘘を吐く子」と、ヒナギクは言った。心臓を掴まれたように、一瞬息が止まった。何か言おうと思ったが、言葉が出てこなかった。衝かれた時の動揺が、否定しがたい核心を証明しており、確かに自分に嘘を吐いている。と、まひろは認めた。だが、それがどのような嘘なのかがわからない。唇を固く結んで考えるまひろの表情を見て、ヒナギクは優しく微笑み「ごめんね。ゆっくりでいいのよ」と、言った。
「友達って、できたことがないんです」と、まひろはやっと言った。
「こよみちゃんなんてどう?」と、ヒナギクは言った。
「そうだな。こよみがいい」と、二杯目のスパークリングワインを飲み干しながら、アザレアが同意した。
思いかけない提案に不意を突かれ、まひろはあのそのいやそれはと口走りながら狼狽え、ヒナギクとアザレアが笑った。
「だいじょうぶですよ」と、こよみがまひろの目を見て微笑んだ。
それまでまひろは、他人に過度な期待を寄せる事への抵抗から、努めて希薄な人間関係を保ってきた。他人に期待しすぎることも、他人から期待されすぎることも、彼女にとっていい結果を与えていない。母親は「どうしてわかってくれないの」と言って激高し、付き合った男たちの多くは「愛していないのか」と不機嫌になった。
それが、人生をかけて相手に都合のいい自分を演じて続けてきた少女の信条であるという事については皮肉と言うより他ないが、人間は自分以外にはなれないのだ。というのが、まひろが人生から学んだ教訓だった。
彼女の着ていた透明な服が、期せずしてそのパーソナルスペースを防衛し、誰かが彼女にとって親密な友人になることを阻んでいた。「見えない壁があるよね」と言われたこともあるし「他人を信じてない」と言われたこともある。まったくその通りだったが、彼女にとっては必要な壁だった。それは世界から彼女を守っていたし、彼女から世界を守っていた。
ひとは、他人が期待した通りに愛することはできないし、自分が期待した通りに愛されることもできない。彼女にそのことを教えたのは、他でもないブラッドハーレーだった。あの頃、束の間の壁の破壊があった。
「好きだったんですか。その方のことが」と、こよみは言った。二人は黄金色の銀杏の枯葉が舞う河辺を並んで歩いた。友人関係について詳しくない彼女らが何とか絞り出した漠然とした第一歩として、特に何をしなくてもいいので二人で半日街を歩くところから始めるという合意がなされたのだった。
「わかりません」と、まひろは言った。「ただ。わたしは自分がされて嫌だったことを、あのひとにしました。彼がすべてを受け入れてくれることに甘えて、たくさんやつあたりをしましたし、助けてほしいと願いました。それは好きと言うよりも、甘えだったんだと思います。しかも、ものすごく下手な」
まひろはコートのポケットからハンドタオルを取り出し、自分の目に当てた。柔らかい布地が彼女の涙を吸った。本音を喋る度に涙が溢れてしまうことを、こよみの前で最早まひろは隠しておらず、こよみもそれについて何も言わなかった。すれ違う人々が時折、彼女の涙に気づいてその顔を見つめたが、まひろにも、人々にも、流れるままにしておくより他できることは何もなかった。
「未熟だったんですね」と、こよみは言った。
「はい。ひととして」と、まひろは言った。
「いえ。甘えん坊として未熟だったんです」こよみはそう言って立ち止まった。早足でずんずん歩き続けるまひろに対し、こよみはしょっちゅう立ち止まっては空や川や景色をぼんやりと眺め、その度にまひろも立ち止まって彼女を待たなくてはならなかった。
「甘えん坊として未熟って、どういうことですか」と、まひろは言った。
「甘えてはいけないって、誰がきみに言ったんだい?」と、わざとらしい表情と声色を作って、こよみは言った。チャーリー・チャップリンがソクラテスの物まねをしているみたいだな。と、まひろは思った。
「なんですか急に。誰のモノマネですか」
「フォビアフィビアのお客様に、甘えん王と呼ばれるお客様がいらっしゃいまして、その方のモノマネです。王が仰るには、一流の甘えん坊は甘えられる相手もいい気分にさせる。甘えることによってひとに迷惑をかけているようじゃ、一流の甘えん坊とは言えない。だそうです」
「一流の甘えん坊」と、言ってまひろは笑った。
「幼児プレイが大好きで、月に二度くらいヒナギクさんを指名して利用されていくんですけど、自分は命をかけて甘えにきているので、貴方も命をかけて甘やかしていただきたい。と仰っていました。いつかお相手する機会があるかもしれません。ひむろさんもプロフェッショナルは無理にしても、ある程度は甘えの訓練をしておく必要があるかもしれませんね」
「甘える訓練。どのようにしたらいいのでしょう」と、まひろは言った。二人はまた並んでゆっくりと歩き出した。
「王は色々と名言を残されています。極度に洗練された甘えは、自分も相手も許して包み込む。ですとか。甘えてる自分に対してなお甘えるくらいの気持ちでいろ。だとか。何事も究めると哲学が産まれるんだなと思いました。嘘か本当かわかりませんが、自分は全てに甘え続けて一財産を築いたんだと仰っていましたよ。確かにある程度お金がないと、月に二度のペースでフォビアフィビアの利用はできません」
話を聞いているうちに、今までに抱いていた甘えに対する固定概念が攪拌され、まひろは改めてその性質について考えながら歩いた。
「ひとに迷惑をかけない甘えを追求するということでしょうか」と、まひろは言った。彼女の生育環境に於いて、甘えは悪徳の一端として扱われていたため、自ら積極的に甘えを求道する男の話は非常に興味深かった。
「人生とは甘えたり。甘えられたり。とも仰っていました」
「すごいなあ」と、まひろは感心して言った。「わたしの目から落ちた鱗で対価をお支払いしますので、もっと王について聞かせていただけませんか」
「もちろん」と言ってこよみは微笑んだ。
王が他の客の紹介でフォビアフィビアに現れたのは一年ほど前の事だった。年齢は四十代前半。人のよさそうな小太りの男だった。物腰は柔らかく、頭からつま先まで柔和という雰囲気で出来ているような人物だったが、話が希望するプレイに及ぶと眼光が鷹の様に鋭くなった。幼児プレイがご希望なのであれば、それに特化したお店があると思うのですが、何故こちらにいらしたのでしょうか?と支配人が尋ねると、王は答えた。
「わたしの甘えについてこられる人がいなくて」
ただ甘え、甘やかされるというプレイはやりつくしてしまったので、次の段階に進もうと思っています。と、王は言った。甘やかそうとする相手ではなく、叱ろうとしてくる相手に甘えようと思っているのです。
「逆に己に厳しくないですか。甘えん坊なのに」と、まひろは言った。
「彼自身の仰るところによると、王も最初から甘えん坊だったわけではなかったとのことです。どちらかと言えば、その半生は自他に厳しいストイックなものでしたが、何かのきっかけで限界を感じたのだそうです。限界を超えたところに次なる扉がある。と王は仰いました。彼の場合は、それが甘えん坊の道だったようです。反動の一種にも含まれるかもしれませんね。自他に禁止された禁忌を敢えて侵すために、性を利用される方も多いですから」
「王はどのように甘え、ヒナギクさんはどのように甘やかすのでしょう」と、まひろは言った。
「さあ。わたしも現場に立ち会ったことがありませんので。ヒナギクさんが仰るには、甘々真剣勝負だそうです。禁止と甘えの振り子が、二人の間で段々と大きく揺れるだと仰っていました。王は勿論、ヒナギクさんも大変満足していらっしゃるそうですよ」
まひろはしばらくの間、ヒナギクがあの魂を直接舐めるような声で、大の大人を甘やかしている場面を想像しながら歩いた。許してあげるのが好きなの。と、ヒナギクは言っていた。そのために、追い詰めてあげるの。彼女たちの振り子はとても大きく揺れ、禁止と甘えの二極を往復しただろう。想像の中の王とヒナギクはとても幸福そうで、まひろは羨ましさを感じた。時折、奴隷たちに対して嫉妬に近い感情を抱いた。彼らは、まひろが恐れている従属や低劣を既に受け入れているばかりか、さらには快楽に転化することさえできる。彼女が恐れている否定的なすべてが、奴隷たちにとってはまったく肯定的な意味を持っている。それが妬ましかった。
「わたしには、難しいかもしれません」と、まひろは言った。何が?という表情で、こよみはまひろを見つめた。
「甘えることも。甘えられることも。誰もわたしを許さないし、仮に許したとしても、わたしを許そうとする者を、わたしは信じることができない」と、まひろは言った。牙を剥いた子犬を見るような憐みの目で、こよみはまひろを見つめた。
「自分は既に十分に甘えている。と思うのはいかがでしょうか」と、こよみは言った。王の思想とはだいぶ外れるかとは思いますが。と、前置して彼女は続けた。「世界は、わたしたちが生きていることを何も言わずに受け入れてくれています。風も砂も空も土も、すべて。わたしたちはそれに甘えていますし、これからも甘えることができます。限りなく何処までも、望んだとおりに」
「こよみさんの仰っている甘えは、わたしには孤独と区別がつきません」と、まひろは言った。「わたしの考える甘えって、もっとどす黒い、癒着の様なものです。それによって、抱擁した相手も汚してしまうような身勝手な感情です」
こよみはまた立ち止まり、両手を広げてまひろの方を向いた。まひろはたっぷり五秒かけて、その開放の意味を理解すると、彼女の胸に吸い込まれるように身体を預けた。まひろが胸に収まってしまうと、こよみはゆっくりと両腕を閉じ、その身体を優しく抱いた。微かに温かいこよみの胸からは、嗅いだことのない懐かしい植物の香りがした。再び溢れてきた涙がこよみの鎖骨を濡らし、やがてその表面で乾いた。
「彼とも、ブラッドハーレーとも、こうしてみましたか?」と、こよみは言った。
「いいえ。あいつは痛めつけられることを経由しなくては、抱擁にたどり着けない奴だった。そしてわたしも」
まひろの髪に落ちてきた銀杏の葉がくっついており、こよみはそれを指で摘まんで空に放った。昇天のように、葉っぱは空に吸い込まれていった。
「今度と言う今度は」「事ここに至っては」「さすがのわたしも」
と、心の中で呟いてはみるものの、まひろはその先の言葉を続けられずにいた。こよみに抱きしめられてから数日間の話だ。続くべき言葉は閉ざされた扉の向こうにあり、まひろは鍵を持っていなかった。仕方なく彼女は、開錠のための呪文を手当たり次第にぶつぶつ呟く魔法使いのような状態で日々を過ごした。
「最早今度こそは」「そっちがその気ならば」「なるほど。いいでしょう」
などと、鍵としての序言を数々試してみてもだめだった。内なるハンマーで扉自体を破壊することも試みたが、いざ振り下ろそうとすると涙が溢れてしまい、力が入らなかった。しかたなくまひろは、ドアノブに手を掛けたまま立ち尽くしたままでいた。
受験勉強のノートの隅に、こよみの胸に顔を埋めた時に嗅いだ懐かしい匂いのする植物を、想像で何度かスケッチした。
受験勉強のノートの隅に、こよみの胸に顔を埋めた時に嗅いだ懐かしい匂いのする植物を、想像で何度かスケッチした。〈私はまだ、愛を知らない〉花の隣にそう書いた。
「こういう事態を怖れていたのだ」という呪文を口ずさみ、まひろは扉の前で立ち尽くした。
これまで、孤独の形に空いた空洞を埋めるために彼女が支払った〈愛している〉というチケットは、最終的にはすべて悉く紙屑と化した。それは愛情飢餓から発する、特殊なインフレーションだった。求める程に拡がる孤独の空洞に対して、愛しているという紙幣が価値が失い不足する。やがて言葉・セックス・暴力・支配、どのような方法をもってしても愛と交換することが出来なくなり、泡がはじけるように、すべてが消える。後には再び孤独の暗闇が戻ってくるばかりだ。まひろが立っていたのは、常にその循環の中だった。とは言えそれは、彼女も納得ずくのことだった。寧ろ、破裂を待ちわびてそこに立っていたとすら言える。求められ、破裂するまでが、まひろにとっての愛の確認だった。
だが、今回は違った。やがて破裂することを約束されている泡に対して、壊れずに永遠にそこにあって欲しいと願う矛盾が、まひろの中でどんどん大きく膨らんでいった。どうしたら割ることなく、泡に触れられるのかがわからなかった。
「仕方ないだろう」と、まひろは矛盾に手を当てて唱えた。扉が僅かに開き、次の言葉で完全に開いた。
「もう一度、こよみに抱かれたい」
「ひとを好きになると、負けた気になりませんか」と、まひろは言った。
「負けた気にはなりません。戦っているわけではないので」と、こよみは言った。
クリスマスの夜だった。以前〈まひろはだいじょうぶなのか〉の議題で会議が開かれた木造のリストランテで、二人は安い赤ワインを飲みながら牡蠣のアヒージョを食べていた。
「わたしは何故か負けた気になります」と、まひろは言った。そういう意味では、彼女は既に敗北者として食卓についていた。こよみの胸に抱かれて、もう一度あの植物の匂いを嗅ぎたい。できる事ならば、そこで眠りに落ちたいと認めたはいいものの、そこから先をどうしていいのかわからなかった。
仕方なく、カミーユを縛り続けた。勝敗どころか愛という概念を持たない聖なる奴隷を縛っている間は考えることを忘れることが出来たし、控室としてのアパートの鍵を管理するこよみと会う口実にもなった。こよみは、きっかり二十一時三十分にカミーユの清拭と控室の清掃を済ますと、時折まひろを食事に誘った。まひろから誘ったことがないことについての理由は二つある。一つは、自ら人を誘うという働きかけとは無縁な人生を歩んできたから。もう一つは、断られると負けた気になるからだ。
鞄の中で、まひろのスマートフォンがひっきりなしに振動していた。複数の男から会いたいという連絡が届いていた。〈受験勉強があるので〉と返信して、まひろはスマートフォンの電源を切った。うるさくてすみません。と、まひろは謝った。
「わたしにかまわず、返信してくださってかまいませんよ」と、こよみは言った。いつもより薄暗い店内では、小さなボリュームでジョン・レノンのクリスマスソングのインストが流れており、こよみはワインを飲みながら嬉しそうに歌を口ずさんでいた。
クリスマスを一緒に過ごす異性はいないのかという質問はお互いにしなかった。テーブルを挟んで向かい合っていること自体が具体的な説明を含んでいたし、ワインも牡蠣もとても美味しかった。テーブルに置かれたアロマキャンドルからは幽かに薔薇の香りがした。
「惚れた弱みっていう言葉もありますものね」と、こよみは言った。
「嫌われたり、見捨てられたりすることって、怖いじゃないですか。その恐怖によって勝敗の意識が発生するんじゃないでしょうか。おばけ屋敷といっしょで、怖がったら負けって言うか」と、まひろは言った。
「おばけ屋敷に勝ち負けはないですし、ひとを好きになるということは、必ずしもおばけ屋敷ばかりではなくありませんか」と、言ってこよみは笑った。
二人はしばらくの間、黙って料理を口に運んだ。まひろは新たに牛肉のタリアータを注文し、こよみはエスカルゴのオーブン焼きを頼んだ。窓の外で光るイルミネーションを見ながら、二人はワインのグラスを空けた。息苦しくない沈黙が、蝋燭の炎に照らされて揺らめいていた。
「わたしは、なるべく嫌われないように生きてきました」と、まひろは言った。「相手の機嫌を損ねること。見捨てられることに対して、どうしようもない恐怖があります。これが胸の内にある時点で既に負けているようなものです。負け犬なんです。フラれたら負けって言いますけど、違うんです。こんな気持ちである以上、フラれる前から負けてるんです」
「それが負け犬なのであれば、程度の差はあれ、たいていの人は負け犬なんじゃないでしょうか。わんわん」と、こよみは言った。
「わんわん。確かにそうかもしれない。でも、わたしは性質の悪い犬なんです。捨てられる位なら、平気で飼主を噛む飼い犬なんですよ。そんなことをすれば、尚更捨てられてしまうのに」
「飼い犬には向いていないようですね」
「そうみたいです」
「なのに何故、飼われているのですか」
二人はまた黙って食事をとった。緊縛の練習の際に、カミーユを含めた三人で練磨し続けた棘のない沈黙が二人を包んでいた。自分に何も要求してこない沈黙は、まひろにとって何よりも希少価値がある。その棘を恐れるあまり、これ迄にどれほど不要な言葉や振る舞いを経てきたか分からない。その夜、時はただ静かに心地よく流れ、彼女に何一つ求めはしなかった。目の前の少女の安心を映す鏡になったかのように、まひろの心は安らかだった。こよみが焼けたエスカルゴと、白ワインと、「ソー・メリーメリー・クリスマス」というジョンの歌詞を口の中で中で混ぜるのを、まひろはじっと眺めていた。
「何を考えてますか」と、紙ナプキンで唇を拭きながら、こよみは言った。
「色々です」と、まひろは言った。
「前から思ってたんですけど、ひむろさんはすごく色々考えますね」
「みんなそうではないのですか」
「思考は互換性に乏しいものですから、他の方についてはわかりません。ただ、ひむろさんが何か色々考えてるなあっていうのは、見ていればわかります。その一部が瞳から漏れてしまっているみたいに、わかりますよ。口に出してしまえばいいのに」
「習慣なんです。普段から心の内を話さずにいたら、そのうち本当に話せなくなってしまうみたいです。こよみさんみたいに、何でも素直に話せる方が羨ましい」
「素直に話してみたらいいじゃないですか」
「だめです」と、まひろは言った。「きっとまたわたしは、ぼろぼろと泣いてしまう」
「いいんですよ」と、こよみは言った。言うと思った。と、まひろは思った。
「言葉の代わりに涙を流すのも、涙が流れないように言葉を喋るのも、根本的には一緒です。心にしろ、身体にしろ、収まりきらないものを放出しようとする性質を持ちます。同時に放ったところで何の問題もありません。それに、わたしたちともだちじゃないですか」
まひろの目から、またひとすじの涙が流れた。
「こよみ」と、まひろは言った。
「はい。ひむろ」と、こよみは言った。
「こよみって呼んでいい?」
「もちろんです。もう呼んでるじゃないですか」と、こよみは言った。
まひろが人の名前に敬称を付けずに呼ぶことは極めて特別なことだった。
特に、そのリストランテでの呼名は、彼女の人生に於ける重要な岐路となった。その分岐は左右というよりも高低において分かれており、一歩足を踏み出すことによって、彼女は落下していった。その場で無限にこよみの名前を呼ぶことを繰り返し、彼女の鼓膜を振るわせ続けたいと思ったが、もちろんそんなことはしなかった。
「わたしのことも、ひむろと呼んで」と、溢れてくる涙をナプキンで拭きながら、まひろは言った。
「ひむろ」と、こよみは微笑みながら言った。
「こよみ。あの時、あなたは自在に涙を流して、そして止めた。あれはどうやっているの」と、まひろは言った。
「涙の通り道は感情の通り道だから、それを調節してるだけ。感情を放出したい時は、心を開く。でもあれって、何時でも何処でもできるわけじゃない。多分、あなたの前だからできたの」
何故、自分の前でだけ涙腺の蛇口を開放することが可能であったのかについての質問はしなかった。二人でなければ開くことの出来ない扉の前に、彼女たちは立っていた。
「あれからね」と、まひろは言った。「あなたに〈泣いていいよ〉と言われてから、ずっと涙が止まらないの。気を抜くと溢れてしまう。どうしたらいい?」
「わたしは〈泣いてもいいから、ほんとうのことを言った方がいい〉って言ったの。泣くこと自体が目的じゃない」と、こよみは言った。「まひろの場合、涙腺が言葉の蛇口を兼ねている。言葉ってね。最初は涙の中で産まれるの。赤ちゃんの言葉はすべて涙に溶けているでしょう。そこでは言葉と涙も区別されないし、する必要も方法もない。やがてひとは成長して、涙と引き換えに言葉を得る。けど、あなたはその過程でたくさんの忘れ物をしている。涙に溶けたままの言葉がたくさん閉じ込められていて、放たれたがっている。言葉と涙が分離したら、また話したらいいよ。わたしにじゃなくてもいいから。それまでは好きなだけ泣けばいい」
ウェイターがやって来て「お飲み物のお代わりはいかがですか」と、言った。努めて無表情を保ちつつ空いた皿を下げる彼の目には、なおも溢れ続けるまひろの涙が見えていないようだった。グラスワインの白をいただけますか?と、まひろは言った。かしこまりました。と、ウェイターは言った。
「ごめんね。また泣いてしまって」と、まひろは言った。
「謝らないで」と、こよみはまひろの目をまっすぐに見て言った。「ひむろ。この先、何があってもわたしには謝らないで」
「何があっても?いやだよ。何故?」
「わたしも、友達が出来たのってはじめてなの」と、こよみは言った。
「こよみ」と、もう一度まひろは呟いた。その響きは十年ぶりに聴く忘れかけた母国語のように懐かしく、まひろは自分の耳を疑った。ただその人の名前を呼ぶことが、世界を特別な居場所に塗り替えてしまう現象を恋と呼ぶのであれば、それは間違いなく恋だった。ただし、こよみの語るところの涙と言葉がそうであるように全ては混同されており、自分どのような種類の恋の渦中にあるのか、まひろにはまだわからなかった。
ただ、こよみの名を呼ぶときに舞い降りてくる未知の心地よさに抗えないだろうという確信だけがあった。自分では制御不能な衝動にのみこまれてしまうことは、確かにまひろにとっては敗北に等しい状態だと言えた。
「あのね。やっぱり負けた気になる。ひとを好きになることが怖い。それはろくな結果を産まない」と、まひろは言った。
「勝敗などありはしないと思うけど、敢えて言うのであれば」と、こよみは言った。「どんな形であれ、ひとを好きになった時点であなたの勝ち。その結果這いつくばり、みじめになり、泥を噛もうとも、あなたの勝ちだと思うよ」
ウェイターがグラスワインをまひろの目の前に置き、隣に涙を拭くための白いハンカチを添えた。クリスマスソングが途切れ、一瞬の深い静寂が訪れた。
「わたしの勝ち」と、まひろは言った。
この頃、まひろは一旦コンビニエンスストアでのアルバイトを辞めている。貯金は充分にあったし、学費は父が負担してくれることになっているため、金銭的な問題はない。大学受験を控える受験生としては当然の選択だったが、受験だけが理由ではなかった。過剰な労働によって自らの空白を埋めようとする必要を、彼女は一旦失ったのだった。
これをきっかけにして、まひろはそれまで繋がっていた異性との連絡の一切を絶っている。事ここに至っては仕様がない。と、いうのが彼女は思った。クリスマス以来、その頻度は減ってこそいるものの不意の落涙は続いていたし、もはや誰かにとって都合のいい少女を演じることが難しくなってきていた。それまでの人生で拠り所にしてきた演技力の一切を、彼女は失おうとしていた。
人生を代償化してまで埋めようとしていた空白に、こよみとの親密さがすっぽりと入りこみ、まひろはその柔らかさに身を預けた。
二人は週に一度か二度、散歩をしたり、お茶を飲んだり、緊縛の練習をしたりして過ごした。どのような話もこよみは親身になって聴いてくれたし、沈黙は優しい風のように二人を包んだ。不意に溢れてしまう涙が止まらない時、こよみはまひろが落ち着くまで彼女を胸に抱きしめた。そのためこの時期、こよみの胸の辺りからは、いつもまひろの涙の匂いがした。
およそ一カ月かけて、ようやくまひろの涙は止まった。涙腺の蛇口が閉じられたというよりも、今までに溜めていた涙の貯蔵が一旦空になったと言った方がいい。ストレス物質がたっぷりと溶けた塩辛い涙が出尽くしてしまうと、雨上がりの空の様な清々しいきもちでこよみの傍にいることができた。
「好きだよ。こよみ」と、まひろは隠さずに言った。
「わたしも」と、こよみは答えた。
互いに偽らざる気持ちであること確信があったが、この好意が何処から来て何処へ向かおうとしているのか、まひろにはわからなかった。
次第に距離を伸ばしてゆく河沿いの散歩の果てに、老人と猫が経営する小さな喫茶店があり、二人はよく散歩の最後にその店でお茶を飲んだ。木造の店内には、常に古い映画のサウンドトラックが流れていた。手書きのメニューには・珈琲・紅茶・日替わりケーキとしか書かれておらず、価格はすべて300円だった。まひろは珈琲を。こよみは紅茶を注文し、ひとつのケーキを二人で半分ずつ食べた。
「ずっといっしょにいたい。失いたくないと強く願うことが恋であり、それに対する無駄な抵抗の果てが失恋なのだとしたなら。やはりわたしはブラッドハーレーに恋をしていたし、許しがたくも失恋をした」と、まひろは言った。こよみは頷いて紅茶を飲んだ。
まひろがこよみに「恋とは一体何なのか」という質問をし、話は自然にブラッドハーレーの消失に及んだのだった。まひろが自分の過去について正直に話すことは珍しい事だった。振り返ってもろくなことがないという認識から、彼女は自らの過去をすすんで過去を振り返ることをしない。
「負けた気になってる?」と、こよみは言った。
「なってる。でも、わたし負けてない」と、まひろは言った。「あの子狸、わたしを狂犬と呼びやがって。そしていなくなった」と、まひろは言った。
「狂犬」と、言ってこよみは笑った。
「あいつは噛みつかれるのが好きだった。その歯形に沿って舐められるのが好きだった。いじわるされたり、言葉で責められたりするのも。そういうのと引き換えに、わたしと一緒にいてくれた。あいつに言わせれば、それらはわたしの嗜好だって言っていたけど、今となってはどっちもどっちとしか言えない。菊比芽様が仰ったように、わたしたちは共犯関係にあった。利害の一致。目的の一致。そういうものがあった。でも、こよみ。あなたはどうしてわたしといてくれるの」
「あなたがいっしょにいてくれるからだよ」と、こよみは言った。まひろは少し考えて首を傾げた。
「納得のいく理由が欲しいの?」と、こよみは言った。
「納得のいく理由が欲しい」と、まひろは言った。「ブラッドハーレーでさえ、そうした対価と引き換えに、わたしに安寧を提供した。わたしはあなたのくれる安らぎに対して、対価を支払わなければならない」
こよみは悲しそうな顔をしてまひろを見つめた。
「そのような考え方に基づいて、あなたはこれまでにどれほどの対価を払ってきたのだろう」と、こよみは言った。「わたしは、何もいらない。あなたがあなたであり、わたしがわたしである以外に求めるものは何もない」
「あなたがあなたであり、わたしがわたしである以外に求めるものは何もない」
こよみのこの言葉は、まひろが投げかけた疑問のすべてを解決しつつ、それ自体が新たなる謎を含んでいた。
「わたしとは誰」という問いを、まひろは危うく口に出しそうになった。それ以上問うてはならない。という自制が聴こえた。謎が謎を呼んで、後戻りできなくなる恐れがある。もう既に戻れないところまで来ているのに、更に取り返しのつかないことになる。
こよみはまひろの内なる葛藤を見透かしつつ、それを赦すかのように静かに微笑んでいた。二人は暫くの間、沈黙のなかに入浴した。光の差しこむ窓辺に満ちた沈黙は温かく、彼女らを脅かすものは何もなかった。どのような問いよりも先に、まひろはこの沈黙そのものになってしまいたいと思った。
「あなたとは誰」と口に出す必要はなかった。目の前で幸福な時を共有する彼女自身が、その証明であり回答だったからだ。それはまひろが感じる己の不確かさに比すべくもなく確かで、彼女はその日、それ以上問うことをやめた。
艶のある黒髪で片目を隠した背の高い女が、長い脚を組んでスツールに座り、まひろがカミーユを縛る姿をじっと見つめていた。薄いホワイトレザーのロングコートを羽織った彼女がフォビアフィビアのアパートに現れた時、まひろはサディスティックな医師が往診に訪れたのかと思った。
「はじめまして。わたしはシノノメ」と、彼女は言った。
「ひむろです。よろしくお願いします」と、カミーユを縛っていた手を止めて、まひろは礼をした。
「そのまま続けて。縄のスキルが見たい」と、シノノメは言った。
ヒナギクとアザレアから、彼女の話は聞いていた。
「お客様へのヒアリング。スタッフとのマッチング。スケジュールの調整。プレイのプロデュースなどは、シノノメさんが主だって担当しているの。とても時間をかけて、執拗な程に丁寧にね。わたしたちが安全に、きもちよく仕事が出来ているのは、彼女の尽力と能力のお陰。片目を隠してるんだけど、中二病とか月影先生とか言っちゃだめよ。黙ってかっこいいものだと思ってあげて」と、ヒナギクは言った。
「シノノメは文系サディストの究極だ。隅から隅まで分析して、何でもストーリーに仕立て上げようとする。有能なのは確かだが、あのやり口は苦手だな。あいつにとっては全ての人間が自分というストーリーの中の登場人物なんだろう。ひむろも気をつけな。取り込まれるなよ」と、アザレアは言った。
シノノメの隠れていない方の眼は手術中の外科医のように見開かれ、まひろはその丸い手術台の上に閉じ込められるような感覚の中で、言われた通りカミーユを縛り続けた。積み重ねられた練習の成果によって、緊縛は淀みなく行われた。縛られた後の人形の白い皮膚にはシンメトリの縄痕が刻まれ、それは美しい下着のように彼女の身体を網羅した。
「すばらしい。きれいな縄痕だ。ずいぶん練り上げたね」と、シノノメは言った。「ヒナギクとアザレアも褒めていたよ。マゾの急所を見透かすいい目を持っているって」
「とんでもないです。まだまだ未熟です」と、まひろは言った。
「謙遜することはない。あの二人が言うんだ。確かなことだろう。二人についてやってみて、どうだったかな。二度のセッションを経て、今どんな感想を抱いてる?」と、シノノメは言った。
「お客様を見ていて、とても幸福そうだなと思いました」と、まひろは言った。「敗北や恥辱や、ネガティブなものが、そこでは悉くポジティブな快楽になってしまう。なんというか、それって無敵なんじゃないかと思って。羨ましく感じました」
「なるほど。おもしろい感想だ。確かに価値観の逆転がある」と、シノノメは言った。「敗北した方がきもちいいし、奴隷の方が主人に欲望の実現を求める。外面と内面が入れ替わる。理性は尻尾を巻いて逃げ出し、抑圧された欲望が真実になる。これは普段の現実社会の在り方とは全く反対だ。では、普段の現実社会において、奴隷たちはいったい何処にいるのだろうね」
「かくれんぼをしているように思います。現実社会は、特殊なかくれんぼのようなものだと思います。誰がルールを決めているのか知りませんが」と、まひろは言った。シノノメは唇を三日月の形に歪めて笑みを作りながらまひろを見つめた。目は笑っていなかった。
「ヒナギクが言っていたな。セッション後のきみの感想。ええと〈弱さという小動物を、お二人で檻から出して可愛がってあげているように見えました〉だったかな。ヒナギクも言っていたが、面白いことを言う子だ。確かに、ヒナギクは弱さという小動物が大好きだね。もっとも、彼女のそういう態度は力への嫌悪から発している。ああ見えて、大の男嫌いなんだ。腕力・権力・支配欲。男性的な力のすべてを嫌っている。反動で、弱さを愛している。弱さを愛玩することで、強さという概念を否定しているんだな」
まひろはヒナギクが一瞬だけ見せた憎しみの表情と、彼女の言葉を思い出した。「世の中はいつも強さや正しさを人々に求めがちだけど、わたしはそっちの方が嫌いなの。あの偉そうな奴らが」そう言っていた。
シノノメはポケットからスマートフォンを取り出して、音楽をかけていいかい?と、まひろに訊いた。勿論です。と、まひろは答えた。
「どんな曲がいい?」と、シノノメは言った。
「どんなのでも。お好きな曲で」と、まひろが返事をした瞬間、シノノメの丸い瞳が一割ほど拡大したように見え、食虫植物が虫を食べる瞬間のような一瞬の緊張がまひろの背筋に走った。
「心得て欲しいことがある。今日、わたしはきみにたくさんの質問をすることになるだろう。それらに対して〈どっちでもいい〉というニュアンスでの答えを返すのは、可能な限りやめてくれ。どんな曲がいい?」と、シノノメは言った。
「ビートルズの〈ヘルタースケルター〉か、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの〈ゴルトベルク変奏曲〉をお願いします」と、まひろは言った。シノノメはまた微笑んで頷き、〈ヘルタースケルター〉を流した。完全なる狂気とヒステリーのトラックが流れ出し、二人は話を続けた。
「アザレアは。あの筋肉はどうだった」と、シノノメは言った。
「真逆でした。ヒナギクさんが、お客様に弱くなるという役割と特権を巧みに与えているのに対して、アザレアさんは一貫して相手をサンドバッグとして扱っていました。ヒナギクさんのセッションは演劇的で、アザレアさんのセッションはスポーツ的だと感じました」
「そうだね。アザレアは相手を解釈しない。操作もしない。ただ、自らのしたいままに振る舞うだけだ。だが、根底にはヒナギク同様、奴隷への愛がある。彼女はシャイだからあまり認めたがらないけれど、そうでなければこの仕事は成立しないし、奴隷から愛されることもない。阿らない慈愛を駆使するアザレアの不器用な筋肉が、わたしは好きだ。もっとも、彼女の方はわたしのやり方があまり好きではないみたいだけどね」
「シノノメ先輩のやり方」
「シノノメさん。もしくはシノノメ様と呼んでくれるかな。わたしはどちらかと言えば心理学的な興味と好奇心のために、この仕事をしている。昔から不思議だったんだ。何故世界はこんなにも表層的なんだろう。何故あまりにもたくさんの秘密を隠したがるのだろうってね。きみはそう感じたことはないか。世界は底なし穴の入口に貼られた、透明なセロファンに過ぎないと思ったことはないか。本当の世界は、その穴のなかにあるんだ。表出されている部分に対して、隠されている部分の膨大さと深淵さはどうだ。不公平さを感じる程、わたしたちは多くを隠し、閉じ込めている。その不公平の是正と、深淵に閉じ込められた抑圧の開放のために、わたしは穴を掘っている」
まひろは表層と本質について思いを馳せた。精神のなかで、彼女は底なしの穴を見下ろした。穴の底から地鳴のような鳴き声が聴こえ、いつか自分も穴に飛び降りるのだろうという予感があった。もう、しっちゃかめっちゃかさ。と、マッカトニーが歌った。
延々と〈ヘルタースケルター〉がリピートする部屋の中で、小一時間の間シノノメからの質疑があった。
「守秘義務は守るし、この一連の質問できみの処遇や待遇が左右されるわけじゃない。お客様との今後のマッチングのために、きみの情報を集めたいというだけの話だ。なるべく間を置かず、一定のリズムで返答してもらいたい。壁とキャッチボールをするように一定のリズムでね。その情報の有益さと無益さについては、わたしが勝手に判断するので、きみが気にする必要はない。仮に返答に詰まっても、わたしは待つことをしない。沈黙もまた答えだからね。また、予め断っておくが、この質問は二周する」と、シノノメは言った。二周の意味がわからないまま、まひろは頷いた。
質問は最初、具体的に数値化や分類が可能なものからはじまった。身長は何センチか。体重は何キログラムか。生年月日は。血液型は。視力は。聴力は。体脂肪率は。骨密度は。半分以上は答えられず、思ったより自分の身体のことを知らないのだな。と、まひろは思った。次に趣味嗜好に関する質問。好きな色は何色か。その色を持っている生き物や自然物は何か。好きな食べ物は。どのように調理して食べるのが好きか。好きな映画は。どのシーンが好きか。何故そのシーンが好きなのか。これらの質問は〈好きな〉という言葉を〈嫌いな〉に置き換えて繰り返された。続いて主義主張に関する質問。政治的主義や美意識。死生観。宗教観。異性遍歴や性感帯。既往歴。一定のリズムで繰り返される質問は、グラデーションするように何時の間にか抽象的な方角へ漂流していった。殺したい人間はいるか。あなたにとって愛とは何か。罪を決めるのは人か神か。自分の命と地球の平和、より尊重したいと思うのはどちらか。
先輩命令として従順に承知したものの、その質疑応答の時間は、まひろに耐え難い恐怖を与えた。質問が五十を超えた辺りから、自我のゲシュタルトが崩壊をはじめ、自分が誰について話しているのか不明瞭になり始めた。声が震えだし、冷たい汗が彼女の身体を覆った。返答に詰まると即座に次の質問に移るため、回答はすべて反射的に発せられなければならなかった。他人の前で、常に慎重に自分を設定してはそれを演じてきたまひろにとって、無防備な自分を放り出すことは、複数の自分を屋上から次々に突き落とすような恐怖を伴った。
即興演劇のエチュードだと思おうとしたが、シノノメの丸い瞳に見つめられると、嘘をついてはならないという強迫に締め付けられ、別人の演技で切り抜けることができなかった。次第に抽象へと移行していく質問群のなかで、答えたくとも答えられないという焦燥がまひろの理性を焼いた。
自分が今までされて一番傷ついたことは?その傷を癒すためにしたことは何か?心と言葉と体温ではどれが最も高い伝導率を持つか?信念と思い込みの違いは何か?人生と映画の違いは何か?世界に永久の平和が訪れない理由は何か?言葉は何故意味を持つのか?他者のきもちを理解するためにできることは何か?今まで吐いた嘘の中で一番酷い嘘は何か?何故その嘘を吐いたのか?あなたは今何のためにここにいて、何のために質問を受けているのか?
一定のリズムで投げつけられる質問の数はゆうに三百を超え、不思議なことに答えれば答える程に自分が誰なのかわからなくなっていった。シノノメは終始表情を変えず質問を続けたが、まひろの意識が途切れそうになる度に恐ろしく冷たい声で彼女の名を呼び、意識を引き戻した。逃げ場のない取調室で冤罪はこうして生まれるのではないかと思ったが、取調室とは違ってまひろは自白すれば解放される供述を持っていなかった。
「あなたが最も恐れるものは何か?」というのが最後の質問で、それに答える頃には、まひろの顔は疲弊しきっており、疲れ果てた唇の端には涎さえ浮かんでいた。
「あなたと、あなたに質問をされている、この時間」と、まひろは答えた。
「やあ。大したものだ。途中で音をあげなかったな」質疑の間中マネキンのように固定されていた姿勢と表情からやっと力を抜き、拍手をしながらシノノメは言った。
「恐れ入ります」と、まひろは答えた。疲れで声はくぐもり、発せらず喉の奥に留まった。
「単調な質問を延々に繰り返すという手法は、各国の秘密警察でも採用されている拷問のひとつなんだよ。効くだろう。永遠に続く問いに耐えられる人間はいない。わたしはこれが好きでね。問いと答えのゲシュタルトが次第に崩壊する姿を見ることが。人間は玉葱の皮みたいだと思わないか?自分が自我だと思っているものをひとつひとつ剥がしていければ、最後には何も残らないと思わないか?」
まひろの自我が繰り返される問いによって空白化していくのと比例して、シノノメの瞳は活き活きと濡れていた。
「参考になりました?」と、まひろはかろうじて言った。
「ああ。大いにね」と言って、シノノメはまひろの頬に掌で触れた。言葉によって自我が希薄になった反面、肉体に触れる温かさがたまらなく心地よかった。まひろはシノノメの手を払った。このままだと、もっと触れられていたいと思ってしまう恐れがあった。この感覚には覚えがある。母親や付き合った数人の男たち。暴力が終わった後の空白の時間に優しく抱きしめ、相手の意識をを上書きしようとするやり口。
「それでは、二周目に入ろうか。質問を最初から繰り返すよ」と、シノノメが言った時、まひろの顔に隠しようのない恐怖が浮かんだ。シノノメはその恐怖を味わうかのように唇をふるふると震わせ、今度こそ満面の笑みを浮かべた。
「嘘だよ。その顔が見たかっただけさ」と、シノノメは笑った。
「ひょっとして、楽しんでますか」と、まひろは言った。
「ばれてしまったか。あわよくば心が折れたきみを篭絡できるかと思ったのさ。つまり、食べてしまえるかもと」
「何故そんなことを」と、まひろは言った。安心と怒りと呆れが彼女の空白の中に渦巻いた。
「何故そんなことを」と、まひろは言った。安心と怒りと呆れが彼女の空白の中に渦巻いた。
「趣味と仕事と実益を兼ねている」と言いながらシノノメは舌なめずりをした。「きみの個性を把握するための職務上のヒアリングであり、わたしの趣味的な拷問でもある。最後まで拒否を示さず、しかも心が折れなかったのは素晴らしい。追い詰められるきみの顔から自我が失われる様には、ぐっときたよ。わたしの趣味的な胃袋はまったく満たされた。本当を言えば、空白化したきみを犯してしまいたかった。その弱りきった状態なら手籠めにするのは容易い。だが、それは仕事の範疇を逸脱しているし、フォビアフィビアの利益にもならない。本来は仕事のためのヒアリングであるというのも、嘘ではないからね。犯してしまったら、その意味合いがだいぶ変わってきてしまう。今頂戴した情報は、確かにお客様とのマッチングのために参考にさせていただくよ。きみには高い同調性を感じる。どちらかと言えば、支配型のサディストではなく、共感型のドミナントになるだろう。マゾたちの欲望を察して、与えることができる。しかも、その察知は鋭い。鼠のようにびくびくしながら暮らしてきた中で培われた悲しき鋭敏さだな。その敏感さが、相手の欲望を捉える。だが、自分の欲望だけはわかっていない。おおい、聴こえているか」
シノノメの声は、まだ戻り切っていないまひろの意識の膜の向こうから聴こえた。現実と切り離されたような感覚鈍麻の霧の中で、断りもなく人格を理解され、しかも解説されることに屈辱を覚えた。精神的な盗撮を受けているように感じた。
「シノノメさんの趣味と仕事はわかりました。でも、どうしてもこんなやり方じゃないとだめでしたか」と、まひろは言った。
「わたしは社会不適合者で、ニンフォマニアなんだよ」と、シノノメは言った。「人間の世界を理解できないという不安をセックスで埋めてきた。さらにセックスだけでは埋められない部分を、今は理解することで埋めたいと思っている。他人の情報が好きでね。最後には空白化してしまうとしても、その皮を一枚一枚めくって食べていくことに無上の喜びを覚えるのだ。隅から隅まで舐めまわすように、きみを味わった。満腹で、満足だ。わたしにとって、実益以外の何物でもない」
変態だ。と、まひろは思った。
無遠慮に精神を舐めまわされる感覚が不快だった。目の前で微笑む片目の変態は、その不快感ですら美味しそうに吸う奇態な蝶のようだった。
無性にこよみに会いたくなった。終わらない問答によって一時的に空白化した精神を置き去りにして、肉体そのものが彼女を求めているのがわかった。それは皮膚感覚の著しい飢餓だった。勤務中につき抱きしめてもらえないまでも、手や髪や身体の一部分に触れたかったし、触れられたかった。
「今日はこよみが所用で動けないので、現場までタクシーで行こう」と、シノノメが言った時、まひろは思わず口と眼を丸くしてシノノメを見つめ、助けを乞うようにカミーユを見つめた。
「なんだその目は。ぞくぞくするな。どういう感情だい、それは」と、研究対象に欲情する学者の眼でシノノメは言った。落胆だ。裏切られた期待だ。それらが呼んだ怒りが、今あなたに向いているのだ。と、思ったが何も言わなかった。
「いいねえ。弱ってるねえ」と、カミーユを抱いてクローゼットに収納しながら、シノノメは言った。
確かに、表情が上手く作れないほど弱っていた。乗り込んだタクシーの後部座席で、肩を抱いて自分の方へ寄りかからせようとするシノノメの手を、まひろは幽霊のような緩慢な動作で振り払った。
「312。きみにした質問の数だ。きみに答えられたのはそのうち273。なかなかの数字だよ。脳が焼き切れそうなストレスだったろう。なあ、ひむろ。抱きしめて欲しくないか。言葉のない場所で、何も考えずに誰かに甘えたくならないか」と、シノノメは言った。
「なったとしても、甘えたい人は別にいます」と。まひろは言った。ヘッドフォンを装着して歌詞のない音楽をフルボリュームで聴くか、誰もいない水族館に行くか、十二時間の睡眠を取るか、シュラスコでひたすら黙ったまま肉とワインを摂取するか、まったく言葉を発さないタイプのセックスをしたかった。あまりにも言葉を浴びすぎたのだ。もう一言だって聴きたくなかったし、喋りたくなかった。
「すばらしい意志力だ。もう少し依存心の強いタイプかと思ったが」
「誰にどのように依存するかは、わたしが決めます」と、まひろが言った。どこかで聞いた台詞だなと思ったが、どこで聞いたのか思い出すことが出来なかった。
〈ヴァンプ〉というプレートが貼られた部屋に、客はまだ訪れていなかった。吸血鬼の根城のような内装が施された薄暗い部屋には、敗北の据えた匂いが染みついていた。数えきれないほどの奴隷たちが、この部屋でシノノメに篭絡されたのだろうと、まひろは思った。
タクシーの中でも、部屋に入るまでの道中でも、シノノメは延々と喋り続けた。好きなひとにだけ依存したいってわけか?きみの好きなひとはどんな人だ?自分自身をまるで愛せないのに、誰かを愛せると思っているのか?きみは本当にかわいいな。反射的に噛みついてしまう野良犬の凶暴さと、無条件に服従してしまう飼い犬の従順さを併せ持っている。わたしのことはどう思う?その凶暴さと従順さ。どっちをわたしに向けたい?絶え間なく浴びせ続けられる言葉の氾溢に囚われ、まひろが殆どの返事を諦めた後も、シノノメは常軌を逸した執拗さで語り掛けることをやめなかった。喋っている最中ほとんどまばたきをせず、視線をまひろから切ることもしなかった。丸い片目が、柔らかい牢獄と化していた。
「ずっと喋ってらっしゃるんですね」と、まひろは言った。
「ずっと喋っているよ。きみについて喋っている」と、シノノメは言った。「きみがわたしに話してくれた情報を走査するのはもちろんだが、しかし寧ろきみが話さなかったことの方に興味がある。終わらない取り調べによって理性と判断力を奪われておきながら、なお話さなかった事柄の中に、きみの本質的な渇望が隠されている。答えられなかった質問をリストアップすることで、その傾向はある程度可視化できるよ。だが、それをきみと共有することはしない。そんなことをすれば間違いなく嫌われてしまうからね。心を許していない相手に、最も奥底に隠してある秘密を暴かれるのは嫌だろう?」
「嫌ですね」と、まひろは言った。シノノメはまひろの背中に手を置き、風船を導くような優しい手つきでベッドに座らせ、自分も隣に座った。
「そのやり方で人を追い詰めるんですか。意地悪な刑事みたいに」と、まひろは言った。
「いやいやいや。追い詰めるなんてとんでもない。わたしはただの問いだよ。きっかけに過ぎない。混乱したり自壊したりするのは本人の選択であって、わたしの責任ではない。隠された秘密が暴かれることによって滅びるのだとしても、その秘密を用意したのはわたしではない。それは心の奥底の檻に、きみ自身が閉じ込めている獣に過ぎない。きみは、自分が閉じ込めた獣によって喉を食い破られるんだ」
シノノメは、まひろの顎に指をあてて自分の方を向かせ、その疲れ果てた瞳を覗き込むと「しかし、さすがに無理そうだなあ」と、呟いて微笑みを浮かべた。
「なにがでしょうか」と、まひろは言って、シノノメの手を払った。
「もちろんわたしの責任なのだが、少し消耗しすぎている。セッションに同席するのは難しそうだ。だが、一応研修なのでね。今日のところは隅で見学しててもらおうかな」と、シノノメは言った。まひろは部屋の中を見回し、何処で見ていればよろしいでしょうか。と、言った。
「あれあれ。あそこだよ」と、シノノメがまた舌なめずりをしながら、部屋の隅に置かれた人間大の木製オブジェを嬉しそうな顔で指さして言った。手足のない無表情な木彫りの聖母が、感情のない目で人間をいたぶるための部屋を見渡していた。
「彼女はアイゼルネ・ユングフラウ。アイアンメイデンと呼んだほうが一般的かな。中世期に産まれた、拷問のための聖母だ。立てた棺桶のように空洞になっている彼女の中に人を閉じ込め、内側に棘の生えた蓋を閉じることによって、中の人間を貫き痛みや死を与える。勿論、あれはレプリカだから蓋の内側に棘は生えていないよ。ただの拘束台だ。だが、聖母の眼は覗き穴になっていて、中から部屋の様子を覗き見ることが出来る。今日はあの中から現場を見学していたまえ」
シノノメはまひろの手を引いて立たせ、背中を支えながら聖母の中へと導き、拘束帯で固定しながら、耳元で喋り続けた。
「面白い器具だろう。人間は実にいろいろなもの考えるな。だが、さらに興味深いのは恐らくこの拷問具は、中世には実在しなかったいう点なんだ。何を言っているのかわからないか?そもそも、キリスト教徒である拷問執行官らが、彼らの崇拝対象である聖母を拷問道具の意匠に用いること自体がそもそも疑わしい。また中世期に造られた実物が残っていないという考察と史料から、多くの歴史学者は当節におけるこの拷問具の実在に否定的な見解を示している。では、これを考案し、設計し、作ったのは一体誰だったのか。実在しない拷問具を、誰が何のために再現したのか?」
腰と足首と手首を拘束されてしまってから、今なら何をされても抵抗できないなと、まひろは思った。シノノメと目が合い、交錯した視線の火花が飛んだ。
「今なら、何をされても抵抗できないと思ったね」と、言ってシノノメは笑った。食虫植物が糸を引きながら開花するような笑い方だった。
「今なら、何をされても抵抗できないと思いました」と、まひろは答えた。
「わたしとしてはきみのすべてをぐちゃぐちゃにしてしまいたいところなんだ。きみはきっとぐちゃぐちゃになってくれるだろう。だが、ほんとうの意味でぐちゃぐちゃにすることは出来ない。何故だかわかるか?きみは既にぐちゃぐちゃだからだ」
耳元で何度も発音されるぐちゃぐちゃという響きが何故か懐かしく響いた。執拗な質問とプロファイリングによって、シノノメはまひろの中にいる私たちを探り当てていた。
「ぐちゃぐちゃになりたくない者だけが抵抗するんだ。これだけ心を舐めまわされても抵抗しないのは、きみが既にぐちゃぐちゃだからなんだ。アザレアは途中で家具を蹴り上げて怒ったし、ヒナギクでさえ毅然とした態度でわたしを拒否した。当然と言えば当然だ。承諾なしに心を覗かれるのは強姦に等しいからね。だが、きみは抵抗しなかった。抵抗することをまったく諦めている。ずっとそんなふうに生きてきたのか?きみの身体のなかに、傷口がたっぷりと詰まっている。普通なら癒したり、逃避したり、吐き捨てたりする生々しさでいっぱいだ。それらと同化する以外にやり方はなかったのか?気づいているか?きみのその態度は、マゾヒストの一歩手前だぞ。すでに自分を傷つけて悦んでいるじゃないか」
「悦んでなんかいません」と、まひろは言った。昏い怒りが湧いてきた。シノノメの言っていることが幾分の正鵠を得ているとしても、彼女自身が言うように承諾なしに心を分析されることは不快以外のなにものでもない。
「怯えていないんだな。慣れっこってわけか。自分を大事にしないのは、誰かにそう扱われたからか?不特定多数との性的な接触も、自傷の一端か?愛されたいという渇望と、愛されないという確認の繰り返しに何の意味がある?よくないぞ。セックスの神様に叱られる。やるならせめて、愛か快楽のためにやったほうがいい」
「そんな言い方あるんですか」と、まひろは言った。
「そんな言い方?どんな言い方だい?率直過ぎるということか。無遠慮であるということか。触れられたくない真実であるということか。逆に問うが、何故きみはそんなにも言葉を選ぶんだ。言葉を選ぶことによって、何を隠したいんだ。きみの従順さと外面の良さは殆ど擬態と言っていいぞ」
殆どまばたきをせずに自分を見つめ続けるシノノメの瞳から目を逸らしたかったが、四肢は拘束されていたし、目を逸らすには二人の距離が余りにも近すぎた。しかたなく、まひろは瞳に憎しみをこめて彼女を見つめ返した。
「演劇を学び、カメレオンスーツを身にまとってまで隠したかったのは誰だ。きみの擬態は変わりたかったからではない。自分を隠したかったからだろう?ちなみに、わたしが犯したいのは隠したかった方のきみだ。今、この眼に涙をいっぱいに溜めて耐えているきみだよ。とても可愛らしい」
その無遠慮さによって擬態を剥がされ、まひろの目に涙が溢れはじめていた。こよみとは違うやり方で、目の前の変態に涙の蛇口を開けられようとしていることが悔しかった。
「心配しなくてもいい。わたしはきみを犯さない。それはフォビアフィビアの不文律に抵触する。これを侵すと、アザレアにローキックで脚を砕きにくるんだ。わたしは既に二回蹴られていてね。膝から下が粉々になるような凄まじい蹴りなんだよ」
「不文律って何ですか」と、まひろは言った。
「明文化されないから不文律というんだよ」と、シノノメは言った。「だが、敢えて言うのであれば〈人間は自由なのよ〉ということだと思う。菊比芽様の口癖なんだ。人を縛りつけ、痛めつけるプロの言葉だと思うと奇妙だが、そういう意識のもとにフィビアフォビアという組織は運営されている。これに反すると、アザレアが制裁に来るというわけだ。彼女は愛すべきサディストであり、用心棒も兼ねている」
部屋の外側から、ノックの音が聴こえた。
「客が来たようだ。たくさん追い詰めてすまなかった。きみがあまりに従順かつ、可愛らし過ぎるのがいけない。世の中にはひとの弱みにつけこむ、たちの悪い奴がたくさんいるんだ。気をつけなくてはだめだよ」と、シノノメは言った。おまえが言うな。と思いつつ、まひろは「はい」と答えた。
「それでは、ゆっくりと見学してくれ。きみのお陰でわたしは大変きもちが昂っている」
そう言って、シノノメはアイアンメイデンをゆっくりと閉じた。棺桶が閉じられるように部屋の光景が閉ざされ、聖母の眼に空いた二つの覗き穴の中に再び現れた。
聖母に空いた覗き穴から見る薄暗い世界は、歪んだレンズの向こう側にあるかのように遠かった。暗闇の中の光景は、前後の脈絡のわからない不親切な映画のようだった。音声は聞き取りずらく、画質は不鮮明だった。まひろは取り残された観客となって、その映画を眺めていた。
扉を開けて入ってきた男の身長はシノノメよりも頭二つ分小さく、身体は小太りで、髪は禿げあがっていた。シノノメは犬を褒める時のような優しい手つきで、男の顔を撫でた。遠くから見た二人は、邪悪な魔法使いと、彼女のためにプリンセスを裏切った善良なこびとのように見えた。シノノメは身を屈めて男の唇にキスをすると、片手を彼の肩に添え、片手でも彼の手を握りながら、顔全体をなめ回した。皮膚の表面は勿論、あらゆる穴や粘膜にまで余さず舌を這わせた。男は立ちすくんだまま抵抗を示さなかった。遠くて聴こえないはずの二人の息遣いや鼓動が、まひろの耳元で鳴っている気がした。
やがて命令を受けたのか、男が自ら服を脱ぎ始めた。その間中、シノノメは男の耳元で何か囁き続けており、男は時折、電流を流されたかのように、びくんびくんと痙攣した。その身体全体が、服従のための返答をしているかのようだった。シノノメは自分も白いレザーコートを脱いだ。革の白衣を脱ぐと、その下には黒いラテックスのボンデージを着こんでおり、彼女が動くたびにスーツからは、ぎゅっぎゅっという鳴声のような伸縮音が鳴った。
シノノメは赤い縄で男を縛り始めたが、その間中、視線と唇を男の至近から離さなかったし、常に身体の一部を男に絡ませていた。千匹の蛇が集まってできた妖女が、ゆっくりと卵を丸呑みにしているみたいだ。と、まひろは思った。ヒナギクにしろ、アザレアにしろ、主従の関係を明示するために、奴隷たちに必要以上の接触を許さない。だが、シノノメは全く逆だった。優しく撫でさすられる快楽や、つねりあげられる痛みから奴隷が反射的に逃れようとすると、アザレアはより密着して、逃げられないし、逃がさないという意思を奴隷に突き付けた。男の身体の震えが、音と同じように空気を振るわせ、自らの至福を部屋いっぱいに伝えようとしていた。シノノメが男の耳を舐め、何か囁いた。
「愛しています」と、奴隷が叫んだ。
シノノメは縄で動きを封じた上で身体を密着させ、声と言葉を用いて耳元から奴隷を支配した。粘りつく声質から放たれる蛇の群れが耳孔から侵入し、奴隷の身体の表面と内部を余さず探って、彼の自由意思を上書きした。愛しています。何でもします。きもちいいです。逆らいません。もっとしてください。と、奴隷は叫んだ。それはスピーカーと化した奴隷を通してシノノメが喋っているようにも聴こえた。最早ふたりは苦痛と支配によって癒着した一塊の歪な生き物と化していた。あれはさっき迄の自分の成れの果てだ。と、まひろは思った。耐え難い責苦を与えられた時、奴隷と化して従属してしまえば楽になれる。苦痛は快楽に変換され、支配は合理化される。
身体中に赤い蝋燭を垂らされながら「愛しています」と叫んでのたうちまわる奴隷を見ながら、まひろはブラッドハーレーの事を思い出した。自分も毒蛇化して、責苦を与えつつ「愛しています」と叫ばせれば、あの男は自分を愛してくれたのだろうか。離れることなくずっと一緒にいられたのだろうか。まひろには、どうしてもそうは思えなかった。それは苦痛に対する求愛に過ぎないし、いつか破綻するという不安は何処までも続いただろう。では、わたしたちはお互いに何を求めていたのだろう。と、まひろは思った。
シノノメ様を愛しています。シノノメ様だけを愛しています。と、奴隷は何度も誓った。叫ばせた言葉を自ら貪り、癒着した一塊の黒い影がひときわ大きく膨らんでいった。その姿はまるで〈愛している〉という言葉を喰らって膨張する、得体の知れないバケモノだった。
その言葉なら、まひろも今までに数えきれないほど聴いている。ドラマや映画で聴いたし、両親から聴いた。本で読んだし、今まで付き合ってきた男たち全員からも聴いた。だが、まひろはその言葉を消化吸収するための器官を持ち合わせていなかった。ありとあらゆる〈愛している〉は、生のどんぐりやプラスチックや金属片を消化できないのと同じように、正体不明の記号として彼女の中を滑り落ちて、そのままの姿でただ排出された。
アパートで聴き続けた〈ヘルタースケルター〉の幻聴が、閉じ込められたアイアンメイデンの中に鳴り響きはじめた。延々と愛を誓わせる現場から目を逸らし、まひろは幻聴の方に耳を澄ませた。気をつけろ。何もかもめちゃくちゃだ。彼女は高速で落ちて来る。曲そのものを引き裂くように、ヴォーカルが叫んだ。
「奴隷に羨ましさを感じたことはある?」というシノノメの質問を思い出した。
「あります」と、まひろは答えた。ヒナギクに責められる犬と化した紳士を見た時、羨ましさを感じた。あの開花してしまった美しい敗北。
「あなた自身が奴隷になりたいと思ったことは?」と、シノノメは言った。まひろはその質問に答えることが出来ず、恐ろしく不味い唾を呑みこんだ。沈黙もまた答えだとシノノメは言っていた。
何かが自分を奴隷に仕立て上げようとしており、それに対して無駄な抵抗を続けているような気がする。と、まひろは思った。シノノメと彼女に犯される奴隷同様、まひろはたくさんの愛しているを求めたし、その言葉を伴う行為を実際に数多く貪った。だが、その結果得たものと言えば満たされることはない空虚に吹く風の音だけだ。確かに、奴隷たちが羨ましかった。まひろは満たされない不完全な奴隷として自分を見つめており、満たされている彼ら完全なる奴隷たちに嫉妬していることを認めた。
「わたしの方が愛している」と、シノノメが叫んだ。「いいか。わたしの方がおまえを愛しているよ。おまえが溺れて息が出来なくなってしまう位に」そう言って、男の顔の上に跨って腰を振り始めた。「ほら。うれしいか。愛してもらえるのがうれしいか。いいよ、わたしもきもちいい。シノノメ様の所有物ですと言いながら舐めろよ。許可なく射精してはいけないよ。愛しているならできるよな」
閉ざされた聖母の中で、まひろは目を閉じた。苦痛と快楽の境界を失った絶叫がアイアンメイデンの外で響き続けていた。愛していると言いながら傷つけ、傷つけられることで愛を確認する生き物たちが、扉の向こう側で絡まり合っている。その声はとても遠くから聴こえた。まるで、誰も観ないテレビで報道されている、知らない星の戦争の轟きのようだった。目を閉じた暗闇の中で、生温かい自分自身の呼吸音だけが、まひろの耳を直接濡らすように震わせていた。
幼い頃、母親の機嫌を損ね、散々殴られた後に閉じ込められたクローゼットを思い出した。ありとあらゆる力を奪われ、できることと言えば自責と服従しかなかった無力な日々。母親も、愛していると言いながら彼女を殴った。あの頃から、何も変わっていない。と、まひろは思った。わたしは、あの頃のやり直しと繰り返しをしているのだろうか。何もかもをセックスの中に投げ込めば、どのような傷もいつかは愛になると思ったのだろうか。自分を含めた何かを犠牲にしなければ得られないのであれば、愛とは搾取の別名ではないだろうか。
急激な眠気が、まひろを襲った。慢性的な不眠症を患う彼女にとっては日常的なことだったが、日々の疲れと緊張が耐えうる臨界に達したとき、眠りというよりも昏倒に近い形でそれは訪れた。誰かが蘇らせた幻の拷問具の中に拘束されたまま、時間と場所の所在が急激な速さで消えていった。
人間は自由なのよ。という菊比芽の声が、暗闇の中で聴こえた。ブラッドハーレーが悲しそうに微笑んでいた。あなたのためなら死ねます。と、奴隷が叫び、駄目。生きるのよ。と、シノノメが言った。まひろは手足と腰を拘束されたまま、拷問具の中でかくんと首を落とした。眠りに落ちる寸前の、思考の霧散する瞬間が好きだった。現実と眠りの隙間に、こよみの顔が浮かんだ。愛している。と、言いかけたが、何もかもが嘘になりそうな気がして、まひろは暗闇と一緒にその言葉を飲みこんだ。飲みこんだ言葉は、まひろの鳩尾に封印され、消化されないまま留まって、なお彼女を衝き動かした。
暗闇の中で目を覚ました時、まひろは「間違えた。まだ眠っている」と、思った。そこには狭さもなく広さもなく、生暖かく、どのような不安も許されており、暗闇は蛇の胃液のようにひっそりと全ての形を溶かし続け、無限に存在するはずの色は黒一色に留まっていた。周囲は余りにも眠りの世界に似ており、彼女は目覚めたまま、境界線上に立って夢を見ているように感じた。
まひろの背中が寄りかかるアイアンメイデンの底面は僅かに傾斜しており、寝心地がいいとは言えないまでも、眠りは安らかだった。動かそうとした手足は、まだ黒いベルトによって拘束されていた。そこでまひろは、自分がシノノメと奴隷の嬌声を聴きながら眠りに落ちてしまったのだということに気づいた。
辺りに喜悦と苦痛の気配がなかった。そればかりではなく、人の気配そのものが感じられなかった。先刻まで一塊になって絡み合っていたシノノメと奴隷の残り香がしたが、それは水底にゆっくりと沈んでいく砂のように静かで、すべてはもう終わっていることを告げていた。覗き穴から見えるプレイルームに人の姿はなく、絡み合う前に脱ぎ捨てられた二人の衣服も見当たらなかった。
まひろは体感にして五分ほどの時間をかけて、状況の把握に努めた。静けさと空気の動かなさ、覗き穴から見える光景から察するに、この部屋にもう人がいないことは間違いないだろう。自分はどの位の時間、眠っていたのだろうか。3時間以上深く眠っていた気もするし、ほんの十分間のうたた寝だった気もする。口の中は乾いておらず、尿意もない。一晩ということはないだろう。それよりなにより、シノノメは何処へ行ってしまったのだ?いくら人を追い詰めて悦ぶ変態だとしても、研修に連れてきた後輩を拘束・監禁した上に無断で放置して帰ってしまえるものなのだろうか。この暗闇のなかに取り残されたわたしが錯乱する姿を想像するだけで悦楽を感じるとでもいうのだろうか。だとしたら、その願いは叶わない。この錯乱よりも、わたしの諦観のほうが強い。
自分よりも大きく抗いきれないものを拒むために、まひろは常に諦観の小石を体の中に入れている。それは誰かから貰ったわけではなく、それまでの人生の中で自然に発生した、彼女自身の精神的な結石だった。
まひろは口の中で小石を舐め、僅かに自由の残った掌で小石を弄び、真っ暗な思考の隅で小石を転がした。わたしは事態を諦めており、根本的な改善を諦めており、降りかかる苦痛を諦めている。だから、これ以上傷ついたりしないし、怯える必要もない。すべては既に台無しなのだ。まひろはそのように考えることによって、今ある暗闇を、より大きな諦観に包含しようとした。諦めによって苦痛や恐怖から逃れようとする彼女のやり方は、今ある現実を容認するという点に於いては有力だったが、それに対して抵抗力を持たないという点に於いては無力だった。
身動きの出来ない暗闇の中で、これは奴隷の態度に似ているな。と、まひろは思った。抗いがたい苦痛や拘束の中で自らの無力を認め、ひたすらに服従してしまうこと。奴隷たちはしかし、苦痛や拘束を快楽に換えてしまう消化器官を有しているという点で、まひろよりも優勢だったと言える。
耳の奥で、鞭の音が鳴った。ヘルタースケルターのリピートと、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃというシノノメの口の音と、奴隷の叫び声が残響した。
闇が次第に、まひろを侵食しつつあった。何もせずにじっと考えるということは、彼女にとっては自殺行為に等しい。それを避けるために、まひろは自分の労力の殆どを費やしてきた。忙しさによって思考を塗りつぶし、他者の欲望を叶えることによって自らの欲望を追い出し、演技することによって自我を隅に掃け、それでも考えてしまいそうになる時にはバイクのスピードと移動距離を借りて振り切ってきた。
考えることによって答えのない問いの森に迷い込むことが怖いわけではなかった。既に彼女自身によって用意されている、答えの入った箱を空けてしまうことが怖かったのだ。あの箱の中には、これまでに封じ込めてきたあらゆる怒りや恐怖が入っており、わたしが開けるのを待っている。開けてしまったが最後、わたしもあの箱の中に閉じ込められてしまう。そう思った。
告白を避けてきた過去からの傷が、小さなささくれとなって闇の中を網羅した。愛されることの意味が分からず、いかさま山羊は彼女を裏切り、両親は娘よりもさらに痛んでいるという理由から彼女の痛みを見ることが出来なかった。見られなかった傷の可視化を求めて、まひろは私を産んだ。傷口を。赤く開いた穴は、声を発していないというだけで、原理的には口腔と変わらない。彼女と世界を繋ぐための裂け目だ。もしも私が声帯を有していたならば、彼女の声になるだろう。だが、私は予め奪われた彼女の言葉なのであり、外部に向けて何かを発することを許されていない。
世界は傷口で溢れている。私にはその気配をありありと感じることが出来る。それは人々の目に映らない透明な魚群のようだ。透明であり、無声であることによって、私たちは無視される。あちこちを彷徨いつつ、多くの傷はゆっくりと閉じる。傷痕を残して。
辺りを彷徨う夥しい傷口に対して、人々が取ることの出来る態度はそう多くない。目を逸らす事。目を逸らさない事。そして見えない事。多くの場合は、見えないという態度が採択される。当然だ。見えないことによって、人々は生き延びているのだから。
だが、こよみは私を見つめ、触れようとした。剃刀で傷つけたまひろの手首の傷に触れ、薄く生まれはじめた瘡蓋を撫でながら、彼女が言ったことがある。
「治ろうとしている。あなたの身体は、治ろうとしている」
その通りだ。と、私は思った。私たちは治ろうとしている。伝染病のように人々の間で増殖しながら、なお治ろうとしている。
秘密警察が現場に踏み込む時のようなバタバタとした足音が鳴り、古い扉が開く時のような軋んだ音をたててアイアンメイデンが開かれた。涙と涎の膜に包まれた暗い風景に差し込んだ光の中から、こよみの姿が現れた。暗闇の水袋が破れるのと共に、まひろは自分が光の中に混ざっていくのを感じた。
「ひむろ。ひむろ。聴こえてる?ごめんね。だいじょうぶ?」と、こよみは呼びかけた。まひろは長時間の拘束によって暗闇の水溶液と化してしまった彼女の言葉を、とろとろと口の端から零した。舌が回らず、その発音の意味するところはこよみには伝わらなかったし、まひろ自身も何を言っているのかわかっていなかった。一度失禁したせいで、下半身と床は濡れていた。こよみが手足の拘束ベルトを外すと、硬直しきった身体はまひろの意思の通りに動かず、もっと言えば消耗によって身体を動かす意思の殆どが失われていた。屍が倒れこむように、まひろはこよみの腕の中に崩れ落ちた。こよみの胸からは、相変わらず懐かしい花の香りがした。「こよみ。こよみ」と、まひろは繰り返し彼女の名を呼んだ。あらゆる言葉が溶けてしまった後、唯一形を保ち残っている言葉を繰り返す反射のようだった。
こよみより十倍も力強いアザレアの腕がまひろの身体を軽々と抱きあげ、ベッドに運んで寝かせた。だいじょうぶか。と、アザレアは言った。この質問に対して一瞬戸惑ってしまう癖は相変わらずだった。まひろは何もわからないまま微笑み、頷いた。
「あのう。申し訳ないです」と、アザレアの後ろから顔を出して、シノノメが言った。怯え切った顔でへつらうように笑い、右手で杖をついていた。「誓ってわざとじゃないんです。悪気だけはないんです」
「それは嘘だろ。悪気あるだろおまえ。ふざけんなよ」と、アザレアが言った。
「いえいえいえいえ。本当なんです。悪気はありますが、これはわたしの悪気が企んだことではありません。ほんとうに、ついなんです。ついついなんです」
右足を引きずり、ひょこひょこと杖を頼りにまひろに近寄りながら、シノノメは謝り続けた。
「ひむろ。ごめんな。せめて、こよみを同席させるべきだった。今日、こよみにはあたしの仕事を手伝ってもらってたんだよ。けど、シノノメとおまえを二人にさせるべきじゃなかった。人がいいもんだから、何もかも受け入れようとしてしまったんだろう。シノノメにそれをやると、際限なく図に乗るんだよ。実際はめちゃくちゃ気が弱いから、一度強く言えばこんなふうに尻尾を丸めるんだけど、付け込める相手にはどこまでも付け込むんだ」
「いやあ。まったくその通りで」と、シノノメは言った。「あそこまで付き合ってくれる人ははじめてだったんで、嬉しくなってしまって。どこまで追い詰めたら、この子はナイフや盾を取り出すのだろうと思うと止まらなくなってしまって。その、あれが。シノノメ式圧迫面接が。いや、もちろん、面接とヒアリングは仕事として行ったんですよ?ただ、やり過ぎてしまったのは事実で。自分を守る武器や防具を何処に置いてきてしまったんです?あなた、何故そんなに丸腰なんです?」
よくよくシノノメを見つめ返してみると、姿勢と口調が卑屈になっただけで、丸い片目の中には相変わらず手術台が用意されており、隙あらば相手を拘束して解釈のメスで切り刻もうとしていた。
「多分、あなたは逆なんですね。人間というものは概ね、親しくない人間に対して武器と防具を重装するものです。人間関係の射程距離を把握し、相手からの支配や干渉を防衛することによって、間合いを取る必要があるから。なのに、あなたは親しいものにこそ、自分の防衛力を費やす。真逆だ。奇妙な習性だ。わたしから見ればいじらしいけれども」と、必要以上に顔を近づけ、まひろを見つめながらシノノメは言った。
「おい。分析すんな。今それやめろ」と、アザレアが叱り、シノノメはへへへと笑って一歩下がった。
こよみがまひろの身体を支えつつシャワールームに連れて行き、服を脱がせて身体を洗った。泡立てたスポンジで身体を撫でるこよみの手つきは優しく、まひろは自分が壊れやすい稀少な陶磁器になってしまったように感じた。汗と飛沫で衣服を濡らしながら、こよみはまひろの全身を優しい泡で撫で続けた。
拘束されてから、五時間が経過していた。熱いシャワーを浴びていると少しずつ目が醒め、身体や意識の輪郭が戻ってくるのを感じた。疲れや消耗というものは、蛇の胃の中のように、ゆっくりと人間を溶かそうとするのだな。と、まひろは思った。溶けかけていた思考力が形を取り戻すと、こよみに裸を見られているのを無性に恥ずかしく感じ「ありがとう。あとは自分でできる」と、言って裸を隠すように介助を固辞した。
「あのう。着替え買ってきましたんで。置いておくね」と、シノノメがシャワールームを覗いて言った。近所のユニクロで購入された無地の下着と黒いワンピースを着てシャワールームを出ると、シノノメがまたアザレアに叱られていた。
「ちゃんと説明した上で謝るんだぞ」
アザレアに促され、杖で身体を支えながらやっと立っているシノノメが何故このような事態になっているのかを説明し始めた。
「今日はこの上なく気分がよかったんです。完璧な一日ってどこかなどこかなって探しながら生きているんですけど、今日は割と完璧な一日でした。そういう日って、目覚めた時からいい予感がするんですよ。わたしが思うに、無意識はわたしたちの意識よりも遥かに全てをご存知ですね。昨日は友達と美味しい肉を食べた後、濃厚なセックスをして八時間半眠りましたし、起きてみたらインスタグラムに載せた新しいボンデージ写真が小さくバズってましたし、マルタ・アルゲリッチの弾くトロイメライは朝から夢の中でしたし、朝食を給仕してくれたホテリエはわたしの眼をちゃんと見て微笑みながら仕事をしましたし、電車の中では老人に席を譲る可愛い女子高生を見られましたし、空はよく晴れて雲一つなく、気温も湿度も申し分なかった。何度でもやり直していい一日があるとすれば、わたしはきっと今日を選びますよ。何しろ、あなたが素晴らしかった。はじめて見た瞬間から追い詰めたいと思いました。でも、そんな必要はないですね。だってあなたは健気な努力によって崩れ落ちることをしないというだけで、とっくに追い詰められているのですから。棒倒しって遊びしたことあるでしょう?砂山に刺した棒が崩れるまで、ひとりひとり砂を取っていく遊び。ああ、わたしはあなたの棒を最後に崩す人になりたいなと思いました。既にあなた自身を含めた沢山の方が、あなたの砂山から砂を取っていたようですけどね」
アザレアが部屋のアメニティーの珈琲を淹れてまひろの目の前に置き、話を逸らすなよ。と言わんばかりの厳しい目でシノノメを見つめた。片目はまた尻尾を巻いて卑屈に笑い、わかってますよと言いたげに頷いた。洗面所から、こよみがまひろの下着とズボンを仮洗いする音が聴こえ、まひろはどちらかと言えばそっちの方に気を取られていた。失禁した衣類をこよみに洗われるのが恥ずかしかったが、今更止めることも出来なかった。珈琲を一口すすり、シノノメの話の続きを聴いた。
「そんなわけで、わたしは貴方にヒアリングしましたよね。延々と続く単調な質問に精神を削られつつも、あなたは決して止めてと言わなかった。本気の拒否があれば、勿論わたしは質問を中止するつもりでいましたよ。ですが、あなたは最後まで拒否の意思を欠片も示さなかった。ただ延々と受け入れて、削られていくのみでしたね。ご自分でもわかっているとは思いますが、あなたの精神性はどちらかと言えば健気なマゾヒストのそれですよ。異常に上手く空気を読み、すべてに於いて後手。NOという言葉は鞄の奥で失くしてしまったまま。無意識のうちに相手の欲求を叶えようとするのは、そうすることによって自分の安全を確保するためですか?ですが、だからこそ奴隷のきもちや欲望を細やかに理解できるいいドミナントになることが予測できます。ドミナントは精神的な支配を相手に提供するタイプの呼称ですね。色々な解釈と定義がありますが、わたしたちはそのように考えています。フォビアフィビアで言えばヒナギクがドミナに当たります。心理的に追い詰めるタイプの言葉責めが得意な方が多いですね。ちなみにアザレアはサディスト。鞭や蝋燭や殴打など、主に直接な苦痛を提供して楽しみます。ローキックやスコーピオン・デスロックを得意としています。二人に言わせると、わたしはそのどちらでもなく〈フリーク〉だそうです。変態と意訳していただいて結構です。かわいそうに、無防備なあなたの健気さは、フリークの触手を煽ってしまったのですね」
後日、フリークの意味を検索すると以下のように説明されており、なるほどと思った。
〈非常に珍しいもの、予期せぬ事態・状況〉
〈極めて珍しい、ありそうもない事柄〉
〈身体に何らかの異常が見られるヒトや動物〉
〈外見や行動が異常であるために『奇妙』と見なされる人〉
〈気まぐれ、突然の心の変化〉
〈他のヒトやモノとは違って普通でない存在〉
〈見るからに異常なモノ〉
〈特定の活動や興趣のある物事に対して興味が強く、夢中になっている人〉
〈熱心な愛好家〉
スラングとしては〈性的な面での逸脱〉〈違法薬物を服用している人〉
動詞として使うと
〈(薬物を服用したのが原因で)無軌道で分別の無い行動に出る〉
〈感情を剥き出しにする〉
〈頭がおかしくなる〉
〈人を苦しませる〉
うすら笑いを浮かべながら、シノノメは説明を続けた。
「調子に乗ってしまったんですよね。気分が良すぎたんですよね。ごめんなさい。ですが謝りはすれど、反省はしません。この世のネガティブが増えてしまうことは、あなたにとっても本意ではないでしょう?とにかくですね、あなたを徹底的に弱らせた後のお客様とのセッションは最高でした。あなたはまさに最上級の前戯だったと言えます。お客様もたいへん満足していらっしゃいました。あなたに対して抱いた欲望を、そのままお客様に注いだわけですから、いわば二人分楽しまれたということですね。勿論わたしも完全燃焼でした。愛してると百回言わせて、同じ数だけ絶頂して、わたしは宇宙で一番幸福な灰になりました。すべてが燃え尽きた後の灰が考えたことは、どのようにしたらこの完璧な一日を完璧なまま終わらせることが出来るだろうということでした。控室に戻り、仕事道具とプレイルームのキーを戻してカミーユにキスをした後、肉屋でシャトーブリアン200グラムを。酒屋でヴェガ・シシリアを一瓶買ってタクシーに乗りました。天使の頬のように柔らかい肉と、悪魔の血のように豊饒な赤ワインですね。家に帰り着くと、その頃には常温に戻った肉をハンマーで叩いて柔らかくし、岩塩と粗目の胡椒で味付けして、煙が出るまで熱した鉄板で焼きました。その間中、スピーカーからはマルタ・アルゲリッチの弾くピアノ曲、クライス・レリアーナが流れていました。これは釈明なのですが、その時わたしは言葉を捨てていたのです。言葉というものは恍惚に於いては不純物でしかありませんので、満たされたわたしにとっては全く不要のものでした。わたしは目に見える風景に溶けましたし、夜の匂いそのものになりましたし、まだ舌に残る愛しい奴隷の味そのものになっていました。肉が焼き上がり、余熱で味と食感が締めくくられるのを、わたしはクライス・レリアーナの旋律そのものになって待ちました。これ以上ないほど美しい姿で焼きあがった肉は、ナイフを当てただけですっと分かたれてしまう程柔らかく、わたしは喉を滑り落ちる肉とワインと自分自身の区別がつかないほど幸福でした。言葉が戻ってきてしまう前に、眠ろうと思いました。言葉から逃げることのできる数少ない方策のなかでも、安らかな眠りはやはり最上級ですからね。夢も観ませんでした。潜在意識が何も求めていなかったのでしょう。数時間眠り、真夜中に目を覚ました。部屋の中ではリピートされたクライス・レリアーナの旋律がまだ流れており、わたしは眠りと覚醒のちょうど中間でピアノの海に耽溺しました。やがて、ゆっくりと言葉が戻ってきました。戻ってきて、わたしが最初に口にした言葉は「しまった」でした。あなたのことを思いだしたんです。急ぎプレイルームの鍵を取りにアパートに戻ると、仕事を終えたアザレアとこよみが帰り支度をしていました。どうした?と訊かれて、わたしは正直に事情を打ち明け、怒り狂ったアザレアのローキックによってその場に崩れ落ちました。二度と立ち上がれないんじゃないかと思う程、強烈な蹴りでした。幸いにも、以前に似たようなことをしでかした時に使った杖が控室にありましたので、それをついてここまであなたを救出に来たというわけです。いやあ、思い出せてよかった」
唐突に話が終わり、シノノメはまた、へへへと笑った。
「つまり、なんですか。財布や携帯電話を忘れるかのように、あなたはわたしを忘れていったというわけですか」と、まひろは言った。怒っていいのか呆れていいのかわからず、とりあえず笑った。世界には笑ってしまうことでしか処理できない物事が点在しており、自分の運命が今日それに衝突したに過ぎないと思うより他なかった。往々にしてそれらは唐突にして避けがたい。
「おい。ちゃんと謝れよ」と、アザレアが厳しい声で促し、シノノメはやっと卑屈な照れ笑いをやめて深々と頭を下げ「申し訳ありませんでした」と、言った。
「もういいです。終わった話です」と、まひろは言った。
「いいのか。シノノメの言った事じゃないけど、怒るべき時は怒ったほうがいいぞ」と、アザレアは言った。
「そうですよ。怒った方がいい。溜め込んだ怒りは、やがてあなたを蝕みますよ」と、シノノメは言った。おまえが言うな。と、アザレアが窘め、まひろはまた呆れた。
「こういう奴なんだよ、シノノメは」と、アザレアは言った。「実際、マゾたちからの評判もいいし、事務も渉外もすごく優秀なんだ。だけど、たまに予想外のことをやらかす。満点のテストに名前を書かないで提出するとか、すごい運動神経があるのにルールが覚えられなくて試合に出られないとか、そういうタイプのハンデを持ってる。それは本当にどうしようもない種類の穴であって、こいつを責めたり叱ったりすることで矯正できる種類のものじゃないと、あたしたちは考えてる。根は悪い奴じゃないんだ。いや、悪い奴なんだけど、腐ってはいないというか」
「さすがアザレア。わたしのことをよくわかってる。でも、わたしは腐ってますよ」と、シノノメは微笑みながら言った。
「具体的な言葉にはなっていないけど、フォビアフィビアには破ってならない暗黙のルールみたいなのが一つある」と、シノノメを無視してアザレアは話を続けた。「今回、そのルールを侵したという判断で、あたしはこいつを蹴った。それでチャラにしてくれると助かる。幸いこの部屋なら設備も揃ってるから、いくらでもこいつを拷問してくれてかまわないけど、多分悦ぶだけだと思うよ。変態だから」
やだなあ。と、嬉しそうとシノノメが笑い、まひろはため息をついた。
「拷問は結構です。あの、侵してはならない暗黙のルールって何なのでしょう」と、まひろは言った。アザレアとシノノメは同時に下を向いて考えた。不文律。明文化されてはいない組織としての輪郭。
「人間は自由なのよ」と、顔を上げてシノノメは言った。
「自由を侵してはならない」と、頷いてアザレアも言った。
シノノメはタクシーで。アザレアは走って退勤した。杖をついて苦労しつつ乗車したシノノメは、去り際にまひろの瞳を覗き込んで捕食のジェスチャーのようにあーんと開けて笑い、またアザレアに叱られていた。
「どうもシノノメさんに気に入られたみたいですね」と、後部座席にまひろを乗せた送迎車を運転しながら、こよみは言った。勤務時間中は敬語を崩さない。
「何故か不安しかないよ」と、まひろが言って、こよみはくすくすと笑った。
日付が変わった真夜中。こよみの運転は静かで、車は深海をゆく潜水艦のように音もなく夜闇を進んだ。しばらくの間、それぞれの窓の外を見ながら、ふたりは黙った。街の灯りがカラフルな深海魚の群れのように、彼女らの身体をあちこちから撫でていた。
「ありがとう。こよみ」と、まひろは言った。救出に来てくれたこと、汚れた下着を洗ってくれたこと、まひろの荷物を置いてある控室まで送ってくれること。それら全てに対しての感謝だったが、特に沈黙に対して感謝した。
「これは、安心なのよ」と、シートに身体を預けてまひろは言った。一日の疲れだけではなく、今日まで少しずつ疲れを溜めていた砂時計がシノノメによって割られたせいで、さらさらと砂が溢れるように言葉も零れた。
「安心?」と、こよみは言った。
「あなたのくれる沈黙は、火薬の気配を持っていない。いつか炸裂してわたしを攻撃するだろうという不安を持っていない。それどころか、わたしはとても落ち着くことができる。演技や緘黙を使う必要もないし、スマートフォンをいじる必要もない。恋愛の真似事や性行為を経ずして、こんな風に安心できる沈黙を得たことが、わたしにはない」
「わたしは何もしていません。でも、ひむろが安らかなのはとても嬉しいです。とても」と、こよみは言った。何もしていない。というのは彼女の偽りのない自覚だろう。と、まひろは思った。何の代償も払わず得ることのできる安らかさというものを、まひろは殆ど信じることができなかったが、かと言って、こよみを疑うこともできなかった。謙遜や遠慮という類の言葉をこよみが持たないことは、短い付き合いのなかで知っていた。しかたなくまひろは、安らかさを針でちくちく刺そうとする自分の猜疑心を、夜空に流れる三日月に放り投げた。
「わたしはひとに気をつかうのがとても下手なので、そんなことを言ってくれるのは、ひむろくらいのものですよ。どちらかと言えば、空気を読めと叱られてばかりの人生を過ごしてきましたので。でも、わたしにはそれができません。問題なく働いたり、生活したりできるようになったのはフォビアフィビアに入職してからです。それまでは控えめに言って散々でした」と、こよみは言った。
「前に言ってたね。ひとがわからないって」
「はい。わたしには、ひとがわかりません」
「わたしのことも?」と、まひろは言った。
信号が赤になり、少しの間の沈黙があった。こよみが即答せず、返答を熟慮するのは珍しいことだった。
「ひむろ。もしも、この場に安らかな空気というものを感じるのであれば、それはどちらか一方が作っているものではありません。この空間で、わたしとあなたが作っているのです。だから、お礼なんて言わなくていいんですよ」
「共犯関係?」と、まひろは言った。
「共犯関係です。共犯者にお礼は必要ありません」と、こよみは言った。
信号が青になり、車がまた動き出した。三日月から、また猜疑心が戻ってきた。まひろはそれを再び窓の外に捨てた。
「でも、言いたかったの」と、まひろは言った。
アパートの駐車場に車を停め、まひろとこよみは控室に入った。灯りのついたままの部屋の中で、カミーユがテーブルの前に着席して、ふたりを待っていた。急ぎまひろの救出に向かったためだろう。彼女の前に置かれたティーカップの中の紅茶はひんやりと冷たくなっていた。
「遅くなってごめんなさい。カミーユ」と、こよみは言って、そう散らかっていない部屋を片付け始めた。まひろも冷たい紅茶を一口飲んでから、カミーユの身体を抱いて運んだ。人形の身体は既にこよみによって拭き清められており、あとはクローゼットに用意された彼女の椅子に座らせさえすればよかった。冷たい冬の部屋で長いこと待っていたカミーユの皮膚は、凍りついた果実の表皮のように冷え切っていた。
会えば必ず緊縛の練習をするのが、出会って以来欠かしたことのないまひろとカミーユの習慣だったが、その日は時間が遅すぎたし、まひろの方が疲れすぎていた。急いでも最終電車に間に合う時間ではなく、疲れによって縄を通す手順も思い出せなかった。出来る事ならば、そのままカミーユに添ってもらいつつクローゼットの中で眠ってしまいたかった。だが、それは許可されていない。
緊縛の練習をはじめて間もない頃「控室に泊まり込んで縄の練習をしてはだめですか」と、こよみに訊いたことがある。可能であれば、縛っても縛っても足りない縄の練習に専念できるし、仮宿を探す手間も省ける。まひろにとっては一挙両得になる提案だったが、こよみはきっぱり「だめです」と言って断り、理由を二つ挙げた。一つは管理を任されている者としてアパートに公私混同を持ち込んで欲しくないから。もう一つは、この部屋の主は自分ではなく、菊比芽でもなく、カミーユであるから。
「ですが、カミーユは何も言いませんよ」と、まひろは言った。この頃はまだ、彼女も敬語を使っていた。
「そう。カミーユは何も言いません。彼女はまったく弱く、無抵抗で、すべてを受け入れることしかしません。だからこそ、わたしたちはまず彼女を尊重するのです」と、こよみは言った。
カミーユをクローゼットの中の椅子に座らせながら、まひろはアザレアとシノノメが言っていたことを思いだした。フォビアフィビアの不文律。侵してはならない彼女たちの暗黙。
「ねえ。こよみ。不文律って、カミーユのこと?」
火の元と戸締りのチェックをしていたこよみは、まひろの隣に来ていっしょにカミーユを見つめた。透き通った硝子玉の瞳が、その表面にふたりの姿を映していた。瞳の中のこよみが少し考えてから言った。
「そうですね。その通りだと思います」
ドミナントも、サディストも、フリークも、メイドも、支配人も、フォビアフィビアで働くすべての人間が、一種の神体のように、この美しい人形を尊んでいた。まったくの無垢と無抵抗の中で、破壊される心を持たず、どのように扱っても抵抗しないカミーユを、嗜虐のプロフェッショナル達は折れやすい花のように大切に扱った。
カミーユが何処から来たのか、菊比芽以外は誰も知らない。命がないだけで人間そのものであるという肉体を生成するためにかかった金額は、この国の平均生涯年収をゆうに超えるそうだ。モデルは、実在した天使であるとか、菊比芽のかつての恋人であるとか、カミーユ・クローデルが秘密裏に彫っていた女神の彫像であるとか、しばしばスタッフ間でまことしやかに噂されたが、菊比芽自身が何も語らない以上どれも虚説の域を出ていない。
「カミーユに乱暴するやつは、誰であろうと半殺しにするって、アザレアさんが言ってた」と、まひろは言った。
「それは本当です。前にも話しましたよね。縄の研修中に、カミーユに発情して犯した新人がいまして、そのひとは実際に数日間は立ち上がれない程、痛めつけられましたから」
「犯されたって、どうやってわかったの。まさか人前で強姦したわけじゃないでしょ」
「この部屋、監視カメラが付いてますので」と、こよみは言った。まひろはぐるりと部屋を見回したが、カメラが何処に隠されているのか見つけることが出来なかった。
「でも、監視カメラの映像をチェックする前にシノノメさんが気づいたんです。ものすごく鼻がいいんですよ。人間と警察犬の中間って感じ。誰かがこの部屋で発情した匂いがする。しかも行為に及んでる。と、シノノメさんは言いました。そして鼻をくんくん鳴らしながら部屋を一周するとカミーユにたどり着き、彼女の身体中を嗅いでから、犯されている。間違いない。って言うんです。半信半疑で映像をチェックすると確かにわたしが所用で外出した20分足らずの隙に、発情した新人がカミーユを犯していました。美しいカミーユを縛っているうちに興奮してしまったようです。縛り上げたカミーユにペニスバンドを穿かせて跨り腰を振る映像が残っていました」と、こよみは言った。
無理もない。と、まひろは思った。彼女自身、カミーユを縛っている最中、その美しさに導かれて劣情を催す。アザレアに釘を刺されていなければ、こっそり私物として扱っていたかもしれない。半殺しにされたという新人の女と同じように男性器のアタッチメントを装着させて強姦したかもしれないし、ただその胸に抱かれて幻の母乳を味わおうとしたかもしれない。
「ひむろの言う通り、カミーユはフォビアフィビアの不文律であると言えます。また、最も弱い最高権力者であり、喋らない真実の口であり、すべての奴隷たちの象徴であり、わたしたちの大切なひとです。彼女を、ひいては奴隷たちをモノ扱いした者は、フォビアフィビアでは、すべからく制裁を受けます」と、こよみは言った。制裁。と聞いて、杖をつかなければ歩けなくなったシノノメの痛々しい姿が頭に浮かんだ。あの腫れあがった左脚は、まひろをモノとして扱ったことへの制裁だったのだろう。
「不思議だな。カミーユは抵抗という機能をまったく持たない、言わば究極の奴隷なわけでしょう。わたしたちの仕事は奴隷の支配。支配するわたしたちは、究極の奴隷を最も尊重する。上下関係が混乱してくるね」と、まひろは言った。
「相手が自分よりも弱く、無抵抗であるという状況でこそ試される倫理観があるということではないでしょうか」と、こよみは言った。
カミーユは澄んだ瞳でふたりをじっと見つめたまま、話を聞いていた。どんなに傷つけられても自らを損なうことのない美しい瞳を見つめ返しながら、まひろはかつてこよみが自分に言った言葉を思い出した。何によって、どのように傷つくのかは、自分自身で選び取ることができる。こよみはそう言った。
「もう電車が動いていないので、わたしはタクシーを呼んで帰ることにします。ひむろのお住まいは何処ですか。よかったら相乗りしましょう。今日はバイクの運転は止めておいた方がいいですよ。目が虚ろになってます」
控室を消灯し、玄関を施錠しながら、こよみは言った。住所について、なにか隠し立てしようかと数秒躊躇った後、まひろは正直に告白した。
「わたし、野良猫なの」
「確かに」と、こよみは言って笑った。まひろが気性についての唐突な冗談を言ったと思ったらしい。
「家族とあまり仲が良くなくて、いつも住むところに困ってるの。夏はバイクにテント積んで山奥まで行って寝てたこともある。今夜はネットカフェにでも泊まろうかな」と、まひろは言った。
「だったら野良猫さん。うちに来たら」と、こよみは言った。敬語ではなくなった口調の親近が、勤務時間の終了を告げていた。
うちに来たら。と、言われた瞬間、まひろは唐突に全ての着衣を剥ぎ取られたかのような錯覚を覚えた。素裸になった彼女の魂が辛うじて「いいの?」と、訊いた。
「もちろん」と、こよみは言った。
駅前のタクシー乗り場で車を待っていたまひろとこよみは、先に並んでいた二人組の男に声をかけられた。皺だらけのスーツを着た若い会社員風の男たちはひどく酔っぱらっており、目の焦点があやふやで、呂律は回っておらず、毛穴からは老廃物の匂いがした。自分たちも終電を逃した。このまま朝まで一緒に飲まないか。と、男たちはふたりを誘った。一人はまひろより頭一つ分背が高く、もう一人は頭一つ分背が低かった。すごい凸凹だな。と、まひろは思った。こよみは「結構です」と、誘いをきっぱり断り、まひろは無視を決め込んだが、酔っぱらいたちはしつこかった。
「おれたちが酔っているから嫌なのか?おれたちはおれたちが酔っていると自覚できているほどには素面だぞ。本当に酔っているやつは、酔ってない酔ってないって言うからな。だから、心配せずいっしょに飲んでくれてかまわないんだぞ。きっと楽しいよ。おれたちは明日の心配を全部捨ててしまっているのだから」と、背の低い男が下から喋り続けた。
「仕事帰り?仕事は何?彼氏はいる?酒は何が好き?あ、ごめん。名前教えてくれない?なんて呼ばれたらうれしい?」と、背の高い方の男が頭上から質問を浴びせた。すでにシノノメの質問によって疲弊しきっていたまひろは眩暈を感じ、指を額にあてて精神の均衡を取ろうとした。
「あの。すみませんけど、もうこれ以上、彼女に質問をしないでください」と、こよみは言って、庇うように男たちとまひろの間に立った。背の高い方の男が「きみたち何なの。付き合ってんの?それとも姉妹?なんか似てるね」と言った時、それまでじっと動かなかったまひろが梟のように鋭く首を捻じって振り向き、男の眼を見つめた。その視線は強い光を放って男の瞳孔を突き刺し、一瞬空気を石化させて、男の酔いを半分ほど醒ました。言葉になるよりも早く、感情が閃光となって放たれたようだった。まひろに怒りや叱責の意思は全くなかったが、何故か男は「すいません」と謝って、目の前に停まったタクシーの順番を譲ってくれた。
「メデューサみたいだったね」と、タクシーの中で、こよみは言った。
「何が?」と、まひろは言った。酔った男の言ったことを考えていた。ふたりは何なのか。付き合っているのか。姉妹のように似ているのか。
「さっき、ナンパしてきた男を睨みつけたの。すごい目力。あんな強い目つきもするんだね」
「別に怒ったわけじゃないし、わたしはメデューサじゃない。ねえ、わたしたち似ていると思う?」と、まひろは言った。
「ねえ、わたしたち似ていると思う?」と、まひろは言った。
「似ていると思う」と、こよみは言った。「でも、友達って、どこかしら似ている者同士が結びついたり、いっしょに過ごすうちに似てきたりするものなんじゃないかな。いたことないから、わからないんだけど」
成育してきた家庭内に不和があり、その歪んだ楔となるために自分を犠牲にしてきた。という点に於いて二人は似ていたし、そのために空いた穴を、恋愛やセックスで埋めようとして必ず失敗してきた。という点に於いても似ていた。失敗に失敗を重ねた挙句、支配という香りに導かれてフォビアフィビアでふたりが出会ったことは必然だったとも言える。
こよみはまひろの顔を見つめながらしばらく間、沈思した。自分たちの似ている点を頭の中で列挙しているのだろう。と、まひろは思った。見つめられながら、まひろも同様に互いの似ている点を頭の中で並べてみた。〈同じ宇宙に住んでいる〉からはじめ〈同じ国に住んでいる〉〈人間である〉を経由し、どんどん類似点の規模を小さくしていったが、こよみに見つめられているうちに類似点そのものが瞳の中で融解していった。
「わたしとあなたは、共通点によってではなく、共感によって似ているのだと思う」と、まひろは言った。また涙が溢れそうになり服の袖で目を拭った。「バイクが好きだったり、ひとが信じられなかったり、本音だけ言えない病だったり。そういう男とはまあまあ付き合ってきたけど、あなたに対して感じるような共感を抱いたことはない」
共鳴と言ってもいい。と、まひろは思った。遠くから聴こえる、独りではないことを告げる澄んだ音色。
「好きだよ。こよみ」と、まひろは言ってみた。
「わたしも」と、こよみは言った。二人の間でしか咲かない花の花弁が、親密な芳香を放ちながらふわりと開いた。それは、他のどの花とも似ていなかった。人間としての好きなのか。似た者同士の鏡に映った自己愛としての好きなのか。友達としての好きなのか。恋愛としての好きなのか。まひろにはわからなかった。何故「好き」にはこんなにもたくさんの種類があり、わたしは今彼女の前でそれを使い分けられないのだろう。と、思った。昼間聴いた〈ヘルタースケルター〉が、また耳の奥でリピートした。確かに、もうしっちゃかめっちゃかだった。
こよみの住むアパートは人気のない河沿いの歩道の先にあって、二人はその入口でタクシーを降りた。昏い夜の河に添って何処までも続く桜並木が夜空を遮っており、葉擦れの音が冬を優しく撫でていた。
こじんまりとしたワンルームの部屋に入ると、古い紙の匂いが辺りに舞い上がった。万年床の気配に包まれた布団の周りに、壁一面に、襖の開いた押入れの中いっぱいに、夥しい量の本が積まれていた。部屋に本棚というものはなく、散乱し散積した本の群れは、無造作な繁殖と生長を繰り返す紙状の菌類のように見えた。
「散らかっていてごめん」と、こよみは唇から舌先を覗かせ、悪戯が見つかった猫のような顔で言った。普段、清潔さと合理性で形成されたアンドロイドのように無駄なく仕事をこなすこよみからは凡そ想像しがたい乱雑な部屋の様子に、まひろは思わず笑ってしまった。
「仕事中の整然としたこよみからは、ぜんぜん想像できない部屋だね」と、まひろは言った。
「あれは、勤務用のキャラクターだから。塵一つない菊比芽様のマンションを想定して作られた、金属の眼と、絹の皮膚と、電卓のような心を持つ、カミーユの姉妹のような無駄のないメイド」と、こよみは言った。
「ほんとうのこよみじゃないってこと?ほんとうのこよみは、万年床の姫なの?」と、まひろは言った。
「そんなことないよ。どんなキャラクターを演じていたとしても、そこにいるのは常にわたし。どの場所にあっても、その場所に適したわたしが出現するというだけ」
こよみが出してくれた客用の歯ブラシで歯を磨きながら、まひろは部屋の中をぐるりと見渡した。どちらを向いても本ばかりで、他にはベランダに面した窓の傍に小さな座卓があるのみであり、そこにも本が積まれていた。
「本棚からは人柄がわかるっていうけど、これ見てもあなたがどんなひとなのか、よくわかんないね」と、まひろは言った。古典文学から、ハーレークイン。SF。詩集。まんが。論文。自己啓発本。ゴシップ。専門書。天井まで積み上げられた本は余りにも多様過ぎて、そこからひとりの人格を推察することは困難だった。それは、かつてどの町にも一軒はあった古本屋の壁をまひろに思わせた。複数の趣味が交差し、無造作に集結した古い紙の匂い。
「これ、全部読んだの?」と、まひろは膨大な本を見渡して言った。
「全部じゃないよ。七割から八割くらい」と、こよみは言った。それでも、読み切るのに数年はかかりそうな量だった。
「菊比芽様に勧められて、読書を始めたの。あれはまだ、フォビアフィビアに客として通っていた頃だった。それ以上何一つ隠せないように素っ裸にされ、ぎちぎちに縛られて絶対に逃げられないようにされ、愛撫と言葉責めでどろどろに溶かされた後、縄を解きながら菊比芽様が仰ったの。わたしは〈わからない〉の塊なんだって。生きて彷徨う〈わからない〉なんだって、わたしのなかで痛みを求めたり、泣いたり喚いたりしているのは、その〈わからない〉の仕業なんだって。菊比芽様が言うには、度を越した人間不信によって、わたしは家族から、友人から、恋人から、生きるためのやり方を学ぶことができない。挨拶の仕方がわからないし、休日の過ごし方がわからないし、テーブルマナーがわからないし、安らかなデートの仕方がわからない。確かに、そのとおりだった。わたしにはひとがわかりません。どうしたらいいでしょうか。って訊いたら、本を読みなさい。と、菊比芽様は仰ったの。その頃のわたしは、菊比芽様に命令されたら多分人だって殺すだろう位に依存していたから、素直にご命令だと受け取って本を読み始めた。本を読む習慣のない人生だったので、自分がどんな本を求めているかわかりません。って相談したら、一番装丁が気に入ったものか、古本屋の投げ売りワゴンから目を閉じて選ぶかすればいいって菊比芽様は言われて、わたしは実際にそうしたの」
こよみは自分の読書を飢餓状態に例えた。極度の飢えが食べ物の好き嫌いをしないように、わたしも読む本の好き嫌いをしない。と、彼女は言った。
「ほんとうに、何でもいいんだね」と、彼女らを重囲する本を見ながら、まひろは言った。その本たちの雑乱さは、彼女に原始の森を思わせた。あらゆる種類の言葉たちが、好き勝手に暮らしている森。
「それでも、最近は傾向らしきものが現れはじめてきたと思う。ものすごく長い時間をかけて、自分が何を求めているのかという事だけを学んだ感じ。勿論、まだその全容はわからない」と、こよみは言った。
「こよみには、どんな傾向があるの」と、まひろは言った。こよみは床に積まれていた一冊の文庫を拾い上げ、ぱらぱらとめくりながらじっと考えた。
「わたしは、わたしの傾向にあまり興味がないと思うことにしてるの。自分との追いかけっこは、もうしたくない。それよりも、あなたや、たくさんの本や、見知らぬ人々や、フォビアフィビアの皆さんや、奴隷たちに興味がある」と、こよみは言った。
わたしはとても、あなたを知りたい。という言葉をまひろは飲み込み、活字が流れてゆくこよみの瞳を見つめながら、黙って話の続きをを聞いた。
「読んでも読んでも本は減らない。言葉は交配して、繁殖する。ほったらかしの裏庭が密林と化し、やがて深い森と化すように。その中にあって、わたしはとても小さい。迷い込んだ言葉を持たないリリパットのように小さい。深い森を彷徨い、黙々と読み続けるリリパットの日々の中で、ある日突然に気づいたの。もうここで暮らすしかないんだって。迷い込んでしまった森から、わたしは決して出られないんだって。でも、わたしはこの森が嫌いじゃない。森はかつて言葉のない穴だった。際限なくわたしを食べ続ける沈黙の暗い穴だった。〈わからない〉というあの暗い穴を、菊比芽様は言葉の欠如と考えていたのだと思う。おかげで迷い込んだ森は膨大で険しく恐ろしいけれど、あの穴に比べれば好き」そう言って、こよみは本を閉じた。
浴室から、こよみがシャワーを浴びる音が聴こえてきた。アパートの外では、猫たちが月に求愛するような声で鳴いていた。まひろは布団にくるまり、発酵したこよみの体臭を嗅ぎながら、壁に積まれた本の背表紙を黙読していた。読めば読むほど、世の中には色々な本と題名があるんだなあと思った。それでも、それは地球上に存在した人間の名前の累積程には多くないんだろうな。
無数の本の題名と人名が複合した眠りの入口に手をかけた時、浴室の扉が開く音がして、こよみが戻ってきた。熊のきぐるみのようなモヘアのパジャマを着たこよみの身体から、ほこほこと湯気をたてていた。こよみは冷蔵庫から白ワインを取り出してゴブレットに注ぎ、半分ほど飲んで、ぷはーという音とともに一日の疲れを部屋の中に吐いた。
「ひむろ」と、まひろの眠りを確かめるように、こよみは小声で囁いた。まひろは、現実と眠りの境目で「こよみ」と、答えたが、その声は余りにもか細く、こよみの耳には届かなかった。
こよみが部屋の灯りを消すと、辺りを暗闇が飲み込んだ。ひたひたという静かな足音が聴こえた後、窓辺で小さな灯りが点いて、座卓の前に座ったこよみの姿が照らしだされた。こよみは座卓の引き出しを開け、一冊のノートを取り出して開くと、さらさらと何かを書き始めた。
深い眠りに溶けてしまいたい欲求の中で、まひろは無理に見開いた片目で現実にぶら下がり、こよみの横顔を見ていた。こよみが好きだ。と思った。だが、その結果どうしたらいいのかが全くわからなかった。ブラッドハーレーの時のように、好きな子を虐める小学生のように振る舞えばいいのか。後ろから抱きしめて唇を奪い、かつて言葉の欠如を痛みやセックスで埋めようとしていた少女の性欲ごと食べてしまえばいいのか。今ある安穏以上のすべてを望まず〈もっと欲しい〉と〈いつか失うかもしれない〉の不安に挟まれた欲望を抱えたまま彼女の唯一の友達として振る舞えばいいのか。その全てが激しく暴れながら、好きだという感情の缶に封じられており、しかもそこから溢れ出そうとしていた。長年に渡り積み重ねてきた愛に対する不信と、居心地のよい日々への留保が、辛うじて溢れることを防いでいた。
ノートに何かを書くこよみの横顔が、今までに見たことのない種類の表情であることにまひろは気づいた。真剣に何かを見ているようにも見えたし、全く何も見ていないようにも見えた。小さな灯りに照らされたこよみの横顔は書くことに深く没入しており、その眼は自らという暗い穴を落ちている最中のように、ぱっくりと見開かれていた。やがて、こよみの瞳から小さな光が零れるのを、まひろは見た。それは光の尾を引いてこよみの周りを飛び回り、筆記の音とダンスするように闇を引き裂き、残光の粉を辺りに撒いた。蛍みたいだ。と、まひろは思った。〈いつまでも、その光を見ていたい〉と〈こよみが遠くに行ってしまいそうで怖い〉に挟まれたまま何も言えず、片目を薄く開いたまま、まひろは眠りに落ちていった。
眠りの中で半溶融状態だったまひろに、冷たく、しかし温かな身体が触れた。書き物を終えたこよみが、布団に潜り込んできたのだった。冷たい手足が触れ合い、体温が繋がった。冬の空気で冷え切った表皮の奥で、ふたりの血肉がなお熱かった。
「こよみ」と、まひろは囁いた。彼女はまだ眠りの水底におり、水面の向こう側のこよみに向かって振り絞るように呟いた。眠りの溶液は声の振動で揺らめき、こよみの姿も幻影の様に揺れた。
「ひむろ。起こしてごめん。眠ってね」と、こよみは言った。
「何を書いていたの」と、まひろは言った。
「日記だよ。毎日書くの」
「蛍が飛んでた。こよみの眼から蛍が」
「寝ぼけてるんだね」と、こよみは笑い、まひろの髪を撫でた。「おやすみ」
おやすみという言葉を受けて、まひろは言葉を発することを止めたが、ぱくぱくと金魚のように口を動かして、声を出さずにこよみの名前を呼び続けた。
やがて隣でこよみの寝息が聴こえ始めた。触れ合った彼女の身体が柔らかく無抵抗なっていき、眠りに落ちてゆく軌跡が、寝息を通してまひろにも感じられた。冷たかった皮膚は、ふたつの体温の融和ですっかり温められていた。まひろは、こよみの眠りと自分の眠りを混ぜてしまいたいと思った。ふたつの身体のなかで揺れている眠りの溶液と周囲の暗闇をさらに混ぜ、その中で溶けてしまいたいと思った。
「ひとは何故、セックスをするの」不意にまひろは、かつてブラッドハーレーと話したことを思いだした。「繁殖だけを目的とするには、この衝動は複雑すぎる」と、ブラッドハーレーは言った。
暗闇に慣れはじめたまひろの目前に、こよみの安らかな寝顔が浮かび上がった。無抵抗なその寝顔を見ていると、何処からか「繋がりたい」という声が聴こえてきた。それはまひろ自身も所在を知らない、彼女の傷痕の中に隠した遠い場所から聴こえてきた。衝動は何処か懐かしかった。まるで、この日が来るのを予見しつつまひろの身体の隅々で沈黙していた欲望たちが、こよみというきっかけによって瞬時に集結したかのようだった。彼女と繋がって、一つの生き物になってしまいたい。と、その声は言っていた。それは性欲という形でまひろを急かした。繋がってしまえ。と、性欲は言った。まひろは舌をのばし、こよみの唇の端に溜まった唾液に触れた。触れた舌先から融解した世界のすべてが、とめどなくこよみに向かって流入していくのを感じた。
「ひむろ」と、殆ど眠りの底にいるこよみが呻いた。「おやすみ」
こよみの手が、ぬいぐるみを抱くようにまひろの腰を抱いた。まひろはこよみの髪を撫で、その匂いを嗅ぎながら目を閉じた。繋がりたい。という声をもう一度聴きつつ、まひろは目を閉じた。眠りのなかに、再びすべてが溶けていった。
あの夜、望めばこよみと性的な繋がりを持つことができた。と、後になってまひろは何度も思い返す。しかし、彼女はそうしなかった。それ以上、唇を溶かすことをせず、一個の安心したぬいぐるみと化して、温かい沼のなかで甘い眠りを貪った。
繁殖を目的としない性行為は全て倒錯だ。と、かつてブラッドハーレーが言っていたことがある。世界はもともと倒錯している。コンドームはそのシンボルだ。というのが彼の意見だった。「みんな変態だってこと?あんたほどじゃないよ」と、言い返しつつも、まひろは概ねその意見に同意していた。世界は変態だらけだし、わたしたちは皆、平静を装った倒錯だ。多くの者が、子供を作るためではなく、自慰と快楽のために性交をする。
だが、こよみとの同衾を経たこの夜を境に、まひろは繁殖についてブラッドハーレーとは違った見解を持つことになる。人は肉体的にだけでなく、精神的にも繁殖している。というのが、こよみの体温を通してまひろの抱いた新たな見解だった。かつて同性愛者に対して「彼らは子供をつくらないので、生産性がない」と発言し問題になった国会議員がいたが、そこでは人類史における精神的な繁殖が、情緒的な進化が無視されている。勿論、それを愛と呼んでもかまわない。
溶けあった二人分の体温と眠りのなかで、確かに何かが繁殖しているのを感じた。蛍のような小さな光が、傷口のような熱源の周りを飛び回り、何か見たことのない生き物が産まれようとしていた。性愛という激しさによって、その静かな繁殖を妨げたくないと思った。
あの夜、どのようなセックスよりも、わたしたちは繁殖していたのだ。と、まひろは考える。
手渡された両手いっぱいの花束。父。義母。義弟。セキセイインコ。の順に、まひろは視線を投げた。戸惑いに満ちた視線の飛び石作戦は事態の理解にたどり着けず二周した挙句に墜落し、まひろは手渡された花束を抱えたままおろおろと狼狽えることしかできなかった。その様子を見た全員が朗らかに笑い、まひろは自分がペットショップで購入され初めて家に迎えられた小型犬になってしまったように感じた。
大学受験の合格祝いに、父の新居に招かれたのだった。社交辞令だと思っていた「新しい家族にいつか会ってほしい」という彼の希望はどうやら本気だったようで、何度も日程調整のための連絡を受けた。その都度、適当な理由をつけて断ってきたが、父は諦めることなく定期的な打診を続けた。そこには、まひろのよく知る無気力で無関心な隠者の姿はなかった。断られる前に全てを諦めるようなひとだったのにどうした。諦めるために彼が積み重ねてきた特殊な訓練は全て泡と化してしまったのか。と、まひろは思った。
仕方なく、まひろの方が先に諦めて父の招待に応じたところ、豪華な手料理と両手いっぱいの花束と満面の笑みで迎えられ、戸惑いとともに立ち尽くすより他なかったというわけだった。まるで一枚の扉を隔てた異国に迷い込んでしまったようだった。父の新しい家族は、初対面の義娘を何の警戒もなく家に招き入れ、花束で祝福をする人たちだった。
もともと、家庭という場所が苦手だった。まひろが学校の中でなるべく気配を消し、親しさを遮断して友達をつくらなかったのは、そうすることによって自宅への干渉を防ぐという目的が少なからずあった。自宅を絶対的パーソナルスペースとしていた母親は、そこに家族以外が侵入することに対し(それがどんなに些細な干渉であったとしても)あからさまな不機嫌を示した。それは臆病な肉食動物の縄張り意識によく似ていた。はじめに敵視があった。彼女は自分が支配できうる範囲をよく知っており、その領地に立ち入ろうとする者は誰であっても殆ど本能的に排斥した。不機嫌が最終的に暴力と化して自分に向けられることを知っていたまひろもまた、家庭という領地の防衛に協力的であったと言える。
一方、他所の家庭の作る空気にも、まひろは耐え難い不安を感じた。その空気が淀んでいようと澄んでいようと同じことだった。それが自宅と似ていれば同族嫌悪を感じたし、似ていなければ嫉妬と劣等感を感じた。そういう感情自体が胸を苦しくさせることを避けるため、まひろは物心ついた時から他所の家庭に立ち入るという機会を意識的に避けてきた。自他を問わず、そこは彼女のとっての立ち入り禁止区域だったのだ。
招かれた父の新しい家庭からは暴力の匂いがまるでしなかった。まひろは鼻腔の他にもう一つの嗅覚を持っており、それは常に空気中の不穏含有量を敏感に察知したが、手料理と花の香りの漂う新築のマンションからは、どこからも破滅や暴発の予感がしなかった。それはそれで落ち着かないものがある。と彼女は思った。
花束を渡された玄関先で、まひろは深々と頭を下げて挨拶をした。なんと自己紹介すればよいのか、まったくわからなかった。父の娘であることを名乗っていいのか、元娘ですとでも名乗った方がいいのか、何故のこのことこんな場所へ来てしまったのだろうか、自分も花なり手土産なり持ってきた方がよかったのだろうか。などと考えながら「はじめまして。まひろと申します」とだけ言った。
再婚相手とその息子は、鏡に映った別人のようにまひろを真似て礼をし、それぞれ名乗った。この時点では、まひろも義母も義弟も名前以外に自己を紹介する術をもたなかった。三人とも笑顔を浮かべていたが、まひろの笑顔は硬く、義母と義弟のそれは家庭内の空気同様に柔らかかった。
ヨガ講師をしているという父親の再婚相手は、笑顔だけでなく、その全てが柔らかかった。物腰が柔らかかったし、言葉が柔らかかったし、所作が柔らかかった。その柔らかさゆえに、彼らの家では殆ど足音がしなかった。
義母は、その身体の柔らかさを見せることによって、まひろに自己を紹介した。月や鴉や孔雀や半分の蛙を模したポーズを次々に変えて見せる彼女の身体は、凡そまひろが考えもしなかった角度や方向へ歪み、美しい弓のようによくしなった。大いに感心したまひろが拍手すると「ぼくも最近、壁沿い三点倒立ができるようになった。見たい?」と、父が言った。
「いえ、結構です」と、まひろは断ったが「いいじゃない。やってみなさいよ。せっかく毎日練習してるんだから」という義母の言葉に促され、父親は逆さまになって自分の身体を壁に預けた。体幹の弱い中年男の三点倒立は壁沿いでぷるぷると震え、わあすごい。と心のこもらない声でまひろが言うと同時にその場に崩れ落ちて、また全員が笑った。
「彼はもっとすごい」と義弟を紹介して父は言った。「天才なんだ」
「そんなんじゃないよ」と言いながら少年はぺたりと床に座り、身体全体を液化させるように脱力すると、その場でひょいと逆立ちをして、ゆらゆらと部屋中を歩きだした。うわあ。と、まひろは言った。今度は本気の驚嘆だった。すごいだろ?その気になれば半日あのままで生活できる。と、父は言った。
タンドリーチキン。ひよこ豆のサラダ。きのこのグリル。チャイ。大皿に乗ったあらゆる料理から、スパイスのいい香りがした。その家では、大皿から自分の皿に好きなだけ料理を取る食卓作法が採用されており、目の前を取り箸がせわしなく行き来した。
父と一緒の食卓に着くのは殆ど五年ぶりだったが、彼はよく食べ、白ワインをたくさん飲み、よく喋った。まひろは、見たことのない動物を見るような目で父親を見た。料理は美味しかったが、何故か喉の奥に小石が詰まっているような気がした。
「お二人は、何故そんなに柔らかいのですか」と、まひろは尋ねてみた。義母と義弟は、質問の意味がわからないという顔をして、父親が笑いながら言った。「まひろ。同じ質問を蛸にしているようなものだよ。この人たちには当然なんだ。努力さえもしていない」
「気が付いたら、柔らかくなっていたの」と、義母は言った。
「おれも、気づいたら逆立ちしてた」と、義弟は言った。
また全員が笑ったが、まひろの内心は混乱の極みにあった。自分がリラックスしはじめていることに驚いたが、彼らがそう仕向けたわけではないということがわかるにつれ、さらに驚いた。二人は、ただ自分の振る舞いたいように振る舞っているだけだった。特別な気づかいや言葉や態度でもてなされるのが客の条件だとすれば、まひろは客ですらなかった。
呼び出された名目こそ合格祝いであり、裏側には義理の親姉弟との初顔合わせという目的があるのではないかとまひろは推していたが、いざやって来てみれば、そこにはたまたま路上で目があった旅行者を気安くお茶に誘う精神性を持つ柔らかい国の人達がいた。「気を使わないで楽にしてね」という義母の言葉は客への配慮というよりは率直にそのままの意味であり、それを証明するかのように義母自身が気を使わずに楽にしていた。相手の願望を観察してから、その場での振る舞いを選ぶまひろにとって、彼女たちの柔らかさは一種の障壁に感じられた。その柔らかさによって、願望を読み取ることが困難だったからだ。
「これ美味しいですね。クミンの香りですか」と、タンドリーチキンを食べながら、まひろは言った。どちらかと言えば、招かれた義娘のほうが積極的にホストの立場を取ろうとして会話を主導していた。
「そうね。家にあるもの、適当。ターメリックとか、カルダモンとか。わたしは全然好きじゃないんだけど、何故か生徒さんがくれるものだから、しまいにはカレーもスパイスから作るようになっちゃった」と、義母は言った。
「そういうの、何効果っていうんだっけ」と、義弟が言った。
「ピグマリオン効果の一種ですかね」と、まひろは言った。「他者からの期待を受けることで、その期待に沿った成果を出しやすくなるという」
「他の人から期待された通りの人になるってこと?そういうのあると思う?」と、義母は義弟を見て言った。
「おれは、母さんの期待通りになんかなってない」と、義弟は言った。
「だって、あんたに別に期待してないもの」と、義母は言った。
「お父さんは、わたしに何か期待した?」と、少量の意地悪を込めて、まひろは言ってみた。父は言葉に詰まり、料理も喉に詰まらせて、顔を赤くした。義母がその背中を思い切り叩くと、喉に詰まった料理とまひろの問いがやっと彼の胃袋に落ちた。
沈黙と、食器の触れ合うかちゃかちゃという音が食卓の上空で旋回した。父親は叱られたこどものような顔をして食事の手を止め、義母と義弟は質問の孕む毒に気づかず、柔らかいまま食事を続けた。
「期待。したよ」と、父親が言った。まひろの質問は沈黙の中に溶けようとしていたので、そのままやり過ごすこともできたはずだ。まひろの知っている父親だったら、必ずそうしただろう。夥しい傷に溢れたまひろの家で、彼はずっと見えないという態度を採択してきた。だが、父親は振り絞るように言った。
「今も期待している。元気で、幸せでいてくれればいいと思っている」
わたしにはわからない。元気でいるという状態も。幸せでいるという状態も。誰もそれをわたしに教えてくれなかったから。元気のない時に傍にいてはくれなかったし、幸せに関する実習はことごとくキャンセルされた。あなたはいつだってわたしを置き去りにした。仕事と沈黙を隠れ蓑にして家を避け、何もかもわたしに押し付けた。自分が楽になりたいというだけの理由で他人の幸せを願う無責任をやめてもらいたい。あなたにだけは言われたくない。そんなピグマリオンは崖の上から突き落としてやりたい。そう言おうかと思ったが、やめた。父親が責められることを覚悟の上で言葉を発したことはわかったし、部屋の中の柔らかさに傷口の硬さを混入したくなかった。結果、言葉はまひろの家でそうされていたのと同じように、彼女の中に留まりその内臓を傷つけた。
「何が元気で、何が幸せかって、あんまり考えたことないな」と、義母が言った。
「おれもない」と、義弟が言った。
「きっと、それ自体が元気で幸せなことなんじゃないでしょうか。現状に満足しているということが」と、まひろは言った。
「満足しているとは言えないけど、それほど大きな文句はないね。日々忙しくて、文句を言ってる暇もないよ」と、義母は言った。
「姉さん。お茶淹れようか」と、義弟が言った。姉さん?と声を出しそうになったがこれも飲み込み「ありがとう。いただきます」と、まひろは言った。
義弟が淹れてくれたチャイは甘く、シナモンや生姜の香りが、まひろの疲れを優しく撫でた。とても美味しい。と、まひろは言った。義弟は床に座り込んで蛸のようにくにゃくにゃと身体をほぐしながら、よかった。と、言った。
「身体が柔らかいと、心も柔らかくなるのでしょうか」と、まひろは言った。
「自分の身体をどうイメージするかは、心をどうイメージするかに影響を及ぼすとは思うよ」と、義母は言った。「逆もまたしかりだけど。心を柔らかくしたければ身体を柔らかくすればいいし、身体を柔らかくしたければ心を柔らかくすればいい」
「わたし、身体がすごく硬いんです。きっと、心も硬いんですね」
「硬いよりも柔らかい方が壊れにくいって、スパイス・ガールが言ってたよ。知ってる?スパイス・ガール」
知りません。と、まひろは言った。
「スパイス・ガールはある少女の精神性なの。強くなりたい、身を守りたいと思った時、少女が選んだのは堅固ではなく柔軟だったって話があってね。その時、彼女は言ったの。〈柔らかいということは、ダイヤモンドよりも壊れない〉。柔らかさによって、彼女は強くなるの。きっと、あなたの中にもいるよ。スパイス・ガール」と、義母は言った。リビングの床でまた、義弟がひょいと逆立ちをして、そのままゆっくりと脚を開きながら「ゴム人間をイメージするといいよ。ゴム人間は、その柔軟さ故に強いんだ」と言った。
柔らかい人たちだ。と、まひろは思った。継子のまひろに好かれようだとか、よく思われたいだとか、そういう願望が少しも感じられない。好き嫌いという区別さえ、彼女たちの柔らかさの中に溶けている。液体すれすれの柔和が、にっこり微笑んで勝手にしろと言っている。彼女らに相対して、まひろははじめて自分の硬さを意識した。硬く、しかも折れやすい枯れた樹が、自分の身体を貫いていると思った。
「ぼくもはじめは硬かった。けど、ずいぶん柔らかくなったんだ」と、父親は言った。背中に回した両手を上下に繋ぎ、ほら。前は出来なかった。と、言った。そもそもあなたの身体が以前どれほど硬かったかをわたしは知らない。と、まひろは思った。
「しかし、本当にさかさまですね」
倒立したまま床に広げた雑誌の頁をめくる義弟を見ながら、まひろは言った。数分おきに逆さまにならなければ発火する爆発物を体内に埋め込まれているのだろうか。と思った
「体操とか。パルクールとか。やってるのですか」と、まひろは訊いてみた。
「パルクールは遊びで少しやってる。体操部やダンス部には何度も誘われたけど、入らなかった。その代わり、逆立ち同好会みたいなのをやってる。倒立部って呼ばれてるんだけど」と、義弟は言った。
「倒立部」と、まひろは言った。聞いたことのない部活動だった。
「姉さんは、演劇部なんだっけ?父さんから聞いたんだけど」義弟はそう言いながら、空飛ぶ蛸が着陸するように、両足をゆっくりと床に降ろした。
「そう。演劇部だった。受験勉強とかで忙しくなって、やめてしまったけど」と、まひろは言った。
「倒立部でね。ロミオ対ジュリエットっていうの、やったよ。文化祭の催し物でね」と、義弟は言った。
「なんで対決するの。愛し合わないの?」と、まひろは言った。
「おれたち倒立部のコンセプトは逆さまだからね。倒立しながら演技して、ついでにお話も逆さまにしたんだ。親同士はめちゃくちゃ仲がいいんだけど、ロミオとジュリエットは殺し合う程、憎みあってるって話。最後は相打ちになって両方死ぬ」
「愛し合ってても、憎み合ってても、結局最後には死ぬのね」と言って、まひろは笑った。
「同じ結末なら、愛し合った方が得じゃない?」と、義母が言った。
「きっと損得じゃないんだよ」と、父親が言った。
〈倒〉れる。〈立〉つ。という相反状態の名を持つ部活動について興味が湧き、義弟に説明を求めると、彼自身その沿革を今はじめて認識するように、たどたどしく説明してくれた。
最初は、希望者に倒立の仕方をレクチャーをしていただけだった。と、義弟は言った。
「体操部で教えられる倒立とは違って、おれの倒立は筋力や筋金入りの体幹をあまり必要としないんだ。大切なのは、脱力とバランス。そしてイメージだから」
確かに、筋肉の重さと硬さによって身体を安定させる体操選手に比べ、義弟はその軽さと不安定さによって倒立しているように見えた。絶えずゆらゆらと揺れながら移動するその姿は、水の流れと調和した水中生物の浮動を思わせた。
「それで筋トレとかをすっ飛ばして、手っ取り早く逆立ちだけしてみたい人々が教えてくれって集まって来て、放課後に遊び半分で練習してたんだ。そしたら、いつの間にか倒立部って呼ばれるようになってた。おれたち逆立ちしながら遊んでただけなんだけど、周りからは真剣に見えてたらしくて、何故か使われてなかった部室を貰ったし、頼んでもいないのに顧問がついたし、気づいたら部費まで支給されてた。多分、真剣に遊びすぎたせいで部活動に見えてしまったんだろう。顧問の先生は、おれたちに上演をしろと勧めてくる。コンテンポラリー・ナントカをやれってよく言ってるけど、創作ダンスとか現代舞踏とか、そういう意味らしい。おれたちをそういう種類のパフォーマーだと思ってるんだね。先生はその手の大会だとか会場だとかの情報を色々と集めてくるんだ。せっかくなので、おれたちも逆さまをコンセプトにしたパフォーマンスをみんなで考えて、たまに上演してるってわけなんだ」
「このひとの恋人も、倒立が上手なのよ。同級生で、よく家に来て二人で逆さまになってる」と、義母は言った。
「彼女はもともとは普通の人だったんだ。いや、別におれだって普通の人なんだけど。一緒にいるうちに何故か彼女も逆立ちをするようになった。〈あなたが逆さまなのだから、わたしも逆さまになる必要がある〉って彼女は言ってた。今ではおれと一緒に他のみんなに教えたりしてる」
「いっしょにいるうちに、似てくるものなんですかね」と、まひろは言った。
「二人以上の人間がいっしょにいると、溶け合う何かがあるんだろうね。そしてどこか似てくる」と、義母は言った。
まひろは柔らかい親子の顔を交互に見て、それから父親を見た。確かに、わたしたちの一部は溶けあっている。と思った。
タイ古式マッサージの国際資格を持つ義母が、まひろの身体をまんべんなく触診した後「すごく硬い。天然石みたい。普段から緊張状態で過ごしてない?」と言った。義弟に何度こつを教えられても倒立はうまくいかず、試みる度にまひろは転んだ。義母も義弟も終始楽しそうに笑っており、その様子を見る父親も幸せそうだった。
夜も遅くなったので泊って行けばいい。という父親と義母の申し出を断り、まひろは花束を抱えて彼らのマンションを出た。玄関口で見送られる時に、義母はヨガ教室のショップカードを。義弟は倒立部の出場するサーカスイベントのフライヤーをくれた。
「楽しかった。また来てね」と、二人は言った。その柔らかな自然体によって不必要な社交辞令を必要としない二人の言葉を受けて「わたしも楽しかったです」と、まひろも言った。
人通りの少ない駅までの道のりを、父親が送ってくれた。並んで歩く親子の間を、冷たい冬の風が吹いていた。
「あの人たちと暮らしていたら、お父さんもきっと、すぐに柔らかくなってしまうね」と、まひろは言った。
「そうだね。いつか逆立ちで暮らしはじめるかもしれない」と、父親は笑った。こんな穏やかに笑うひとだったのか。と、まひろは思った。父親からは、かつて彼が自衛のためにまとっていた孤独の障壁が消え失せていた。傷つけられること、傷つけてしまうことに怯える余り、その全身を包んでいた虚無感の膜は、恐らく新しい家族の柔らかさに触れて融解してしまったのだろう。と、まひろは思った。
「まひろ。こう言うのもなんだけど、いつでも家に来てくれていい。あの人たちも喜ぶ」と、父親は言った。まひろは暫く黙って歩いた後、ゆっくりと首を振った。
「お父さん。そういうのは出来ない」と、彼女ははっきり言った。冬の風がひゅうと鳴いて、ふたりは黙った。人気のない舗道で、沈黙に代わる二人の足音だけが、まるで一人分であるかのようにぴったりと重なって鳴り響いた。
「これ以上、わたしに見捨てられたと思ったら、お母さんはどうなるかわからない」暫く無言で歩いた後、まひろは言った。「お母さんを見捨ててしまいたいというきもちと、見捨てられないというきもちと、見捨てられたくないというきもちが、わたしの中にある。それは色んなものと結びついて、何もかもをぐちゃぐちゃにしてしまう。だとしても。だからこそ」
〈だとしても〉と〈だからこそ〉の狭間で、また涙が溢れそうになったが、喉の奥に飲み込んで留めることができた。こよみの手による一旦のデトックスによって、まひろの涙はまだ涙道から氾濫するほどには溜まっていなかった。
身体はがちがちに硬いくせに、何故わたしは言葉だけが柔らかいのだろう。と、まひろは思った。意味という形に固まることができないほど柔らかく、従って言葉にすることのできない流体が、まひろの中に溜まっている。涙に近い香りを持つ言葉以前の流体は彼女の中でしか生息することができず、感情の海の中で絶えず分裂と増殖を繰り返しており、まひろ自身もまた、その海に揺られていた。
父親は、その流体を見ることが出来る数少ない人間のひとりであり、ふたりの間にもまた、言葉を必要としない理解と共感があった。こっそり顔色を窺いあってきた家族独特の疎通で、お互いが何を伝えたいかを無言のうちに察し合うことができたし、かつてそれを阻んでいた父親の障壁も最早除去されていた。
「わかるよね」と、まひろは言った。
「わかるよ」と、父親は申し訳なさそうに言った。
「お母さんのことが好きなわけではない。むしろ、あのひとといると苦しい。癒着するほどに抱きあうか、それができないなら憎しみの塊を投げつけることしか、あのひとにはできない」と、まひろは言った。
愛と憎しみという、対立した二極の特徴を同時に備えているが故に、まひろは自分の中に溜まるばかりのその流体の名を呼べずにいた。愛と呼ぶには憎すぎるし、憎しみと呼ぶには愛しすぎる。一方の名で呼ぶことによって、もう一方の名が失われるのを避けるために、まひろはずっと口を噤んできた。
「お父さんの新しい家族のこと、わたしも好きだよ。とても柔らかくて、素敵なひとたちだね。でもね、わたしはそっちに行くことはできない。お母さんを裏切るような気になってしまうし、あの人たちは柔らかく、わたしは硬すぎる」
「お父さんの新しい家族のこと、わたしも好きだよ。とても柔らかくて、素敵なひとたちだね。でもね、わたしはそっちに行くことはできない。お母さんを裏切るような気になってしまうし、あの人たちは柔らかく、わたしは硬すぎる」
父親は沈黙によって、まひろの言葉を消極的に肯定した。対立を嫌う余り、反論を避けようとする彼の傾向は、新しい家族との生活にとっては平和を保つための長所となることだろう。と、まひろは思った。
「ひとには、暮らすべき場所というものがある。あのひとたちは、親和的で敵の少ない平和な海に暮らしている。わたしとは違う。エンゼルフィッシュとスベスベマンジュウガニくらい違う。わたしは、あのひとたちの水域で暮らすことが出来ない。そこで呼吸することのできる器官を、そもそもわたしは持っていない」と、まひろは言った。
「ぼくもそうだった」と、父親は言った。そうだろうな。と、まひろは思った。
「彼女たちの柔和さがなにを意味しているのか、最初分らなかった。分かってからは、一緒にはいられないと思った。きみの言う通り、ぼくらは住んでいる水域が違うと思った。彼女たちは余りにも前向きで自然体で、ぼくは後向きで不自然だった。ぼくは自分のなかの恐怖や後悔を、ネガティブな汚水を、彼女たちの世界に持ち込みたくなかった。自分が混ざることによって、きれいな水を濁らせたくなかった」
義母のくれた花束の向こう側で父親は話した。このひとは、もうわたしとは違うのだ。とっくにわかりきっていたはずの認識を、まひろはもう一度噛んだ。かつて彼女たちがともに暮らした汚染水域について、父親は過去形で話し、まひろは現在進行形で話していた。
自分の弱さのせいで何かを壊してしまうことが怖い。と正直に打ち明け、会うことをやめようと提案した父親に対し、義母は次のように言ったそうだ。
「わたしは他人のせいで、ましてやあなたの弱さなんかのせいで壊れるつもりはないし、この柔らさ故にたいへん壊れにくいし、壊れたら壊れたであなたひとりの責任ではないし、その弱さも含めてあなたはあなたなわけだし、一緒にいても離れてもどっちみちあなたは怖いわけだし、もういいから諦めなさい」
「諦めなさいと言われたの」と、まひろは言った。
「うん。それでぼくは諦めることにした。諦めて、彼女たちと暮らし始めた。それは、今までにぼくがしてきた無数の諦めとはまったく違った種類の諦めだった」
「おとうさんは、何を諦めたの」
父親はそこに答えが書いてあるかのように、まひろの目をじっと見つめたが、上手い答えを見つけることはできなかった。
「わからない」と、彼は言った。「うまく言えない。でも、諦めてよかったと今は思っている」
その諦めの中には、自分も入っているのだろうな。と、まひろは思った。
「よかったね。お父さん」と、まひろは言った。父親は困ったように笑った。かつて母親が、この笑顔を見る度に激怒していたことを思いだした。自分は無力であり、無抵抗なのですと表明するかのように父親が微笑むたび、母親の怒りは一層強まって壁や心に穴を開けていた。あの怒りは、見捨てられたという感覚から来る逆上であったに違いない。と、まひろは思った。同様の感覚に衝き動かされつつも、彼女は逆上せずに父親の表情を模して笑った。
「お父さん。あなたがわたしに期待してくれるように、わたしもあなたに期待している」と、まひろは言った。何百回もまひろの中だけで繰り返されながらも、誰にも話すことのできなかった期待が、諦めと共に放出された。「お父さんが元気で、幸せであることを期待している。ただ、わたしから見えない場所で。わたしの知らない水域で。そうしてくれることを願っている。わたしとは遠く離れた、関りのない場所で幸福であってほしい。そうすれば、わたしはあなたにすがろうとしないで済むし、憎んだり嫉妬しなくて済むし、諦めることができる」
父親はまた、まひろの目をじっと見た。愛しているが故に消え失せてくれという意味の娘の期待を、父親はよく噛んで飲み込んだ。彼が、かつて家から出る際に泣きながらそうしたように、娘を抱きしめたがっていることが、まひろにはわかった。
「ここまででいい」と、立ち止まってまひろは言った。駅の光が、暗い路地裏を照らし始めていた。
「今日はありがとう。柔らかい人たちにもよろしく。いつになるかわからないけれど、また会えたらうれしい」と、まひろは言った。そして、父親の肩をぽんぽんと叩いた。父親も諦めの微笑みを浮かべながら、まひろの肩をぽんぽん。と叩いた。
暗い路地裏の先にあの人の帰る家がある。そう思いながら、まひろは父親の後ろ姿を見送った。お互いの肩を叩き合うぽんぽんという音を翻訳したらどうなるだろうと考えた。アリガトだろうか。ゲンキデだろうか。サヨナラだろうか。クタバレだろうか。ゲンキデだろうか。多分その全てが溶けあっており、言葉として取り出すことが困難であるために、わたしたちは身体や沈黙を使うのだろう。と思った。
まひろは電車には乗らず、もう一駅歩くことにした。父親の暮らす街の駅名をできれば記憶に残したくなかったし、胃の中でまだ温かい義母の料理と父親との別れを消化するために、歩いてみたかった。
よく晴れた冬空に浮かんだ白い雲を見ながら、まひろは線路沿いを歩いた。閉店間際のコーヒーショップで、温かいコーヒーを買って、歩きながら飲んだ。自分の中に冷たい部分と温かい部分が混在しており、その混じりあいがわたしの体温なのだ。と、まひろは思った。
自分とは逆方向の家路へと歩く父親の猫背を思い浮かべた。あの人のなかに、わたしの体温が溶けており、わたしのなかに、あの人の体温が溶けている。例えもう二度と会えないとしても、この融和した体温上でわたしたちは常にいっしょなのだ。そう思った。
〈夜は液体に似ているな〉スマートフォンを取り出し、まひろはこよみへメッセージを送った。
〈わたしたちの移動や交流は、夜という液体の中の温度の融和の様だ〉
〈世界はひとつのコーヒーカップの様だ。わたしが冷たく、あなたが熱い時、ふたりは生温い〉
〈今日、柔らかい人たちに会った。柔らかさと彼らのお話を持ち帰りたい。帰ったら聞いてくれる?〉
すぐにこよみから返信が返ってきた。訓練された彼女の率直さは、返事の保留をしない。
〈夜は液体に似ており、わたしたちは夜の一部として液化している〉
〈それでも、身体は溶けているわけではない。身体は固体のまま夜を移動している。でも、交流によって液体のように溶けあう感覚はよくわかる。例えば感情だ。よく溶ける。わたしたちは固体としての性質と、液体としての性質の両方を持っている〉
〈わたしが冷たく、あなたが熱い時、ふたりは生温かい。わたしは、その生温かさが好き〉
〈帰ったら、お話を聴かせて。溶けるチーズと卵と白ワインと黒い綿棒を買って来て。気をつけてね〉
「あの柔らかいひとたちと、溶け合ってもよかった」と、まひろは言った。父親の新居で出会った柔らかい親子の事を、白ワインを飲みながら話した。こよみはまひろの買ってきた卵を三つ割り、クレーターのない半月のようなオムレツを焼いた。すべすべした半月の中から、とろとろのチーズが溢れ、ふたりの舌の上で溶けた。
「多分、あの人たちの柔らかい心身は、わたしを歓迎してくれた。わたしは心を開いてもよかった。でも、そうできなかった。父の新しい家族であることへの嫉妬というだけではなく、あの濁りのない感じが受け入れられなかった。こよみは、誰かに心を開いたこと、ある?」
「あるよ。フォビアフィビアの皆さんに対しては、心を開いている。奴隷の皆さんにも」と、こよみは言った。
「わたしも。何故だろう。どちらかと言えば不健全なものに対して心を開いてしまう傾向」
「生息する水域の話をしていたね」と、こよみは言った。「不健全な水域で、不健全な魚が群れを作るのではないかな」
確かに。と、まひろは思った。それまで、無意識のうちに健全さを避けてきた。健全さはまひろにとって、不健全さよりもずっと理解に苦しむ代物だった。長きに渡り、無傷よりも傷のほうが、常に彼女の傍におり、また親密だった。彼女の乏しい人間関係の相関図には、矢印の代わりに傷痕が使われているほどだ。
伴なって、まひろが近づき、身体や心を許すのはいつも、傷つけていいと彼女が判断した者だけだった。その判断の根拠は曖昧ではあるが彼女のなかで確かに定義されており、ここで言う〈不健全の水域に住む魚たち〉がそれにあたる。その水域では、傷がお互いを呼び合っていた。まひろにとって、傷は人間関係に於ける引力の役割も引き受けていたと言っていい。
「こよみ。恋をしたことある?」と、まひろは訊いた。
「わからないな。ひとがわからないのと同じように、わたしには恋がわからない」
「こよみ。恋をしたことある?」と、まひろは訊いた。
「わからないな。ひとがわからないのと同じように、わたしには恋がわからない」
それは自分も同様だ。恋がわかる人などいるのだろうか。と、まひろは思った。
「あなたにはわかる?」と、こよみは言った。
「経験はあるけど、わからない」と、まひろは答えた。おかしな言い方だが、正直な答えだった。恋の経験はある。だが、あれが何なのかわからない。離れがたい甘さがあり、耐え難い不安があった。大切にしたいという慈しみがあり、メチャクチャにしてやりたいという破壊衝動があった。見捨てられたくないという恐怖があり、いつかは見捨てられるに違いないという予感があった。二人の力を合わせて、実際に予感が成就されるまで、その奇妙な精神状態は続いた。
「ブラッドハーレーのこと考えてる?」と、こよみは言った。
「そうだよ。なんでもお見通しだな」と、まひろは言った。
「だって顔がくしゃくしゃになるんだもの。ハバネロでも噛んだ時みたいに」
「いや、ニガウリだよ。あの野郎」と、まひろは言った。「思い出す度に忌々しい」
とは言え、その頃にはようやく、ブラッドハーレーのことを過去形で語れるようになっていた。こよみに話すことによって、失恋の呪いは徐々に解かれつつあった。
それを解く過程において、まひろは彼女が自分自身にかけている呪いを自覚している。抱えきれない憎しみを抱いた時、黙って心の奥底に封印しようとする悪癖がそれだ。憎しみが強ければ強いほど、彼女はそれを圧縮して小さな鉛の金庫に封じ、心のより奥深くへと隠そうとした。そして隠し終わると、やがて自分でも隠した場所を忘れてしまう。だが憎しみは沈黙に潜み、決して死にはしない。ことあるごとに金庫から這い出して、死角からまひろを操ろうとする。そうした呪いを自覚するようになってからも、憎しみが自分の産物なのか、自分が憎しみの産物なのか、まひろ自身にも時々わからなくなることがあった。
「そのひととは。ブラッドハーレーとは、同じ水域に住んでいたの?」と、こよみは言った。
「うん。わたしたちは同じ水域に住んでいた。どこもかしこも違っていたけれど、ある一部が致命的に似ていた。その似ている部分を重ね合わせるように一緒にいた。そういう恋だった」
呪いが似ていた。と、まひろは思う。生息域の水圧に適応するために発達した、呪いを呼吸するための同じ器官を、ふたりは重ね合わせていた。
「恋はおもに、同じ水域で起こるのかな」と、まひろは言った。
「恋というそれ自体が、相手と同じ水域に生息したいという欲求なのかもしれない」と、こよみは言った。
「恋がわからないね」と、まひろは言った。
「恋がわからないよ」と、こよみは言った。
白ワインの最後の一口を飲み干してから、まひろはこよみの髪に触れた。絹が溶けるようなその感触に解毒されるように、ニガウリを噛んだまひろの表情もゆっくりと解けていった。
呪いのような恋もあれば、呪いを解くような恋もあるのだな。と、まひろは思った。
「「でも、ブラッドハーレーのお陰でこよみに出会えたとも言える。そこは感謝しなくては。やつを失ったことへの喪失感に導かれて、フォビアフィビアに来たのだから」と、まひろは言った。
「何かを失えば、なにかと出会える」と、こよみは言った。「そういう法則が、きっとあるのかな」
「法則があるのかはわからないけれど、黙っていても、ひとは様々なものを失う。わたしたちの生きている現在という時間。それ自体が、失われた過去の累積だもの。生物の死骸でできた砂浜みたいに」
「喪失に次ぐ喪失の果てにいるのね」と、こよみは言った。その通りだ。と、まひろは思った。
「喪失に次ぐ喪失の果てにいる。でも、そこにあなたがいたのだから、それも悪いことではないよ」
果たしてこれは恋なのだろうか。と、まひろはこよみを見ながら思った。幾度となく「好きだよ」と、こよみに告げてきた。その度に彼女は「わたしも」と、答えて微笑む。それが似た者同士に対する自己愛の投影なのか、よく働く同僚としての信頼なのか、はじめてできた友人に対する友愛なのか、ブラッドハーレーに対して抱いたような所有欲と区別のつかないパラノイアックな執着なのか。性欲を含まない種類の静かな愛なのか。まひろには全くわからなかった。その全てであるような気もしたし、そのどれでもないような気もした。
こよみが瓶とワイングラスと食器を片付けている間に、まひろはシャワーを浴びた。化粧を落とし、髪を乾かし、歯を磨いて、あとは眠るだけという状態になって洗面所から戻ると、灯りの消えた部屋の隅でこよみが日記を書いていた。まひろは布団の中に潜り込んで、筆記の音を聴きながら、薄目を開けて彼女の横顔を見ていた。一日の最後に行われるこよみの習慣を、まひろは邪魔しない。
「好きだよ」以外の言葉で、こよみに自分のきもちを伝えることはできないだろうかと、温かい毛布の中でまひろは考えた。諦めなさい。という義母の声が、眠気の泥の底から聴こえた。遠く離れた場所で、父親が諦めた気配がした。それは幸福な予感がした。彼らはいったい、何を諦めたのだろう。逆さまになった義弟が「愛しているんだよ」と言った。
「愛している」と、口に出して伝えたなら、こよみはなんと答えるだろう。何百回もそう考えた挙句、まひろはその言葉を口にしなかった。もしもそれを口に出すことで彼女を失ったなら、さらに酷い嵐がまひろに訪れることは明白であり、口に出さない限りは穏やかな凪の海辺でこよみの傍にいられることが保証されていた。さらには、恋がわからない以上に、愛はわからない。
「あなたの蛍になりたい」と、言ったら、こよみはわかってくれるだろうか。彼女が日記を書いている時に瞳から放たれる、蛍のような輝きが好きだった。自分も彼女の瞳から産まれ、彼女の瞳に帰るあの蛍になれたなら、どんなにすばらしいだろうと思った。あの輝きのなかで、いったい何が起こっているのだろう。そう考えながら、彼女の横顔を見つめ続けていた。
書き物を終えたこよみが、布団に潜り込んできて「おやすみ」と囁いた。身体の殆どを眠りの沼に沈めていたまひろは、その沼底から僅かに口だけを出して言った。
「あなたと同じ水域に棲みたい」
「もう、棲んでいるよ」と、こよみは言った。殆ど同時に、ふたりは眠った。
「ひとを好きになったら、どうすればいいのかって。そんなの決まってるじゃないか。台無しにしてしまえばいいんだよ。きみが今までそうしてきたように」と、シノノメは言った。
控室のアパートで、こよみとカミーユとともに緊縛の練習をしていると、突如現れたシノノメがまひろを食事に誘ったのだった。
「この間アイアン・メイデンのなかに置き去りにしたお詫びに夕食をご馳走させてくれ」と、シノノメは申し出た。一度は断ったものの「何故だろう?納得のいく理由を説明してくれないか」と、顔を近づけて食い下がるシノノメの瞳には〈承諾しない限り永遠につきまとってやるぞ〉という決意が明記されており、まひろは殆ど諦めに近い感情とともに食事の誘いを受け入れた。こよみがクローゼットの奥から、アクアブルーのパーティドレスとパンプスを引っ張り出して、着替えさせてくれた。
「今日は夕飯は要りませんね」と、こよみは言った。
「ごめんね。帰る頃にまた連絡する」と、まひろは言った。
こよみの助力を得て着慣れないドレスを着装すると、アパートの階下にはシノノメの呼んだハイヤーが停まっていた。ドレス姿のまひろを見て「やあ、すばらしい。なんて美味しそうなシンデレラだろう」と、シノノメが笑った。「食べすぎちゃだめですよ。12時までには帰ってくださいね」と、こよみは言った。
連れて行かれたシュラスコ・レストランは地上14階建てのビルの13階にあり、二人で使うには広すぎる個室の壁は一面が硝子張りで、その透明な銀幕の中に、暗くなり始めた街を見下ろすことができた。彼方に落ちてゆく落陽と、それに導かれて降りてきた夜の群青の混合液が、街を沈めてゆく。太陽の跡形のような暗闇の訪れの中に、かぼそい街の灯がぽつぽつと揺れ始めていた。
胸板の厚い南米人の男が、炭火で焼かれた串刺しの肉塊をサーベルでスライスしながら、部位の名前を教えてくれた。
「ピカーニャ。デス」
と、ウインクしながら店員は言った。彼が滑らかにサーベルを振ると、スライスされた肉がひゅんひゅんと宙を舞って、まひろとシノノメの皿の上に次々に重なって着地した。
シノノメは舌なめずりをして、いやあ美味そうだと微笑みながら、肉・店員・まひろの順番に視線を投げて笑った。自分が言われているのか、肉が言われているのか、店員の胸板が言われているのか判断がつかなかった。シノノメが片目でウィンクをすると「ドウゾ。メシアガッテ。クダサイ。ジョオウサマ」と、店員は片言で微笑んだ。
「お知合いですか?」と、店員が下がった後、まひろは訊いてみた。
「いや、初対面だ。美味しそうな胸板をしていたな」と、シノノメは言って、まだ熱い肉汁の滴るピカーニャを口に入れた。
「褐色の肌も美味しそうだ。胸にローションを塗っていたな。てかてかしていた。あれがセックスアピールだとしたら『注文の多い料理店』みたいだと思わないか。以前、二人のプエルトリコ人と絡み合ったことがあるが、二人とも先にシャワーを浴びてから厚い胸板にローションを塗っていた。ひとりはココナッツ。もうひとりは青いパパイヤの香りでね。最高だったな。もちろん、美味しくいただいたよ」と、シノノメは言った。
「『注文の多い料理店』はそういう話じゃないと思いますが」と、まひろは言った。
「そうだね、あくまでも、わたし個人の解釈に過ぎない。だが、物語の本質というものは、本そのものにあるのかな。それとも、読んで解釈するわたしたちにあるのかな。前者だとすれば、その本質は単一ということになるのかな。別々の心と思考回路を持った数十億の人間が同じ物語を読んだとしても?」
相変わらず、ひっきりなしに喋り続ける女だった。その息継ぎの合間に肉が口の中に放り込まれては、魔法のように彼女の皿から消え続けた。皿から肉が消えてしまうと、胸にローションを塗りたくった褐色の店員がやって来て、新しく肉をスライスしてシノノメの皿を補充した。
「アウカトラ。デス。コレモ、オシリ」と、店員が言った。
「ランプのことだよ、ひむろ。確かにお尻当たりの肉だが、広く見ればモモ肉にあたる。ねえ、ローション。きみのお肉も美味しそうだね」店員の胸を見つめ、おまえ自身を皿に乗せて運んでこいと言わんばかりの声色で、シノノメは言った。
「ワタシハ。オイシイケド。ヤカレタクナイ」と、笑いながら店員は言った。
「シノノメさんを見ていると、食欲と性欲の区別がわからなくなってきますね」と、まひろは言った。
「区別はないよ、なぜ、みんな区別するのだろうな。食欲も性欲も愛欲も支配欲も、すべての欲はわたしにとって美味しい。わたしは美味しい欲だけ食べたい」
「今、数種類のお肉を召し上がったじゃないですか。それは部位ごとに名前で区別され、味や食感や柔らかさが違うわけじゃないですか」
「きみの話は、あいからわず面白いな。わたしにとって欲望は牛そのものであり、きみにとっては部位ごとに違った名前と意味と特徴を持っているというわけか」
「そのとおりです。シノノメさんみたいには、ちょっとなれない」
「もちろんだ。心身ともに余さずキレイに食べられてて、きみがわたしの血肉になったとしても、それは不可能だ。わたしはきみを取り込んで満足するだろう。だが、きみはわたしにはなれない。わたしはわたし。きみはきみだ」
ほんとうに牛一頭を丸々消してしまうかのように、シノノメは食べ続けた。肉を補充しにくる店員に執拗なセクシャルハラスメントを繰り返しつつ、どう見ても彼女の体積にそぐわない量の肉と赤ワインを身体のなかに流しこむシノノメの姿を見ながら、まひろは途中から美しいミノタウロスと食事をしているような錯覚に陥った。
「どのような欲望がきみをとらえて、惑わせているんだ?それを教えてくれないか」と、シノノメは言った。
「わたしは最近、いくつかの溶けあうような感覚を通過しました」と、まひろは言った。
「すてきな言い回しだ。そういう言葉の使い方、好きだよ」と、シノノメは言った。まひろは一旦、口を噤んで目の前の牛喰い女を見つめた。
「認めたくないけれど、シノノメさんのそういう受け答え、わたしの好きなひとに似ています」と、まひろは言った。こよみはその従順さによって。シノノメはその限りない食欲によって。まひろのどのような話に対しても、熱心に耳を傾ける。
「ひとを好きになったことありますか」と、まひろは言った。
「今まさに、きみが好きだ。それから、あのローション」
「わたしの言っているのは、ある特定の誰かに対する特別な感情のことです。ひとを好きになったとき、どうしたらいいのか、わからなくて」
語尾に付け加えようとした〈わたしのような人間が〉という言葉を、まひろは一旦ポケットにしまった。
「こよみのことか」と、シノノメは言った。この女に限っては秘匿するだけ無駄だろうという判断から、まひろは正直に「そうです」と、答えた。
「まだ、ぐちゃぐちゃにしていないのか」と、シノノメは言った。「あらゆる手段を講じて誘惑し、判断力を奪い、かりそめの居場所と、その場限りの安全と、つかの間の自尊心の確保のために相手を支配する。それがきみの恋だろう」
「あらゆる手段を講じて誘惑し、判断力を奪い、かりそめの居場所と、その場限りの安全と、つかの間の自尊心の確保のために相手を支配する。それがきみの恋だろう」と、シノノメは言った。
「そんなの。まるで侵略のように聞こえますけど」と、まひろは言った。
「ちがうのかな」そう言ってシノノメは、きみ以上にきみを理解していると言わんばかりの歪んだ微笑と舌なめずりを浮かべながら、また皿から肉を消した。
「ひとを好きになったら、どうすればいいのかって。そんなの決まってるじゃないか。台無しにしてしまえばいいんだよ。きみが今までそうしてきたように。それとも、そうできない理由でもあるのかい」
「失いたくない」自分の放った言葉に驚きつつ、まひろは言った。誰かを失いたくないと思うこと。またそれを認めることに、彼女ははじめて直面した。
「きみにとって、恋は喪失と同義だった。そうでなかった恋など、今までにひとつだってなかっただろう。それはまるで、崩すために積まれる積木城だったし、割られるために生成される硝子の心臓だった。そんなきみのことが、わたしは大好きなんだがね。自覚が足りないようだが、きみは本来、魂を奪うことにかけて優秀な悪魔だったんだよ。だが奪うはずの相手の魂に恋をしてしまった挙句、その矛盾によって悪魔は滅びてしまうというわけだ」
そこまで話してしまうと、シノノメは突然黙りこんだ。赤ワインの入ったゴブレットを片手に持ち、口の中に咀嚼した肉を残したまま、蝋人形と化してしまったかのように彼女は静止した。まばたきも、呼吸のための横隔膜の運動も止まった。その静止が余りに唐突で完璧であったために、まひろは一瞬、止まったのが自分なのか、シノノメなのか、時間なのかを見失ってしまった。自分・シノノメ・壁時計。の順に確認して、やっと自分と秒針の方が動いており、シノノメだけが停止していることが明らかになった。
もしもし。シノノメさん。と、まひろは言った。店員がやって来て、シノノメの皿に串刺しにされたラム肉を置いた。
「カルネイロ。デス。スパイスニ、ツケコンダ、ヒツジ」
セクシャルハラスメントが返ってこなかったので、店員はシノノメの顔を覗き込んだ。一切の生命活動が停止したような客の姿を見て狼狽えた店員が助けを求めるような表情でまひろの方を向いてポルトガル語で何か訴えた瞬間、シノノメが盛大にむせて顔中の穴と言う穴から肉と赤ワインと体液を噴出させて笑った。飛沫を浴びた店員がぎゃああと叫び、ポルトガル語でシノノメに何か叫んだ。シノノメが、ひーひーひーと笑いながら口を拭い、やはりポルトガル語で店員に何かを話すと、店員は手を叩いて笑ってからテーブルクロスの四隅を結んで袋状にして、すべての食器と吐瀉物を持ち去ってしまった。
「ちょっと。どういうことですか」浴びてしまった飛沫をナプキンで拭いながら、まひろは言った。
「ああ。ごめん。考えてみたら滑稽に、また愛おしく思えてしまって。気持ちのない恋愛ごっこは手慣れてるくせに、ほんとうに好きなひとに対してだけは小娘のように固まってしまうなんてな。なんといじらしい自業自得だろうか」
店員がやって来て、新しくテーブルセッティングをし、まひろの持っていた汚れたナプキンを回収した。新しい赤ワインと肉が、顔を拭いた二人の前にサーブされた。
「カワイラシイ。アクマサン」と微笑みながら、店員はまひろにウインクをした。黙れローション。と、まひろは心の中で言った。
片目と口をぱっかりと丸く開き、何処からともなく、はーはーはーはーという奇妙な笑い声を発してから、何事もなかったかのようにシノノメは肉を食べることを再開した。
「この間、お互いを思いやってる家族を見てきたんです」と、父の新しい家族を思い出しながら、まひろは言った。
「きみらしくないね」と、シノノメは言った。確かに。と、まひろは思った。
「彼らにとって、信頼や思いやりは空気のようにそこにあるもののように見えました。とても温かく、幸福な、安心できる空気。でも、わたしはその中で息苦しかった。清潔な酸素のなかで苦しみ、腐敗の毒素の中で安らぐ毒キノコになってしまった気分だった」
「きみらしいね」と、シノノメは言った。
「わたしは、わたしの腐った愛が、人を傷つけることしか知らない性質が、こよみを傷つけてしまうことが怖いんです」
「きみはわたしのものになってしまえばいいんだよ」と、シノノメは言った。「わたしなら、どんな腐敗も快楽に変換し、倍にして返してあげる。ぐちゃぐちゃになったきみを、さらにぐちゃぐちゃにして、全部食べてあげるよ。何の心配もいらない」
「そうかもしれません。でも、わたしはシノノメさんを愛していないです」と、まひろは言った。
シノノメの顔から笑みが消えた。〈愛していない〉という言葉をゴブレットの中の赤ワインと一緒に飲み干すと店員を呼んでもう一杯注がせ、また一息に飲み干した。
「きみは実に、分けたがるな」と、シノノメは言った。
「分けたがる?」と、まひろは言った。
「愛を切り刻んで分けている。牛を部位ごとに分けて焼くように。正しい愛。間違った愛。報われる愛。報われない愛。美しい愛。醜い愛。無償の愛。打算的な愛。重厚な愛。軽薄な愛。真剣な愛。軽挙なる愛………」
しばらくの間、シノノメは無表情で愛の種別を延々と羅列し続けた。歪んだ笑みが消えてしまうと、シノノメの顔はぞっとするほど冷たく見えた。愛を解さない宇宙人が、その種別を延々と詠唱しているように見えた。
「今、きみが求めているのは、どのような愛だ。美しく・幸福な・傷つくことのない・永遠に続く・拒絶されることのない・安らかで・健全な・完全の・愛かな」
そう言うと、シノノメはまた唇を三日月の形に歪ませて笑った。
「ではそれが手に入った時、きみの持っている醜く・不幸な・傷つけ合う・うたかたの・報われない・醜い・不健全な・こっぱみじんの・愛はどこへ行くんだ」
まひろは肉をもぐもぐと咀嚼しながら、シノノメの片目を見つめた。彼女が口に出して羅列したあらゆる種別の愛が、真っ黒い瞳孔の中で溶けているように見えた。
「失恋が怖いかい」と、シノノメは言った。
「怖いです。耐え難い」と、まひろは言った。恋をしたというだけで負けた気になっているのに、その思慕を拒絶されたなら、彼女はどんな傷を負うかわからない。
「きみはきっと、失恋によって全人格を否定されたように感じてしまうのだろうな」と、シノノメは言った。「たいへん失敗に敏感だ。まるで、失敗することを避けるためだけに造られた秩序の要塞のお姫様だな。しかもきみは、扉のない要塞を内側から建築してしまった。かわいそうに。もう出ることができない」
何か言い返そうと思ったが、言葉が出てこなかった。無遠慮な言い方だというだけで、指摘自体は間違っていないと思った。
「こと恋愛に関してさえ。失敗を恐れる余り、うまくやろうと思っているね。切り刻んだ牛の、一番おいしい部分だけを相手に食べさせたいか。同じように、相手の一番柔らかく美味しい部分だけを食べたいか。硬い筋やくず肉や不健康な内臓はどうするんだ。こっそり捨ててしまうつもりか。それらもすべて、きみたちの愛の一部だというのに」
店員を呼び、ポルトガル語でワインを注文するシノノメの語尾に、とうとう〈アモール〉という呼称と、捕食を目的とする艶めかしい笑みが付け加えられた。ワインの銘柄を復唱した店員が彼の語尾にも〈アモール〉と付け加えて微笑むと、シノノメはその厚い胸板に指先を這わせ、ローションを掬い取って舐めてから、再びまひろを見つめて話を続けた。
「小賢しい。小賢しいよ。小悪魔。フラれたら負けだの、より素晴らしい形で愛したいだの愛されたいだの、拒絶されたくないだのより先に、きみがまずすべきことは、そのような小賢しさをスピリタスの瓶に入れて飲み干し、火のついたマッチをチェイサーにして焼き尽くしてしまうことだ。ついでに、自分を守るための秩序も焼き尽くしてしまえよ。きみ自身を要塞から連れ去るんだ」
相変わらず、度を越した率直さだな。と、まひろは思った。とは言え、シノノメの言説は恋愛に対する怯懦を払ってしまえと元気づけているようにも聞こえたし、自由な意思を勝ち取れと励ましているようにも聞こえた。
「ひょっとして、励ましてくれてますか」と、まひろは言った。
「どんな自分でも誇りたまえ。切り刻まれて死んだ肉塊ではなく、生きた一匹の牛と化して、好きなものには好きと言え。それで駄目なら、わたしがきみをぐちゃぐちゃにして再構築してやるから」と、シノノメは言った。
「何故、そんなふうに励ましてくれるんですか」と、まひろは言った。
「世界一まぬけな質問だな。励まされたことのない窮鼠の台詞だ。求めれば励ましは向こうから、あちこちから、方々からやってくる。そういうふうにできているんだよ。それを知らないのは、励ましを求めたことのない緘黙症のこどもくらいなものだ」と、シノノメは言った。
「知っててそんなこと言って」と、まひろはシノノメの笑みを睨みつけた。心身を問わず隠された相手の急所を苛むことに長けているこの変態からすれば、ひとから励まされることを苦手とするまひろの急所も、とっくに明らかだった。ずっと続いている彼女の緘黙についても。
「こよみは拒まないと思うよ」と、肉を口に放り込みながらシノノメは言った。
「そうでしょうか」と、まひろは言った。
「あれはきみ以上に拒まれたこどもだったからな。きみに対しては同情と親近感を抱いている。この二つは、恋愛の種のようなものだ。芽生えて当然だよ」
「恋が?」と、まひろは言った。
「恋がだ」と、シノノメは言った。
二人はしばらく黙ったまま肉を食べ続けた。胸にローションを塗り直した店員が人懐っこい笑顔を浮かべながら、次々と彼女たちの皿に肉を補充した。シノノメはそのたびに店員を口説き、まひろは緘黙して考え続けた。
「慎んで、祝福し、お悔やみを申し上げる」と、シノノメはゴブレットを掲げて言った。
「祝辞でしょうか。弔辞でしょうか」と、まひろは言った。
「両方だね。きみたちの愛に。そして、その死に」と、シノノメは言った。まひろの背中に、一筋の予知夢が微弱な電流をして流れた。未来の幽霊が脊髄を這ったかのような悪寒だった。
「なにが死ぬっていうのですか」と、まひろは言った。
「きみたちふたりだよ。ひむろとこよみ。愛し合って、死ぬさだめにある。避けられない。その後、甦るきみたちに期待しているよ。ヒナギクと菊比芽様は残念がるかもしれないが、これもさだめだ」と、シノノメは言った。
「さだめさだめって。なんなの」と、まひろは言った。だが、問い詰めるまでもなく、それが冷徹な予言だという事が、まひろには理解できていた。この女の厄介なところは、何もかも悪ふざけのように見えて、すべてが真剣であるいう点だった。しかもシノノメの分析は、その正確さによって一種の予言を呈している。
「ヒナギクさんと菊比芽様が、どうして残念がるんです」と、まひろは言った。
「ゴミ捨て場から拾ってきて、手塩にかけて綺麗に仕立て直した健気なメイドが、再生寸前でまだ傷だらけにされることがさ」と、シノノメは言った。
「もったいぶらないで、何を予言しているのか教えてもらえませんか」まひろは、怒声寸前の静かな声で言った。シノノメは笑みを浮かべたまま応答した。。
「かまわないよ。わたしはもったいぶらない。きみたちはその未熟さによって、傷つけ合うだろう。傷つけずに愛し合う方法をまだ知らないからだ。特にきみだよ、ひむろ。余りにも自分を憎んでいる。自分を通して母親を憎み、母親を通して世界を憎み、世界を通して自分を憎んでいる。そんな負のスパイラルからの脱却を何度も試みてはいるが、どうしても上手くいかないね。きみが愛したというあの男。なんと言ったかな。ロイヤルエンフィールド?」
「ブラッドハーレーです」と、まひろは言った。
「そいつとの恋愛が証明しているのではないか。きみはまた、自制心を失って、自分と相手を傷つけようとするだろう。そして、愛する人を傷つけてしまう自分に耐えられなくなるだろう。相手がこよみなら、今度こそ破滅を避けられると思うか?彼女の深い理解と慈しみによって?違うね。問題は相手ではなく、きみ自身にあるからだ。その自覚がない限り、きみの魂に貼りついたダ・カーポは剥がれない」
まひろはごくりと唾を飲み込んだ。石くれのような味がした。シノノメは、まひろを焼こうとしている焦燥を舐めるように話を続けた。
「ヒナギクと菊比芽様の教育によって再生しかけたこよみの精神もまた、一時的に退行することになるかもしれない。だが、気にしなくていいんだ。きみたちに許されているのは、愛し合う事によって傷つけ合うか。愛し合わないことによって傷つけ合うかの二通りしかない。どちらにしても、それは死を迎える。平たく言えば傷を負って砕け散るってことだ。破局だね。ある種の失恋は死に似ているな。愛し合いつつも砕けてしまう恋愛がそれだ。きみたちの失恋に対する弔意を、わたしは示す。同時にきみたちの愛に祝辞を述べる。愛してその人を得ることは最上である。愛してその人を失うことは、その次によい。サッカレーの言葉だね」
不吉な予言に怒りを感じつつも、幾つかの理由から、まひろはそれを口に出さなかった。
ひとつは、怒りを感じた時、それを発することなくハラワタに貯蔵してしまうという、彼女の後天的な習性から。
ひとつは、シノノメが不吉を煽ることは、単なる度を越した率直さの結果であって、その動機が悪意でも誹謗でもないことが、まひろにも理解できているから。
ひとつは、予言の内容がまさに彼女の急所をついており、反論できる材料が余りにも乏しかったから。また、予言について追及や反論すること自体が、予言を信じることを意味してしまう気がした。そして、信じれば信じる程に、未来は破滅の予言に向かって近づくだろうと思われた。
そのような複合的な理由から、まひろは黙って黙って肉を食べ、飲みなれない赤ワインをあおった。胃の中で不吉な予言と、一頭の牛と、赤いアルコールが混ざりあって、懐かしい不安が戻ってきた。この不安を隠すために被っていた仮面は、今はもうない。客もスタッフも原則として仮面を外すフォビアフィビアという職場と、素顔でくちづけをしたいと思った相手との出会いによって、まひろは鞄の奥にしまった仮面の所在を思い出せずにいた。
「わたしはこれから、ローションを連れ帰って自宅でローションしようと思うんだが、きみはどうする。よければ一緒にローションしないか」と、クレジット・カードで支払いを済ませながら、シノノメは言った。
「ローションしません」と、酒で濁った胃袋から、振り絞るように、まひろは言った。
「悪酔いしたこどものような顔だな」と、シノノメは言った。
「シノノメさん。わたし、どうしたらいいでしょうか」と、まひろは言った。
「困った時こそ、じぶんで決めるんだよ。またとないチャンスだ。愛する人に出会い、その人に愛を伝えるチャンスなど、この先どんどん失われていくだろう。きみからも。この世界からも。それは貴重だ。きみは今、生きるという時間そのもの、きみの他には誰も持たない特権を手にしているのだよ。安心して破滅したまえ」
「わたしが訊いているのは、破滅しないで済む方法なんですけど」と、まひろは言った。シノノメはにっこりと微笑んで「小賢しいよ」と、言った。
「畜生。あの変態」と、夜の街を歩きながら、まひろは呟いた。料金は負担するのでタクシーに乗って行けというシノノメの勧めを断って、まひろは自分の脚を使って帰ることにした。運動と時間を用いて、胃の中でどろどろに溶けてゆく一頭の牛と赤いアルコールと懊悩を消化する必要があった。繁華街に注がれる酒量が最も多くなる夜の時間帯、町全体がすえた人間の匂いで満たされており、まひろもそれに加担していた。
〈畜生。あの変態〉と、まひろは駅に向かって歩きながら、こよみにメッセージを送った。
〈あれで悪気があったらぶち殺してやりたいところだけど。何故あのひとは悪気がないんだ〉
〈わたしの迷いと、あのひとの率直さは相性が悪い〉
〈不吉な予言を受けたんだ〉
普段なら、即座に届くはずのこよみからの返信が届かず、まひろはスマートフォンの画面を見つめながらよろよろと歩き続け、やはりスマートフォンの画面を見ながら歩いてきたサラリーマン風の酔っぱらいにぶつかって、舌打ちをされた。
まひろは、スマートフォンをポケットにしまいこみ、シノノメから受けた破滅の予言について考えることにした。予言によると、じぶんとこよみは愛し合いつつ破滅する。その未熟さのせいで。
「なるほど」
と、まひろは呟いて、まずは自分の未熟さを認識することにした。今、じぶんが悪酔いしているのを自覚するように、じぶんの未熟さを自覚しなくてはならない。
思考がそのような道筋に至ったのは、酩酊に処する方策を探している最中に、母親の酔い方を思い出したからだ。
「酔ってない。まだぜんぜん、酔ってない」
酔えば酔う程、母親はそう言い張った。目の前にずらりと並んでいる酒瓶の数を数えてみろとまひろが言うと、試みて途中で怒りだし、それ以上数えなくて済むように酒瓶を床や壁に叩きつけて割った。認めたくない現実から身を守るため、彼女は常に怒りを振り回した。頼むから硝子瓶ではなく缶か紙パックに入った酒を買ってきてくれよ。と、まひろは思った。
「わたしは違う。わたしは今、たいへんに悪酔いをしており、悪酔いしてることを知っている」と、まひろは呟いた。まずは認めなくてはならない。話はそれからだ。
悪酔いを認めてしまうと、彼女は次いで自分の息苦しさを認めた。次に寂しさを。次に甘えを。次に怯えを。次に欲望を認めた。認めながら、随分とたくさんのじぶんを見ない振りしてきたのだな。と、思った。酩酊した足取りは、鎖に繋がれた無数のまひろを引き摺って歩いているかのように重かった。
途中、何度も私と目が合った。当然だ。彼女はいつも傷口に秘密を隠している。次々と傷口を開き、そのなかに匿われた少女の存在を確認すると、まひろは頷いてまた傷口を閉じた。隠されたすべての少女たちは「なんとかしろ」と、眼でまひろに訴えかけていた。
「どうしようもできない」
と、まひろは正直に答えた。嘘をついたり、無視したりすれば、少女たちはいっせいに叫んでまひろを責めたてるだろう。
「お願い。もう少しだけ待ってて。頼むから、大人しくしていて」と、まひろは言った。
「傷つけるのも」と、少女たちは言った。
「傷つけられるのも」と、少女たちは言った。
「嫌」と、少女たちは言った。
まひろは頷いた。
「傷つけるのも、傷つけられるのも、嫌だ。なのにどうして、わたしはこのありさまなの」と、彼女は言った。
「傷つかなかったふりをするのは、もっと嫌」と、少女たちは言った。
「あなたたちは、復讐をしたいの?」と、まひろは言った。いかさま山羊の性器を切り落とすとか。自分に向けられたどのような愛情も信じないとか。心の傷を肉体の傷に転写するとか。ひとを好きになったが最後、確実な破滅を約束するとか。そういう形の復讐がしたいの?
少女たちは傷口の中で黙り、まひろもまた黙った。
「そういうわけじゃないんだ」と、まひろを含めた少女たち全員は言った。「わたしはただ、なかったことにされたくないだけなんだ」
ポケットからスマートフォンを取り出して確認したが、こよみからのメッセージは届いていなかった。まひろは、自分の世界の酸素だけが、ひどく薄くなってしまっているように感じた。思い切り息を吸いこんでみても、遠くで風が泣いているようなか細い音が聴こえるだけで、吸気は上手くいかなかった。
酸素を求めて空気の海を泳ぎながら、まひろは以下のメッセージをこよみに送った。
〈こよみ〉
〈急な仕事、入った?〉
〈なにかあった?〉
〈少し胸が苦しいんだ〉
〈過去からわたしがやって来る。傷つけてしまえと囁いている。なかったことにされないために。同量の傷を世界に戻せと言う〉
〈わたしは、わたしを傷つけることによって、復讐しているんだろうか〉
〈わたしは、わたしの身体や人生を、復讐のキャンバスに見立てて、傷つけているのだろうか〉
〈そうなのかも知れない。思えば、わたしはナイフを手放したことがない。自衛のために。自傷のために〉
〈それでも、こよみ〉
〈あなたといっしょにいる時だけ、わたしはナイフを忘れることができた〉
また、まひろは以下のメッセージをこよみに送らなかった。
〈あなたは既に傷ついていたから。わたしはナイフを使う必要がなかった。わたしはナイフを忘れた〉
〈あなたが傍にいてくれたから、わたしは自分を傷つける必要がなかった。わたしはナイフを忘れた〉
〈わたしは、自己愛に似た引力によって、傷に引き寄せられるのだろうか。自分と同じように深く傷ついており、それを舐め合えれば誰でもいいのだろうか。そうではないはずだ〉
〈傷ついていない人を探す方が難しいこの世界で、無数の傷痕の中で〉
〈こよみ。あなたの傷痕だけが好きだ。硬く瞑って、涙を堪えているこどもの目のような傷痕が〉
〈あなたは言った。何によって、どのように傷つくかは、自分自身で選ぶことができる〉
〈あなたが育んだ傷痕が好きだと思った。荒野を見つめる旅人のような。崩れ落ちた教会に残された誰かの十字架のような。弾丸の入っていない拳銃のような。解毒済みの毒虫のような〉
〈わたしは母親を憎むことを通して、世界を憎んでいる。シノノメさんにそう言われた。一理ある〉
〈同じように、あなたを愛することを通して、世界を愛することは可能だろうか〉
〈わたしは今夜、歩きながらひとつひとつ認めてみた。わたしのなかに憎しみがあり、さびしさがあり、怒りがあって、すべてが泣いている少女のそれのようだった〉
〈ひとりでは、少女たちのすべてを認めることができない。あなたとふたりなら、より多くの彼女たちを認められるかもしれない〉
〈わたしという箱を開けて欲しい〉
〈でも、開けないで欲しい〉
〈シノノメさんはこうも言った。わたしはあなたを傷つけることになるだろうって。これも心外だけど、その通りかもしれないと思った〉
〈ひとを愛することが怖い。それはきっと、信じるという事といっしょだと思うから。わたしは、箱を閉ざし、ひとに怯え、安心を疑うことによって、自分を保ってきた。もしもナイフと猜疑心を捨ててしまったなら、わたしは怖くて自分を保てなくなると思う〉
〈それとも、わたしもあの少女たちの中の一人になるのだろうか〉
〈傷口の中に隠され、うずくまっている少女たちのひとりに〉
〈こよみ。何故、こんな言葉があるのだろう。誰が最初に、この言葉を口にしたのだろう〉
〈支離と滅裂が、何故いつも、この言葉に着地するのだろう〉
〈愛してる〉
〈こよみ。あなたを愛してる〉
何色の電車とバスを乗り継ぎ、どのよう路地なをくぐって帰って来たのか、まるで覚えていなかった。返信のないスマートフォンといっしょに、まひろが握りしめていてたのは「愛している」という思慕と「何故返信をくれないのか」という不安が一塊となった、慣れ親しんだ愛憎のマーブルだった。一見相反するこの二つの感情は、なぜ人生の要所要所で結託してわたしを苛むのだろう。そう思いながら、まひろはこよみのアパートへと続く河沿いの道を歩いた。
真夜中の暗い河沿いに、魚が水面を跳ねる音が頻繁に響いていた。その水音を聴くたびに、まひろは自分のなかで愛と怒りが反転するのを感じた。ふたつの感情は、まだ切り離されていないシャム双生児のように癒着した上で、共謀してまひろに襲い掛かった。
「わたしは酒に酔って感情的になっており、感情はわたしをのみこんで、さらに感情的になろうとしている」と、呟いてまひろは自分の状態を認め、感情に対する抵抗を試みた。そして、ああだめだ。と呟いた。まるで理性の遺言のようだった。
アパートの前で、黒いフードを被った人影とすれ違ったのは、その時だった。強烈な悪寒とともに、まひろは自分が人魚になってしまったかのような錯覚を覚えた。身体中に生えた幻の鱗が、一斉に逆立った気がした。あとになって思い返してみれば、その瞬間に運命が戦慄し、その余波ですべてが一斉に逆立ったのだ。
振り向くと、人影の姿はもう見えなかった。一体、なにに鱗を逆立てたのか。その原因を、まひろは探した。
あいつ、こよみの部屋から出てきた。と、愛憎のマーブルが言った。
扉を開けた時の光と音に違和感があった。灯りの消えた薄暗い部屋の中を、いつもと変わらない古本の紙魚たちが泳いでいた。
「ただいま。こよみ」と、まひろは言った。微かに声が震えていた。
「おかえり。ひむろ」と、こよみは言った。眼球をきょろきょろと動かし、部屋の中に状況の手がかりを探した。一対のコーヒーカップと、ワイングラス。開けられた瓶の残量は八割程度。殆ど注がれなかったようだ。シンクの中の皿が黄色い。きっとオムレツを焼いたんだ。と、まひろは思った。わたし以外の誰かに、あのオムレツを作った。
「誰か来ていたの」と、平静を装いつつ、まひろは言った。
「ええと。いや。まあ」と、まひろは言った。こよみが何かを曖昧に言うのを、まひろははじめて聞いた。
「オムレツを作ったのね」と、まひろは言った。
「あなたの分も、作ろうか」そう言って立ち上がると、こよみはシンクで皿を洗い始めた。
「いいの。シノノメさんにたらふくご馳走になってきたんだ」
「楽しかった?」
「変態だった」
こよみは笑ったが、彼女の目がいつものように自分を見つめないことに、まひろは気づいていた。ワインを飲んでいい?と、まひろが訊くと、こよみはやはり目を見返さないまま、小さな声で、「うん」と言った。
ワインを飲むふりをして、まひろは部屋の中を詳しく吟味した。布団の周辺から漂ってくる残り香は、間違いなく成年男性のそれだった。まひろは布団に寝転んで、その匂いを嗅いだ。性的な香りの痕跡は、嗅ぎ分けられなかった。シノノメを連れてくれば、あの変態の研ぎ澄まされた嗅覚によって何もかも明らかになるのに。と、まひろは思った。
その夜、まひろには、こよみの姿が、まるで幽霊のように見えた。その口数は少なく、殆どまひろの目を見ることもなく、動きはスローモーションをかけられたように遅鈍だった。こよみは、皿を洗ってしまうと自分のグラスにだけ白ワインを注ぎ、床に積まれた本の中からウィリアム・ブレイクの詩集を手に取って開いた。
後から振り返れば、この夜こよみは傷ついていたのだと理解することができた。傷口から一時的に魂が零れ、身体が幽体化してしまう程に彼女は傷ついており、そのせいで何もかもが鈍麻していたのだと。現場でそれを察することのできなかったことを、まひろは後になって、繰り返し後悔することになる。シノノメの指摘した未熟さが、予言に従うかのようにやって来たのだった。それは相手のきもちを慮れないという、単純で致命的な未熟さだった。
何故、空になったわたしのグラスにワインを注いでくれないのか。何故、わたしの告白はおろか、今日あったことの話すら拒否するように本なんて読み始めるのか。何故、いつものように微笑みながら自分に笑いかけてくれないのか。何故、誰かが部屋に訪れていたことを秘匿しようとするのか。何故、あなたを愛しているわたしがいるのに、そんなにも哀しい顔をするのか。追い詰められた未熟な怒りが真っ赤な泡となって、まひろの周囲でぱちぱちと弾け、その音が鳴る度にまひろは自制心を失った。
「ねえ。誰か来てたんでしょ」と、まひろは言った。「男?」
「うん。まあね。昔の知り合い」と、詩集から目を離さずに、こよみは言った。
「誰?」と、まひろは言った。こよみは顔を上げて、まひろの顔を見つめると、はじめて彼女から余裕が根こそぎ失われていることに気づいた。。
「ひむろ。何かあった?」と、こよみは言った。
「何かあったのは、あなたのほうでしょう」と、まひろは言った。ああ、だめだ。と、思いながら、言葉を止めることが出来なかった。怒りを殺すことで生き延びてきたまひろには、それ故に怒りを殺しきれなかった時の対処を知らない。本来、ゆっくりと丁寧に別皿に注ぎ移されるべき逆上を、彼女は乱暴にぶちまけることしかできなかった。
「あたしには、関係ないかもしれないけど」と、まひろは吐き捨てるように言った。
あなたのふさぎこんだ悲しい顔が気になる。理由を話して。力になりたい。わたしにはその資格がないのだろうか。できることがあれば教えて欲しい。一緒に問題を解決したい。あなたを慰めたいし、笑顔を取り戻してほしい。取り戻した元気や笑顔によって、わたしを再び愛でて欲しい。そのように言葉を推敲することができたのは、もっとずっと後になってからだった。皮肉にも、感情の翻訳と推敲の方法を、まひろのこの夜からはじまった彼女の失敗から学んだ。失敗は概ねシノノメの予言通りに進んだ。
交差点では、より多くの血が流れる。
シャワーを浴び、身体から肉と酒の匂いを落としても酔いは醒めなかった。その時、まひろは酒ではなく、怒りに酔っていた。きっと母親もこのざまだったのだろうな。と、彼女は思った。泥酔し、暴れたり喚き散らしたりする母親を見る度に、感情の抑制がきかない幼稚なひとだと軽蔑したが、それが否応なく理性を粉砕してしまう怒りの仕業であることは、まひろにも理解できた。母親だけではないし、自分だけではない。世界中が怒り狂っている。誰もが自らの牢獄に怒りを閉じ込めており、それは一たび檻から解き放たれたが最後、何もかもを喰いつくすまで暴れるのをやめようとしないのだ。
バスタオルで身体を拭き、鏡に映った険しい顔の少女を見ながら、一体わたしは何に対して怒っているのだろう。と、まひろは思った。怒りは、その激しさと支離滅裂さによって偽装し、ほんとうは何を望んでいるのかを、まひろ自身から隠そうとしていた。そもそも、わたしは(まだ)こよみの恋人ではないし、例え恋人だったとしても、彼女の人間関係に介入する資格はない。このアパートと賃貸契約を交わし、家賃を払っているのも、こよみだ。誰を家に入れようとわたしが怒る筋合いはない。にも関らず、わたしは怒っている。と、まひろは思った。
浴室から出ると、こよみはもう布団の中に入っていた。自分の質問や不機嫌に対応せず、早々に寝入ってしまうこよみに対して、また一層の怒りが沸いた。
「こよみ。起きてる」と、ワインをあおって、まひろは言った。
「うん」と、布団の中で、こよみは言った。まだ入眠していないだろうと思われる、はっきりした声だった。
「わたし、出て行った方がいい?ここにいないほうがいい?」と、まひろは言った。
「それは、あなたの問題であって、わたしが決める事じゃない」と、まひろに背を向けたまま、こよみは言った。普段であれば、いかにもこよみらしい意見だと感じるに過ぎない言葉だったが、この夜は被害妄想が黙っていなかった。
「迷惑なら言って。これからも男が来たりするなら、わたしはいないほうがいいでしょう」と、まひろは言った。相手がこよみでなければ、言うまでもなく既に荷物をまとめて出て行ってしまっていただろう。だが野良猫は、はじめて飼い猫になりたがっており、飼主の許可と愛撫を求める余り、彼女に噛みつこうとしていた。
こよみは何も答えず、部屋全体が暗い海中のような静けさで満ちた。二人はそれ以上、なにも喋らず、しばらくの間、同じ沈黙の水域を漂った。すぐ目の前にいるこよみに触れることを禁じられたような錯覚が、まひろを刺していた。遠くで魚が跳ねる水音がまた聴こえた。その日、こよみはもう日記を書かず、蛍は部屋の中を飛ばなかった。
沈黙の水圧のなかで、胸に抱えきれない怒りを放熱するために、まひろは口で激しく息をした。それは言葉にすることのできない哀願をこよみに伝えたいがための、稚拙な表現でもあった。熱く湿ったまひろの吐息のせいで、室温が数度上昇した。過呼吸の熱い毒はすぐに全身に回り、まひろの眼からは涙が溢れ出した。いつか、こよみが言っていたように、涙の中には言葉が溶けていた。〈わたしを見て〉と、涙は言っていた。こよみはゆっくりと起き上がり、泣きじゃくるまひろを見ると、車に轢かれた猫を見た時のような悲しい表情を浮かべた。
まひろの鼻先に、懐かしい花の匂いが舞った。こよみが両手を広げ、まひろの顔を胸に抱いたのだった。しばらくの間、花の香りをぐしゃぐしゃに濡らしながら、まひろは泣いた。これじゃあ、まるで幼児じゃないか。と、まひろは思った。もう一度、幼児化するために、わたしは彼女の胸を求めているのか。
暗闇の中で、どの位の時間、泣きじゃくっていたのかわからない。まひろが自分の涙に溺れかける寸前に、こよみが言った。
「兄が来たの」
まひろは、かつて、こよみから聞いた彼女の兄の話を思い出そうとした。数年に渡り、こよみに暴力を振るっていたということ以外には、何も知らない。
「突然、訪ねてきたの」と、こよみは言った。「あのひとの。あのひとたちの顔を見ると、わたしは自分が人間ではなくなるような気がするの。金属とか、石ころとか、骨の折れた傘とか、人格を持たない、硬い何かになってしまう気がするの」
あのひとたちというのは、家族のことなんだろうな。と、まひろは思った。思い切り鼻水をすすり、こよみの顔を見つめた。
「ごめん。こよみ。ごめん」と、まひろは言った。手を伸ばして、こよみの肩を抱いた。緊張した彼女の肩は、確かに金属や鉱物のように硬かった。
「ヒナギクさんと、菊比芽様の教育を受けて、ある程度は平気になった気でいた。でも、全然だめだね」と、こよみは言った。震えた肩が熱を持ちはじめた。さっきまで、まひろの身体中を満たしていた怒りが、同量の戸惑いと羞恥心に姿を変えて戻ってきた。
「わたし。違うの。ごめんなさい」と、まひろは言った。かつて、怒りにまかせてブラッドハーレーを殴打した後、同じように「ちがう。そんなつもりじゃなかった」と、口走りかけたことを思いだした。
なにも違わない。と、またしても思った。わたしが、見捨てられることが怖くて、関心を向けてほしくて、傷ついているこよみに噛みついたのだ。そして、噛みつかれたこよみの手が、まひろの頭を撫でた。
「わたしを嫌いになる?」と、まひろは言った。それが、こよみの感情の自由に属する問題であり、どのように問うたところで自分の思い通りにはならないことを知りつつも、問うことを止められなかった。
「心配しないで」と、こよみは言った。
「じゃあ」と、まひろは言って、続く言葉を飲み込んだ。わたしを嫌いになることなく、ずっといっしょにいてくれる?に類した言葉が、喉元に溜まった涙の熱い球に塞がれて、そのまま彼女の気道に詰まった。
代わりに、まひろはこっそりと唇を差し出し、こよみの唇にキスをしようとした。こよみは顔を背けてそれを拒んだ後、まひろの頬に啄むようなキスをした。世界一優しい押印のような感触がした。
「ひむろ」と、こよみが言った。「なにか不安なことがあったの?」
まひろは一切の言葉を失ったまま、首を横に振り、こよみの胸に再び顔を埋めた。我欲に塗れた自分の涙の中から、こよみを慰めることのできる言葉を探したが、すべては涙の中に溶けており、言葉だけ取り出すことは、やはり不可能だった。
しかたなく、まひろはこよみの身体を抱きしめて眼を閉じた。こよみの身体に柔らかさが戻ってくるまでには、とても長い時間がかかった。彼女たちの身体の表面を、滑らかに照角を変えて月光が撫でた。強張った身体が、柔らかい呼吸で上下するようになると、今度こそふたりは、そのまま沈黙の水域へと沈んでいった。空気に触れた瞬間に爆発するトラウマが二人の体内で時を刻んでいた。沈黙することでしか生き延びられない夜に、彼女たちはいた。
眠りに落ちる前に口にした最後の言葉は、二人とも「ごめんね」だった。
歪んだ真珠のような女の腰を、ミラーボールから放たれた蛇柄の光が這っていた。口だけに穴が開いた全頭ラバーマスクを被ったバニーガールが歪んだ水差しを傾け、まひろのグラスにミネラルウォーターを注いだ。欲望の濃度が高い暗闇の粘性によって、すべての吐息と足音がぬかるんでいた。集まった人間の殆どが、そうしなければ呼吸が出来ないかのように、マスカレード・マスクを装着していた。
地下の薄暗いフロアに並んだ八練の硝子部屋の中で、八組の性的な主従たちが、様々なやり方で苦痛と快楽を炸裂させていた。奴隷たちは、鞭で打たれ、蝋燭を垂らされ、針で刺され、首を絞められ、性器を虐げられ、横隔膜を震わせて絶叫していた。だが、その声は完全防音の硝子に遮られて、硝子の外に届かない。透明な獄に重囲された客席に座り、あちこちでの苦痛と快楽を眺めながら、鮮明で立体的な無声映画を観ているようだな。と、まひろは思った。
硝子会社の重役が主催し、フィビアフォビアを含めた幾つかのSMクラブが協賛した秘密のパーティは、防音硝子とSMプレイのプロモーションを兼ねており、主催者に招かれて奴隷と共にショーに出演するヒナギクの付き人として、まひろはやって来たのだった。
「つまりあなたは、好きな人に捨てられるのが怖くて、先回りして捨てられようとしてしまう子猫ちゃんだということ?」
ボンデージスーツ姿でジャスミンティーを飲みながら、人間椅子に座ったヒナギクが言った。黒いビキニパンツ一枚の姿で四つん這いになり、彼女の椅子になった愛犬ルルは、目隠しと口枷と耳栓をされたまま、ブナの木のように微動だにしなかった。
一時間後のメインイベントを待つ間、ヒナギクはまひろの相談に乗る傍ら、乗馬鞭を振るって愛犬を打擲し、指の腹で優しく鞭の後をなぞった。鍛え上げられた奴隷の筋肉は、刺激を受ける度に電流を流されたように痙攣し、視覚と聴覚と発声を奪われた頭部が、激しく頷いたり、首を横に振ったりした。きっと、この二人は鞭と愛撫で会話ができるんだな。と、まひろは思った。
何か悩んでいることがあるんなら、話してみてね。と、ヒナギクが言ったのだった。悩んでいる顔を見せたつもりはなかったのだが、フォビアフィビアのスタッフは職業柄なのか、ひとの心の秘密に敏く、またそれを暴くことに長けている。制御できない不安に囚われて、好きな人に牙を剥いてしまう悪癖について、まひろは話した。ヒナギクは片手でルルと会話し、片手でジャスミンティーを飲み、空いた声帯を使ってまひろの相談に乗った。
「そんな子猫ちゃんだと思います。好きな人に捨てられるのが怖くて、噛みつくことによって、捨てられないかどうかを確認してしまう。それがわたしです」と、まひろは言った。
「ベイビー、困った子猫ちゃんです。でも、その手の相談は、多分わたしよりも、アザレアよりも、シノノメの方が詳しいと思うのよね。あのひと確か、医師と精神保健福祉士と公認心理士の免許を持ってるのよ」と、ヒナギクは言った。
「そうかも知れないですけど、あの人に関わると何故か毎回ひどい目に逢うんです」
「こよみのことよね」と、ヒナギクは言った。まひろは否定も肯定もしなかった。
「これもフィビアフォビアの不文律であるんだけど、スタッフは秘密を秘匿しないという共通認識があるの。でも、これは破ったら罰されるタイプの不文律じゃないから心配はしないでね。アザレアは蹴りに来ないから、言いたくなければ隠してもいいのよ」と、ヒナギクは微笑んだ。
まひろは何者かの意見を求めるように、周りをきょろきょろと見回した。彼女らを囲む硝子部屋の中では叫びを遮られた裸の奴隷たちが痛めつけられ、外からその光景を眺める招待客たちは仮面の下で硝子越しの苦痛と快楽を味わっていた。秘密しか存在しないような地下室だ。かまうものか。と、まひろは思った。
「こよみのことです。しかし、何故おわかりになるのでしょう」と、まひろは言った。
「こよみを見てれば、わかるのよ。あの子のことなら、隅々まで知ってる。こよみの目の中に書かれたコードを、わたしと菊比芽様は読むことができるのよ」ヒナギクはそう言って、乗馬鞭で人間椅子の臀部を二度打った。耳栓で話が聴こえていない筈のルルが何度も頷いた。
「シノノメさんが言うには。ヒナギクさんと菊比芽様は残念がるだろう。とのことでした」
「何故?」と、ヒナギクは言った。
「わたしの未熟さが、恋愛を失敗に導き、こよみを傷つけ、彼女を退行させるからだと、シノノメさんは仰いました」
「なるほど」と、ヒナギクは言うと、間違って黒胡椒の粒を噛み砕いてしまったような、苦々しい表情を浮かべた。「まあ、あの変態の言うことは話半分に聴いておいたらいいわよ。あのひとの喋ることの殆どは、セクハラとイカサマと催眠術とマインド・コントロールだから。うまくどれかに引っ掛かってくれればラッキーくらいにしか思ってないのよ。アレから見れば、ひむろちゃんなんか、アレ背負ったアレなのよ。素直過ぎるんだから」
「鴨が葱を背負って来るってやつですかね。あの、ヒナギクさん。シノノメさんとは、仲がよろしくないんですか」と、まひろは言った。ヒナギクは眉間に皺を寄せ、んんんと唸った。
「シノノメに関しては難しいのよ。好きかと言われれば全然なんだけど、嫌いかと言われれば、それも違う。癪だけどリスペクトしてるところもあるけど、話すのも嫌な位に軽蔑もしてる。相反する感情が、いちいち同時に湧いてくるから、あのひとについて一言で表すのは無理なの。ので今は、シノノメの話はやめておきましょう。話がややこしくなります。とにかく、不用意にやつの言うことを信じないように」
苛立った表情とは裏腹に、ヒナギクは人間椅子のあちこちを、指の腹で優しく撫で続けた。長電話の最中にメモ用紙に意味のない落書きをするような手つきだった。奴隷は椅子の役目を貫かんと身じろぎもせず、指先から与えられる快楽を涎と脂汗に代えて分泌し続け、頭だけを激しく横に振った。
「こよみにはじめて出会ったのは、一年前だった。わたしと菊比芽様が、あの子にお仕置きしてあげたのよ。たくさんたくさんね」
瞳に過去を映しながら、ヒナギクは言った。
「じょ、女性のお客様歓迎。た、た、大切に虐めてさし上げます」
一年前。塵一つ落ちていない菊比芽のマンションに客として訪れ、希望するプレイに関するヒアリングを受けていたこよみは、フォビアフィビアのWebサイトに掲載されていたキャッチフレーズの一節を、唐突に叫んだ。当時、対人恐怖によって一秒たりとも他人の目を見ることの出来なかったこよみは、彼女自身も、前後の文脈を持たない、唐突な叫び声のような少女だった。
「もちろん。大切に虐めてさしあげます。ですが、その方法は多岐に渡ります。どのように虐げられることを、お望みでしょうか。よろしければ、あなたの欲望を教えていただきたいのです」と、菊比芽はにっこりと微笑みながら言った。
「あの。ななん。なんでもいいんです。お、おまかせします」と、こよみは言った。言ったというより、それは口の中で飴状の吃音を舐めまわしていたに過ぎず、菊比芽の傍でメイド服を着て給仕をしていたヒナギクから見れば、陰気な少女が口の中で意味不明な怪音を発しているようにしか見えなかった。
「でも、でも、大切には、しししないでください」と、こよみは叫んだ。
「ちょっと待って。ヒナギクさんも、メイドだったんですか」と、まひろは話に口を挟んだ。
「そうよ。こよみの先代の。年増メイドだったの」そう言ってヒナギクは懐かしそうに眼を細め、硬くなった人間椅子の性器を鞭の先端で撫でた。地鳴のような低い声で奴隷が呻いた。
「あの頃のこよみは、こんな声だったな。何もかも抑圧した扉の向こうから聴こえてくるような、低い声。あの子、見えない口枷をされていたのね」と、ヒナギクは言った。
「お、おおお金。は、払えます」と、こよみは言った。今でこそ、精緻なアンドロイドのように有能なメイドだが、その頃のこよみは控えめに言って〈気の毒なポンコツ〉だった。と、ヒナギクは言う。
「でも、単に錆びて故障していただけ。少しずつメンテナンスしてあげれば、それは不安と恐怖からくる動作不良であって、彼女本来の性能ではなかったことが、後々に証明されるの。ひむろちゃんも知っての通りよね。こよみは今じゃ、わたしの三倍も有能なメイドだもの。きれいだし、気立てもいいし、仕事も正確で速い。エスプリさえ持ってる。すてきよね」
虐げられたいという一念に導かれたこよみが、ろくに精査もしないまま、偶然にフォビアフィビアに客として訪れたのは、彼女にとって幸運だったと言える。もし、他のSMクラブで奴隷として勤務することや、マッチングアプリを使って個人的なパートナーを探すことを選んでいたなら、彼女は恐らく骨の髄まで虐げられ、搾り取られて、高い確率で悲惨な末路を迎えただろう。それが、一年前のこよみを知るフォビアフィビアの全スタッフの共通した認識だった。
「確かに、ただ虐げるだけでもよかった。望み通り、自我が消え去るまで虐め抜いて、あの娘から判断力と全財産を巻き上げ、どっぷりと依存させてから、数年に渡って金を吸い上げ続けることもできた。でも、菊比芽様とシノノメはそうしなかった」と、ヒナギクは言った。
後に、こよみを含めたフォビアフィビアの面々が〈教育〉と呼んで振り返ることになる約半年の期間、こよみは、かなりの金額をつぎ込んでフォビアフィビアに通い続けたが、その資金源については、はっきりしていない。年若い少女にそぐわない金払いを心配したヒナギクが、何度かこよみ本人に尋ねてみたが、家出するときに実家から持ち出した金だとか、ネット配信者として有名になった元セックスフレンドを、プライベートポルノを材料に脅迫しただとか、フォビアフィビアの利用以外のすべての時間を転売事業に費やしているだとか、そのつど違う説明がされ、そのすべてに確証と信憑性がなかった。
こよみは、どのような説明にも、その末尾に「と、いうのはいかがでしょうか」と、どもりながら付け加え、上目遣いで相手の顔色を伺った。その言辞を聴くたびにヒナギクは苛立ち、感情のままに鞭や蝋燭をふるって少女を痛めつけてやりたいと思ったそうだ。
わたし、訊いたの。どういうことですか?いかがでしょうか?っていうのは何?何故、質問を、虚偽回答と質問で返すのですか?一応、お客様が心配で伺っているんですよ?」と、ヒナギクは言った。「すごく若い小娘だったからっていうのもあると思う。感情的な振る舞いだったと反省してる。あの子、泣きそうな顔になって言ったの。正解がわからなくて。正解をヒナギクさん決めて欲しくて。それで、わたしは決めたの。この娘の抱いている正解の概念を根こそぎ奪ってやろうって。それは、シノノメと菊比芽様によって協議された、こよみに対するプレイのテーマでもあったの」
「最初、挑発されているのかと思った。何を聴いても正直に話さず、嘘やごまかしで煙に巻いて、最後には相手に任せようとする言い草に腹がたった。アザレアを関らせなかったのは賢明だった。彼女だったら間違いなく怒り狂って胸倉を掴んでた。ポンコツのこよみは、絶対にこっちを見ずに、終始下を向いて卑屈に笑ってた。怒りにまかせて踏みにじってくれと言わんばかりの、下卑た笑みだった。もちろん、鞭も蝋燭もあげなかったけど。感情のままに奴隷を虐げるという種類の加虐は、フォビアフィビアでは禁忌とされているから」と、ヒナギクは言った。
「ひとを痛めつける仕事なのに、暴力が禁忌とされている?」と、まひろは言った。
「感情のままに、自分の都合のために、人を踏みにじるのが暴力だとすれば」と、シノノメは言った。「フィビアフォビアでは、いかなる暴力も禁じられている。鞭を振るい、蝋燭を垂らし、心を含めた穴という穴を犯すけど、それは暴力のためじゃない。この仕事が信頼抜きには成立しえないって、ひむろちゃんには、もう理解できてるよね。でも、あの頃のこよみは、その信頼さえ必要としておらず、ただ虐げられたいだけの娘だった」
人間椅子の乳首を、千切れんばかりに抓るヒナギクの顔から、いつも浮かべている微笑が一瞬消えた。奴隷がまた激しく頷き、低く呻いた。
「最初、病的な嘘つきなのかと思ったけど、少し違った。あの娘は、何を尋ねても答えられなかった。名前や年齢はもちろん、好悪、要望、拒否、意見、主義、主張。すべてが閉じ込められていた。主張しなければならない場面でも、震えながら〈わかりません〉って言うか、さもなければ嘘や意味不明な話を口走ってしまう。そういう習性が染みついていたの。感じたありのままを口に出す。ということは、こよみにとって裸で街中を歩くことに等しい羞恥だった。だから、自分に関するあらゆる情報を偽り、隠そうとしてたのね」
「何故でしょう」と、まひろは言った。
「あの娘が、自分を恥じていたからよ」と、ヒナギクは言った。
「家族だか。同級生だか。誰かが彼女を粗末に扱ったんでしょうね。そして彼女自身も、自分をそのように扱うようになった。周り以上に、自分を恥じて蔑んだ。恥じる余り、彼女は自分を牢獄のなかに隠してしまった。嘘つきで、自虐的で、卑屈で、絶対にひとと目を合わせることのできない陰気な少女が、牢獄の扉を守っていた。わたしたちは、その陰気な少女を取り囲んで責め立てることにしたの」と、ヒナギクは言った。
初回と二回目のプレイで、菊比芽は拷問に近い苦痛をこよみに与え、虐げた。こよみの身体中の穴と言う穴は嬲られて涙を流し、革パドルで百回打たれた臀部は内出血で青く染まり、一本鞭で打たれ続けた全身の皮膚には赤い虎のような縞模様が刻まれた。耐え難い責苦のなかで、こよみは叫び続けた。
「わたしは菊比芽様のアシスタントとして参加したんだけど、眼を逸らしたくなるような責めだった。身体中から、だらだらと粘液を流しながらこよみはのたうち回った。わたしたち、お客様によって、与える苦痛と快楽のバランスを調整するよね。例えば、この子、ルルは苦痛が6で、快楽が4ってところかな」
ヒナギクはそこで一度、人間椅子から降り、奴隷の前に跪くと彼の耳栓を外し「いい子ね。嬉しいの?」と、囁いた。奴隷は汗の珠を飛ばしながら何度も頷き、尻尾の代わりに腰を振った。目隠しと口枷で表情が隠されているのに関らず、溢れんばかりの悦びが、まひろにまで伝わってきた。
「もうすぐ、ショーがはじまるからね。死ぬほど可愛がってあげる。それまでに、うんと溜めておくのよ。みっともなく、きゃんきゃん鳴いていいんだからね」そう言って、ヒナギクは、慣れた手つきで奴隷の身体を愛撫してから、再び耳栓で彼の聴覚を塞いだ。乗馬鞭が背中を打つと、奴隷は再び全身を硬直させてヒナギクのための椅子に戻った。ヒナギクは奴隷の背中に腰かけ、こよみの過去にまつわる話を続けた。
「こよみの場合は苦痛が9で、快楽が1だった。縄や鞭や蝋燭や針や器具で失神寸前まで責められて、もう立ち上げれない程ぐったりした状態で優しく撫でられると、それだけで失禁しながら、いっちゃった。永遠に続くかと思われる苦痛に対して、絶頂までは一秒かからなかった。苦痛のために快楽があるのか、快楽のために苦痛があるのか。その頃、こよみ自身にもわかっていなかったと思う。苦痛と快楽と自我が、完全に混濁して地獄のミルクティーみたいに混ざり合ってた。フィビアフォビアにいらっしゃるお客様たちは、誰もが快楽を手にするために、ある程度の苦痛を必要とするけれど、こよみが必要としている苦痛の量は、他のお客様と比べものにならなかった。あの娘は自虐の塊だった。正直、見ていて辛かった。わたし、アザレアほど肉体的な苦痛に対する理解と耐性がないから」
ヒナギクは痛々しい思い出を掌で慰めるように、奴隷の顔を撫でながら話した。
「もちろん、プロの自覚に則って目を背けたりはしなかった。けど、不思議ね。責められる人間を傍観することしかできない立場が辛すぎる時、じぶんも責めに参加してしまった方が楽になる気がしたもの。菊比芽様は、そんなわたしの考えを見透かしたように微笑んで、わたしに鞭を渡さなかった。その代わり、言葉を使って好きなようにこよみを責めろと仰ったの。最初は、あの娘の望む通りの言葉を与えてあげた。ほんとうにどうしようもないくず女だね。変態。虐められて嬉しくて、涎を垂らして恥ずかしくないのか?って罵ってあげた。二回目のプレイを終えた後のこよみの表情は、叫びすぎて魂の抜けた廃人のようで、それなのに満足げな薄ら笑いだけを浮かべてて、帰り道で線路から身を投げるんじゃないかと心配になったわ」
口がきけないほど虐げられたこよみの姿を想像して、まひろはごくりと唾を飲み込んだ。自分がその場にいられたなら、一晩中抱きしめて慰めてあげられるのに。と、思った。ヒナギクは奴隷の口枷を濡らす涎を指で掬い取り、それを彼の乳首に塗りつけながら話を続けた。
「三回目のプレイの前に、菊比芽様はわたしに仰ったの。今日からは、あの娘をもっと虐めてあげましょうって。既に廃人寸前まで追い込んでいるのに、これ以上どんな苦痛を与えようというのでしょう。ってわたしが言うと、悦ばすだけでは調教になりませんから、苦痛以上のものを与えてやらなくては。と、菊比芽様は言われた。そして、一着のふわふわした白い衣装を差し出したの。最初、羊の着ぐるみかと思った。それはアルパカウールで編まれた、大人用のベビー服だったの」
「似合いそうですね」
羊の着ぐるみに似た、ふわふわのベビー服を着せられたこよみを想像して、まひろは言った。
「それが、似合わなかったのよ」と、ヒナギクは言った。「あの頃のこよみときたら、髪は伸ばしっぱなしでバサバサ。100均で買った鋏で芝を刈るみたいに適当にセルフカットしてた。お風呂にもろくに入ってなかったし、ジャンク過ぎる食生活に加えて、一日に二箱も紙巻き煙草を吸うせいで口臭はどぶみたいだったし、肌の常在菌は極悪玉しかいなかった。想像もつかないでしょ」
「想像もつきません」と、まひろは言った。今のこよみと、まるっきり正反対だ。
「思えばあれは、当時のこよみのセルフイメージだったのかも。汚れ、忌み嫌われ、避けられ、虐げられるための少女。自分のことを、そんな風にイメージしすぎた結果、外見がイメージをトレースしていたのかも知れない」
セルフイメージ。と、まひろは思った。目の前の人間椅子の口枷を伝って、雫が床に落ちた。被虐と多幸感の交差点で這いつくばる幸福そうな奴隷たちは、いったいどのように自分をイメージしているのだろう。
「菊比芽様がオーダーメイドであつらえたベビー服は、それはそれは可愛かったのよ。天国の雲で作った、天使しか着てはいけないような、最上級の純白とふわふわだった。でも、それを着てるこよみが致命的に汚かった。それで、わたしの中の何かに火が点いたのよね」
思い出を上映するヒナギクの瞳にも火が点いたのが、まひろにもわかった。奴隷たちを愛玩動物に変え、愛おしそうに責め立てている時の、残虐な聖母の瞳。
「そこからの教育には、菊比芽様のお許しを得て、わたしも積極的に参加したの。半ば個人的な、許しがたい怒りを感じつつ、わたしはこよみを責めた。どうしてそんなに汚らしい格好で天使のお洋服を着ているの?ご主人様からの頂き物を着るのなら、産まれたての赤ちゃんみたいに綺麗にしてこなくちゃだめでしょ?ご主人様の所有物なのに、どうして自分を大切に出来ないのかしら?そんなふうに責めた。最初こそ鞭や道具を使って苦痛を混ぜ与えてあげたけど、徐々に苦痛を減らす代わりに、あの娘が最も恐れて避けたがっていたものを与えてあげた。なんだかわかる?」
「幼児退行させた?」と、まひろは言った。「愛してください」「こよみは可愛いです」「見捨てないでください」何度もそう叫ばされたと、こよみ自身が言っていた。
「そう」と、言ってヒナギクは微笑んだ。「苦痛を餌におびき寄せ、ベビーベッドに拘束し、あの娘が避け続け、怯え続けたことを、甘く甘く強制的に与えてやった。最も、その頃のこよみは、骨の髄まで菊比芽様とフォビアフィビアに依存していたから、苦痛抜きでも従ったと思うけど。それにしたって、最初の頃のパニックは酷かったな。思えばあの時、わたしの性癖とプレイの傾向が決定的になったのよね。こよみは、わたしが赤ちゃんにしてあげた最初の大人だった」
「大人なのに赤ちゃん」と、まひろは言った。
「そう。肉体年齢は時の流れと並行して加算されるけど、精神年齢は違う。世の中には、精神的には赤ちゃんのままの大人が、うじゃうじゃいるもの。赤ちゃんは、泣喚くことを含め、怒りでしか助けを求める方法を知らない。赤ちゃんなら、それでいいの。可愛いからね。その可愛さによって、大人を支配してかまわない。けど、大人になってもまだ怒りで人を支配しようするような奴らは、一人残らずベビー服を着て暮らせばいいのよ。可愛がってあげるわ」と、ヒナギクは言った。
「甘えさせるんですか?ヒナギクさんは、甘えさせるのがお上手だと聞きました。甘えん王のお相手をしているくらいだって」と、まひろは言った。
「王はまた少し特殊だけどね。でも、甘えさせるのって好きよ。安心させるの好き。本当に安心してる人間は威張らないから。わたしね、威張った奴らが嫌いなの。実父と、前夫がDVするひとたちだったから」憎しみの皺で顔を歪ませながらヒナギクは言った。人間椅子が彼女の機嫌を案じるようにくーんと鳴くと、安心させるための微笑みを浮かべて、彼女は愛犬の体を優しく撫でまわした。
「こよみもそうだったんですか?大人の赤ちゃんだった?」と、まひろは言った。
「そうね。色んなタイプの大人赤ちゃんがいるけど、共通してるのは、みんな甘え方を知らないってこと。甘え方を知らない赤ちゃんは、世界を信頼できない大人になりがちだね。そして甘えられない怒りに駆られて、自分か人を傷つけようとする。こよみはまるで、自傷する赤ちゃんだった。とても悲しい生き物だね。それで、わたしたちは、一度あの子を揺りかごの中に戻すことにしたの」
二度のプレイで思う存分苦痛を与え、骨の髄まで服従させた結果、こよみは揺りかごに戻されることを拒否することが出来なかった。
プレイを中断させるためのセーフワードは共有されており、それを口にすればプレイ中の主従や文脈に関わらず、命令を拒否する権利がこよみにはあったし、事前にその説明も受けていた。だが、それが自分にとって必要のない権利だと確信していたこよみは、セーフワードについての説明をろくに聞かず、殆ど理解もしていなかった。それだけ「どんな苦痛でもよろこんで受け入れます」という自らの宣誓に自信があったのだろう。
鞭や蝋燭や針やバイブレーターなら、いくらでも悦んで受け入れていたこよみが「甘えなさい」と、耳元で囁かれた瞬間、顔一面に恐怖を浮かべた。アリバイを崩された犯人のような表情だった。と、ヒナギクはその時の表情を語る。
「あの娘が隠そうとしていたものを、暴いてやろうと思った」と、ヒナギクは言った。
「革のブーツに頭を踏みつけられ、乳首に針を刺されながら、極太のディルドをすべての穴にぶち込まれても薄ら笑いを浮かべて悦んでいたこよみが〈甘えなさい〉と言われた瞬間パニックになった。あの娘は、どうしたらいいのかまったくわかっていなかった。命令に従いたいけど、どうしてもやり方がわからずに、おろおろしながら震えて泣いてた。あの娘は自分の書庫から、甘えるという手段を取り出すことができなかった。それはこよみ自身も取り出せない程、ずっとずっと奥にしまいこまれていたの」と、ヒナギクは言った。
「手段はまかせるので、虐めて欲しい。という、あの娘の要望とは矛盾していなかったはずよ。わたしは、苦痛や侮蔑を与えられて悦ぶあの娘よりも、甘え方がわからずにパニックになって怯えるあの娘の方が愛おしいと思った。ねえ、あなた、おっぱいは足りてる?って、わたしは言った。口の中を吃音だらけにして、涙を浮かべながら、わかりません。ってこよみは答えた。足りてるわけがないでしょう?おっぱいが足りてないから、あんたは甘え方もわからないのよ。どんな命令でも従うって言ったのは嘘なの?今から授乳してあげるから、絶対に口を放しちゃだめ。甘えるのよ。そう命令して、わたしは自分の乳首を震えるこよみの口に含ませた。エイリアンの卵でも食べさせられるみたいな顔をしてたなあ。鞭よりも、蝋燭よりも、あの娘はわたしの母乳に怯えてた。勿論、子供を産んだことのないわたしから母乳なんてでるわけないんだけどね。こよみは幻の母乳を、とても苦しそうに、一生懸命になって吸ってた。喉奥にディルドを突っ込まれた時より、またぐらに頭を挟まれておしっこを飲まされた時よりも、よっぽど苦しそうだったわ。後ろから菊比芽様が、ベビー服の隙間から手を入れて、あの子の身体中を抓ってあげてた。倒錯よね。あの頃、こよみは溺愛によって責められ、苦痛によって慰められていた」
甘えなさい。かわいい、かわいい、かわいい、こよみ。と、ヒナギクは声色に砂糖と母性と嗜虐をまぜたバターを、こよみの耳孔からとろとろと注入した。甘え方を思い出せないまま、こよみが口の端から、高密度の吃音とパニック発作による泡状の涎を吹き始めると、菊比芽が千切れんばかりに乳首を捻って「言うことが聞けないのかしら?どんな命令にしたがいますって誓ったわよね」と、もう片方の耳に棘だらけの叱責を注入した。
「あの子は健気だった」と、ヒナギクは言った。「命令に従いたくてたまらないのに、甘え方がわからずにパニックになるあの姿は、まさしくそうすることでしか自分を表現できない大きな赤ちゃんそのものだった。〈甘えなさい〉は、彼女のセルフイメージを破壊するウイルスのような命令だったのね。あの時、わたしのなかで、嗜虐と母性が混合するのを感じた。菊比芽様がこよみの身体を舐め回したり、啄んだりしている間中、わたしは乳房をこよみの顔に押しつけて、むりやり甘やかした。ほら、もっと吸い付きなさい。菊比芽様に体中抓られて、きもちいいのね。身体の力を抜きなさい。そんなにがちがちに怯えた赤ちゃんがどこにいるっているの?声を我慢しちゃだめよ。ちゃんと赤ちゃん言葉であんあん鳴くの。でも、お口を離しちゃ絶対にだめ。そんな風に、鞭とミルクであの娘を苛んだけど、彼女は明らかに鞭よりもミルクに怯えていたわ」
「そんなふうにして、こよみに言わせたんですか。見捨てないでくださいって」と、まひろは言った。
「そうよ」と、ヒナギクは笑った。回想する残酷な慈母の微笑を見ながら、まひろは口の中が幻の母乳でいっぱいになるのを感じた。
「精神的にはわたしの母乳と溺愛に。肉体的には菊比芽様の指や舌で責められて、何度も何度もこよみはいき続けたけど、いく前に必ず〈見捨てないでください〉って言わせた。あの娘にとっての禁忌の言葉。それを言わないで済むためにマゾをやってるこよみのアイデンティティを破壊する言葉。言わない限り、苦痛も愛撫も与えてあげないと脅迫したけど、従順なあの娘は脅迫無しでも従ったでしょうね。〈見捨てないでください〉それから〈こよみはかわいいです〉〈愛してください〉。そう泣き叫びながら、こよみは何度も何度もオーガズムに達した。もう指一本動かせなくなるほどいきつづけ、ぐったりとベッドに横たわり動かなくなったこよみに、わたしは大人用のおむつを履かせて、頭を撫でながら、また授乳した。こよみは赤ちゃんみたいに泣いたわ。堰き止められていた涙がたくさん流れた。あーんあーんあーんって。いくときよりも大きく響く泣き声だった。いいのよ。きもちよかったね。かわいかったね。って、今度は菊比芽様もいっしょに、ふたりがかりで彼女を甘やかした。顔中をぐしょぐしょにしたこよみを、わたしたちは、いつまでも撫で続けた。最後に、助けを求めるような顔でこよみがわたしと菊比芽様を交互に見て、何が言いたのか察したわたしたちは、優しく微笑んで、いいのよ。おむつの中にしなさい。って言ってあげた。産まれてから誰にも聞かせたことのない情けない声を出しておもらしするこよみはとっても可愛らしくて、わたしはお仕事を半分忘れて、あの娘を抱きしめちゃった。その身体にもう、痛みに身構える硬さは残っていなくて、ほんものの赤ちゃんみたいに柔らかかった。その日、ベビー服から洋服に着替えて部屋から出て行く時のこよみの顔は、明らかにそれ以前とは違ってた。24時間自分を恥じているような照れた薄ら笑いを浮かべておらず、まるで抜け殻のように放心していた。突然、生後二十歳の赤ちゃんに戻されて、どうしたらいいのかわからなかったのね。でも、電車に飛び込んでしまう心配はなかったわ」
フォビアフィビアに通い、性的な揺りかごに揺られる度、こよみの顔から卑屈な薄ら笑いが消えていった。それだけではなく、肌のくすみが消え、髪にキューティクルが注入され、虫歯が治療され、吹出物に軟膏が塗られ、衣類は洗濯され、姿勢が矯正された。
「わたしのこと。菊比芽様のこと。好き?」と、授乳しつつヒナギクはこよみに訊いた。ぽろぽろと涙を流しながら、こよみは何度も頷いた。まるで、その頷き自体が罪であるかのように泣きじゃくりながら。
「じゃあ、大好きなご主人様にふさわしい格好をしなくちゃいけないね。たくさん綺麗にしておきなさい。わたしたちに責められるに相応しいように。このふわふわを着こなすために。わかるわよね?天使のベビー服と頭を撫でながらそう訊くと、まったく濁りのない瞳で、あの娘は何度も頷いた」と、ヒナギクは言った。
〈フォビアフィビアから発されるお客様への命令は、あくまでプレイの上の符牒であって、それに従うかどうかは、永久にお客様の自由に帰属します〉
と、いう事前説明は、当時のこよみにとっては不必要な条項だったようだ。綺麗にしておけという命令を受けて以来、こよみはそれまで自虐に注いでいた力のすべてを、自愛に向けるべく方向転換した。
利用前のヒアリングによると、それまでのこよみはセルフケアについて殆ど一切の意識を持たず、その分のエネルギーすべてを自虐心の育成に注ぎ込んでいた。少女が悲惨を被る物語や、猟奇事件のウィキペディアの熟読。突発的な家出。性依存。無謀な絶食。などが、その肥料となった。
「でも、それまで自分を傷つけることに使っていたエネルギーを使って、あの娘は自分を綺麗にすることだってできた」と、ヒナギクは言った。
「本を読みなさい」という菊比芽からの助言も手伝って〈自分を愛せるようになる〉というニュアンスの題名を含む本を、こよみは片っ端から読み漁っていった。心理や考え方にアプローチするタイプの啓発本よりも、具体的な方法の説明が書かれた教本を好んだそうだ。それらに書かれた化粧やダイエットやマナーの具体的な教則を、こよみは主人たちの命令の延長のように、極めて忠実に実践した。
「とてもまじめで素直な子なのよ。爪を綺麗に磨き、自分の体と洋服をきれいに洗い、食生活を改善し、ジョギングと筋トレをはじめ、禁煙さえ翌日からやり遂げた。わたしたちは〈綺麗にしておきなさい〉という命令しかしてない。姿勢の矯正、ダイエット、清潔感、丁寧な所作。そういうのは、全部あの子が自分で努力して手に入れた結果なの。次から次へと本の通りに実践するものだから、料理や化粧はおろか、アロマテラピーや利き酒や手作り石けんの作り方なんかまで身に着けちゃったみたい。相変わらず、わたしたちのお陰とか思ってそうだけど。もし、そんなことを口走ったら、貴方の努力だよって諭してあげてね。少し厳しめに言ってあげた方が効果があるわ」と、ヒナギクは性的な乳母の微笑を浮かべながら言った。
こよみの尋常ならざる従順さと努力ゆえに〈教育〉は淀みなく進んだ。ヒナギクと菊比芽は、こよみの自虐心を否定し、代わりに息が出来なくなるくらいの溺愛で彼女を責めつつ、主人の所有物として充分な自愛を命じた。こよみは主人たちの命令に忠実に、自らの手入れをした。それは、あちこち錆びついた姿で放置された古い自転車が、熱心な職人の手によって修理され、みるみる輝きと本来の機能を取り戻す様に似ていた。
先生質問があります。と言わんばかりに、まひろは挙手をした。はい、ひむろちゃん。と、ヒナギクが鞭で彼女を差した。
「何故、こよみから自虐心を奪い、教育を施したのでしょうか。皆さんのお仕事を見てきた限り、自虐したまま這いつくばらせておくのが本道だったのではないでしょうか」
「いい質問です」と、ヒナギクは言った。「こよみのケースは少し特殊よね。まあ、特殊じゃないケースの方が少ないお仕事ではあるけど。ですが、わたしとしては、愛されることに恐怖する彼女の性質を利用しただけで、虐げるという仕事はきちんとこなしたつもりです。あの娘が一番怖がっているものを与えてあげたのだから、むしろ他の奴隷たちよりも虐げてあげていたとすら言えます。みんなが望み通りの鞭をもらってる中で、こよみだけが望まない溺愛をもらっていたのだから」
「愛されることが怖かったのでしょうか」と、まひろは言った。
「怖かったのでしょうね。あの赤ずきんちゃんは、愛されるということを、おばあさんに化けた狼だとでも思っていたんじゃないかしら。それなのに自分から食べられに行く病気に罹っていたんだけど」
こよみの〈教育〉という特殊な事例については、フォビアフィビアのミーティングで共有され、スタッフそれぞれが違う意見を表明した。
アザレアは半ば怒りながら、否定的な態度を示した。
「セラピーやカウンセリングやってるんじゃないんだぜ?あたしに回してくれれば、足腰絶たなくなるくらい責めてやったのによ。それはまあ、客はみんなどこかしら病んでるよ?でも、それを治してやってどうするんだよ。弱いまま可愛がってやればいいじゃないか」と、アザレアは言った。
「優しいのよ」と、思い出を見つめながらヒナギクは言って、奴隷の口枷の隙間から指を入れて、その口腔粘膜をぐちゃぐちゃと掻きまわした。「わたしのしたことが。こよみへの〈教育〉が。弱さに対する否定や矯正のように、アザレアは感じたのね。あのひとにとって、弱さは、そのままの姿で愛でてあげるものだから」
「膝蹴りやボディーブローによってですか」と、まひろは言った。
「そうよ。アザレアが担当していたなら、こよみは未だに弱く醜いまま、這いつくばって虐げられて、薄ら笑いを浮かべて悦ぶナメクジ少女だったと思うわ。それはそれで幸せだと思うけど。結果的にわたしは、こよみの弱さを否定し、矯正しているもの。アザレアの意見も一理あるよね」
アザレアの指摘に対して、ヒナギクも自分の意図を表明した。
「あの娘は苦痛が欲しいと言った。その内容は任せるとも言っていた。だから、あの娘が一番苦しむやり方で責めてあげたの」と、ヒナギクは言った。
「なかなかえげつない責めですよね」と、シノノメは嬉しそうに言った。「彼女のマザー・コンプレックスと異常に低い自己評価を上手く利用している。どろどろの溺愛と、厳しい躾けを並行させるやり口も素敵だ。ヒナギクにぴったりの責め方じゃないですか。あなたの母乳には、どんな相手も服従させる甘い毒が含まれるのだろうな。わたしも一度授乳してもらいたいものです。日に日に外見が磨かれてゆくのも面白い。こういう映画ありましたね。プリティ・ウーマン?マイ・フェア・レディ?」
「シノノメの描いた絵図じゃないのか?」と、アザレアは言った。新規の顧客に対しては、主にシノノメがヒアリングし、担当するスタッフやプレイの沿革を提案することになっている。
「いいえ。今回は菊比芽様が主導で、ヒナギクがそのアシスタントという形でしたので、わたしはプレイの計画を提案していません。菊比芽様におまかせしています」と、シノノメは言った。三人の視線が菊比芽に集まった。
「あの娘。新しいメイドにぴったりだと思わない?」と、穏やかな微笑みを浮かべて、支配人は言った。
「菊比芽様が、どの段階でこよみをメイドにしようと思っていたのかはわからない。わたしの仕事を、お客様対応に専念させる目的もあったみたいね。そういう意味では、わたしたちの都合で、あの娘は〈教育〉されたとも言える。こちらの都合がなかったり、担当したのがアザレアだったりしてたら、また違うこよみがいたでしょうね」
「どちらがよかったんでしょうか」と、まひろは言った。
「今の凛としたアンドロイドみたいなこよみと。這いつくばった醜く弱いこよみと。どちらがということだったら、今のこよみの方がいいと、アザレアを含めた全員が考えているはずよ。今のあの娘が有能でかわいいからではなく。現在よりも過去を重視する人はフォビアフィビアには一人もいない」と、ヒナギクはきっぱりと言った。自分を見つめるまひろの視線が、さらに説明を求めているのを感じて、もう一言付け加えた。
「あの娘が自分で選んだのなら、どんなこよみだって、それでいいのよ」
「でも〈教育〉によって選ばされた結果ですよね。母乳によって責めたてたり、従わなければ見捨てることを示唆して脅迫したり。それはヒナギクさんの支配によって選ばされた選択であって、こよみが選んだとは言い難いのではないですか」と、まひろは言った。
ヒナギクの目がすっと細くなった。普段は母性と残酷さの天秤によって均衡している彼女の両目から、時折母性だけが消え失せる。一見微笑むかのように目を細めるのは、その前兆だった。視線の中にはナイフの機能美だけが残り、それは必要に応じて奴隷たちを容赦なく刺した。
「わたしはそうは思わないわ。あの娘には別の選択も出来た。フォビアフィビアに通わないという選択や、客としてセッション内容の変更を要望することもできた。〈綺麗にしていなさい〉という命令をセッション内だけの文脈として受け取って無視することもできた。わたしたちは何も強制していない」
「でも」と、まひろは言った。「知ってましたよね。ヒナギクさんと菊比芽様なら、こよみが絶対に従う確信がありましたよね」
「あったわね」と、ヒナギクは言った。「何を。何処までを支配と呼ぶのかは、定義しがたい問題だわ。でもね、ひむろちゃん。お仕事の性質上、わたしたちにはよおくわかってるの。支配されていない人間なんて、何処にもいない。誰もが、何かに支配されているし、何かを支配したがっている。そんな世界で、わたしたちにできるのは、より良く支配し、より良く支配されることくらいなものよ。できる限りでね」
「よりよい支配って。そんなのあるんですか。この時代に」と、まひろは言った。ヒナギクは返事をする代わりに、奴隷の尻を鞭で叩いた。主人の代わりに問いに答えるかのように、幸福そうな声で奴隷は鳴いた。
ヒナギクは、愛おしそうに愛犬を見下ろすと、鞭の痛みに震える奴隷の尻を、掌で優しく撫でた。五本の指が、それぞれ淫猥な青虫のようにビキニパンツの上を這い、奴隷は声が漏れるのを耐えるために口枷を強く噛んだ。
「この子たちは、より良く支配されることによって、わたしに愛と忠誠を還元する。それを受けて、わたしはさらに良質な支配を彼らに与えるべく努力する。限りない愛や幸福がそうであるように、わたしたちは循環しつつ大きくなる円を描く。こよみもそうだった。けれども」
そこまで言ったところでヒナギクは、何かにはっと気づいたような表情を浮かべ、まひろの手首を握って自分のほうへ引っ張った。そして、まひろの腕時計。はち切れんばかりに勃起したビキニパンツ越しの奴隷の性器。半ば仕事を忘れたまひろの顔。再び腕時計。の順に視線を移した。まひろも時刻を確認し、ヒナギクたちの出演するショーの時間が十分後に迫っていることを理解した。
「すみません。私事のお話に付き合わせてしまって」と、まひろは謝った。
「いいのよ。わたしとルルなら、余計な下準備は要らない。縄と身体さえあれば、あとはいつも通りのセッションで十分だわ。なんなら縄だって要らないくらい」
ヒナギクは、まひろに対して言ったその言葉を爪と掌で翻訳するかのように、愛犬の身体を優しく撫でまわしたり、抓ったりした。奴隷は二人の間でしか通じない言葉で主人の意図を解し、涎を垂らしながら、また何度も頷いた。
「ショーの時間まで、もう少しこよみについて、お話しをしましょう。なんとなく、わたしは話しておいたほうがいい気がするし、あなたは聞いておいた方がいい気がする。もしかしたら、今後のフォビアフィビアの運営にも関係があるかもしれない。ええと。どこまで話したかな」と、ヒナギクは言った。
「より良い支配。は、良質な愛や幸福と同様に、循環しつつ大きくなる円を描く。けれども」と、まひろは言った。
「そう。わたしたちは、確かに循環していた。わたしたちが溺愛と支配を与え、あの娘は服従と忠誠を還元した。でも、ある時、わたしたちとこよみの間で、その循環が崩れたの」と、ヒナギクは言った。
「崩れた循環のなかから、新しいこよみが産まれたということでしょうか」と、まひろは言った。
「順を追って話しましょうね。そうね。〈教育〉の内容から」そう言ってヒナギクは、〈教育〉の内容を一部語った。
視線恐怖症のこよみに対し〈絶対に主人から目を逸らしてはならない〉という命令が与えられた。ヒナギクから、鼻先がキスしそうになるほど近くで見つめられると、こよみは視線に対する恐怖で涙と脂汗を流しながら激しく震え、しかし逃れることを許されていない視線の中で溺死しかけた。耐え切れず、ついに目を逸らしてしまうと、背後から菊比芽の鞭が飛び、目の前のヒナギクからは窒息する寸前まで舌を犯された。
主人と奴隷の会話は、吃音の矯正と言葉遣いの訓練も兼ねた。問いに対して、即答できなかったり、吃音を発したり、偽りや曖昧さがあると判断された場合、容赦なく蝋燭が垂らされた。「ええと」や「あの」ですら許されなかった。百本以上の蝋燭が、こよみの言葉のために燃えた。
入念なメイクとスタイリングをこよみに施した後「いつもきれいにしておくのよ。何故だかわかる?」と、ヒナギクは囁いた。
「ご主人様の所有物だからです」と、こよみが震えながら答えると「ちがう。こよみはかわいいからですって言うのよ」と叱られ、脳まで唾液塗れになるほど耳の穴を舐められた。「こよみはかわいいからです」と、喉が枯れるまで言わされた後、黒い蛇のようなシルエットのレザードレスを着せられて、撮影用にセッティングされた別室に連れて行かれた。天井から吊られた鉄鎖を、ヒナギクはこよみの首輪に接続した。鎖の長さは少しでも体勢を崩せば窒息するように調整されており、爪先で立ってぴんと背筋を伸ばすことを怠ると、こよみの気道はすぐに塞がれた。フォビアフィビアのWebサイト用の写真撮影だとヒナギクは言ったが、これは気を抜くとすぐに体を丸めてしまうこよみの姿勢の矯正も兼ねていた。
「自分が一番かわいいと思う表情を作りなさい」と、ヒナギクは命令した。わけもわからず反射的に照れ笑いを浮かべてしまったこよみは、半ば鎖に吊られた状態のまま、一時間に渡る折檻を受けた。
「何故笑ったの?所有物の一番かわいいお顔を見たいという、わたしの命令を嘲笑ったの?わたし、何かおかしいこと言ってる?」
身動きすれば窒息するという状態で、鞭での打擲を百回受け、真っ赤に染まったみみず腫れを余さず舌で撫でられた後、白目を剥くまでペニスバンドで犯された。
「二度とわたしの所有物を笑うことは許さない」というヒナギクの宣言を全面的に受け入れた後に撮影されたこよみの写真は、その後フォビアフィビアのWebページのトップ画面に掲載されている。
〈教育〉の最後には必ず、こよみは彼女専用のベビー服を着せられ、性的な乳児として扱われ、授乳された。いい子ね。ほんとうにいい子。でも、もっといい子になりたいわよね。と、耳元でヒナギクに囁かれ「こよみ、がんばりました」「こよみはかわいいです」「とてもいい子です」と口に出して言うように命じられた。乳首に針を刺されることよりも、ハイヒールの踵で背中を踏みにじられることよりも、自賛を強いられることが、こよみにとって最も辛そうに見えたそうだ。すべてのプレイの締めくくりには必ず、ヒナギクに授乳された状態で、大人用のおむつのなかに排泄することが命令され、こよみは赤ん坊のように泣きながらそれに従った。
ヒナギクが説明する〈教育〉の一部を聴きながら、その光景を思い浮かべ、まひろはごくりと唾を飲み込んだ。羨望が欲情となって、じぶんの体内で混ざるのを感じたが、責めるヒナギクと、責められるこよみのどちらに対して羨んでいるのかは、自分でもわからなかった。
「こよみは、従順だった」と、ヒナギクは言った。「ものすごく支配に飢えていた。身体だけでなく、心の隅々まで、虐げられたがっていた」
まひろはまた挙手をした。ヒナギクがやはり鞭の先でまひろを指して「はい。ひむろちゃん。どうぞ」と、言った。
「虐げられたいという、この欲望。こよみや、お客様たちの抱く欲望は、一体何処から来ているのでしょうか」と、まひろは言った。
「皆さん、それぞれの中から来ている。という意味では、すべての出自と形相が違うね。犬は犬でも、みんな違う犬なのよね」と、ヒナギクは言った。それから、自分の犬の唇に人差し指を当てて弄びながら、何かを思い出そうとするような表情で「エクスプレッション」と呟いた。
「expression。表現?」と、まひろは言った。
「マゾヒズムとは何。何故わざわざ虐げられることを経由して、快感を得ようとするの。わたしたちも昔、フォビアフィビアのミーティングで議論したことがあるわ。アザレアは、それについて考えるのはあたしの仕事じゃない。って、きっぱり言ってた。自分の仕事は、奴隷たちを痛ぶり、可愛がることであって、その心理の分析じゃないって。このスポーツ的な捉え方、彼女らしいよね。一方、ヒナギクはエクスプレッションなんだと言った。それは表現なんだって」
エクスプレッション…。と、まひろはまた呟いた。
「自分の中の弱さを、ひむろちゃんは、どんなふうに処理してる?」と、ヒナギクは言った。まひろは自分の弱さと、その対処法を指折り数え「他者を演じることで忘れようとしたり、バイクを飛ばすことによってスピードの中に置き去りにしたり、やるべきことに集中して忙殺したり」と、言った。あなたらしいわね。と言いたげな微笑みを浮かべて頷き、ヒナギクは話を続けた。
「弱さは老廃物に似ている。と、シノノメは言ってた。老廃物は体内に溜まれば体を蝕むため、排出されなければならない。弱さも一緒。心に溜まれば心を蝕むため、それはエクスプレッション。表現されなければならない」
まひろは彼女たちを囲む八つの硝子部屋の中で虐げられる八組の裸体を見回した。防音硝子の性能は完璧で、消音された奴隷たちの叫びはまひろの耳まで届かない。あれも弱さの表現なのだろうか。と、裸になって痛みを曝け出す奴隷たちを見ながら、まひろは思った。ふと、母親と、彼女の食卓にずらりと並んだ酒瓶の群れを思い出した。言われてみれば、記憶の中のその光景も、弱さを写した一枚の写真のようだった。
「誰もがそれぞれのやり方で、弱さを表現している。例えば、信頼できる他人に打ち明け、共有することでその荷重を減らそうとしたり。絵画や音楽に注ぎ込んで昇華したり。自傷したり。他者を攻撃することで強者を装い、結果的に自分の弱さを隠匿しようとしたり。様々な方法で。そんな中、フォビアフィビアには、一人では弱さを表現することのできない性的な人たちがやって来る。シノノメはそんなふうに言ってた」と、ヒナギクは言った。
「弱さのエクスプレッション。スポーツ。シノノメさんとアザレアさんらしいですね」と、まひろは言った。「ヒナギクさんはどうお考えですか。そして、こよみについては」
「わたし個人の話をするのなら」と、ヒナギクは言った。「わたしは、トラウマの再演をしていると思っている。さっきも言ったけど、実父と元旦那が暴力を振るうひとだったの。それだけじゃない。何故か支配的な男性との縁が切れない人生を送ってきた。ものごころついたころからずっと、びくびくしていたのがいけなかったのかもね。フォビアフィビアに来るまで、つけこもうとする奴らばっかり寄ってきた。わたしは支配に対し絶望していて、どちらかと言えばマゾヒスト寄りの人間だったと思う。悦びこそしないものの、あらゆる支配に対して諦め、無抵抗でいることしかできなかった。その反動かな。今は奴隷たちを無抵抗にして、可愛がってあげるのが好き。これは一種の復讐なのかもしれないね。シノノメもそれを知っていて、弱さを曝け出したがっているタイプのお客様をわたしにマッチングしてくれてる。フォビアフィビアという場所を借りて、わたしは自分にとっての支配の意味を塗り替えている。お客様を大切に大切に可愛がってあげながら。そして、こよみとわたしは似ていた」
「こよみは、どのようなトラウマを再演していたのでしょうか」と、まひろは言った。
「詳しくはわからないけど、わたしたちのセッション。トラウマの再演現場から逆算して推察するなら、虐待とネグレクト。その両方だと思う。母性に対して歪んだ恐怖と、耐え難い渇望があった。普段は抑圧されている恐怖と渇望が、同じように普段は抑圧されている性衝動と混ざり合って、フォビアフィビアにやって来たのね」と、ヒナギクは言った。
「ヒナギクさんは、こよみに再授乳してあげたんですね」と、まひろは言った。「わたし、何度かこよみに抱きしめてもらったことがあります。こよみの前だと、感情のバルブがぶっ壊れることがあって、その度に、こよみはわたしを胸に抱いてくれるんです。その時、いつも何処かで嗅いだことのあるような懐かしい花の香りがします。きっとあれは、ヒナギクさんが母乳を通してこよみに分けてあげた母性の残り香なんですね」
「すてきなこと言うのね」と、ヒナギクは言った。「でも、母性なんて立派なものじゃないわ。所詮、わたしは性的なやり方でしか、それを与えてあげられないもの。その匂いは、やっぱりこよみの胸の奥に咲いている花の香りなのよ。ひむろちゃんはその花が好きなの?」
「はい。とても好きです」と、まひろは言った。やだー。と言いながら、ヒナギクは少女のような照れ笑いを浮かべ、一瞬仕事を忘れかけた自分に気づくと、硬くなった奴隷の性器を改めて撫でさすった。
「ごめん」と呟いて、仕事用の表情に戻り、ヒナギクは話を続けた。「こよみは従順だった。かわいい奴隷たちはみんな従順だけど、あの娘の従順さはちょっと尋常じゃなかった。というのも、奴隷たちの従順さはフォビアフィビアの中だけの、性的なセッションの時間内だけの、言わば演技された従順さであって、セッションが終われば普段の自分に戻っていく。でも、こよみはその区別を持たなかった」
「ずーっと奴隷だったということですか」と、まひろは言った。ヒナギクは頷いた。
「24時間。公私の境目なく、ずっと奴隷だった。わたしたちの前で裸でいる時間以外は、わたしたちの前で裸になるためのお手入れに費やしていた。〈綺麗にしていなさい〉という言いつけに従って、彼女が心身を磨き続けたという過程は話したわよね。あの娘が従った命令は、それだけじゃなかった。御主人さまの所有物。つまり、こよみ自身を敬い、大切に扱いなさい。という命令を厳守したの。その命令は、それ以前の彼女のアイデンティティすべてを上書きした。それまでのこよみのアイデンティティ。自分を憎み、傷つけ、粗末に扱えという命令の奴隷であること」
「誰が、それ以前の命令を彼女に与えていたのでしょう」と、まひろは言った。
「彼女を取り巻くすべてと、彼女自身が共謀した結果だって、菊比芽様は仰っていた」ヒナギクはそう言って、哀しそうに首を横に振った。「けど、わたしたちがその命令を書き換えた。性的な母乳を餌に〈あなたを敬い、大切に扱いなさい〉という、それまでとは真逆の命令に上書きした。こよみは健気な努力と、異常な従順さで、新しい命令に従った。そして、こよみが自愛を育て、自傷から遠ざかる過程で、変化が訪れ始めた。わたしたちと彼女の首輪を繋いでいた、弱さという鎖が変質しはじめたのね」
「なんだか、皮肉みたいですね。愛する主人の命令に従うことで、こよみは主人と自分を繋ぐ鎖を。彼女の弱さを失っていったということでしょうか」と、まひろは言った。
「少なくとも、自分自身を無価値な弱虫として扱うことをやめた。わたしたちの命令を最優先に遵守することで、あの娘はセルフイメージを書き換えたのね。自傷癖のある吃音の乞食姫から、溺愛されるシンデレラへと変わっていった。主従の循環が壊れたのは、その過程でだった。それまで全身が被虐のための性感帯みたいだったこよみの身体が、虐げられても感じなくなっていった。縛り上げられただけで。這いつくばってハイヒールの踵で踏まれるだけで。たった一言の叱責で。たった一撃の鞭で。たった一滴の蝋燭で。のたうちまわって、いっちゃうような娘だったのに、被虐の感度が下がっていったばかりか、だんだんと濡れなくなってしまった。それまでは一塊だった彼女の劣等感と性感帯が分離したんだよ。ってシノノメは言ってた。こよみは床に手をついて謝ったわ。濡れなくて申し訳ございませんって。どこで勉強したのか。わたしはあんなにも綺麗な土下座を今までに見たことがない。床についた掌は美しい二等辺三角形を描き、その中心に向けて頭を下げるこよみの鼻先が沈んでいった。地面すれすれで静止した頭、両ももにぴったりとくっついた胸、床にぴったりとくっついた上腕、そのシルエットからは、一種の機能美すら漂っていた。座礼の最も丁寧な形で、最敬礼っていうんだって、後からこよみが教えてくれたわ。どうか見捨てないでください。って、こよみは訴えた。涙を流してたけど、それはかつてのように、鼻水と涎と踏みにじられた自尊心でぐちゃぐちゃにぬかるんだ汚い嗚咽ではなかった。大好きなご主人様の言いつけを守って、泣き顔さえも綺麗にしていたのね。凛然と見開いたこよみの両目から、透き通った涙がひとすじ、すーっと頬を伝って流れていく様は本当に綺麗だったわ。例え見捨てられたとしても、自分はご主人様たちの所有物であることをやめません。って、こよみは言った」
「心配しなくてもいいわ。って撫でてあげて、菊比芽様とわたしは、身も心も痛くしない優しいセックスでこよみを可愛がった。あの娘をうんと安心させてあげたかった。すべてを捧げて痛みを求め、罪もないのに罰を乞い、泣きじゃくりながら嘔吐に等しい〈愛してください〉を言わされ続けていたこよみが、安らかに甘えながら〈愛しています〉と呟いていっちゃう姿は、わたしにとって感動的ですらあったわ。苦痛によってではなく、安心と愛撫によって、こよみは感じていた」
話しているうちに、思い出の中の性愛をその身体で反芻したのか、ヒナギクは奴隷の身体をいっそう激しく撫でまわした。ショーの本番を控えた奴隷は主人から与えられる刺激の量に耐えきれず、汗の珠を床に落とし、電流を流されたように皮膚の表面を痙攣させていた。
まひろはまた唾を飲み込んだ。恋がわからないくせに、愛していますと囁きながら、菊比芽とヒナギクに抱かれる裸のこよみを想像した。セックスの時に口走る〈愛している〉は、まひろにとって二種類の不毛な意味を持っている。相手に対しては符丁や忖度。自分にとっては永遠に手の届かない哀願だ。そして行為が終わると、その言葉は破裂する泡沫のように消え去り、あとには何ひとつ残らない。こよみにとっては、どうなのだろう。と、まひろは思った。菊比芽やヒナギクがそうしたように、裸に剥いて服従させ、思う存分に愛玩と安心を与えてやれば、こよみの〈愛している〉を聴くことが出来るのだろうか。
「それから、長い時間をかけて、わたしたちは鞭と縄を使わずに、こよみを抱いた。こよみは身体中の力を抜き、わたしたちに身を委ねた。常に鞭や叱責に身構えていた奴隷の緊張から、こよみの身体は解き放たれていた。わたしたちはもうあの娘を躾ける必要がなかった。命令通り、自分を大切に扱って、とっても綺麗に磨いていたから。幼児扱いされて授乳を受けても、もう赤ちゃんのように泣かなくなったこよみに、菊比芽様は長い長い大人のキスをして、誰かを愛してみなさい。あなたにはそれが出来るから。と仰ったの。わかりました。でも、どうかもう少しだけ、お二人のお傍にいさせてください。と、こよみは凛とした目に涙を浮かべて哀願した。そして、あの娘はベビー服を脱いで、メイド服を着ることになったの」と、ヒナギクは言った。
「こよみは、おふたりの〈教育〉によって、今の姿になったのですね」と、まひろは言った。
「そうとも言えるし、そうでないとも言えるよね」と、ヒナギクは言った。「〈教育〉は単なるきっかけであって、今の姿を選んだのはこよみ自身だと、わたしは思ってる。誰だって自分の意思で変わろうとする時期があるでしょう。やり方は性的で極端だったけれど。変わろうとしていたこよみが、わたしたちというきっかけに出会ったのは、ごく自然のことだったと思うわ」
不意にまひろは、奴隷だった頃のこよみに会ってみたいと思った。ヒナギクや菊比芽に代わって、こよみの欲望通りに彼女を虐げた後、溺愛の首輪で繋いで、自分から離れられないようにしてやりたいと思った。目の前でヒナギクが腰掛けている四つん這いの奴隷や、彼女らを囲う硝子部屋の中で絡み合う主従たちのように。首輪と鎖で繋いで離れられなくしてやり、最終的には魂を癒着させて眠りたいと思った。
「興奮しちゃった?」と、見透かしたように、ヒナギクは言った。
「ええ。だいぶ」と、まひろは正直に言って、ヒナギクはくすくすと笑った。
「ポンコツだった頃のこよみに、会ってみたかったです。今の姿からは想像もつかない」と、まひろは言った。ヒナギク笑うのを止め、眼を細めてまひろの瞳の奥を覗き込んだ。そこに、かつてのこよみが住んでいる。と、性的な乳母の眼が示唆しているようだった。
「ポンコツだったこよみは、消えてしまったわけじゃないのよ」と、ヒナギクは言った。「あの娘は、自分の奥深くにベビーベッドを作って、そこに泣き疲れたポンコツちゃんを寝かせてあげているだけ。鞭と母乳をたっぷり貰い、今は疲れてすやすや眠っているけど、あの可愛らしい泣き虫は決して消えはしない」と、ヒナギクは言った。
「わたしには見当たりません。泣き虫のこよみは」と、まひろは言った。「こよみはすごく有能で、聡明で、情緒的に成熟しているように見えます」
「わたしの知っているこよみとは違うわね」と、言ってヒナギクは笑った。「でも、それでいいのよ。わたしたちの知っているこよみと、ひむろちゃんの知っているこよみは違って当たり前だもの。わたしたちに出会ってあの娘が変わったように、あなたに出会ったことでまた、こよみは変わっていくのね。わたしにはその兆候が見える。既にあの娘の瞳の中で輝いている」
「どのような兆候ですか」と、まひろは言った。吉兆なのか、凶兆なのか、聞いておきたかった。
「その前に、こよみに関するわたしの見解をもう少し述べさせてほしい」と、ヒナギクは言った。生徒本人を欠いた三者面談に出席しているみたいだ。と、まひろは思った。まひろが教師で、こよみは欠席した生徒。ヒナギクが人間を椅子にして座るボンデージスーツを着た母親。
「確かに、こよみは有能で、聡明だと思う。でも、情緒的に成熟しているかと言えば、わたしにはそう思えない。有能で、聡明な人間の情緒がまったく未熟な例を、わたしは数多く見てきた。フォビアフィビアのお客様には、そうした方が多いの。人間はね、情緒的に成熟していなくても有能になれるし、自分を聡明に見せることもできる。そういう生き物なの」
「情緒的な成熟とは、どのようなものでしょうか」と、まひろは言った。
「情緒的な成熟の定義は、なかなか難しいわよね。個人的な価値観や美意識に左右されたりするし。そういえば昔、甘えん王が仰っていたわ。情緒的に未成熟な人間は、長期に渡って継続的にひとを甘やかすことができず、甘えん坊に対して必ずどこかで怒りをぶつけてしまう」
「さすがは王。王の理屈」と、まひろは言った。でしょう?と、言ってヒナギクは誇らしげに微笑んだ。
「ヒナギクさんにとっては、どのようなものですか。情緒的な成熟とは」と、まひろは言った。
「概ねは、この子たちが教えてくれる」そう言ってヒナギクは、奴隷の唇を指先で撫でまわし、垂れてきた涎を掬って自分の口に入れた。「この子たちが幸せそうであれば、わたしは情緒的に安定している。情緒不安定な主人に仕える奴隷は、幸せそうな顔をしていないから」
「鏡写しの関係なのですね」と、まひろは言った。
「そのとおりね」と、ヒナギクは言った。
まひろは情緒的に成熟した人間について思いを巡らせてみた。今まで出会ってきた人間の中から、安定した情緒を有する者を検索すると、義母と義弟をはじめとする数人の心当たりを発見することができた。同時に、安定した情緒を有する人々に対し、ことごとく疎遠であろうし続けるという、対人関係における自分の距離感も再発見した。恐らく、わたしの住む水域は、情緒的に不安定な水温に保たれているのだ。と、まひろは思った。
「情緒的な成熟の定義は、とても難しいけれど。情緒的な未熟の定義は、とても容易いのよ」と、ヒナギクは言った。「目を閉じて、今までに出会った情緒不安定なひとの顔を思い浮かべるだけでいいの。やってみて」
実際に目を閉じ、情緒不安定な人々の姿を思い浮かべながら、まひろは頷いた。それは安定した人々に比べて、遥かに自然に、しかもうじゃうじゃと、彼女の記憶の中から甦ってきた。逆転した親子関係。愛情を伴わない性の乱用と、次々に破綻する男性関係。それだけではない。記憶の土中には、今まで人知れず埋葬してきた、まひろ自身の破れた情緒たちが、隙あらば甦ろうと目を見開いたまま待っていた。そこはまるで、巨大な墓場のようだった。
「例えば、好きな人に捨てられるのが怖くて、先回りして捨てられようとしてしまう。というのは、情緒的に未熟よね」と、ヒナギクは言った。まひろは閉じていた目を開いた。
「返す言葉もありません」と、まひろは言った。「確かに、眼を閉じた時に思い浮かんだ未熟な人々のなかに、わたし自身もいました」
「一応、忠告だけれど。こよみに対しては、そうやって気を引こうとするの、やめたほうがいいわよ。あの娘は去る者を絶対に追わない。見捨てられることに、あまりにも慣れ過ぎていて別離に抵抗がないし、行為や言葉の裏を読むということが、まったくできない」と、ヒナギクは言った。
「覚えておきます」と、まひろは言った。
「目を閉じて浮かんできた情緒不安定な人々の中に、こよみはいた?」と、ヒナギクは言った。
「はい」と、まひろは言った。「そこはまるで、巨大な墓場の様でした。情緒的に未熟な、たくさんの人々が、土の中から甦ろうとしていました。わたしはこよみの手を強く握って、墓場の真ん中で立ち尽くしていました」
「ひむろちゃん。詩人よね」と、言って、ヒナギクは微笑んだ。
「お時間となります。出演のご準備を、お願いいたします」
マスカレードマスクを付けた黒服の男が、ヒナギクの傍にやってきて、そう囁いた。承知しました。と、ヒナギクは頷いた。
「わたしにできるお話はこのくらいかな。あとはひむろちゃん次第ね。がんばって。あなたもこよみも、大好きよ」と、まひろの頬を撫でながら、ヒナギクは言った。目礼しつつまひろは、ヒナギクの瞳の中から余分な慈愛が消え去る瞬間を目撃した。
ヒナギクは人間椅子から、ゆっくりと腰を上げた。その背中にかかる負荷が激減しても、彼女の奴隷は身動ぎもせず、主人のための硬い椅子である姿勢を崩さなかった。ヒナギクは奴隷の前に跪くと、彼の耳栓と口枷を外し、ねぎらうように奴隷の喉仏を撫でた。硬直していた奴隷の筋肉が愛撫を受けてゆっくりと波打ち、その身体から椅子の堅さが失われた。
次の命令を待つ奴隷に対して、ヒナギクはすぐに話しかけることをせず、奴隷の瞳をじっと見つめ続けた。奴隷は瞬きもせずに眼を見開き、主人の視線を受け入れていた。言葉の代わりに、お互いの瞳孔に自分を投げ込むことによって、意思の疎通を図っているかのようだった。この人たちには、この人たちだけの通信があるのだ。と、まひろは思った。永遠に理解し合えない言葉がある一方で、瞬時に通じ合う沈黙があることを、まひろは突然に理解した。溶けあった視線のプールの中にまひろの入る余地はなく、ふたりはまるでひとつの生き物のようだった。
「これから、あんたのいやらしい姿をいっぱい見てもらえるのよ。うれしい?」と、ヒナギクは言った。
「はい。ヒナギク様」と、うっとりと濡れた声で奴隷は言った。ヒナギクが首輪に繋がれたリードをぐいと引いたのを受けて、奴隷はゆっくりと立ち上がった。
「ひむろちゃんはここで見学していてね。この子がみっともなく、ぶちまけるところを、よおく見ててあげてね」
そう言ってヒナギクはまたリードを引き、奴隷を連れて硝子部屋のひとつへと向かっていった。
〈本日は、弊社マスカレード・ガラスのショールームにお越しいただきまして、誠にありがとうございます〉というアナウンスが、天井の四隅に配置されたスピーカーから流れ、立体音響と化して薄暗いフロアに響いた。
〈紳士淑女の皆様におかれましては、弊社の防音硝子の遮音性と機能性につきまして、よくご理解いただけたかと存じ上げます。只今より、スタッフが一時的に硝子ルームの出入口を開放いたします。プレイは継続中ですので、中から奴隷たちの叫び声が漏れることを、予めご了承ください〉
八つの部屋の扉が同時に開かれた瞬間、それまで硝子の中に閉じ込められていた奴隷たちの叫び声が一斉に放たれ、鞭や平手での打擲音や、性具と化したサディストたちの言葉が、猟犬のようにそれを追った。絶叫と体温が、音速の熱波のようにフロア一面に拡がって、まひろを含めた観客全員の発汗を激しく誘った。三秒間の開放の後に扉が閉められると、フロアには熱い残滓を残したまま、再び深海のような静寂が訪れた。
〈いかがでしたでしょうか。また、弊社の硝子は、遮音・防音性だけでなく耐久性にも優れており、一本鞭の一撃でさえ、傷ひとつ付かないことをお約束いたします〉
何人かのサディストが、アナウンスの内容に従い、硝子の壁の耐久性を示した。ある者は一本鞭で壁面を打ち、あるものは奴隷の髪を掴んで、その身体を壁に叩きつけた。どういう原理なのか、硝子部屋は少しほんの僅かに揺れただけでまったくの無傷だった。
〈さらに。調光硝子の機能も備えております。9つの聖櫃の中で、ひとつだけ中の見えない最奥の硝子部屋をご覧ください〉と、アナウンスは言った。シノノメが奴隷を連れて入っていった九つ目の硝子部屋に、スポットライトと観客の視線が集まった。中では、シノノメが奴隷を嬲りはじめているはずだ。だが、部屋内の様子は、硝子に仕込まれた白く不透明な液晶によって阻まれており、防音性と相まって窺い知ることが出来ない。
「お飲み物のおかわりはいかがですか」と、マスカレードマスクをしたバニーガールがまひろに声をかけた。まひろは「ありがとう」と、微笑んで白のスパークリングワインを貰い、一口飲みながら彼女を重囲する硝子部屋を眺めた。
遮音された八つの硝子部屋の中で、閉ざされた叫び声が炸裂している。裸になって苦痛を叫ぶ奴隷たちを見ながら「エクスプレッション。スポーツ。トラウマの再演」と、まひろは呟いた。
不意に、あの硝子部屋と、自分の体は似ているな。と、思った。苦痛と快楽という、本来は相反するはずの二極が性愛を介して混濁し、そのどちらともわからなくなった叫び声をあげている。しかし、すべては遮音され、遮光されており、外部に秘密が漏れることはない。僅かに、性欲や恋と結びついた時にだけ、他者の入室が許され、得体の知れない泥濘を共有することができる。泥だらけで絡み合うことによって、熱い泥は抱き合った相手にも伝染する。
誰かが硝子部屋の遮光機能をリモートコントローラーで操作し、五秒おきに一瞬だけ、ヒナギクたちの入った部屋内の痴態を明らかにした。床に仰向けになり、体を一本の鉄棒のように硬くした奴隷の性器をハイヒールの踵で弄びつつ、ヒナギクは真っ赤な蝋燭をぽたぽたと彼の胸に垂らし続けていた。
〈このように、遮光機能のオンオフによって、音のみならず、視覚も任意に遮ることが可能です。見せつけるも、見せつけないも、皆様の思いのままでございます〉と、アナウンスは言った。
硝子部屋の中で凄惨な性欲が明滅するのと同じリズムで、自分の体のなかで性欲と暴力が熱を溜めていくのを、まひろは感じた。あの人たちは、いま言葉の代わりに苦痛を用いて会話しているのだ。と、点滅する主従を見ながら思った。母親が怒りと酒に溺れ、父親が口を噤んで逃げ出し、まひろが無数の仮面を必要としたように、言葉は常に足りない。足りない言葉を埋めるために、しばしば過剰な性や暴力が用いる人たちがおり、自分もその中の一人であることを、まひろは改めて自覚した。こよみもその一人であったはずだ。あんな風に、焼かれる芋虫みたいに悶えながら鳴いたのだろうか。と、のたうちまわるヒナギクの奴隷を見ながら思った。
硝子部屋の点滅の感覚が徐々に短くなり、中の光景が露出度を増した。ヒナギクが赤い蝋で染まった奴隷の顔に跨り、真っ白な太腿で締め付けている光景が、早送りのフィルムのように瞬いた。窒息と愉悦によって、奴隷の爪先はぴくぴくと震え続けていた。
わたしのハラワタにも、あの暴力が住んでいる。と、まひろは思った。愛しいものを、愛しいが故に疑い、試したがり、飽き足らず、緊縛し、監禁し、いたぶりつくして捕食する。暴力というプールの中に溶けて、相手と一体化したがる、エゴイスティックなアメーバを、わたしも体の中に飼っている。普段は安らかに休眠しているその生き物が目覚めるきっかけとなる感情がわかった。恋だ。恋をする時、わたしの中の支配欲は目覚める。
「エクスプレッション。スポーツ。トラウマの再演。エゴイスティックなアメーバ」と、まひろは呟いた。
まひろは、熱でじんじんと疼く自分の下腹部を触った。ブラッドハーレーを責めたてている時には、まだ彼女自身その存在に気づいていなかった欲深いアメーバが、まひろの下腹の奥底から、こよみを食べてしまいたい。と、訴えた。
「だめ」と、まひろは呟いた。「おまえなんかに、こよみは食べさせてあげない」
硝子部屋の点滅が止み、後ろ手に縛られて正座した奴隷の口の中に、舌状の触手と化したヒナギクが侵入し、長いこと舐めまわした。やがて電気ショックを受けたように奴隷が身体を震わせ、信じられない量の射精をして、観客たちが誰からともなく拍手をした。射精と痙攣は一分近くも続き、幸福そうな二人のために、まひろも拍手をした。
誰かが調光硝子の液晶をリモートコントローラーで操作し、五秒おきに一瞬だけ、ヒナギクたちの入った硝子部屋の遮光が解かれ、中の様子が明らかになった。床に仰向けになり、一本の棒のように体を硬くした奴隷の性器をハイヒールの爪先で嬲りながら、ヒナギクは真っ赤な蝋燭を高い位置からぽたぽたと、奴隷の胸に垂らしていた。硝子部屋の中で惨い性欲が点滅するたび、同じリズムで自分の体のなかの暴力が熱を放つのを、まひろは感じた。あの人たちは、言葉の代わりに暴力によって会話しているのだ。と、まひろは思った。母親が酒に溺れ、父親が黙って逃げ出すしかなかったように、言葉は常に足りない。それを埋めるための様々な手段のなかで、何故わたしたちは暴力を選んでしまうのだろう。
硝子部屋の点滅の頻度が早くなり、外からはコマ送りのフィルムのように見えた。ヒナギクが、赤い蝋で染まった奴隷の顔に跨り、締め付けている光景が点滅した。窒息と愉悦によって、奴隷の爪先がぴくぴくと震えた。
わたしのハラワタにも、あの暴力が住んでいる。と、まひろは思った。愛しいものを、愛しいがゆえに疑い、試したがり、飽き足らず、緊縛し、監禁し、いたぶりつくして捕食する。どこまでも相手と一体化したがる、エゴイスティックなアメーバを、わたしは飼っている。普段は安らかに休眠しているその生き物が目覚めるきっかけとなる感情がわかった。恋だ。恋によって、わたしの中の支配欲は目覚める。
まひろは、熱でじんじんと疼く自分の下腹部を触った。ブラッドハーレーを責めたてている時には、まだ自分でもわからなかった感情の正体が、こよみを食べてしまいたい。と、囁いた。
やがて遮光硝子の点滅がやみ、後ろ手に縛られて正座した奴隷の口の中に、舌状のアメーバと化したヒナギクが侵入し、長い事なめまわした。やがて電気ショックを受けたように奴隷が身体を震わせ、信じられない量の射精をし、観客たちが誰からともなく拍手をした。射精は一分近くも続き、幸福そうな二人のために、まひろも拍手をした。
彼女なりの思惑があって、まひろは数日間、こよみのアパートに戻らなかった。
姿を眩ませることで、こよみに自分の行方を心配してほしいと期待したのも確かだったが、それだけが目的でなかったことだけは、まひろのためにも断っておきたい。
まひろはまひろなりに、恋に対してあまりにも衝動的な自分との対話。及び衝動の冷却を試みたのだった。ブラッドハーレーに対してそうしたように、欲望のアメーバと化してこよみを心身の区別なく支配してしまいたいという衝動と、もう二度と愛するひとを傷つけたくないという自制に挟まれながら、言葉を失って数日間を過ごした。
まひろがアパートに訪れないことに対して、こよみからは何の反応も返ってこなかった。振り返ってみれば、返信こそ迅速で丁寧なものの、こよみの方から仕事以外の連絡を受けたことは殆ど無かった。やはり、彼女にとってわたしは、ほんの少しだけ親愛なる野良猫に過ぎないのだろう。と、まひろは思った。普段のまひろであれば、そのまま野良に戻るだけでよかった。だが、問題はまさにそれができないという点にあった。
こよみのアパートで暮らした数週間の影響で、野良猫はそれ以前とは違った習性をひとつ得ていた。読書する習性だ。まひろは図書館の鍵が開くと同時に入館し、半日を読書に。もう半日をうたた寝にあてた。閉館時間が近づくと、彼女は読みかけの本を借入れ、ファミリーレストランや、朝まで営業している居酒屋で読み耽った。野良猫は、十ページ読み進むごとにスマートフォンのロックを開き、こよみからの連絡が届いていないかを確認した。そして届いていないことを確認すると、本の中から得たいくつかの言葉をメモ帳に記録し、時には数千字に及ぶ、こよみに宛てた読書感想文を書いた。
図書館は、言葉で出来た森の様だった。こよみの家に積まれた無数の本の背表紙を思い出しながら、まひろは言葉の森を彷徨った。主にこよみの部屋で見かけた本を選んで読んだ。棚というものが置かれていなかったこよみのアパートでは、本は無数の尖塔のよう床に積まれており、すべての背表紙は90度傾いていた。そのせいか、図書館の本の背表紙と、記憶のなかのこよみの蔵書の背表紙を照合する過程に於いて、まひろには自然に首を直角近くまで傾ける癖がついてしまった。
こよみのアパートに転がり込むまで本を読む習慣が殆どなかったまひろにとって読書は新鮮な体験だったし、アパートに戻らなくなってからは、こよみと繋がり続けることのできる数少ない方法の一つとして重要だった。連絡を取り合わなかったとしても、本を介してこよみと繋がれている気になれた。気まぐれに迷い込んだだけの図書館に、まひろは本の再読と、こよみとの接続を求めて、何日も居座った。
暇さえあれば、わたしたちは本を読んでいたな。と、図書館の窓から差し込む冬の陽光を浴びながら、まひろは思った。生活に必要な最低限の物品を除けば、本の他に何もないこよみのアパートで、部屋の中の二人は、自然と本ばかり読み耽っていた。
まひろはこよみほど熱心な読書家ではなかった。いつまでもこよみのアパートに馴染まない野良猫は、数分に一度、文字から目を放し、傍で読書しているこよみの横顔を伺った。本を読む時のこよみの眼は仕事中のように真剣で、唇は固く結ばれ、姿勢は石像のように殆ど動かなかった。
時折、こよみが本を開いたまま床に置くと、まひろは見つめていたことを隠すために本に視線を戻し、再度読み始めるふりをした。こよみは必ず、まひろのティーカップの残量を確認する。必要であれば、彼女の分の紅茶も淹れる為にだ。
こよみの作る夕食を食べながら、ふたりはしばしば本の感想を語り合った。百円ショップで買ったまひろのメモ帳には、本の中から拾った言葉がびっしりと複写されており、彼女は、その中から一節を取り出して、こよみに向かって放った。
「〈憎しみも愛情も、同じように激しかった〉」
と、まひろは言った。膨大な本の中から、こよみに強請って推薦してもらった〈赤毛のアン〉を読んでいる最中のことで、同書からの引用だった。
「ねえ。こよみは、アン・シャーリーとギルバート・ブライス。どっちの味方をする?」と、まひろは言った「アン・シャーリーは、自分のコンプレックスを。髪の毛の色をからかったギルバート・ブライスの頭を石板で叩き割り、その後幾度となく謝意を示す彼を、数年に渡って無視し続けた」
「ギルバートの頭で石板を叩き割り」と、こよみは訂正した。「親友や家族には、ものすごく優しいのにね。味方にすれば頼もしく、敵に回せば恐ろしい、アン・シャーリー」
「こよみは心情的にどっちの味方?わたしはアン。真摯に謝っている人を許さないのは狭量だって言う意見もあるかもしれない。でも、許すか許さないかは、傷つけられた側に決める権利があるんじゃないかな」と、まひろは言った。
「ねえ。ひむろ。前も似たような話、したね」と、こよみは言った。
「〈エーミールと蝶〉でしょ。あなたが勧めてくれた」と、まひろは言った。
「ちがう。〈少年の日の思い出〉。確かに、エーミール少年と蝶についての話ではあるけれど〈エーミールと蝶〉という題名ではない」と、こよみがまた訂正をした。「あなたは、あの本を読んだ時も同じようなことを訊いた。過ちを告白し許しを乞う加害者と、決してそれを許そうとしない被害者。心情的にどちらの側に立つかって」
時折、清冷に磨かれたこよみの所作や外面の奥から、封印された自虐の泣き声が聴こえてくるような気が、まひろにはした。そこでは、こよみはまだ赤ずきんの姿のままであり、まひろは半ば狼の姿をしていた。意識下で虐げられ続けている赤ずきんの手が、虚ろに項垂れた狼の頭を撫で、不安に震える身体を抱きしめた。狼は食べてしまいたいのを我慢しつつ、恐る恐る赤ずきんを抱きしめ返した。
「じゃあ。こよみは復讐をしないの」と、まひろは言った。
「そうね。その才能がないから。そういうのは、上手なひとがやればいい。アン・シャーリーとか。モンテ・クリスト伯爵とか」
「じゃあ。ギルバート・ブライスの味方をするっていうの。うらぎりものめ」と、まひろは言いながら、こよみの頬っぺたを両手でむにゅむにゅと引っ張った。復讐の才能がないと自称するこよみの顔が悲し気に見えて、わざとふざけたのだった。
「でもね」と頬を引っ張られたまま、こよみは言った。「わたしには、わたしに合った復讐がある気がするの。石板や拳銃ではなくて」
図書館で〈アンの青春〉を読み終えた後、まひろはこよみの言ったことを思い返していた。図書館の端末を操作して〈復讐〉というキーワードで検索すると、膨大な量の本がリストアップされた。うすうす知ってはいたが、復讐譚は人間に対して一定以上の需要を有しているんだな。と、まひろは思った。
〈復讐するは我にあり〉〈芝生の復讐〉〈優雅な生活こそが最高の復讐である 〉〈道徳は復讐である〉〈シスの復讐〉…
端末の挙げる復讐に関する書名を黙読しながら、世界には様々な形の復讐があることを、まひろは改めて確認した。
ふと、以前付き合っていた男が、まひろに対して復讐を誓った時のことを思いだした。
彼はまひろの勤めていたコンビニエンス・ストアの店員で、恐ろしく口下手な大学生だった。ある日、彼は勤務後の駐車場にまひろを呼び出し、缶コーヒーを一本奢ると、突然まひろの長所をたどたどしく三十個ほど列挙して褒めはじめた。余りにも話がつかえつかえ、あちこちを迂回するために、途中から誰の事を褒めているのかわからなくなったが、一生懸命に喋る様子が微笑ましくて、まひろは彼の賛美を最後まで聞いた。翌日、彼は〈付き合ってほしい〉と、メールでまひろに告白し、丁度仮宿を失っていたまひろは、短い間、彼のアパートで暮らすことになった。
執拗なまでの熱心さで、まひろの業務や雑事を先んじて自分が引き受けてしまうというのが口下手な彼の愛情表現であり、彼と同勤している期間のまひろの務めは確かに50パーセント以上削減されたが、それは本来職務や家事に対して勤勉なまひろに、むしろ居心地の悪さを感じさせることになった。やや一方的な親切に対して、求める反応が返ってこないことがわかると、彼の機嫌は次第に悪化し、二カ月足らずで、別れ話が切り出された。
「あんなにきみに尽くしたのに。おれのあげた優しいや、真心を返せ。愛してるを返せ」というのが、彼の言い分だった。「いったい、何が気にいらないの」と、言うと「自分で考えろ」と、怒鳴られた。
頼んでもいないのに勝手に差し出しておいて、後から返却しろと言われる類の優しさや真心や愛など、わたしには返しようがない。と、まひろが言うと、男は拳を握って振り上げた。殴られるかと思ったが、彼は頭の上でわなわなと拳を震わせただけで、諦めたように、ゆっくりとその手を降ろした。
「きみがおれを愛してくれていないのは、わかってる。もう嘘は止めにしよう」と、彼は言った。必ずしも嘘ばかりではなかったが、その手の反論が建設的な結果を産まないことを既によく知っていたまひろは、黙って別れを了承した。その際に、彼がまひろに約束した復讐が忘却だった。
〈きみのことを忘れてみせる。最初からいなかったひとのように、忘れてみせる。それがぼくの復讐だと思って欲しい〉というメールを、別れ話をした夜に、まひろは彼から受信したのだった。
彼は復讐を果たしただろうか。と、本棚の描く図書館の目地をうろつきながら、まひろは思った。
〈復讐〉をその名に含む本たちを両手で抱え、さらに集めるべく、彼女はゆっくりと図書館の中を彷徨った。図書館の本の中には、実に様々な形での復讐が収納されていた。誰しもが、その生き方の一部に復讐心を飼っている。と、まひろは思った。そして、どの人も違う人生を送っているように、どの人も違う形の復讐を遂げている。それは生きる上での、憎しみに対する個別の道しるべなのだろう。
母親が酔って暴れることによって、彼女自身や、娘であるまひろや、自宅の壁紙を傷つける姿を思い出し、あれも一種の復讐なんだ。と、まひろは考えた。酒に溺れ、怒りと暴力と不機嫌を駆使し、娘を支配下に置こうとすることで、自分を捨てた夫や、失われた家族像に対する復讐を繰り返している。二度と戻らない過去への復讐が、いつまで続くのかはわからない。
わたしのなかにも、復讐心がある。と、思いながらまひろは、自分の前腕部や、肋骨の隙間や、足首やくるぶしにうっすらと残った、刃物による自傷痕を撫でた。これも、復讐の一部だ。と、彼女は思った。何を切り裂いていいのか分からないまま、彼女は自分を切り裂いていた。母親がそうであるように、道しるべのない憎しみは、まず自分や近親へと向かってしまう。
不意にまひろは、こよみのアパートで見た夢を思い出した。冷たい棘のような冬の夜に、二人は薄い毛布の中に身を寄せて収まり、互いの体温を合わせて暖を取っていた。合わさった体温は心地よく、まひろは一人とも二人とも言えない不思議な温もりの中で安らかに眠ることが出来た。ある夜、眠っているまひろの腕にはびこる薄い自傷痕を、隣で眠るこよみが指先で撫でている夢を見た。哀れな蟲たちを慰めるような手つきで、微かに隆起したまひろの細い傷痕を、こよみは撫でていた。きっと夢を見ているのだと思いつつ、まひろと傷痕は撫ぜられるままになっていた。
あれはほんとうに夢だっただろうか。と、自らの手首を半周する薄い傷痕を見ながら、まひろは思った。夢であったにせよ(だとしたら、とてもいい夢だったし)現実であったにせよ(だとしたら、とてもいい現実だった)あの夜、こよみに撫でられながら、まひろは眠っているふりをした。そうしている限りは、こよみの気の済むまで触り続けてもらえるだろうと考えたからだ。そして、撫でられる傷痕そのものと化して、まひろはそのまま夢の中へと溶けていった。この夜のこよみの愛撫が夢か現かについて、こよみに訊くことをしなかったために、真実は傷痕とこよみだけがご存知だった。
まひろは、スマートフォンの中から、かつて、こよみへ送信したメールを開いた。
〈わたしは、わたしを傷つけることによって、復讐しているんだろうか〉
〈わたしは、わたしの身体や人生を、復讐のキャンパスに見立てて、傷つけているのだろうか〉と、彼女は書いていた。トラウマに苛まれて動けなくなっていたこよみにすがりつき、責めてしまった夜に送ったメールだ。以来、こよみからの返信はない。
〈森のなかで、わたしたちは出会った〉と、まひろは新しいメールの下書きに書いた。〈そこは言葉と切創の森だった。わたしは森の中で、一本の樹を探している。広い広い森の中に、最初に芽吹いたわたしの言葉と切創。今では、無数の言葉に。無数の傷痕に隠されてしまった世界樹を、わたしは探していた〉
〈あなたは、その樹を撫でていた〉
そこまで書いてしまってから、まひろはメールを送ることをせずに、スマートフォンの画面を閉じた。そして、夢野久作全集の中から〈復讐〉という短編を選んで読み始めた。
しばらくの間、他人の復讐をぱらぱらと読んでいると、背後から声をかけられた。
「復讐したいの?」
と、彼は言った。振り向いてから相手の顔を見つめ、にこにこと微笑んでいる少年が誰なのかを思い出すまでに三秒半かかった。父親の再婚相手の息子。つまり、まひろの義弟が、そこに立っていた。
「こんにちは」と、まひろは言った。
「こんにちは。姉さん」と、義弟は言った。相変わらず、柔かそうな微笑みを浮かべていた。彼の隣には、美しい黒髪をした少女が、やはり微笑みを浮かべて侍っていた。少女は義弟よりも頭二つ分背が低く、首回りにリアルファーをあしらった白いケープジャケットを羽織っていた。義弟に倣ってお辞儀をすると、「はじめまして。こんにちは」と少女は言った。ぱっちりとした大きな目が、まひろを直視した。
「彼がいつも、お世話になっています」と、少女は言った。
「とんでもないです」と、まひろは言った。義弟には一度きりしか会ったことがないし、従ってお世話をしたこともない。
「彼から、お姉さんのこと、聞いてます」と、少女は言った。黒目がちな大きい瞳のなかには一抹の警戒心も見当たらず、四百エーカーのペットショップで育ったポメラニアンかなにかのように可憐だな。と、まひろは思った。
「付き合ってるんだ」と、ポメラニアンを見ながら、義弟は言った。
「うん。わかる」と、ふたりを交互に見ながら、まひろは言った。寒冷地の令嬢なようなファッションの少女に対し、義弟はアンブロのジャージにベンチコートというフットボールチームのコーチのような恰好で、外見からその関係を推察することは困難だったものの、ふたりを包む親密さからは、確かに恋人たちの匂いが漂っていた。
「勉強に来たんだ。おれたち来年、受験だからさ」と、義弟は言った。
「図書館で一緒に受験勉強するカップルって、実在したのね。いいもの見たわ。志望校までいっしょだったりするの?」と、まひろは言った。
「もちろん」と言って、ポメラニアンは嬉しそうに笑った。
「はあ」と、まひろは言った。黒目がちな二人の瞳が、清らかに濡れながら、まひろを見つめていた。親愛を込めて、にこにこと人を見つめることに衒いがない義弟であることは知っていたが、同じ目をした恋人によって倍加した罪のない視線は、まひろをさらに居心地悪くさせた。「ははあ」と、もう一度まひろは言った。
「お姉さんは、受験終わったんですよね。何しにいらしたんですか」と、ポメラニアンは言った。
「ええと。復讐のために」と、まひろは言った。ポメラニアンは、つぶらな瞳を輝かせたまま微笑んで、首をくいと捻り〈ちょっとなにを言っているのか、わかりません〉というジェスチャーをした。
「姉さんと、少し話があるんだ」と、義弟は少女に言った。こくこくこくこく。と、四度頷いてからポメラニアンはもう一度まひろにお辞儀をし、尻尾を振りながら本の森のなかへ小走りで駆けて行った。
いったいわたしに何の話があるっていうんだろう。と思いながら、まひろは義弟の後を付いて図書館の外に出た。義弟は自動販売機であたたかい無糖の紅茶を二本買って、一本をまひろに渡した。枯葉の舞う冷たい舗道の端で、二人はポケットに手を突っ込んでゆらゆらと立っていた。まひろは警戒心によって。義弟は自然体によって、体の軸が定まらなかった。彼はペットボトルの蓋を開けて紅茶を啜り、まひろが自分を見つめているのに気づくと、また微笑んだ。 まひろは、自分が普段、他人の表情筋の緊張から、その機嫌を窺っていることを知った。義弟の笑顔は、その柔軟さ故に機嫌や意図を読みにくく、相手の欲求が明らかでないという無防備な状況は、まひろをひどくそわそわさせた。「あの。話ってなにかな」
義弟が微笑んだまま紅茶を啜るばかりだったので、まひろの方からそう言った。義弟はぽかんとした顔でまひろを見つめ「いや。別に」と、言った。今度はまひろの方が、ぽかんとする番だった。
「だって。あなた、彼女に言ったじゃない。わたしと話があるって」と、まひろは言った。
「ああ。あるよ」と、義弟は言った。「話、しよう」
ぽかんとした顔を二乗すると、自分は怒った顔になるんだな。という発見をしつつ、まひろは義弟の微笑をじっと睨みつけた。
「ああ」と、義弟はまひろの苛立ちと、その理由に気づいたように頷いた。「いや。偶然に会えたから。話をしようと思ったんだ。話すべき話題があるってわけじゃない。なんとなく、話そうかな。って思ったんだ。雑談だよ」と、彼は言った。
なるほど。と、まひろは思った。怒りによって硬直した彼女の表情が、納得することによって、ゆっくりともとに戻った。
「悪いけど。わたし、そういうの苦手なの」と、まひろは正直に言った。とりとめのない会話が苦手なわけではなかった。とりとめのない会話を交わす程度に、他人と親密になることが苦手だった。ましてや義弟の素直さと柔らかさは、まひろから半ば天敵視されている。
「そうなのか」と、義弟は言った。「ところで、誰かに復讐しようと思ってるの?」
「話聞いてた?」と、まひろは言った。
「うん」と、義弟は言った。「姉さんは、無駄話が苦手だ」
義弟は、なお微笑んだまま、まひろを見つめていた。まひろがなんと言っていいのかわからずにいると、義弟はにっこりと笑って手を振った。振り向くと、乳母車の中の幼児が、嬉しそうに笑いながら、こちらに手を振っていた。乳母車を押す母親も、やはり笑いながら会釈をして通り過ぎた。
「知り合い?」と、まひろは言った。
「いいや。かわいいなって思ってさ」と、義弟は言った。
まひろは諦めて、紅茶のキャップを開け、一口飲んだ。体の中が暖まると共に、思考は冷たく静まった。
「ありがとう。いただきます」と、一口飲んでから、まひろは言った。
「どうぞどうぞ」と、義弟は言った。
まひろと義弟は紅茶を啜り、冬の空を見上げた。はじめて空を見上げるもぐらのような曇りのない眼だな。と、義弟の横顔を見ながら、まひろは思った。雲一つのない青空の向こうから、太陽が温かい水晶を地上に振り撒いていた。義弟は、満足するまで空を見つめてしまうと、突然に話をはじめた。確かにとりとめのない内容の話ではあった。
「父さんは元気にやってるよ。元気にと言うか、変わらずにやってる。たまに姉さんみたいに、ふさぎ込んで黙ってしまう癖があるけれど。おれと母さんは、まただんまり病だ。って言ってる」と、義弟は言った。
「うん。ちょっと待って」と、まひろは言った。「あの人が変わらずというのはかまわないのだけれど。いいえ。変わろうが変わるまいがかまわないのだけれど。あなたがわたしの緘黙の何を知っているというの」
義弟は不思議そうな顔をして彼女を見つめた。小さな天使が、二人の沈黙の狭間を通過した。
「かんもく?」と、義弟は言った。
「だんまり病」と、まひろは言った。
「だって。姉さんも、ふさぎこむと黙ってしまうだろう」と、義弟は言った。
「何故そう思うの」と、まひろは言った。
「見てればわかるよ」と、義弟は言った。
突如出現したエクスクラメーションマークと、クエスチョンマークに、それぞれ一度ずつ殴られた気がした。
「ちょっと待って」と、言って、まひろはこめかみに指を当て、解答を求めるスイッチを押し続けるかのように押し続けてた。確かに、ふさぎこんだ時のまひろは、緘黙によって問題をやり過ごそうとする癖がある。しかし、たった一度しか会っていない義弟が、それについて知った風な口をきくのか、どうしてもわからなかった。
「姉さんの方はどう。また、遊びに来てよ。母さんも喜ぶ。あの人、口には出さないけど、義理の娘ができて嬉しいんだ。まひろちゃんは次いつ来るの?って父さんに訊くんだ」
「ちょっと待って」と、まひろもう一度言った。「わたしは確かに、しょっちゅう塞ぎ込むし、ふさぎこむと、だんまり病になったりもする。でも、たった一度だけしか会ったことのないあなたに、何故それがわかるの」と、まひろは言った。精神的な軟体生物を言葉の銛で刺すために、まひろは強い視線と声色を使った。
「父さんに聞いたんだよ。よく、姉さんの話をしている」と、義弟は自らに刺さったまひろの銛を抜きながら言った。
「あのひとが、わたしのことを、どう話していてもいいけれど」と、新しい銛を構えつつ言ってから、不快に属する感情が沸いてくるのを感じて、まひろは質問をし直した。「いや。あのひとは、わたしのことを、どう話しているの」
義弟は太陽の中に答えを求めるように、空を見上げて眼を細め、記憶を探った。
「ええと。父さんは、相変わらずいいひとで。というか人がよくて。いつも機嫌良く楽しそうにしてる。風呂掃除と洗濯とごみ出しを担当してくれるのは、とても助かってる。今までは、おれの仕事だったからね。母さんの話相手になってくれるのも助かる。二人が仲良く話してるのを端から聞いてて改めて思ったけど、やっぱり母さんは時々うるさい。考える前に喋ってるところがある。頭でなくて、身体で喋っているような。まあ、おれも似たようなもんだけど。そういう意味では、じっくり聞いてくれる父さんがいてくれて助かるんだ。今までだったら、おれと母さんで言い争いになっている場面も、父さんがクッションになることで、とりあえずの平穏を保つことができている。これって本来飼い猫か何かの仕事だと思うんだけど、うちのマンションはペット禁止だし、父さんは飼い猫じゃない」
義弟はそこまで一息に喋ってしまうと、話の本題を思い出すために、いったん黙りこんだ。そして、思い出すと共に話を再開した。
「そう。まあまあ元気に。仲良くやってるんだ。でも、さっきも言ったとおり、父さんは時々、だんまり病に罹る。それなんなの?って、母さんは訊いた。おれも。なんで黙り込んでしまうの?って。父さんはすごくびっくりしてた」
「なるほど」と、まひろは言った。義母と義弟は、わたしたちにとって緘黙がどのようなものなのかを知らないのだ。それが、不和に満ちた家庭で生き延びるための防護服であったことを。何でも素直に口に出してしまう彼らには、緘黙する理由も必要性もわからずに、ただ素直にその疑問を口にしたのだろう。
「父さんの話は、わかりやすかったよ」と、義弟は言った。「言葉に鍵がかかってるんだって言ってた。ある種の言葉を口に出すことで発生する争いや対立。誤解を避けるために、父さんはだんまり病の部屋に閉じこもる。母さんはその扉をノックする。ついでにおれも、ノックする」
「なるほど」と、まひろはもう一度言った。緘黙に関する父親の認識は、まひろのそれと概ね同じだった。
わたしたちは、それぞれに緘黙の部屋を持っており、傷つけ合うことを恐れて室内に閉じこもっていた。と、改めてまひろは思った。母親が扉をノックしたものの、返事が返ってこないと知るや、ノックは激しさを増し、そのたびに緘黙の扉は、傷と鍵を増やしていった。
「父さんが、だんまり病の説明をしながら、姉さんの話をしたんだ。まひろも同じ病気だったって、ぽつんと言ったよ。それから、急に泣き出した。自分の呟いた言葉に涙腺を搾られているような感じだった。母さんは泣くなよって言って、おれも泣くなよって言った。黙ったまま、父さんはぽたぽたと泣いて、泣き終わってしまうと、ありがとう。と言って鼻をかんだ」と、義弟は言った。
ずっと泣いてればいいんだ。と、まひろは思った。そうしたら、彼はきっと、この人たちに慰め続けてもらえる。もしかしたら、傷が癒える日も来るかもしれない。
「ありがとうね」と、まひろは言った。
「なにが?」と、不思議そうな顔をして、義弟は言った。
「お父さんと、よろしくやってくれて。その調子で頼むわ」と、彼女は言った。弟はにっこりと微笑んで頷いた。兎の飼育の引継ぎのような光景だった。
「ところで。姉さんは誰に復讐するの」と、義弟は言った。
まひろは唇を結び、緘黙の部屋に入った。部屋の中は、割れた酒瓶や破れたぬいぐるみでいっぱいだった。それら全てをひっくり返してみても、答えは現れなかった。わたしは誰に復讐したいのだろうか。と、もう一度思った。また、だんまり病と呼ばれるのもしゃくだったので、まひろは質問を質問で返した。
「あなたにはいないの。復讐したい相手」と、まひろは言った。
「そりゃ、いるよ。数え切れない。陰口や攻撃だって、散々受けたし。おれにしたって、怒りも嫉妬を抱えてるし」と、義弟は言った。
「でも、復讐にとらわれてる人間の表情じゃないね。きみの顔には、影がない」と、まひろは言った。光と影の境界線が、義弟と自分を隔てていると思った。
「そういうの、たまに言われる。闇がないから、アーティストには向かないって、部活動の顧問の先生は言ってたな。おれはそうは思わないけど」と、義弟は言った。
「闇あるの?アートしたい?」と、まひろは言った。
「わかんないな」と、義弟は言った。考えるよりも先に、彼は喋った。「彼女は可愛いし、友達は愉快で優しい。身体を動かせば苛々は振り切れる。そんで疲れたら好きなもの食べて眠ればいいし。スパイダーマンは常に新作が最高だし。狂おしく好きなバンドも二つもあるし。新しい父さんはいい人だし。いや、姉さんもね。絵を描いたり、キャンプしたり、楽器を演奏したりもしたい。あと、花言葉を二千個覚えて花を見たら瞬時に言えるようになりたいし、北京ダックとか食べてみたい。酒はあんまり強くないけど、オクトーバーフェスにも行ってみたいな。あと一人暮らしを始めたら、アヒルを飼ったりしてみたい。一緒に水風呂に入るんだ。あとこの間、彼女に勧められて〈たのしいムーミン一家〉を読んだんだけど、とても面白かったから続きが読みたいな。ほらね。復讐に割く時間がないんだよ。でもアートはしたいな」と、義弟は言った。まだまだ挙げられるけれど、この辺にしておく。という顔だった。
不意にまひろは、無数の自分が目の前を横切った気がした。それは、今まで関わってきた全てのひとが見た自分であり、すべてのまひろは、一人残らず違う姿をしていた。
「レオナルド・ディカプリオのインタビューでね。こんなエピソードを読んだよ」と、まひろは言った。「ある日、少年レオは気づいたんだって。眼を見つめてにっこり微笑めば、殆どの人間は自分に恋をすることに。そんな世界って想像できる?」
「同じ世界に暮らしているようでも、レオとおれと姉さんでは、全く違う世界を見ているんだろうな」と、義弟は言った。
「ボロディアンカの善良なリンゴ農家と、日本国の首相と、SMクラブで働く優しいキックボクサーの見る世界も違う」と、まひろは言った。そういう意味では、すべての異なる世界が同時に存在しているのだな。と、彼女は思った。
父親の近況。互いの軽さと重さ。違う世界を見ていること。その無限性。を認め合ってしまうと、それ以上話すこともなくなり、まひろは「では」と、言って図書館に戻ろうとした。荷物と共にバイクに乗って、別の町の図書館に移動し、この図書館の利用はその日を最後にするつもりだった。
「彼女さんによろしく。かわいらしい人だね」と、まひろは言った。
「その彼女から〈お腹が空いた〉とメッセージが届いた」と、スマートフォンを見ながら、義弟は言った。
「図書館の裏手の袋小路の奥にエスニック料理屋があって、そこのビリヤニがすてきに美味しいよ」と、まひろは言った。嘘だった。かつて彼女がその店で食べたビリヤニは、発祥地であるインド・ムガル帝国の歴史を冒涜しているに等しいまずさだった。
「三人でごはん食べに行かないかって。彼女は言ってる」と、義弟は言った。
「あなたのかわいい彼女。ポメラニアンに似てるって言われたことない?」と、まひろは言った。
「わん」と、背後から声がした。振り向くと、義弟の恋人が黒目がちな眼をぱっちりと開き、犬の前足に模した手を胸の前に掲げ、舌を垂らしてへっへっへとポメラニアンの形態模写をしていた。
「気をつけたほうがいい。こう見えて嚙みつくんだ」と、義弟は言った。
「わんわん」と、ポメラニアンは言って、唇を三日月の形に歪ませて笑った。よーしよしよしと言って撫でてやるべきか、ステイと命じた隙にその場を去るか迷った結果、まひろは曖昧な微笑みを浮かべて義弟の恋人を見つめた。
「あの、いっしょにごはん食べに行きませんか」と、ポメラニアンは言った。尻尾がなくても、それを振っていることが相手にわかるような笑顔だった。
「ええと。ふたりの邪魔はしたくないな」と、まひろは言った。
「姉さん。靴下が左右違うね」と、義弟が言った。
「ほんとうだ。靴下が左右違う」と、ポメラニアンは言った。
「わたしの考えを言ってもいい?」と、まひろは言った。義弟は頷いた。
「そういう憎しみの入る余地のない生き方自体が、きみの復讐なのではないかな。忘却こそ、最大の復讐であるって言葉があるよね」と、まひろは言った。
「そうかもしれない。だって、憎んでしまうのって、負けた気にならないか。相手の思い通りになってしまうというかさ」と、義弟は言った。
「そうも言ってられないのよ」と、冬のつむじ風よりも冷たい声色で、まひろは言った。いつか彼が、自分の意思ではどうにもならない憎しみに襲われた時、どのような部屋に逃げ込むだろうか。と、思った。一方で、きっと、この子は捕まらないだろうな。とも思った。まひろには真似できない心身の軽さによって窓から飛び出し、飄然と憎しみから逃げ切ることだろう。仮に一時捕まったとしても、彼は自分と違って魔除けを持っており、それをかざすことで憎しみとの同化を拒むことができるだろう。
自分の持っていないものばかりを持つ義弟を見ながら、まひろは嫉妬から一握の残酷さが産まれて、こいつを傷つけろと鳴くのを感じた。だが、義弟の持つ魔除けの効能によって、その鳴き声も長くは続かなかった。
「きみって軽いね」と言って、まひろは諦めるように、ため息を吐いた。
「姉さんは重いなあ」と、義弟は言った。
「〈おまえが深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ〉って聞いたことある?」と、まひろは言った。
「この間、授業で聞いたよ。ニーチェだ。〈怪物と闘うものは、自らも怪物にならぬように気をつけろ〉だっけ」と、義弟は言った。
「どう思う?」と、まひろは言った。
「みんな、なりたいものをじっと見るんだな。って思うよ。おれはそういうのは苦手だ。何かじっーと見るのはね。ましてや嫌なものを。姉さんとはちがう」と、義弟は言って、目の前を通り過ぎる散歩中のシェパードに、また笑いながら手を振った。
「ねえ。おとうとくん。いちいち一言多いのね」と、まひろは言った。
「見なくていいんだよ」と、義弟は言った。「見るからそうなるんだ」