(1)

 ぼくの住むサービスエリアは、海のない町のはずれにあって、家の前には片道二車線の広い街道が通っている。
 ぼくは毎朝、小さな木の椅子を持って〈ひまわり〉と彫刻された看板の隣に座る。東を向けば朝日の昇る方角に空を閉じる程に巨大な山脈があり、山を越えると過去の町に着く。西を向けば落陽の方角に地平線までまっすぐに続く街道が伸び、路の果てには多くの人たちが暮らす未来の町がある。
 その中間に挟まれたサービスエリアの周りは、持ち主のいない枯れた麦畑が広がっており、点在する家の殆どは住民のいない廃屋だ。
 多くの人々は、この何もない町を通過して未来の町に向かう。たまに観光気分で過去を愛でに向かう人々もいるが、それでも人々は概ね未来を目指して街道をゆく。
 この町の人々も、大人になると町を捨てて、未来へ向かう。僕の父さんも母さんもそうだったし、兄さんもそうだった。逢ったこともないおばあちゃんもそうだったらしい。
 家族のなかで残ったのは、ぼくとおじいちゃんのふたりだけだ。

 おじいちゃんは町に訪れる観光客にスポーツドリンクや軽食やガソリンを売ったり、たまに車やバイクのメンテナンスをして暮らしている。ぼくはもう十六歳だけど、そのどれもうまくできなくて、敷地の入口の〈ひまわり〉と彫刻された看板の傍の小さな椅子に座って、街道を走る車やバイクやロードバイクや空を見ている。
 サービスエリアの敷地は広く、殆どが乾いた砂地だ。風の強い日は、砂埃で視界が巻き上がって視界が塞がれるほどだが、概ねの日々、空と地平線はのどかだ。敷地の中には、お客さんのためのカフェテリアがあり、そこからは、おじいちゃんが植えた小さなひまわり畑とハーブ園が見える。敷地の中には二つの建物があり、ひとつはぼくらが〈小屋〉と呼んでいる調理場兼、ぼくの部屋。ぼくらはここで料理して、お客さんに提供する。もう一つはぼくらが〈納屋〉と呼んでいる、物置兼おじいちゃんの部屋。両方とも古い木造だけど丈夫な作りで、それぞれ四人家族とペットの子犬がお互いにぶつからないで暮らせるほどに広い。何もないサービスエリアだけど、広さだけはあるというわけだ。
「おい、ひまわり。朝めしにしよう」とおじいちゃんが言う。ぼくの名前はひまわりじゃないけど、その辺はもうどうだっていい。父さんと母さんがぼくに付けてくれた名前を、おじいちゃんは好まなかったようで、ふたりがいなくなってしまってからほどなくして、ぼくを「ひまわり」と呼ぶようになった。ぼくはひまわりって名前じゃないよ。と、何度か説明したけど、おじいちゃんは聞かなかった。おまえはいつも何故か太陽の方を向いているから、ひまわりでいいんだ。それから、馴染みのお客さんたちも、だんだんとぼくをひまわりと呼ぶようになって、ぼくもそれでいいやと思うようになってしまった。
 金色の朝日が、山の彼方から降ってくる。あれが毎朝降ってくる理由が、ぼくにはわからない。
 朝の光のなかで、ぼくとおじいちゃんは朝食を食べる。パンとハム。チーズ。レタス。サンドイッチ。おじいちゃんの作る朝食はいつもサンドイッチだ。
「挟むだけっていうとこがいい。はじめてサンドイッチを作った奴は、そうとうの面倒くさがり屋だったんだろうな」とおじいちゃんは言った。
ぼくは水を。おじいちゃんはアイスコーヒーを飲む。
 街道の向こう、小麦色に枯れた畑の上空を、渡り鳥たちが飛んでいく。
「鳥だ」とぼくは言う。おじいちゃんはもぐもぐと口を動かしながら「鳥だな」と言う。
「何処へ行くのかな」とぼくは言う。
「ここではないところだろうな」とおじいちゃんは言う。ぼくは考える。ここではないところが、ぼくにはわからない。
 産まれてからずっと、ぼくはここにいるのだから。ぼくのなかに。

(2)

 朝食を食べ終わる頃、山を越えてやって来たベイブのトラックが、砂埃をたてながら、サービスエリアの敷地に入ってくる。開け放したトラックの窓から、野球中継が流れている。「人生は、野球があれば最高だ」が口癖の運送屋のベイブは、太い腕をぼくとおじいちゃんに振っておはようの挨拶をする。
 牛乳、酒、調味料が合わせて十リットル。食料品が十五キロ。生活用品が少々。三人がかりで小屋の前まで運ぶ。アイドリングするトラックの開け放した窓からラジオの野球中継が大音量で響いていて、打撃音が鳴るたびにベイブは「あうっ!」だの「ふぉおっ!」だの叫んでのけぞる。ベイブっていうのはおじいちゃんが大昔のスラッガーから拝借して付けたあだ名だけど、ぼくはMJって呼べばいいと思っている。昔テレビで見たマイケル・ジャクソンの動きにそっくりだから。本人にそう伝えたこともあるけど、ベイブはマイケル・ジャクソンを知らなかった。それどころか、どこのチームの選手だ?おれが聞いたことないってことは二軍選手か新人か?ポジションは?と訊き返された。
 荷をすっかり運んでしまうと、ぼくは納屋からグラブを二つ出して、ひとつをベイブに渡す。ベイブはグラブをはめると、作業着のポケットから軟球を取り出して、まず空に向かって放り投げる。終日、全身を運送と野球のために使い続ける全身これ強靭な丸太のようなベーブの放った球は、太陽に吸いこまれるようにあっという間に小さくなる。ぼくは球を目で追わず、後ずさりをする。昔、あれを捕ろうとして怪我をした。太陽の光の中に埋もれた軟球をぼくは見失い、それは構えたグラブではなく、ぼくの脳天を直撃して、その場で気を失った。あの時は太陽にがつんと脳天を殴られたのかと思った。
「ベイブ。おはよう」とぼくは言った。
「ひまわり。おつかれさん。いい天気だな」
トラックのラジオから、また鈍い打撃音が聴こえて、ベイブが額を押さえてのけぞり、また「ふぁおっ!」と叫ぶ。「ちくしょう、同点だ」頭を抱えて悔しがってるベイブの数歩後ろに、やっと空から軟球が落ちて来る。ぼくはスリーバウンドした軟球をグラブに入れ、ベイブに放る。「ゆっくりスライダーいくぞ」と予告してベイブは投げ返す。速い球や、変化球を投げる前は、ぼくが怪我をしないように、ベイブは球種を予告してくれる。「百三十キロストレートいくぞ。胸の前でかまえろ」とか「スローカーブいくぞ」とか「ゴロ行くぞ。ショートバウンドで捕れよ」とか。ぼくは予告に従って、構えて、捕球する。
「だいぶキャッチがうまくなったよな。ひまわり。今度、試合に来ないか。ファーストだったらばっちりだぜ」とベイブは言って、またボールを放る。
「ぼくは、あんまり野球好きじゃないよ。フライも捕れない。昔、捕り損ねて怪我しただろ」
「あれはひまわりが太陽を見すぎたんだよ。あの頃はまだ、フライの捕り方を教えていなかったしな」
「それにルールも全然、わかんないよ」
「そうか。それはそうと、ひまわり。バット欲しくないか」
ぼくは首を振る。
「バッティングは嫌いか?たのしいぞ、もっと野球が好きになるぞ」とベイブが言う。
「キャッチボールが好きなんだ」とぼくは言う。
 ぼくが投げ損ねたボールに向かってベイブは空を飛ぶよう跳躍し、見事に捕球する。ベイブの動きは、魚をかっさらうウミネコみたいに鮮やさだ。捕ったボールをポケットに入れて、グラブをぼくに返すとベイブは「ひまわり、冷たいお茶をくれ」と言う。うん、とぼくは答える。小屋に戻って、大きめのグラスに氷を詰め、輪切りのレモンを二つと、ちぎったミントの葉を入れる。グラスのなかで、氷たちが涼しい声で鳴く。トラックの前で待っていたベイブにグラスを渡す。ベイブは喉を鳴らして、レモンティーを一息に飲みほす。トラックに乗り、窓越しにぼくに硬貨を支払う。
「またな、ひまわり」とベイブは言う。トラックの窓から木製のバットをするすると差し出す。仕方ないので、ぼくは受け取る。
「次はバッティングの練習をしよう。いいか、ボールを打つときは目を離すな。人を打つときは目を見るな。だ。忘れるなよ」
「ひとなんか、打たない」とぼくは言う。ベイブは笑って、ぼくの頭をくしゃくしゃと撫でる。ベイブの手はとても大きくて力強い。
 砂埃をたててトラックが去っていく。遠くからまたベイブの「あおっ!」という叫び声が聴こえ、ぼくは一回だけ素振りをする。

(3)

 ぼくは発泡スチロールの空箱を水で満たし、その中に揺れる夏の太陽をじっと見る。冷凍庫から出したバケツいっぱいの氷と、ベイブの運んできてくれたミネラルウォーターやソーダやジンジャエールや瓶ビールを水の中に沈める。街路樹で羽化した蝉たちの鳴声が重なってあたりに響き渡る。
  ぼくは〈ひまわり〉と彫刻された看板の隣の椅子に座って、街道をゆく車やバイクを見る。おじいちゃんが傍に来て、あとでたまねぎを炒めてくれるか。とぼくに訊く。うん、わかった。とぼくは答える。お客さんに出すカレーやトマトソース用のたまねぎだ。あれは一時間以上炒めなくちゃならない。
 「あとで」という時間になるまで、ぼくは発泡スチロールの中の瓶の群をじっと見つめる。水面の太陽が引き裂かれて、ひとつひとつの瓶の中に閉じ込められている。じっと見ていると、ぼくも一本の硝子瓶になってしまった気がする。ぼくと硝子瓶の違いが、ぼくにはわからない。目の前の街道を、車やオートバイやロードバイクが、すごいスピードで走ってゆく。ぼくはそのエンジンの音、ひとつひとつに耳を澄ます。
 その中の一つ、遠くから聴こえた軽快なバスドラムみたいなエンジン音がだんだんゆっくりになって、ぼくの傍で停まる。顔を上げると、とても怖い眼をした若い女があちこち傷ついたぼろぼろのオフロードバイクに跨り、クラッチレバーとブレーキレバーを硬く握ったままぼくを見下ろしている。歯を食いしばっていて、一目で何かに怒っている人だとわかるが、ぼくとは初対面なので一体何に対して怒っているのかはわからない。
「こんにちは」と、ぼくは挨拶をする。彼女が何か言う。エンジン音のせいで聞き取れなかったので、わかりません、とぼくは言う。彼女はエンジンを止めて、怒鳴る。今度は聞き取れた。
「あたしと同じ顔をした女をみなかったかなあ?」
「見ていません」とぼくは答える。彼女は舌打ちをして、口の中だけで何かをぶつぶつと呪う。
「でも、多分この街道をまっすぐ行けばいると思いますよ」とぼくは言う。
「はぁ?」と彼女は言う。とても不機嫌そうに。「なんでそんなことわかんの?」
ぼくは看板を指さす。
「ひ・ま・わ・り」と彼女は看板を読む。
「その下です」とぼくは言う。
「↑未来↓過去」と彼女は看板を読む。
「お姉さんは街道を未来のほうから来ました。過去のほうへまっすぐ進むと、山があります。山を越えると、過去の町に出ます。そこには過去のあなたがいると思います」
「まじか」と女は言う。ぼくは頷く。
「でも、ここから過去の町に行くには、あの山を越えなきゃならない」とぼくは言う。
 ぼくらは東の方向、看板の矢印が〈過去〉と示す方角を向く。空の半分を塞ぐほどに巨大な山稜が、ぼくらと彼方を遮っている。
「山は険しいし、わけのわからないバケモノでいっぱいなんです。だからお姉さん、行くのはやめておいた方がいいでしょう」とぼくは忠告する。女は産まれてはじめて喋る犬を見たかのように、まじまじとぼくを見た。
「きみ、なんなの?」と女は言う。
「ひまわり」とぼくが答えると、女ははじめて笑った。麦茶とウィスキーを間違えて飲んだときのおじいちゃんみたいに咳き込んで。
「きみ、自分の名前を彫った看板の隣で、ドリンクの売り子をしているの?」
「ちがうよ」とぼくは言う。女が笑ったので、思わず口調が砕けた。
「ひまわりっていうのは、この場所の名前。それから、なんか面倒になってぼくの名前にもなった。ぼくの名前と場所の名前が混ざってしまったんだ。だいたいがおじいちゃんの仕業」
「だめ。ぜんぜん、わかんない」と女は笑いながら言う。ぼくは発泡スチロールの中の氷を手でかき混ぜて、飲み物を勧める。
 それで、女はやっとバイクから降りる。

 女はアカシアと名乗った。ぼくはお客さん用の椅子を彼女に勧め、ジンジャーエールの栓を抜いた。炭酸が空に抜けていく音が響く。アカシアはぼくの隣に座り、一息でジンジャーエールを瓶の半分も飲み干す。ところどころ穴の開いたインディゴのジーンズとパンクバンドのロゴのプリントされたTシャツという出で立ちで、ひどく痩せていた。脱色された赤い髪は錆びた包丁で切ったみたいにぼさぼさで、化粧はしていなかった。真っ白な顔のなかで、色素の薄い眼だけがやけにぎらぎらと大きく開いていた。
「ありがとう。脱水でくだばるとこだった」とアカシアは言った。Tシャツの背中が、汗で濡れてまだらを作っている。ぼくはまた、街道を走る車の残像を眺める。未来から過去へ。過去から未来へ。たくさんの人々がすごいスピードで行き来している。
「かっこいいバイクだね。YAMAHAのセロー250だ」とぼくは言う。
「よく知ってるね。バイク好きなの?」
「バイクのカタログを読むのが好きなんだ。特にYAMAHAのバイクのことなら何でも知ってる」
「ねえ、ひまわりは何歳?ここで働いているの?」と、アカシアが訊く。
「十六歳。働いてない。ここはぼくたちの家なんだ」
「十六?ずいぶんちっちゃいね。ごめん、十一歳くらいかと思った」
「よく言われる。成長が止まってるんだ。おまえらしいなっておじいちゃんは言ってた」
「ふうん。あたしは二十五」
アカシアはまたジンジャーエールをあおる。勢いよく喉を鳴らして、炭酸を流し込む。飲んでる最中に何か思い出したのか、眼に憎しみが戻ってくる。
「ねえ、あの山が危険だって言ったよね。バケモノがいるって。ほんとう?」
「ほんとうだよ。人間みたいで人間じゃなくて、バケモノみたいで実は人間って感じ。全部、山で遭難したり、感染にあったひとの成れの果てなんだ。ゾンビ映画観たことある?」
「だいすきだよ。二十本くらいは見てる」
「ゾンビのもっと凶暴でタチの悪いやつだって思って。そんな軽装に丸腰、どうなるかわかるでしょ」
アカシアは舌打ちをして、足元の石をブーツの底で踏みつぶし、しかもぐりぐりと地中に埋める。そして、そういう癖のある狂犬のように、靴底で石を何度も地面を踏む。
「アカシアは、自分と同じ顔をした女をさがしてるの?」と、ぼくは訊く。アカシアの顔から表情が消える。たった今製造されたマネキンのような顔でぼくを見る。すぐに表情が戻ってくる。さっきまでのように無邪気な笑顔ではなく、焼けた鉄で作った憎しみを被っているような顔。
「そう。あたしはそいつを憎んでるの。だから、ぶち殺しに行くの。あたしが死ぬか、そいつが死ぬか。どちらかしかないんだよ。あたしは奴を絶対にぶち殺す」
「自分を?」
「過去の自分をだよ」
 たまに、こういう人たちがいる。過去の町へ行って、過去の自分や他人を探し出し、襲う人たち。でも大抵は、山で遭難して死ぬかバケモノになる。運良く山を抜け、過去の町で自分と再会しても、返り討ちにあう人も多い。成功したとしても、再び山を越え戻らなければならない。
「やめておいたら」とぼくは言う。「いいことないよ」
「あいつがいなくなれば、あたしは生きられるんだよ」とアカシアは叫ぶ。その瞳の中身が漆黒の炎に塗りつぶされ、ぼくの姿は消える。
「今だって生きているよ。バイクだってかっこいいし」とぼくは言う。
「今は違う。ぶすだし、傷痕があるし、会話は下手で、人の眼は見れない。才能はないし、友達もいない。貧乏だし、モテないし、話しかけられもしない。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。こんなあたしじゃ生きていないも同じ。いなければいいの。こんな奴は」
 ぼくは麦畑の彼方で廻る風車を眺める。汚れた羽がゆっくりと廻り、ぼくはその回転に合わせ足踏みをする。ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズを心の中で歌う。この歌を歌うと、一曲分、空が広くなる。隣でアカシアの呪いが続く。片耳だけで聴いていたけど、自分が今の自分であることが許せないので、過去の自分を殺して新しい自分になりたい。みたいな話だった。話の中で時折、今の自分と過去の自分を混同している。
「こんなはずじゃなかった。許せない。間違ってる。どこが苦しいのかわからない程苦しいし、誰が憎いのかわからない程憎いし、なにもかもが怖くて面倒くさい。こんなあたしにあいつがしたんだ。体と心が強張って、あちこち痛い。叫びだして当たり前なのに、どいつもこいつも静かにしてろと言う。愛しているなんて言ってたやつから順に、あたしを煙草の吸殻を捨てるみたいに捨てる。あたしは愛する方法や勇気をもてない。どうしたら捨てられないかも教えてもらえなかったから、あたしはずっとそれを頑張って試していたのに失敗しかしない。そもそも、愛という概念がわからない。あたしはそれを手に入れるべき時に手に入れられなかった上、卑怯な奴らに奪われた。愛って何?ぜんぶ嘘じゃない。それはあるの?ないの?なんなの?全部あいつが悪い。だから絶対にぶっ殺してやらなくちゃ。あいつもそれも望んでいるにきまってる。あたしも。ねえ。ねえ、ねえ。ねえ、ひまわり。それビートルズだね」
 ぼくはアカシアのほうを向く。自分でも気づかない間に口笛を吹いていた。アカシアの瞳のなかにぼくの姿が帰ってくる。
「なつかしい歌」とアカシアが言う。
沈黙。しばらくの間、ぼーっとぼくを見ていたアカシアも、口笛を吹きはじめる。ぼくはメロディを。アカシアはベースラインを吹く。吹き終わってしまうと、ルーシーを追って二人で空を見上げた。
「ねえ、知ってる?」と言って、アカシアはルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズの話をする。「この曲が発表された時、マスコミは曲の頭文字から、LSDの幻覚を歌うアシッドソングだと憶測して騒いだ。でも実際は、ジョンは息子が保育園で描いた児童画からインスピレーションを得て作ったんだって。ルーシーはダイアモンドといっしょに空の中」
「きれいな歌だね」とぼくは言う。アカシアも頷く。
「万華鏡の目をした少女、っていう幻想的な歌詞に憧れたな。そんな感じのカラーコンタクトも探したし。よく絵を描いてみたりした。万華鏡の目をした少女。あたしもなりたい。それで空で遊ぶのよ。しかも辛い事なんて何一つないの」とアカシアは空を見て言う。
「空に。きっといるんじゃないかな」とぼくは言う。ぼくはここで毎日、空を眺めてるけど、あそこにはなんだっているんだ。
 アカシアは空を見る。それから、また表情を失くして沈黙する。アカシアが何を見ているのか、ぼくにはわからない。微笑みと憎しみのどちらにいけばいいのか迷う悲しげな横顔が、ぼくの隣でただ沈黙する。
「今日は山へ向かうの、やめとくよ。ひまわり。心配してくれてありがとう」諦めたように、アカシアは言う。
「ねえ、アカシアはあの路の果てから来たんだよね」看板が未来と示す街道の果てを指さして、ぼくは訊く。
「そうだね」とアカシアは答える。
「どんなところ?」
「別に。クソみたいな場所よ。クソみたいな未来。それをなんとかするために、あたしはあたしの顔をした女を殺したかったんだ。でも、今日のところはもう帰るよ」
 アカシアは立ち上がり、セローに跨ると、キーを回し、エンジンに火を入れる。クラッチを乱暴に繋ぎすぎだし、アクセルを開けるのが急すぎる。前輪を浮かせ、ものすごい音を立てながら、アカシアは去って行く。ぼくはジンジャーエールの料金を請求することを忘れていたことに気づいた。小屋から出てきたおじいちゃんが、ひでえ運転だな。長生きできないぞ。と言う。そうだね。とぼくは言う。アカシアのバイクが、ものすごい速さで遠ざかる音が響き渡る。また会うことになるだろうな。と、ぼくは直感で思う。排気音がまだ怒り狂っている。

(4)

 午前中は、ゆっくりと涼しい風が吹いていて、ぼくは看板の前に坐り、ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズを空に映写して眺める。時折、街道をゆくドライバーやライダーがガソリンやドリンクを買いに来るのを案内する。
 昼食は、ぼくがペンネ・アラビアータを作った。おじいちゃんとふたりで、オープンカフェのテーブルに着いて、辛いペンネを食べる。
「食べ終わったら、食器を洗ってから、野菜を炒めるよ」とぼくは言う。
「ああ、たすかるよ。ひまわり。あの暴れ馬みたいなバイクに乗った女はなんだ」
「アカシアっていうお姉さん。過去の町へ行って、自分を殺したいんだって言ってた。すごい憎しみが深い人だったけど、いっしょに口笛を吹いてくれたよ。でも、ジンジャーエールの代金をもらうのを忘れた」
「そうか。次来ることがあったら、貰うんだな。あと洗車と、靴洗浄をすすめてみろ。気分がよくなって、気が変わるかもしれないぞ」
 敷地に入ってきたトラックがクラクションが鳴らす。おじいちゃんは口についたトマトソースを腕で拭いながら立ち上がり、トラックに近づき、窓越しに運転手と何か会話する。
 トラックの運転手は煙草を持った手を窓からだらりとぶら下げ、親指で運転席の扉を忙しなく叩いている。おじいちゃんと運転手が、窓越しに何か会話している。エンジン音と停車時のビープ音が大きすぎて、運転手はおじいちゃんに向かって大声で叫ばなくてはならない。おじいちゃんは横隔膜の動きを吝嗇して、大声で返さない。終始全く表情を崩さず、普通の声と身振り手振りでなにかを伝え続ける。遠いのでぼくの座るテーブルからは、ふたりが何を話しているのかは聞き取れない。運転手は大声で叫ぶ度に自分の煙草の煙でむせる。やがて疎通が図れたのか、おじいちゃんは小屋に入って、パンにアラビアータのソースを挟んだサンドイッチを作り、冷蔵庫から緑色の小瓶を取り出すと戻ってくる。キッチンペーパーに包んだサンドイッチとノンアルコールのビールを運転手に渡す。運転手がまた叫ぶ。
「ふざけんな。おれが頼んだのはノンアルじゃねえ。ちゃんとしたビールだよ」
 しばらくの間、また二人は話す。わかったよ!なんだちくしょう!と吐き捨て、運転手は代金を支払う。トラックは街道へ去ってゆく。去り際に運転手は、看板の傍の、氷水とドリンクの入った発泡スチロールに向かって、吸っていた煙草をぷっと吐き捨てる。煙草の火が着水すると同時に音をたてて消え、茶色い葉とニコチンが水の中に広がる。おじいちゃんはドリンクを発泡スチロールから引き上げると、汚れた水をすべて地面に捨てる。テーブルに戻って来て、アラビアータの続きを食べる。
「けんかしたの?」とぼくは訊く。
「けんかはしてないよ、ひまわり。ぼけなすが、昼飯にビールを付けて持ってこいと言いやがってな。断っただけだ。運転手に酒は出さない」
ぼくとおじいちゃんしか知らないことだけれど、納屋の中にはたくさんの武器がある。猟銃、拳銃、鎖鎌、ヌンチャク、ダガーナイフ、催涙スプレー、ただ殴るだけを目的におじいちゃんが鋳造した棘の付いた鉄の棒。その他いろいろ。でも、おじいちゃんは人に対して殆ど武器を使わない。
「おれも昔は怒りっぽかった。何に対しても怒ってた。怒りが本体で、おれはそのアクセサリーって感じだったよ。多分、今のも昔だったら怒っていただろうな」とおじいちゃんは言う。
「今は?」とぼくは訊く。
「怒らないわけじゃない。それは多分無理だろう。だが、怒らないように努めるようにはなった。家族が、おれたちだけを残して戻らなくなってしまった頃からだ。それに、ひまわり、おまえを見ているうちに学んだこともある」
「何を?」とぼくは訊く。
「あえて必要以上にものごとを変えようとしないという態度だ。そういう種類の強さもある」
大体同時に食べ終わって、ぼくとおじいちゃんはお互いに挨拶をする。
「ごちそうさまでした」とぼくらは言う。
 食後に、ぼくはレモン水を。おじいちゃんは瓶ビールを飲む。

(5)

 一時間くらい昼寝をするので、なにかあったら起こしてくれ。と言って、おじいちゃんは納屋に入る。ぼくは野菜を炒めるために、小屋のキッチンへ入る。
 たまねぎが目が沁みないように、バイクに乗るときに使うゴーグルを装着して、たまねぎ十個、にんじん三本、セロリ三本をスライスする。ラジオを点けると、過去や未来で起こっている悪いニュースばかりが流れる。ぼくは異国の電波にチャンネルを合わせ、何語なのかわからないポップスを聴きながら包丁で野菜を刻む。
 三つのボウルに、微塵切りにした野菜を入れる。たまねぎを大鍋に入れて、オリーブオイルをどぼどぼかけて、一時間半ごく弱火で、木べらをつかって攪拌しながら炒める。放っておくと焦げるので、絶えずかき混ぜていないといけない。せっかちで待つのが苦手なおじいちゃんはこれが苦手だ。たまねぎが飴色になったら、にんじんとセロリの微塵切りを加えて、さらに一時間炒める。すべてが終わると、野菜は飴色の一塊になる。これはカレーやトマトソースの下味に使える。
 おじいちゃんは〈ひまわり〉でカレーを食べておいしいと言ったくれたお客さんに言う。「孫が野菜を炒めてる。ほっといたら何時間でも炒めてる。もしかしたら一生やれるかもしれない。だからうちのカレーは美味い。野菜もたっぷりだしな」
 野菜を炒めるぼくの目の前には開いた出窓があって、サービスエリアの敷地が矩形の枠に収まっている。とても小さな世界が。ここで長い時間をかけて野菜を炒めるたび、ぼくは不思議なきもちになる。この窓のなかの小さな世界が、あの無限に近い広い世界なのだと結びつけることに不自然を感じる。ぼくと窓は余りに小さく、世界はあまりに広い。

 窓の中の世界をじっと見ていると、サービスエリアの敷地の入口に小さな少女のような人影が見える。紙人形のように、ふらふらとした足取りで歩いている。ぼくはコンロの火を消し、外に出る。出入りする車にぶつかったら大変だ。
 人影に近づいてこんにちわ、と言うと、人影はぽかんとした顔でぼくを見る。少女のように見えた小さな人影は、白髪のおばあさんだった。くりんとした大きくて丸い目が、不思議そうにぼくを見上げる。絹糸のように細くて軽そうな白髪が、風の中を泳いでいる。
「あの、わたしどこかに行かなくちゃいけないのだけれど、どこに行けばいいのかわからなくなってしまって」
少女のように透き通った声で、おばあさんは言う。薄手の白いワンピースを着ていて、その上に若葉色をした長袖のカーディガンを羽織っている。病院の待合室によくある、ビニールのスリッパを履いている。
「何処行かれる途中だったのですか」とぼくは言う。おばあさんは中空をぼんやりと見る。そこに答えが落ちているかのように。
「確かね。子兎を飼っていたのよ。それで、緑色の車に乗ってたの。古い車。いつも煙草臭かった。でも、私は気にならなかったわ。ともだちだものね」
ぼくはお客さん用の椅子の中で、一番重い背もたれ付きの椅子を運んで、おばあさんに座ってもらう。座るときに膝が震えていたので、ぼくは手を握り腰に手をあてて着座を手伝う。
「そのひとに会いに行かれるのですか」とぼくは訊く。
「そうねえ、どうだったかしら。あなたみたいなひとだったわ。優しそうで。でも冷たくて。わたし、大好きだったのよ」
うすものの様にかぼそいおばあさんの声が、不思議と淀みなくぼくの鼓膜を揺らす。
「なにか飲みますか」とぼくは言う。
「ありがとう。なんでもいいわ」と言って、おばあさんは微笑む。ぼくはおばあさんの目の前に軽いサイドテーブルを運ぶ。新しく氷水を張った発泡スチロールの箱からカルピスウォーターを出して、グラスに注ぐ。ビーチ用のパラソルを持ってきて、地面に突き刺し、おばあさんに日陰をつくる。
 ぼくも椅子に腰掛け、ふたりで空を眺める。青い空を雲が流れてゆく。太陽の光が柔かな琥珀となって、街道の向こうの麦畑に落ちてゆく。おばあさんは午睡に落ちかけた少女のように、眼を細めて遠くを見ている。
「あの、ここはどこだったかしら」とおばあさんは言う。
「ここはひまわり。サービスエリアです」とぼくは言う。
「あらそう。わたしの知らない場所ね。あなた、どなたでしたかしら。お名前は」とおばあさんは言う。
「ぼくはひまわり。ここもひまわりです」とぼくは言う。話を理解しないまま、おばあさんは頷く。
「あなた優しいのね。安心だわ」とおばあさんは言う。「買い物をして帰らなくちゃ。あのひとが今日か明日、訪ねて来てくれるかもしれない。だからね、お酒とソーダを買うの。わたし、自分では飲まないけど、あのひとが呑んでいるのを見るのは好き。乱暴なんてしないのよ。殴られたり、怒られたりしたことなんてないの。静かに微笑んで呑むのよ。わたしを抱っこしながら。でも、セックスはしないの。いっしょにお話をして、歌を歌ったりするの。わたし簡単なおつまみなんかも作れるのよ。クリームチーズも買わなくちゃ。あれとクラッカーさえあればなんとでもなるもの。あれえ、あのひと、何時に来るって言ってたっけ。リリィちゃん、覚えてる?なんてわかるわけないわよね。兎なんだものね。リリィちゃんは」
 おばあさんの色素の薄い眼がぼくを見る。風が強くなり、街路樹の葉擦れの音がそよぐ。話を理解しないまま、ぼくは微笑む。
 しばらくの間、ふたりで話をして過ごす。自分が何処で何をしている誰なのかはわからない。ただ、自宅に戻って〈あのひと〉を待ちたい。というのがおばあさんのお話だった。それから、ぼくは飼っている兎のリリィに似ている。
 空を眺めながら、おばあさんの話声だけを聴いていると、五歳の女の子と話しているような錯覚に陥る。何もわからないまま、世界のすべてを信頼している少女の話を聴きながら、ぼくは少し眠くなって、うとうとする。聴いているうちに、彼女に信頼を与え、透き通った安心に留めているのは世界ではなく、彼女が〈あのひと〉と呼んでいる人なんだと気づく。だから彼女は〈あのひと〉に会いたがっているのだ。時折目を開けると、ぼくを見て微笑んでいる。ぼくも微笑みを返す。
「あのひとは、一度もわたしを見捨てたことなんてなかったわ。そんなふうに、笑ってくれるの。目が合うとね」と彼女は言う。

 午睡から目を覚ましたおじいちゃんが、頭をかきながら納屋から出てくる。ジミ・ヘンドリックスのように大きいレンズのサングラスをかけている。ぼくたちの傍まで来ると、おばあさんに向かって挨拶をした。
「お嬢さん、こんにちは」とおじいちゃんは言う。おばあさんは「こんにちわ」と応えて微笑む。
「おはよう、ひまわり。お客さんはどこだ」とおじいちゃんは辺りを見回す。
「お客さんではないよ。迷ってらっしゃるみたいなんだ」とぼくは言う。
「なんだ。迷子か。だいじょうぶだよ、心配しなくていい。ちゃんと家に帰れる」とおじいちゃんは言って、おばあさんの頭を撫でる。発泡スチロールの中からソーダの瓶を掴む。蓋を開けてごくごくと飲み、ぷはーっと息を吐く。
「ありがとう。この方、優しいのね、リリィちゃん」とおばあさんはぼくに言う。
「リリィちゃん?ひまわり、新しいあだ名か?」そう言いながら、おじいちゃんはサングラスを外す。おばあさんを見て、ああっ!と小さく叫び、頭を下げる。「大変失礼した。サングラスをかけていたせいか、その、小さなお嬢さんかと思ってしまった」動揺を隠せないままおじいちゃんは謝る。
「ほんと言うと、ぼくもそう最初は思ったんだ」とぼくも言う。
「ふたりとも、おっかしいのねえ」と言っておばあさんは笑う。おじいちゃんは照れ笑いをして、もう一度謝り自分を落ち着かせるために咳払いをする。
「あなたたち、親子かしら。とてもよく似ているし、仲がいいのね」とおばあさんは言う。
「ありがとうございます。そうだったらうれしいんですが、この子は孫で。私は祖父で」苦笑いして、おじいちゃんは言う。
「あらそうなの。わたしてっきり。でも、おふたりはとても似ていらっしゃるわね。優しそうな素敵なお顔で」とおばあさんが言う。
 おじいちゃんは、さらにわざとらしい咳ばらいをすると、ぼくの肩を抱いて、おばあさんから少し離れたところまで連れて行く。寝起きの老人のくすんだ匂いがぼくの鼻先を漂う。
「どうしたの。おじいちゃん」とぼくは言う。
「ひまわり。あの方、失禁なさっている。どうなってる?」とおじいちゃんは言う。振り向いてよく見ると、確かにおばあさんの座る椅子が濡れて、滴がぽたぽたと地面に滴り落ちている。
「ちょっと色々とわかんなくなってるみたいなんだ。どこに住んでるとか、自分が誰かはわからないみたい。でも、逢いたい人がいるから、家に帰りたいんだって」
「ふむ」とおじいちゃんは少しの間、考え込む。「なんにせよ、シャワーを浴びてもらった方がいいよな。頼むよ、ひまわり」とおじいちゃんは言う。おじいちゃんがこんな風に、ぼくに哀願するのはとても珍しい。「だってよ。おれの方が、あの方と年も近いし、なんていうか、だめな気がするんだ。脱がせたり、シャワーを浴びせたりはさ。頼むよ」
ぼくは頷く。おばあさんの横に立って、肩をそっと手を置く。とても小さな肩だ。触れた掌から、一切の緊張が伝わってこない。天使の羽と話してるみたいだな、とぼくは思う。
「すみません」とぼくは言う。「飲み物を零してしまったみたいで。よければ、シャワーを浴びて行かれませんか」
「あら」とおばあさんは言う。「でも、悪いわ」
「いえ。悪いのはぼくのほうです。零してしまってすみません。煩わしいとは思うんですけど、お願いできますか」
「煩わしいなんてことはないのよ。いいわ。行くわ」とおばあさんは言う。
 ぼくはおばあさんの手を引く。おばあさんはゆっくりと立ち上がる。二人で小屋へ向かう。足取りはとてもゆっくりで、合間にぼくは、普段は数えたりしない、電線に止まる雀の数を数える。おばあさんは相変わらず〈あのひと〉の話を続ける。
「リリィちゃん。あのひと、何時頃に来るって言っていたかしら」
「きっと、家に着いたら連絡がありますよ」
「でも、あのひと、いつも連絡なしで来るのよ。だから、わたしいつ来てもいいようにしておくの。洗濯物や本を散らかしたり、洗い物を溜めたりはしないの。あのひとは、いつもわたしを見ているんですもの。お父さんみたいに。もちろん、ほんとうのお父さんではないけど」
 ぼくらは小屋にたどり着く。おばあさんの歩みの緩慢さは、足腰が極端に弱っているわけではなく、時間感覚がとても緩やかなだけに過ぎない様だ。一歩一歩はしっかりしている。
 さっきまで野菜を炒めていた小屋の中には、甘い匂いがたちこめている。
「わたし、お料理の途中だったかしら」とおばあさんは言う。
「火は消えているのでだいじょうぶですよ」とぼくは言う。
 脱衣所に椅子を用意して、座面にバスタオルを敷く。おばあさんに腰掛けてもらう。
「脱げますか?」とぼくは訊く。
「だいじょうぶよ、脱いだ方がいいの?」とおばあさんは言う。はい。とぼくは答える。
 おばあさんはとてもゆっくりと脱衣する。ぼくは、普段は数えない壁紙の花模様の数を数える。おじいちゃんが脱衣所の外からぼくを呼ぶ。
「ひまわり。どうしよう。着替えの下着がこんなのしかなかった」
そう言って、おじいちゃんは派手なフリルの付いた紫色の女性用下着を見せる。
「それ、誰の?おじいちゃん」
「ああと、これはおれの、その、昔の知り合いが置いていったものなんだが」
「あの人の身体は小さいから、たぶんサイズが合わないよ。ぼくのトランクスや服がぴったりだと思うから、それにしよう」
「わかった。すまん」とおじいちゃんは言う。

 脱衣所に戻ると、おばあさんはすっかり服を脱いでしまっている。ぼくはおばあさんの手を引いて、浴室に入る。椅子に座ってもらって、シャワーをかける。硬いタオルしかなかったので、ぼくは石鹸を自分の手につけて、おばあさんのからだに白い泡を塗る。硬いタオルで擦ると、薄く柔らかい肌が傷ついてしまう気がしたからだ。
「ありがとう。リリィちゃんに身体を洗ってもらって、とてもうれしいわ」とおばあさんは言う。
 頭から順に、高価な陶器を洗う気持ちで、ぼくはおばあさんの身体を洗う。おばあさんはすっかり体中の力を抜いていて、すべてをぼくに預けている。左手を洗っている最中に、傷痕に気づいた。最初、ミサンガかなにかかと思った。おばあさんの細い左腕には無数の傷痕が刻まれていた。殆どの傷痕は、刃物で横に切り裂いたと思われる浅い傷痕だった。ただひとすじ、最も深い傷痕だけは、手首から肘の方へ縦に裂かれており、浅く隆起した他の傷跡とは違って、獣爪によって力まかせ抉られたかのように肉が削除されていた。
 不意に、その一番深い傷痕がぱくりと開き、暗い漆黒の穴が開いた。穴は唇のように開閉して、喋り始める。
「騙されるな。こいつは不幸な女だった」と傷口は話す。「最初の〈あのひと〉は父親だった。普段は優しかったが、くちごたえを許さなかった。優しかったのは、女が従順でいる時だけだった。くちごたえをしすぎた母親は殴られ、女を置いて家を出た。女には行くところがなかった。だから従順さを身につけ、ひとの感情を察するのも上手くなった。だが、そういう努力は女を消耗させた上に、ますます父親を逆上させた。自分がそうさせておいて、人の顔色を窺う卑屈さが許せないと腹をたてる奴もいるのだ。父親は女の細々とした小さな失敗を取り上げて、怒った。脱いだ靴を揃えていないだとか、食事の小さな食べこぼしだとかを指摘して、責めた。失敗の結果に怒りが表れるのではなく、怒りを放出するために失敗という導火線が捜されたと言っていい。吐くまで問い詰められ、最後には泣きながら何度も謝らされた。時には殴られた。女は責められないようにすべてを完璧にこなそうとしたが、すべてを完璧にこなそうとするとは何て傲慢で不遜な態度だ言われ責められた。殴った後、父親は決まって泣きながら女を抱きしめた。愛している、おまえのためなんだと言って泣いた」
ぼくは喋り続ける傷口の話を聞きながら、おばあさんの顔を見る。鏡に向かって微笑んだ顔は、まだ少女の横顔のままだ。
「第二次性徴期と反抗期を迎え、女が溜め込んだ怒りを家庭内暴力に転嫁させると、父親はあっさり家に寄り付かなくなった。女は溜まりに溜まった体内の暴力を、どんな手段を使ってでも放出する必要があった。この衝動は、嘔吐に近い。自分では止めることのできない嘔吐だ。自傷行為や不登校などといった形で、それは現れた。女自身も他者を攻撃し、他にたくさんの不登校児をつくった。十三歳の時に、はじめての恋人ができるまで、自他を問わず、暴力は続いた。恋愛は女を一時的に、しかも劇的に救った。その後、溜め込んだ怒りはすべて恋愛に注ぎ込まれたが、この女の恋愛は、殆どが父親との関係の再上映に過ぎなかった。父親と似た支配的な男に擦り寄り、顔色を窺い、苛立たせ、殴られ、最後に泣いて謝ったり謝られたりする。その繰り返しだった。すべての恋愛は毒を詰め込んだ風船が膨らんでゆく様に似ていた。最後には必ず破裂し、毒が散布され、関わる全ての人を汚した。この女も、すべての〈あのひと〉も、毒に塗れている」
 ぼくは浴室に反響する傷痕の独白を聴きながら、おばあさんの細い足を洗う。彼女の体は、洗体するぼくの手の中で余りにも軽く、傷口以外は陶器のようにすべすべしている。傷痕は喋り続ける。
「ただ、最後の〈あのひと〉だけは別だった。この女に、たくさんの花言葉を教えた男だ。その男だけはこの女を殴らなかった。女がどんなに企み、誘導し、揺さぶり、脅し、最後には泣いて叫んでも駄目だった。「どうして殴らないの?わたしを愛してないの?」と女は叫んだ。男は静かに、哀しそうに首を横に振るだけだった。にも関わらず、愛しているという主張を取り下げなかった。凄まじい矛盾が女を襲った。はじめて感じる安心は、同量の不安となって女を煽った。何度も泣き喚き、暴力を求めたが無駄だった。男はほんとうに最後まで、一度も女を殴らなかった。その男とは十年暮らした。女が、我々傷口にすべてを押し付けて正気を眩ませたのは、その男がいなくなってからだ。今や、この女が〈あのひと〉と呼ぶ男。それが父親なのか、その後にこの女を殴っていった男たちなのか、それともとうとう最後まで殴らなかったあの男なのかはわからない。その誰でもないのではなく、ただやり直せない過去の再生をしたいだけなのかもしれない。だが、どの男ももう二度と帰らない…」
「ねえ、ぼく、名前を知りたいんだ。このひとの」傷口の話を遮って、ぼくは言う。
ぱちん。と蚊を叩くような音が響く。おばあさんが自分の左手の傷口に手を当てて塞いでる。見上げると、おばあさんと、ぼくの視線が合う。その目は、さっきまでのように、少女の顔をしていない。とても硬くて重たい老婆の瞳が、ぼくを見下ろしている。
「余計なことを、言うな」
とおばあさんが言う。塞いだ傷口に対してなのか、ぼくに対してなのかはわからない。

 冷たい老婆の姿は、何度かのまばたきの中に隠れ、すぐに少女のようなおばあさんの微笑みが戻ってくる。ぼくは黙って、おばあさんの体を洗ってしまうと、脱衣所の椅子に導き、バスタオルで体を拭く。
「リリィちゃん。綺麗にしてくれてありがとう。これで何時あのひとが訪ねてきても、だいじょうぶね。でも、これ、あのひとには内緒にしなきゃ。若い男の子に体を洗ってもらったなんてね」とおばあさんは言う。再び、少女のような透き通った声で。
 汚れた下着の代わりに、ぼくのトランクスを履いて、おばあさんはころころと笑う。「サイズぴったり。男物の下着って、けっこう楽なのね。面白いわねえ」
「あの、うちにはドライヤーっていうのがなくて。お化粧の道具も」とぼくは言う。
「いいのよ。ドライヤーなんて。すぐに乾くわ。お化粧だって、うちに帰ってあのひとが来る前にすればいいもの。それに、あのひとったら、あまりお化粧する女の人が好きじゃないって言うの。自然が好きだって言うのよ。わたし、ずっとわからなかったわ。自然な自分なんて、あのひとに会うまではわからなかったのよ。あのひとにあってからも、ずっとずっと、わからなかったの」とおばあさんは言う。
ぼくたちは小屋を出る。おばあさんの柔らかい白髪が風になびく。乾いていない水分が、陽の光を反射する。
「とてもいい風」とおばあさんは微笑む。

 敷地の一角でハーブ園の前に椅子を運び、おばあさんに座ってもらう。椅子の傍にテーブルも運び、ストローを差したアイスティーを置く。
「いい香り。バジルの花が咲いてるのね」とおばあさんは言う。「花は摘んでしまわないと、葉の香りが弱くなるのよ」
「いいんです。もう十分に葉は採りましたから」とぼくは言う。おじいちゃんがホースで水を撒くと、小さな虹があらわれ、おばあさんは見とれる。ぼくは園芸鋏を使って、バジルの先端に咲いた白い花を摘む。軽く水で洗い、おばあさんの目の前のアイスティーに挿す。
「ねえ、リリィちゃん。バジルの花言葉を知ってる」とおばあさんは言う。
「いいえ」とぼくは言う。
「〈好意〉それに〈なんという幸運〉」と言って、おばあさんは得意げに微笑む。畑に植えられたハーブをひとつひとつ指さし、花言葉を口にする。
「ローズマリー。あれは〈思い出〉それに〈追憶〉。その隣はタイムね。〈勇気〉。サフィニア。〈咲きたての笑顔〉すてきよね」
花言葉を口にするたびに、少女の様だったおばあさんの声が、だんだんと低く落ち着いた調子を帯びてくる。
 未来の町の方角へ、雲が流れてゆく。ぼくは花言葉を聴きながら、おばあさんの隣に腰かけて、ぼんやりとそれを眺める。おばあさんが畑のハーブの花言葉を全て口ずさんでしまうと、おじいちゃんが拍手をする。
「ひまわりの花言葉はご存知ですか」とおじいちゃんが訊く。
「何本?」とおばあさんは言う。質問の意味がわからず、おじいちゃんは戸惑う。
「ひまわりは本数によって、花言葉が変わるんですよ。一本なら〈一目惚れ〉三本なら〈愛の告白〉とかね」とおばあさんは言う。庭の一角に並び、太陽の方を向いているひまわりの群れの数を数える。全部で十本だったが、おじいちゃんはぼくのことも勘定に入れて「十一本です」と言う。
「十一本のひまわりの花言葉。〈最愛〉」とおばあさんは言う。おじいちゃんは言葉の響きに照れて、ソーダをぐいぐい呑んで咳き込む。
「すてきね」とおばあさんが、空を見つめながらまた言う。

 しばらくの間、ぼくたちは黙る。風が身体と沈黙の上を優しく通過し、雲は未来への移動を続けている。
「なんだか、とても安心だわ」とおばあさんが言う。「でも、きっと今のことも、すぐにわからなくなってしまうのね」
ぼくはおばあさんが低い声で話し、空ではなく、ぼくの目を見据えていることに気づく。
「ぼくが覚えています。もしよければ」とぼくは言う。
「ありがとう」とおばあさんは言う。
沈黙。
「ねえ、リリィちゃん。聞いてくれる」とおばあさんは言う。ぼくは頷く。「人生はすてき。一度しかないのが、悔しい。何百回でもやり直したいくらい、人生はすてきよ。何千回産まれ変わっても二度と会いたくない奴もいるけど。それを差し引いても、すてきなの。リリィちゃん。今日は会えてうれしかったわ」
 ぼくの目をじっと見たまま、おばあさんはそう言う。少女の様に透き通った声ではなく、浴室で聞いた鉛のような声ではなく、たぶん年相応のおばあさんの声で。
 ぼくは約束通り、その言葉を覚えていることにする。無数の記憶の小箱の中から、花柄のロゴが刻まれた箱を選んでその中に入れる。鍵は掛けず〈すてき〉と書いたラベルを貼る。
 おばあさんはアイスティーを一口飲むと、微笑みながら、またハーブ畑を見る。

 小屋から出てきたおじいちゃんが地面に膝をつき、椅子に座って景色を眺めているおばあさんに向けて話す。
「失礼ながら、役所のほうに連絡させていただきました。しかるべき係の者が来て、お送りしてくれるそうですので」
「あらあら。何から何まで、もう」とおばあさんは言う。
ぼくはおばあさんの手を引いて、サービスエリアの入口まで案内する。公用車がやって来て、中からスーツを着た二人の職員が下りてくる。一人は枯木のように痩せていて、一人は樽のように太っている。
「おばあちゃん、わかんなくなっちゃたの?だいじょうぶ、今から送っていくからね」と痩せた方が言う。
「ええと、お二人はこの方とはお知合いですか」と太った職員がぼくらに言う。ハンドタオルで額に滲んだ汗の珠を拭う。
「何処からいらっしゃったのかはわかりません。迷ってらっしゃっていたので、少し休んでもらっていました」とぼくは言う。
「つまり初対面ってこと?」と痩せた方の職員が言う。
「ちがうわ、初対面じゃないの。ねえ、そうよね。リリィちゃん。私たち、とても仲がよいもの。初対面なんかじゃないわ」と少女のような声でおばあさんが言う。ええ、そうですね。とぼくは言う。おじいちゃんが職員に小声で何か耳打ちする。頷いて、職員は車のドアを開ける。
「おばあちゃん、送っていくからね。乗ってもらえる?」と痩せた職員が言う。おばあさんは、ぼくとおじいちゃんを見て、不安そうな顔をする。
「乗らなくちゃいけない?」とおばあさんは言う。
「ええと。ご自宅でどなたかをお待ちになるのでは?」とおじいちゃんは言う。
「そうね。あのひとだわ。そうだったわよね。リリィちゃん」
職員がどうぞ、と言っておばあさんの肩に手を触れる。おばあさんはそれを振り払う。ぼくの方に手を差し出す。ぼくはその手を取って、乗車を手伝う。
「なんだか、不安だわ。ねえ、だいじょうぶかしら。おとうさんは?おとうさんに連絡したりしない?」とおばあさんは言う。たすけを求めるように、不安そうな顔でぼくを見る。ぼくは少し考えてから、おばあさんの耳元に顔を寄せて質問する。
「今日の誕生花は?」おばあさんは目を丸くして、ぼくの顔を見る。不安そうだった表情が、ゆっくりと共犯者のそれになり、にこりと微笑む。
「今日は何月の何日だったかしら」とおばあさんは言う。ぼくは日付を伝える。
「今日の誕生花は、カンナ。ハナカンナとも呼ばれる、鮮やかな夏の花ね」とおばあさんが言う。職員が車のエンジンをかける。ぼくは車から降りる。どうぞ、よろしく頼みます。とおじいちゃんが言う。おばあさんが車の窓を開け、ぼくの方へ顔を寄せる。「花言葉はね〈傷口のいうことを信じすぎるな〉よ。さよなら、ひまわり。ありがとう」とおばあさんは言う。
「また、どこかで」とぼくは言う。おばあさんを乗せた公用車が、ゆっくりと遠ざかっていく。

 ぼくとおじいちゃんは、どちらともなく椅子に座ってソーダ水を呑む。おじいちゃんが空いたグラスにソーダを注ぎ、ぼくがハーブ畑からアップルミントの葉を摘んでソーダに浮かべる。
「おつかれさん。助かったよ」とおじいちゃんは言う。
「ねえ、おじいちゃん。あのおばあさんは、家に帰れるかな」とぼくは言う。
「さあな」とおじいちゃんは言う。「あとは、役所の人たちの判断次第だろう。まあ、悪いようにはならないさ」
「あのひと、過去へ行ったのかな。未来へいったのかな」とぼくは言う。
「未来だろうな。基本的には、誰もが未来へ行くんだ。たまにとち狂ったのがくるがね。朝のあの、セローに乗った娘みたいな」とおじいちゃんは言う。ぼくは未来へつながる街道の彼方を見つめる。未来。地平線の向こうの未知。
 あのおばあさんは、自分の過去のことをたくさん話してくれたけど、現在の自分については何も話してくれなかったし、知らないみたいだった。未来に関しては、一切の興味すら持っていないようだった。それでも、公用車はおばあさんを未来に運んで行った。こころは、あんなにも過去に住んでいるのに。
 おじいちゃんは立ち上がり、ぼくの肩にぽんと手を置く。
「おまえは親切だったよ。あとはおれたちの問題じゃない」とおじいちゃんは言う。
「ねえ、おじいちゃん。あの紫色の派手な下着は、いったい誰のものなの?まさかぼくの母さんやおばあちゃんのじゃないよね?」と思い出し笑いをしながら、ぼくは言う。おじいちゃんは困ったような笑顔を浮かべる。
「うん。まあな。知らないほうがいいこともあるぞ。ひまわり」とおじいちゃんは言う。

(6)

 おじいちゃんは昔、政治家だったそうだ。未来の町の議会で、どんな主張をしていたのかは知らない。おじいちゃんは、その頃のことを、あまり進んで話そうとしない。何か事件があって失職し、ひとりでこのサービスエリアに隠遁していた。
「運がいいことに、何もかも失って空っぽになったから、何もない空っぽの場所で暮らすことにしたんだ」とおじいちゃんは後になってぼくにそう言った。やがて、おじいちゃんの奥さん(ぼくのおばあちゃん)は何もない場所での暮らしに嫌気がさし、離婚して未来の町へ戻っていった。入れ替わりで、おじいちゃんを心配した両親が、当時6歳の兄さんと産まれたばかりのぼくを連れてやって来て、このサービスエリアで暮らし始めた。
 ある日、おじいちゃんとふたりでテレビの刑事ドラマを見ていると、腹の出っ張った人相の悪い政治家が、汚職だとか贈賄だとかで逮捕されていた。
「おじいちゃんも、こんなふうだったの?手錠されたことある?」とぼくは訊いた。
「手錠はされたことあるが、こんなふうではなかった。おれに手錠をかけたことがあるのは、おまえのばあさんだけだ。愛想尽かして出て行ってしまったけどな」とおじいちゃんは言った。
「政治家は悪い人なの?この間も、テレビで逮捕された政治家、見たよ。おじいちゃんはどうだったの。汚職とか、賄賂とか」
「悪い人だったよ。汚職も収賄もやった。だが、良いこともした。みんなのために働いているつもりだったし、実際にみんなが喜ぶこともした。公共事業とか、新しい法案を提案してみたりとかな。良い悪い、どっちかとは一概には言えない。ただ、全体としてろくでもなかったのは事実だ。それより最悪だったのは狡かったことだ。今思うと、あれはうんざりするな」
「狡いって?」
「いろんな狡さがあったよ。おれも狡かったし、みんなも狡かった。今になってそれに気づく。良いも悪いもない、みんな狡かったのさ」とおじいちゃんは言った。

 昔は怒りっぽかった。とおじいちゃんは言うが、それは本当だと思う。
 ぼくがものごころついた時には、おじいちゃんは怒ることを大分やめていた(と本人が言っていた)けれど、それでも、お父さんやお母さんの態度を見ていればわかった。ぼくの両親は明らかに、おじいちゃんに怯え、遠慮していた。家の中はぎくしゃくしていて、一人一人が相手の顔色を伺っている、陰湿なサバイバルゲームみたいな雰囲気があった。たまに言い合いになると、必ずおじいちゃんが勝ち、その意向が通った。権力の維持のためは、定期的に相手の言い分を退けなければならないと思い込んでいたんだ。とおじいちゃんは言う。両親はおじいちゃんのいないところで、悪口を言いあい、兄さんがそれに参加した。    
 ぼくとおじいちゃんを除く、家族での一番強い絆は、おじいちゃんへの不満と悪口だったと言っていい。
「おまえの父親に対しては、悪いことをしたという気持ちがある」とおじいちゃんは言った。「躾のために殴ったし、悪いことしたら一方的に責めたよ。口答えしようものなら、理屈で打ち負かした。よかれと思ってやったことだ。喧嘩もしたが、あいつは弱かった。喧嘩に勝つのは力でも正義でもない。冷酷でしつこくて、狡い方が勝つ。これが原則で、おれは強かった。おまえの父親はかわいそうに、弱かった。優しい奴だったんだろうな」とおじいちゃんは言った。
「そう、優しい奴だった。そして弱い奴だった。おれは息子に、強くなって欲しかったんだと思う。それだけじゃない。正しく、豊かな人間になって欲しかった。だが同時に、いつまでも弱いままの息子でいてほしいというエゴもあったんだろう。今ならわかるが、矛盾している。結果的にはあいつを追い詰めてしまった。母親が、おまえのおばあちゃんがいれば、また違ったかもしれないが。まあ、とにかく悪かったと思ってる」
 これは不思議なのだけど、おじいちゃんが謝意を示す父さんと、自分の知っている父さんを、ぼくは同じ人物に思えない。と言うのも、上手く言うことを聞けないと殴ったり、理屈で責め立てたり、逃げ場のない行き止まりまで追い詰めてくるのは、ぼくにとっては、おじいちゃんではなく、他でもない父さんだったからだ。
 簡単に言えば、ぼくは家族の落ちこぼれだった。何もかもが低かった。体力が低く、知力が低く、想像力が低く、何よりコミュニケーション能力が低かった。他にもぼくの何が低いのか、兄さんが一つ一つ直接教えてくれた。概ねすべて兄さんの言う通りだったが、生きる気持ちが低い、と言われた時は反論した。大きなお世話だ。それがわかるのはぼくだけだ。とぼくは言った。兄さんは、まぬけが何か言ってるぞみたいな意味合いのため息をついて、ぷいとどこかに行ってしまった。実際のところ、兄さんがぼくをまぬけな家族の落ちこぼれとして扱うのは、父さんと母さんとおじいちゃんの真似だったと思う。兄さんはぼくと違って、大人の真似を上手にこなすことができた。
 父さんは、自分がおじいちゃんに受けた仕打ちをぼくにした。ぼくの意欲の低さが特に気に入らなかったようだが、それだけではないだろう。「立派な人間になんてならないくていい。おれはそうなれと言われて苦しかった。だが、そんな自分を恥じるな」と父さんは言ったが、やっていることはおじいちゃんの話といっしょだった。上手くできないことを指摘して、叱責し、口答えすると殴る。「父さんがせっかく好きに生きていいと言っているのに、おまえはぼけーっとして、何かをしようっていう意欲はないのか」と父さんは怒鳴った。しかたなく、ぼくは父さんの薦めるフリースクールに通いだしたが、すぐに行かなくなってしまった。何故行かないのか説明を求められたが、説明能力が低くて上手くできなかった。「自分から約束したことを破るのか、このくずめ」と言って、父さんはぼくの服と靴と教科書を全て窓から放り投げて捨てた。
 母さんは特に、ぼくの表現力の低さが気に入らなかったようだ。幼いころは、鼻血が出る程殴られたぼくを抱きしめて「ごめんね。母さんだけは味方だからね」と訴えていたが、ぼくが泣きもせず笑いもせずにいると、怒りだした。これが一番きつかった。
「何か言いなさいよ。あんたのせいで叱られたりもするし、時間もとられるっていうのに、味方でいてあげるって抱きしめてる私に、あんた何か言うことあるんじゃないの?なんのために黙ってこんな何もない場所まで引っ越したと思ってんの?全部あんたらのためじゃない」
 何を言ったらいいのかわからなかったし、なんのために家族がこの町に引っ越してきたのかも、ぼくにはわからなかった。ぼくが表情を変えずに黙っているのが気に入らなかったらしく、母さんはぼくを突き飛ばして、これもまた、ぷいといなくなってしまった。だいぶ後になって「正直言うと、おまえの両親はおれに金を借りるために来たんだ」とおじいちゃんはぼくに教えてくれた。「でも、思ったより財産は残っていなかったんだ。それで不機嫌になったのかもな」
 おじいちゃんの前では、殴られたり罵られたりすることは、あまりなかった。前にも言ったが、両親がおじいちゃんに対して遠慮していたからだ。それで、ぼくはなんとなくおじいちゃんの傍にばかりいるようになった。とはいえ、その頃はおじいちゃんも、ぼくを出来の悪い小型のロボットくらいにしか思っていなかった。庭の隅に置いてある錆びたドラム缶が一つ増えているくらいにしか、ぼくを気にしていなかっただろう。
 けれども、ぼくにとっては、おじいちゃんが唯一の安全地帯だった。おじいちゃんは、ぼくと違って何もしない、ということが出来ない。車を洗ったり、畑に水をやったり、筋トレをしたり、映画を観たり、パターゴルフをしたり、実に様々なことをしていた。いつもたった独りで。
 今にして思えば、おじいちゃんは強さによって孤立し、ぼくは弱さによって孤立していた。そして孤立からくる沈黙が、家族にずいぶん負荷を与えていたらしい。おじいちゃんの知らないところで、家族は引っ越しの計画を立てていた。

 五年前。ぼくが十一歳だった春のことだ。
 その頃、おじいちゃんには内緒の家族会議が頻繁に開かれていた。議題は、おじいちゃん以外の家族でこの土地を出て行く。という決定事項の詳細についてだった。この土地を出ることに関しては、父さんと、母さんと、兄さんによって既に議決されていた。ぼくは投票権は持たされず、もっと言えば会議に参加してすらいなかった。なんとなく、話し合っていることは聞こえるのだけれど、遠い世界の話のように思った。
 父さんが働きに出ている未来の町。そこに、おじいちゃんを除く家族全員で移住する、という予定調和に数日が費やされ、予め決まっている決議が改めて採択された。

 ある朝、食事が終わると、父さんが決議の内容をおじいちゃんに伝えた。
「もう、色んなことに口出しされるのはうんざりだし、自分の人生は自分で決めたい。父さんの圧力にびくびくして生きるのは、もう嫌だ。二度と父さんには会いたくない。父さんが孤立することが心配だったから家族でこの何もない土地に引っ越してきたが、俺にも、息子たちにも未来がある。これから家族で未来の町へ向かい、二度と帰らない」と父さんは言った。
 おじいちゃんは父さんの言葉を、頭のなかで何度もよく噛んでから、わかった。好きにしろ。とだけ言った。気持ちの上では、怒りや哀しさや戸惑いが渦巻いていたはずだが、それらがすべて混ざってしまうと、声色は諦めの一色になっていた。
 おじいちゃんは、いつかこんな日がくると思っていた。という表情をしていた。その日、別れを告げられてからではなく、それよりもずっと前からだ。いつか確実に来るだろうを待ちながら過ごす日々の横顔は哀しい。それが現実になってしまうと、おじいちゃんの横顔からが哀しみが消え、見ようによっては、寧ろほっとしているようにも見えた。
 すでに荷物の積んであるトラックに、父さんが乗り、母さんが乗り、兄さんが乗った。最後に乗るはずだったのは、ぼくだった。けれど、ぼくは乗らなかった。
「行かない」とぼくは言った。おじいちゃんを含めた家族全員が驚いた。ぼくが喋ったこと。しかも「行かない」という意思を示したことに対して驚いたのだ。その頃のぼくは、挨拶を除けば一年に十三回くらいしか喋らないこどもになっていた。諍いや暴力のはじまりには常に言葉があると考えたぼくは、自分の体の一部に空洞を作って、だいたいの言葉はそこに放り込んでいた。
 その場で、説得がはじまった。引っ越しはもう決めてしまったことだとか。両親なしでここに残ってどうするつもりだとか。離ればなれになってしまっておまえは平気なのか。とか、いろんな方向から説得が行われたが、ぼくは拒否した。努めて頑迷に、でも静かに首を振った。家族会議の裏で、ぼくも独りで会議をしており、ぼくはぼくの議決をしたのだ。
「じゃあ、おまえは、おじいちゃんとここに残るんだな。おれや母さんや、兄さんには二度と会えないぞ。それで平気なんだな。ほんとうに後悔しないんだな。あとで考え直しても遅いぞ。よく考えて返事をするんだ」最終確認だと断った上で、父さんは言った。説得の口調は半分以上、脅迫のニュアンスを含んでいた。
「ぼくは、おじいちゃんと、ここに残る」とぼくは答えた。今まで空洞に放り込んだすべての言葉を圧縮して、そう回答した。
 今度は父さんが「勝手にしろ」と言った。
 トラックは、ぼくとおじいちゃんを残して出発し、ほんとうに二度と戻ってこなかった。

 去ってしまってから、両親は数回、おじいちゃんとぼくに電話をかけてきた。
「あの時は言いすぎた」と父さんは言った。「でも、おまえもよくなかったと思う。急にあんな意思表示されるのは、こっちとしてもどうしていいかわからないし、もっと普段から思ってることを言ってくれれば。母さんは泣いてるよ。おまえ、何も思わないのか。でも、おまえがどうしても、おじいちゃんと暮らしたいならそれでいいよ。それがおまえのためならな。ただ、定期的に連絡はくれよ」
「あなたがそんなふうになってしまったのは、きっとわたしが悪かったのね。ごめんね」と母さんは謝った。「でも、あなたはまだ恵まれてる。ちょっと変わってるけど、障害とかがあるわけじゃないし、お父さんもおじいちゃんもいるし。あなたのこと、わかってあげられなくて悪かった。なんとか、他の子と同じように普通に育ててあげたかった。わたしはあなたを愛していたのよ。上手にできなかったかもしれないけど、これはほんとうなの」
 受話器から聴こえる両親の話の半分以上は、ぼくには理解しがたかったが、結論から言うと、ぼくたちは別々に暮らすことになった。彼らの言い分の正当性を全面的に認めることを条件として。
「父さん。わかったよ。定期的に連絡をする。母さん。わかってる。愛してくれてありがとう。母さんは何も悪くないよ」とぼくは言った。幾分、これは偽証を含んでいる。
 おじいちゃんが両親と何を話したのかはわからない。「ああ」だとか「知らん」だとか、数回短い言葉で応答した後「好きにしろ」と言って電話を切った。
 しばらくして、家族の引っ越し先の住所から葉書が届いた。ぼくはそれを小屋のどこかにしまい、数年たってどこにしまったのか忘れた。
 最初の一年は二カ月に一度電話がかかってきたが、ぼくとおじいちゃんは着信番号の表示を見て、受話器を取ることをしなかった。一年を過ぎると、家族からの連絡は途絶えた。未来で何かあったのかもしれないが、詳しくはわからない。

 そのようにして、改めてぼくとおじいちゃんは、沈鬱なサービスエリアで暮らしはじめた。
 ぼくたちが、まともに会話するようになるまでに、およそ三カ月の時間がかかった。おじいちゃんは息子ら家族に見捨てられた老人だったし、ぼくは(ぼくの認識としては)家族を見捨てた息子だった。
 おじいちゃんは、ぼくのために食事を用意してくれたし、同じテーブルについて食事をとったけど、それまでと同じように会話らしい会話はなかった。家族の中でも、最も喋らない二人が取り残されたのだから。ぼくたちは黙ったまま食事をした。
 おじいちゃんとの暮らしの中で、ぼくが最初に覚えたのは食器を洗う事だった。他にも色々と覚えたが、まずはそれだった。おじいちゃんは食事を作る。ぼくは食器を洗う。ふたりとも、声は発さなかったけれど、これもまあ一種の会話だ。

 一週間に一度、野球好きの配達員がやって来て、物資を運んだあと、ぼくをキャッチボールに誘った。「人生は、野球があれば最高だ」が口癖のベイブというあだ名の配達員は、殆ど力ずくで、ぼくにグローブを嵌め、次々とボールを放ってきた。後になって聞いたところによると、おじいちゃんに頼まれたそうだ。無口な孫とキャッチボールをしてやってくれ。ついでに、あいつが何を考えてるのか出来るだけ聞き出してくれ。とおじいちゃんは小額の謝礼金を渡して頼んだ。ベイブは金を受け取り、最初こそ依頼を果たそうとしたが、五球くらい投げたところで興味を失って、その後ぼくらはただ純粋にキャッチボールをした。
「素直な球筋で、覚えがいいですよ。ただ、体幹が弱い。コントロール重視でいくにせよ、球速を上げるにせよ、まずは体幹です」とベイブはおじいちゃんに報告した。

 一日の時間の殆どを、ぼくはサービスエリアの入り口に座り、街道の向こうの枯れた麦畑を眺めて過ごした。それまで、ぼくのことを、庭の隅に置いてある錆びたドラム缶程度にしか思っていなかったおじいちゃんだけど、ふたり暮らしがはじまってから、ちょっと変わった喋るドラム缶くらいに認識を改めたのだと思う。振り向くとたまに目が合うようになり、その度におじいちゃんは、しまった、という顔をして目を逸らした。
 たまにおじいちゃんの仕事を手伝うようになった。庭に水を撒いたり、洗い物をしたり、お客さんを案内したりする。なんとなく、おじいちゃんが毎日していることを真似したに過ぎないけど。おじいちゃんは、戸惑いながら、ぼくにありがとう、と言った。

 家族が出て行って三カ月と少しが経ったある日の昼。ぼくらはサービスエリアのテラスで、おじいちゃんの作ったツナサンドを食べていた。今でこそ、ぼくとおじいちゃんは言葉少なとはいえ、必要なことや、ふと思いついたことくらいは話す。けれど、あの頃のぼくたちは、お互いが何者なのか全然わからずにおり、警戒と緊張のために思っていることはおろか、必要なことすら話さなかった。その日までは。
 その日、ツナサンドを食べていたぼくらのテーブルに、突然、空から槍のように一匹の鳥が降下してきた。鳥は空を伐る剃刀のように鋭く飛び、テーブルの上のサンドイッチを嘴でかっさらった。おじいちゃんが驚いて低い悲鳴を上げ、食器やグラスが派手な音を立てて地面に落ちた。ぼくは人の手の届かない場所に舞い降りてサンドイッチを啄む鳥を目で追った後、再びおじいちゃんを見た。
おじいちゃんは椅子から立ち上がり、両手を広げて威嚇するコアリクイみたいな姿勢のまま静止して、口をあんぐりと開けてぼくを見ていた。ぼくたちの視線が合った。それで恥ずかしくなったおじいちゃんは、とうとう笑った。笑い声はだんだん大きくなり、おじいちゃんは腹を抱え、眼には涙を滲ませた。ある種の笑いと言うものは伝染するもので、ぼくも腹を抱えて笑ってしまった。腹の底から湧き上がってきたぼくらの笑い声は、いつまでも止まらなかった。
 あの時、ぼくらは長いこと笑い転げていたが、ほんとうは叫んでいたのだと思う。家族に取り残されたことや、嫌われていたこと。家族についていかなかったことや、何故ついていかなかったか。この老人はいったい何者で、この孫はどのくらい変わり者なのか。そんな二人がどうやってやっていけばいいのか。すべてを笑い声にして、ぼくたちはとりあえず叫んでいた。
 ひとしきり笑ってしまうと、おじいちゃんは息を切らしながら涙を拭き、椅子に坐りなおして、ふーっと息を吐くと、ぼくの目を見て言った。
「おまえ、なんで残ったんだ」
 ぼくはおじいちゃんの顔を見ながら、じっと考えた。おじいちゃんは眼を逸らし、残ったサンドイッチをむしゃむしゃと食べはじめた。
「おじいちゃんとぼくは、一緒だからだ」とぼくは言った。幼かった当時はそう言うのが精一杯だったけど、今ならもっと別の説明をするだろう。父さんと母さんと兄さんの絆は、おじいちゃんへの敵意で形成されていた。ぼくはありもしない敵意を抱けなくて、家族の仲間に入れなかった。何故かというと、ぼくはおじいちゃんのことを嫌いではなかったからだ。だからと言って好きでもなかったのだけれど、誰かに言われて誰かを嫌うなんて、ごめんだ。おじいちゃんは嫌われ者で、ぼくは余り者だった。孤立という意味において親近感というやつを感じていたのは間違いない。ぼくはもうこれ以上、誰の悪口も聴きたくなかった。おじいちゃんがどんなひとなのかは、よく知らないけど、隠れて悪口を言ってるところは見たことがない。それどころか、その横顔と後ろ姿は自分に似ていると思った。ぼくは自分の横顔も後ろ姿も見たことはないけれど、おじいちゃんを見ていると何故かそう思った。だから、いっしょにいるならおじいちゃんだと思った。それにぼくは、ここではない何処かに、未来に急いで行きたいとは思わない。今ならそういう説明をするだろうけど、当時は上手く言えず「おじいちゃんとぼくは、一緒だからだ」とだけ言った。あの時、おじいちゃんがぼくの言葉を聞いて何を思ったのかはわからない。
 おじいちゃんはサンドイッチを持ったまま、眼をぱっかりと見開いて、ぼくの顔を見つめていた。そして口の中のサンドイッチと一緒に、ぼくの言った言葉の意味を、もぐもぐと噛んだ。視線がぼくの脳天の少し上の虚空を見つめた。しばらくして手に持ったサンドイッチを皿に置き、再びぼくの目を見つめると、おじいちゃんは言った。
「おれと、暮らすか」
ぼくは頷いた。
 おじいちゃんが、ぼくをひまわりと呼ぶようになったのは、それからすぐのことだ。そして、ぼくらは、このサービスエリアの看板を新調し〈ひまわり〉と彫刻をした。

(7)

 おばあさんを見送ってしまってから、おじいちゃんはサービスエリアの仕事に戻り、ぼくは小屋に戻ってたまねぎを炒めることを再開する。キッチンのラジオからトム・ヨークの歌声が聴こえる。おれはクズだ。クズなんだ。と歌っている。
 ぼくはひたすら真剣にたまねぎを炒める。たまねぎを炒めるということ以外はあまり考えないという意味での真剣だが、これがなかなか難しい。
 たまねぎの繊維がすべて崩壊し、飴色に溶けだした頃、キッチンの出窓が暖かい色に染まり出す。ぼくは窓を閉める。夕暮れだ。この窓は、昼と夜の境目の一瞬に、もっとも多くの光を集める方角を向いている。磨り硝子のなかに光の蜜柑が満ちる。一日のすべての光が、優しく温められて、ぼくと窓を目がけて帰ってくるような錯覚に陥る。ぼくは目を細める。たまねぎを炒めながら、自分が地平線の向こうへ落ちてゆく落陽なのか、鍋の中のたまねぎなのか、ラジオから流れる歌声なのか、たまに目の前を飛ぶ飛蚊なのか、磨り硝子に閉じ込められた光なのか、まったく全然わからなくなって、そのすべてがぼくという気すらしてくる。
 茜色の空と、群青色の空が、磨り硝子の中でゆっくりと混ざり始める。液体みたいだな。とぼくは思う。掴めないこと。境界が曖昧であること。混ざり合うと分離できないこと。どちらが昼で、どちらが夜なのかわからなくなること。
 窓の中から光が消える頃、ぼくはすっかり飴色の塊になった鍋の中身に、みじん切りにしたにんじんとセロリを追加する。夜が更けるまで、また、ゆっくりと鍋の中身をかき混ぜる。今日の出来事も鍋の中に入れる。それについて、ぼくが考えたことも。すっかり混ざってしまった窓のなかの昼と夜も、すべて混ぜて、ひとつになるまで、ゆっくりとかき混ぜる。ついでに、ラジオから流れ出ているピアノ曲も入れる。すべてが終わってしまうと、しばらく置いて粗熱を取る。
 常温に戻しておいた鶏肉を塩コショウで焼く。残り物の米と、スライスしたトマトと胡瓜と一緒に、二枚の皿に分けて乗せる。皿を持って小屋を出る。扉を開けると、夜が小屋の中に入りこみ、小屋の中からは料理の香りが夜に溶けていく。やっぱり液体みたいだな、とぼくは思う。何もかも、すべて混ざり合っていく。
 夜空には星が瞬いている。あのひとつひとつが何なのか、ぼくにはわからないのに、綺麗だなというきもちは自然に湧いてくる。この感覚はいったいどこから来るのだろう。
 おじいちゃんとテーブルについて食事をとりながら訊いてみる。
「おじいちゃんは星をきれいだって思う?」
おじいちゃんは少し考える。
「ああ、思うよ。改めて見るとだけどな。おれはおまえみたいに、人や風景や物をじっと観察したりしないから、おまえとは見方が少し違うと思うが」
おじいちゃんは夜空を見上げながら鶏肉をもぐもぐと食べる。何か考える時に、上を向いて虚空を見つめるのは、おじいちゃんの癖だ。
「今ちょっと考えてみたんだけど、きれいっていうより先に、宇宙人がいるのかどうかとかを考えてしまうんだな。おれは」とおじいちゃんは言う。
「宇宙人っていると思う?」
「宇宙人はいるよ。おれがそうだし、おまえがそうだ」おじいちゃんはニヤリと不敵に笑う。
 ぼくらは宇宙人の話をしながら食事をする。宇宙人がいるとしたら、そいつらの手足は何本かだとか、主食はなになのか、そもそも食事をとるのか、声帯やテレパシーや感覚器や美意識の有無などについて話す。
「わかり合うことはできるのかな」とぼくは言う。
「無理なんじゃないか」とおじいちゃんは言う。「同じ人間同士だって無理だしな」
 ぼくもそう思う。でも、わかり合えないことは、仲良くできないという事とは違う気がする。例えば、ぼくとおじいちゃんとベイブはわかり合ってないけど、仲がいい。
 食後に、おじいちゃんはウィスキーをロックで一杯だけ呑み、ぼくはミント水を飲んだ。しばらくふたりで夜空を見上げた後、おじいちゃんは入浴のために小屋に向かい、ぼくは心を空っぽにして、ただ真剣に星を見ようとする。

 ぼくは看板の隣の椅子に座り、目を閉じる。夜になると街道からは車の姿が殆ど消える。白い街灯が冷たい蛇のように、彼方まで点灯している。耳を澄ますと、無数の虫の鳴き声が聴こえる。風に揺られて、草木がさわさわと音を立てている。ぼくは街灯の光を追って、未来へ続く街道の彼方を見る。風呂から出てきたおじいちゃんが、殆どが溶けた氷の水になってしまったロックグラスの中身を呑む。
「ひまわり。未来の方が気になるか」とおじいちゃんが訊く。ぼくは首を振る。
「わからない。何故、みんな未来を目指すのだろう」とぼくは言う。
「重力だよ、ひまわり。重力ってわかるか」おじいちゃんは言う。
「ニュートンの林檎」とぼくは言う。
「林檎は地面に落ちる。地面も林檎を呼んでいる。お互いさまってやつだ。林檎と地面はお互いに求めあっているのさ。未来もそうだよ。人間と求めあってる。人間が行かなきゃ、あっちから来るんだ」
「おじいちゃんは、未来に行きたいと思わないの」とぼくは訊く。
「いいや」と言っておじいちゃんは酒瓶をあおる。「おれも年をとったし、そういうのは、もういいかな。おまえのいるところが、おれの未来さ」とおじいちゃんは言う。

 おじいちゃんは納屋のベッドで眠る。ぼくは、おじいちゃんより少しだけ長く起きている。車の通らない夜の街道の彼方を見る。規則正しく並ぶ街灯が未来への道を照らしている。同じ風景をずっと見ていると、ぼくと風景の境界線が曖昧になって、夜のグラスの中に溶けて混ざり合う。眠くなり、ぼくはいよいよ液化するために、小屋のなかのベッドへ向かう。粗熱のとれた野菜を冷凍し、歯を磨いてから、下着姿になって眠る。一日の何もかもが溶けていく。

(8)

「ひまわり。ねえ、ホースで水かけてくれない」
怒りに燃えた瞳のまま、アカシアは言う。ぼくはホースから水を出して、アカシアにかける。焼き林檎のような黄金の朝陽がぼくらの頭上で熱く燃えており、無謀運転を繰り返して、サービスエリアの敷地でに侵入してやっと停車したアカシアのセローのエンジンが、放熱によって周囲の空気を歪ませている。今朝、ハーブ畑に水をやっていると、街道の彼方から狂った鉄騎のようなセローのエンジン音が聴こえたので、ぼくはアカシアに気づかれるように、サービスエリアの入り口から、大きく手を振ったのだった。
「なんで。なんでまた、ここに来ちゃうかなあ」
地面を狂犬のように蹴りながらアカシアが叫ぶ。
「あの、アカシア。おはよう。昨日のジンジャーエールの料金を払って欲しいのだけど」ホースの水をアカシアに浴びせながら、ぼくは叫ぶ。
 アカシアはぼくの眼をまじまじと見つめる。やがて諦めたように肩を落として、ジーンズのポケットから小銭を出して支払う。黒いタンクトップを着たアカシアの、むき出しになった肩には薔薇のタトゥーが彫られている。花弁にはりついた水玉のなかに、太陽とぼくらの姿が光っている。
「ごめん、ありがと。頭冷えた。ついでに何か飲み物ちょうだい」
アカシアはドリンクと氷の入った発泡スチロールを探り、炭酸水のペットボトルを選んで開ける。ぼくの隣に座る。髪をかきあげて水を払う。
「ひまわり、聞いてくれる」とアカシアは言う。「あたしはまるで、壊れたDVDプレーヤーみたいなんだ。再生機能がぶっ壊れてて、いつも最悪のチャプターばかり再生してる。それでフラッシュバックに襲われて、自分を見失う。昨夜は、あたしをフッた男が憧れてたシンガーの歌を聴いたのがきっかけで、気がついたらバイクに乗って走り出してた。すごくいいシンガーなのに、畜生。昨日といっしょで、あたしと同じ顔をした女をぶち殺さなきゃいけないという衝動に支配されて。正確には、あたしから逃げたクソ男にすべてを捧げてかまわないとかほざいていた、あの世界一、頭の悪い女をぶち殺さなくちゃと思って。そんで、とりあえずバイクを飛ばして怒りにまかせて走ってたら、またこの路に迷い込んだ。あんたが手を振ってくれたから、少しだけ怒りが消えて、止まることができた。たすかったよ」
「アカシア。その炭酸水の料金を先にください」とぼくは言う。今度は忘れないように。アカシアは、はいはいと笑いながらポケットから硬貨を差し出す。「でね、かっとなってバイクの乗ったから、武器も何も持っていないの。ここ、なにかない。ショットガンとか、ただ殴るために鋳造された棘の付いた棒とか」
「ないよ」とぼくは首を振る。
 アカシアはしばらく黙って山の方を見る。過去と自分を遮る山を見ると、アカシアの顔は怒りに染まる。
「ひまわりは、あの山のこと詳しいみたいだから、聞いておこうと思ったんだ。どうやってあそこを越えたらいい?どうすれば過去にたどり着いて、あたし自身をぶち殺せるの」
 ぼくは説明をする。
「山には、アカシアと同じような人たちがたくさんいる。ただし、もれなくバケモノになっている。ゾンビ映画好きって言ってたよね。あれに似てる」
「走るタイプのゾンビ?歩くタイプのゾンビ?」
「歩くタイプ。でも、手を前に出したり、ゆらゆらしたりしない。まっすぐに来る。アカシアは過去への憎しみに導かれてここにやって来た。でも、まだこうやって、かろうじてぼくと話すことは出来る。この間はいっしょに口笛を吹いたよね。でも、バケモノの仲間になったら、もうそういうことはできない。アカシアは完全に暴力そのものになる。そして、バケモノの目的は暴力の感染をなんだ。仲間をほしがっているんだよ。そんなものになりたい?」
「いやだな」と顔をくしゃくしゃにして、アカシアは言う。
「噛まれるの?噛まれたらばけものになるの?」
「ちがう」とぼくは言う。かつて一度だけ、山に入ったことがある。アカシアにその話をする。

 その人は、アカシアと同じように、過去へ向かい、過去の自分を殺そうとしていた。そうすれば何もかもうまくいくと信じ込み、強く願っていた。名前は知らない。必要はないと考えていたのだろう、最後まで名乗らなかった。岩山を転がり落ちた後のように、あちこちが凹んだ軽自動車に乗って彼女はやって来た。二年ほど前の、やはり夏だった。
 年齢はアカシアと同じくらいか、少し上くらいに見えた。若いのに、やけに白髪が多い人だった。市役所の職員のような地味な制服を着ていたが、禍々しい雰囲気のせいで、市役所の職員には全く見えなかった。無傷のくせに、治っていない創傷の匂いのする顔をしていた。乾ききらない瘡蓋のような膜が、彼女の顔全体を覆っていた。最後まで笑わなかった。
 女は物静かで、冷静に見えたけど、心の中はアカシアと同様、過去への怒りに支配されていた。より激しい憎しみというものは、寧ろ静かに見えるものなのかもしれない。のアカシアが喚いて当たり散らすことで憎しみを発散しようとするのに対し、白髪の多い女の憎しみは、最初から静かに決定されていた。その決意は冷たく硬く、アカシアの憎しみが台風だとしたら、女の憎しみは、外部からの力では動かすことの出来ない静かで巨大な岩石だった。山について訊かれたぼくは、知っている限りのことを女に説明した。
「ぼくは山へ入ったことはないし、これからも入る予定はないけど、絶対に行ってはいけないと強く言われています。そこにはバケモノたちがいて、人を襲うんだって。正確には人ではなく、その憎しみを」
「バケモノ?獣ではなくて?」
「わからない。とにかく、行ってはならないと強く言われています。特に憎しみを持って行くのは自殺行為だって。実際に、そういう人たちが山に入って戻ってきた例をぼくは知りません」
「身を守る術がいるってことね」
 女は少し考えてから車に乗り込んで、一度は未来の町へ戻っていった。その日はサービスエリアに来るお客さんも少なくて、ぼくは午前中の間、ぼんやりと空を眺めてた。数時間後、女が戻ってきた。鉄パイプや包丁や鈍器や高枝切ハサミやキャンプ用のガスバーナーなどを後部座席に積み込んで。女は車を降りると、ぼくにハンティング・ナイフを突きつけて、助手席に乗れ、と静かに命じた。
「ひまわりのおじいちゃんは、その時なにをしてたの?」と顔をしかめてアカシアは訊く。ぼくらは振り向いておじいちゃんの方を見る。おじいちゃんは朝方に洗濯した二人分の服を庭に干している。
「その時、おじいちゃんは小屋で「刑事コロンボ」の再放送を見てたよ。あの女の人は余りにも静かにぼくを脅迫した。アカシアみたいに叫んだり喚いたりしてくれたら、すぐに気づいてもらえたと思うけど、彼女は一から十まで静かだった。そういう憎しみもあるんだなって思った」
 ぼくは彼女の言う通りに助手席に乗り込んだ。表情や声色が、断れば刺すという明確な決意を放っていた。その決意があまりにも強すぎたので、ぼくは刺殺される自分の姿をとても生々しく予見することが出来た。
 女はぼくを連れて山へ向かった。アカシアよりもひどい運転だった。エンジンをかけて即、アクセルを限界まで踏んだ。空転したタイヤが地面を噛むと、破裂したように飛び出した。
「山を越えるまで、あんたに付き合ってもらう。あそこを無事越えられたら、何をしてあげてもいいわ」と彼女は言った。いったい何をしてくれるつもりだったかはわからないけど、ぼくの望みはただ解放されたいと、それだけだった。どう命乞いをしたら開放してもらえるか考えたけど、ひとつも思いつかなかった。そのくらい、女の表情と運転は決意に満ちていた。車が山の麓へたどり着くまでの僅かな時間で、ぼくはやっとひとつの質問を振り絞り、彼女に投げかけた。「何をしに過去に行くんですか」とぼくは訊いた。彼女はアカシアと同じことを言った。ただし、もっと簡潔に。「すべてをやりなおすためよ」と彼女は言った。何を言っても無駄だと思った。

 車が全くスピードを落とさず山道に入ると、すぐにバケモノたちが襲ってきた。曲がりくねった山道のガードレールの陰から、石の下のダンゴムシみたいに数えきれない数の人影がぞろぞろ現れた。最初、人間たちかと思った。男性もいれば女性もいた。若者もいれば老人もいた。窮屈な程きつくネクタイを締めた若い銀行員風の男がおり、エプロンをした中年のパートタイマーのような格好の主婦がおり、四十年間早朝マラソンを欠かしたことがない肉の丸太みたいな脚をしたショートパンツの老人がいた。彼らは一見、生きている人間のような多様性を保持していた。顔色にしても生者のそれで、ゾンビや死者の様に青ざめてはいなかった。にも関らず、やはり彼らは人間に見えなかった。そこには恐怖と表情が全く欠落していた。今考えると、その二つは人間を定義する上で、とても重要な要素なのだと思う。彼らはまっすぐに歩いてきて、ぼくらの乗った軽自動車の前に立ちふさがった。
 女はためらうことなく、バケモノたちを轢いた。さすがに恐ろしかったのだろう。叫んでいた。鈍い音と衝撃の後に、倒れた人体にタイヤが乗り上げる嫌な感触が伝わってきた。表情のないバケモノたちが次々と、真正面からまっすぐ車に向かって立ちふさがる。女はアクセルを緩めることをせず、それを撥ね飛ばし続けた。五、六人撥ね飛ばしたところで軽自動車は衝撃によって減速し、タイヤは轢き殺したバケモノの体の一部を噛んで、それ以上前に進まなくなった。武器をよこせ!と女は叫んだ。ぼくは包丁を渡した。車はあっという間にバケモノたちに囲まれた。跳ね飛ばされたバケモノたちが無言で起き上がり、不自然な方向へ曲がった利き腕を振り回して、車の窓を殴りはじめた。自らの骨を砕きつつ、窓を殴る音が鳴り続いた。

「まだ、聞きたい?」とぼくは言う。アカシアは、アルミホイルの塊を噛んだように、顔をしかめている。こくこくとうなずき、話の続きを促す。ぼくは話し始める。

 すべてが淀みなく行われた。バケモノたちは、石や拳で車の窓を殴った。拳が裂けて、骨が折れ、血が飛沫してもバケモノたちは殴ることをやめなかった。機械と暴力が一体になっているかのようだった。予告も工夫も前動作もなく、ただ最短距離で暴力が実行された。衝撃と血が舞う中で、バケモノたちは無表情だった。憎しみはもちろん、一切の表情が無駄であるとでも言わんばかりに、そこに存在しなかった。ぼくは恐怖に震えながら、自分が表情を有していることの方が寧ろ不自然なんじゃないだろうかと思った。何のために表情ってあるのだろうって。
 とうとう拳によって助手席の窓硝子が割られた。血まみれになったバケモノたちの手が、硝子を粉砕し、次々に車内に侵入してきた。殺せ!刺せ!と女は叫んだ。ぼくは震えて動けなかった。次は事務的な暴力が、最短距離にあるぼくの髪の毛を掴み、ダッシュボードに額を打ち付けるか、車外に引き摺り出すかするのだ、と思った。でもそうじゃなかった。扉を開けたバケモノたちは、一番近いぼくではなく、運転席の女の腕を掴んだ。女は出刃包丁で応戦した。ぼくの目の前で、彼女を求めるバケモノたちの腕が切り裂かれ、血が舞った。死ね!という女の絶叫が、エコーして響いた。バケモノたちの血は赤かった。割れた窓から侵入した手の一つが、助手席の扉を内側から開けた。女はもうアクセルを踏む余裕を持っていなかった。運転席の窓も、複数の拳によって殴られ続けている。不意にぼくの脇腹に衝撃が走った。バケモノたちの攻撃ではなかった。女が、ぼくを蹴り飛ばし、車外へ放り出したのだ。あの時は頭の中が真っ白になった。
 あのまま殺されたり感染したりしていたら、ぼくは人間の形をした空白に恐怖だけを詰めた状態で死んでいたわけで、今思いだすと暴力よりも孤独よりも、それがいちばん怖い。自分を失ったまま、くたばることが。
 道路に投げ出されたぼくは、開いた助手席の扉から、数人のバケモノたちが車内に侵入していくのを見た。あっというまに運転席の女の姿が覆い尽くされ、叫び声がかき消された。女に覆いかぶさったバケモノたちの動きが止まり、一塊になって蠢いた。獲物を捕食するハイエナの群れにも見えたし、一人を集団で強姦する汚れた幽霊たちにも見えた。実際に、そこで何が行われたのか、ぼくは詳細には見ていない。ただバケモノたちが一塊になって彼女を覆い、蠢いているのを何も出来ずに見ていただけだ。やがて、一塊になった人影が分離し、ひとりひとり車から出てきた。その中には、さっきまで半狂乱になってナイフを振り回していた女も含まれていた。車から出てきた彼女からは一切の表情が失われていた。憎しみの炎が消えてしまった彼女は、他のバケモノと同じように人間には見えなかった。それは動いてはいるものの、余りにも生きていなかった。
 その場で表情を有しているのは、ぼくだけになった。今度こそ駄目だと思った。死ぬ前という光景を、せめて見ておきたいと思った気がする。ぼくは表情のないバケモノの集団を睨みつけていた。でも、バケモノたちは、ぼくに何もしなかった。車とぼくを囲んでいた数十人のバケモノたちは、ガードレールを乗り越えて、山の中へ帰って行った。敗戦後にロッカールームに帰っていくアメフトチームみたいに静かで速やかだった。ぼくを連れ去った白髪の多い女も、一緒に森へ潜っていった。彼女を含め、バケモノたちは誰一人として、振り向きはしなかった。
 ぼくはどうしていいかわからずに、しばらくの間、口を開けた空白と化して、そこに立ち尽くしていた。どのくらいの時間が経ったのかわからない。助手席におじいちゃんを乗せたベイブが、トラックに乗ってやって来た。運送の途中に、対向車線の車の中に拉致されたぼくの姿を見つけたベイブは、おじいちゃんを呼んで大急ぎで救出に向かってくれたそうだ。怪我はないか、とハンドガンを右手に持ったおじいちゃんが、ぼくを抱きしめて叫んだ。あの時ばかりは、ぼくも安心して泣いた。女に蹴られた脇腹と、恐怖に喰いつくされた心に後々まで残る痛み。それから掌の何か所かに擦過傷を負っていたけど、他に怪我はなかった。それでこの話は終わりだ。

「どうして、バケモノたちは、その女だけを狙って、ひまわりを放っておいたの」とアカシアが訊く。
「バケモノたちは憎しみに呼び寄せられるんだ。過去への強い憎しみに。だから彼女は襲われ、ぼくは襲われなかった。過去への憤怒。後悔。慙愧。憎悪。責苦。呵責。あいつらはそういうのが大好きなんだ。それらを捕食し、人格が消滅するまで奪い尽くし、その抜け殻を仲間にする。アカシアも間違いなくそうなるよ」
アカシアは顔をしかめたまま、山を見た。
「考え直した?」とぼくは訊く。
「今日のところは」とアカシアは言う。
「よかった。あの、せっかくだから、セローと靴を洗っていかない?」とぼくは言う。
「バイクと靴を?なんで?」
「洗ってみたらわかる」とぼくは言う。

 ホースから撒いた水で、バイク全体を濡らす。バケツに水を満たし、少量の洗車用洗剤を混ぜる。ぼくとアカシアはスポンジに水を含ませて、セローを擦る。長い間洗われていなかったセローの車体から、黒い汚れが水に溶けて滴っていく。一通りスポンジで擦ってしまうと、水をかけて洗い流す。これを二回繰り返す。
「いいね」とおじいちゃんが声をかける。どうも、と言ってアカシアが会釈する。
「ずいぶん洗ってなかったでしょう。水が真っ黒だ」とぼくは言う。アカシアは照れたような表情で笑う。おじいちゃんは、新しく綺麗な水を張ったバケツと、数種類の柔らかいブラシをぼくらに渡す。
「アカシア。次は靴」とぼくは言う。
「はぁ?なんで?」とアカシアは叫ぶ。ぼくはおじいちゃんを見る。
「あんたのバイクと靴は汚れすぎているからだ」とおじいちゃんは言う。アカシアはちょっとむっとした顔でおじいちゃんを見る。おじいちゃんは説明する。
「バイクと靴を洗うことは、心を洗うことと一緒なんだ。物理的に洗うという行為に集中するならば、その時、精神も洗われる。文字通り、きもちが洗われるんだな。洗うのは何であってもかまわないが、靴や車やバイクや自転車を、おれは勧める」
アカシアは新興宗教の勧誘員を見るような目で、おじいちゃんを見る。
「なぜ靴や乗り物を?」とアカシアは訊く。
「あんたを運ぶものだからだ。それはあんたの延長なんだよ。だから、靴を洗うのは自分を洗うのといっしょだ。きもちが楽になるはずだよ」
アカシアは感心した顔で、へーと呟いて頷く。
「それは、あなたの考えですか?」とアカシアは訊く。
「いや、昔おれが秘書を務めてた政治家の受け売りだ。おれの最初の仕事は、先生の靴と車をピカピカにすることだった。先生はおれを大事にしてくれたよ。おまえのおかげで、すがすがしい気持ちで政治ができるって。最後には政敵に嵌められて獄死したがね」
アカシアは苦笑いする。
「先生は政治家だけあって嘘つきだったけど、少なくとも、この話だけは正しいとおれは思ってるよ。靴と車を洗って、嫌な気分に陥るやつはいない」
 アカシアはぼろぼろのスニーカーを脱いで裸足になる。ぼくらは地面に座ってブラシで靴の汚れを落とす。おじいちゃんが、余っていたサンダルをアカシタに貸す。
「スタン・スミス。いいスニーカーだ。ヴィーガン・レザーだね」とぼくは言う。
「なにそれ?」とアカシアが靴を擦りながら訊く。
「アディダスがテニスプレーヤーのスタン・スミスのモデルとして作った。そのベロに印刷された人の好さそうなおじさんがスタン・スミスさんだよ。アディダス製スニーカーの特徴であるストライプが側面に入ってないのは、当時のテニス界に白い無地の革製シューズでなければならないというルールがあったからだ。それでストライプの部分は通気性を高める孔になった。それがかえって、デザインをシンプルに洗練したし、シンプルさは無限のアレンジの可能性を持っていた。環境に配慮したモデルも多く生産されてる。これも動物性ではない革の代替素材で作られてる。だから、ヴィーガン・レザー。アカシアはヴィーガン?」
「いいや。焼肉が好き。ひまわり、よく知ってるねえ」と感心してアカシアが言う。
「ひまわりは昔、客が忘れていったスニーカー大全集みたいな雑誌を飽きもせずにずーっと読んでるんだ。殆ど暗記してるんじゃないかな。それから、おれの持ってる車やバイクの雑誌とか。だからどうも知識が偏ってる」とおじいちゃんが説明する。
「スタン・スミスは白いシューズのなかで最も美しい一足だって、本には書いてあったよ。ぼくもそう思う。アカシアはこれ、いつ買ったの?」
アカシアは顔をしかめる。
「十九歳の時に付き合ってた男がプレゼントしてくれた。とにかく沢山ものをくれる奴だったけど、あたしの一番欲しいものはくれなかった。そのくせ、あれあげた、これあげたって恩着せがましいから別れ話をしたら、今まで使った金を返せと言ってきて、実際にレシートのリストを送り付けてきたっけ。畜生」
「アカシアはなにが一番欲しかったの?」
アカシアは座り込んだまま俯き、膝の間に頭を閉じ込めたまま、うううううと唸りながら考えた末に、わかんない。と言う。
「わかんない。それが一番、許せない。知ってる気がするのに、どうしてもわかんないのよ。それでまた、いらいらしちゃうんだ」
「もしわかったら、それを取りにいけばいいんじゃいかな」とぼくは言う。アカシアは顔を上げてぼくを見る。ふてくされたような表情で。
「誰が持ってるんだろう」とアカシアは言う。おじいちゃんが口笛でマイルス・デイビスの「いつか王子様が」のイントロを吹く。皮肉のつもりだろうけど、アカシアは気づかない。
「ひまわりは、持ってない?あんたと話してると落ち着けるの」とアカシアはぼくをじっと見つめて言う。ぼくはアカシアの目を覗く。でも、そこに何が欲しいのかなんて書いてない。ぼくの姿が映っているだけだ。おじいちゃんが大きな咳払いをする。
「わかんないよ。アカシアが欲しいものが何なのか、ぼくは知らない」とぼくは言う。
「ひまわりは?なにか欲しいものあるの?」とアカシアは言う。
「ない。ここにあるもの以外は」とぼくは言う。
 アカシアは手を止めて、景色を眺める。「いいな。うらやましい」と呟く。肩に止まった蚊をぱちんと叩く。ぼくは血の滲んだアカシアの肩のタトゥーを見る。真っ赤な薔薇、煙草をくわえた唇、NO FUTUREと書かれた羊皮紙。

 しばらくの間、ぼくたちは鼻歌を歌いながらブラシでスニーカーを洗う。ラジオで覚えた曲のメロディを口笛で吹くと、音楽に詳しいアカシアは、嬉しそうに曲名を呟く。ぼくは大体において曲名は忘れ、メロディだけしか覚えられない。アカシアが嬉しそうだったので、しばらく口笛でメロディを奏でると、アカシアはベースラインを吹く。アカシアは音楽に詳しくて、ロックバンドのトリビアやゴシップを楽しそうにぼくに話しながら靴を洗う。
「見て、ひまわり。だいぶ綺麗になった」スタン・スミスをぼくの方に向けて、アカシアが言う。汚れが落ちた白いスニーカーはあちこち傷ついてはいるにせよ、もともとの白さを取り戻している。
「すごいね。脱皮したみたい。でも、もっときれいになるよ。重曹を混ぜた水に少し浸けおきしよう。お昼ご飯を食べていく?」とぼくは言う。
「うん。いいの?」とアカシアは言う。
「もちろん。有料だけど」とぼくは言う。
 硬めに炊いた米に、焼いたウィンナーと半熟の目玉焼きを乗せ、ナンプラーと塩胡椒を少量かける。ミニトマトと茹でたモロヘイヤを添える。三人分の昼食を作り終えると、浸け置きしておいたスニーカーをすすいで、日の当たる椅子の上に置いて乾かす。
「おい、ひまわり。あの娘もいっしょか」とおじいちゃんがテーブルを布巾で拭き清めながら言う。
「うん。ちゃんとお金はもらう。お客さんだよ」と料理の皿を運びながらぼくは言う。アカシアはしばらくの間、生まれ変わったようにき綺麗になった自分のバイクに見とれている。
「お客さんね。だいじょうぶかね」と顔をしかめて、おじいちゃんは言う。
「だいじょうぶって何が。アカシアがだいじょうぶなわけないよ。だいじょうぶな人は、自分を殺しに過去に行こうなんて考えない」
「そうじゃない。あの娘、おまえを攫いたがっているんじゃないのか」
「まさか」とぼくは言う。
 三人でテーブルに着く。ぼくとおじいちゃんは同時に「いただきます」と言う。アカシアは客用の椅子に座り、テーブルに頬杖をついて隣の椅子の上で乾かしている真っ白なスニーカーを見ている。空は青く、雲がゆっくりと流れていく。どこに行くとも知れない航空機が太陽を横切る。
「確かに心が洗われるね。綺麗になるもんだな」すっかり泥の落ちた靴とバイクを見ながらアカシアは言う。自分の胸に触って、洗いたての心を撫でる。
「落ち着かくなったら、洗うといいよ。あと靴紐も一組、持って行っていいよ。有料だけど」とぼくは言う。
「わかってるよ。有料有料しつこいね、ひまわりは」
「前科があるからな」とおじいちゃんが言う。アカシアはおじいちゃんの声を聞こえなかったふりをして、頬杖をつきながら片手でフォークを使って食べる。少し焦げたウィンナーを口に運び、咀嚼の間、沈思する。
「ひまわり。あたし、またここに来ていい?」とアカシアが訊く。
「来ない方がいいと思う」とぼくは言う。「もし来るのであれば、セローとスタン・スミスを、今みたいに綺麗にしてから来るといいよ」とぼくは言う。アカシアがこの街道へ迷い込むのは、過去への強い憎しみのためだ。来ないで済むなら来ない方がいい。おじいちゃんの言う通り、靴と車をぴかぴかに洗った後も憎しみを保ち続けられる人はそう多くないので、ぼくは敢えてそれを勧めた。
「なんでそんなこと言うの。あたしに会うの嫌なの」とアカシアは言う。モロヘイヤをフォークでぼくの皿に移す
「ややこしい話にするのはよしてくれ。あと野菜をひとの皿に移すな」とおじいちゃんが言う。アカシアがふてくされて、おじいちゃんを睨みつける。「すみません」と小さな声でアカシアが言う。
「ここはカウンセリング・ルームでもなければホストクラブでもない。老いぼれと、その小さな孫しかいない、ただのサービスエリアだ」
おじいちゃんはそう言って、野菜をまとめて口に入れる。アカシアはじっと皿を見て、手を止めている。唇を固く結んでいる。
「ねえ、アカシア」とぼくは言う。「アカシアがここに来るっていう事は、多分、また怒りにまかせて迷い込むということなんだ。過去への怒りが消えてしまえば、こんな何もない場所に来る理由もなくなると思うよ。そしたら、未来でやりたい事をやればいいんだよ」
「だって」とアカシアはうつむいて呟く。「わかってはいるんだけど、憎しみに乗っ取られてしまうの。狂犬みたいな憎しみがあたし自身になり替わって、あたしはその尻尾になるの。ただケツにくっついて振り回されるだけ。ひまわりは、何もかも憎くなる時ってある?」とアカシアは訊く。
「あるよ」とぼくは言う。アカシアは驚いた顔で「ほんとうに?」と訊く。
「サービスエリアのお客さんの中には意地悪なひともいる。ぼくは低能だから、よく怒鳴られたり馬鹿にされたりするよ。家族だってそうだった。たまにラジオでやってる酷いニュースだって嫌だ。傷つけあったり、恐怖したり、そのすべてが憎いよ」とぼくは言う。おじいちゃんとアカシアは黙ってぼくを見る。
「でも、ぼくはぼくであって、憎しみじゃない。憎しみの尻尾なんかじゃないよ。どちらかというと憎しみは風船で、ぼくはぼくだ」
しばらく考えた後、「わかんない」とアカシアは言う。
 しばらくの間、ぼくたちは無言で昼食を食べる。ぼくは米と半熟卵をかき混ぜ、おじいちゃんは何も入っていない口で空っぽの咀嚼をし、アカシアは頬杖をついたままフォークの先でウィンナーを転がす。
「あたしね、いつも落ち着かない気がするんだ。なんていうか、切れかかった吊り橋とか、屋上の柵とか、そんなのを掴んでる気がするの」とアカシアは言う。
「不安にしがみついてるだけだ。離しちまえばいい」とおじいちゃんが言う。
「それが出来れば苦労しないんだけど」眼球だけ動かしておじいちゃんを見て、アカシアは言う。
「アカシアは何をしている時が楽しいの」とぼくは訊く。アカシアは自分自身に耳を澄ますように、空を見上げて考える。
「ベースを弾いている時はうれしい。バンドもやってた。今は休んでるけど。弾いてると楽しいよ。でも、自分の下手さだとか、他人の上手さだとか、考えると落ち込んで弾けなくなる。こんなことして、なんになるって思ってしまうんだ」とアカシアが言う。
「ベースが好きだから、口笛を吹く時にベースラインを吹くんだね」ぼくがそう言うと、アカシアは嬉しそうに笑う。
「比較をやめることだな」とモロヘイヤをむしゃむしゃと食べながら、おじいちゃんは言う。
「でも、比較しないと自分の実力や立ち位置が分からなくなりませんか?」とアカシアは言う。
「誰のためにやってるのか考えることだ」とおじいちゃんは言う。「評価されることが目的になると続くわけがない」
「別に評価されようと思ってない。ただの趣味だもの」アカシアがおじいちゃんを睨みつけて言う。
「じゃあ、それこそ比較する必要はないな」とおじいちゃんは言う。
 アカシアは沈黙する。フォークでこつこつと皿を叩く。どうやらおじいちゃんはアカシアの事をあまりよく思っていないようだ。かつてぼくの両親と暮らしていた時のような喋り方になっている。アカシアは過程について話したがっていて、おじいちゃんは結論について話している。右足と左足が別々の方向に行きたがっているみたいだとぼくは思う。
「あんたは何を後悔してるんだ?」とおじいちゃんが訊く。
「後悔?」とアカシアが言う。声が棘になって空気中で弾ける。
「過去の自分やら、他人の過去やらに干渉しようとする奴が後悔をしていないはずがない。あんたは苦しそうだな。苦しくて、怒りにまかせてここに迷い込むんだろう。だが、その怒りは傲慢さからくるんだ。過去を変えようなんて本気で思う程に肥大した怒りなど、傲慢以外の何物でもない。まずはそれを捨てることだな」
アカシアの顔から表情が消える。おじいちゃんを見つめる。
「そこのひまわりはな。あんたみたいな女に、一度殺されかけたことがある。道案内のために拉致されて、しまいにはバケモノたちへの生贄にされかかった。憎しみに心を乗っ取られた女だったよ。傲慢なんだ、あんたらは。この世界のために絶えず無償で稼働し続ける、時間という神聖な装置に対する敬いというものが足りんのだ。過ぎ去ったことへの敬意がな」
 アカシアは歯を剥いて、持っていたフォークを思い切りテーブルに叩きつける。椅子を蹴り飛ばして、サンダルのままセローに飛び乗る。エンジンに火を点け、この前以上に乱暴にクラッチを繋いで急発進する。何か口汚く叫んでたけど、エンジンの音が余りにも大きすぎて「クソ」「ひまわり」「ジジイ」「説教」「次来るときは」「殺す」という切れ切れの単語しか聴きとれなかった。「やれるものならやってみろ」とおじいちゃんが叫び返す。あっというまに爆音が遠ざかる。

 ぼくは水を張った発泡スチロールの中から、ペットボトルのアイスコーヒーを出して,
おじいちゃんの前に置く。
「すまん」とおじいちゃんが言う。「また、やってしまった。成長しないな、おれは」とおじいちゃんは言う。
「また料金を貰い損ねてしまったね」とぼくは言う。
「もう来ないといいんだけどな」とおじいちゃんは言う。
「でも、次来るときは殺す。って言ってたよ。本気じゃないと思うけど」
「一応の用心はしておこう。合言葉は、専守防衛だ」
 ぼくたちは黙って昼食をきれいに食べ終わる。食後に、ぼくはレモネードを。おじいちゃんはアイスコーヒーを飲む。おじいちゃんはアカシアに対して攻撃的になってしまった理由を三つ挙げて説明する。①「いただきます」を言わなかった。②肘をついて食事をした。③ひまわりを妙な目で見た。
「次があれば、ぼくが言うよ。でも、アカシアもその場で言えばわかってくれたと思うよ」とぼくは言う。
「ああ。でも、どうもな。おれはああいうのが苦手でな。結論を求めず悩みにしがみついてるような奴らが。そのくせ、挨拶もできやしない」とおじいちゃんは言う。
「最後の、妙な目ってなに?」
「おまえを食べたがってるんだよ」とおじいちゃんは言う。「奴らは傲慢なだけじゃない。貪欲なのさ。おまえは優しい子だが、人によってはそれを弱さと解釈し、おまえを喰らおうとするだろう。だが、奴らの胃袋は底なしで、満たされることはない。関わったら最後、永久に食べられ続けるんだ。気をつけろ」
「よくわからないな」とぼくは言う。
「永久にあの娘の愚痴を聞いているつもりか?」とおじいちゃんは言う。
 ぼくはアカシアの靴をいっしょに洗ってくれるひとがいればいいなと思う。
 ふたりで「ごちそうさま」と言った後、おじいちゃんは納屋で午睡をとる。ぼくは食器を洗ってから、アカシアの置いていったスタン・スミスに新しいまっさらな靴紐を通す。

(9)

「バットを手放すな、ひまわり。前にくれてやったろ。何かあったら、それで身を守るんだ。じいさんが言ってるのは、きっとそういうことだぞ。次、スローカーブ行くぞ。捕球地点を予測しろ」とベイブが言う。青空を斜めに伐るように弧を描いて硬球が舞う。午後、物資の配達に着たベイブにアカシアのことを話しながら、ぼくとベイブはキャッチボールをする。ベイブのスローカーブは常にぼくの予測よりも、ボール三個分鋭く曲がって落ち、ぼくは後逸する。球を拾って投げ返す。
「ねえ、ベイブ。ベイブは過去に戻って、何かをなかったことにしたいと思う?」と言って、ぼくはボールを放る。ベイブは軽やかな動作で捕球した後、投球せずに少し考える。
「半分はあるし、半分はない」とベイブは言う。
「どういうこと?」とぼくは訊く。
「例えばだ。この前の試合でな。2対3と負け越したスコアで迎えた八回裏ツーアウト、おれたちの攻撃、ランナーは一塁。監督は代走に若い新人を使った。元陸上部で、野球経験はないけど、楽しそうにプレイする奴でな。誰に対しても丁寧に接する、笑顔のステキな若者だ。そいつは勇敢にも初球盗塁に踏み切った。地上すれすれを飛ぶ隼のような見事な走塁だったが、相手チームのキャッチャーはそれ以上に見事だった。まったく無駄のない送球が走者よりも先に二塁に入り、結果はスリーアウトチェンジ。無得点だった。試合は膠着したが、以後これというチャンスもなく、追加点もなし。おれたちは敗けた」
「残念だったね」とぼくは言う。
「ああ。試合後は居酒屋で打ち上げをするんだが、新人は酒も飲まず後悔して落ち込んでたよ。打席に立ってたのはチームの首位打者だったしな。でもチームはそいつを励ました。勇敢な盗塁を褒めたよ。ガッツがある。それでも、あの時もう少し上手くやれてれば。って新人は悔やんでた。酒癖の悪いピッチャーが、終わったプレイでくよくよしてんじゃねえよと叫んで、そいつの背中をばんばん叩いてた。ええと、この話、わかるか」
「盗塁した選手は、プレイを悔やんでる」とぼくは言う。
「そうだ。そういう気持ちは確かにある。エラーやアウト、アウトって死って書くだろ。死だな。死をなかったことにしたい。そんなきもち」そう言ってベイブは捕り易い山なりの球をぼくに投げる。ぼくは捕球して投げ返す。
「だが、なかったことには出来ない。それが出来てしまったら、野球というゲームのすべては崩壊し、無意味になる。決してやり直すことのできない聖なる死の積み重ね。それが野球という競技の神聖さを保っているんだ。過去のプレイを認めないことは、野球に対する冒涜だし、試合に対する侮辱だし、なによりも自分自身に唾を吐く行為だ。気持ちを切り替えて、次のプレイをするのが一番いいんだよ」
「すごい説得力だよ。ベイブ。宗教みたいだ」感心して、ぼくは言う。ベイブがぼくの胸の真ん中に、緩い直球を放り、ぼくはそれを捕る。
「宗教じゃないが、それ以上だ。神はいるし、聖書もある。その悩んでいる女も野球をやればいいのさ。聖書はルール・ブック。過去はスコアブックで、未来はネクストバッターサークルだ」
「神様は?」と訊きながら、ぼくはボールを投げ返す。
「おい、ひまわり。お客さんだぜ」
ベイブがボールをキャッチしたグローブで、サービスエリアの入り口を指す。キャリーカートにトランクとボストンバッグを詰んだ若い女が立っている。それがアカシアだと、最初は気づかなかった。腰のあたりまであった長い髪はばっさりと切り落とされていて、黒いおかっぱ頭になっている。

「こんにちは。アカシア。髪を切ってきたの?」とぼくは言う。アカシアはきょとんとした顔でぼくを見る。
「アカシア?誰のことですか」と彼女は言う。今度はぼくがきょとんとする。確かに、午前中に一緒にスタン・スミスを洗ったアカシアと同じ顔をしている。そばかすやほくろの位置も同じ。でも、何かがおかしかった。アカシアよりも少し若く、あの激しい怒りを着ていない。肩に彫られていた薔薇のタトゥーがない。緑色のロングスカートに、白無地のフレンチスリーブのシャツ、汚れのないグルカサンダルという格好で、全体的に服装に清潔感があるばかりか、黒髪にはキューティクルさえ残っている。
「失礼しました。知り合いに似ていたものですので」とぼくは言う。
「あの。ここはカフェですか」と遠慮がちに彼女は言う。
「サービスエリアです。軽食と飲み物とガソリンと軽油くらいは売ってます。何か必要なもの、ありますか」とぼくは言う。
「おなかすいちゃって。メニューあります?」と彼女は言う。
「すぐできるのは、日替わりサンドイッチか、ワンプレート。今日はウィンナーと目玉焼きプレートかホットサンド。トマトとモロヘイヤが付きます」とぼくはメニューのチラシを渡して言う。
「あの、ありがとう。日替わりのサンドイッチもらえますか。それから、あれば冷たいお茶を」
「わかりました。そこのテーブルについて、お待ちください」午前中アカシアが座っていたテーブルを案内して、ぼくは言う。「よければ、そのケースの中のドリンクをどうぞ。別途有料にはなりますが」氷と飲み物の入った発泡スチロールを指して勧める。アカシアと同じ顔をした女はぺこりとお辞儀をする。

 小屋に入って食事の準備をする。小屋の中で、ベイブの運んできた物資を整頓していたおじいちゃんが、窓の向こうにいる彼女の姿に気づき、身体を硬くする。
「もう戻って来やがったのか。あの娘」今すぐにでも、納屋に武器を取りに行きそうな顔でおじいちゃんは言う。「いや、違うみたいなんだ」とぼくはおじいちゃんを制止する。
「違うってなにがだ。違わないだろ。専守防衛とは言え、先手必勝だ」
「違うんだ。アカシアじゃないみたいなんだ。顔はアカシアなんだけど。そんな名前じゃないっていうし、ぼくのことも知らない。肩にタトゥーが入ってないし、清潔な雰囲気があるし、なにより怒ってない」
「それはおまえ、もしかしたらあれなんじゃないか」とおじいちゃんは言う。ぼくは頷く。
「うん。とりあえず、ランチを食べたいっていうから、作って出してくる」
「一応、料金は先にもらっとけよ」とおじいちゃんが言う。
 ぼくはバターをひいたホットサンドメーカーで、スライスしたウィンナーと生卵とトマトとモロヘイヤを挟んだサンドイッチを焼く。小麦の焼けるいい香りが漂い、卵に火が通ったら皿の上に出す。氷を入れたグラスに、ジャスミンティーを注ぐ。それらをトレイに乗せる。表ではベイブがトラックのラジオをつけて野球中継を聴き始めていて、展開の度にいちいち「あおぅっ!」だの「ふぉうっ!」だの叫んでいる。アカシアと同じ顔の女はその度に驚き、びくんと体を震わせる。やがて諦めたように頬杖をつく。背を丸めて、少しふてくされた猫のような後ろ姿は、やはりアカシアにそっくりだ。

 ぼくがホットサンドを運ぶと、彼女は警戒する猫のような表情で、ぺこりと会釈をする。だいぶお腹が空いていたようで、まだ湯気の立つホットサンドを無理に急いで食べる。急ぎすぎて、半熟卵の黄身が彼女の手や唇や顎を黄色く汚す。それを見ていたぼくに気づいて、照れ笑いを浮かべる。笑いながら、なおも急いで食べることをやめない。
 ぼくはサービスエリアの入口の椅子に座って、街道をゆく車の流れを見る。ベイブのトラックから流れていた野球中継が終わり、午後のニュース番組に切り替わっている。ベイブは運転席を倒して仮眠をとっている。二匹の蜻蛉がぼくの目の前で超高速の追いかけっこをしている。同じ柄の二匹の蜻蛉の飛行は目まぐるしすぎて、どちらが追っていて、どちらが追われているのか、ぼくにはわからなくなる。
 「あの」と彼女が呼び、ぼくは食器を下げに行く。「ごちそうさま。ごめん、すごくお腹すいていて」と言って彼女は照れ笑いを浮かべる。
「わたし、町に行きたいんだけど」と彼女は言う。
「ええと。それはあっちの町のこと?」とぼくは未来の方角を指さして言う。
「そう。途中までヒッチハイクで来たんだけど、なんかセクハラっぽいことばっかり聞かれて、肩とか膝とか触られそうになって、降りて歩いてきたの」
「ここか三十分くらい歩くと、街道沿いにバス停があるよ。一日に数本しか止まらないけど、乗れば、未来の町の方に向かう」ぼくは地平線まで続く街道を指さして言う。
「ほんとう?よかった」と彼女は言う。
「未来へいくの?」とぼくは訊く。
「あたりまえでしょ」と表情だけで彼女は言う。

 アカシアと同じ顔をした女は、食後にジャスミン・ティーを飲む。ぼくは街道を眺めながら、口笛で「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」を吹いてみる。彼女は飲んでいたグラスを置き、口笛でベースラインを吹く。ぼくと目が合うと、にこりと微笑む。
「ねえ、あの、訊いてもいい?」と彼女は言う。ぼくは頷く。
「アカシアって誰のこと?」と彼女は訊く。
「知り合いなんだ。似ているもので、間違えてしまって」とぼくは言う。
「わたしに似てる?」
「そっくり同じ顔。でも、彼女はモロヘイヤが嫌いで、常に怒りに満ちてて、肩に薔薇と髑髏のタトゥーを入れてた。お姉さんとは少し違う。アカシアの方が年上だし、肌もだいぶ荒れてた」
彼女はうつむいて、しばらく考える。
「アカシアっていう名前の友達が、わたしにもいた」と彼女は言う。「でも、あなた、いったい誰なの。それは、わたししか知らないはずなのに」と彼女は言う。
「ぼくはひまわり」とぼくは言う。
「ひまわり。わたしは、ヒナギク」と彼女は名乗る。
「ヒナギクの友達の、アカシアの話を聞いてもいい?」とぼくは訊く。ヒナギクは空を見上げて考える。ここではみんな空と相談する。
「その前に、あなたの知ってるアカシアの話を聞かせてくれない?」とヒナギクは言う。ぼくは説明する。
 アカシアはバイクに乗ってこのサービスエリアに迷い込んできた。長い事洗っていないYAMAHAセロー250に乗って。坂道を転がる岩石のように乱暴な運転だった。着てる服も、髪も、靴も、すべてがぼろぼろで、憎しみに満ちた瞳が一番ぼろぼろだった。でも、他愛のない話をして、お茶を飲んだり口笛を吹いたりしている間に落ち着くことができた。憎しみが剥がれた後のアカシアの瞳は、こどもっぽく澄んでいた。ベースが好きだって言ってた。バンドもやってるけど、今は休んでいるんだって。ぼくが口笛でメロディを吹くと、アカシアはベースラインを吹いてくれた。今朝もここに来て、ブランチを食べていったけど、おじいちゃんと喧嘩になって怒って帰ってしまった。
 アカシアについての説明を聞いた後、ヒナギクはしばらくの間、内容を頭のなかで総括するためにじっと黙りこむ。
「ねえ、その人は綺麗だった?」とヒナギクは訊く。
「いや、ぼろぼろだった」とぼくは言う。「でも、バイクや靴がそうだったように、色んな所を洗えば綺麗になるかもしれない。時折、憎しみを忘れて話すアカシアは屈託がなくて素敵だったよ」
「薔薇と髑髏のタトゥーが入ってたんだよね。それから音楽に詳しくて、ベースラインを口笛で吹く。バンドを演ってる。気が強くて、誰を相手にしても一歩も引かない。場の空気に合わせて振る舞うことをしない。髪を染めてて、ランナウェイズみたいな髪型をしてる。左耳に五個以上のピアスをしている。自分からは喧嘩を売らないけど、傷つけられたら必ず逆襲する。恋人の話してた?」とヒナギクは訊く。
「恋人の話は少ししてた。十九歳の時に付き合ってた、やけにものを沢山くれる恋人との別れ話とか。ランナウェイズの髪型がよくわからないけど、腰まであるバサバサの髪を赤っぽく染めてた。ピアスについてはわからない。髪で隠れてたから。ぼくよりヒナギクのほうが、アカシアについて、ずっとよく知ってるみたいだね」とぼくは言う。
「ランナウェイズは七十年代のハードロックバンドだよ。メンバーは全員女性。しなやかな狼って感じで、かっこいいんだ」とヒナギクは言う。
「アカシアもそういう話、たくさんしてくれたよ。「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」はアシッドソングなんかじゃないとか。チャーリー・ワッツがミック・ジャガーを殴った理由だとか」
「バンド内の権力に酔ったミックに真夜中に呼び出されたうえ、所有物みたいに『おれのドラマー』呼ばわりされたチャーリーが怒ったんだよね」とヒナギクは言う。ぼくらは、その光景を想像して二人で笑う。
 ヒナギクはテーブルに頬杖をついて、視線だけを空に向け、何かを考える。
「ねえ、自分の話していい?」とヒナギクは言う。ぼくは頷く。
「わたし、あまり友達のいない子だったの」とヒナギクは言う。少し恥ずかしそうに笑う。「友達のいない子には二種類あるでしょ。自分から望んで友達を作らない子と、友達が欲しい癖に付き合い方が分からない子。あたしは後者だったの。きみは友達はいる?」
「いない」とぼくは言う。
「平気?ひとりで何をしてるの?」とヒナギクは訊く。
「ここで空を眺めたり、野菜を炒めたり、食器を洗ったり、自分の出来ることをしてる」
「さみしくない?」
「さみしくない。おじいちゃんもいるし。あそこのトラックの運転手がキャッチボールに付き合ってくれる」ぼくはベイブの寝ているトラックを指さして言う。点けっぱなしのラジオから、遠くの国で起きている戦争のニュースが流れている。
「わたしはさみしかった」とヒナギクは言う。ぼくは頷く。
「きみのくらいの年の頃、今思うと、わたしは生きてるのか死んでるのかわからない子供だった。特におかしな子っていうわけじゃなかったと思う。何処にでもいる目立たず大きな問題のない女の子。友達がいなかったわけじゃないけど、誰といっしょにいても自分がなにをしているのか曖昧な感覚があった。自分から話しかけるのは苦手。でも、話しかけられれば、それなりの返事は出来るし、遊びや噂話にも付き合える。みんなと同じことをしたり、同じものを好きになったり、嫌いになったりすることはできたけど、全部うわべだけ。本当のところは何一つ好きでもなければ嫌いでもなかった気がする。あの日までは」とヒナギクは言う。
「わたしの両親は共働きで、二人とも帰りが遅くて、わたしは大体いつもタブレットで動画を見ながらひとりで冷凍食品やら菓子パンやらを食べていたんだ。流行さえ知っておけば最低限の交流は出来るから、友達と繋がるためにインターネットでメディアを貪ってた。ある日、例によって独りでタブレットを観ながら動画サイト巡りをしてたら、なんの偶然かランナウェイズのライブ映像を観たの。シェリー・カーリーっていう半裸のヴォーカルが英語でオーディエンスを挑発して、ジョーン・ジェットっていう狼みたいな黒髪の女の人がギターを鳴らした瞬間、地球がまっぷたつに裂けて、わたしがうぎゃあと産まれたわけ」
話しているうちに段々興奮して、ヒナギクはぼくの方をみて誇らしげにニヤリと笑う。ぼくは口笛を吹く。
「わたしはタブレットのボリュームを最大にして、両親が帰ってくるまでずっと、ランナウェイズの動画を観てた。シンプルな黒豹みたいなエレキギターとベースとドラムス。何も恐れていないセクシーで不道徳なヴォーカル。夕食を食べている途中だったことも忘れ、皿も洗わず、ずっと観てた。帰ってきた両親には叱られた。あの時、あたしにとってランナウェイズの動画をフルボリュームで観ること以上に大事なことなんて何一つなかった。もう一度産まれ直したような衝撃だった。十一歳にしてはじめて素肌で空気に触れたような、あたしと世界を隔てる無機質な膜が破られたような、それはそれは素晴らしい気分だったんだ」
うっとりとした顔でヒナギクは話す。ぼくはその話調から、ヒナギクの語る第二の誕生に崇高さすら感じる。
「〈人に迷惑をかけなければ何をしてもいい〉が口癖の、忙しすぎてネグレクトぎみの両親は、わたしがランナウェイズを好きになったことを若干迷惑に思ったみたい。ねえ、人に迷惑をかけないで生きていけると思う?」とヒナギクは訊く。
「生きていけると思う。迷惑をかけているなんて、考えなければいい」とぼくは言う。
「いいね、それ。そりゃそうだ」と言ってヒナギクは笑う。「もっと昔に、それ知っておけばよかった。わたし、なかなかいい子だったんだ。今でこそ、人間なんてみんな、生きてるだけで迷惑だって思うけど、なんとかそうあろうとしたんだよ。迷惑じゃない人間に。努力次第でそこそこ上手くはいく。でも弊害があって、いい子になろうと努力すればするほど、親しい人ができないの。そりゃそうよね。相手の顔色を窺ってばかりのやつに、本当の意味で心なんて開けないもの。そればかりか、気を使ってばかりいるわたしのことを、みんなが雑に扱うように、軽んじるようになった。こいつは人に迷惑をかけない女だ。放っておいていい。と分別されたみたいな気がした。わたしが思うに、人に迷惑をかけない、っていうのは、一種の特別な能力、ギフトであって、みんなが目指すものではないと思うの。幸福で安らかな死を目指すことを前提に、人生を送るみたいな不確かさを感じる。それって本当に、幸福?とにかく、その頃からわたし、音楽が好きになった。わたしにとって音楽は、迷惑っていう概念の無効化を可能にする代物だった。カルチャーって言うのは必ずシナプスみたいに繋がっているもので、ランナウェイズの解散後にジョーン・ジェットが結成したブラックハーツや、ラモーンズやイギー・ポップといったパンクの始祖たち。彼らと同世代のストーンズだとか、キンクスだとか。それらから影響を受けた後世のアーティストとか。シナプスの網を飛び回るように音楽を聴いた。よく、歴代のロックスターを集めた幻のバンドを作ったり、サッカーチームを作ったり、そういう遊びをしてたの。今思い出すと、これはだいぶ気持ち悪いな」
「そんなことないよ。楽しそうだね」とぼくは言う。
「そうでしょ?でも絶対上手くいかないのよ。あるバンドが結成される時、そこには必ずそのバンドでなければならない必然性があるわけで、頭の中で幻のドリームバンドを作っても、そこには具体的な音楽が鳴らないの。それよりは、金目当てで再結成したオールドロックのライブを観る方がまだ衝撃があるってわけ。夢は現実よりも弱しなのね。そう。そうなのよ。ひまわり。あの頃のわたしは、こんな話ができる友達が欲しかった。でも、そういう話や遊びができる友達はいなかったし、あたし自身、当時は自分の感じてることをうまく喋ることができなかった。運よく二度も産まれることができたわけだけど、それぞれの世界の言葉をまだ獲得してなかったのね。家や学校では、相変わらず人に迷惑をかけない、目立たない子のままでいた。そういう音楽が好きだってばれると目立っちゃうから、学校では秘密にしてたの。学校が終わって、家に帰って宿題を片付けたりサボったりする間、ずっとうるさくて素晴らしい音楽を聴いてた。その頃のあたしは授業中、教科書の隅に架空のロックスターの肖像を描いてた。二枚のフルアルバムを出してる、女豹みたいなシンガー。アルバム名も曲名もすべてわたしが考えて、作詞もした。ファッションやロゴ、血液型、成育歴、持病まで詳細に考えた。幼い頃、事故で両親を喪っている。誰に対しても遠慮なく自分の考えを突きつけることが出来る。味方に対しては優しいけど、敵に対しては一歩もひかない。本当に心を許せる友達は作らないけど、孤独と仲良しで、そこから素晴らしい曲を作る。左耳に五つのピアス。肩には薔薇と髑髏の入れ墨。車じゃなくてバイクに乗ってる。YAMAHAのセロー250っていうのがカッコよかったから、これに乗せよう。服装はぼろぼろだけど、その分心がぴかぴかに輝いてる。よく磨かれたゼマイティスのギターのボディみたいに。その女の名前が」
「アカシア」とぼくが言うと同時に、あの音が鳴り響く。怒り狂ったセローのエンジンの音が。殆どスピードを緩めず敷地に侵入してきたアカシアのセローが転倒する。アカシアがバイクのシートから投げ出される。セローは横倒しになり、鉄の鹿みたいに地面を滑っていく。エンジンはストップし、両輪が空転する。アカシアが立ち上がり、冷たい目でぼくを見る。

 横転したセローのリアシートに括りつけられた、中身がいっぱいに詰まった巾着の中から金槌と手製のパイプ銃を取り出して、アカシアは言う。
「ひまわり。あんたのジジイは何処よ」とても静かで冷たい声だ。以前ぼくを拉致した白髪の多い女のことを思い出す。あの予め惨殺された沈黙。ヒナギクが何か言おうとするが、アカシアの冷たい視線が、その喉笛を圧迫して声を塞ぐ。アカシアとヒナギクは、互いに相手が自分と同じ顔をしていることに気づく。
「おまえ」とヒナギクを見て言う。瞳が鉄球のように大きく見開かれる。「おまえか」とアカシアは言う。ヒナギクにパイプ銃を突きつける。ぼくはヒナギクの前に立つ。
「だめだよ、アカシア」とぼくは言う。「ヒナギクは町へ行くんだ。未来へ。だから、傷つけちゃだめだ」
「ひまわり」とアカシアは言う。泣きだすのか、笑いだすのか判断の付きかねる顔で。「そいつをかばうの?あたしよりも、そいつを。やめてよ」ぼくは首を振る。遠い国で頭が二つある蛇が産まれたというニュースを報じているトラックのラジオ。街道をゆく車の風切音。青空を埋め尽くす蝉の鳴声の重奏で、太陽が撒き散らすプリズムが粉々に割れる音。すべてが遠くから聴こえるが、すぐ傍で話すアカシアの声が最も遠くに聴こえる。
「じゃあ、ひまわり。あたしと一緒に来てよ。そして傍にいて。あたしの話を昨日みたいに聴いてて。そしたら、あたし耐えられるかもしれない」
ぼくはもう一度首を振る。
「ええと。アカシア。ぼくの知り合いが教えてくれたことなんだけど、過去のプレイを悔やんではいけない。過去はスコアブック。ただの記録であって、未来はネクストバッターサークル。まだ始まってない円の中。それで」
「なんの話してる?ひまわり」話を遮ってアカシアは言う。殆どまばたきをしていない。
「野球と未来と過去」とぼくは言う。
「あたしは野球なんて観たこともやったこともないんだよ。どうなの、ひまわり。あたしといっしょに来てくれるの?後ろのぶすはどうなの?大人しく、あたしに殺されてくれるの?」
ぼくは首を振る。ヒナギクは、ぼくの背後で怯えながらじっと立ち尽くしている。
「アカシアはセローに乗って、ヒナギクはバスに乗って未来へ行く。ぼくは残る。それが一番いいよ。自分の部屋へ帰るんだ。それでいっしょに靴を洗う人を探したり、ベースを弾いたりすればいいんだよ」とぼくは言う
「ねえ、ちょっと待って」と震えながらヒナギクが言う。「あなたは未来のわたしで、名前はアカシアで、わたしを殺したがってるの?どうして?」
「そうだよ。ヒナギク」とアカシアが言う。怒りに眩んで自分とヒナギクの境界を見失い、憎悪の対象を混同する。「あんたの付けてくれた名前が、あたしは大っ嫌いだ。変わりたくて、誰かに大切にしてもらいたくて、雑に扱われてたヒナギクの名前を捨てた。知らない町で、あんたのくれた偽名、アカシアらしく振るまった。でも、どうしてもだめだった。何度やり直しても、誰もわたしを大切にしてくれなかった。中でも、一番あたしを大切にしなかったのはあんただ。ヒナギク。よくも名前を偽り、姿を偽り、あたしを偽ったな。その挙句、あたしがどんな目にあったか知っているのか」
 アカシアとぼくらの間には見えない壁が一枚あって、それが言葉と感情を遮っている。向こう側から見る壁には憎悪が書かれており、アカシアはぼくらというよりは、寧ろその壁に向かって吼えている。同じくらいの憎しみを持たなければ、壁の向こう側には行けないし、壁のこちら側には、憎しみを捨てなければ来られない。ぼくらは隔てられている。
「知るわけない。それはこれから起こることなんでしょう」とヒナギクは言う。
「その通りだ。しかも、繰り返し繰り返し、何度も起こることだ。おまえは、おまえが大切にしなかったあたしにぶっ殺されるんだよ。おまえは胸のなかの悲観で知っていたはずだ。いつか未来はひどいことになると。その通りだよ、ヒナギク。なのにお前は何もしなかった。あたしを見えないふりをした」とアカシアは言う。ヒナギクはアカシアを見る。鏡のなかの傷ついた双子を見るように。
「ごめんね。なにがあったのかわからないけど、あなたのきもちは分かる気がする。そうさせているのが、わたしだということも。何が何だかわからないけど、出所のわからない寂しさを抱えてることも知ってる。ひとりぼっちの部屋で、ずっと育てていたもの。それが破裂したのね」とヒナギクが言う。「かわいそうなひと」
 ヒナギクが、ぼくらを遮る壁を貫くように手を伸ばす。アカシアの傍に寄って、身体に触れようとする。銃声が響く。撃ったアカシアを含めて、ぼくらは体を震わせる。空に向けて撃たれた弾丸は誰も傷つけていない。アカシアの目から涙が溢れている。鉛玉だった瞳が割れて、その中から感情が次々と落ちていく。白い硝煙が、ぼくらの姿を、互いの視界から隔てる。
「おい、おまえら、いい加減にしろよ」と背後で叫び声がする。フルフェイスのヘルメットをかぶったおじいちゃんが納屋から出てくる。右手に持ったオートマチックの大きな拳銃をアカシアに向けたまま、ぼくらに近寄る。
「お前らが、何万回自分に対して逆恨みしようが知ったことか。無数の過去と無数の未来の中から、たった一人だけ殺して何になる、とだけ忠告してやるが、とち狂ったお前らの耳には入らないだろう。それはいい。だが、ここから出ていけ。おれの孫にも近づくな。山を越えるなり、自分自身と慰めあうなり、殺しあうなり、好きにするがいい。だが、もう一度言うぞ。おれの孫を巻き込むな。黙って聞いてりゃなんだ。寄り添ってくれなかっただの、見てくれなかっただの、否定されただの。おまえらはその逆が欲しいのか。対立と対話と批判のない世界か。そこの名前を知っているか。腐った羊水だよ。ここにはない。探しに行きたきゃ好きにしろ。ただし、おまえらだけでやるんだ。この世界の外側で、勝手に共倒れになるがいい」
アカシアの涙が一瞬にして乾く。さっきまで感情で潤んていた瞳が、冷たく停止する。
「あたしをお前って呼ぶな。あんたの身内じゃないぞ、老いぼれ。それから、ずうずうしく、わかったようなことを言うなよ。そもそも、先にあんたに会いに来たんだ。偉そうに上や外から批判するだけの行為の末路を教えてやる。対価を払え」アカシアはパイプ銃をおじいちゃんに向ける。
「なんだそりゃ、手製銃か?よく暴発しなかったな。そんな玩具で何ができる」おじいちゃんは怯まずに鼻で笑う。
「知らないのか。こいつには黒色火薬と憎しみが詰まってる。両方あれば、ひとは殺せるんだよ」とアカシアは言う。
「そんなものがなくても殺せる奴のほうが強い」そう言っておじいちゃんは引き金を引く。乾いた金属音だけが小さく鳴り、銃弾は発射されない。弾詰まりだ。おじいちゃんの表情が一瞬にして蒼白の絶望に染まり、自分の手の中の銃とアカシアを交互に見る。今後はアカシアが撃つ。轟音が鳴り響き、ぼくらの視界を再び白い硝煙が眩ます。硝煙が晴れると、おじいちゃんが倒れている姿が見える。ぼくはおじいちゃんに駆け寄る。ヘルメットを脱がす。気を失っているが、幽かに呼吸している。撃たれた胸から血は流れていない。弾丸はおじいちゃんが着ていた防弾チョッキを貫通する威力を持っていなかったようだ。
 ぼくはアカシアを見る。その目にはまだ半分も殺意が残っていて、このまま、ぼくとヒナギクを、あるいはそのどちらかを撃ってしまおうか迷っているように見える。アカシアの背後、十メートル程離れた場所に停まっているトラックの窓からベイブがこちらに合図している姿にぼくは気づく。トラックに背を向けたアカシアと、恐怖のために硬直しているヒナギクはベイブの存在に気づいていない。ベイブは草野球の試合のベンチの中からそうするように、身振り手振りで『気づかれないように時間をかせげ』とぼくにサインを送る。
「アカシア、ヒナギク。ちょっとだけ動かないで聞いてほしい」とぼくは言う。ふたりがぼくの方を向く。「ぼくもアカシアと同じで、ひまわりっていうのは後からもらった名前なんだ。いつも陽の光の方を向いているから、ひまわりって、おじいちゃんが呼び始めた。その前は両親がくれた名前があったけど、もう誰もその名前でぼくを呼ばない。ぼくをそう呼んでいたひとたちは、みんなここからいなくなってしまったから」
「ひまわり。あんたは、もとの名前が恋しくないの。さみしくはないの」とアカシアは言う。ベイブが音をたてないようにトラックの運転席を降り、軟式の野球ボールを掴むと、太陽に目掛けて投げる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。滑らかなフォームで、四つの軟球が太陽に向けて発射される。
「ぼくはさみしくない。でも、アカシアがさみしいのなら、それはきっと、アカシア自身が言うように元の名前が恋しいせいなんじゃないだろうか」
 アカシアがヒナギクにパイプ銃を突きつける。ヒナギクは恐怖と諦めの入り混じった目で、アカシアを見る。
「だったら、なおさらこいつをぶち殺さなくちゃ。あたしから名前を奪ったのは、他でもないこいつだよ、ひまわり」
「ヒナギクは未来に行くんだよ。未来に行く人を、責めちゃだめだ」とぼくは言う。
「まだこいつをかばうの。その未来から、こいつにとどめを刺しに来たのに」
アカシアが言い終わると同時に、軟式のボールが太陽の中から落ちてきてアカシアとヒナギクの脳天を直撃する。二人は気を失って、プラスチックのボウリング・ピンみたいに地面に倒れる。続けてもう二球落ちてきて、倒れたアカシタとヒナギクのすぐ傍の地面に落ち、再び太陽に吸いこまれるように高く弾む。
 ベイブがトラックの影から姿を見せてぼくらの方へ歩いてくる。倒れているおじいちゃん、アカシア、ヒナギクを順番に指さし、トリプルプレーを実現した選手のようにガッツポーズをする。ぼくもつきあって拳を握った手を三回振り、スリーアウトチェンジのジェスチャーをする。四つのボールが弾力のある音をたてて弾む。音は、だんだん小刻みになって最後には消える。

「銃を持ってる方だけでよかったのに。両方からアウトをとっちゃうんだもんな」とぼくは言う。
「いや、寝てたもんで、どういう状況かわからなくてさ。とりあえず知らない顔からアウトを取っておこうと思って。念のため四球投げたけど、必要なかったな。二球で十分だった」とベイブは言う。
 ぼくらは地面に倒れたままのおじいちゃんに声を掛ける。「たぶん、だいじょうぶだ」とものすごく弱々しい声でおじいちゃんは言う。ベイブがおじいちゃんを背もたれ付の椅子に座らせる。
「どうします。あの娘ども、山に捨ててきますか」とベイブが言う。
「だめだよ。ヒナギクは未来へ向かってるだけだし、アカシアだって悪い人じゃないんだ、たぶんだけど」とぼくは言う。
「ベイブ。たすかった。ありがとう。報酬を出すから、もう少し力を貸してくれ」とおじいちゃんは言う。
 おじいちゃんの指示に従い、ぼくとベイブは納屋の武器庫からすべての武器を運び出し、小屋に移す。気を失ったままのアカシアとヒナギクを運び、納屋のベッドに寝かせる。おじいちゃん曰く秘蔵のお香を納屋の中で三つ焚く。三角錐の形をした菫色のお香の、甘ったるい匂いが納屋の中に満ちる。納屋の二つの窓の雨戸を閉め、工具を使って外側から固定して、中から開かないようにする。入口の扉にも、錠前を三つ付けて外から開かないようにする。おじいちゃんを小屋のベッドに運んで寝かす。すべて終えてしまうと、ベイブは仕事に戻ると言って、トラックを運転してサービスエリアから出ていく。去り際に、もう一度「バットを手放すな」とぼくに忠告をする。

「これでいい。このまま、あの娘たちを一晩放っておけ」とベッドに横たわって、おじいちゃんは言う。「あとは、あの娘たち次第だ。おれは少し休む。胸を強くやられたようだ」
「大事ないといいんだけど」とぼくは言う。
「ひまわり。すまんが、納屋を見張ってくれ。ベイブの言った通り、バットを手放すな。ナイフと銃も持っておけ。その上で、あの娘たちには一晩泊まれと言っておけ」
 それだけ言うと、おじいちゃんは目を閉じて、苦しそうに息をする。ぼくは枕元に水の入ったグラスを置いて、小屋を出る。

 サービスエリアの入口に黄と黒の標識ロープを張って、休業中の看板を立てかけた後、ぼくはアカシアとヒナギクを軟禁した納屋に梯子をかけ、屋根に上る。小型犬くらいしか通れない大きさの天窓から納屋を覗くと、アカシアとヒナギクはひとつのベッドで背中合わせになって眠っている。ぼくは梯子を降りて、納屋の入口に椅子を置いて座り、しばらくの間、雑誌を読んだり、空を眺めたりして過ごす。扉の隙間から、納屋の中で炊いた菫色のお香の甘い香りが漏れてきて、それを嗅いでいると頭がぼんやりしてくる。紫の薄い羽衣を着た人影に抱かれ、安らかな眠りに誘われるような不思議な気持ち。無性に誰かを抱きしめるか、抱きしめてもらいたくなる。でも、そんな人はいないので、ぼくはまた口笛を吹きながら空を見る。

 数時間おきに、おじいちゃんの様子を見に行く。起き上がるとおじいちゃんの胸が痛むので、トイレや食事の際には肩を貸して立たせ、支える。大蒜とにんじんとたまねぎを柔らかく煮込んだスープに刻んだトーストを浮かべたパン粥を、おじいちゃんは苦しそうに全て食べた。
「あの二人はどうだ」とおじいちゃんが言う。痛みのために声がか細い。
「まだ目覚めない。おじいちゃん、あのお香、なんなの?嗅いでると、あたまがぼーっとする」
「おれがたまに世話になってる女がくれたものだ。あの、紫色の下着の持ち主さ」
「ぼくの知らない人?」
「ああ。おまえには内緒で、たまに夜、こっそり呼んでた女がいる。そいつがくれたんだよ。仲良くなるための秘密のお香だとさ。何度かいっしょに使ってみたが、確かにその通りだったよ。漏れてきた匂いにやられたか。ガスマスクを着けていけ」とおじいちゃんは言う。ぼくは武器庫から運び込んだ物品の中からガスマスクを見つけ、手に持って小屋を出る。

 日没がはじまる。麦畑の向こうの地平線に、オレンジに染まりはじめた夕日がゆっくりと落ちていき、無数の黒い鳥たちの影がそれを追って飛びたってゆく。太陽の光が蝋燭の炎のように、沈む直前のわずかな時間、言い残したことを早口で喋るようにひときわ赤く燃える。ぼくは納屋から漂ってくるお香の煙を吸わないように、ガスマスクを装着している。円形の目硝子の中に閉じ込められた二つの太陽が揺れている。
 納屋の中から話し声が聴こえて、ぼくは梯子を上って、天窓から二人を覗く。
「一体なにが起こったの」とヒナギクが言う。
「知らないよ。なんでこんなに頭が痛むんだ。たんこぶ出来てないか」とアカシアが言う。同じ顔をした二人が見つめ合う。
「ねえ、まだ、あたしを殺したい?」とヒナギクが言う。
「いや。二発も撃ったせいだろうか。銃声が幾らか、あたしの憎しみを持ち去ってしまったみたい」と少し考えてからアカシアは言う。「それより頭が痛い。あとお腹が空いた」
「そうだね」とヒナギクが答える。「ねえ、何?この甘ったるい匂い。あの男の子はどこ?ひまわりだっけ」
 アカシアがぼくの名前を叫ぶ。ぼくは天窓を開ける。二人が見上げる。
「おはよう。アカシア」とガスマスクを外してぼくは言う。
「おはよう。ひまわり」と天窓を見上げてアカシアは言う。「これはいったい、なにがどうなっているの。ここはどこなの」
「ここはうちの納屋だよ。サービスエリアの敷地の中にある。アカシアが、誰かを殺しかねない程に怒り狂っていたので、ぼくの知り合いが死角から野球のボールを当てて、失神させたんだ」とぼくは言う。
「わたしは?」とヒナギクが叫ぶ。
「ついでに」とぼくは言う。ついで?ついでってなによ。とヒナギクが叫ぶ。
「水道もトイレもある。納屋を自由に使ってもらってかまわない。ふたりとも、今夜は泊っていって」とぼくは言う。
「なんで?」と二人が殆ど同時に叫ぶ。
「ひとつ。ふたりとも、とても興奮している。ふたつ。未来へ向かうバスはもうないし、派手に倒れたアカシアのセローも点検したほうがいい。みっつ。今夜ふたりで一晩話し合って、何らかの結論を出した方がいい。お腹はすいてる?」
ふたりは少し考え込んだ後、また殆ど同時に「空いてる」と叫ぶ。
「今から夕食を作ってくる。できれば、もう殺しあうのはやめて。危うくなったら、思いっきり叫んで。それがどちらであろうと、ぼくが殺されそうになってる方を助けに来るから」とぼくは言う。「あと、アカシアが撃ったおじいちゃんは防弾チョッキを着ていたので、死んでないよ」と付け加える。
「ひまわり、あたしを許さないよね」とアカシアは言う。ぼくは答えずに梯子を降りる。
 途中で戻って、もう一度天窓から声を掛ける。
「言い忘れた。その菫色の香りは、おじいちゃんの持ってた脱法ハーブ。もう大分吸いこんでるから、ふたりはこの後、嘘が吐けなくなるよ」とぼくは口からでまかせを言う。

 小屋で休んでいるおじいちゃんに、二人が目覚めたことを伝える。おじいちゃんは「そうか」と頷いて、寝返りを打つ。
 ぼくはオリーブオイルを引いたフライパンでベーコンと赤唐辛子を弱火で炒め、作り置きのトマトソースをそこに追加して温める。パンに、チーズとフライパンの中で赤くふつふつと泡立つトマトソースを挟み、ホットサンドメーカーで焼く。二人分のサンドイッチが出来ると、キッチンペーパーに包んで、赤毛のアンがピクニックで使っていたような藤で編んだバスケットに入れる。冷蔵庫から冷えた赤ワインを一本出して、これもバスケットに入れる。
「失敗したよ」とおじいちゃんが胸の痛みに呻きながら言う。「まさか、あそこで銃が弾詰まりを起こすとは。普段からの手入れが足りていなかったか。それとも運がなかったのか」
「でも、おじいちゃんがアカシアを撃たずに済んで、少しほっとしたよ」とぼくは言う。
「おまえはそうだろうな。おまえは撃つよりも撃たれる方を選ぶ子だ。だが、おれは違う。殺すと決めたら、殺す。そのつもりだった。おまえに銃が突き付けられていたんだ。容赦する理由などひとつもない」
「おじいちゃん。眠れそう?」とぼくは訊く。
「ああ。すぐにでもな」とおじいちゃんは言う。「ひまわり。眠っちまう前に聴いてくれ。もし、おれが死んだときの話だ」
 ぼくは頷く。おじいちゃんは痛みを堪えて話す。
「もちろん、おれは不死身だし、もうしばらくの間、死ぬつもりはない。だが、一応言っておく。金や貴重品は、隠し金庫の中に入ってる。場所は知ってるな。番号は前にも言ったが、おまえの誕生日だ、忘れるな。物資の取引の事はベイブに聞けば大体のことはわかるだろう。あいつは単純で正直でフェアプレイな男だ。信頼できる。なにかあったら、ベイブに電話して聞け。おれの死後はおまえとベイブに遺産が行くように手続きしてある。取り分はお前が6でベイブが4だ。ただし、ベイブはおまえの後見人になる。これはベイブも了解済みのことだ。おまえは、このサービスエリアに残ってもいいし、両親の住んでいる未来へ向かってもいい。もちろん、独りで他の場所に行っても。これまで、おまえは自由だったし、これからも、おまえは自由だ。おれが死んだら、もう十一歳から先に身体を成長させたっていいんだ。このサービスエリアから手を放して、未来へ落下しさえすれば、身体も成長をはじめるだろう」
おじいちゃんは苦しそうに胸を押さえる。咳をするとより痛むので、何とか耐える。
「もういいよ。おじいちゃん。その話は、また今度にしよう」とぼくは言う。実際、これ以上聴きたくない。愛する人の口から、その人が死んだ後の話なんて。
「いいや。もう一言だけだ。おれが死ぬことは、おれの死を意味しない。おれは未来に行くだけだ。そして、昨日言ったな。おまえのいるところが、おれの未来なんだ。だから一緒だぞ。ひまわり」
ぼくは頷く。
「さあ。おれは少し休む。あのアカシアとかいうイカレ娘の見張りをしてきてくれ。さすがに今襲われたら手も足も出ない。危険を感じたら武器を使えよ。自分の身は自分で守れ」とおじいちゃんは言う。ぼくは頷く。やがて、おじいちゃんの顔が少し柔らかくなり、安らかな寝息が聞こえはじめる。おじいちゃんの胸が規則正しく上下する。ぼくはしばらくそれを見守ってから、ガスマスクと、夕食の入ったバスケットを手に持って小屋を出る。

 茜色の空の裾が、群青に染まり始めている。天頂には、剃刀で切ったみたいな白い鋭い三日月が浮かんでいる。ぼくはガスマスクを装着し、夕食の入ったバスケット持って屋根に上る。少しだけ涼しい風が吹いていて、一日に起きたことのあらましを地平線の彼方に吹き飛ばす。風に飛ばされなかった重たいものだけがぼくの心の底に沈み、留まる。ぼくは屋根の上から、宵闇と茜色の境界線をじっと眺める。茜色の液体と、宵闇の液体が、空の海月の体の中でゆっくりと混ざっていく。
 納屋の中からは、アカシアとヒナギクが大声で言い争っているのが聴こえる。アカシアだけではなく、ヒナギクも話の中でお互いを混同している。
「アカシアっていう名前はただのキメラだ。ジョーン・ジェット、キム・ゴードン、ニコ、トーリ・エイモス、フィオナ・アップル、パティ・スミス…あんたの憧れたアーティストの部分部分を融合させただけの、奇怪なコラージュだ。そこには、余りもあんた自身が欠けているんだ。なんでそんなスーパー架空のスターを作ったのかって、あんたがあまりにも自分に自信がなかったからだろ」アカシアがそう喚いて怒っている。
「だからって、遡って自分を殺しに来るって、どんな逆恨みよ。誰も巻き込まず、ひとりくたばる程度のことが、なんでできないわけ?あんたがわたしを責めて殺すってことは、あんた自身を責めて殺してるってことなんだからね。欲しいものがわからないって言ってたね。あんたが欲しいものは、わたしだよ。アカシアじゃなくて、ヒナギクに戻りたいんだろ」とヒナギクが言い返す。
「嫌いに決まってるだろ、ヒナギクなんて。言ってるでしょ、自分に自信がないからって、こんなあたしを創造した奴が憎くて仕方ないって」
「自分が憎いからって、周りに当たり散らさないでよ。弱虫」
「なんでそんなこと言うの。ねえ、あんた、あたしの気持ちがわかるって言ったじゃない。優しくしてよ」
「じゃあ、優しくしたくなるような態度をとってごらんよ。そういうところが嫌なんだよ。どうしてあんたは、なんでも、してもらって当然だと思うの。優しくしてもらって当然。認められて当然。肯定してもらって当然。慰めてもらって当然。そうしてもらえなかったら、相手が悪い。いったいどこの女王陛下よ。そんな身も心もぶすの女王陛下の国の名前は何処?生ごみ国の女王陛下が腐りかけのたまねぎ頭で甘える方法を探しているだけじゃない。だからいつも変な男とくっついて、半月後には揉めだすのよ」
「おまえ、殺されたいのか。おまえに何が分かるんだ」
「あんたのことなら、なんだってわかるよ女王様。わたしはずっとあんたにお仕えしていたんだからね。ほんとうに、哀れでかわいそうでカッコ悪い女王様」
 自分自身との言い争いが一線を越え、アカシアがヒナギクに飛び掛かる。しばらくの間、二人で髪を引っ張り合ったり、噛みつき合ったり、爪を立てて引っかき合ったりして、納屋中を転げまわる。昔、サービスエリアに迷い込んできた野良犬同士の喧嘩を見たことがあるけど、あんな感じだった。ぼくとベイブで、納屋からは殺傷に繋がるものは可能な限り排したけど、場合によっては威嚇射撃をしないといけないだろうな、とぼくは思う。
 しばらく野良犬同士の喧嘩を眺めているうちに、ぼくはさっきまで怒号だったふたりの叫び声が変わりはじめていることに気づく。低く敵意の塊だった声がだんだん高く明るい音になり、とうとう笑い声が混入する。髪を引っ張り合い、息を切らせて殴りあい、喚き散らすうちに、ふたりの感情を留める部屋の鍵が壊れてしまい、そこから普段は閉じめている人間と狂犬の中間みたいな歪んだ笑顔が覗いている。二人とも鼻血を出しているし、アカシアはヒナギクの爪で目の上を切り、ヒナギクはアカシアの殴打で唇を切っている。それでも嬉しそうに笑いながら、ふたりは殴り合う。
 天窓からその様子を眺めていると、ふたりの間に、ある種の手加減があることに気づく。アカシアがヒナギクの鳩尾に蹴りを突き刺す。呼吸を失ってヒナギクはうずくまる。アカシアはとどめを刺さない。ヒナギクに馬乗りになって、苦しそうなその顔を、歪んだ笑みで見下ろす。まるで相手の苦痛を咀嚼するかのように。呼吸が戻ってくると、ヒナギクはアカシアの髪を掴み、逆に馬乗りになる。平手で顔を張る。乾いた音が何度も鳴り響き、アカシアの鼻血が壁に飛び散る。五、六発殴った後に、ヒナギクはアカシアの鼻血を掌に擦りつけ、泥遊びをするこどものように、自分の体に擦り付ける。アカシアがヒナギクの喉に齧り付くが、そのまま頸動脈を噛み砕くことはしない。ヒナギクが噛まれたまま、アカシアの左耳に噛り付くが、これも耳を引きちぎることをしない。お互いに噛みつき合ったまま、ふたりはお互いの混ざり合った吐息に溺れていく。殆ど同時に口を話し、次は手足を振り回して殴ったり蹴ったりする。二人は終始笑っている。勝ち負けや生死を決めるための喧嘩ではなく、こどもたちがじゃれ合うように、二人のおとなが暴力をふるいあって笑っている。アカシアを上から抑え込んだヒナギクが、息を切らせながら言う。
「こんなの、自分相手にしか、できない」と嬉しそうに言う。「あんた、わたしと話したかったんでしょ。殺したいんじゃなくて、何でも言ってみたかったんでしょう。誰にも迷惑をかけないとか言って、閉ざした心を吐露したかったんでしょ。ほら、言ってごらんよ。自分にだったら言えるでしょ」組み敷かれたヒナギクが笑う。馬乗りになったアカシアがヒナギクの切れた唇を舐める。髪を掴んだままキスをする。息が止まる寸前までくちづけをし、離した後にもう一度殴る。ぼくは気づかれないように天窓を開け、ロープに繋いだバスケットをするすると降ろす。バスケットが無事に床に到達したら、ロープを引き上げる。今度は、ヒナギクがアカシアの膝から下に両手で飛びつき、押し倒す。首筋に噛みついてから、アカシアのタンクトップの破れ目に指を入れて引き裂く。裸のアカシアの鎖骨に爪をたてる。「そうね。自分にしか、できない。好きなだけ傷めつけて、愛してやる、一度思う存分やってみたかった」とヒナギクが言う。「きっと、この菫色のお香のせいよ。脱法ハーブって、ひまわりが言ってた」ふたりは獣が獲物に噛みつくようにキスをする。ぼくは天窓を閉じて、星を見上げる。苦痛と悦楽の二つの車輪が、菫色の煙に包まれて、納屋のなかで回り続ける。生皮剥いで、おまえの正体を見てやる。という叫び声がする。アカシアが言ったのか、ヒナギクが言ったのかはわからない。

 小屋に戻り、眠っているおじいちゃんの呼吸を確かめてから、ぼくは自分の分の食事を作る。大鍋に湯を沸かしてスパゲティを茹でる。茹でている間に別の小鍋でソースを作る。残り物の野菜を、ホールトマト一缶と一緒に弱火で煮込む。赤い泡がふつふつと弾けだした頃、空いたトマト缶に三分の一量入れた赤ワインと、水洗いしたバジルのを千切ってたっぷりと入れる。十五分煮込んだら、ブレンダーに攪拌して何もかもどろどろに混ぜてしまう。茹で上がったパスタとトマトソースを和える。
 ベッドで横たわるおじいちゃんは、もう苦しそうな顔をしていない。安らかな寝息をたてて眠っている。ぼくはパスタを食べてしまうと、皿を洗い、もう一度納屋に戻る。屋根に上り、天窓から中を覗く。菫色のお香の香りと二人の傷ついた生き物の体臭が混ざって、開いた天窓から夜に溶ける。
 闘っているうちに割ってしまったのだろうか、納屋の電灯は切れていて、中は暗い。一塊になったアカシアとヒナギクの姿が、わずかな月明かりに照らされて蠢いている。それはもう、絡まって交じりあう一塊の生き物と化していて、どちらがアカシアでどちらがヒナギクなのか、見分けがつかない。濡れた吐息の合間に、互いの名前を呼ぶ声が幽かに聴こえる。どちらがどちらの名前を呼んでいるのかも、ぼくにはもうわからない。きっと彼女たちにもわからないだろう。

 ぼくはまた小屋に戻り、食器を洗ってしまってから、シャワーを浴びる。浴び終わると、タオルで身体を拭きながら、おじいちゃんに小さく声をかける。おじいちゃんは薄目を開ける。
「具合はどう」とぼくは言う。
「ああ、大丈夫だ」
「トイレとかは?ひとりで行ける?」
「杖をベッドの脇に置いておいてくれればなんとかなりそうだ。あの二人はどうした」
「今、多分、仲直りしている最中。おじいちゃん、あのお香なんなの?」
「なあに。東南アジアの土産物屋で売ってた、ただのラベンダーのお香だよ。リラックス効果がある」とおじいちゃんは言って、ニヤリと笑う。「効果はどうだった」
「よく効いてるみたい」とぼくは言う。「ぼく、今日は念のため外で眠るよ。起こしてごめん。おやすみ」とぼくは言う。おじいちゃんは「おやすみ、ひまわり」と言ってまた目を閉じる。
 ぼくは納屋の前に一人用のソファを運び、座る。輪切りのレモンと千切ったミントの葉を浮かべたソーダを飲む。飲んでしまうと、横になって目を閉じる。
 暗闇の中に、まず空から音が落ちてくる。虫の声や、街路樹の葉が擦れ合う音。風たちが方々に流れる音。ぼくの呼吸。それから、すべての星と街路樹が落ちてくる。続いて今日の出来事が落ちてくる。ぼくも今日の出来事と一緒に落ちていく。一塊になったアカシアとヒナギクの声がついてきて、眠りのなかではぐれる。

 まだ風景が、しんと青白い夜明け前に、納屋の扉を叩く音でぼくは目覚める。誰かが中からぼくの名前を呼んでいる。
「ひまわり。おはよう。開けてほしいの」
ぼくは眠気でふらふらしながら、納屋の扉に掛けられた三つの錠前を開ける。中から女が一人出てくる。身体中に怪我をしていて、服はぼろぼろ。ピアスを引きちぎられた耳の一部は裂けて、前歯も一本折れている。にも関わらず、爽やかな笑顔で彼女は笑う。髪の色はヒナギクのように真っ黒だけど、髪質はアカシアのようにばさばさ。シャツはヒナギクの、ズボンはアカシアの昨日着ていたものを身に着けている。飛び散った赤ワインとトマトソースと血の痕が、彼女を真っ赤に汚している。どこまでが赤ワインとトマトソースの汚れで、どこまでが血の汚れで、どれが傷痕なのか殆わからない。
「ひまわり。赤ワインとサンドイッチをごちそうさま。あんたのおじいちゃんは、どう?」と彼女は言う。
「多分、だいじょうぶだと思う。自分でも不死身だって言ってる」とぼくは言う。
「あたしのこと、怒ってる?」
「うん。でも、先に引き金を引いたのはおじいちゃんだし、何とか生きてる。気にしないで。アカシア。それともヒナギク」
彼女は微笑む。
「あたし、帰るよ。ひまわり。逢えてよかった。ありがとう」
「待って」とぼくは言う。昨日、ヒナギクが引いてきたキャリーカートを渡す。それから、新品の靴紐を通したスタン・スミス。
「ありがとう」と彼女は言う。「あたし、毎週靴を洗うよ」
「今は、じぶんの体を洗った方がいいかも」とぼくは言う。
彼女は真っ赤な自分の姿を見て、くすりと笑う。
「いいの。そこの水道で顔を洗うし、キャリーの中に着替えがあるから着替えられるし、靴はこのスタン・スミス履かせてもらうけど、今は気分がいいの。少しだけこのまま歩いてバス停まで行く」と彼女は言う。
「血まみれになって、何事かと思われるよ」とぼくは言う。
「殆ど赤ワインとトマトソースだよ。だいじょうぶ。それに、あたし、もう平気だもの。ひまわり。あたし自分と殺しあって、愛しあって、生き残ったのよ」と彼女は微笑みを浮かべて言う。
「セローは走れるよ。乗っていかないの」とぼくは言う。
「ひまわりは、単車乗れる?」
「免許はないけど、昔おじいちゃんに教えてもらったことがあるし、教本も読んだ。でも、足が短くてステップに届かない」とぼくは言う。
「きみにあげる。成長したら乗ってもいいし、廃車にしてもいいし、誰かにあげてもいい。ドリンク代とか、ランチ代とか、迷惑料とかの代わりに貰って」と彼女は言う。キャリカートを持って、まだ夜闇が幽かに沈殿している地平線を見る。
「いつか未来に来ることがあったら、セローに乗って、あたしに会いに来てくれたらうれしい」と彼女は言う。薔薇のタトゥーから散った花弁を一枚、ぼくに渡す。「さよなら」と微笑んで、彼女は街道の方へ歩いていく。サービスエリアを出る前に、敷地の水道で顔を洗う。服を脱ぎ、ホースを使って頭から水を被り、赤い汚れを落とす。キャリーバッグの中から白い無地のTシャツと、膝の破れた古いインディゴのジーンズを出して着る。振り向かずに、未来へ続く街道をゆっくりと歩いていく。
 ぼくは〈ひまわり〉と彫刻された看板の傍の椅子に座り、彼女の姿が見えなくなるまで見送る。

(10)

 ぼくらの暮らすサービスエリアは、海のない町のはずれにあって、敷地の前には片道二車線の広い街道が通っている。
 ぼくは、小さな木の椅子を持って〈ひまわり〉と彫刻された、敷地の入口の看板の傍に座る。夜明け前の街道に車の姿はない。枯れた麦畑や街路樹だけが、涼しい風に吹かれて揺れている。
 空を閉ざす巨大な山稜の向こうから、ゆっくりと朝の光が滲んできて、あたりは夜光虫の心臓のように青白く輝き始める。
 ぼくは街道の彼方の、夜の果てを見る。未来の方を。一塊になって再び未来の方へ歩き出したアカシアとヒナギクのことを考える。彼女がもう、ピストルを必要としなければいいと思う。それから、過去と未来の境目を失ってしまった、少女のような声をしたおばあさん。彼女はまた、逢いたい人に会えるだろうか。ぼくを置いて行ってしまった家族たち。望んだ未来にいけたのだろうか。人影ひとつない青白い海月のはらわたの中で、ぼくは去ってしまった人たちを思いつつ、今が何時なのか考える。彼女の置いていった花弁を、ソーダ水に浮かべて飲む。地平線で途切れる街道の果てをずっと眺めていると、ぼくは自分の視線のなかに落下していくような錯覚を覚える。誰もが、自分の見つめる方に落ちていく。おじいちゃんが言うように、いつかぼくも未来に落下していくのだろうか。それとも、アカシアのように過去を憎んで無謀な逆行をするのだろうか。
 ぼくにはわからない。ぼくが、ここ以外の何処かへ行くという事が。産まれてからずっと、ぼくはここにいるのだから。ぼくのなかに。