(10)さらに溶けてゆく夜と青ざめた朝
「これでいい。このまま、あの娘たちを一晩放っておけ」とベッドに横たわって、おじいちゃんは言う。「あとは、あの娘たち次第だ。おれは少し休む。胸を強くやられたようだ」
「大事ないといいんだけど」とぼくは言う。
「ひまわり。すまんが、納屋を見張ってくれ。ベイブの言った通り、バットを手放すな。ナイフと銃も持っておけ。その上で、あの娘たちには一晩泊まれと言っておけ」
それだけ言うと、おじいちゃんは目を閉じて、苦しそうに息をする。ぼくは枕元に水の入ったグラスを置いて、小屋を出る。
サービスエリアの入口に黄と黒の標識ロープを張って、休業中の看板を立てかけた後、ぼくはアカシアとヒナギクを軟禁した納屋に梯子をかけ、屋根に上る。小型犬くらいしか通れない大きさの天窓から納屋を覗くと、アカシアとヒナギクはひとつのベッドで背中合わせになって眠っている。ぼくは梯子を降りて、納屋の入口に椅子を置いて座り、しばらくの間、雑誌を読んだり、空を眺めたりして過ごす。扉の隙間から、納屋の中で炊いた菫色のお香の甘い香りが漏れてきて、それを嗅いでいると頭がぼんやりしてくる。紫の薄い羽衣を着た人影に抱かれ、安らかな眠りに誘われるような不思議な気持ち。無性に誰かを抱きしめるか、抱きしめてもらいたくなる。でも、そんな人はいないので、ぼくはまた口笛を吹きながら空を見る。
数時間おきに、おじいちゃんの様子を見に行く。起き上がるとおじいちゃんの胸が痛むので、トイレや食事の際には肩を貸して立たせ、支える。大蒜とにんじんとたまねぎを柔らかく煮込んだスープに刻んだトーストを浮かべたパン粥を、おじいちゃんは苦しそうに全て食べた。
「あの二人はどうだ」とおじいちゃんが言う。痛みのために声がか細い。
「まだ目覚めない。おじいちゃん、あのお香、なんなの?嗅いでると、あたまがぼーっとする」
「おれがたまに世話になってる女がくれたものだ。あの、紫色の下着の持ち主さ」
「ぼくの知らない人?」
「ああ。おまえには内緒で、たまに夜、こっそり呼んでた女がいる。そいつがくれたんだよ。仲良くなるための秘密のお香だとさ。何度かいっしょに使ってみたが、確かにその通りだったよ。漏れてきた匂いにやられたか。ガスマスクを着けていけ」とおじいちゃんは言う。ぼくは武器庫から運び込んだ物品の中からガスマスクを見つけ、手に持って小屋を出る。
日没がはじまる。麦畑の向こうの地平線に、オレンジに染まりはじめた夕日がゆっくりと落ちていき、無数の黒い鳥たちの影がそれを追って飛びたってゆく。太陽の光が蝋燭の炎のように、沈む直前のわずかな時間、言い残したことを早口で喋るようにひときわ赤く燃える。ぼくは納屋から漂ってくるお香の煙を吸わないように、ガスマスクを装着している。円形の目硝子の中に閉じ込められた二つの太陽が揺れている。
納屋の中から話し声が聴こえて、ぼくは梯子を上って、天窓から二人を覗く。
「一体なにが起こったの」とヒナギクが言う。
「知らないよ。なんでこんなに頭が痛むんだ。たんこぶ出来てないか」とアカシアが言う。同じ顔をした二人が見つめ合う。
「ねえ、まだ、あたしを殺したい?」とヒナギクが言う。
「いや。二発も撃ったせいだろうか。銃声が幾らか、あたしの憎しみを持ち去ってしまったみたい」と少し考えてからアカシアは言う。「それより頭が痛い。あとお腹が空いた」
「そうだね」とヒナギクが答える。「ねえ、何?この甘ったるい匂い。あの男の子はどこ?ひまわりだっけ」
アカシアがぼくの名前を叫ぶ。ぼくは天窓を開ける。二人が見上げる。
「おはよう。アカシア」とガスマスクを外してぼくは言う。
「おはよう。ひまわり」と天窓を見上げてアカシアは言う。「これはいったい、なにがどうなっているの。ここはどこなの」
「ここはうちの納屋だよ。サービスエリアの敷地の中にある。アカシアが、誰かを殺しかねない程に怒り狂っていたので、ぼくの知り合いが死角から野球のボールを当てて、失神させたんだ」とぼくは言う。
「わたしは?」とヒナギクが叫ぶ。
「ついでに」とぼくは言う。ついで?ついでってなによ。とヒナギクが叫ぶ。
「水道もトイレもある。納屋を自由に使ってもらってかまわない。ふたりとも、今夜は泊っていって」とぼくは言う。
「なんで?」と二人が殆ど同時に叫ぶ。
「ひとつ。ふたりとも、とても興奮している。ふたつ。未来へ向かうバスはもうないし、派手に倒れたアカシアのセローも点検したほうがいい。みっつ。今夜ふたりで一晩話し合って、何らかの結論を出した方がいい。お腹はすいてる?」
ふたりは少し考え込んだ後、また殆ど同時に「空いてる」と叫ぶ。
「今から夕食を作ってくる。できれば、もう殺しあうのはやめて。危うくなったら、思いっきり叫んで。それがどちらであろうと、ぼくが殺されそうになってる方を助けに来るから」とぼくは言う。「あと、アカシアが撃ったおじいちゃんは防弾チョッキを着ていたので、死んでないよ」と付け加える。
「ひまわり、あたしを許さないよね」とアカシアは言う。ぼくは答えずに梯子を降りる。
途中で戻って、もう一度天窓から声を掛ける。
「言い忘れた。その菫色の香りは、おじいちゃんの持ってた脱法ハーブ。もう大分吸いこんでるから、ふたりはこの後、嘘が吐けなくなるよ」とぼくは口からでまかせを言う。
小屋で休んでいるおじいちゃんに、二人が目覚めたことを伝える。おじいちゃんは「そうか」と頷いて、寝返りを打つ。
ぼくはオリーブオイルを引いたフライパンでベーコンと赤唐辛子を弱火で炒め、作り置きのトマトソースをそこに追加して温める。パンに、チーズとフライパンの中で赤くふつふつと泡立つトマトソースを挟み、ホットサンドメーカーで焼く。二人分のサンドイッチが出来ると、キッチンペーパーに包んで、赤毛のアンがピクニックで使っていたような藤で編んだバスケットに入れる。冷蔵庫から冷えた赤ワインを一本出して、これもバスケットに入れる。
「失敗したよ」とおじいちゃんが胸の痛みに呻きながら言う。「まさか、あそこで銃が弾詰まりを起こすとは。普段からの手入れが足りていなかったか。それとも運がなかったのか」
「でも、おじいちゃんがアカシアを撃たずに済んで、少しほっとしたよ」とぼくは言う。
「おまえはそうだろうな。おまえは撃つよりも撃たれる方を選ぶ子だ。だが、おれは違う。殺すと決めたら、殺す。そのつもりだった。おまえに銃が突き付けられていたんだ。容赦する理由などひとつもない」
「おじいちゃん。眠れそう?」とぼくは訊く。
「ああ。すぐにでもな」とおじいちゃんは言う。「ひまわり。眠っちまう前に聴いてくれ。もし、おれが死んだときの話だ」
ぼくは頷く。おじいちゃんは痛みを堪えて話す。
「もちろん、おれは不死身だし、もうしばらくの間、死ぬつもりはない。だが、一応言っておく。金や貴重品は、隠し金庫の中に入ってる。場所は知ってるな。番号は前にも言ったが、おまえの誕生日だ、忘れるな。物資の取引の事はベイブに聞けば大体のことはわかるだろう。あいつは単純で正直でフェアプレイな男だ。信頼できる。なにかあったら、ベイブに電話して聞け。おれの死後はおまえとベイブに遺産が行くように手続きしてある。取り分はお前が6でベイブが4だ。ただし、ベイブはおまえの後見人になる。これはベイブも了解済みのことだ。おまえは、このサービスエリアに残ってもいいし、両親の住んでいる未来へ向かってもいい。もちろん、独りで他の場所に行っても。これまで、おまえは自由だったし、これからも、おまえは自由だ。おれが死んだら、もう十一歳から先に身体を成長させたっていいんだ。このサービスエリアから手を放して、未来へ落下しさえすれば、身体も成長をはじめるだろう」
おじいちゃんは苦しそうに胸を押さえる。咳をするとより痛むので、何とか耐える。
「もういいよ。おじいちゃん。その話は、また今度にしよう」とぼくは言う。実際、これ以上聴きたくない。愛する人の口から、その人が死んだ後の話なんて。
「いいや。もう一言だけだ。おれが死ぬことは、おれの死を意味しない。おれは未来に行くだけだ。そして、昨日言ったな。おまえのいるところが、おれの未来なんだ。だから一緒だぞ。ひまわり」
ぼくは頷く。
「さあ。おれは少し休む。あのアカシアとかいうイカレ娘の見張りをしてきてくれ。さすがに今襲われたら手も足も出ない。危険を感じたら武器を使えよ。自分の身は自分で守れ」とおじいちゃんは言う。ぼくは頷く。やがて、おじいちゃんの顔が少し柔らかくなり、安らかな寝息が聞こえはじめる。おじいちゃんの胸が規則正しく上下する。ぼくはしばらくそれを見守ってから、ガスマスクと、夕食の入ったバスケットを手に持って小屋を出る。
茜色の空の裾が、群青に染まり始めている。天頂には、剃刀で切ったみたいな白い鋭い三日月が浮かんでいる。ぼくはガスマスクを装着し、夕食の入ったバスケット持って屋根に上る。少しだけ涼しい風が吹いていて、一日に起きたことのあらましを地平線の彼方に吹き飛ばす。風に飛ばされなかった重たいものだけがぼくの心の底に沈み、留まる。ぼくは屋根の上から、宵闇と茜色の境界線をじっと眺める。茜色の液体と、宵闇の液体が、空の海月の体の中でゆっくりと混ざっていく。
納屋の中からは、アカシアとヒナギクが大声で言い争っているのが聴こえる。アカシアだけではなく、ヒナギクも話の中でお互いを混同している。
「アカシアっていう名前はただのキメラだ。ジョーン・ジェット、キム・ゴードン、ニコ、トーリ・エイモス、フィオナ・アップル、パティ・スミス…あんたの憧れたアーティストの部分部分を融合させただけの、奇怪なコラージュだ。そこには、余りもあんた自身が欠けているんだ。なんでそんなスーパー架空のスターを作ったのかって、あんたがあまりにも自分に自信がなかったからだろ」アカシアがそう喚いて怒っている。
「だからって、遡って自分を殺しに来るって、どんな逆恨みよ。誰も巻き込まず、ひとりくたばる程度のことが、なんでできないわけ?あんたがわたしを責めて殺すってことは、あんた自身を責めて殺してるってことなんだからね。欲しいものがわからないって言ってたね。あんたが欲しいものは、わたしだよ。アカシアじゃなくて、ヒナギクに戻りたいんだろ」とヒナギクが言い返す。
「嫌いに決まってるだろ、ヒナギクなんて。言ってるでしょ、自分に自信がないからって、こんなあたしを創造した奴が憎くて仕方ないって」
「自分が憎いからって、周りに当たり散らさないでよ。弱虫」
「なんでそんなこと言うの。ねえ、あんた、あたしの気持ちがわかるって言ったじゃない。優しくしてよ」
「じゃあ、優しくしたくなるような態度をとってごらんよ。そういうところが嫌なんだよ。どうしてあんたは、なんでも、してもらって当然だと思うの。優しくしてもらって当然。認められて当然。肯定してもらって当然。慰めてもらって当然。そうしてもらえなかったら、相手が悪い。いったいどこの女王陛下よ。そんな身も心もぶすの女王陛下の国の名前は何処?生ごみ国の女王陛下が腐りかけのたまねぎ頭で甘える方法を探しているだけじゃない。だからいつも変な男とくっついて、半月後には揉めだすのよ」
「おまえ、殺されたいのか。おまえに何が分かるんだ」
「あんたのことなら、なんだってわかるよ女王様。わたしはずっとあんたにお仕えしていたんだからね。ほんとうに、哀れでかわいそうでカッコ悪い女王様」
自分自身との言い争いが一線を越え、アカシアがヒナギクに飛び掛かる。しばらくの間、二人で髪を引っ張り合ったり、噛みつき合ったり、爪を立てて引っかき合ったりして、納屋中を転げまわる。昔、サービスエリアに迷い込んできた野良犬同士の喧嘩を見たことがあるけど、あんな感じだった。ぼくとベイブで、納屋からは殺傷に繋がるものは可能な限り排したけど、場合によっては威嚇射撃をしないといけないだろうな、とぼくは思う。
しばらく野良犬同士の喧嘩を眺めているうちに、ぼくはさっきまで怒号だったふたりの叫び声が変わりはじめていることに気づく。低く敵意の塊だった声がだんだん高く明るい音になり、とうとう笑い声が混入する。髪を引っ張り合い、息を切らせて殴りあい、喚き散らすうちに、ふたりの感情を留める部屋の鍵が壊れてしまい、そこから普段は閉じめている人間と狂犬の中間みたいな歪んだ笑顔が覗いている。二人とも鼻血を出しているし、アカシアはヒナギクの爪で目の上を切り、ヒナギクはアカシアの殴打で唇を切っている。それでも嬉しそうに笑いながら、ふたりは殴り合う。
天窓からその様子を眺めていると、ふたりの間に、ある種の手加減があることに気づく。アカシアがヒナギクの鳩尾に蹴りを突き刺す。呼吸を失ってヒナギクはうずくまる。アカシアはとどめを刺さない。ヒナギクに馬乗りになって、苦しそうなその顔を、歪んだ笑みで見下ろす。まるで相手の苦痛を咀嚼するかのように。呼吸が戻ってくると、ヒナギクはアカシアの髪を掴み、逆に馬乗りになる。平手で顔を張る。乾いた音が何度も鳴り響き、アカシアの鼻血が壁に飛び散る。五、六発殴った後に、ヒナギクはアカシアの鼻血を掌に擦りつけ、泥遊びをするこどものように、自分の体に擦り付ける。アカシアがヒナギクの喉に齧り付くが、そのまま頸動脈を噛み砕くことはしない。ヒナギクが噛まれたまま、アカシアの左耳に噛り付くが、これも耳を引きちぎることをしない。お互いに噛みつき合ったまま、ふたりはお互いの混ざり合った吐息に溺れていく。殆ど同時に口を話し、次は手足を振り回して殴ったり蹴ったりする。二人は終始笑っている。勝ち負けや生死を決めるための喧嘩ではなく、こどもたちがじゃれ合うように、二人のおとなが暴力をふるいあって笑っている。アカシアを上から抑え込んだヒナギクが、息を切らせながら言う。
「こんなの、自分相手にしか、できない」と嬉しそうに言う。「あんた、わたしと話したかったんでしょ。殺したいんじゃなくて、何でも言ってみたかったんでしょう。誰にも迷惑をかけないとか言って、閉ざした心を吐露したかったんでしょ。ほら、言ってごらんよ。自分にだったら言えるでしょ」組み敷かれたヒナギクが笑う。馬乗りになったアカシアがヒナギクの切れた唇を舐める。髪を掴んだままキスをする。息が止まる寸前までくちづけをし、離した後にもう一度殴る。ぼくは気づかれないように天窓を開け、ロープに繋いだバスケットをするすると降ろす。バスケットが無事に床に到達したら、ロープを引き上げる。今度は、ヒナギクがアカシアの膝から下に両手で飛びつき、押し倒す。首筋に噛みついてから、アカシアのタンクトップの破れ目に指を入れて引き裂く。裸のアカシアの鎖骨に爪をたてる。「そうね。自分にしか、できない。好きなだけ傷めつけて、愛してやる、一度思う存分やってみたかった」とヒナギクが言う。「きっと、この菫色のお香のせいよ。脱法ハーブって、ひまわりが言ってた」ふたりは獣が獲物に噛みつくようにキスをする。ぼくは天窓を閉じて、星を見上げる。苦痛と悦楽の二つの車輪が、菫色の煙に包まれて、納屋のなかで回り続ける。生皮剥いで、おまえの正体を見てやる。という叫び声がする。アカシアが言ったのか、ヒナギクが言ったのかはわからない。
小屋に戻り、眠っているおじいちゃんの呼吸を確かめてから、ぼくは自分の分の食事を作る。大鍋に湯を沸かしてスパゲティを茹でる。茹でている間に別の小鍋でソースを作る。残り物の野菜を、ホールトマト一缶と一緒に弱火で煮込む。赤い泡がふつふつと弾けだした頃、空いたトマト缶に三分の一量入れた赤ワインと、水洗いしたバジルのを千切ってたっぷりと入れる。十五分煮込んだら、ブレンダーに攪拌して何もかもどろどろに混ぜてしまう。茹で上がったパスタとトマトソースを和える。
ベッドで横たわるおじいちゃんは、もう苦しそうな顔をしていない。安らかな寝息をたてて眠っている。ぼくはパスタを食べてしまうと、皿を洗い、もう一度納屋に戻る。屋根に上り、天窓から中を覗く。菫色のお香の香りと二人の傷ついた生き物の体臭が混ざって、開いた天窓から夜に溶ける。
闘っているうちに割ってしまったのだろうか、納屋の電灯は切れていて、中は暗い。一塊になったアカシアとヒナギクの姿が、わずかな月明かりに照らされて蠢いている。それはもう、絡まって交じりあう一塊の生き物と化していて、どちらがアカシアでどちらがヒナギクなのか、見分けがつかない。濡れた吐息の合間に、互いの名前を呼ぶ声が幽かに聴こえる。どちらがどちらの名前を呼んでいるのかも、ぼくにはもうわからない。きっと彼女たちにもわからないだろう。
ぼくはまた小屋に戻り、食器を洗ってしまってから、シャワーを浴びる。浴び終わると、タオルで身体を拭きながら、おじいちゃんに小さく声をかける。おじいちゃんは薄目を開ける。
「具合はどう」とぼくは言う。
「ああ、大丈夫だ」
「トイレとかは?ひとりで行ける?」
「杖をベッドの脇に置いておいてくれればなんとかなりそうだ。あの二人はどうした」
「今、多分、仲直りしている最中。おじいちゃん、あのお香なんなの?」
「なあに。東南アジアの土産物屋で売ってた、ただのラベンダーのお香だよ。リラックス効果がある」とおじいちゃんは言って、ニヤリと笑う。「効果はどうだった」
「よく効いてるみたい」とぼくは言う。「ぼく、今日は念のため外で眠るよ。起こしてごめん。おやすみ」とぼくは言う。おじいちゃんは「おやすみ、ひまわり」と言ってまた目を閉じる。
ぼくは納屋の前に一人用のソファを運び、座る。輪切りのレモンと千切ったミントの葉を浮かべたソーダを飲む。飲んでしまうと、横になって目を閉じる。
暗闇の中に、まず空から音が落ちてくる。虫の声や、街路樹の葉が擦れ合う音。風たちが方々に流れる音。ぼくの呼吸。それから、すべての星と街路樹が落ちてくる。続いて今日の出来事が落ちてくる。ぼくも今日の出来事と一緒に落ちていく。一塊になったアカシアとヒナギクの声がついてきて、眠りのなかではぐれる。
まだ風景が、しんと青白い夜明け前に、納屋の扉を叩く音でぼくは目覚める。誰かが中からぼくの名前を呼んでいる。
「ひまわり。おはよう。開けてほしいの」
ぼくは眠気でふらふらしながら、納屋の扉に掛けられた三つの錠前を開ける。中から女が一人出てくる。身体中に怪我をしていて、服はぼろぼろ。ピアスを引きちぎられた耳の一部は裂けて、前歯も一本折れている。にも関わらず、爽やかな笑顔で彼女は笑う。髪の色はヒナギクのように真っ黒だけど、髪質はアカシアのようにばさばさ。シャツはヒナギクの、ズボンはアカシアの昨日着ていたものを身に着けている。飛び散った赤ワインとトマトソースと血の痕が、彼女を真っ赤に汚している。どこまでが赤ワインとトマトソースの汚れで、どこまでが血の汚れで、どれが傷痕なのか殆わからない。
「ひまわり。赤ワインとサンドイッチをごちそうさま。あんたのおじいちゃんは、どう?」と彼女は言う。
「多分、だいじょうぶだと思う。自分でも不死身だって言ってる」とぼくは言う。
「あたしのこと、怒ってる?」
「うん。でも、先に引き金を引いたのはおじいちゃんだし、何とか生きてる。気にしないで。アカシア。それともヒナギク」
彼女は微笑む。
「あたし、帰るよ。ひまわり。逢えてよかった。ありがとう」
「待って」とぼくは言う。昨日、ヒナギクが引いてきたキャリーカートを渡す。それから、新品の靴紐を通したスタン・スミス。
「ありがとう」と彼女は言う。「あたし、毎週靴を洗うよ」
「今は、じぶんの体を洗った方がいいかも」とぼくは言う。
彼女は真っ赤な自分の姿を見て、くすりと笑う。
「いいの。そこの水道で顔を洗うし、キャリーの中に着替えがあるから着替えられるし、靴はこのスタン・スミス履かせてもらうけど、今は気分がいいの。少しだけこのまま歩いてバス停まで行く」と彼女は言う。
「血まみれになって、何事かと思われるよ」とぼくは言う。
「殆ど赤ワインとトマトソースだよ。だいじょうぶ。それに、あたし、もう平気だもの。ひまわり。あたし自分と殺しあって、愛しあって、生き残ったのよ」と彼女は微笑みを浮かべて言う。
「セローは走れるよ。乗っていかないの」とぼくは言う。
「ひまわりは、単車乗れる?」
「免許はないけど、昔おじいちゃんに教えてもらったことがあるし、教本も読んだ。でも、足が短くてステップに届かない」とぼくは言う。
「きみにあげる。成長したら乗ってもいいし、廃車にしてもいいし、誰かにあげてもいい。ドリンク代とか、ランチ代とか、迷惑料とかの代わりに貰って」と彼女は言う。キャリカートを持って、まだ夜闇が幽かに沈殿している地平線を見る。
「いつか未来に来ることがあったら、セローに乗って、あたしに会いに来てくれたらうれしい」と彼女は言う。薔薇のタトゥーから散った花弁を一枚、ぼくに渡す。「さよなら」と微笑んで、彼女は街道の方へ歩いていく。サービスエリアを出る前に、敷地の水道で顔を洗う。服を脱ぎ、ホースを使って頭から水を被り、赤い汚れを落とす。キャリーバッグの中から白い無地のTシャツと、膝の破れた古いインディゴのジーンズを出して着る。振り向かずに、未来へ続く街道をゆっくりと歩いていく。
ぼくは〈ひまわり〉と彫刻された看板の傍の椅子に座り、彼女の姿が見えなくなるまで見送る。