(2)人なんか打たない。

 朝食を食べ終わる頃、山を越えてやって来たベイブのトラックが、砂埃をたてながら、サービスエリアの敷地に入ってくる。開け放したトラックの窓から、野球中継が流れている。「人生は、野球があれば最高だ」が口癖の運送屋のベイブは、太い腕をぼくとおじいちゃんに振っておはようの挨拶をする。


 牛乳、酒、調味料が合わせて十リットル。食料品が十五キロ。生活用品が少々。三人がかりで小屋の前まで運ぶ。アイドリングするトラックの開け放した窓からラジオの野球中継が大音量で響いていて、打撃音が鳴るたびにベイブは「あうっ!」だの「ふぉおっ!」だの叫んでのけぞる。ベイブっていうのはおじいちゃんが大昔のスラッガーから拝借して付けたあだ名だけど、ぼくはMJって呼べばいいと思っている。昔テレビで見たマイケル・ジャクソンの動きにそっくりだから。本人にそう伝えたこともあるけど、ベイブはマイケル・ジャクソンを知らなかった。それどころか、どこのチームの選手だ?おれが聞いたことないってことは二軍選手か新人か?ポジションは?と訊き返された。


 荷をすっかり運んでしまうと、ぼくは納屋からグラブを二つ出して、ひとつをベイブに渡す。ベイブはグラブをはめると、作業着のポケットから軟球を取り出して、まず空に向かって放り投げる。終日、全身を運送と野球のために使い続ける全身これ強靭な丸太のようなベーブの放った球は、太陽に吸いこまれるようにあっという間に小さくなる。ぼくは球を目で追わず、後ずさりをする。昔、あれを捕ろうとして怪我をした。太陽の光の中に埋もれた軟球をぼくは見失い、それは構えたグラブではなく、ぼくの脳天を直撃して、その場で気を失った。あの時は太陽にがつんと脳天を殴られたのかと思った。


「ベイブ。おはよう」とぼくは言う。
「ひまわり。おつかれさん。いい天気だな」
トラックのラジオから、また鈍い打撃音が聴こえて、ベイブが額を押さえてのけぞり、また「ふぁおっ!」と叫ぶ。「ちくしょう、同点だ」頭を抱えて悔しがってるベイブの数歩後ろに、やっと空から軟球が落ちて来る。ぼくはスリーバウンドした軟球をグラブに入れ、ベイブに放る。「ゆっくりスライダーいくぞ」と予告してベイブは投げ返す。速い球や、変化球を投げる前は、ぼくが怪我をしないように、ベイブは球種を予告してくれる。「百三十キロストレートいくぞ。胸の前でかまえろ」とか「スローカーブいくぞ」とか「ゴロ行くぞ。ショートバウンドで捕れよ」とか。ぼくは予告に従って、構えて、捕球する。
「だいぶキャッチがうまくなったよな。ひまわり。今度、試合に来ないか。ファーストだったらばっちりだぜ」とベイブは言って、またボールを放る。
「ぼくは、あんまり野球好きじゃないよ。フライも捕れない。昔、捕り損ねて怪我しただろ」
「あれはひまわりが太陽を見すぎたんだよ。あの頃はまだ、フライの捕り方を教えていなかったしな」
「それにルールも全然、わかんないよ」
「そうか。それはそうと、ひまわり。バット欲しくないか」
ぼくは首を振る。
「バッティングは嫌いか?たのしいぞ、もっと野球が好きになるぞ」とベイブが言う。
「キャッチボールが好きなんだ」とぼくは言う。
 ぼくが投げ損ねたボールに向かってベイブは空を飛ぶよう跳躍し、見事に捕球する。ベイブの動きは、魚をかっさらうウミネコみたいに鮮やさだ。捕ったボールをポケットに入れて、グラブをぼくに返すとベイブは「ひまわり、冷たいお茶をくれ」と言う。うん、とぼくは答える。小屋に戻って、大きめのグラスに氷を詰め、輪切りのレモンを二つと、ちぎったミントの葉を入れる。グラスのなかで、氷たちが涼しい声で鳴く。トラックの前で待っていたベイブにグラスを渡す。ベイブは喉を鳴らして、レモンティーを一息に飲みほす。トラックに乗り、窓越しにぼくに硬貨を支払う。
「またな、ひまわり」とベイブは言う。トラックの窓から木製のバットをするすると差し出す。仕方ないので、ぼくは受け取る。
「次はバッティングの練習をしよう。いいか、ボールを打つときは目を離すな。人を打つときは目を見るな。だ。忘れるなよ」
「ひとなんか、打たない」とぼくは言う。ベイブは笑って、ぼくの頭をくしゃくしゃと撫でる。ベイブの手はとても大きくて力強い。
 砂埃をたててトラックが去っていく。遠くからまたベイブの「あおっ!」という叫び声が聴こえ、ぼくは一回だけ素振りをする。