(3)アカシアとルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド

 ぼくは発泡スチロールの空箱を水で満たし、その中に揺れる夏の太陽をじっと見る。冷凍庫から出したバケツいっぱいの氷と、ベイブの運んできてくれたミネラルウォーターやソーダやジンジャエールや瓶ビールを水の中に沈める。街路樹で羽化した蝉たちの鳴声が重なってあたりに響き渡る。


 ぼくは〈ひまわり〉と彫刻された看板の隣の椅子に座って、街道をゆく車やバイクを見る。おじいちゃんが傍に来て、あとでたまねぎを炒めてくれるか。とぼくに訊く。うん、わかった。とぼくは答える。お客さんに出すカレーやトマトソース用のたまねぎだ。あれは一時間以上炒めなくちゃならない。


 「あとで」という時間になるまで、ぼくは発泡スチロールの中の瓶の群をじっと見つめる。水面の太陽が引き裂かれて、ひとつひとつの瓶の中に閉じ込められている。じっと見ていると、ぼくも一本の硝子瓶になってしまった気がする。ぼくと硝子瓶の違いが、ぼくにはわからない。目の前の街道を、車やオートバイやロードバイクが、すごいスピードで走ってゆく。ぼくはそのエンジンの音、ひとつひとつに耳を澄ます。
 その中の一つ、遠くから聴こえた軽快なバスドラムみたいなエンジン音がだんだんゆっくりになって、ぼくの傍で停まる。顔を上げると、とても怖い眼をした若い女があちこち傷ついたぼろぼろのオフロードバイクに跨り、クラッチレバーとブレーキレバーを硬く握ったままぼくを見下ろしている。歯を食いしばっていて、一目で何かに怒っている人だとわかるが、ぼくとは初対面なので一体何に対して怒っているのかはわからない。
「こんにちは」と、ぼくは挨拶をする。彼女が何か言う。エンジン音のせいで聞き取れなかったので、わかりません、とぼくは言う。彼女はエンジンを止めて、怒鳴る。今度は聞き取れた。
「あたしと同じ顔をした女をみなかったかなあ?」
「見ていません」とぼくは答える。彼女は舌打ちをして、口の中だけで何かをぶつぶつと呪う。
「でも、多分この街道をまっすぐ行けばいると思いますよ」とぼくは言う。
「はぁ?」と彼女は言う。とても不機嫌そうに。「なんでそんなことわかんの?」
ぼくは看板を指さす。
「ひ・ま・わ・り」と彼女は看板を読む。
「その下です」とぼくは言う。
「←未来→過去」と彼女は看板を読む。
「お姉さんは街道を未来のほうから来ました。過去のほうへまっすぐ進むと、山があります。山を越えると、過去の町に出ます。そこには過去のあなたがいると思います」
「まじか」と女は言う。ぼくは頷く。
「でも、ここから過去の町に行くには、あの山を越えなきゃならない」とぼくは言う。
 ぼくらは東の方向、看板の矢印が〈過去〉と示す方角を向く。空の半分を塞ぐほどに巨大な山稜が、ぼくらと彼方を遮っている。
「山は険しいし、わけのわからないバケモノでいっぱいなんです。だからお姉さん、行くのはやめておいた方がいいでしょう」とぼくは忠告する。女は産まれてはじめて喋る犬を見たかのように、まじまじとぼくを見た。
「きみ、なんなの?」と女は言う。
「ひまわり」とぼくが答えると、女ははじめて笑った。麦茶とウィスキーを間違えて飲んだときのおじいちゃんみたいに咳き込んで。
「きみ、自分の名前を彫った看板の隣で、ドリンクの売り子をしているの?」
「ちがうよ」とぼくは言う。女が笑ったので、思わず口調が砕けた。
「ひまわりっていうのは、この場所の名前。それから、なんか面倒になってぼくの名前にもなった。ぼくの名前と場所の名前が混ざってしまったんだ。だいたいがおじいちゃんの仕業」
「だめ。ぜんぜん、わかんない」と女は笑いながら言う。ぼくは発泡スチロールの中の氷を手でかき混ぜて、飲み物を勧める。
 それで、女はやっとバイクから降りる。

 女はアカシアと名乗った。ぼくはお客さん用の椅子を彼女に勧め、ジンジャーエールの栓を抜いた。炭酸が空に抜けていく音が響く。アカシアはぼくの隣に座り、一息でジンジャーエールを瓶の半分も飲み干す。ところどころ穴の開いたインディゴのジーンズとパンクバンドのロゴのプリントされたTシャツという出で立ちで、ひどく痩せていた。脱色された赤い髪は錆びた包丁で切ったみたいにぼさぼさで、化粧はしていなかった。真っ白な顔のなかで、色素の薄い眼だけがやけにぎらぎらと大きく開いていた。
「ありがとう。脱水でくだばるとこだった」とアカシアは言った。Tシャツの背中が、汗で濡れてまだらを作っている。ぼくはまた、街道を走る車の残像を眺める。未来から過去へ。過去から未来へ。たくさんの人々がすごいスピードで行き来している。
「かっこいいバイクだね。YAMAHAのセロー250だ」とぼくは言う。
「よく知ってるね。バイク好きなの?」
「バイクのカタログを読むのが好きなんだ。特にYAMAHAのバイクのことなら何でも知ってる」
「ねえ、ひまわりは何歳?ここで働いているの?」と、アカシアが訊く。
「十六歳。働いてない。ここはぼくたちの家なんだ」
「十六?ずいぶんちっちゃいね。ごめん、十一歳くらいかと思った」
「よく言われる。成長が止まってるんだ。おまえらしいなっておじいちゃんは言ってた」
「ふうん。あたしは二十五」
アカシアはまたジンジャーエールをあおる。勢いよく喉を鳴らして、炭酸を流し込む。飲んでる最中に何か思い出したのか、眼に憎しみが戻ってくる。
「ねえ、あの山が危険だって言ったよね。バケモノがいるって。ほんとう?」
「ほんとうだよ。人間みたいで人間じゃなくて、バケモノみたいで実は人間って感じ。全部、山で遭難したり、感染にあったひとの成れの果てなんだ。ゾンビ映画観たことある?」
「だいすきだよ。二十本くらいは見てる」
「ゾンビのもっと凶暴でタチの悪いやつだって思って。そんな軽装に丸腰、どうなるかわかるでしょ」
アカシアは舌打ちをして、足元の石をブーツの底で踏みつぶし、しかもぐりぐりと地中に埋める。そして、そういう癖のある狂犬のように、靴底で石を何度も地面を踏む。
「アカシアは、自分と同じ顔をした女をさがしてるの?」と、ぼくは訊く。アカシアの顔から表情が消える。たった今製造されたマネキンのような顔でぼくを見る。すぐに表情が戻ってくる。さっきまでのように無邪気な笑顔ではなく、焼けた鉄で作った憎しみを被っているような顔。
「そう。あたしはそいつを憎んでるの。だから、ぶち殺しに行くの。あたしが死ぬか、そいつが死ぬか。どちらかしかないんだよ。あたしは奴を絶対にぶち殺す」
「自分を?」
「過去の自分をだよ」
 たまに、こういう人たちがいる。過去の町へ行って、過去の自分や他人を探し出し、襲う人たち。でも大抵は、山で遭難して死ぬかバケモノになる。運良く山を抜け、過去の町で自分と再会しても、返り討ちにあう人も多い。成功したとしても、再び山を越え戻らなければならない。
「やめておいたら」とぼくは言う。「いいことないよ」
「あいつがいなくなれば、あたしは生きられるんだよ」とアカシアは叫ぶ。その瞳の中身が漆黒の炎に塗りつぶされ、ぼくの姿は消える。
「今だって生きているよ。バイクだってかっこいいし」とぼくは言う。
「今は違う。ぶすだし、傷痕があるし、会話は下手で、人の眼は見れない。才能はないし、友達もいない。貧乏だし、モテないし、話しかけられもしない。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。こんなあたしじゃ生きていないも同じ。いなければいいの。こんな奴は」
 ぼくは麦畑の彼方で廻る風車を眺める。汚れた羽がゆっくりと廻り、ぼくはその回転に合わせ足踏みをする。ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズを心の中で歌う。この歌を歌うと、一曲分、空が広くなる。隣でアカシアの呪いが続く。片耳だけで聴いていたけど、自分が今の自分であることが許せないので、過去の自分を殺して新しい自分になりたい。みたいな話だった。話の中で時折、今の自分と過去の自分を混同している。
「こんなはずじゃなかった。許せない。間違ってる。どこが苦しいのかわからない程苦しいし、誰が憎いのかわからない程憎いし、なにもかもが怖くて面倒くさい。こんなあたしにあいつがしたんだ。体と心が強張って、あちこち痛い。叫びだして当たり前なのに、どいつもこいつも静かにしてろと言う。愛しているなんて言ってたやつから順に、あたしを煙草の吸殻を捨てるみたいに捨てる。あたしは愛する方法や勇気をもてない。どうしたら捨てられないかも教えてもらえなかったから、あたしはずっとそれを頑張って試していたのに失敗しかしない。そもそも、愛という概念がわからない。あたしはそれを手に入れるべき時に手に入れられなかった上、卑怯な奴らに奪われた。愛って何?ぜんぶ嘘じゃない。それはあるの?ないの?なんなの?全部あいつが悪い。だから絶対にぶっ殺してやらなくちゃ。あいつもそれも望んでいるにきまってる。あたしも。ねえ。ねえ、ねえ。ねえ、ひまわり。それビートルズだね」
 ぼくはアカシアのほうを向く。自分でも気づかない間に口笛を吹いていた。アカシアの瞳のなかにぼくの姿が帰ってくる。
「なつかしい歌」とアカシアが言う。
沈黙。しばらくの間、ぼーっとぼくを見ていたアカシアも、口笛を吹きはじめる。ぼくはメロディを。アカシアはベースラインを吹く。吹き終わってしまうと、ルーシーを追って二人で空を見上げた。
「ねえ、知ってる?」と言って、アカシアはルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズの話をする。「この曲が発表された時、マスコミは曲の頭文字から、LSDの幻覚を歌うアシッドソングだと憶測して騒いだ。でも実際は、ジョンは息子が保育園で描いた児童画からインスピレーションを得て作ったんだって。ルーシーはダイアモンドといっしょに空の中」
「きれいな歌だね」とぼくは言う。アカシアも頷く。
「万華鏡の目をした少女、っていう幻想的な歌詞に憧れたな。そんな感じのカラーコンタクトも探したし。よく絵を描いてみたりした。万華鏡の目をした少女。あたしもなりたい。それで空で遊ぶのよ。しかも辛い事なんて何一つないの」とアカシアは空を見て言う。
「空に。きっといるんじゃないかな」とぼくは言う。ぼくはここで毎日、空を眺めてるけど、あそこにはなんだっているんだ。
 アカシアは空を見る。それから、また表情を失くして沈黙する。アカシアが何を見ているのか、ぼくにはわからない。微笑みと憎しみのどちらにいけばいいのか迷う悲しげな横顔が、ぼくの隣でただ沈黙する。
「今日は山へ向かうの、やめとくよ。ひまわり。心配してくれてありがとう」諦めたように、アカシアは言う。
「ねえ、アカシアはあの路の果てから来たんだよね」看板が未来と示す街道の果てを指さして、ぼくは訊く。
「そうだね」とアカシアは答える。
「どんなところ?」
「別に。クソみたいな場所よ。クソみたいな未来。それをなんとかするために、あたしはあたしの顔をした女を殺したかったんだ。でも、今日のところはもう帰るよ」
 アカシアは立ち上がり、セローに跨ると、キーを回し、エンジンに火を入れる。クラッチを乱暴に繋ぎすぎだし、アクセルを開けるのが急すぎる。前輪を浮かせ、ものすごい音を立てながら、アカシアは去って行く。ぼくはジンジャーエールの料金を請求することを忘れていたことに気づいた。小屋から出てきたおじいちゃんが、ひでえ運転だな。長生きできないぞ。と言う。そうだね。とぼくは言う。アカシアのバイクが、ものすごい速さで遠ざかる音が響き渡る。また会うことになるだろうな。と、ぼくは直感で思う。排気音がまだ怒り狂っている。