(5)少女のようなおばあさんの傷口とぼくらの誕生花
一時間くらい昼寝をするので、なにかあったら起こしてくれ。と言って、おじいちゃんは納屋に入る。ぼくは野菜を炒めるために、小屋のキッチンへ入る。
たまねぎが目が沁みないように、バイクに乗るときに使うゴーグルを装着して、たまねぎ十個、にんじん三本、セロリ三本をスライスする。ラジオを点けると、過去や未来で起こっている悪いニュースばかりが流れる。ぼくは異国の電波にチャンネルを合わせ、何語なのかわからないポップスを聴きながら包丁で野菜を刻む。
三つのボウルに、微塵切りにした野菜を入れる。たまねぎを大鍋に入れて、オリーブオイルをどぼどぼかけて、一時間半ごく弱火で、木べらをつかって攪拌しながら炒める。放っておくと焦げるので、絶えずかき混ぜていないといけない。せっかちで待つのが苦手なおじいちゃんはこれが苦手だ。たまねぎが飴色になったら、にんじんとセロリの微塵切りを加えて、さらに一時間炒める。すべてが終わると、野菜は飴色の一塊になる。これはカレーやトマトソースの下味に使える。
おじいちゃんは〈ひまわり〉でカレーを食べておいしいと言ったくれたお客さんに言う。「孫が野菜を炒めてる。ほっといたら何時間でも炒めてる。もしかしたら一生やれるかもしれない。だからうちのカレーは美味い。野菜もたっぷりだしな」
野菜を炒めるぼくの目の前には開いた出窓があって、サービスエリアの敷地が矩形の枠に収まっている。とても小さな世界が。ここで長い時間をかけて野菜を炒めるたび、ぼくは不思議なきもちになる。この窓のなかの小さな世界が、あの無限に近い広い世界なのだと結びつけることに不自然を感じる。ぼくと窓は余りに小さく、世界はあまりに広い。
窓の中の世界をじっと見ていると、サービスエリアの敷地の入口に小さな少女のような人影が見える。紙人形のように、ふらふらとした足取りで歩いている。ぼくはコンロの火を消し、外に出る。出入りする車にぶつかったら大変だ。
人影に近づいてこんにちわ、と言うと、人影はぽかんとした顔でぼくを見る。少女のように見えた小さな人影は、白髪のおばあさんだった。くりんとした大きくて丸い目が、不思議そうにぼくを見上げる。絹糸のように細くて軽そうな白髪が、風の中を泳いでいる。
「あの、わたしどこかに行かなくちゃいけないのだけれど、どこに行けばいいのかわからなくなってしまって」
少女のように透き通った声で、おばあさんは言う。薄手の白いワンピースを着ていて、その上に若葉色をした長袖のカーディガンを羽織っている。病院の待合室によくある、ビニールのスリッパを履いている。
「何処行かれる途中だったのですか」とぼくは言う。おばあさんは中空をぼんやりと見る。そこに答えが落ちているかのように。
「確かね。子兎を飼っていたのよ。それで、緑色の車に乗ってたの。古い車。いつも煙草臭かった。でも、私は気にならなかったわ。ともだちだものね」
ぼくはお客さん用の椅子の中で、一番重い背もたれ付きの椅子を運んで、おばあさんに座ってもらう。座るときに膝が震えていたので、ぼくは手を握り腰に手をあてて着座を手伝う。
「そのひとに会いに行かれるのですか」とぼくは訊く。
「そうねえ、どうだったかしら。あなたみたいなひとだったわ。優しそうで。でも冷たくて。わたし、大好きだったのよ」
うすものの様にかぼそいおばあさんの声が、不思議と淀みなくぼくの鼓膜を揺らす。
「なにか飲みますか」とぼくは言う。
「ありがとう。なんでもいいわ」と言って、おばあさんは微笑む。ぼくはおばあさんの目の前に軽いサイドテーブルを運ぶ。新しく氷水を張った発泡スチロールの箱からカルピスウォーターを出して、グラスに注ぐ。ビーチ用のパラソルを持ってきて、地面に突き刺し、おばあさんに日陰をつくる。
ぼくも椅子に腰掛け、ふたりで空を眺める。青い空を雲が流れてゆく。太陽の光が柔かな琥珀となって、街道の向こうの麦畑に落ちてゆく。おばあさんは午睡に落ちかけた少女のように、眼を細めて遠くを見ている。
「あの、ここはどこだったかしら」とおばあさんは言う。
「ここはひまわり。サービスエリアです」とぼくは言う。
「あらそう。わたしの知らない場所ね。あなた、どなたでしたかしら。お名前は」とおばあさんは言う。
「ぼくはひまわり。ここもひまわりです」とぼくは言う。話を理解しないまま、おばあさんは頷く。
「あなた優しいのね。安心だわ」とおばあさんは言う。「買い物をして帰らなくちゃ。あのひとが今日か明日、訪ねて来てくれるかもしれない。だからね、お酒とソーダを買うの。わたし、自分では飲まないけど、あのひとが呑んでいるのを見るのは好き。乱暴なんてしないのよ。殴られたり、怒られたりしたことなんてないの。静かに微笑んで呑むのよ。わたしを抱っこしながら。でも、セックスはしないの。いっしょにお話をして、歌を歌ったりするの。わたし簡単なおつまみなんかも作れるのよ。クリームチーズも買わなくちゃ。あれとクラッカーさえあればなんとでもなるもの。あれえ、あのひと、何時に来るって言ってたっけ。リリィちゃん、覚えてる?なんてわかるわけないわよね。兎なんだものね。リリィちゃんは」
おばあさんの色素の薄い眼がぼくを見る。風が強くなり、街路樹の葉擦れの音がそよぐ。話を理解しないまま、ぼくは微笑む。
しばらくの間、ふたりで話をして過ごす。自分が何処で何をしている誰なのかはわからない。ただ、自宅に戻って〈あのひと〉を待ちたい。というのがおばあさんのお話だった。それから、ぼくは飼っている兎のリリィに似ている。
空を眺めながら、おばあさんの話声だけを聴いていると、五歳の女の子と話しているような錯覚に陥る。何もわからないまま、世界のすべてを信頼している少女の話を聴きながら、ぼくは少し眠くなって、うとうとする。聴いているうちに、彼女に信頼を与え、透き通った安心に留めているのは世界ではなく、彼女が〈あのひと〉と呼んでいる人なんだと気づく。だから彼女は〈あのひと〉に会いたがっているのだ。時折目を開けると、ぼくを見て微笑んでいる。ぼくも微笑みを返す。
「あのひとは、一度もわたしを見捨てたことなんてなかったわ。そんなふうに、笑ってくれるの。目が合うとね」と彼女は言う。
午睡から目を覚ましたおじいちゃんが、頭をかきながら納屋から出てくる。ジミ・ヘンドリックスのように大きいレンズのサングラスをかけている。ぼくたちの傍まで来ると、おばあさんに向かって挨拶をした。
「お嬢さん、こんにちは」とおじいちゃんは言う。おばあさんは「こんにちわ」と応えて微笑む。
「おはよう、ひまわり。お客さんはどこだ」とおじいちゃんは辺りを見回す。
「お客さんではないよ。迷ってらっしゃるみたいなんだ」とぼくは言う。
「なんだ。迷子か。だいじょうぶだよ、心配しなくていい。ちゃんと家に帰れる」とおじいちゃんは言って、おばあさんの頭を撫でる。発泡スチロールの中からソーダの瓶を掴む。蓋を開けてごくごくと飲み、ぷはーっと息を吐く。
「ありがとう。この方、優しいのね、リリィちゃん」とおばあさんはぼくに言う。
「リリィちゃん?ひまわり、新しいあだ名か?」そう言いながら、おじいちゃんはサングラスを外す。おばあさんを見て、ああっ!と小さく叫び、頭を下げる。「大変失礼した。サングラスをかけていたせいか、その、小さなお嬢さんかと思ってしまった」動揺を隠せないままおじいちゃんは謝る。
「ほんと言うと、ぼくもそう最初は思ったんだ」とぼくも言う。
「ふたりとも、おっかしいのねえ」と言っておばあさんは笑う。おじいちゃんは照れ笑いをして、もう一度謝り自分を落ち着かせるために咳払いをする。
「あなたたち、親子かしら。とてもよく似ているし、仲がいいのね」とおばあさんは言う。
「ありがとうございます。そうだったらうれしいんですが、この子は孫で。私は祖父で」苦笑いして、おじいちゃんは言う。
「あらそうなの。わたしてっきり。でも、おふたりはとても似ていらっしゃるわね。優しそうな素敵なお顔で」とおばあさんが言う。
おじいちゃんは、さらにわざとらしい咳ばらいをすると、ぼくの肩を抱いて、おばあさんから少し離れたところまで連れて行く。寝起きの老人のくすんだ匂いがぼくの鼻先を漂う。
「どうしたの。おじいちゃん」とぼくは言う。
「ひまわり。あの方、失禁なさっている。どうなってる?」とおじいちゃんは言う。振り向いてよく見ると、確かにおばあさんの座る椅子が濡れて、滴がぽたぽたと地面に滴り落ちている。
「ちょっと色々とわかんなくなってるみたいなんだ。どこに住んでるとか、自分が誰かはわからないみたい。でも、逢いたい人がいるから、家に帰りたいんだって」
「ふむ」とおじいちゃんは少しの間、考え込む。「なんにせよ、シャワーを浴びてもらった方がいいよな。頼むよ、ひまわり」とおじいちゃんは言う。おじいちゃんがこんな風に、ぼくに哀願するのはとても珍しい。「だってよ。おれの方が、あの方と年も近いし、なんていうか、だめな気がするんだ。脱がせたり、シャワーを浴びせたりはさ。頼むよ」
ぼくは頷く。おばあさんの横に立って、肩をそっと手を置く。とても小さな肩だ。触れた掌から、一切の緊張が伝わってこない。天使の羽と話してるみたいだな、とぼくは思う。
「すみません」とぼくは言う。「飲み物を零してしまったみたいで。よければ、シャワーを浴びて行かれませんか」
「あら」とおばあさんは言う。「でも、悪いわ」
「いえ。悪いのはぼくのほうです。零してしまってすみません。煩わしいとは思うんですけど、お願いできますか」
「煩わしいなんてことはないのよ。いいわ。行くわ」とおばあさんは言う。
ぼくはおばあさんの手を引く。おばあさんはゆっくりと立ち上がる。二人で小屋へ向かう。足取りはとてもゆっくりで、合間にぼくは、普段は数えたりしない、電線に止まる雀の数を数える。おばあさんは相変わらず〈あのひと〉の話を続ける。
「リリィちゃん。あのひと、何時頃に来るって言っていたかしら」
「きっと、家に着いたら連絡がありますよ」
「でも、あのひと、いつも連絡なしで来るのよ。だから、わたしいつ来てもいいようにしておくの。洗濯物や本を散らかしたり、洗い物を溜めたりはしないの。あのひとは、いつもわたしを見ているんですもの。お父さんみたいに。もちろん、ほんとうのお父さんではないけど」
ぼくらは小屋にたどり着く。おばあさんの歩みの緩慢さは、足腰が極端に弱っているわけではなく、時間感覚がとても緩やかなだけに過ぎない様だ。一歩一歩はしっかりしている。
さっきまで野菜を炒めていた小屋の中には、甘い匂いがたちこめている。
「わたし、お料理の途中だったかしら」とおばあさんは言う。
「火は消えているのでだいじょうぶですよ」とぼくは言う。
脱衣所に椅子を用意して、座面にバスタオルを敷く。おばあさんに腰掛けてもらう。
「脱げますか?」とぼくは訊く。
「だいじょうぶよ、脱いだ方がいいの?」とおばあさんは言う。はい。とぼくは答える。
おばあさんはとてもゆっくりと脱衣する。ぼくは、普段は数えない壁紙の花模様の数を数える。おじいちゃんが脱衣所の外からぼくを呼ぶ。
「ひまわり。どうしよう。着替えの下着がこんなのしかなかった」
そう言って、おじいちゃんは派手なフリルの付いた紫色の女性用下着を見せる。
「それ、誰の?おじいちゃん」
「ああと、これはおれの、その、昔の知り合いが置いていったものなんだが」
「あの人の身体は小さいから、たぶんサイズが合わないよ。ぼくのトランクスや服がぴったりだと思うから、それにしよう」
「わかった。すまん」とおじいちゃんは言う。
脱衣所に戻ると、おばあさんはすっかり服を脱いでしまっている。ぼくはおばあさんの手を引いて、浴室に入る。椅子に座ってもらって、シャワーをかける。硬いタオルしかなかったので、ぼくは石鹸を自分の手につけて、おばあさんのからだに白い泡を塗る。硬いタオルで擦ると、薄く柔らかい肌が傷ついてしまう気がしたからだ。
「ありがとう。リリィちゃんに身体を洗ってもらって、とてもうれしいわ」とおばあさんは言う。
頭から順に、高価な陶器を洗う気持ちで、ぼくはおばあさんの身体を洗う。おばあさんはすっかり体中の力を抜いていて、すべてをぼくに預けている。左手を洗っている最中に、傷痕に気づいた。最初、ミサンガかなにかかと思った。おばあさんの細い左腕には無数の傷痕が刻まれていた。殆どの傷痕は、刃物で横に切り裂いたと思われる浅い傷痕だった。ただひとすじ、最も深い傷痕だけは、手首から肘の方へ縦に裂かれており、浅く隆起した他の傷跡とは違って、獣爪によって力まかせ抉られたかのように肉が削除されていた。
不意に、その一番深い傷痕がぱくりと開き、暗い漆黒の穴が開いた。穴は唇のように開閉して、喋り始める。
「騙されるな。こいつは不幸な女だった」と傷口は話す。「最初の〈あのひと〉は父親だった。普段は優しかったが、くちごたえを許さなかった。優しかったのは、女が従順でいる時だけだった。くちごたえをしすぎた母親は殴られ、女を置いて家を出た。女には行くところがなかった。だから従順さを身につけ、ひとの感情を察するのも上手くなった。だが、そういう努力は女を消耗させた上に、ますます父親を逆上させた。自分がそうさせておいて、人の顔色を窺う卑屈さが許せないと腹をたてる奴もいるのだ。父親は女の細々とした小さな失敗を取り上げて、怒った。脱いだ靴を揃えていないだとか、食事の小さな食べこぼしだとかを指摘して、責めた。失敗の結果に怒りが表れるのではなく、怒りを放出するために失敗という導火線が捜されたと言っていい。吐くまで問い詰められ、最後には泣きながら何度も謝らされた。時には殴られた。女は責められないようにすべてを完璧にこなそうとしたが、すべてを完璧にこなそうとするとは何て傲慢で不遜な態度だ言われ責められた。殴った後、父親は決まって泣きながら女を抱きしめた。愛している、おまえのためなんだと言って泣いた」
ぼくは喋り続ける傷口の話を聞きながら、おばあさんの顔を見る。鏡に向かって微笑んだ顔は、まだ少女の横顔のままだ。
「第二次性徴期と反抗期を迎え、女が溜め込んだ怒りを家庭内暴力に転嫁させると、父親はあっさり家に寄り付かなくなった。女は溜まりに溜まった体内の暴力を、どんな手段を使ってでも放出する必要があった。この衝動は、嘔吐に近い。自分では止めることのできない嘔吐だ。自傷行為や不登校などといった形で、それは現れた。女自身も他者を攻撃し、他にたくさんの不登校児をつくった。十三歳の時に、はじめての恋人ができるまで、自他を問わず、暴力は続いた。恋愛は女を一時的に、しかも劇的に救った。その後、溜め込んだ怒りはすべて恋愛に注ぎ込まれたが、この女の恋愛は、殆どが父親との関係の再上映に過ぎなかった。父親と似た支配的な男に擦り寄り、顔色を窺い、苛立たせ、殴られ、最後に泣いて謝ったり謝られたりする。その繰り返しだった。すべての恋愛は毒を詰め込んだ風船が膨らんでゆく様に似ていた。最後には必ず破裂し、毒が散布され、関わる全ての人を汚した。この女も、すべての〈あのひと〉も、毒に塗れている」
ぼくは浴室に反響する傷痕の独白を聴きながら、おばあさんの細い足を洗う。彼女の体は、洗体するぼくの手の中で余りにも軽く、傷口以外は陶器のようにすべすべしている。傷痕は喋り続ける。
「ただ、最後の〈あのひと〉だけは別だった。この女に、たくさんの花言葉を教えた男だ。その男だけはこの女を殴らなかった。女がどんなに企み、誘導し、揺さぶり、脅し、最後には泣いて叫んでも駄目だった。「どうして殴らないの?わたしを愛してないの?」と女は叫んだ。男は静かに、哀しそうに首を横に振るだけだった。にも関わらず、愛しているという主張を取り下げなかった。凄まじい矛盾が女を襲った。はじめて感じる安心は、同量の不安となって女を煽った。何度も泣き喚き、暴力を求めたが無駄だった。男はほんとうに最後まで、一度も女を殴らなかった。その男とは十年暮らした。女が、我々傷口にすべてを押し付けて正気を眩ませたのは、その男がいなくなってからだ。今や、この女が〈あのひと〉と呼ぶ男。それが父親なのか、その後にこの女を殴っていった男たちなのか、それともとうとう最後まで殴らなかったあの男なのかはわからない。その誰でもないのではなく、ただやり直せない過去の再生をしたいだけなのかもしれない。だが、どの男ももう二度と帰らない…」
「ねえ、ぼく、名前を知りたいんだ。このひとの」傷口の話を遮って、ぼくは言う。
ぱちん。と蚊を叩くような音が響く。おばあさんが自分の左手の傷口に手を当てて塞いでる。見上げると、おばあさんと、ぼくの視線が合う。その目は、さっきまでのように、少女の顔をしていない。とても硬くて重たい老婆の瞳が、ぼくを見下ろしている。
「余計なことを、言うな」
とおばあさんが言う。塞いだ傷口に対してなのか、ぼくに対してなのかはわからない。
冷たい老婆の姿は、何度かのまばたきの中に隠れ、すぐに少女のようなおばあさんの微笑みが戻ってくる。ぼくは黙って、おばあさんの体を洗ってしまうと、脱衣所の椅子に導き、バスタオルで体を拭く。
「リリィちゃん。綺麗にしてくれてありがとう。これで何時あのひとが訪ねてきても、だいじょうぶね。でも、これ、あのひとには内緒にしなきゃ。若い男の子に体を洗ってもらったなんてね」とおばあさんは言う。再び、少女のような透き通った声で。
汚れた下着の代わりに、ぼくのトランクスを履いて、おばあさんはころころと笑う。「サイズぴったり。男物の下着って、けっこう楽なのね。面白いわねえ」
「あの、うちにはドライヤーっていうのがなくて。お化粧の道具も」とぼくは言う。
「いいのよ。ドライヤーなんて。すぐに乾くわ。お化粧だって、うちに帰ってあのひとが来る前にすればいいもの。それに、あのひとったら、あまりお化粧する女の人が好きじゃないって言うの。自然が好きだって言うのよ。わたし、ずっとわからなかったわ。自然な自分なんて、あのひとに会うまではわからなかったのよ。あのひとにあってからも、ずっとずっと、わからなかったの」とおばあさんは言う。
ぼくたちは小屋を出る。おばあさんの柔らかい白髪が風になびく。乾いていない水分が、陽の光を反射する。
「とてもいい風」とおばあさんは微笑む。
敷地の一角でハーブ園の前に椅子を運び、おばあさんに座ってもらう。椅子の傍にテーブルも運び、ストローを差したアイスティーを置く。
「いい香り。バジルの花が咲いてるのね」とおばあさんは言う。「花は摘んでしまわないと、葉の香りが弱くなるのよ」
「いいんです。もう十分に葉は採りましたから」とぼくは言う。おじいちゃんがホースで水を撒くと、小さな虹があらわれ、おばあさんは見とれる。ぼくは園芸鋏を使って、バジルの先端に咲いた白い花を摘む。軽く水で洗い、おばあさんの目の前のアイスティーに挿す。
「ねえ、リリィちゃん。バジルの花言葉を知ってる」とおばあさんは言う。
「いいえ」とぼくは言う。
「〈好意〉それに〈なんという幸運〉」と言って、おばあさんは得意げに微笑む。畑に植えられたハーブをひとつひとつ指さし、花言葉を口にする。
「ローズマリー。あれは〈思い出〉それに〈追憶〉。その隣はタイムね。〈勇気〉。サフィニア。〈咲きたての笑顔〉すてきよね」
花言葉を口にするたびに、少女の様だったおばあさんの声が、だんだんと低く落ち着いた調子を帯びてくる。
未来の町の方角へ、雲が流れてゆく。ぼくは花言葉を聴きながら、おばあさんの隣に腰かけて、ぼんやりとそれを眺める。おばあさんが畑のハーブの花言葉を全て口ずさんでしまうと、おじいちゃんが拍手をする。
「ひまわりの花言葉はご存知ですか」とおじいちゃんが訊く。
「何本?」とおばあさんは言う。質問の意味がわからず、おじいちゃんは戸惑う。
「ひまわりは本数によって、花言葉が変わるんですよ。一本なら〈一目惚れ〉三本なら〈愛の告白〉とかね」とおばあさんは言う。庭の一角に並び、太陽の方を向いているひまわりの群れの数を数える。全部で十本だったが、おじいちゃんはぼくのことも勘定に入れて「十一本です」と言う。
「十一本のひまわりの花言葉。〈最愛〉」とおばあさんは言う。おじいちゃんは言葉の響きに照れて、ソーダをぐいぐい呑んで咳き込む。
「すてきね」とおばあさんが、空を見つめながらまた言う。
しばらくの間、ぼくたちは黙る。風が身体と沈黙の上を優しく通過し、雲は未来への移動を続けている。
「なんだか、とても安心だわ」とおばあさんが言う。「でも、きっと今のことも、すぐにわからなくなってしまうのね」
ぼくはおばあさんが低い声で話し、空ではなく、ぼくの目を見据えていることに気づく。
「ぼくが覚えています。もしよければ」とぼくは言う。
「ありがとう」とおばあさんは言う。
沈黙。
「ねえ、リリィちゃん。聞いてくれる」とおばあさんは言う。ぼくは頷く。「人生はすてき。一度しかないのが、悔しい。何百回でもやり直したいくらい、人生はすてきよ。何千回産まれ変わっても二度と会いたくない奴もいるけど。それを差し引いても、すてきなの。リリィちゃん。今日は会えてうれしかったわ」
ぼくの目をじっと見たまま、おばあさんはそう言う。少女の様に透き通った声ではなく、浴室で聞いた鉛のような声ではなく、たぶん年相応のおばあさんの声で。
ぼくは約束通り、その言葉を覚えていることにする。無数の記憶の小箱の中から、花柄のロゴが刻まれた箱を選んでその中に入れる。鍵は掛けず〈すてき〉と書いたラベルを貼る。
おばあさんはアイスティーを一口飲むと、微笑みながら、またハーブ畑を見る。
小屋から出てきたおじいちゃんが地面に膝をつき、椅子に座って景色を眺めているおばあさんに向けて話す。
「失礼ながら、役所のほうに連絡させていただきました。しかるべき係の者が来て、お送りしてくれるそうですので」
「あらあら。何から何まで、もう」とおばあさんは言う。
ぼくはおばあさんの手を引いて、サービスエリアの入口まで案内する。公用車がやって来て、中からスーツを着た二人の職員が下りてくる。一人は枯木のように痩せていて、一人は樽のように太っている。
「おばあちゃん、わかんなくなっちゃたの?だいじょうぶ、今から送っていくからね」と痩せた方が言う。
「ええと、お二人はこの方とはお知合いですか」と太った職員がぼくらに言う。ハンドタオルで額に滲んだ汗の珠を拭う。
「何処からいらっしゃったのかはわかりません。迷ってらっしゃっていたので、少し休んでもらっていました」とぼくは言う。
「つまり初対面ってこと?」と痩せた方の職員が言う。
「ちがうわ、初対面じゃないの。ねえ、そうよね。リリィちゃん。私たち、とても仲がよいもの。初対面なんかじゃないわ」と少女のような声でおばあさんが言う。ええ、そうですね。とぼくは言う。おじいちゃんが職員に小声で何か耳打ちする。頷いて、職員は車のドアを開ける。
「おばあちゃん、送っていくからね。乗ってもらえる?」と痩せた職員が言う。おばあさんは、ぼくとおじいちゃんを見て、不安そうな顔をする。
「乗らなくちゃいけない?」とおばあさんは言う。
「ええと。ご自宅でどなたかをお待ちになるのでは?」とおじいちゃんは言う。
「そうね。あのひとだわ。そうだったわよね。リリィちゃん」
職員がどうぞ、と言っておばあさんの肩に手を触れる。おばあさんはそれを振り払う。ぼくの方に手を差し出す。ぼくはその手を取って、乗車を手伝う。
「なんだか、不安だわ。ねえ、だいじょうぶかしら。おとうさんは?おとうさんに連絡したりしない?」とおばあさんは言う。たすけを求めるように、不安そうな顔でぼくを見る。ぼくは少し考えてから、おばあさんの耳元に顔を寄せて質問する。
「今日の誕生花は?」おばあさんは目を丸くして、ぼくの顔を見る。不安そうだった表情が、ゆっくりと共犯者のそれになり、にこりと微笑む。
「今日は何月の何日だったかしら」とおばあさんは言う。ぼくは日付を伝える。
「今日の誕生花は、カンナ。ハナカンナとも呼ばれる、鮮やかな夏の花ね」とおばあさんが言う。職員が車のエンジンをかける。ぼくは車から降りる。どうぞ、よろしく頼みます。とおじいちゃんが言う。おばあさんが車の窓を開け、ぼくの方へ顔を寄せる。「花言葉はね〈傷口のいうことを信じすぎるな〉よ。さよなら、ひまわり。ありがとう」とおばあさんは言う。
「また、どこかで」とぼくは言う。おばあさんを乗せた公用車が、ゆっくりと遠ざかっていく。