(7)溶けてゆく夜
おばあさんを見送ってしまってから、おじいちゃんはサービスエリアの仕事に戻り、ぼくは小屋に戻ってたまねぎを炒めることを再開する。キッチンのラジオからトム・ヨークの歌声が聴こえる。おれはクズだ。クズなんだ。と歌っている。
ぼくはひたすら真剣にたまねぎを炒める。たまねぎを炒めるということ以外はあまり考えないという意味での真剣だが、これがなかなか難しい。
たまねぎの繊維がすべて崩壊し、飴色に溶けだした頃、キッチンの出窓が暖かい色に染まり出す。ぼくは窓を閉める。夕暮れだ。この窓は、昼と夜の境目の一瞬に、もっとも多くの光を集める方角を向いている。磨り硝子のなかに光の蜜柑が満ちる。一日のすべての光が、優しく温められて、ぼくと窓を目がけて帰ってくるような錯覚に陥る。ぼくは目を細める。たまねぎを炒めながら、自分が地平線の向こうへ落ちてゆく落陽なのか、鍋の中のたまねぎなのか、ラジオから流れる歌声なのか、たまに目の前を飛ぶ飛蚊なのか、磨り硝子に閉じ込められた光なのか、まったく全然わからなくなって、そのすべてがぼくという気すらしてくる。
茜色の空と、群青色の空が、磨り硝子の中でゆっくりと混ざり始める。液体みたいだな。とぼくは思う。掴めないこと。境界が曖昧であること。混ざり合うと分離できないこと。どちらが昼で、どちらが夜なのかわからなくなること。
窓の中から光が消える頃、ぼくはすっかり飴色の塊になった鍋の中身に、みじん切りにしたにんじんとセロリを追加する。夜が更けるまで、また、ゆっくりと鍋の中身をかき混ぜる。今日の出来事も鍋の中に入れる。それについて、ぼくが考えたことも。すっかり混ざってしまった窓のなかの昼と夜も、すべて混ぜて、ひとつになるまで、ゆっくりとかき混ぜる。ついでに、ラジオから流れ出ているピアノ曲も入れる。すべてが終わってしまうと、しばらく置いて粗熱を取る。
常温に戻しておいた鶏肉を塩コショウで焼く。残り物の米と、スライスしたトマトと胡瓜と一緒に、二枚の皿に分けて乗せる。皿を持って小屋を出る。扉を開けると、夜が小屋の中に入りこみ、小屋の中からは料理の香りが夜に溶けていく。やっぱり液体みたいだな、とぼくは思う。何もかも、すべて混ざり合っていく。
夜空には星が瞬いている。あのひとつひとつが何なのか、ぼくにはわからないのに、綺麗だなというきもちは自然に湧いてくる。この感覚はいったいどこから来るのだろう。
おじいちゃんとテーブルについて食事をとりながら訊いてみる。
「おじいちゃんは星をきれいだって思う?」
おじいちゃんは少し考える。
「ああ、思うよ。改めて見るとだけどな。おれはおまえみたいに、人や風景や物をじっと観察したりしないから、おまえとは見方が少し違うと思うが」
おじいちゃんは夜空を見上げながら鶏肉をもぐもぐと食べる。何か考える時に、上を向いて虚空を見つめるのは、おじいちゃんの癖だ。
「今ちょっと考えてみたんだけど、きれいっていうより先に、宇宙人がいるのかどうかとかを考えてしまうんだな。おれは」とおじいちゃんは言う。
「宇宙人っていると思う?」
「宇宙人はいるよ。おれがそうだし、おまえがそうだ」おじいちゃんはニヤリと不敵に笑う。
ぼくらは宇宙人の話をしながら食事をする。宇宙人がいるとしたら、そいつらの手足は何本かだとか、主食はなになのか、そもそも食事をとるのか、声帯やテレパシーや感覚器や美意識の有無などについて話す。
「わかり合うことはできるのかな」とぼくは言う。
「無理なんじゃないか」とおじいちゃんは言う。「同じ人間同士だって無理だしな」
ぼくもそう思う。でも、わかり合えないことは、仲良くできないという事とは違う気がする。例えば、ぼくとおじいちゃんとベイブはわかり合ってないけど、仲がいい。
食後に、おじいちゃんはウィスキーをロックで一杯だけ呑み、ぼくはミント水を飲んだ。しばらくふたりで夜空を見上げた後、おじいちゃんは入浴のために小屋に向かい、ぼくは心を空っぽにして、ただ真剣に星を見ようとする。
ぼくは看板の隣の椅子に座り、目を閉じる。夜になると街道からは車の姿が殆ど消える。白い街灯が冷たい蛇のように、彼方まで点灯している。耳を澄ますと、無数の虫の鳴き声が聴こえる。風に揺られて、草木がさわさわと音を立てている。ぼくは街灯の光を追って、未来へ続く街道の彼方を見る。風呂から出てきたおじいちゃんが、殆どが溶けた氷の水になってしまったロックグラスの中身を呑む。
「ひまわり。未来の方が気になるか」とおじいちゃんが訊く。ぼくは首を振る。
「わからない。何故、みんな未来を目指すのだろう」とぼくは言う。
「重力だよ、ひまわり。重力ってわかるか」おじいちゃんは言う。
「ニュートンの林檎」とぼくは言う。
「林檎は地面に落ちる。地面も林檎を呼んでいる。お互いさまってやつだ。林檎と地面はお互いに求めあっているのさ。未来もそうだよ。人間と求めあってる。人間が行かなきゃ、あっちから来るんだ」
「おじいちゃんは、未来に行きたいと思わないの」とぼくは訊く。
「いいや」と言っておじいちゃんは酒瓶をあおる。「おれも年をとったし、そういうのは、もういいかな。おまえのいるところが、おれの未来さ」とおじいちゃんは言う。
おじいちゃんは納屋のベッドで眠る。ぼくは、おじいちゃんより少しだけ長く起きている。車の通らない夜の街道の彼方を見る。規則正しく並ぶ街灯が未来への道を照らしている。同じ風景をずっと見ていると、ぼくと風景の境界線が曖昧になって、夜のグラスの中に溶けて混ざり合う。眠くなり、ぼくはいよいよ液化するために、小屋のなかのベッドへ向かう。粗熱のとれた野菜を冷凍し、歯を磨いてから、下着姿になって眠る。一日の何もかもが溶けていく。