(8)アカシア再訪。バケモノたちの話。

「ひまわり。ねえ、ホースで水かけてくれない」
怒りに燃えた瞳のまま、アカシアは言う。ぼくはホースから水を出して、アカシアにかける。焼き林檎のような黄金の朝陽がぼくらの頭上で熱く燃えており、無謀運転を繰り返して、サービスエリアの敷地でに侵入してやっと停車したアカシアのセローのエンジンが、放熱によって周囲の空気を歪ませている。今朝、ハーブ畑に水をやっていると、街道の彼方から狂った鉄騎のようなセローのエンジン音が聴こえたので、ぼくはアカシアに気づかれるように、サービスエリアの入り口から、大きく手を振ったのだった。
「なんで。なんでまた、ここに来ちゃうかなあ」
地面を狂犬のように蹴りながらアカシアが叫ぶ。
「あの、アカシア。おはよう。昨日のジンジャーエールの料金を払って欲しいのだけど」ホースの水をアカシアに浴びせながら、ぼくは叫ぶ。
 アカシアはぼくの眼をまじまじと見つめる。やがて諦めたように肩を落として、ジーンズのポケットから小銭を出して支払う。黒いタンクトップを着たアカシアの、むき出しになった肩には薔薇のタトゥーが彫られている。花弁にはりついた水玉のなかに、太陽とぼくらの姿が光っている。
「ごめん、ありがと。頭冷えた。ついでに何か飲み物ちょうだい」
アカシアはドリンクと氷の入った発泡スチロールを探り、炭酸水のペットボトルを選んで開ける。ぼくの隣に座る。髪をかきあげて水を払う。
「ひまわり、聞いてくれる」とアカシアは言う。「あたしはまるで、壊れたDVDプレーヤーみたいなんだ。再生機能がぶっ壊れてて、いつも最悪のチャプターばかり再生してる。それでフラッシュバックに襲われて、自分を見失う。昨夜は、あたしをフッた男が憧れてたシンガーの歌を聴いたのがきっかけで、気がついたらバイクに乗って走り出してた。すごくいいシンガーなのに、畜生。昨日といっしょで、あたしと同じ顔をした女をぶち殺さなきゃいけないという衝動に支配されて。正確には、あたしから逃げたクソ男にすべてを捧げてかまわないとかほざいていた、あの世界一、頭の悪い女をぶち殺さなくちゃと思って。そんで、とりあえずバイクを飛ばして怒りにまかせて走ってたら、またこの路に迷い込んだ。あんたが手を振ってくれたから、少しだけ怒りが消えて、止まることができた。たすかったよ」
「アカシア。その炭酸水の料金を先にください」とぼくは言う。今度は忘れないように。アカシアは、はいはいと笑いながらポケットから硬貨を差し出す。「でね、かっとなってバイクの乗ったから、武器も何も持っていないの。ここ、なにかない。ショットガンとか、ただ殴るために鋳造された棘の付いた棒とか」
「ないよ」とぼくは首を振る。
 アカシアはしばらく黙って山の方を見る。過去と自分を遮る山を見ると、アカシアの顔は怒りに染まる。
「ひまわりは、あの山のこと詳しいみたいだから、聞いておこうと思ったんだ。どうやってあそこを越えたらいい?どうすれば過去にたどり着いて、あたし自身をぶち殺せるの」
 ぼくは説明をする。
「山には、アカシアと同じような人たちがたくさんいる。ただし、もれなくバケモノになっている。ゾンビ映画好きって言ってたよね。あれに似てる」
「走るタイプのゾンビ?歩くタイプのゾンビ?」
「歩くタイプ。でも、手を前に出したり、ゆらゆらしたりしない。まっすぐに来る。アカシアは過去への憎しみに導かれてここにやって来た。でも、まだこうやって、かろうじてぼくと話すことは出来る。この間はいっしょに口笛を吹いたよね。でも、バケモノの仲間になったら、もうそういうことはできない。アカシアは完全に暴力そのものになる。そして、バケモノの目的は暴力の感染をなんだ。仲間をほしがっているんだよ。そんなものになりたい?」
「いやだな」と顔をくしゃくしゃにして、アカシアは言う。
「噛まれるの?噛まれたらばけものになるの?」
「ちがう」とぼくは言う。かつて一度だけ、山に入ったことがある。アカシアにその話をする。

 その人は、アカシアと同じように、過去へ向かい、過去の自分を殺そうとしていた。そうすれば何もかもうまくいくと信じ込み、強く願っていた。名前は知らない。必要はないと考えていたのだろう、最後まで名乗らなかった。岩山を転がり落ちた後のように、あちこちが凹んだ軽自動車に乗って彼女はやって来た。二年ほど前の、やはり夏だった。
 年齢はアカシアと同じくらいか、少し上くらいに見えた。若いのに、やけに白髪が多い人だった。市役所の職員のような地味な制服を着ていたが、禍々しい雰囲気のせいで、市役所の職員には全く見えなかった。無傷のくせに、治っていない創傷の匂いのする顔をしていた。乾ききらない瘡蓋のような膜が、彼女の顔全体を覆っていた。最後まで笑わなかった。
 女は物静かで、冷静に見えたけど、心の中はアカシアと同様、過去への怒りに支配されていた。より激しい憎しみというものは、寧ろ静かに見えるものなのかもしれない。のアカシアが喚いて当たり散らすことで憎しみを発散しようとするのに対し、白髪の多い女の憎しみは、最初から静かに決定されていた。その決意は冷たく硬く、アカシアの憎しみが台風だとしたら、女の憎しみは、外部からの力では動かすことの出来ない静かで巨大な岩石だった。山について訊かれたぼくは、知っている限りのことを女に説明した。
「ぼくは山へ入ったことはないし、これからも入る予定はないけど、絶対に行ってはいけないと強く言われています。そこにはバケモノたちがいて、人を襲うんだって。正確には人ではなく、その憎しみを」
「バケモノ?獣ではなくて?」
「わからない。とにかく、行ってはならないと強く言われています。特に憎しみを持って行くのは自殺行為だって。実際に、そういう人たちが山に入って戻ってきた例をぼくは知りません」
「身を守る術がいるってことね」
 女は少し考えてから車に乗り込んで、一度は未来の町へ戻っていった。その日はサービスエリアに来るお客さんも少なくて、ぼくは午前中の間、ぼんやりと空を眺めてた。数時間後、女が戻ってきた。鉄パイプや包丁や鈍器や高枝切ハサミやキャンプ用のガスバーナーなどを後部座席に積み込んで。女は車を降りると、ぼくにハンティング・ナイフを突きつけて、助手席に乗れ、と静かに命じた。
「ひまわりのおじいちゃんは、その時なにをしてたの?」と顔をしかめてアカシアは訊く。ぼくらは振り向いておじいちゃんの方を見る。おじいちゃんは朝方に洗濯した二人分の服を庭に干している。
「その時、おじいちゃんは小屋で「刑事コロンボ」の再放送を見てたよ。あの女の人は余りにも静かにぼくを脅迫した。アカシアみたいに叫んだり喚いたりしてくれたら、すぐに気づいてもらえたと思うけど、彼女は一から十まで静かだった。そういう憎しみもあるんだなって思った」
 ぼくは彼女の言う通りに助手席に乗り込んだ。表情や声色が、断れば刺すという明確な決意を放っていた。その決意があまりにも強すぎたので、ぼくは刺殺される自分の姿をとても生々しく予見することが出来た。
 女はぼくを連れて山へ向かった。アカシアよりもひどい運転だった。エンジンをかけて即、アクセルを限界まで踏んだ。空転したタイヤが地面を噛むと、破裂したように飛び出した。
「山を越えるまで、あんたに付き合ってもらう。あそこを無事越えられたら、何をしてあげてもいいわ」と彼女は言った。いったい何をしてくれるつもりだったかはわからないけど、ぼくの望みはただ解放されたいと、それだけだった。どう命乞いをしたら開放してもらえるか考えたけど、ひとつも思いつかなかった。そのくらい、女の表情と運転は決意に満ちていた。車が山の麓へたどり着くまでの僅かな時間で、ぼくはやっとひとつの質問を振り絞り、彼女に投げかけた。「何をしに過去に行くんですか」とぼくは訊いた。彼女はアカシアと同じことを言った。ただし、もっと簡潔に。「すべてをやりなおすためよ」と彼女は言った。何を言っても無駄だと思った。

 車が全くスピードを落とさず山道に入ると、すぐにバケモノたちが襲ってきた。曲がりくねった山道のガードレールの陰から、石の下のダンゴムシみたいに数えきれない数の人影がぞろぞろ現れた。最初、人間たちかと思った。男性もいれば女性もいた。若者もいれば老人もいた。窮屈な程きつくネクタイを締めた若い銀行員風の男がおり、エプロンをした中年のパートタイマーのような格好の主婦がおり、四十年間早朝マラソンを欠かしたことがない肉の丸太みたいな脚をしたショートパンツの老人がいた。彼らは一見、生きている人間のような多様性を保持していた。顔色にしても生者のそれで、ゾンビや死者の様に青ざめてはいなかった。にも関らず、やはり彼らは人間に見えなかった。そこには恐怖と表情が全く欠落していた。今考えると、その二つは人間を定義する上で、とても重要な要素なのだと思う。彼らはまっすぐに歩いてきて、ぼくらの乗った軽自動車の前に立ちふさがった。
 女はためらうことなく、バケモノたちを轢いた。さすがに恐ろしかったのだろう。叫んでいた。鈍い音と衝撃の後に、倒れた人体にタイヤが乗り上げる嫌な感触が伝わってきた。表情のないバケモノたちが次々と、真正面からまっすぐ車に向かって立ちふさがる。女はアクセルを緩めることをせず、それを撥ね飛ばし続けた。五、六人撥ね飛ばしたところで軽自動車は衝撃によって減速し、タイヤは轢き殺したバケモノの体の一部を噛んで、それ以上前に進まなくなった。武器をよこせ!と女は叫んだ。ぼくは包丁を渡した。車はあっという間にバケモノたちに囲まれた。跳ね飛ばされたバケモノたちが無言で起き上がり、不自然な方向へ曲がった利き腕を振り回して、車の窓を殴りはじめた。自らの骨を砕きつつ、窓を殴る音が鳴り続いた。

「まだ、聞きたい?」とぼくは言う。アカシアは、アルミホイルの塊を噛んだように、顔をしかめている。こくこくとうなずき、話の続きを促す。ぼくは話し始める。

 すべてが淀みなく行われた。バケモノたちは、石や拳で車の窓を殴った。拳が裂けて、骨が折れ、血が飛沫してもバケモノたちは殴ることをやめなかった。機械と暴力が一体になっているかのようだった。予告も工夫も前動作もなく、ただ最短距離で暴力が実行された。衝撃と血が舞う中で、バケモノたちは無表情だった。憎しみはもちろん、一切の表情が無駄であるとでも言わんばかりに、そこに存在しなかった。ぼくは恐怖に震えながら、自分が表情を有していることの方が寧ろ不自然なんじゃないだろうかと思った。何のために表情ってあるのだろうって。
 とうとう拳によって助手席の窓硝子が割られた。血まみれになったバケモノたちの手が、硝子を粉砕し、次々に車内に侵入してきた。殺せ!刺せ!と女は叫んだ。ぼくは震えて動けなかった。次は事務的な暴力が、最短距離にあるぼくの髪の毛を掴み、ダッシュボードに額を打ち付けるか、車外に引き摺り出すかするのだ、と思った。でもそうじゃなかった。扉を開けたバケモノたちは、一番近いぼくではなく、運転席の女の腕を掴んだ。女は出刃包丁で応戦した。ぼくの目の前で、彼女を求めるバケモノたちの腕が切り裂かれ、血が舞った。死ね!という女の絶叫が、エコーして響いた。バケモノたちの血は赤かった。割れた窓から侵入した手の一つが、助手席の扉を内側から開けた。女はもうアクセルを踏む余裕を持っていなかった。運転席の窓も、複数の拳によって殴られ続けている。不意にぼくの脇腹に衝撃が走った。バケモノたちの攻撃ではなかった。女が、ぼくを蹴り飛ばし、車外へ放り出したのだ。あの時は頭の中が真っ白になった。
 あのまま殺されたり感染したりしていたら、ぼくは人間の形をした空白に恐怖だけを詰めた状態で死んでいたわけで、今思いだすと暴力よりも孤独よりも、それがいちばん怖い。自分を失ったまま、くたばることが。
 道路に投げ出されたぼくは、開いた助手席の扉から、数人のバケモノたちが車内に侵入していくのを見た。あっというまに運転席の女の姿が覆い尽くされ、叫び声がかき消された。女に覆いかぶさったバケモノたちの動きが止まり、一塊になって蠢いた。獲物を捕食するハイエナの群れにも見えたし、一人を集団で強姦する汚れた幽霊たちにも見えた。実際に、そこで何が行われたのか、ぼくは詳細には見ていない。ただバケモノたちが一塊になって彼女を覆い、蠢いているのを何も出来ずに見ていただけだ。やがて、一塊になった人影が分離し、ひとりひとり車から出てきた。その中には、さっきまで半狂乱になってナイフを振り回していた女も含まれていた。車から出てきた彼女からは一切の表情が失われていた。憎しみの炎が消えてしまった彼女は、他のバケモノと同じように人間には見えなかった。それは動いてはいるものの、余りにも生きていなかった。
 その場で表情を有しているのは、ぼくだけになった。今度こそ駄目だと思った。死ぬ前という光景を、せめて見ておきたいと思った気がする。ぼくは表情のないバケモノの集団を睨みつけていた。でも、バケモノたちは、ぼくに何もしなかった。車とぼくを囲んでいた数十人のバケモノたちは、ガードレールを乗り越えて、山の中へ帰って行った。敗戦後にロッカールームに帰っていくアメフトチームみたいに静かで速やかだった。ぼくを連れ去った白髪の多い女も、一緒に森へ潜っていった。彼女を含め、バケモノたちは誰一人として、振り向きはしなかった。
 ぼくはどうしていいかわからずに、しばらくの間、口を開けた空白と化して、そこに立ち尽くしていた。どのくらいの時間が経ったのかわからない。助手席におじいちゃんを乗せたベイブが、トラックに乗ってやって来た。運送の途中に、対向車線の車の中に拉致されたぼくの姿を見つけたベイブは、おじいちゃんを呼んで大急ぎで救出に向かってくれたそうだ。怪我はないか、とハンドガンを右手に持ったおじいちゃんが、ぼくを抱きしめて叫んだ。あの時ばかりは、ぼくも安心して泣いた。女に蹴られた脇腹と、恐怖に喰いつくされた心に後々まで残る痛み。それから掌の何か所かに擦過傷を負っていたけど、他に怪我はなかった。それでこの話は終わりだ。

「どうして、バケモノたちは、その女だけを狙って、ひまわりを放っておいたの」とアカシアが訊く。
「バケモノたちは憎しみに呼び寄せられるんだ。過去への強い憎しみに。だから彼女は襲われ、ぼくは襲われなかった。過去への憤怒。後悔。慙愧。憎悪。責苦。呵責。あいつらはそういうのが大好きなんだ。それらを捕食し、人格が消滅するまで奪い尽くし、その抜け殻を仲間にする。アカシアも間違いなくそうなるよ」
アカシアは顔をしかめたまま、山を見た。
「考え直した?」とぼくは訊く。
「今日のところは」とアカシアは言う。
「よかった。あの、せっかくだから、セローと靴を洗っていかない?」とぼくは言う。
「バイクと靴を?なんで?」
「洗ってみたらわかる」とぼくは言う。

 ホースから撒いた水で、バイク全体を濡らす。バケツに水を満たし、少量の洗車用洗剤を混ぜる。ぼくとアカシアはスポンジに水を含ませて、セローを擦る。長い間洗われていなかったセローの車体から、黒い汚れが水に溶けて滴っていく。一通りスポンジで擦ってしまうと、水をかけて洗い流す。これを二回繰り返す。
「いいね」とおじいちゃんが声をかける。どうも、と言ってアカシアが会釈する。
「ずいぶん洗ってなかったでしょう。水が真っ黒だ」とぼくは言う。アカシアは照れたような表情で笑う。おじいちゃんは、新しく綺麗な水を張ったバケツと、数種類の柔らかいブラシをぼくらに渡す。
「アカシア。次は靴」とぼくは言う。
「はぁ?なんで?」とアカシアは叫ぶ。ぼくはおじいちゃんを見る。
「あんたのバイクと靴は汚れすぎているからだ」とおじいちゃんは言う。アカシアはちょっとむっとした顔でおじいちゃんを見る。おじいちゃんは説明する。
「バイクと靴を洗うことは、心を洗うことと一緒なんだ。物理的に洗うという行為に集中するならば、その時、精神も洗われる。文字通り、きもちが洗われるんだな。洗うのは何であってもかまわないが、靴や車やバイクや自転車を、おれは勧める」
アカシアは新興宗教の勧誘員を見るような目で、おじいちゃんを見る。
「なぜ靴や乗り物を?」とアカシアは訊く。
「あんたを運ぶものだからだ。それはあんたの延長なんだよ。だから、靴を洗うのは自分を洗うのといっしょだ。きもちが楽になるはずだよ」
アカシアは感心した顔で、へーと呟いて頷く。
「それは、あなたの考えですか?」とアカシアは訊く。
「いや、昔おれが秘書を務めてた政治家の受け売りだ。おれの最初の仕事は、先生の靴と車をピカピカにすることだった。先生はおれを大事にしてくれたよ。おまえのおかげで、すがすがしい気持ちで政治ができるって。最後には政敵に嵌められて獄死したがね」
アカシアは苦笑いする。
「先生は政治家だけあって嘘つきだったけど、少なくとも、この話だけは正しいとおれは思ってるよ。靴と車を洗って、嫌な気分に陥るやつはいない」
 アカシアはぼろぼろのスニーカーを脱いで裸足になる。ぼくらは地面に座ってブラシで靴の汚れを落とす。おじいちゃんが、余っていたサンダルをアカシタに貸す。
「スタン・スミス。いいスニーカーだ。ヴィーガン・レザーだね」とぼくは言う。
「なにそれ?」とアカシアが靴を擦りながら訊く。
「アディダスがテニスプレーヤーのスタン・スミスのモデルとして作った。そのベロに印刷された人の好さそうなおじさんがスタン・スミスさんだよ。アディダス製スニーカーの特徴であるストライプが側面に入ってないのは、当時のテニス界に白い無地の革製シューズでなければならないというルールがあったからだ。それでストライプの部分は通気性を高める孔になった。それがかえって、デザインをシンプルに洗練したし、シンプルさは無限のアレンジの可能性を持っていた。環境に配慮したモデルも多く生産されてる。これも動物性ではない革の代替素材で作られてる。だから、ヴィーガン・レザー。アカシアはヴィーガン?」
「いいや。焼肉が好き。ひまわり、よく知ってるねえ」と感心してアカシアが言う。
「ひまわりは昔、客が忘れていったスニーカー大全集みたいな雑誌を飽きもせずにずーっと読んでるんだ。殆ど暗記してるんじゃないかな。それから、おれの持ってる車やバイクの雑誌とか。だからどうも知識が偏ってる」とおじいちゃんが説明する。
「スタン・スミスは白いシューズのなかで最も美しい一足だって、本には書いてあったよ。ぼくもそう思う。アカシアはこれ、いつ買ったの?」
アカシアは顔をしかめる。
「十九歳の時に付き合ってた男がプレゼントしてくれた。とにかく沢山ものをくれる奴だったけど、あたしの一番欲しいものはくれなかった。そのくせ、あれあげた、これあげたって恩着せがましいから別れ話をしたら、今まで使った金を返せと言ってきて、実際にレシートのリストを送り付けてきたっけ。畜生」
「アカシアはなにが一番欲しかったの?」
アカシアは座り込んだまま俯き、膝の間に頭を閉じ込めたまま、うううううと唸りながら考えた末に、わかんない。と言う。
「わかんない。それが一番、許せない。知ってる気がするのに、どうしてもわかんないのよ。それでまた、いらいらしちゃうんだ」
「もしわかったら、それを取りにいけばいいんじゃいかな」とぼくは言う。アカシアは顔を上げてぼくを見る。ふてくされたような表情で。
「誰が持ってるんだろう」とアカシアは言う。おじいちゃんが口笛でマイルス・デイビスの「いつか王子様が」のイントロを吹く。皮肉のつもりだろうけど、アカシアは気づかない。
「ひまわりは、持ってない?あんたと話してると落ち着けるの」とアカシアはぼくをじっと見つめて言う。ぼくはアカシアの目を覗く。でも、そこに何が欲しいのかなんて書いてない。ぼくの姿が映っているだけだ。おじいちゃんが大きな咳払いをする。
「わかんないよ。アカシアが欲しいものが何なのか、ぼくは知らない」とぼくは言う。
「ひまわりは?なにか欲しいものあるの?」とアカシアは言う。
「ない。ここにあるもの以外は」とぼくは言う。
 アカシアは手を止めて、景色を眺める。「いいな。うらやましい」と呟く。肩に止まった蚊をぱちんと叩く。ぼくは血の滲んだアカシアの肩のタトゥーを見る。真っ赤な薔薇、煙草をくわえた唇、NO FUTUREと書かれた羊皮紙。

 しばらくの間、ぼくたちは鼻歌を歌いながらブラシでスニーカーを洗う。ラジオで覚えた曲のメロディを口笛で吹くと、音楽に詳しいアカシアは、嬉しそうに曲名を呟く。ぼくは大体において曲名は忘れ、メロディだけしか覚えられない。アカシアが嬉しそうだったので、しばらく口笛でメロディを奏でると、アカシアはベースラインを吹く。アカシアは音楽に詳しくて、ロックバンドのトリビアやゴシップを楽しそうにぼくに話しながら靴を洗う。
「見て、ひまわり。だいぶ綺麗になった」スタン・スミスをぼくの方に向けて、アカシアが言う。汚れが落ちた白いスニーカーはあちこち傷ついてはいるにせよ、もともとの白さを取り戻している。
「すごいね。脱皮したみたい。でも、もっときれいになるよ。重曹を混ぜた水に少し浸けおきしよう。お昼ご飯を食べていく?」とぼくは言う。
「うん。いいの?」とアカシアは言う。
「もちろん。有料だけど」とぼくは言う。
 硬めに炊いた米に、焼いたウィンナーと半熟の目玉焼きを乗せ、ナンプラーと塩胡椒を少量かける。ミニトマトと茹でたモロヘイヤを添える。三人分の昼食を作り終えると、浸け置きしておいたスニーカーをすすいで、日の当たる椅子の上に置いて乾かす。
「おい、ひまわり。あの娘もいっしょか」とおじいちゃんがテーブルを布巾で拭き清めながら言う。
「うん。ちゃんとお金はもらう。お客さんだよ」と料理の皿を運びながらぼくは言う。アカシアはしばらくの間、生まれ変わったようにき綺麗になった自分のバイクに見とれている。
「お客さんね。だいじょうぶかね」と顔をしかめて、おじいちゃんは言う。
「だいじょうぶって何が。アカシアがだいじょうぶなわけないよ。だいじょうぶな人は、自分を殺しに過去に行こうなんて考えない」
「そうじゃない。あの娘、おまえを攫いたがっているんじゃないのか」
「まさか」とぼくは言う。
 三人でテーブルに着く。ぼくとおじいちゃんは同時に「いただきます」と言う。アカシアは客用の椅子に座り、テーブルに頬杖をついて隣の椅子の上で乾かしている真っ白なスニーカーを見ている。空は青く、雲がゆっくりと流れていく。どこに行くとも知れない航空機が太陽を横切る。
「確かに心が洗われるね。綺麗になるもんだな」すっかり泥の落ちた靴とバイクを見ながらアカシアは言う。自分の胸に触って、洗いたての心を撫でる。
「落ち着かくなったら、洗うといいよ。あと靴紐も一組、持って行っていいよ。有料だけど」とぼくは言う。
「わかってるよ。有料有料しつこいね、ひまわりは」
「前科があるからな」とおじいちゃんが言う。アカシアはおじいちゃんの声を聞こえなかったふりをして、頬杖をつきながら片手でフォークを使って食べる。少し焦げたウィンナーを口に運び、咀嚼の間、沈思する。
「ひまわり。あたし、またここに来ていい?」とアカシアが訊く。
「来ない方がいいと思う」とぼくは言う。「もし来るのであれば、セローとスタン・スミスを、今みたいに綺麗にしてから来るといいよ」とぼくは言う。アカシアがこの街道へ迷い込むのは、過去への強い憎しみのためだ。来ないで済むなら来ない方がいい。おじいちゃんの言う通り、靴と車をぴかぴかに洗った後も憎しみを保ち続けられる人はそう多くないので、ぼくは敢えてそれを勧めた。
「なんでそんなこと言うの。あたしに会うの嫌なの」とアカシアは言う。モロヘイヤをフォークでぼくの皿に移す
「ややこしい話にするのはよしてくれ。あと野菜をひとの皿に移すな」とおじいちゃんが言う。アカシアがふてくされて、おじいちゃんを睨みつける。「すみません」と小さな声でアカシアが言う。
「ここはカウンセリング・ルームでもなければホストクラブでもない。老いぼれと、その小さな孫しかいない、ただのサービスエリアだ」
おじいちゃんはそう言って、野菜をまとめて口に入れる。アカシアはじっと皿を見て、手を止めている。唇を固く結んでいる。
「ねえ、アカシア」とぼくは言う。「アカシアがここに来るっていう事は、多分、また怒りにまかせて迷い込むということなんだ。過去への怒りが消えてしまえば、こんな何もない場所に来る理由もなくなると思うよ。そしたら、未来でやりたい事をやればいいんだよ」
「だって」とアカシアはうつむいて呟く。「わかってはいるんだけど、憎しみに乗っ取られてしまうの。狂犬みたいな憎しみがあたし自身になり替わって、あたしはその尻尾になるの。ただケツにくっついて振り回されるだけ。ひまわりは、何もかも憎くなる時ってある?」とアカシアは訊く。
「あるよ」とぼくは言う。アカシアは驚いた顔で「ほんとうに?」と訊く。
「サービスエリアのお客さんの中には意地悪なひともいる。ぼくは低能だから、よく怒鳴られたり馬鹿にされたりするよ。家族だってそうだった。たまにラジオでやってる酷いニュースだって嫌だ。傷つけあったり、恐怖したり、そのすべてが憎いよ」とぼくは言う。おじいちゃんとアカシアは黙ってぼくを見る。
「でも、ぼくはぼくであって、憎しみじゃない。憎しみの尻尾なんかじゃないよ。どちらかというと憎しみは風船で、ぼくはぼくだ」
しばらく考えた後、「わかんない」とアカシアは言う。
 しばらくの間、ぼくたちは無言で昼食を食べる。ぼくは米と半熟卵をかき混ぜ、おじいちゃんは何も入っていない口で空っぽの咀嚼をし、アカシアは頬杖をついたままフォークの先でウィンナーを転がす。
「あたしね、いつも落ち着かない気がするんだ。なんていうか、切れかかった吊り橋とか、屋上の柵とか、そんなのを掴んでる気がするの」とアカシアは言う。
「不安にしがみついてるだけだ。離しちまえばいい」とおじいちゃんが言う。
「それが出来れば苦労しないんだけど」眼球だけ動かしておじいちゃんを見て、アカシアは言う。
「アカシアは何をしている時が楽しいの」とぼくは訊く。アカシアは自分自身に耳を澄ますように、空を見上げて考える。
「ベースを弾いている時はうれしい。バンドもやってた。今は休んでるけど。弾いてると楽しいよ。でも、自分の下手さだとか、他人の上手さだとか、考えると落ち込んで弾けなくなる。こんなことして、なんになるって思ってしまうんだ」とアカシアが言う。
「ベースが好きだから、口笛を吹く時にベースラインを吹くんだね」ぼくがそう言うと、アカシアは嬉しそうに笑う。
「比較をやめることだな」とモロヘイヤをむしゃむしゃと食べながら、おじいちゃんは言う。
「でも、比較しないと自分の実力や立ち位置が分からなくなりませんか?」とアカシアは言う。
「誰のためにやってるのか考えることだ」とおじいちゃんは言う。「評価されることが目的になると続くわけがない」
「別に評価されようと思ってない。ただの趣味だもの」アカシアがおじいちゃんを睨みつけて言う。
「じゃあ、それこそ比較する必要はないな」とおじいちゃんは言う。
 アカシアは沈黙する。フォークでこつこつと皿を叩く。どうやらおじいちゃんはアカシアの事をあまりよく思っていないようだ。かつてぼくの両親と暮らしていた時のような喋り方になっている。アカシアは過程について話したがっていて、おじいちゃんは結論について話している。右足と左足が別々の方向に行きたがっているみたいだとぼくは思う。
「あんたは何を後悔してるんだ?」とおじいちゃんが訊く。
「後悔?」とアカシアが言う。声が棘になって空気中で弾ける。
「過去の自分やら、他人の過去やらに干渉しようとする奴が後悔をしていないはずがない。あんたは苦しそうだな。苦しくて、怒りにまかせてここに迷い込むんだろう。だが、その怒りは傲慢さからくるんだ。過去を変えようなんて本気で思う程に肥大した怒りなど、傲慢以外の何物でもない。まずはそれを捨てることだな」
アカシアの顔から表情が消える。おじいちゃんを見つめる。
「そこのひまわりはな。あんたみたいな女に、一度殺されかけたことがある。道案内のために拉致されて、しまいにはバケモノたちへの生贄にされかかった。憎しみに心を乗っ取られた女だったよ。傲慢なんだ、あんたらは。この世界のために絶えず無償で稼働し続ける、時間という神聖な装置に対する敬いというものが足りんのだ。過ぎ去ったことへの敬意がな」
 アカシアは歯を剥いて、持っていたフォークを思い切りテーブルに叩きつける。椅子を蹴り飛ばして、サンダルのままセローに飛び乗る。エンジンに火を点け、この前以上に乱暴にクラッチを繋いで急発進する。何か口汚く叫んでたけど、エンジンの音が余りにも大きすぎて「クソ」「ひまわり」「ジジイ」「説教」「次来るときは」「殺す」という切れ切れの単語しか聴きとれなかった。「やれるものならやってみろ」とおじいちゃんが叫び返す。あっというまに爆音が遠ざかる。

 ぼくは水を張った発泡スチロールの中から、ペットボトルのアイスコーヒーを出して,
おじいちゃんの前に置く。
「すまん」とおじいちゃんが言う。「また、やってしまった。成長しないな、おれは」とおじいちゃんは言う。
「また料金を貰い損ねてしまったね」とぼくは言う。
「もう来ないといいんだけどな」とおじいちゃんは言う。
「でも、次来るときは殺す。って言ってたよ。本気じゃないと思うけど」
「一応の用心はしておこう。合言葉は、専守防衛だ」
 ぼくたちは黙って昼食をきれいに食べ終わる。食後に、ぼくはレモネードを。おじいちゃんはアイスコーヒーを飲む。おじいちゃんはアカシアに対して攻撃的になってしまった理由を三つ挙げて説明する。①「いただきます」を言わなかった。②肘をついて食事をした。③ひまわりを妙な目で見た。
「次があれば、ぼくが言うよ。でも、アカシアもその場で言えばわかってくれたと思うよ」とぼくは言う。
「ああ。でも、どうもな。おれはああいうのが苦手でな。結論を求めず悩みにしがみついてるような奴らが。そのくせ、挨拶もできやしない」とおじいちゃんは言う。
「最後の、妙な目ってなに?」
「おまえを食べたがってるんだよ」とおじいちゃんは言う。「奴らは傲慢なだけじゃない。貪欲なのさ。おまえは優しい子だが、人によってはそれを弱さと解釈し、おまえを喰らおうとするだろう。だが、奴らの胃袋は底なしで、満たされることはない。関わったら最後、永久に食べられ続けるんだ。気をつけろ」
「よくわからないな」とぼくは言う。
「永久にあの娘の愚痴を聞いているつもりか?」とおじいちゃんは言う。
 ぼくはアカシアの靴をいっしょに洗ってくれるひとがいればいいなと思う。
 ふたりで「ごちそうさま」と言った後、おじいちゃんは納屋で午睡をとる。ぼくは食器を洗ってから、アカシアの置いていったスタン・スミスに新しいまっさらな靴紐を通す。