(9)ヒナギクとアカシア

「バットを手放すな、ひまわり。前にくれてやったろ。何かあったら、それで身を守るんだ。じいさんが言ってるのは、きっとそういうことだぞ。次、スローカーブ行くぞ。捕球地点を予測しろ」とベイブが言う。青空を斜めに伐るように弧を描いて硬球が舞う。午後、物資の配達に着たベイブにアカシアのことを話しながら、ぼくとベイブはキャッチボールをする。ベイブのスローカーブは常にぼくの予測よりも、ボール三個分鋭く曲がって落ち、ぼくは後逸する。球を拾って投げ返す。
「ねえ、ベイブ。ベイブは過去に戻って、何かをなかったことにしたいと思う?」と言って、ぼくはボールを放る。ベイブは軽やかな動作で捕球した後、投球せずに少し考える。
「半分はあるし、半分はない」とベイブは言う。
「どういうこと?」とぼくは訊く。
「例えばだ。この前の試合でな。2対3と負け越したスコアで迎えた八回裏ツーアウト、おれたちの攻撃、ランナーは一塁。監督は代走に若い新人を使った。元陸上部で、野球経験はないけど、楽しそうにプレイする奴でな。誰に対しても丁寧に接する、笑顔のステキな若者だ。そいつは勇敢にも初球盗塁に踏み切った。地上すれすれを飛ぶ隼のような見事な走塁だったが、相手チームのキャッチャーはそれ以上に見事だった。まったく無駄のない送球が走者よりも先に二塁に入り、結果はスリーアウトチェンジ。無得点だった。試合は膠着したが、以後これというチャンスもなく、追加点もなし。おれたちは敗けた」
「残念だったね」とぼくは言う。
「ああ。試合後は居酒屋で打ち上げをするんだが、新人は酒も飲まず後悔して落ち込んでたよ。打席に立ってたのはチームの首位打者だったしな。でもチームはそいつを励ました。勇敢な盗塁を褒めたよ。ガッツがある。それでも、あの時もう少し上手くやれてれば。って新人は悔やんでた。酒癖の悪いピッチャーが、終わったプレイでくよくよしてんじゃねえよと叫んで、そいつの背中をばんばん叩いてた。ええと、この話、わかるか」
「盗塁した選手は、プレイを悔やんでる」とぼくは言う。
「そうだ。そういう気持ちは確かにある。エラーやアウト、アウトって死って書くだろ。死だな。死をなかったことにしたい。そんなきもち」そう言ってベイブは捕り易い山なりの球をぼくに投げる。ぼくは捕球して投げ返す。
「だが、なかったことには出来ない。それが出来てしまったら、野球というゲームのすべては崩壊し、無意味になる。決してやり直すことのできない聖なる死の積み重ね。それが野球という競技の神聖さを保っているんだ。過去のプレイを認めないことは、野球に対する冒涜だし、試合に対する侮辱だし、なによりも自分自身に唾を吐く行為だ。気持ちを切り替えて、次のプレイをするのが一番いいんだよ」
「すごい説得力だよ。ベイブ。宗教みたいだ」感心して、ぼくは言う。ベイブがぼくの胸の真ん中に、緩い直球を放り、ぼくはそれを捕る。
「宗教じゃないが、それ以上だ。神はいるし、聖書もある。その悩んでいる女も野球をやればいいのさ。聖書はルール・ブック。過去はスコアブックで、未来はネクストバッターサークルだ」
「神様は?」と訊きながら、ぼくはボールを投げ返す。
「おい、ひまわり。お客さんだぜ」
ベイブがボールをキャッチしたグローブで、サービスエリアの入り口を指す。キャリーカートにトランクとボストンバッグを詰んだ若い女が立っている。それがアカシアだと、最初は気づかなかった。腰のあたりまであった長い髪はばっさりと切り落とされていて、黒いおかっぱ頭になっている。

「こんにちは。アカシア。髪を切ってきたの?」とぼくは言う。アカシアはきょとんとした顔でぼくを見る。
「アカシア?誰のことですか」と彼女は言う。今度はぼくがきょとんとする。確かに、午前中に一緒にスタン・スミスを洗ったアカシアと同じ顔をしている。そばかすやほくろの位置も同じ。でも、何かがおかしかった。アカシアよりも少し若く、あの激しい怒りを着ていない。肩に彫られていた薔薇のタトゥーがない。緑色のロングスカートに、白無地のフレンチスリーブのシャツ、汚れのないグルカサンダルという格好で、全体的に服装に清潔感があるばかりか、黒髪にはキューティクルさえ残っている。
「失礼しました。知り合いに似ていたものですので」とぼくは言う。
「あの。ここはカフェですか」と遠慮がちに彼女は言う。
「サービスエリアです。軽食と飲み物とガソリンと軽油くらいは売ってます。何か必要なもの、ありますか」とぼくは言う。
「おなかすいちゃって。メニューあります?」と彼女は言う。
「すぐできるのは、日替わりサンドイッチか、ワンプレート。今日はウィンナーと目玉焼きプレートかホットサンド。トマトとモロヘイヤが付きます」とぼくはメニューのチラシを渡して言う。
「あの、ありがとう。日替わりのサンドイッチもらえますか。それから、あれば冷たいお茶を」
「わかりました。そこのテーブルについて、お待ちください」午前中アカシアが座っていたテーブルを案内して、ぼくは言う。「よければ、そのケースの中のドリンクをどうぞ。別途有料にはなりますが」氷と飲み物の入った発泡スチロールを指して勧める。アカシアと同じ顔をした女はぺこりとお辞儀をする。

 小屋に入って食事の準備をする。小屋の中で、ベイブの運んできた物資を整頓していたおじいちゃんが、窓の向こうにいる彼女の姿に気づき、身体を硬くする。
「もう戻って来やがったのか。あの娘」今すぐにでも、納屋に武器を取りに行きそうな顔でおじいちゃんは言う。「いや、違うみたいなんだ」とぼくはおじいちゃんを制止する。
「違うってなにがだ。違わないだろ。専守防衛とは言え、先手必勝だ」
「違うんだ。アカシアじゃないみたいなんだ。顔はアカシアなんだけど。そんな名前じゃないっていうし、ぼくのことも知らない。肩にタトゥーが入ってないし、清潔な雰囲気があるし、なにより怒ってない」
「それはおまえ、もしかしたらあれなんじゃないか」とおじいちゃんは言う。ぼくは頷く。
「うん。とりあえず、ランチを食べたいっていうから、作って出してくる」
「一応、料金は先にもらっとけよ」とおじいちゃんが言う。
 ぼくはバターをひいたホットサンドメーカーで、スライスしたウィンナーと生卵とトマトとモロヘイヤを挟んだサンドイッチを焼く。小麦の焼けるいい香りが漂い、卵に火が通ったら皿の上に出す。氷を入れたグラスに、ジャスミンティーを注ぐ。それらをトレイに乗せる。表ではベイブがトラックのラジオをつけて野球中継を聴き始めていて、展開の度にいちいち「あおぅっ!」だの「ふぉうっ!」だの叫んでいる。アカシアと同じ顔の女はその度に驚き、びくんと体を震わせる。やがて諦めたように頬杖をつく。背を丸めて、少しふてくされた猫のような後ろ姿は、やはりアカシアにそっくりだ。

 ぼくがホットサンドを運ぶと、彼女は警戒する猫のような表情で、ぺこりと会釈をする。だいぶお腹が空いていたようで、まだ湯気の立つホットサンドを無理に急いで食べる。急ぎすぎて、半熟卵の黄身が彼女の手や唇や顎を黄色く汚す。それを見ていたぼくに気づいて、照れ笑いを浮かべる。笑いながら、なおも急いで食べることをやめない。
 ぼくはサービスエリアの入口の椅子に座って、街道をゆく車の流れを見る。ベイブのトラックから流れていた野球中継が終わり、午後のニュース番組に切り替わっている。ベイブは運転席を倒して仮眠をとっている。二匹の蜻蛉がぼくの目の前で超高速の追いかけっこをしている。同じ柄の二匹の蜻蛉の飛行は目まぐるしすぎて、どちらが追っていて、どちらが追われているのか、ぼくにはわからなくなる。
 「あの」と彼女が呼び、ぼくは食器を下げに行く。「ごちそうさま。ごめん、すごくお腹すいていて」と言って彼女は照れ笑いを浮かべる。
「わたし、町に行きたいんだけど」と彼女は言う。
「ええと。それはあっちの町のこと?」とぼくは未来の方角を指さして言う。
「そう。途中までヒッチハイクで来たんだけど、なんかセクハラっぽいことばっかり聞かれて、肩とか膝とか触られそうになって、降りて歩いてきたの」
「ここか三十分くらい歩くと、街道沿いにバス停があるよ。一日に数本しか止まらないけど、乗れば、未来の町の方に向かう」ぼくは地平線まで続く街道を指さして言う。
「ほんとう?よかった」と彼女は言う。
「未来へいくの?」とぼくは訊く。
「あたりまえでしょ」と表情だけで彼女は言う。

 アカシアと同じ顔をした女は、食後にジャスミン・ティーを飲む。ぼくは街道を眺めながら、口笛で「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」を吹いてみる。彼女は飲んでいたグラスを置き、口笛でベースラインを吹く。ぼくと目が合うと、にこりと微笑む。
「ねえ、あの、訊いてもいい?」と彼女は言う。ぼくは頷く。
「アカシアって誰のこと?」と彼女は訊く。
「知り合いなんだ。似ているもので、間違えてしまって」とぼくは言う。
「わたしに似てる?」
「そっくり同じ顔。でも、彼女はモロヘイヤが嫌いで、常に怒りに満ちてて、肩に薔薇と髑髏のタトゥーを入れてた。お姉さんとは少し違う。アカシアの方が年上だし、肌もだいぶ荒れてた」
彼女はうつむいて、しばらく考える。
「アカシアっていう名前の友達が、わたしにもいた」と彼女は言う。「でも、あなた、いったい誰なの。それは、わたししか知らないはずなのに」と彼女は言う。
「ぼくはひまわり」とぼくは言う。
「ひまわり。わたしは、ヒナギク」と彼女は名乗る。
「ヒナギクの友達の、アカシアの話を聞いてもいい?」とぼくは訊く。ヒナギクは空を見上げて考える。ここではみんな空と相談する。
「その前に、あなたの知ってるアカシアの話を聞かせてくれない?」とヒナギクは言う。ぼくは説明する。
 アカシアはバイクに乗ってこのサービスエリアに迷い込んできた。長い事洗っていないYAMAHAセロー250に乗って。坂道を転がる岩石のように乱暴な運転だった。着てる服も、髪も、靴も、すべてがぼろぼろで、憎しみに満ちた瞳が一番ぼろぼろだった。でも、他愛のない話をして、お茶を飲んだり口笛を吹いたりしている間に落ち着くことができた。憎しみが剥がれた後のアカシアの瞳は、こどもっぽく澄んでいた。ベースが好きだって言ってた。バンドもやってるけど、今は休んでいるんだって。ぼくが口笛でメロディを吹くと、アカシアはベースラインを吹いてくれた。今朝もここに来て、ブランチを食べていったけど、おじいちゃんと喧嘩になって怒って帰ってしまった。
 アカシアについての説明を聞いた後、ヒナギクはしばらくの間、内容を頭のなかで総括するためにじっと黙りこむ。
「ねえ、その人は綺麗だった?」とヒナギクは訊く。
「いや、ぼろぼろだった」とぼくは言う。「でも、バイクや靴がそうだったように、色んな所を洗えば綺麗になるかもしれない。時折、憎しみを忘れて話すアカシアは屈託がなくて素敵だったよ」
「薔薇と髑髏のタトゥーが入ってたんだよね。それから音楽に詳しくて、ベースラインを口笛で吹く。バンドを演ってる。気が強くて、誰を相手にしても一歩も引かない。場の空気に合わせて振る舞うことをしない。髪を染めてて、ランナウェイズみたいな髪型をしてる。左耳に五個以上のピアスをしている。自分からは喧嘩を売らないけど、傷つけられたら必ず逆襲する。恋人の話してた?」とヒナギクは訊く。
「恋人の話は少ししてた。十九歳の時に付き合ってた、やけにものを沢山くれる恋人との別れ話とか。ランナウェイズの髪型がよくわからないけど、腰まであるバサバサの髪を赤っぽく染めてた。ピアスについてはわからない。髪で隠れてたから。ぼくよりヒナギクのほうが、アカシアについて、ずっとよく知ってるみたいだね」とぼくは言う。
「ランナウェイズは七十年代のハードロックバンドだよ。メンバーは全員女性。しなやかな狼って感じで、かっこいいんだ」とヒナギクは言う。
「アカシアもそういう話、たくさんしてくれたよ。「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」はアシッドソングなんかじゃないとか。チャーリー・ワッツがミック・ジャガーを殴った理由だとか」
「バンド内の権力に酔ったミックに真夜中に呼び出されたうえ、所有物みたいに『おれのドラマー』呼ばわりされたチャーリーが怒ったんだよね」とヒナギクは言う。ぼくらは、その光景を想像して二人で笑う。
 ヒナギクはテーブルに頬杖をついて、視線だけを空に向け、何かを考える。
「ねえ、自分の話していい?」とヒナギクは言う。ぼくは頷く。
「わたし、あまり友達のいない子だったの」とヒナギクは言う。少し恥ずかしそうに笑う。「友達のいない子には二種類あるでしょ。自分から望んで友達を作らない子と、友達が欲しい癖に付き合い方が分からない子。あたしは後者だったの。きみは友達はいる?」
「いない」とぼくは言う。
「平気?ひとりで何をしてるの?」とヒナギクは訊く。
「ここで空を眺めたり、野菜を炒めたり、食器を洗ったり、自分の出来ることをしてる」
「さみしくない?」
「さみしくない。おじいちゃんもいるし。あそこのトラックの運転手がキャッチボールに付き合ってくれる」ぼくはベイブの寝ているトラックを指さして言う。点けっぱなしのラジオから、遠くの国で起きている戦争のニュースが流れている。
「わたしはさみしかった」とヒナギクは言う。ぼくは頷く。
「きみのくらいの年の頃、今思うと、わたしは生きてるのか死んでるのかわからない子供だった。特におかしな子っていうわけじゃなかったと思う。何処にでもいる目立たず大きな問題のない女の子。友達がいなかったわけじゃないけど、誰といっしょにいても自分がなにをしているのか曖昧な感覚があった。自分から話しかけるのは苦手。でも、話しかけられれば、それなりの返事は出来るし、遊びや噂話にも付き合える。みんなと同じことをしたり、同じものを好きになったり、嫌いになったりすることはできたけど、全部うわべだけ。本当のところは何一つ好きでもなければ嫌いでもなかった気がする。あの日までは」とヒナギクは言う。
「わたしの両親は共働きで、二人とも帰りが遅くて、わたしは大体いつもタブレットで動画を見ながらひとりで冷凍食品やら菓子パンやらを食べていたんだ。流行さえ知っておけば最低限の交流は出来るから、友達と繋がるためにインターネットでメディアを貪ってた。ある日、例によって独りでタブレットを観ながら動画サイト巡りをしてたら、なんの偶然かランナウェイズのライブ映像を観たの。シェリー・カーリーっていう半裸のヴォーカルが英語でオーディエンスを挑発して、ジョーン・ジェットっていう狼みたいな黒髪の女の人がギターを鳴らした瞬間、地球がまっぷたつに裂けて、わたしがうぎゃあと産まれたわけ」
話しているうちに段々興奮して、ヒナギクはぼくの方をみて誇らしげにニヤリと笑う。ぼくは口笛を吹く。
「わたしはタブレットのボリュームを最大にして、両親が帰ってくるまでずっと、ランナウェイズの動画を観てた。シンプルな黒豹みたいなエレキギターとベースとドラムス。何も恐れていないセクシーで不道徳なヴォーカル。夕食を食べている途中だったことも忘れ、皿も洗わず、ずっと観てた。帰ってきた両親には叱られた。あの時、あたしにとってランナウェイズの動画をフルボリュームで観ること以上に大事なことなんて何一つなかった。もう一度産まれ直したような衝撃だった。十一歳にしてはじめて素肌で空気に触れたような、あたしと世界を隔てる無機質な膜が破られたような、それはそれは素晴らしい気分だったんだ」
うっとりとした顔でヒナギクは話す。ぼくはその話調から、ヒナギクの語る第二の誕生に崇高さすら感じる。
「〈人に迷惑をかけなければ何をしてもいい〉が口癖の、忙しすぎてネグレクトぎみの両親は、わたしがランナウェイズを好きになったことを若干迷惑に思ったみたい。ねえ、人に迷惑をかけないで生きていけると思う?」とヒナギクは訊く。
「生きていけると思う。迷惑をかけているなんて、考えなければいい」とぼくは言う。
「いいね、それ。そりゃそうだ」と言ってヒナギクは笑う。「もっと昔に、それ知っておけばよかった。わたし、なかなかいい子だったんだ。今でこそ、人間なんてみんな、生きてるだけで迷惑だって思うけど、なんとかそうあろうとしたんだよ。迷惑じゃない人間に。努力次第でそこそこ上手くはいく。でも弊害があって、いい子になろうと努力すればするほど、親しい人ができないの。そりゃそうよね。相手の顔色を窺ってばかりのやつに、本当の意味で心なんて開けないもの。そればかりか、気を使ってばかりいるわたしのことを、みんなが雑に扱うように、軽んじるようになった。こいつは人に迷惑をかけない女だ。放っておいていい。と分別されたみたいな気がした。わたしが思うに、人に迷惑をかけない、っていうのは、一種の特別な能力、ギフトであって、みんなが目指すものではないと思うの。幸福で安らかな死を目指すことを前提に、人生を送るみたいな不確かさを感じる。それって本当に、幸福?とにかく、その頃からわたし、音楽が好きになった。わたしにとって音楽は、迷惑っていう概念の無効化を可能にする代物だった。カルチャーって言うのは必ずシナプスみたいに繋がっているもので、ランナウェイズの解散後にジョーン・ジェットが結成したブラックハーツや、ラモーンズやイギー・ポップといったパンクの始祖たち。彼らと同世代のストーンズだとか、キンクスだとか。それらから影響を受けた後世のアーティストとか。シナプスの網を飛び回るように音楽を聴いた。よく、歴代のロックスターを集めた幻のバンドを作ったり、サッカーチームを作ったり、そういう遊びをしてたの。今思い出すと、これはだいぶ気持ち悪いな」
「そんなことないよ。楽しそうだね」とぼくは言う。
「そうでしょ?でも絶対上手くいかないのよ。あるバンドが結成される時、そこには必ずそのバンドでなければならない必然性があるわけで、頭の中で幻のドリームバンドを作っても、そこには具体的な音楽が鳴らないの。それよりは、金目当てで再結成したオールドロックのライブを観る方がまだ衝撃があるってわけ。夢は現実よりも弱しなのね。そう。そうなのよ。ひまわり。あの頃のわたしは、こんな話ができる友達が欲しかった。でも、そういう話や遊びができる友達はいなかったし、あたし自身、当時は自分の感じてることをうまく喋ることができなかった。運よく二度も産まれることができたわけだけど、それぞれの世界の言葉をまだ獲得してなかったのね。家や学校では、相変わらず人に迷惑をかけない、目立たない子のままでいた。そういう音楽が好きだってばれると目立っちゃうから、学校では秘密にしてたの。学校が終わって、家に帰って宿題を片付けたりサボったりする間、ずっとうるさくて素晴らしい音楽を聴いてた。その頃のあたしは授業中、教科書の隅に架空のロックスターの肖像を描いてた。二枚のフルアルバムを出してる、女豹みたいなシンガー。アルバム名も曲名もすべてわたしが考えて、作詞もした。ファッションやロゴ、血液型、成育歴、持病まで詳細に考えた。幼い頃、事故で両親を喪っている。誰に対しても遠慮なく自分の考えを突きつけることが出来る。味方に対しては優しいけど、敵に対しては一歩もひかない。本当に心を許せる友達は作らないけど、孤独と仲良しで、そこから素晴らしい曲を作る。左耳に五つのピアス。肩には薔薇と髑髏の入れ墨。車じゃなくてバイクに乗ってる。YAMAHAのセロー250っていうのがカッコよかったから、これに乗せよう。服装はぼろぼろだけど、その分心がぴかぴかに輝いてる。よく磨かれたゼマイティスのギターのボディみたいに。その女の名前が」
「アカシア」とぼくが言うと同時に、あの音が鳴り響く。怒り狂ったセローのエンジンの音が。殆どスピードを緩めず敷地に侵入してきたアカシアのセローが転倒する。アカシアがバイクのシートから投げ出される。セローは横倒しになり、鉄の鹿みたいに地面を滑っていく。エンジンはストップし、両輪が空転する。アカシアが立ち上がり、冷たい目でぼくを見る。

 横転したセローのリアシートに括りつけられた、中身がいっぱいに詰まった巾着の中から金槌と手製のパイプ銃を取り出して、アカシアは言う。
「ひまわり。あんたのジジイは何処よ」とても静かで冷たい声だ。以前ぼくを拉致した白髪の多い女のことを思い出す。あの予め惨殺された沈黙。ヒナギクが何か言おうとするが、アカシアの冷たい視線が、その喉笛を圧迫して声を塞ぐ。アカシアとヒナギクは、互いに相手が自分と同じ顔をしていることに気づく。
「おまえ」とヒナギクを見て言う。瞳が鉄球のように大きく見開かれる。「おまえか」とアカシアは言う。ヒナギクにパイプ銃を突きつける。ぼくはヒナギクの前に立つ。
「だめだよ、アカシア」とぼくは言う。「ヒナギクは町へ行くんだ。未来へ。だから、傷つけちゃだめだ」
「ひまわり」とアカシアは言う。泣きだすのか、笑いだすのか判断の付きかねる顔で。「そいつをかばうの?あたしよりも、そいつを。やめてよ」ぼくは首を振る。遠い国で頭が二つある蛇が産まれたというニュースを報じているトラックのラジオ。街道をゆく車の風切音。青空を埋め尽くす蝉の鳴声の重奏で、太陽が撒き散らすプリズムが粉々に割れる音。すべてが遠くから聴こえるが、すぐ傍で話すアカシアの声が最も遠くに聴こえる。
「じゃあ、ひまわり。あたしと一緒に来てよ。そして傍にいて。あたしの話を昨日みたいに聴いてて。そしたら、あたし耐えられるかもしれない」
ぼくはもう一度首を振る。
「ええと。アカシア。ぼくの知り合いが教えてくれたことなんだけど、過去のプレイを悔やんではいけない。過去はスコアブック。ただの記録であって、未来はネクストバッターサークル。まだ始まってない円の中。それで」
「なんの話してる?ひまわり」話を遮ってアカシアは言う。殆どまばたきをしていない。
「野球と未来と過去」とぼくは言う。
「あたしは野球なんて観たこともやったこともないんだよ。どうなの、ひまわり。あたしといっしょに来てくれるの?後ろのぶすはどうなの?大人しく、あたしに殺されてくれるの?」
ぼくは首を振る。ヒナギクは、ぼくの背後で怯えながらじっと立ち尽くしている。
「アカシアはセローに乗って、ヒナギクはバスに乗って未来へ行く。ぼくは残る。それが一番いいよ。自分の部屋へ帰るんだ。それでいっしょに靴を洗う人を探したり、ベースを弾いたりすればいいんだよ」とぼくは言う
「ねえ、ちょっと待って」と震えながらヒナギクが言う。「あなたは未来のわたしで、名前はアカシアで、わたしを殺したがってるの?どうして?」
「そうだよ。ヒナギク」とアカシアが言う。怒りに眩んで自分とヒナギクの境界を見失い、憎悪の対象を混同する。「あんたの付けてくれた名前が、あたしは大っ嫌いだ。変わりたくて、誰かに大切にしてもらいたくて、雑に扱われてたヒナギクの名前を捨てた。知らない町で、あんたのくれた偽名、アカシアらしく振るまった。でも、どうしてもだめだった。何度やり直しても、誰もわたしを大切にしてくれなかった。中でも、一番あたしを大切にしなかったのはあんただ。ヒナギク。よくも名前を偽り、姿を偽り、あたしを偽ったな。その挙句、あたしがどんな目にあったか知っているのか」
 アカシアとぼくらの間には見えない壁が一枚あって、それが言葉と感情を遮っている。向こう側から見る壁には憎悪が書かれており、アカシアはぼくらというよりは、寧ろその壁に向かって吼えている。同じくらいの憎しみを持たなければ、壁の向こう側には行けないし、壁のこちら側には、憎しみを捨てなければ来られない。ぼくらは隔てられている。
「知るわけない。それはこれから起こることなんでしょう」とヒナギクは言う。
「その通りだ。しかも、繰り返し繰り返し、何度も起こることだ。おまえは、おまえが大切にしなかったあたしにぶっ殺されるんだよ。おまえは胸のなかの悲観で知っていたはずだ。いつか未来はひどいことになると。その通りだよ、ヒナギク。なのにお前は何もしなかった。あたしを見えないふりをした」とアカシアは言う。ヒナギクはアカシアを見る。鏡のなかの傷ついた双子を見るように。
「ごめんね。なにがあったのかわからないけど、あなたのきもちは分かる気がする。そうさせているのが、わたしだということも。何が何だかわからないけど、出所のわからない寂しさを抱えてることも知ってる。ひとりぼっちの部屋で、ずっと育てていたもの。それが破裂したのね」とヒナギクが言う。「かわいそうなひと」
 ヒナギクが、ぼくらを遮る壁を貫くように手を伸ばす。アカシアの傍に寄って、身体に触れようとする。銃声が響く。撃ったアカシアを含めて、ぼくらは体を震わせる。空に向けて撃たれた弾丸は誰も傷つけていない。アカシアの目から涙が溢れている。鉛玉だった瞳が割れて、その中から感情が次々と落ちていく。白い硝煙が、ぼくらの姿を、互いの視界から隔てる。
「おい、おまえら、いい加減にしろよ」と背後で叫び声がする。フルフェイスのヘルメットをかぶったおじいちゃんが納屋から出てくる。右手に持ったオートマチックの大きな拳銃をアカシアに向けたまま、ぼくらに近寄る。
「お前らが、何万回自分に対して逆恨みしようが知ったことか。無数の過去と無数の未来の中から、たった一人だけ殺して何になる、とだけ忠告してやるが、とち狂ったお前らの耳には入らないだろう。それはいい。だが、ここから出ていけ。おれの孫にも近づくな。山を越えるなり、自分自身と慰めあうなり、殺しあうなり、好きにするがいい。だが、もう一度言うぞ。おれの孫を巻き込むな。黙って聞いてりゃなんだ。寄り添ってくれなかっただの、見てくれなかっただの、否定されただの。おまえらはその逆が欲しいのか。対立と対話と批判のない世界か。そこの名前を知っているか。腐った羊水だよ。ここにはない。探しに行きたきゃ好きにしろ。ただし、おまえらだけでやるんだ。この世界の外側で、勝手に共倒れになるがいい」
アカシアの涙が一瞬にして乾く。さっきまで感情で潤んていた瞳が、冷たく停止する。
「あたしをお前って呼ぶな。あんたの身内じゃないぞ、老いぼれ。それから、ずうずうしく、わかったようなことを言うなよ。そもそも、先にあんたに会いに来たんだ。偉そうに上や外から批判するだけの行為の末路を教えてやる。対価を払え」アカシアはパイプ銃をおじいちゃんに向ける。
「なんだそりゃ、手製銃か?よく暴発しなかったな。そんな玩具で何ができる」おじいちゃんは怯まずに鼻で笑う。
「知らないのか。こいつには黒色火薬と憎しみが詰まってる。両方あれば、ひとは殺せるんだよ」とアカシアは言う。
「そんなものがなくても殺せる奴のほうが強い」そう言っておじいちゃんは引き金を引く。乾いた金属音だけが小さく鳴り、銃弾は発射されない。弾詰まりだ。おじいちゃんの表情が一瞬にして蒼白の絶望に染まり、自分の手の中の銃とアカシアを交互に見る。今後はアカシアが撃つ。轟音が鳴り響き、ぼくらの視界を再び白い硝煙が眩ます。硝煙が晴れると、おじいちゃんが倒れている姿が見える。ぼくはおじいちゃんに駆け寄る。ヘルメットを脱がす。気を失っているが、幽かに呼吸している。撃たれた胸から血は流れていない。弾丸はおじいちゃんが着ていた防弾チョッキを貫通する威力を持っていなかったようだ。
 ぼくはアカシアを見る。その目にはまだ半分も殺意が残っていて、このまま、ぼくとヒナギクを、あるいはそのどちらかを撃ってしまおうか迷っているように見える。アカシアの背後、十メートル程離れた場所に停まっているトラックの窓からベイブがこちらに合図している姿にぼくは気づく。トラックに背を向けたアカシアと、恐怖のために硬直しているヒナギクはベイブの存在に気づいていない。ベイブは草野球の試合のベンチの中からそうするように、身振り手振りで『気づかれないように時間をかせげ』とぼくにサインを送る。
「アカシア、ヒナギク。ちょっとだけ動かないで聞いてほしい」とぼくは言う。ふたりがぼくの方を向く。「ぼくもアカシアと同じで、ひまわりっていうのは後からもらった名前なんだ。いつも陽の光の方を向いているから、ひまわりって、おじいちゃんが呼び始めた。その前は両親がくれた名前があったけど、もう誰もその名前でぼくを呼ばない。ぼくをそう呼んでいたひとたちは、みんなここからいなくなってしまったから」
「ひまわり。あんたは、もとの名前が恋しくないの。さみしくはないの」とアカシアは言う。ベイブが音をたてないようにトラックの運転席を降り、軟式の野球ボールを掴むと、太陽に目掛けて投げる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。滑らかなフォームで、四つの軟球が太陽に向けて発射される。
「ぼくはさみしくない。でも、アカシアがさみしいのなら、それはきっと、アカシア自身が言うように元の名前が恋しいせいなんじゃないだろうか」
 アカシアがヒナギクにパイプ銃を突きつける。ヒナギクは恐怖と諦めの入り混じった目で、アカシアを見る。
「だったら、なおさらこいつをぶち殺さなくちゃ。あたしから名前を奪ったのは、他でもないこいつだよ、ひまわり」
「ヒナギクは未来に行くんだよ。未来に行く人を、責めちゃだめだ」とぼくは言う。
「まだこいつをかばうの。その未来から、こいつにとどめを刺しに来たのに」
アカシアが言い終わると同時に、軟式のボールが太陽の中から落ちてきてアカシアとヒナギクの脳天を直撃する。二人は気を失って、プラスチックのボウリング・ピンみたいに地面に倒れる。続けてもう二球落ちてきて、倒れたアカシタとヒナギクのすぐ傍の地面に落ち、再び太陽に吸いこまれるように高く弾む。
 ベイブがトラックの影から姿を見せてぼくらの方へ歩いてくる。倒れているおじいちゃん、アカシア、ヒナギクを順番に指さし、トリプルプレーを実現した選手のようにガッツポーズをする。ぼくもつきあって拳を握った手を三回振り、スリーアウトチェンジのジェスチャーをする。四つのボールが弾力のある音をたてて弾む。音は、だんだん小刻みになって最後には消える。

「銃を持ってる方だけでよかったのに。両方からアウトをとっちゃうんだもんな」とぼくは言う。
「いや、寝てたもんで、どういう状況かわからなくてさ。とりあえず知らない顔からアウトを取っておこうと思って。念のため四球投げたけど、必要なかったな。二球で十分だった」とベイブは言う。
 ぼくらは地面に倒れたままのおじいちゃんに声を掛ける。「たぶん、だいじょうぶだ」とものすごく弱々しい声でおじいちゃんは言う。ベイブがおじいちゃんを背もたれ付の椅子に座らせる。
「どうします。あの娘ども、山に捨ててきますか」とベイブが言う。
「だめだよ。ヒナギクは未来へ向かってるだけだし、アカシアだって悪い人じゃないんだ、たぶんだけど」とぼくは言う。
「ベイブ。たすかった。ありがとう。報酬を出すから、もう少し力を貸してくれ」とおじいちゃんは言う。
 おじいちゃんの指示に従い、ぼくとベイブは納屋の武器庫からすべての武器を運び出し、小屋に移す。気を失ったままのアカシアとヒナギクを運び、納屋のベッドに寝かせる。おじいちゃん曰く秘蔵のお香を納屋の中で三つ焚く。三角錐の形をした菫色のお香の、甘ったるい匂いが納屋の中に満ちる。納屋の二つの窓の雨戸を閉め、工具を使って外側から固定して、中から開かないようにする。入口の扉にも、錠前を三つ付けて外から開かないようにする。おじいちゃんを小屋のベッドに運んで寝かす。すべて終えてしまうと、ベイブは仕事に戻ると言って、トラックを運転してサービスエリアから出ていく。去り際に、もう一度「バットを手放すな」とぼくに忠告をする。