小さな街を東西に切るように河が流れている。彼はいつも、河沿いの歩道に備え付けられたベンチに座って、幸せそうに缶ビールを飲んでいる。舗装された歩道は三組の犬と人が並んで一緒に散歩できるほど広く、河の流れに沿って走るランナーたちの姿も後を絶たない。
 河底まで透明に透き通った河は、狭く浅い。入ってもくるぶしの少し上までしか濡れないし、向こう岸に立つ人間の顔もはっきりと見える。日中は水遊びをしたり、ザリガニを探したりする子供たちや家族連れの姿も見られるが、彼が現れて河沿いのベンチに座り河を眺めるのは、決まって人々が家路につく日没の時間だ。
「カワゾエさん」と私は声をかける。彼は振り向く。
「やあ。誰だっけ」と彼は言う。
「やだな。私です。昨日も会ったじゃないですか」と私は言う。
「そうだっけかな」と興味なさそうに彼は言う。右手に持った缶ビールを煽り、ベンチに置いたフライドチキンを齧る。口についたビールを袖で拭う。仕事が終わった後に、コンビニエンス・ストアでビールとフライドチキンを買って河沿いの道で飲んでいるという格好だ。すでに、だらしなくネクタイを緩め、ワイシャツの第一釦を開けている。ビールを煽るたびに髪を手でぐしゃぐしゃといじるので、寝ぐせのように乱れている。
「きみはなんだね。なんの用だね」と彼は言う。酔いのせいか、年寄りみたいなゆっくりとした話し方をするが、彼はまだ三十一歳だ。
「何も用なんてないですけど。あなたこそ、ここで何をしているんですかね」と私は訊く。彼はこの間と同じように、しばらく考える。
「ええと。なんだっけ。いや少し酔ってるな。仕事がね。仕事が終わって、ここで夕陽を見ながら飲んでるんだよ」と彼は言う。またビールを煽り、髪の毛をぐしゃぐしゃとかきまぜる。
 私たちはベンチに座って、小河の流れる音を聴く。さらさらという澄んだ音が、どこまでも流れていく。沈む前の太陽がひときわ赤く輝き、河の表面で砕け散って、揺らめきながら水に運ばれていく。彼は目を細めて、それを眺めている。
「綺麗な夕陽ですね。カワゾエさん」
「あのね」としばらくの沈黙の後に彼は言う。酔いのせいか頭が回っていない。言語野の引き出しをひっくり返してしまい、言いたい事を見失ってしまったという顔だ。しかたなく、彼は一番近くにある言葉を発する。
「きみ。もう、おうちに帰りなさい」
「もう少し、ここでこうしていたいんです」と私は言う。
「きみ、いくつ?」
「年齢ですか?十八歳です」と私は言う。
「困るんだよ。ぼくは知ってるぞ。こうやって喋ってるだけも、危ないんだ。三十歳のぼくが、十八歳の女の子に話しかけること自体危険なんだよ。逮捕される」
私は笑う。
「一体何が危険だって言うんですか」と私は訊く。
「きみだって、ネットニュースとかで見るだろう?家出した女の子を自宅に泊めて乱暴する男がいたり、あとなんだ。すれ違いざまに身体を触ってくる男がいたり。その」
「だって、カワゾエさんはそんなことしないじゃないですか」と私は言う。
「何故、そんなことわかるんだ」と彼は困ったように言う。
「するんですか」と私は訊く。
「しない」と面倒くさそうに彼は言う。またビールを煽る。
 私たちの目の前を、尻尾を振りながら真っ白なポメラニアンが通り過ぎる。ジャージを着た、くわえ煙草の中年男がリードを持っている。綱を引いているというよりは、ポメラニアンの方が男を一生懸命に引っ張っている。目の前を、煙草の白い煙が舞って消える。彼は幸せそうな目で、ポメラニアンが短い脚をちょこちょこと忙しく動かしながら歩いていく姿を見送る。男が道に煙草を捨てる。彼は立ち上がり、まだ煙を吐いている煙草の火を革靴の底で入念に踏み消すと、ベルトにひっかけていた金属の黒いトングを使ってそれを拾い上げ、ベンチに戻って来て、ビニール袋の中に吸殻を入れる。
「カワゾエさん。他人が捨てた吸殻を拾うのが、平気なんですね。屈辱感とかないんですか」と私は言う。
「平気だね。他人なら」と彼は言う。またベンチに腰掛けてビールを飲む。
「誰なら平気じゃないんですか」と私は訊く。彼は夕陽の中に答えを探すように沈黙する。夕陽と酒と晩夏の優しい風が彼の顔を撫でる。
「家族や、友人だったら、平気じゃないな。ぼくは怒ったり、注意しなければならないだろう。だって、それは他人とはちがうのだから」と彼は言う。そして、たった今気づいたように私の顔を見つめる。「なんだ。カワゾエさんって。それ誰の事だ」と彼は言う。
「みんな言ってますよ。もう有名です。でも、最初は河沿いさん、って呼ばれてたんですよ。それがなまって、カワゾエさんに定着したみたいですね。ねえ、ゾエさんって呼んでいいですか。可愛くないですか」と私は言う。
「ちょっと待ってくれ。何故ぼくの名前が有名なんだ。どの界隈で有名なんだよ。そんなあだ名で呼んでほしくなんかない。放っておいてくれないか」と彼は言う。
 私は知っている。口では迷惑ぶっておりつつも、彼が拒絶していないということを。受容こそしてはいないものの、なんだかんだ言って最終的に人の話を聞いてしまう宿命のもとに産まれてしまったのだ。
「カワゾエさんは、煙草吸わないんですか」と私は訊く。
「今はね」と彼は言う。ビールを飲んで、フライドチキンを齧る。私の顔を見る。
「きみはあれか。どうしても家に帰りたくない子か。家出少女かなにかじゃないだろうな」
「まあまあまあ」と私は言う。「まあまあまあまあまあまあまあまあまあ」
彼は諦める。これで諦めてしまうのが、彼なのだ。諦めてしまうと、少し安らかな顔になって、まだ真っ赤に燃えている落陽と、ゆっくりと流れていく河を眺め、幸せそうにビールを飲む。
「いつ禁煙したんですか」と私は訊く。
「娘が産まれた時だよ。五年前だね」と彼は言う。彼は終始、私の顔を見ない。視線の先の河と夕陽に向かって呟くように話す。「丁度いい時期だったんだ。天井知らずの値上がりと、比例して狭くなるぼくたちの肩身。辛かったな」
「辛かったですか。禁煙は」と私は訊く。
「辛かったねえ」と彼は言う。語尾はしみじみと伸び、永遠に続くかのような余韻を夕闇に残す。この話も、何回も聞いた話だ。孤独な男。唯一、煙草だけを愛していた。強度のニコチン依存症に他ならなかったが、彼自身はそれを誇りにさえ思っていた。それほどまでに、愛することの出来る対象があることを。「今でもぼくは、煙草のいいところを百個言える。昔なら二千個言えただろうな」と彼は言った。
「煙草の良いところと悪いところ。私に教えてくれませんか」と私は訊く。この質問ははじめてする。彼はビールを飲みながら沈思する。
「吸ってた時は、うまい、って思いながら吸ってた。いいところのひとつめは、うまいことだ。それは依存症による脳内報酬系の変化に過ぎなったかもしれない。でも、うまいもんはうまかった」と彼は話し始める。「悪いところは、その満足感は続かない、という点だ。穴の開いたバケツと同じ」
「でも、それを言ったら空腹感だってそうですよ。セックスや睡眠だってそう」と私は言う。セックスという単語に、彼は顔をしかめる。
「それは人間の基本三大欲求というやつだ。煙草は違う」と彼は言う。
「私、それ嫌いなんです。人間は基本の三大欲求だけ満足させてればいい生き物なんだなんて、神様だってそんな傲慢は言わないと思う」
「なるほど」と彼は言う。あまり自分の意見にこだわることをしない。
「じゃあ、禁煙してよかったことは」と私は訊く。
「これはすぐに答えられる。よかったことは、煙草から自由になれたこと。悪かったことは、もう煙草を吸えないことだ」と彼は言う。私たちは笑う。
「カワゾエさん。煙草吸ってもいいんですよ。なんなら、私、買ってきますけど」
「いや。要らない」と彼は言う。「今は周りに人がいないけど、散歩やジョギングするひとが不快に思ったら嫌だ」
「そんなことにはなりません。だってカワゾエさん。今日は世界最後の日なんですから」と私は言う。
「世界最後の日って」と彼は呟いて、私の顔を見つめる。私は彼の目を見つめ返す。灰色にくすみ、酒で濁ってはいるが、飢えてない時の小動物を思わせるのどかな目をしている。彼は私の直視に照れて、眼を逸らす。
「ねえ、カワウソくんって呼んでいいですか」と私は言う。
「カワウソくん?絶対いやだよ」と彼は言う。「きみはなんなんだ。なに言ってんだ。なにが欲しいんだ。ぼくは何も持ってないぞ。あるのは、ビールとフライドチキンだけだ」と彼は言う。
「知っています。でも、私はそうは思わない。あなたは何も持たないひとじゃない。いや、まあ、ある意味ではそうなのかもしれないけれど、でも、持ってます。全然持ってますよ。ビールとフライドチキン以外も」
「まったくわからない。帰りなさい。じきに暗くなるし、面倒はごめんなんだよ」
「まあまあまあ」と私は彼をなだめる。「面倒は起きません。もう起きないんですよ」と私は言う。彼は話にならないと言いたげに首を振る。
「世の中は、きみが思ってるほど治安がいいわけじゃないんだ。この平和な町の、平和な河沿いでさえ、不審者の通報とか、痴漢の被害とか、そういうのあるんだぞ。ぼくはツイッターでこの町の防災アカウントをフォローしてるから詳しいんだ。過去には殺人事件さえあった。まさか自分だけは被害に合わないとでも思ってるのか?」
「知ってますよ。上流のほうで、女子小学生が変質者に襲われた事件でしょ。でも、それはもう大分前の事件だし、以来この河は平和ですよ。それに、カワゾエさんが心配しているのは、私の身の安全と言うよりは、自分の立場の安全についてでしょ。不審者認定されないかどうかという。そこらへんは、大丈夫なんですって」と私は言う。彼は諦めて虚ろな目を瞑り「ぼくの名前はカワゾエさんじゃない…」とだけ言う。そのとおり。彼の名前はカワゾエさんじゃない。
 蚊が不快な羽音をたてて辺りを飛んでいる。私は平手を振り回すが、仕留めきれない。とてもいらいらする。彼は立ち上がる。河辺に繋がる階段を降りて、浅瀬に浮かんでいたペットボトルをトングで拾う。ベンチに戻って来て、ビニール袋に入れる。
「じゃあ、カワウソくん。いつも、そのトング持っているんですか」と私は訊く。
「いや。今日はたまたまだよ。ここに来るからと思って、持って来たんだ」諦めたように彼は答える。
「ベルトにごみ拾い用のトングを挟んだ大人って。ほんと、わけわかんないですね」と私は言う。
「そんなことはないよ」と彼は言う。「この河ってさ。綺麗だろ。まあ、たまにはこうやってごみも落ちてるよ。だけど、よその河に比べて圧倒的にきれいだと思うんだ。水は澄んでるし、ごみも少ない。なんでだと思う」
「みんなが、そう心がけているからではないですか」
「そうなんだ。ボランティアの人たちがごみ拾いをするところを見たこともあるよ。河沿いの家々は、その影響を受けてか庭をきれいに整えている。立派な花壇を作っている家も少なくない。とても素敵な壁画を描いている人もいるし、こどもたちの笑い声は絶えない。割れ窓理論が自然な形で実践されていて、その上で遊び心まで繁殖している。とても、いいことだ。ぼくはこの、きれいな河沿いで独りきりで一杯やることに、無上の幸せを感じるんだ。それは、この河を大切にしている人たちの環境に対する意識のおかげだ。だから、さっきの吸殻とか、このペットボトルとか。見つけたら持ち帰るようにしている。河に対する恩返しだよ」
「健気な河童みたいなこと言うんですね」と私は言う。彼は夕陽を見ながら笑う。
「おいらと友達になっておくれよう」と彼は河童のモノマネらしきものをする。私は無視する。彼は恥ずかしそうに、ビールを飲む。
 私たちの目の前を、しなやかな筋肉を露出させたタンクトップのランナーが風のように走り去る。比喩ではなく、そのランの力強さに切り裂かれた空気が風圧となって、私たちの身体に触れる。虹色のゴーグルをつけたランナーの背は高く、呼吸は乱れていない。彼はランナーの姿があっという間に小さくなるのを見送って、微笑んでいる。とても幸せそうに。
「好きですねえ。走る人」と私は言う。
「わかる?」と彼は言う。
「だって、目の前を走る人が通り過ぎるたびに、にこにこして見送ってるじゃないですか。わかりますよ」
「まいったな。まずいなあ」と彼は言う。恥ずかしそうに、髪をぐしゃぐしゃと掻きまわす。
「なにがまずいんです」と私は訊く。
「だって、不審者みたいに思われちゃうだろ。じろじろ見るのは失礼じゃないか」
「カワウソくん。そういうの、すごく気にしますよね。ちょっと気にしすぎですよ。いいじゃないですか。好きなものは好きで」
「そう思う?」と彼は言う。私は頷く。彼は酔いにまかせて喋りだす。「走ってる人を見るのが好きなんだ。子供でも、大人でも、老人でも、男でも、女でも、とにかく走ってる人が好きだ。筋肉だけで、明らかに毎日毎日走っていることが分かる往年のランナーが好きだ。健康やダイエットのためにゆっくりと無理をせずに走る素人ランナーが好きだ。多分、昨日今日に決意して走りはじめたんだろうなという、息の仕方や手足の降り方も身についていない初心者ランナーが好きだ。とても好きなんだ」
「自分では走らないんですか」
「走らないねえ」と彼は言う。「ぼく、どちらかと言えば河童だしね」
「もう河童の話はいいです。ランナーのどういうところが好きなんですか」と私は訊く。これも、既に何度もした質問だが、飽きることがない。幸せそうに自分の好きなものを語る人の姿は、とても可愛らしいなと私は思う。
「なんだろうねえ。一生懸命な感じが好きだな。ぼくはほら、怠けものの河童だから。ここで飲んでくれているだけの。逆にだからなのかな、一生懸命がんばって走っている人を見ることが好きだ。仕事の取引先に、高校野球が大好きな社長さんがいて、彼は全国野球選抜大会はもちろん、わざわざ他県の予選まで見に行くのだけれど、その理由もやはり「がんばっている選手を観るのが好きだから」だと仰ってた。アイドルのコンサートのために泊まりこみで遠征するひとや、国境を越えてフィギアスケートを見に行くひともいる。そういう人たちのきもちに似ているのかもしれないね。ただ違うのは、ぼくは応援しているひとの名前も知らないし、声に出して叫ぶこともしない。ランナーもぼくに関知しない。ただ、すれ違うだけの関係であるという事。その手軽さがいいんだ」
彼は目を細めて、流れる河の光を見ながらフライドチキンを齧る。ビールで流し込んで、話を続ける。
「あと、人が一生懸命がんばると、どうしても対立や勝負、挙句の果てには優劣や正義が発生したりするけど、河沿いを走ることは、それとは無縁だろ。彼らはただ、自分のペースでがんばって走ってるだけだ。とても平和で、しかも有意義で、孤高で。速い人も遅い人も、たいへんカッコいい。誰にも頼まれてないのに、彼らは走る。僭越ながら、ぼくには崇高な運動に見える。本当なら、声を出して応援したいくらいなんだよ。がんばれー!ってね。でもさ、そんなことしたら、それこそ不審者だからねえ」
「カワウソくんの、不審者として見られることに対しての、その過剰な防衛意識はなんなんです?」
「さっきも言ったけど、面倒ごとはごめんなんだ」と彼は言う。その中には、きみも含まれているんだぞと言わんばかりの目で私を見る。
「がんばれー!って言ってみましょうよ。きっと気持ちいいですよ。言いたいんでしょ」
彼は顔をしかめ、困った表情をつくる。
「あらゆる事情を排して、言えるものなら言ってみたいんじゃありませんか?」と私は問い詰める。彼の顔が歪み、やがて敗北を認める。
「そのとおりかもしれない」と彼は言う。「あらゆる事情を排して、感情だけに素直になるのであれば。河沿いを走る人に、ぼくはがんばれーと言いたい」
 ちょうど、夕陽の沈む方角から、タンクトップを着た女性ランナーが走ってくる。一目で、毎日走っていることが分かる美しい女性。風に乗っているようなストライド。ぶれのない体軸。軽やかなリズムを刻む靴音。優れた機能美、しなやかな筋肉。彼女が目の前を通り過ぎる時、私は声を出さずに「せーの」と口の動きだけで彼に伝える。彼はうつむいたまま掌で私との間に壁を作り、かんべんしてくれと拒む。ランナーはあっという間に遠ざかる。
「どうして言わないんですか。がんばれーって」と私は言う。
「すまない」何も悪くない彼の方が謝る。またビールを飲んで、フライドチキンを齧る。
「あなたは何も悪いことなんてしていないんですよ。迷惑なナンパや野次とは違うんです。これは応援なんですよ」と私は言う。
「だって」と彼は言う。「それを判断するのは、相手の方だろう。いくらぼくに悪気がなくても、相手がどうとらえるかなんてわからない。悪気のない老人が女児の頭を撫でて挨拶するだけで捕まる国なんだぞ」
私はため息を吐いて、首を振る。
「そういう狭苦しい考え方が、あなたの孤独な人生を形作ってきたことに何故気づかないのですか。そうやって、なんでもかんでも蓋をして、きもちを閉じ込めて、楽しいですか」と私は言う。こうまで言われても、彼は怒らない。たいていの場合、怒りがある地点を越えてしまうと、彼は追うのをやめてしまう。
「きみはあれだな。ほんとうに何なんだ。きみにぼくの何が分かるっていうんだ」と彼は言う。
「あなたのことなら、わかります。しかも、かなり詳しく。話しましょうか」と私は言う。
「きみが?初対面の女の子が?ぼくについて話すっていうのか?」
「そのとおりです。まあ、飲みながらでいいから、聞いて下さい」と私は言う。「あなたは三一歳。事務職。血液型はB型。離婚歴が一度あります。離婚事由は奥さんの浮気。別れた奥さんとの間に、娘さんが一人いらっしゃいます」
彼の顔から表情が消える。
「そう。恐怖を感じると、表情が消えてしまうんですよね。でも、大丈夫。カワウソくん。私たちは友達です」
「控えめに言って、ものすごく怖い。鳥肌よりもすごい鳥肌が立ってる」と彼は言う。
「まあ。それはしかたない。お気持ち察しますよ。見知らぬ人に自分のことを知られているのは、怖いですよね。まあ、飲んでください。あなたに危害は加えませんよ」
 少しの間、彼は考える。夕陽を見つめ、河を見つめ、私を見つめ、缶ビールを見つめ、また私を見つめる。そして諦めて、それ以上追うことをしない。理屈や感情が処理できる一線を越えてしまうと、彼はもうそれ以上追うことをしないのだ。
「これまでに収集した情報によるとですね」と私は言う。「カワウソくんが結婚したのは二十三歳の時でした。理由は、結婚してほしいと彼女に言われたから。新卒で入った会社の先輩で、三つ年上の彼女から、かなり熱心にアプローチを受けていたようですね。出会って三カ月でのスピード婚でした」
「その通りだ」と彼は言う。
「そして、離婚したのが二十九歳の時。理由は離婚してほしいと奥様に言われたから」
「その通りだ」とうなだれて彼は言う。
「そこに、ご自分の意思はなかったのですか」と私は訊く。彼はうなだれる。
「ぼくにはわからない」と彼は言う。「そして、彼女もわからないと言った。何故ぼくが自分と結婚したのかわからなくなったと。私のこと、愛してないくせに。と彼女は言った」
「愛してなかった?」と私は訊く。
「愛していたつもりだった」と彼は言う。「でも、彼女にはそう写らなかった。ぼくらは何かを挟んで結婚していたんだ。鏡のようなものを。そして、ぼくの鏡に映っていたものと、彼女の鏡に映っていたものは違っていたらしい。最終的に、彼女は鏡を叩き割った。そして、ぼくに言ったよ。大嫌いだって」
「結婚してくれと言われれば結婚して、離婚してくれと言われれば離婚するんですね」と私は言う。
「そうだよ」と彼は言う。
 彼の妻が浮気をし、離婚に至った理由も、まさにそこにあったそうだ。少なくとも表面上、彼は良き恋人だったし、良き夫だったし、良き父親だった。多くを主張せず、彼女の話や意見を傾聴し、一万通りの相槌を打った。定時に出社し、定時に帰り、家の中はいつも清潔にしたし、娘の面倒もよく見た。妻の要求にノーと言ったことは殆どない。妻が「愛していると言って」とねだれば「愛している」と言ったし、キスをせがめばキスをしたし、抱きしめてと言えば抱きしめた。メールの返信も、やや業務的すぎるきらいがあるにせよ、早く誠実だった。
「だけど、彼女が言うには、それはすべて表面上の夫婦生活であったそうだ。彼女はそれを、海から少しだけ頭を出した氷山に例えた。そして、自分が欲しかったのは表面上ではなく、水面下に沈んでいる氷山の本体だったのだと言った。愛というものは、そこにあるのだと。そして、海面下での自分を見てくれる同僚と不倫をした。表面上の世界にいるぼくには、それがわからなかった」
 ある日の夕方、彼は町中の繁華街で、手を繋いで歩いている妻と不倫相手を目撃した。怒りに似た、失望に似た、ああやっぱりという納得に似た、様々な感情が彼を襲った。しかし例によって、自身を飲み込んでしまいかねない激しい感情を彼は傍観し、それ以上追うことをしなかった。確かに妻と目が合ったが、彼はそのまま気づかない振りをして、四歳の娘を保育園に迎えに行った。娘を抱いて自宅に帰り、三人分の夕食を作った。帰ってきた妻が何事もなかったかのような、いつも通りの態度だったので、三人で夕食を食べた。夕食を食べながら、妻はいつもどおりの他愛のない話をした。職場からの帰り道にあるペットショップのショーウィンドウに、見つめる首を傾げる不細工な顔をした犬がいる。という話。表情はいつも通りだったが、次第に声が震えだした。トマトを一口に入れて咀嚼したが、それは喉を通らず、彼女は吐き戻した。
「ごめんなさい」と彼女は言った。「許して」
彼は彼女に口を拭うための清潔なタオルを渡し、彼女のグラスにジャスミンティーを注いだ。そして「いいよ」と言った。妻がテーブルをひっくり返し、ものを投げつけて、彼に「大嫌い」と言ったのはその時だ。先に食事を終えて遊んでいた娘が、火がついたように泣き叫んだ。
 離婚話はとてもスムーズに運んだ。娘の親権は妻が持ち、週に一度の面会が許されたが、やがて妻の再婚が決まると(相手は彼が目撃したのとは違う男で、十四歳年上の金持ちの実業家だった)娘との面会も含め、もう自分たちに関わらないでほしい。と要求された。さすがに抗ったが、最後には承諾した。彼がこの河に姿を現すようになったのは、それからほどなくしての時期だ。
「あなたの生き方は常にそうだった。誰かの願望を受け入れ、誰かの願望通りに自分を粘土みたいに捏ねる。そして誰かの願望通りに自分を造形する。でも、カワウソくん。本当のあなたは何処にいるんですか」と私は言う。
 沈黙。私たちの沈黙の間で、夕陽が燃え、澄んだ河がさらさらと流れる。
「ここだよ」と彼は言う。「ビールが美味くて、夕陽は綺麗。何もかも、さらさらと流れていく。みんなは元気で走ってる。ぼくはここにいて、それを眺めてる。きみが誰だか知らないけど、なんとなく敵ではない気がするし、もうちょっと飲みすぎて、割となにもかもどうでもいいから告白するよ。確かにぼくはきみの言う通りの人間かもしれない。自分と言うものが希薄で、他人の願望に合わせて行動する。でも、だから何だって言うんだ。そんなことと、この夕陽の、流れる河の、気持ちいい風の、走る人々の、散歩する犬の、遊びまわるこどもたちの声と、いったい何の関りがあるっていうんだ」
「関りはありません」と私は言う。「そこには、あまりにも、あなたがいないだけです。私にはそれが少し寂しいんです」
彼は驚いたように私を見る。
「ありがとう」と彼は言う。礼を言われる筋合いではない、と私は思う。
 暫くの間、私たちは二人で河を眺める。彼は減ることのないビールを飲み続け、永遠のフライドチキンを齧る。
「ねえ、カワウソくんは高校時代、〈友達いないいない部〉だったんですよね」と私は言う。
「きみの正体がわかったぞ。高校時代のぼくの同級生の娘さんか、いやそれじゃ年齢が合わないか。さもなければ、ぼくの背後霊だな。子供の頃に、墓場で立小便した時に憑りついたんだろう」酔って、ところどころに本来不必要な溜息を混ぜて彼は言う。
「私も、友達いないんですよね。部長、どうしたらいいですかね」
「〈発進!友達いないいない部〉だよ。正式名称はね。そういうまんががあったんだ。それで誰かがぼくを〈友達いないいない部〉と呼びはじめた。それで〈友達いないいない部〉が出来て、ぼくは部長になった。たった一人の部活の部長だった」
「色んなあだ名があるんですね。色んなあだ名があるってことは、色んなあなたがいるってことですね」
「そうだろうか。あだ名の多寡に関係なく、ぼくはぼくだけって気がするけど」
「あなたに関わりたいと思った人はたくさんいたと思いますよ。でも、あなたが自分で自分を不審者扱いして、それに気づかなかったんです」
「なるほどねえ」と呟いて、彼はビールを煽る。もう酔いすぎていて、私の話をあまり聞いていない。
「私、あそこに住んでるんですよ」と私は自分の家を指さす。私たちの座るベンチの対岸に見える、バルコニーのある古い二階建ての家。
「そうだったのか。うらやましいね。良い場所だ。夜、ベランダに座って河の流れる音が聴けるのはとても羨ましい」
「私はカワウソくんほど、河に愛着を持っていないのでそういうことはしません。むしろ虫が嫌いなので、あんまり好きじゃないですね、河」
 夜の青白さに染まった雲と、茜色に染まった雲が、層になって空に浮かんでいる。燃えあがる夏の太陽と、涼しく冷えていく夜がゆっくりと混ざり合っていく。
「友達がいないって、辛かったですか」と私は訊く。
「いや」と彼は言う。「あの頃は、少し辛かったかもしれない。君くらいの年の頃だ。でも、年をとるごとに、実証を経て、その辛さはだんだんと薄れた」
「実証とは」
「ぼくの人生に友達は出来ないということだ。なんとか、友達付き合いらしきものをしてみたこともあった。でも、それはぼくをむやみに疲れさせたし、なんなら裏切っている感覚という感覚すら感じさせた。きみがさっき解説してくれた通り、ぼくは概ね人の願望どおりに行動してきたよ。友達に対してもそうだった。だからこそ、わかることがある。それは二重の意味で裏切っているんだ。自分を裏切っているし、友人を裏切っている。その感覚はとても重苦しい上に、後々まで拭うことができない。だから、ぼくは友達は欲しくないんだ。誰も得しない」
「はっきり言うんですね」と私は言う。なんて哀れな生き物なのだろう、と思う。
「だって、それを認めてあげないと、今までのぼくがかわいそうだからね。〈友達いないいない部〉の部長が。ぼくと彼は諦めて、自分を受け入れる。ぼくは友達がいない。それでいいんだよ。その上で、出来ることをすればいい。知ってるかい?諦めるという言葉には、明らかにする、という意味合いもあるそうだよ。明らかになってしまえば、あとは受け入れるだけでいい」
「そういうふうに開き直れるのは、ひとつの強みなのかもしれませんね」と私は言う。
「それに、ぼくはいじめられたり、除け者にされていたりしていたわけじゃないよ。ただ、三年間まじめに部長を務めていただけだ。入部希望者も少なくなかったんだよ。全員断ったけどね」
「三年間、友達がいなかったんですか。すごく熱心に部活動していたんですね」
「なんだろう。与えられた称号に沿って活動していたと言ってもいいかもしれない。一種のゴーレム効果であったとも言える。きみも友達がいないって?二代目部長の座を贈るよ」
「いりません。そんなもん」と私は言う。
「きみにもあだ名があるの?」と彼は訊く。
「〈見えない子ちゃん〉です」と私は言う。「中学一年生の時のあだ名が〈見える子ちゃん〉だったんです。そういうアニメがあるらしくて。うちの学校、中高エスカレーター式なもんで、いわゆる高校デビューをきっかけにあだ名から脱却することもできず」
「なにが見えるのだろう。そして、今はなにが見えないのだろう」と彼は訊く。
「いわゆる幽霊みたいなやつですね。中学校一年生の時のキャンプ合宿で、はじめてそれらしきものを見たんです。百人の中学生がいっしょに登山して、みんなでカレーを作って、森の中でいくつかのテントに分かれて眠るっていう忌まわしい合宿でした。私に割り当てられてたテントの中では、私を除いた人の五人の女の子たちが、好きな男の子の話とか、抱かれたいアイドルランキングとかの話で盛り上がっていたんですけど、私そういうのが嫌で。いわゆる恋の話が」
「なんで?」と彼は訊く。
「ほらきた。なんで?って訊かれるのも嫌い。カワウソくん。オクラとか、山芋とか好きですか」
「嫌いだね。粘りがあるから」
「私も嫌いです。粘りがあるから。それと一緒です」
彼が恋愛と野菜の粘りの違いについて口を挟もうとするが、無視して私は続ける。
「それで、テントの外で風にあたってたんですよね。そしたら、痩せた老婆が森の中に立ってたんです。九十歳か、百歳くらいの老婆に見えました。最初、白いワンピースを着ているのかと思いました。でも、近づいて見たら違うんです。彼女は全裸で、その体に無数の真っ白い蛾が止まっていたんです」
光景を想像したのだろう。彼は顔をしかめる。
「声をかけたんですけど、老婆は虚ろな目で首を振るだけで。よくよく目を見つめてみると、瞳がないんです。瞳孔だけ。つまり、真っ黒い底なしの穴。私、恐ろしくて、振り向かずにテントまで後ずさりしました。彼女から視線を切ったら、次の瞬間には何らかの方法で目の前まで近づかれて縊り殺されるんじゃないかって思って。それで、テントの中のみんなに助けを求めました。ところがみんなで戻ってみると、その老婆はいない。これは…っていう話になりまして。その夜は怪談で盛り上がりましたよ。最初は怖がってるふりだったんですけど、森の夜の神秘的な雰囲気のせいでしょうか。夜か深まるにつれて、だんだんと想像と恐怖が現実となって暗闇に拡がりだしました。それで、みんなで手を繋いで寝ようね。ってことになりました。もう誰も、はしゃいでいませんでした。ふいに誰かが、私の足首をすごい力で掴みました。私が驚いて叫び、それが伝播して全員が叫びました。テントにいた女の子の六人中一人が過呼吸になっちゃったくらいです。あれは一種の集団ヒステリーでしたね。人間心理は不思議です。全部作り話だったのに」
彼がまたビールをむせる。
「作り話って。どこから?」
「何もかもです。私は老婆なんて見てないし、足首だって掴まれてません。恋愛の話をしたくないという気持ちに突き動かされた、ちょっとした悪戯のつもりだったんです。ですが話はその後、急展開を見せます」
「おお。よくわからないけど、盛り上がってきたねえ」と言いながら、彼は嬉しそうにビールを飲む。
「なんとですね。それから一週間後、隣町で行方不明になっていた痴呆症のおばあさんのご遺体が私たちが登った山中で発見されたんです。みんなが、あの夜にみんなが見た老婆は、そのおばあさんの霊だったんじゃない?とざわつきました。山を降りる頃には、そこにいた人間の半数が老婆の姿を見たことになっていたのだから、まったく不思議ですよ。それで、最初に老婆の姿を見つけ、しかも足首を掴まれた私のあだ名が〈見える子ちゃん〉になりました。それ自体はいいんです。ただ、未だに後悔しているんですが。その後の経過で私、いわゆるキャラづくりに、しくじりまして」
彼はビールを飲み、静かに微笑みながら、私の話に耳を傾ける。私たちの体の表面を、水面から反射した陽光と水音がさらさらと流れていく。私は話を続ける。
「その。お恥ずかしい。〈可愛すぎる霊感少女〉みたいなキャラが誕生して、浮かれちゃったんですよね」と私は言う。私は彼を見つめて、もう一度言う。「可愛すぎる霊感少女」彼はビールを噴き出す。
「おかしいですか」と私は言う。
「おかしくないよ。ただ、何となくマヌケなキャッチフレーズだなと思って」と彼は答える。
「可愛くないっていうんですか。私が」と私は言う。こういう口は、彼にしかきけない。
「可愛さっていうのは、流行でしかないよ。世間の流行であり、個人的な流行だ。同じ流れるものだったら、ぼくは河とか空のほうが好きだな。静かだからね」と彼は言う。
「ちょっと言ってることがわかんないですけど、話を続けてもいいですか」と私は訊く。
「きみさえよければ」と彼は言う。
「それまでの私って、あんまり個性的ではなくて、どちらかと言えば地味で目立たない子でした。だから逆に、憧れてるとこがあったんです。個性的だったり、注目されたりっていうことに。忙しいシングルマザーにネグレクトぎみに育てられた鍵っ子だったせいか、注目と賞賛に飢えていたことも少なからず事実です。もちろん、そんなのが注目されたのは二週間くらいなものでした。ただ、その後も一部の物好きな人たちが私にくっつけた霊感少女というキャラクターを定期的にいじりまして。その度に私は見えないものを見えるって言ったり。知りもしない場所を、危ないから立ち入らないほうがいい。とか言ったり。口から出まかせで人の運命や前世を断定してみたり。今思い返すと、ぶち殺してやりたい。あの可愛すぎる霊感少女を」
彼はビールの缶を握りしめて、くっくっくと笑う。
「愉快な話だ」と彼は言う。目の前を散歩やジョギングをする人が通り過ぎるたびに顔を伏せ、声を堪えるが、震えるほどに笑ってしまっている。
「これは私の経験からの意見なんですが、キャラづけっていうのは逆に枠の中に個性を限定し、可能性を狭窄してしまう悪しきラベリングです。やめた方がいい。きっと、カワウソくんも〈ともだちいないいない部〉の部長としてのキャラクターを演じていただけなんですよ」
「そうなのかな」
「しかもキャラづくりが下手だったり、中途半端だったりすると、後々まで叩かれるんです。ちょっと見える子ぶって、変に目立ってた私が気に障ったんでしょうね。同級生のカースト上位の女の子たちに陰口を叩かれたり、あからさまに、からかわれたりするようになりまして。あ、いけないと思って、見える子のフリはやめたんですけど、時すでに遅しでした。気が付くと、今度は〈見えない子ちゃん〉って呼ばれてましたね。ショックだったのは、ちょっとしたカリスマ扱いしてた周りの人や、親しい友達ですらサーっと離れていったことです。あれはショックでした。高校入学したら、いっそのことオカルト研究会でも作ってやろうかと思いましたが、やめました。とにかく再び地味に生きていくことにしましたよ。図に乗っちゃいけない。そうやって大人しくしてたら、今度はあの無口な子って誰?ってことになって、あまりの存在感のなさに再び元の意味とは別に〈見えない子ちゃん〉ってあだ名がついたわけです」
彼の震えはますます激しくなる。この話は彼の笑いの琴線を強く衝くらしく、外れたことがない。
「ねえ、カワウソんくん。幽霊って、いると思いますか」と私は訊く。彼は笑いの波が去るまで辛抱強く震え、やがて大きく息を吐いた後に、「どっちでもいいかな」と言う。またビールを煽り、幸せそうに眼を細めて話す。
「例えば、ぼくが今こうやって見ているものが、全て幻影だったとしてもぼくはどっちでもいい。今ここにいて、眺めているものは確かだし、感じていることも確かだ。地平線を燃やすように沈んでいく夕陽と、夜の青白さがゆっくりと混ざり合っていく。河は美しく流れ、水音はぼくの雑念を遠くまで運ぶ。人々は健康的に走り、犬たちは散歩して大喜びだし、ビールは美味い」
微笑みながら、彼は河に向かって話す。
「妻が出て行ってしまってから独りぼっちになって、ぼくも自分を幽霊みたいだなって思ったこともあるよ。見えないことが幽霊なのだとすれば、ぼくは幽霊だ。しかも、ずっと前から」
蜻蛉が彼の足元に二匹止まり、彼を見上げると光の河に向かって飛び去る。私は、彼の言葉を否定したくなり、その論拠を探すが見つけることができない。
「触れ合えない、関わり合えないことが幽霊なのだとすれば、ぼくは幽霊だし、ぼくの世界では、人々みんなが幽霊だ。きみも、この河も、あの蜻蛉も、走る人々も、腕時計の長針も、このフライドチキンも全部幽霊だ。ぼくはここで殆ど毎日、河と夕陽を眺めているから、よくわかるんだ。すべては流れ去り、消えていく。ぼくたちが見ているものは、その僅かな残像に過ぎないんだよ」と彼は言う。
「そういう考え方をするから、あなたが幽霊なのか。あなたが幽霊だから、そういう考え方に至るのか、どちらなんでしょうね」と私は言う。彼は私を見つめ、聞こえなかったふりをしてまたビールを煽る。
「ねえ、次に走ってくる人の性別を賭けませんか。走ってくる人が男性だったら私が。女性だったらあなたが。がんばれーって応援をする。それで幽霊はいなくなります。どうでしょう」と私は言う。

 なんとなく。ほんとうに、なんとなくなのだけれど突然学校に行くのが面倒になって、一週間ほど不登校をしていた。確かに私は学校で〈見えない子ちゃん〉という不名誉なあだ名を付けられているけれども、あからさまな無視やいじめを受けているわけではないし、所属する文芸部の活動は楽しいし、部の中には気の合う友人だっている。だから、なんとなくという以外に、学校に通わなくなった理由が自分でもはっきりとわからない。それ以前には、特に問題もなく学校に通えていた理由と同じくらいわからない。
 心配してくれた友人からの連絡には、風邪が長引いているだけなので心配しないでほしいと返した。一度、担任教師から自宅の電話に連絡がきたが、電話を受けた私は母親の振りをして同様の説明をした。どのみち、あと十日ほどで夏休みに入ると言う時期だった。友人も、担任も、それほど気にしてはいないようだった。
 日中はクーラーを効かせた部屋に引き籠って、洗濯や掃除をしたり、インターネットで映画を観たり、本を読んだり、料理の作り置きをして過ごしていた。広告関係の会社で働く母親の朝は早く、夜の帰りは遅い。いずれ露見するかもしれないが、今のところ彼女は私が登校していない事すら知らない。それどころか、朝夕のおかずの作り置きが増えたことや、洗濯物がしっかりとたたまれて収納されていることに、喜んでいるほどだ。
 夕暮れになると涼しい風が吹き、残照を夜の方角へ運んでゆく。確かに河を眺めるのにいい季節ではあった。窓から入ってくる光に、夕暮れの赤い粒子が混じり始める時間、私は洗濯物を取り込みがてら、二階のベランダから河を眺め、少しの間ぼんやりした。家の対岸に、いつもフライドチキンを齧りながら缶ビールを飲んでいる、スーツ姿で猫背の男がいた。彼は河沿いのベンチに座り、スマートフォンをいじることもなく、本を読むこともなく、ただ河を眺めながら飲んでいた。時折立ち上がったかと思えば、腰に挿した鉄のトングでごみを拾い、ビニール袋の中に回収した。変わった酔っ払いだなと思った。彼は毎日、日没になると現れた。一本のフライドチキンをいつまでも齧り、一本の缶ビールをゆっくりと飲む。時折立ち上がると、河を流れて来るごみや、ポイ捨てされた煙草の吸殻を拾う。そして再びベンチに座ると、またぼんやりと河を眺める。夕暮れに、洗濯物を取り込むたびに目にする彼の姿が気になりだして、私はいつの間にか、その姿を探すようになった。彼が独りで切り盛りしている河辺のこじんまりとした居酒屋が、なんだか幸福そうに見えたからかもしれない。
 日曜日。母は休日にまとめて家事をする。その日は、娘が急に家事を張り切るようになったことへの感謝を述べ「その分、今日ははあたし、がんばるからね」と宣言をした。その通り、母は三食の炊事と、洗濯と日中の掃除、すべてをぱたぱたと、しっかりこなした。おかげでやることのない私は、その日の朝から夕方まで、母のタブレットで「天は赤い河のほとり」を一巻から読んでいた。昼食と午睡を挟んで全二十八巻を読み終えるころには、空は黄昏を帯びており、母はそう多くない二人分の洗濯物をベランダから取り込もうとしていた。
 私たちは二人で「天は赤い河のほとり」の感想を語り合いながら、洗濯物を取り込んだ。母は、自分が少女期に読んでいた物語について娘と語り合えることを喜び、終始にこにこと上機嫌だった。彼女は自分が好きだったキャラクターやエピソードのことを喜々として語りながら、夏の太陽に乾かされ熱くなった洗濯物をハンガーから外して籠に入れた。私は窓際に座って、それをたたんだ。
「ねえ。お母さん。よく河向こうのベンチに座ってお酒を飲んでるおじさん知ってる?」と私は洗濯物をたたみながら母に訊いた。
「さあ」と母は答えた。
「スーツ姿の、しょぼくれたおじさん。たまにごみ拾ってるの」
「ああ。昔そんな人いたわねえ。ずっと昔、いつもベンチでお酒飲んでたあのひと。カワゾエさんだっけ。あんたよく覚えてるね。あの頃まだ四歳くらいだったのに。でも、もういないのよね。彼」
私は、洗濯物を取り込み終えた母と入れ違いにベランダに出て、対岸を探した。彼がまた、ベンチに座って安らかに飲酒している姿が見えた。
「いるじゃない」と呟いた時、私の胸に奇妙な予感が降りて来た。世界と隔てられ、独りはぐれてしまったような心細さと、冷たい羽に心臓を撫でられたような嫌な予感。
「もういないって、どういうこと?」と対岸の彼を見つめたまま、母に訊いた。
 夜闇が茜色の空気を呑みこみ、彼の姿もいっしょに夜に消え去ろうとしていた。夜の訪れといっしょに透過していく彼の鳩尾を、どこからか飛んできた黒い鳥が貫き、水面すれすれを飛んで、また彼方に飛び去って行った。
 私の背後で母が洗濯物をたたみながら、十三年前の殺人事件について話しはじめた。

 十三年前の夏。彼はこの河に現れた。現れたというより、迷い込んできた、と言った方が正確なのだと思う。彼自身の話と照らし合わせるに、離婚によって受けた大きなショックを抱えたまま、彼は毎日違う道を通って帰っていた。無意識的にではあるが、体験したことのない辛苦に対して、体験したことのない対処法を探っていたのだと思う。気が付いたら、毎日知らない道を歩いていた。と彼は言った。それまで家族のために使っていた時間を、どのように使っていいのかわからないまま彷徨っていた彼は、途中のコンビニエンス・ストアで買ったビールとフライドチキンを持って、河沿いのベンチに座った。いったん座ってしまうと、何も考えることが出来ず、ただ長くそこに静止した。
 白く毛の長い犬が鼻で彼の膝を押すまで、彼は放心していた。その時間は一分だったのかもしれないし、三十分だったのかもしれない。その頃の彼は、突然ブレーカーが落ちたように、自分の存在を忘れてしまうことがあった。自分が誰で、何処で、何をしているのかの一切を思い出すことが出来ない。
「ごめんなさいね」と犬を散歩させていた婦人が彼に謝った。
「いいえ。とんでもない」と言って、彼は微笑み、犬に手を振った。
 我に帰った彼は、河をじっと見つめた。彼方で太陽が落ちようとしていた。きれいな河だな。と彼は思った。砕け散った夕陽を孕んだ水が、さらさらと安らかな音をたてて流れていく。目を閉じると、言葉にならない彼自身の苦痛もいっしょに流されていくような気がした。自分と水音の境界が分からなくなるまで、彼は河に対して放心した。ゆっくりとフライドチキンを齧り、缶ビールを飲み干した。そして満足すると、夜の訪れとともに家路に戻っていった。その日から彼は毎日、この河に足を運ぶようになった。
 河は、彼の痛苦を水音とともにさらっていった。彼はただ、自分の心の痛みを受け入れ、それが何処か遠い場所に運ばれることを確認すればよかった。水面で跳ねる日光と一緒に、彼の悲しみが流れていく。それを見送ってしまうことで、彼はやっとベンチから立ち上がることが出来た。そういう話をしてくれたことがある。
「水葬のようですね」と私は言った。
「多分、その通りなんだ。そのようにして、ぼくはつかの間、蘇ることができた」と彼は言った。
 私たちは二人で黙って河を眺めた。悲しみは流れてゆき、彼は残される。

 母の話とインターネット上の記録から、私が知ったことは以下の通りだ。
 事件当日の天気は晴。日中は猛暑で、町内では三人が熱中症で救急搬送されている。日没ともに気温が下がり始めたころ、彼はいつも通り河沿いのベンチに座ってフライドチキンを齧り、ビールを飲んでいた。幽かに微笑んで夕陽と水面を眺め、道行く人たちと目が合うと、ほんの僅かに会釈をしたという、当日に河沿いを走っていたジョガーが証言している。時折、河やその沿岸にごみや流れてきたペットボトルを見つけると、腰のベルトにさしたトングで拾っていた。
 どのような経緯で彼が事件に気づいたのかはわからない。被害者の女児が悲鳴をあげたのかもしれないし、ごみを拾う途中に偶然現場を目撃したのかもしれない。離れて暮らす自分の娘のことを思い出しつつ対岸で遊ぶ女児を注視していたのかもしれない。だが、結局のところ詳細は不明だ。犯行の目撃者はいなかったし、犯人の供述も終始曖昧。女児はショックの余り正確な証言をすることが出来なかったし、被害者への配慮のためもあって、その一部は公開されていない。そのため、私が知れる情報のすべてはニュースやインターネットの雑に希釈された情報の集積に過ぎない。
 当時七歳だった下校中の少女が、住所不定の中年男性に暴行されかけていた。男は、セイタカアワダチソウが生い茂り周囲の視界から閉ざされた河辺の一角に、何らかの手段で女児を連れ込んだ。ただ一人それに気づき止めに入った彼は、犯人の反撃に遭い石で頭部を殴られ、それが原因で死亡した。意識を失う前に、彼は拳大の石を三つ、対岸の家に向かって放っている。そのうちの二つが民家の窓硝子を割り、驚いて様子を見に来た住人によって、事件は警察に通報され少女は保護された。住人が逃げ去る犯人の特徴を見ていたこともあり、その日のうちに犯人は逮捕された。石を放ってしまった後、彼は意識を失ってうつぶせに倒れた。その体の上を河の水が流れていき、水は赤く染まった。死因は左側頭骨骨折による脳挫傷。犯人の男性は幼児への性的虐待の前科がある四十代の男で、数年の裁判を経て懲役十六年の実刑判決が課せられた。被害者の一家は事件翌月に、他県にある父親の地元に引っ越している。

 彼が殺されてから、母を含めた多くの周辺住民が、メディアの取材を受けた。それで明らかになったことだが、この町では、とても多くの人が彼のことを知っていた。
「よくベンチに座ってお酒を飲んでいた」
「自主的にゴミ拾いをしていた」
「ゴミ拾いのボランティアグループへの入会を勧めたが、自分にはもったいないですという意味不明な断り方をされた」
「挨拶をすると微笑み返してくれた。悪い人には見えなかった」
など様々な証言が集まった。河沿いで取材される住人で彼のことを知らない人間は殆ど皆無であり、概ね好い印象が証言として語られた(ただし、これに関してはメディアの偏向と誇張があった可能性も否めない)。何をしているのかはわからないけれど、よく河沿いに座って静かにお酒を飲み、時折ごみを拾っている人。略して、彼のことを「河沿いさん」と呼ぶ地域住民たちがおり、その通称がなまって「カワゾエさん」という彼とは無関係なあだ名になったりしていたことも明らかになった。誰も彼の本名は知らなかったが、その姿は風変わりなマスコット、もしくはアイコンとしてこの河に定着すらしはじめており、そのイメージはほろ酔いでごみを拾う無害で無口な河童に近かった。
 少女の危機を身を挺して救い、命を落とした勇敢な男性として、マスコミは彼の親族や昔の同級生などを探し取材したが、彼を詳しく知る人物にたどり着くことはできなかった(その唯一の存在であると言える元妻は取材を一貫して拒否した)。
 両親は彼が大学生の頃に、病気でたて続けに他界しており、以後は親戚との付き合いも希薄だった。職場での口数は少なく、殆どすべての同僚が「あまり話したことがないけど、真面目でいい人だった」という旨の証言をした。学生時代の彼の同級生や担任教師も同様だったが、そのうちの半数は彼の存在自体を覚えていなかった。報道はやがて、性犯罪の前科を持つ犯人の生い立ちのほうへ、その比重を移行していったが、やがて事件そのものが日々の凄惨さのなかに埋没し、世の中から忘れられていった。

 二つの理由から、私は彼に事件の詳細について聞いていないし、この先も聞くつもりはない。
 ひとつは、自分自身を幽霊であると認識した途端に、彼が消滅してしまうのではないかという私が一方的に懸念しているから。もうひとつは、この話があまりにも痛ましく、悲し過ぎるように思えるからだ。

 母から事件のあらましを聞き、その細部を可能な限りインターネットで調べ、ネットニュースの顔写真と彼の顔の照合して、その一致を確認した私は、翌日の夕方から河沿いのベンチに座る彼の傍に寄って、河を眺めるふりをしつつ、後ろからその姿を観察してみた。くたびれた彼の猫背は、しかと血の通った生きている肉体のように、私には見えた。だが何日か彼を観察しているうちに、その肉体は限定された場所で、限定された活動しかできない、限定された存在であることがわかってきた。毎日、決まって日没の時間に現れ、ぼんやりと河と夕陽を見ながらフライドチキンを齧り、ビールを飲む。時折ごみを拾う。散歩する犬や、走る人々を見て幸せそうに微笑む。それだけだ。それ以外の行動はしない。
 時折、蝶々や蜻蛉や鳥が、彼の体を貫いて飛んでいった。ある日、私は思い切って背後から、彼の体に向かって小石を弾いた。小石は彼の胸に触れることもなく貫通して、向こう側に落ちた。それで後ろを振り向いた彼に、私は思わず挨拶をしたのだった。彼ははにかんで笑い。小さく会釈をした。

 「あの。こんにちは」と私は声をかけた。「はい。こんにちわ」と彼は返した。これが一日目。
 「どうも。昨日はありがとうございました」と私は声をかけた。「ごめん。どちら様だったかな」と彼は返した。これが二日目。
 「ハイハイハイ・ゼア」と私は〈時計仕掛けのオレンジ〉の真似をして声を掛けた。「ああ。どうも」と彼は返した。少し怯えたように笑っていた。これが三日目。
 声を掛ける代わりに、彼が好きだと言った曲を口笛で吹いてみた。彼は何か言いたそうな顔をして、また黙って河を眺めた。これが四日目。
 「元気ですかー」と私はアントニオ猪木の真似をして声を掛けた。彼はにやりと笑い、下顎を突き出して笑い、会釈をした。これが五日目。
 「隣に座っていいですか。あなたのために一分間祈らせてください」と私は声を掛けた。「すみません。結構です」と彼は返した。構わず隣に座った私に対して、必死に無関心を装っていた。心から迷惑そうな顔をしていた。これが六日目。
 七日目は生理痛が酷かったので、家でじっとしていた。対岸から観察すると、彼は太陽が沈みきるまで独りぼっちで過ごし、実に幸福そうだった。

 私たちは少しずつ会話をするようになった。最初こそ、不審者扱いされたくないからあまり話しかけないでくれ、という態度をとる彼だったが、こちらが構わずに話し続けるとやがて諦め、どんな話に対しても、静かに耳を傾けてくれた。私が何かを尋ねると、酒で濁った頭と、ままならない舌を健気に動かし、可能な限り応えた。ただ、記憶の保持はできないようで、前日に話したことを、翌日には何も覚えていない。彼は自分をリセットし、ビールとフライドチキンだけを持って、また最初から現れる。
 自分が死んでしまったことすら知らないこの幽霊は、ただ夕陽と河を眺め、水音を聴きながらビールを飲む至福のためだけにそこにいる。それが全く明確なので、他のどの事情も記憶も必要としていない上に、永遠にそれを繰り返しているのだろうと私は思う。彼にとっては、毎日が世界最初の日であり、世界最後の日なのだ。

 ポニーテールをきよらかな馬の尻尾のように揺らして、日に焼けた背の高い女性が風を切って私たちの目の前を通り過ぎる。私はまた、彼の方を向いて「せーの」と声を出さずに合図するが、彼はどうしても声を出せない。
「約束が違うじゃないですか。女性だったら、カワウソくんががんばれって言う約束ですよ」と私は言う。
「すまない。でも、約束なんてしてないよ」と彼は本当に申し訳なさそうな顔で言う。
「ねえ、カワウソくん。わりかしたくさんの人々が、あなたに対して好意的なんです。あなたが思ってるよりずっと。それに、がんばれーって言われて怒るひといますか?」
「いると思う。昔、市営グラウンドに野球を見に行った時のことだけど、社会人野球を見学してて、外野席からワンカップを片手にもった酔っ払いがライトの選手にがんばれーと叫んだんだ。言われた選手は、頑張ってるわ。おまえががんばれ、あほんだら。と怒鳴り返していたよ」
「それは酔っぱらいながら応援していたのが気に入らなかったんじゃないですかね」
「ぼくが持ってるこれ見える?おんなじじゃないか」彼はビールの缶を振る。「それだけじゃない。例えば、うつ病の患者さんに「がんばれ」禁句だって聞いたことがあるし」
私は彼の顔をじっと見つめる。彼は一度目を逸らし、話を続ける。
「それに。すでに精いっぱい頑張っている人に対して、なんのリスクもコストも追わないぼくが「がんばれ」と声をかけることは、ある意味失礼なんじゃないだろうか」
「そうやってやらないですむ理由ばっかり捜して。〈人にやさしく〉って歌。聞いたことないんですか。カワウソくん」とため息をつきながら私は言う。
「あるさ」と彼は言う。
「歌ってみてくださいよ。それくらいはいいでしょう。約束を破ったんだだから」
彼は少し照れながら、小声で歌いだす。

ぼくが 言ってやる
でっかい声で 言ってやる
がんばれって 言ってやる
聴こえるかい

「がんばれー」と私たちは言う。二人で笑う。
「どうですか。気分は」と私は訊く。
「いいね」と彼は微笑む。
「そうでしょう?あなたは、相手のことを気にしすぎているんですよ。言いたいことを言うのはあなたの問題。それをどう気に掛けるのかは相手の問題。あなたはこの二つの問題を同時に請け負おうとしているんです。あなたはただ、発するだけでいいんです。発したものの行く先なんて、ひとまず考える必要はありません。もう、十分すぎる程それは考えたじゃないですか。そうやって積極的に思っていることを声に出してみてはじめて、成仏できる何かもあるんじゃないですかね」
「成仏ってなにが」と彼は言う。まずい。と私は思う。
「ええと。あなたの中の幽霊です。たくさん憑りついてる。つまり、言うべき時に言わなかったことっていうのは、あなたを縛り、操るんですよ」しどろもどろになってしまったが、日頃思っていたことを私は言う。
「人々が思っていることを何でも言ってしまう社会というのは、ぼくにはちょっと怖いよ。そういう意味では、世界には一定数の幽霊がいていいと思う。それもまた見えない秩序の一部であって、世の中というものは実体と幽霊の均衡で成り立っているんじゃないだろうか」
「なるほど」と私は言う。均衡。見えるものと見えないもの。語られるものと、語られないもの。肉体と幽霊。本当と嘘。言葉と沈黙。私と彼。太陽と夜。
 茜色の空気が、夜に飲み込まれていく。彼の姿がゆっくりと透明になっていき、やがて夜の色と同化していく。
「カワウソくん。また、明日も会えますかね。明日はちゃんと言いましょうね。がんばれーって」と私は言う。彼は首を傾げて、何も言わずに静かに微笑む。宵闇の中に、彼の姿が溶けるように消える。

 あとには私だけが残される。水音がさらさらと夜に流れていく音だけが聴こえる。
「ぼくは幽霊だし、きみも幽霊だ」という彼の言葉を、私は口に出して反芻する。小さな声で「がんばれー」と呟いてから、対岸の家に帰る。

 その晩、夢を見た。
 真夜中、二階のベランダから対岸を眺めていると、彼の座っていたベンチに誰かが献花をするのが見える。水を入れた小さなビールの空き瓶に名前のない花を一輪指し、彼のいた場所に供えている人影は私かもしれないし、かつての彼の家族や知り合いかもしれない。十三年前に危険から救われた少女かもしれないし、その縁者かも知れない。白い犬を連れて毎日散歩する人が、毎日彼とささやかな目礼を交わしており、花はその目礼に捧げられたのかもしれない。だが、彼は、それを知らない。
 やがて夕暮れに現れて、ビールと水面に溶けた落陽を舐めるだろう彼は、自分に捧げられた花に気づくことができない。だが、確かに彼の足元で、供えられた花がいっしょに風と夕陽を浴びている。