私は出水えみりの蛍だ。彼女の瞳の中に住んでいる。
夜。えみりは一日の仕事をすっかり終え、身体を綺麗に洗ってしまうと、何も置かれていない机の前に座る。古い無垢材で作られた机には引き出しが二つ付いており、彼女はそのうちの一つから、ノートと筆記用具と心臓の形をした灯りを取り出す。
えみりはノートを開き、その日にあったことや、なかったことを書き出す。時には事実のみを。時には空想のみを。時には挿絵付きで。時には詩の様に。時にはまんがの様にコマを割って。時には表やグラフとして。時にはイラストレーションとして。時には箇条書きで。時には句点を一切打たない一塊の呼吸として。時には暗号として。時には無意識の海から釣り上げた魚の魚拓として。時には脚本の様にト書きで。時にはダイイング・メッセージとして。時には手紙として。時には遺言として。彼女は毎晩、眠る前に書いた。
短ければ二秒。長ければ三十分ほどの時間が、そこにあてられた。書き終わったらすぐに眠れるように、部屋の照明は落としてある。卓上で、心臓の形をした灯りだけが静かに鼓動している。
それは私が、えみりの瞳から飛び出す事のできる唯一の時間でもある。
その時間、えみりはとても集中してノートに向かっており、私の存在に気づかない。だが、薄暗い部屋の中で彼女が書けるように、光を撒いて飛び回っているのは私だ。彼女が書き終わると同時に、瞳の中に戻る。
書き終わってしまうと、ノートと筆記用具と心臓の形をした灯りを、また引き出しの中にしまい、彼女は独り用のベッドに横になって眼を閉じる。私もえみりの瞳の中で眠る。
えみりの部屋にある二つの窓のうち、朝日の方角を向いた窓から、ゆっくりと光が差し込んでくる。漆黒の闇だった部屋の中は、徐々に深海から浮上するように青白く輝いていく。えみりはベッドから体を起こし、眼を擦る。コップ一杯の冷たい水を飲む。扉の内側の郵便受けを開け、新聞を手に椅子に座る。
朝と夕に、えみりは一本だけ紙巻き煙草を吸う。机の引き出しの中から、小瓶に詰まった一週間分の煙草の葉と、巻くためのペーパーを取り出す。向こう側が透けて見える程に薄いヘンプ紙に煙草の葉を乗せ、くるくると綺麗に巻くと、紙の縁を唾液で濡らす。安物のライターで火を点ける。ペパーミントとバニラの混じった白い煙の舞い上がるこの瞬間に、えみりが思うことはいつも同じ。人差し指の先から、ほんのちょっぴりでいいので炎が出ればいいのに。私が彼女の瞳から自由に飛び出せるなら、いつでも彼女の煙草に火を点けてやっただろう。だが、それはできない。
青白い海の底に溶ける白い幻のように、えみりの吐いた煙が部屋の中で踊る。吐き出されたえみりが、ゆっくりとこの世界に溶けていく。
えみりは口の端に煙草をくわえながら、新聞を読む。何故いいニュースを一面に掲載しないのだろう。と彼女は思う。一面の右上から、すべての記事に目を滑らせる。白く燃え尽きた煙草の灰が、自重を支えきれず、二分おきに床に落ちる。火が唇に燃え移りそうなほど煙草が短くなる頃、彼女は新聞を読むのを終える。いつも、最後に死亡記事を読む。戦死者。自殺者。殺人被害者。が掲載されている。多すぎる。とえみりは毎朝思う。いくらなんでも、多すぎる。最後の煙を吐きながら、いつものように二つのことを考える。ひとつは、こんなものはすべて嘘っぱちで、惨劇が大好きな何処かのばかが勝手に言いふらしてるデマであり、自分はその流布に加担したくないので悲しいニュースは信じない。ということ。もうひとつは、そのような自分の考えについて反省し、誰かに対して謝ること。
新聞をたたみ、机の上に投げる。洗面台の蛇口を捻り、水で煙草の火を消し、濡れた葉をごみ箱に捨てる。顔に貼りついた世界情勢と白い煙を、一度洗い流す。だが、世界情勢は彼女の中へ、白い煙は部屋の空気に溶けてしまい、もう切り離すことは出来ない。
えみりは部屋と言うものを、ポケットや鞄のように考えている。そこにあるものは、少なければ少なければよい。
「えみりみたいなひとを、ミニマリストっていうのよ」と義姉のまひろに言われたことがある。
「多分違うし、そんな言葉も、この部屋に持ち込まないで欲しい。部屋が狭くなる」とえみりは言った。
「ひとがものを多く持つ理由は理解できる。それはわかりやすい。所有に対する、蒐集に対する欲求。捨てることへの恐怖と逡巡。増殖し、保存しようとする本能。多く持つことを富とする認識の一種。気づけば処理できない程に増えてしまった事への諦観。でも、えみり」
まひろは、えみりと業者以外でこの部屋に入った唯一の人間だ。一カ月に二度ほど訪れる。普段、この部屋は一匹の魚のための何もない水槽であり、まひろが訪れる時だけ魚の数が二匹に増える。机はえみりが何かを書く時にだけ使うので、客用のコーヒーテーブルとしては使わない。二人分のコーヒーカップと、まひろが買ってきた茶菓子を乗せた皿が一枚、やっと乗せられる程の小さな折りたたみ式の丸い座卓を挟み、床に座って二人は話す。
「ものを持ちすぎる理由に対して、ものを持たないという理由は、とても複雑だと思うの」とまひろは言った。
「そうかな。持たないという理由こそシンプルだと思うけど」とえみりは言った。
「違う。エスキモーや遊牧民であれば、それはシンプルに理解できる。生活様式及び環境と調和しているから。けれど、二十一世紀の日本でそのようにあることは、私から見たら却って複雑に見える」とまひろは言った。見知らぬ生活様式を観察するように、瞳の奥の私を見つめる。
「わたしはただ、ポケットや鞄に、必要のないものを入れて歩きたくないだけ」とえみりは答えた。
えみりは古い電熱器を使って、薬缶に湯を沸かす。湯を沸かしている間、床に座り、壁にもたれかかってカバーのかかっていない文庫本を読む。ウィリアム・ブレイクの詩集。一字一句間違わずに暗記してしまった詩集だが、文字を眼に映すことと、声に出して口ずさみ耳で嗜むことと、本のない場所で詩の意味について考えることは、それぞれ全く違う。と、えみりは思う。だが、その何れもが食べるという行為に似ている。
眼で文字を追うことは、絵画や映画を観ることに似ている。彼女の目が、詩の表面を舐める。時には香りを嗅ぐ。
次に、本のない場所でひとり、詩を口ずさむのは音楽に似ている。彼女は自分なりの旋律を付けて朗読する。震える空気と、耳がそれを齧る。
暗記した詩を頭の中で諳んじながら意味を考えることは、獣が骨を齧り、舐めしゃぶり、最後には骨そのものまで喰いつくしてしまう姿に似ている。えみりは隅々まで味わう。
時折、えみりが獣になって詩を食べている傍に立ち、見つめている人影がいる。食べ方について口を出そうとしている。それに気づくたびに、えみりは彼を消す。食べる邪魔をするな。
薬缶の中の水が音をたてて沸騰をはじめ、えみりは詩集を閉じる。
「すべては、別々の方法でお互いを食べているのだ」
と、彼女は独りで呟く。独りでいること好い点は、独り言を誰にも聞かれないことだ。と、彼女は思う。もう一度、独り言を言う。
「私の部屋は、誰も開かない一冊の本の様だ」
彼女は首を横に振る。この独り言が正確でないことは彼女自身が知っている。まひろがいる。まひろは、この部屋を開き、えみりを開き、また読もうとする。
一人用のコーヒーサーバーに布のドリッパーをセットし、豆を入れる。注ぎ口の細いケトルを傾け、可能な限り細く緩やかに、円を描きながらお湯を注ぎつつ、えみりは言い直す。
「私は、まるで鍵のついた一冊の本の様だ」
コーヒーの香りが部屋に舞いあがる。
「この何もなさのなかで」と、えみりは呟いて、淹れたてのコーヒーを飲む。
「この誰もいなさの前で」
「証人のない生活のなかで」
「わたしは、わたしでなくてもよいのだ」
えみりは自分のことばを噛む。部屋の中は夜明けの青白い光で満たされた水槽になる。
「わたしでいなければならない理由など、何ひとつない」
呟いてしまうと、満足してゆっくりとコーヒーをすする。
えみり。それは必ずしも正しくない。確かに何もないし、誰もいない。しかし、きみの瞳のなかには一匹の蛍が住んでおり、すべてを知っている。独りではない。もちろん、私のそういう声はえみりには届かない。彼女はコーヒーを飲みながら考える。今度は声には出さない。
わたしでなくともいいわたしが、なぜこんなにもわたしなのだ。と、えみりは心の中で呟く。
カップの中からコーヒーが減り、時が過ぎる。
玄関の扉を開けた瞬間、部屋の中に満ちていた青白い朝が、いっせいに外に零れる。もともとは、えみりの部屋の形に収まっていた蒼白のゼリーが、彼女の呟きや煙草の煙と共に、夜明けの世界へ流入してゆく。わたしという小さな水が、無限に近い海に零れてしまったみたいだ。と、えみりは思う。この瞬間ばかりは、私もえみりの瞳から零れて、朝の風に溶けてしまいそうになる。
町は静かで、まるで死んでいるかのようだ。九月の夜明けの風は、まさしく死者の頬のように冷たい。さらに、その死は広い。国の。県の。町の。一番外れにある土地を選んで、えみりは一年前に東京から引っ越してきた。周囲には見捨てられた畑が拡がり、地平線の彼方に整列したミニチュアのように小さな隣町が並んでいる。町までの道のりの間には、滅びたガソリンスタンドがあり、倒産した商店があり、廻らない風車があり、空っぽのガスタンクがあり、誰も通わない学校があり、幽霊しか集わない廃屋がある。それらを通り抜けて、牛乳配達がやって来る。三輪の配達バイクに乗って、化粧をしていない若い女が、冷たい風を浴びて鼻を赤くして牛乳を配達に来る。年齢を訊くと、十九歳だと言っていた。えみりよりも十二歳年下だ。
「おはよう」と、えみりは微笑む。牛乳配達の少女は深々とお辞儀をして、えみりの身体にまだ沈殿している夜を吹き飛ばすような、よく通る声で「おはようございます」と挨拶を返す。混じり気のない笑顔をしている。えみりのための牛乳瓶を、配達用の箱から取り出し、両手でうやうやしく差し出す。訓練された兵士のように動きが素早く、声が大きい。彼女を最初観た時は驚き、だんだん面白くなり、今では愛おしく感じる。
「ありがとう」と言って、えみりはそれを両手で受け取る。
「こちらこそ。いつもありがとうございます」と言って、少女はもう一度、お辞儀をしてからバイクに跨り、道を戻り隣町へ帰ってゆく。彼女を見ると、死んだ世界から少しだけ命が芽吹く。ただ、その表面の風は依然として冷たい。
牛乳配達の女が去ってしまうと、えみりは牛乳の蓋を開け、飲みながら朝日の訪れを見る。青白い世界に色が付きはじめる。夜が消えて、朝がやって来る。死者たちの頬に紅が差し、別人となって蘇る。
尖った柔らかい朝日が身体を刺す瞬間、えみりは自分の身体が千匹の黒い小鳥になって明るくなり始めた空一面に飛散してしまうような錯覚を覚える。そのようにして、えみりは、これまでに三十六万五千匹以上の黒い小鳥となって世界に散ってゆき、またそれを見送ってきた。
蘇る世界のなかへ、無数の鳥たちが羽ばたいてゆく。世界中に。
えみりの住む平屋は、もともとは都会から移住してきた芸術家たちのシェア・アトリエだった。その中で、芸術観の対立だか、住人間の恋愛感情のこじれだかが原因で、詳しくは分からないが一人が死んだ。人の命を失わせるほどの芸術観や恋愛感情も、不吉な死のあった家屋の価格が下がるという仕組みも彼女には理解できないのだが、そのおかげで平屋の価値は下がり、えみりは東京で貯めた貯金を頭金にして、その平屋を購入することが出来た。
立地といい、造りといい、価格といい、これ以上の物件は考えられなかった。彼女は東京で働きながら貯めた金を頭金にして、そのアトリエを購入した。
えみりの希望していた住居の条件は以下の五点。
・年老いた母の住む実家から十キロ以内の場所にあること。
・平屋であること。
・庭付きであること。
・隣家まで最低でも300メートル離れていること。
・築年数十年以上の中古物件であること。
アトリエは、この条件を全て満たしていた。細かな希望条件は他にもあったが、それはえみり自身の手によって実現された。例えば、屋内に扉は少なければ少ないほどよい。彼女はリビングとキッチンを隔てる四枚の引き戸と、必要以上に大きな押入れの扉を外し、細かく破壊して庭で燃やした。例えば、屋内は無地であれば無地であるほどによい。彼女は壁紙を全て剥がし、ペンキとローラーでこれを白い象牙色に塗った。
今のところ、幽霊の類は現れていない。
あるいは、平屋はすでに幽霊によって満たされており、わたしだけがそれに気づいていないのかもしれない。とえみりは思う。
牛乳瓶を洗ってしまうと、えみりは冷蔵庫から卵を二つ出してボウルに割り入れ、泡だて器で執念深く混ぜる。黄身と白身の境界が全くなくなるまで混ぜた後、少量の牛乳と塩と白胡椒で味付けをする。熱したフライパンにバターを引き、オムレツを作る。その間に、魚焼きグリルでパンを一枚焼く。小麦が焼けるいい匂いが辺りに漂う。オムレツは半月を溶かして型に嵌め、よりふんわりさせたかの様に美しく仕上がる。バターを塗ったパンとオムレツをアカシアのワンプレートに乗せ、野菜を添える。真っ赤なミニトマトと、手でぽきぽきと砕いた胡瓜。窓から差し込む光を見ながら、えみりは朝食を食べる。
電話のベルが鳴る。食べかけのパンを皿に置いて、えみりは立ち上がり、電話に出る。
「おはよう。えみり」とまひろが言う。
「おはよう。まひろ」とえみりが答える。
「ごめんね。何か食べてた?」とまひろが謝る。えみりは改めて口の中のものを嚥下して、こちらこそ。と謝る。
「朝ごはん、食べていたのね。何を食べていたの?」とまひろが言う。
「いつもの。パンとオムレツと野菜」
「あのすばらしいオムレツ。えみり。あなたのオムレツは素晴らしい。他のどんな惑星よりも美しい。私はあんな美しく欠けた月を、他に見たことがない。今すぐにでも、それを食べたい」
えみりは笑う。
「あのね。今日、午後の五時くらいに会いにいってもいい?」と、まひろは訊く。いいよ。と、えみりは答える。
「なにか、欲しいものある?」と、まひろは訊く。
「なにも」と、えみりは答える。
「そうだよね。じゃあ、あたしが決める」と、まひろは言う。
「待ってる」と、えみりは答える。
受話器を置くと、窓から差し込んできた光が部屋の青白さを呑みこんでしまっていることに気づく。朝がやって来たのだ。
鳥たちが表で鳴き、えみりの瞳は、まひろが褒めてくれたオムレツのように美しく輝く。褒められたことが嬉しかったからだ。