朝食を食べ終えてしまうと、身支度を整えて、えみりは軽自動車に乗る。サングラスを掛けて、ゆっくりと車を走らせる。過疎化が進み、人の数が減り続ける地方だが、さびしい風景ほど太陽の光が強く輝いて見えるのは何故なのだろうと、えみりは思う。カーステレオで、ヴァシュティ・バニアンの〈ジャスト・アナザー・ダイアモンド・デイ〉を流す。さびしい風景が、さびしい音楽によって癒され、そのどちらもが美しく輝く。人通りの少ない県道を走り、曲がりくねった山道を通り抜けて、十八曲を聴き終わる頃、車は彼女の生家で停まる。屋敷といっていいほど大きな家に、えみりの母親は独りで暮らしている。

 玄関の鍵は開いている。母親は、居間で煙草を吸いながらテレビを観ている。硝子製の大きな灰皿は吸殻でいっぱいだ。
「おはよう。母さん」とえみりは言う。
「ああ。おはよう」と母親は、えみりの方を見ないで言う。「あんた。昨日も来なかった?」
「来たのは三日前だよ。母さん」えみりは途中のスーパーマーケットで購入した日用品や野菜を買い物袋から取り出しながら言う。
「そう。だったらいいんだけど。あんたはあんたの暮らしがあるわけなんだから、そんなに頻繁に見に来なくてもいいのよ」
「うん。まあ、お父さんにも言われてるし。煩わしいかもしれないけど、たまには様子見に来させてよ」とえみりは言う。母親は死んだ父の名前を呼び、涙ぐむ。えみりは母親の肩をぽんぽんと叩いて慰め、エプロンを付ける。


 台所に立ち、米を研いだり、野菜を切ったり、冷蔵庫の中の食品の賞味期限を確認したりする。
 父親は去年、がんで死んだ。病巣の発見から死までは速やかで、すべてが終わってしまった今でも、母の心は、父の死に対する準備を整えられずにいる段階で止まってしまったままだ。えみり、お母さんのことを頼む。というのが小さな町で町会議員を務めていた父親の遺言だった。その折、丁度えみりも東京を離れ地方に住居を探そうとしていたところであり、偶然にも住みたくなるような傷ついた平屋を見つけ彼女は、生家から山を挟んで二つ隣の田舎町に引っ越してきたのだった。
 父が亡くなった後、母はその死を嘆くだけの無気力な生活を送り、放っておくと家はすぐにごみと、それにたかる虫でいっぱいになった。えみりは週に二度、様子を見に来ては最低限の家事をして帰る。
「しのぶから、連絡はあった?」
と、煙草を吸って咳き込みながら、母親は訊く。しのぶは、えみりの三つ年上の兄であり、まひろの元夫だ。まひろと離婚してから行方不明になった。
「ない」とまひろは言う。
「しのぶも、結婚さえ間違わなければね」と母は言う。ある場合において被害者とは、先にそう名乗ったものがなるのだ。と、えみりは思う。そもそも、まひろへの度重なる暴力と浮気で訴えられかけていたのは兄の方だ。最終的には兄が全財産を持って蒸発したという顛末も含め、すべての責任の所在(元凶という言い方をした)は、まひろにあると母親は考えている。
「あのひとからは?あのひとと連絡とり合ったりしていないの」と、母親は訊く。あのひと、というのは、まひろのことだ。
「していないよ」と、えみりは言う。これは嘘だ。えみりにとって、まひろは唯一、連絡を取っている人間である。生活に於いて。現実に於いて。夢想に於いて。思考に於いて。読書に於いて。いるときも、いないときも。えみりはしばしば、まひろと連絡を取っている。
「もう、あのひとはうちとは関係ないよ。母さん」と、えみりは言う。蝿のたかる三角コーナーから生ごみを片付ける。
「関係ないけど、しのぶの行方とか手がかりとか、知っているかもしれないじゃない。知っていて言わないのよ。あのひとは」
「兄さんはきっとだいじょうぶだよ。どこかで元気にしているよ」
「じゃあ、なんで連絡してこないのよ」と母親は声を荒げる。さあ。なんでだろうね。とえみりは言う。鼓膜の一部を軽自動車の車内に置いてきたので、聴きたくない情報は概ね蝿の羽音と同化している。まひろは、背後から投げつけられる母親の言葉に対し、よく滑る油を塗った相槌を返しながら家事を続ける。シンクに放棄された汚れた食器を全て洗う。収納は母親に任せる。ある程度は動いた方がいい。
「あんた、あのひとと妙に仲がよかったよね。しのぶはそれも気にしてたんじゃないの」
「もう、あのひとの話はやめたら。母さんにとっていいことないよ」
「そうだろうね。いいことはない。あのひとのおかげさまでね。なんであんたは、あんなのと仲がよかったんだろう」
 母親はまた咳き込み、ティッシュの中に痰を吐く。えみりは新聞紙を丸め、シンクの縁に止まった蝿に振り下ろす。大きな音に驚いて、母親が何?と声を上げる。
「蝿。ぶっ殺した」と、えみりは言う。

 母親が背後でまひろの悪口を喋っている間に、えみりは料理をする。母親にテレビの音量を上げてくれるように頼み、なるべく声が届かない環境を作る。

 米を炊き、細かく千切りにした茗荷の味噌汁を作る。
 茄子の皮を剥き、乱切りにする。皮はきんぴらにし、果肉は茹でてからごま油と醤油と山椒で煮びたしにする。
 三日前に来た時に、スパイスとヨーグルトに付け込んでおいたタンドリーチキンをグリルで焼く。
 レタスと玉葱とズッキーニと生ハムをイタリアンドレッシングでマリネにする。
 人参を千切りピーラーで細く切り、オリーブオイルと酢と塩で和えてラペにする。
 卵を三つ茹でて皮を剥き、酒と醤油と鰹節と砂糖を混ぜた漬け汁に浸ける。
 インスタントラーメンや、パウチ入りの米もたくさん備蓄していあるので、えみりに何かあったとしても暫くは生きていけるだろう。

 母親は、まひろの悪口に飽きてしまうと、父との思い出を話しだす。とても立派なひとだった。わたしは彼を愛し、助けることに必死だった。と、時折涙ぐみながら語る。ねえ、わたし、いい妻でいられるようにがんばったの。お父さんは幸せだったと思う?一年以上、えみりが家事をしに通うなかで、二人の会話は定型化した。同じ話題。同じ内容。同じ反応。母親も、自分も、その地点から進む気がないのだ。と、えみりは思う。
「母さん。安心して。父さんは幸せだったと思うよ」とえみりは言う。
「ほんとう?じゃあ、わたし、よくやったの?」と母親は言う。
「うん。きっとね」と、えみりは言う。
「ありがとう。えみり」と母親は涙ぐむ。えみりは、聴いていてなるべく暗くならない話題(若かりし母の趣味だった乗馬の話や、今の趣味である陶芸の話など)に話を誘導しながら、屋内を掃除する。母親は殆どの時間、リビングに座ってテレビを観ているか、クロスワードをしているだけなので、家はそれほど汚れてはいない。トイレと浴室と洗面台を掃除してしまうと、えみりは家の中から集めたごみと、その日自分が母親についた嘘を、すべてごみ袋に入れて口を固く縛る。
「母さん。わたし、午後から仕事があるの。もう行くね。なにか急ぎの用事があったら電話して」と、えみりは言う。
「ねえ。えみり。あんた結婚しないの?もう三十過ぎでしょ」と、母親は言う。
「それ急ぎ?」と、えみりは言う。
「違うけど。まあ、しのぶさえ戻ってきてくれればねえ」
「それじゃあね。母さん。ごはん、あっためて食べて」と、言ってえみりは家を出る。
 家の前のごみ置き場の網のなかに、ごみ袋を放り投げる。袋の口を固く縛ってしまっていたので、えみりは片手に残った先ほどの母親との会話を放る先を探す。渡り鳥たちの黒い影が、青く澄んだ空を飛んでいるのが見えた。えみりはその内の一羽に、手に持った会話をぽんと投げ、再び軽自動車に乗り込む。
 渡り鳥は東へ飛び、えみりを乗せた車は西へ走り出す。

 えみりは、来た時とは別の山を越えて都市部に向かう。カーステレオの音楽をブリジット・フォンテーヌに切り替える。可能な限り、法定速度を守り運転をする。えみりは今の仕事の採用面接の際、履歴書の特技・趣味欄に〈安全運転〉と書き、雇用主から小さな失笑を買ったが、それは全くの本当だった。安全運転が好きだ。

 途中のコンビニエンス・ストアでアイスコーヒーを買う。セルフレジに手間取っていた喪服姿の老婦人に声をかけ、操作の手助けをした。
「お嬢さん、ありがとうね。まったく世の中どんどん、わけが分からなくなるわねえ」と仏花を手にした老人は言う。「これから、お墓参りに行くの。夫の命日でね。私のお葬式もこんな風に簡単に出来るようになるのかしら。もし出来るなら、早くそうしてほしいわ。大げさな葬式なんてまっぴらよ」
「そんなそんな」と、えみりは言う。
 確かに、色んな事が自動化され、簡略化されてきている。と、えみりも思う。老婦人に会釈をして車に戻り、エンジンをかける。
「そんなそんな、なんだ?」
と、えみりはアイスコーヒーを飲みながら運転し、独り言を言う。
 簡略化される言葉。自動化する日々。
「そんなそんな。そんな。そんなそんなそんな日々は」と、えみりは言う。考えているうちに、車は職場に到着し、カーステレオから流れるブリジット・フォンテーヌは歌うのを止める。