午後。えみりは二軒の家を回って家事をこなした。
一件目は脚の悪い独居老人の家。街外れの古い一軒家で、夕食の作り置きと洗濯と掃除をした。
座椅子に座った老人は、タブレットを器用に操り、プロ野球の珍プレー動画を観て大声で笑う。時折、笑いすぎて激しく(内臓を吐くかと思うほど激しく)咳き込み、その度に、えみりは慌てて駆けつけては老人の背中をぽんぽんと叩く。
えみりちゃん、えみりちゃん。見てくれよ。腹痛え。ひーひーと笑いながら老人は言う。えみりはタブレットを覗く。2メートルはあろうかという長身の外国人打者が、頭部を掠めた危険球に怒り、ヘルメットを地面に叩きつける。振り返ってキャッチャーの鳩尾を蹴ってから、全速力で走りピッチャーに襲い掛かる。
「うわ。まずキャッチャーを蹴ってから、ピッチャーに向かうなんて。すごい発想」と、えみりは言う。
「いやあ。プロだぜ。きっと乱闘のために雇われたんだよ、こいつ」と、老人が言う。
若い頃は落語家を目指していたという老人は、独自に開発した「野球高座」というプロ野球を題材にした話芸を、仕事を終えたえみりに披露する。野球史の名珍エピソードを落語調に話す、一本につき五分から十分程の芸だが、ネタは豊富で語りも上手く、えみりは毎回、手を叩いて笑う。
「なあ。えみりちゃん。おれ、真剣に考えてみたんだけどよ。やっぱわかんねえよ。触りたいもんは触りたい。それじゃ駄目なもんかね」杖をつきながら玄関先に立って、老人は言う。えみりが仕事を終えると、彼は必ず玄関先まで見送りに来る。
「駄目ですね。納得できない。わたしは、その触りたい理由を知りたいわけですから」と、えみりは無表情で答える。
「だってよ。生きることと同じなんじゃねえかな。理由なんてわからないけど、生きなくちゃって思いながら生きてきたぜ。身体が弱った今でもそう思ってる。だからさ。それと同じなんだよ。理由はわからないけど、おれはえみりちゃんのおっぱいを触りたい」
「何度も言いますけど〈理由はわからないけど、とにかく〉っていうのは、駄目です。納得のいく説明をしてください」
「そんなこと説明できる奴はいねえよ」
初対面時に突き付けられた、胸を触らせろ、という老人の要求に対して、えみりが提示したこと。
「何故触りたいのか。わたしを納得させられる理由を説明してください。それが出来ないまま勝手に触れたら、あなたを張り倒して私は二度とここに来ません」
今のところ、老人はえみりを納得させることが出来ていないが、こつこつ真剣にその努力を続けている。えみりもえみりで、何故、老人が自分の乳房を触りたいのかについて考えている。そして、二人とも納得のいく答えを出せていない。
「これってセクハラかな」と、老人は笑う。
「セクハラです。せめて自分自身くらいは、何故セクハラをするのかという理由を把握しておいてください」と、えみりは言う。
「すまねえ」と、老人は言う。「考えてみるよ」
二件目は都市部にある、シングルマザーの母娘の家。オートロック式の高級マンションの七階にある。
弁護士の母親は街の法律事務所で働いている。えみりは、多忙な母親に代わって家事をするとともに、娘の安否と動向の確認を頼まれている。私立高校の受験を控えた娘は、半年前から不登校。日中は室内に引き籠って勉強している。と、母親からは引継ぎを受けているが、実際のところ娘は殆どの時間を、ネットゲームとパソコンでの作曲に費やしている。
インターホンを鳴らすと、顔色の悪い娘が、鍵とチェーンロックを外し、えみりを迎える。合鍵は預かっているが、誰かが在宅している場合(特別の事情のない限り)鍵は内側から家主の手によって開けてもらうことになっている。とは言え、娘が自分の手で扉を開けてくれるようになったのは、ごく最近の事だ。それまでは特別な事情があった。娘は特別に人見知りだったのだ。
「ここ、こんにち、は。えみり、ささ、さん」と、娘は言う。緊張のために、吃音が震え、えみりの目を見ることが出来ない。
「こんにちは。お掃除と洗濯。夕食の作り置きをはじめさせていただきますね」と、えみりは言う。家人に開始と終了の報告と挨拶をする義務がある。
「今日は、昼食召し上がりました?」と、えみりは訊く。
「ま、まだです」と娘は言う。
「先に何か召し上がりますか?」
「しし、シーフードヌードル。かな」娘は不器用に笑う。
シンプルなデザインかつ高額そうな家具と電化製品が配置された部屋だが、床には使用済みのバスタオルや、たたんでいない洗濯物や、コンビニのビニール袋が。机の上には、飲みかけのスターバックスのカップや、スパークリングワインや、昨夜食べたであろうカップ焼きそばの空容器だのが放置されている。
えみりはお湯を沸かし、パントリーからシーフードヌードルを取り出して熱湯を注ぎ、娘に差し出す。えみりは一分で机の上を片付け、娘は一分半で蓋を剥がす。
「お腹空いていたんですか。朝食は?」と、えみりは生姜を擦りながら訊く。
「たた、食べてません。食べるの、わ、忘れてました」と、娘は言う。
「生姜どうぞ」と言って、えみりは擦り下ろした生姜を娘に勧める。ありありあありがとう。と、娘は言って、ヌードルの中に生姜を入れる。えみりは、娘の対面に座り、机の上で開いた両手を組んで彼女を見つめる。
「この間の宿題、考えてくれました?」と、えみりは訊く。ふたりの宿題。ナイン・インチ・ネイルズの曲〈スター・ファッカーズ・インク〉の歌詞を訳してみましょう。
「う、うん。え、えみりさん来るから、さささっきまで訳してたの。〈スター・フッカーズ・インク〉」と、娘は言って、スマートフォンから音楽を流し、ヌードルをすすりながら、その歌詞についての意見を述べる。イントロが終わると同時に、うつむいていた目が、えみりを直視する。
「ささ、最初は、星を犯す。株式会社、星を犯す奴ら、だと思ったの。で、でも、全体通して訳してみたら、スターって偶像としてのスターの意味なのかなって思いました。メディアが作り上げた偶像と、それを妄信するものたちへの皮肉。だ、だとすれば、スターとファックしてる奴ら。スターとファックしてる奴らの会社。って訳した方が正確かなって」
「そうね。きっと訳の正確さとしてはそうなんだと思います。でも、星を犯す奴ら。って訳すセンスもすてきですね」
娘は顔を真っ赤にして照れてしまい、ヌードルと、ありがとうという言葉を喉に詰まらせる。母親とは殆ど口をきかないという娘は、自分の趣味の分野に関しては饒舌に語る。インダストリアル・メタル。ネットゲーム。アニメ。作曲。
「でも、えみりさん。ファックってこの場合、どう訳したらいいんだろう。調べたら、『性行為』という意味と共に『物事をダメにする』『破滅させる』みたいな意味も持つって。何故、性行為と堕落や破滅が同音異義なの。性行為自体が堕落や破滅的な行為ってこと?だとしたら、人が産まれてくること自体、堕落であり、破滅的行為なの?」
真剣になればなるほど、娘から吃音が消える。
「ファックの反対語って、なんだと思いますか」とえみりは訊く。
「『性行為』『物事をダメにする』の反対。なんだろう」
「メイクラブっていうんじゃないでしょうか」と、えみりは言う。娘は顔を赤らめる。
「ともあれ、お母様には英語の勉強をされてました。と言えますかね。これで一応」と、えみりは言う。
「ス、スター・ファッカーズ」と、娘は言う。
「ごちそうさま。あり、あああ、あり、ありがとう。えみりさん」
シーフードヌードルを食べてしまうと、娘は勉強をすると言って部屋に戻った。ありがとう。という発語が最も苦手なようだ。だが、懸命に伝えようとする。
えみりはまず、換気のために窓を開けてから、ケトルを火にかける。買ってきた野菜の皮を剥き、ひき肉を炒めた鍋に放り込んで、調味料を適当に入れてから落し蓋をする。米を研いで炊飯器にセットし、お湯が沸いたら耐熱ボトルでジャスミン・ティーを作る。熱湯が琥珀色に染まるまでの間、用意した二枚のゴミ袋のなかに片っ端からごみを放り込む。トイレ・風呂・キッチンの掃除をし、さらに集めたごみを袋の中に放り込む。あちこちに脱ぎ散らかされた服を籠に集め、あとは全自動洗濯機に任せる。散らかった物を部屋の隅に寄せ、床と机に空間を作り、掃除機をかけて雑巾がけをする。最後に、隅にまとめた物を可能な限り整頓・分類して部屋の中に再配置する。時間が余ったので、ささがきごぼうと千切りにした人参の皮をごま油で炒め、きんぴらを作る。
娘の部屋からは時折、リフレインするメロディーが漏れてくる。パソコンで作曲をしているのだろう。リフレインは、目の見えない怪物が、何を求めているのか自分でもわからないまま、巨大な叫び声をあげているように聴こえる。
家事が終わる頃には、部屋の空気がすっかり入れ替わっている。えみりは窓を閉じて、鍵をかける。
家事が完了すると、可能な限り住人の確認をとり、退去の挨拶をしなければならない。えみりは、娘の部屋から漏れるひび割れたリフレインに合わせて扉をノックする。リフが止まり、娘が僅かに部屋の扉を開ける。
「すみません。家事の確認をお願いしてもいいでしょうか」と、えみりは言う。娘は何度もこくこくと頷き、部屋を出て来る。
両目とも視力2・0のえみりの目が、灯りを消した部屋で輝くブルーライトと娘の小さな身体と扉の隙間を一瞬で潜り抜け、PC画面の隅のブラウザのタブを見る。
〈死にたい〉
〈母親 人格障害〉
〈トレント・レズナー〉
〈マリリン・マンソン〉
〈ぼくは人が嫌いだし ぼくも人が嫌いだ〉
〈メイクラブ 意味〉
〈女性向け 無料アダルト〉
〈人と関わらない仕事〉
〈自己肯定感 いらない〉
〈キャッツ ポッサムおじさんの猫とつき合う法〉
えみりがこの家に派遣されてきた当初、娘は対面を避けて、部屋から極力姿を見せなかった。しかし、仕事の開始と終了を告げる際に、必ず部屋に流れている音楽のビートに合わせてノックしてくる家事代行業者の顔に興味が湧き、扉の隙間から恐る恐る顔を覗かせて以来、二人は少しずつ会話を交わすようになった。音楽の話題を媒介にすると、娘は何も憚らずよく喋った。
「え、え、えみりさんは、あ、あたしのせいで、あああああの、あの人に叱られたりしない?」
確認書類にサインをした後、玄関で靴を履くえみりに向かって、娘は振り絞るように言う。
「お母様に叱られる?何故ですか」と、えみりは訊き返す。
「だって、あ、あたしを見張って、べべ、勉強させたりしないといけないんじゃないの」
「違いますね。わたしの仕事は家事代行ですから。確かに、お母様からは頼まれました。家事を手伝わせたり、勉強を促したり、日中のあなたの行動を報告したりしてほしいと。ですが、それはわたしどもが受けられる業務内容から逸脱しますので、お断りさせていただきました」と、えみりは言う。娘の表情が、安心と寂しさの中間で、宙ぶらりんになる。
「めめ、め、迷惑かけて、ごめんなさい」と、娘は言う。
「迷惑なんかじゃありません。わたしの迷惑観にまで踏み込んできてはいけない」と、えみりは言う。
沈黙。娘はうつむく。フローリングの床に向けて涙が落ちる。えみりはすっと手を伸ばし、中空で涙を掌に受ける。娘は驚いて顔をあげる。何かを言おうとする。しかし、余りにも脆く柔らかすぎる彼女の心は、まだ言葉の形に凝固することが出来ない。かろうじて、液体の形をとり、体外に排出されるのみだ。
「あなたの、好きにしていいんですよ」と、えみりは言う。
ぽかんと口を開け、何を言っていいかわからないでいる娘に、えみりは声をかける。
「すきな歌、歌うといいですよ。そこにすべて書いてありますから」
「な、なにが?」と娘は言う。
「すべてですよ。あなたの望む答えのすべて。あなたが選んだ曲のなかに、全部書いてあります。問題は、あなたがそれに忠実であるかどうかなんです」
「え、ええ、えみりさん、にも、そういう曲、あるんですか」
「もちろん」
「ど、どんな曲」
「〈リンダリンダ〉です」
娘はかすかに微笑み、えみりは挨拶をして退去する。扉が閉じる瞬間、娘は微笑んだまま、もう一度小さな声で「スター・ファッカーズ」と囁く。
二件の仕事が終わる頃、街には青白い海月のような宵闇が降り始める。えみりの運転する車は、海月の中を浮遊する、さらに小さな海月のような静けさで、貝がら双子サービスへ戻る。
「ただいま戻りました。今日も色々と片付けてきましたよ」と、えみりは言う。事務所には双子の経営者しかおらず、彼女たちは同時に「おかえりなさい」と、言ってえみりを迎える。
あさかが熱い紅茶を淹れ、いるまが缶に残った二枚のクッキーを小皿に乗せて出してくれた。えみりは、顧客から署名を貰ったサービス内容証明書と、仕事用に支給された携帯電話を双子に渡し、今日の仕事の内容を話す。
いるまに、不登校の娘から精神的なストレスを感じる。と、報告する。
「その娘の話を聞いてから考え始めたんだけど、小さくてもいい。マンションか空き家を借りて、そこでアート活動を中心にしたフリースクールを作りたいの。鬱屈した魚たちの泳ぐ水槽を、ちょっとだけ広く、安心できるものにしてみたいの」と、いるまは言う。
あさかに、野球好きの老人の体調とセクシャル・ハラスメントについて報告する。あさかは真剣な顔をして、えみりに謝る。「ごめんね、えみりちゃん。今ね、このちょっと広すぎる事務所を、リハビリ予防、リハビリ志向のデイサービスに利用できないか考えているところ。欲求不満は別の形で発散しないと、鬱屈するものね。誰だって」
「それでね。あたしたちも、ちょっと相談に乗ってほしいことがあるんだけど」と、いるまが言う。
「公私ともに一つずつあるんだ。今、時間いいかな」と、あさがが言う。えみりは時計を見る。まひろが到着する時間から、帰路の時間を引くと十五分余る。
「五分でしたら」と、えみりは答える。
相談の一つは、正社員になる気はないかという誘いだった。双子はフリースクール、デイ・サービス、カウンセリング・ルーム、古物商など、複数の事業展開を考えており、そのうちの一つの将来的な管理者として、えみりを雇用したいと言う。
「えみりちゃんは、仕事に自分を捧げることをしない。その割に、持てる範囲の仕事に対しては絶対の責任感を持っている。いい意味で保守的だと思う。仕事の内容と時間に対する許容量をよく把握していて、その中で全力を尽くし、はみ出す部分は断ることが出来る。わたしたちは放っておくと、何処までも手を拡げてしまう性格だけど、だからこそ、保守的な人材を中間管理職的な意味合いで配置したいと思っているの」と、あさかは言う。
「すみません。とてもありがたいのですけれど」と、えみりは頭を下げる。
「そうよね。色々あるものね。でも、また誘わせてもらうわ。誘うのは無料だし。無料大好き」と、あさかは言う。
この誘いは何度か受けているが、その度にえみりは頭を下げて断っている。実家の母の見守りのためにフルタイムでは働けないし、貯金と貝がら双子サービスの給与で今のところ金銭面の不自由はない。もう暫くの間は、なるべく何もない生活を続けたい。と、えみりは正直に説明をする。その度にあさかは了承するが、誘うのは無料だからという信念のもと、忘れたころにまた話を持ち掛ける。
「もう一つの相談なんだけど、えみりちゃん、斧いらない?」と、いるまが言う。
「斧。どんな斧ですか」と、えみりは言う。言いながら、どんな斧なら必要だと言うのだ、と思う。
「木こりが使うような斧だね。各種スポーツ漫画では筋トレにも使われているタイプのやつ。引っ越し前の家の清掃の仕事があって。不用品回収のオプションで、いるまが回収してきたの」と、あさかが言う。
「セガサターンとかホットサンドメーカーとかは可能な限り、みんなで分けたんだけど、斧だけ残っちゃって。どうしようって思った時、えみりちゃんが浮かんだのよ」と、いるまが言う。
「何故、わたしが」と、えみりは言う。
「あのね。グーグルマップであなたの住所を上空から見たの。そしたら、周りが見事に荒野じゃない。わたしがホーム・インベージョン・ムービーを作るなら、まず、えみりちゃんの家で撮るよ。なにが言いたいかというと、つまり不審者に対する防犯グッズとしてよ」
えみりは掌を向けて、いるまの話を遮る。
「ありがとう。いるまさん。でも、大丈夫。包丁もたくさんあるし、庭には鉈もある。第一、木こりの使うような斧があったって、わたしじゃ使いこなせないもの」
「無料だよ?」と、あさかが言う。
「いや。あさかさん。金銭的に無料でも、物が増えるというコストは、わたしにとって有料に等しい。ので結構です。それに、大型の不用品の解体に使えるんじゃないですか。斧」
「なるほど」と、あさかが言う。
「訓練が必要だね」と、いるまが言う。
えみりは、まだ少し熱い紅茶を一息に飲み干し、カップの底に残った一匙分の苺ジャムを唇で吸い込む。薄いクッキーを二枚重ねて口に入れ、ごちそうさまでした。と言って立ち上がる。皿とカップを洗い、ついでにシンクをざっと磨いて、双子に退勤の挨拶をする。
「丁度五分だね。今週もお疲れ様。えみりちゃん」と、いるまが言う。
「お急ぎだね。デートかな。あれ、これもセクハラ?」と、あさかが言う。
「また来週。よろしくお願いします」と、えみりは微笑んで答える。
えみりは職場から、とても静かに軽自動車を発進させる。アクセルもブレーキもゆっくりと踏む。振動と加重は少なければ少ないほうがいい。仕事は終わったのだ。ゆりかごの中の赤子が時の流れに気づかないように静かに帰ればいい。
夕暮れから夜への推移と同じスピードで、えみりは家へ向かう。光から闇へ。仕事から私事へ。社会から秘密へ。日没に、継ぎ目のない移動が行われる。そこに境界線は存在しない。そのどちらも、わたしなのだ。と、えみりは思う。
えみりが今日、会話した人々とその内容を一通り思い浮かべた後、車はまた人気のない赤信号で停まる。
「まひろ」と、えみりは呟く。
さらに一時間の音のない移動を経て、車が家にたどり着く頃には、辺りは宵闇と鈴虫の鳴声に包まれており、三日月が剃刀のように笑う。