報道を終えてしまうと、えみりは家の外に出る。夜空には星が瞬き、吹き抜ける風が哭いている。えみりはゆっくりと呼吸し、ゆっくりと鼓動し、ゆっくり荒野を歩き回る。
「世界から取り残された報道を掬い上げ、私の言葉で再度報道したとしても、さらにそこから零れ落ちてゆくものがある」
「言葉の網の隙間から、報じられなかった無数の小さな事件たちが」
「私の及ばない場所で泣いている花の涙が、この手をすりぬけて零れる」
「むしろ、零れ落ちるものこそが実態であり」
「言葉や報道や歴史は、その僅かな抜け殻に過ぎないのではないだろうか」
「形のない世界が隠されている。形ある肉体のなかに」
「恋人の耳の奥と、私の心臓のなかに」
「その二つだけは確かだから」

 えみりは夜空を見上げる。
 一面に広がって流れる天体は、彼女にとって、あまりにも巨大な美しい謎そのものに見える。
 その広さに酔って、えみりは自分が地面に立って夜空を見上げているのか、天体に立って夜空を見下ろしているのか、失認する。
「わたしは巨きな謎に乗っている」と、えみりは呟く。「そして、巨きな謎と共に去ってゆく」

 夜の中で、私が光る。彼女の瞳のなかの蛍が、闇に塗りつぶされた孤独の天体と彼女を照らす。誰にも気づかれないまま。

 幾重にも重なった独語と夜の帳の隙間を歩いた。
 誰一人聴く者のない荒野の中を、好きなだけ喋り、好きなだけ歩いてしまうと、えみりは自分の家に戻る。
 浴室の蛇口を捻って、開いた唇をモチーフに造られた浴槽に湯を落とす。かつてこの平屋で製作に勤しんでいた芸術家たちの一人が造った物らしい。どちらかと言えば食虫植物に似ていると、えみりは思っている。最初は入浴の度に唇の中でゆっくりと溶かされる虫になった気がしたが、次第に慣れた。
 浴槽に湯を溜めている間にシャワーを浴び、煉瓦型のオーガニック石鹸で全身を洗う。洗ってしまうと、温かい唇の中に浸かり、髪の尖端から水滴が落ちる音を聴きながら沈思する。
 生暖かい沈黙のなかに、一日が溶けてゆく。
 沈黙は自分の形によく馴染む。と、彼女は思う。言葉よりもそれは、自分に似ているし、自分もまた沈黙の方に似ている。むしろ日中、わたしの身体で話したり働いたりしているのは、いったい誰なんだろう。独りに戻り、静寂に戻ると、えみりはそのことについてよく考える。
 母親に対し、よそよそしく話しながら家事をする自分。双子や職場のスタッフに対し、笑顔でカレーのレシピについて語り合う自分。仕事先で会う人々に対し、一定の距離を取って接する自分。街中の大勢の中の一人として振る舞う自分。すべてが知らない人間のようだ。そして、その通りなのだろう。と、えみりは思う。この沈黙に比べれば。
 浴室鏡の中に映っている自分をじっと見つめてみる。えみりが鏡で自分の顔を見つめるのは、とても久しぶりのことだ。久しぶり過ぎて、どちらが自分なのかすぐに分からなくなる。
 えみりは鏡の中の女に微笑む。微笑みに対して、三秒遅れて鏡像が笑う。
「それでは、地平線に隔離され、唇の中で独り呟いている貴方は一体誰なのだ」と、鏡像が言う。
 沈黙。
「幾重にも重なった独語と、無数の自分の隙間を歩いている」と、えみりは答える。

 浴室から出て身体を拭き、寝間着に着替えてしまうと、えみりは部屋の隅のベッドに座り、三十分ほど黙って本を読む。まひろが貸してくれたカポーティの短編集は、秋の夜をますます冷たい孤独で満たす。「ぼくにだって言いぶんがある」を読んでしまうと、歯を磨いて部屋の灯りを暗くする。

 一日の仕事がすっかり片付いてしまうと、えみりは書き物机に座る。引き出しから、ノートと筆記用具と心臓の形をした灯りを取り出す。灯りに火を点け、ノートを机の上に開いて書きはじめる。
 一日の記憶と、幾重にも重なった独言の隙間と、無数の自分の影からやって来る言葉を収穫し、紙上へ再配置する。その時、えみりは人の形をした輪転機になる。自分自身に魂を明け渡して筆記する無垢の一粒になる。
 彼女は余りにも書くことに没入しているために、私が飛び廻っていることに気づかない。私は、えみりが一日の間に集めた光景を瞳から持ち出し、光の鱗粉と粘糸にして撒き散らす。鼓動とノートの周りを自由に飛び、暗い部屋の中で彼女を照らす。えみりが書き終わるとともに、彼女の瞳に戻る。
 えみりはノートと筆記用具と心臓の形をした灯りを、また引き出しの中にしまい、独り用のベッドに横になって眼を閉じる。私もえみりの瞳の中で眠る。

 真夜中。すべての蛍が、えみりの瞳のなかで安らかに夢を見ている時間。彼方から地鳴のような音が響いてくる。普段ならこの時間に、虫たちや風や月光の他、荒地の空気を揺らすものはない。えみりの瞳のなかで、敏感な蛍たちが数匹目覚める。表で砂利を踏む音がする。足音はゆっくりと、えみりの家に近づいてきて、さらに数匹の蛍たちが目を覚ます。音をたてないように細心の注意を払って、誰かがドアノブを回し、扉をゆっくりと開ける。
 足音を立てずに入った来た人影が靴を脱ぐ。マーチンのエンジニアブーツ。地面を揺らす巨大なエンジンを搭載した二輪車のギアチェンジのために、丈夫な靴を選んだ。えみりは薄目を開ける。ベッドの下に手を入れ、潜ましてある鉈の柄を握るが、すぐに手を放す。昼間、いるまにホームインベージョンムービーの舞台として選ばれた事と、まひろがいつ訪れてもいいように鍵を掛けずにおいた事。二つの理由から、念のためベッドの下の隙間に、鉈を隠して眠りについたのだった。しかし、もう鉈は必要ない。
 まひろはブーツを脱いでしまうと、何重にも重ね着した防寒着を一枚一枚脱ぎ捨てながらベッドに近づく。黒いフライトジャケット。厚手のセーター。裏起毛のパンツ。あちこちにカイロを貼りつけた肌着とタイツが計四枚。毛糸の靴下。ゆうに二〇〇㎏を超える大型二輪に乗り、夜の冷たい空気を切り裂いて何時間も走って来たまひろの身体は冷え切っている。寒さに歯をがちがちと震わせながら静かに毛布をめくる。強張った体のなかで、眼だけが柔らかく微笑んでいる。えみりの眠るベッドに下着姿で潜り込む。氷のように冷たく凍てついたまひろの肌が、ぬくぬくと温まったえみりの身体にくっつく。えみりはびくんと全身を震わせる。目を閉じたまま抱きしめられるままになり、時間をかけて自分の体温をまひろに半分渡す。
 まひろは寒さと疲れから。えみりは眠気と安心から。多くの言葉を話さない。ふたりは、それしか言葉を知らないように、お互いの名前を何度か囁く。
 まひろはえみりのうなじを隠す髪をかきあげ、そこに彫られた小さなタトゥーにくちづけをする。子犬の瞳と同じくらいの大きさの、太陽をモチーフにしたトライバル。その刻印の存在と在処はふたりしか知らない。
 えみりとまひろの体温が、ひとつの肉体のそれのように溶け合う。震えの止まった身体が柔らかくベッドに沈みこむ。彼女たちにしか解読できない沈黙のなかを、無数の蛍たちが重なり合って、柔らかい闇に溶けてゆく。
「おやすみ」と、えみりが囁く。