Twitterで思わずメモした詩が二つあります。森の中で偶然見つけた美しい蛍を心臓にしまうように、私はそれをメモしました。イイねをタップしたり、リツイートしたりでは足りず、こっそりとメモした私はとても偉いです。
と、言うのは、作者さん自身が削除してしまわれたので、今、その詩は(おそらく)Twitter上にないのです。
#詩のタグもついてませんでしたし、作者さんがそれを詩と名言されていなかったと思いますが、私は詩と思って呑みこみました。
その二つの詩は、ある意味体温よりも生々しく私の肺腑に染みわたり、今でも幻の血管を巡っています。
一篇は水冷さんが書かれた「この世はなんと美しいのだろう」から始まる詩で、もう一篇は鬼塚さんが書かれた、「フクロウが全て悪い」で結ばれる詩でした。
水冷さんの詩は「この世はなんと美しいのだろう」という言葉からはじまり、途中、崩れ落ちる世界を描きながらも、崩落そのものごと賛美する魂がくっきりと世界の真ん中に立ち続けていました。
鬼塚さんの詩は、常に感じていながらも、どうしても明確に捉えることのできなかった得体の知れない気配を実に鮮やかに暴き、何故今の今まで、その生き物の存在に気付かなかったのだろうと私は驚きました。私が突き付けられたのは、死角化されてしまっていた自分の生に他なりませんでした。それは詩的な包丁でした。
どちらも、はじめて読んだ時、自分が捨てられていたコインロッカーの扉を開いたようなきもちになりました。
自分が書きたかったけど、どうしても上手く書けなかった詩が、眼の中に飛び込んできたようでした。
詩を書くものとしての嫉妬などもありませんでした。
ただ、こんな詩があるのなら、私は書く必要ないじゃないか、と思いました。それは私をとても安らかな気持ちにしました。遠いい場所に、その詩を書いたひとがいる。という事実に感謝しました。家族にも、友人にも、わたし自身にも開けられないコインロッカーの鍵を、私は詩を通じて、はじめて受け取ることができたのです。
ほんとうのきもちを言うと、作者さんに直接、感じたことを伝えたかったのですが、うまく伝えられる自信がなく、今でもひとり、たまにメモを開いて読み返すにとどめています。
また、こんな言い方は失礼にあたるかもしれませんが、詩を読んで私の心臓に産まれた新しい蛍は、言葉にして作者さんに放ってしまったら最後、二度と戻らないような気がしていたのです。私は蛍を、大事に閉じ込めておきたかったのだと思います。言葉にすることすら吝嗇していました。しかしながら、やはり蛍は夜に放たれてこそ、生き生きと灯るものでしょう。
そういうわけで、隠し部屋に書置きするようで恐縮ですが、ここで申し上げます。
水冷さん。
鬼塚さん。
詩をありがとうございました。