私は出水えみりの蛍だ。彼女の瞳の中に住んでいる。
夜。えみりは一日の仕事をすっかり終え、身体を綺麗に洗ってしまうと、何も置かれていない机の前に座る。古い無垢材で作られた机には引き出しが二つ付いており、彼女はそのうちの一つから、ノートと筆記用具と心臓の形をした灯りを取り出す。
えみりはノートを開き、その日にあったことや、なかったことを書き出す。時には事実のみを。時には空想のみを。時には挿絵付きで。時には詩の様に。時にはまんがの様にコマを割って。時には表やグラフとして。時にはイラストレーションとして。時には箇条書きで。時には句点を一切打たない一塊の呼吸として。時には暗号として。時には無意識の海から釣り上げた魚の魚拓として。時には脚本の様にト書きで。時にはダイイング・メッセージとして。時には手紙として。時には遺言として。彼女は毎晩、眠る前に書いた。
短ければ二秒。長ければ三十分ほどの時間が、そこにあてられた。書き終わったらすぐに眠れるように、部屋の照明は落としてある。卓上で、心臓の形をした灯りだけが静かに鼓動している。
それは私が、えみりの瞳から飛び出す事のできる唯一の時間でもある。
その時間、えみりはとても集中してノートに向かっており、私の存在に気づかない。だが、薄暗い部屋の中で彼女が書けるように、光を撒いて飛び回っているのは私だ。彼女が書き終わると同時に、瞳の中に戻る。
書き終わってしまうと、ノートと筆記用具と心臓の形をした灯りを、また引き出しの中にしまい、彼女は独り用のベッドに横になって眼を閉じる。私もえみりの瞳の中で眠る。
えみりの部屋にある二つの窓のうち、朝日の方角を向いた窓から、ゆっくりと光が差し込んでくる。漆黒の闇だった部屋の中は、徐々に深海から浮上するように青白く輝いていく。えみりはベッドから体を起こし、眼を擦る。コップ一杯の冷たい水を飲む。扉の内側の郵便受けを開け、新聞を手に椅子に座る。
朝と夕に、えみりは一本だけ紙巻き煙草を吸う。机の引き出しの中から、小瓶に詰まった一週間分の煙草の葉と、巻くためのペーパーを取り出す。向こう側が透けて見える程に薄いヘンプ紙に煙草の葉を乗せ、くるくると綺麗に巻くと、紙の縁を唾液で濡らす。安物のライターで火を点ける。ペパーミントとバニラの混じった白い煙の舞い上がるこの瞬間に、えみりが思うことはいつも同じ。人差し指の先から、ほんのちょっぴりでいいので炎が出ればいいのに。私が彼女の瞳から自由に飛び出せるなら、いつでも彼女の煙草に火を点けてやっただろう。だが、それはできない。
青白い海の底に溶ける白い幻のように、えみりの吐いた煙が部屋の中で踊る。吐き出されたえみりが、ゆっくりとこの世界に溶けていく。
えみりは口の端に煙草をくわえながら、新聞を読む。何故いいニュースを一面に掲載しないのだろう。と彼女は思う。一面の右上から、すべての記事に目を滑らせる。白く燃え尽きた煙草の灰が、自重を支えきれず、二分おきに床に落ちる。火が唇に燃え移りそうなほど煙草が短くなる頃、彼女は新聞を読むのを終える。いつも、最後に死亡記事を読む。戦死者。自殺者。殺人被害者。が掲載されている。多すぎる。とえみりは毎朝思う。いくらなんでも、多すぎる。最後の煙を吐きながら、いつものように二つのことを考える。ひとつは、こんなものはすべて嘘っぱちで、惨劇が大好きな何処かのばかが勝手に言いふらしてるデマであり、自分はその流布に加担したくないので悲しいニュースは信じない。ということ。もうひとつは、そのような自分の考えについて反省し、誰かに対して謝ること。
新聞をたたみ、机の上に投げる。洗面台の蛇口を捻り、水で煙草の火を消し、濡れた葉をごみ箱に捨てる。顔に貼りついた世界情勢と白い煙を、一度洗い流す。だが、世界情勢は彼女の中へ、白い煙は部屋の空気に溶けてしまい、もう切り離すことは出来ない。
えみりは部屋と言うものを、ポケットや鞄のように考えている。そこにあるものは、少なければ少なければよい。
「えみりみたいなひとを、ミニマリストっていうのよ」と義姉のまひろに言われたことがある。
「多分違うし、そんな言葉も、この部屋に持ち込まないで欲しい。部屋が狭くなる」とえみりは言った。
「ひとがものを多く持つ理由は理解できる。それはわかりやすい。所有に対する、蒐集に対する欲求。捨てることへの恐怖と逡巡。増殖し、保存しようとする本能。多く持つことを富とする認識の一種。気づけば処理できない程に増えてしまった事への諦観。でも、えみり」
まひろは、えみりと業者以外でこの部屋に入った唯一の人間だ。一カ月に二度ほど訪れる。普段、この部屋は一匹の魚のための何もない水槽であり、まひろが訪れる時だけ魚の数が二匹に増える。机はえみりが何かを書く時にだけ使うので、客用のコーヒーテーブルとしては使わない。二人分のコーヒーカップと、まひろが買ってきた茶菓子を乗せた皿が一枚、やっと乗せられる程の小さな折りたたみ式の丸い座卓を挟み、床に座って二人は話す。
「ものを持ちすぎる理由に対して、ものを持たないという理由は、とても複雑だと思うの」とまひろは言った。
「そうかな。持たないという理由こそシンプルだと思うけど」とえみりは言った。
「違う。エスキモーや遊牧民であれば、それはシンプルに理解できる。生活様式及び環境と調和しているから。けれど、二十一世紀の日本でそのようにあることは、私から見たら却って複雑に見える」とまひろは言った。見知らぬ生活様式を観察するように、瞳の奥の私を見つめる。
「わたしはただ、ポケットや鞄に、必要のないものを入れて歩きたくないだけ」とえみりは答えた。
えみりは古い電熱器を使って、薬缶に湯を沸かす。湯を沸かしている間、床に座り、壁にもたれかかってカバーのかかっていない文庫本を読む。ウィリアム・ブレイクの詩集。一字一句間違わずに暗記してしまった詩集だが、文字を眼に映すことと、声に出して口ずさみ耳で嗜むことと、本のない場所で詩の意味について考えることは、それぞれ全く違う。と、えみりは思う。だが、その何れもが食べるという行為に似ている。
眼で文字を追うことは、絵画や映画を観ることに似ている。彼女の目が、詩の表面を舐める。時には香りを嗅ぐ。
次に、本のない場所でひとり、詩を口ずさむのは音楽に似ている。彼女は自分なりの旋律を付けて朗読する。震える空気と、耳がそれを齧る。
暗記した詩を頭の中で諳んじながら意味を考えることは、獣が骨を齧り、舐めしゃぶり、最後には骨そのものまで喰いつくしてしまう姿に似ている。えみりは隅々まで味わう。
時折、えみりが獣になって詩を食べている傍に立ち、見つめている人影がいる。食べ方について口を出そうとしている。それに気づくたびに、えみりは彼を消す。食べる邪魔をするな。
薬缶の中の水が音をたてて沸騰をはじめ、えみりは詩集を閉じる。
「すべては、別々の方法でお互いを食べているのだ」
と、彼女は独りで呟く。独りでいること好い点は、独り言を誰にも聞かれないことだ。と、彼女は思う。もう一度、独り言を言う。
「私の部屋は、誰も開かない一冊の本の様だ」
彼女は首を横に振る。この独り言が正確でないことは彼女自身が知っている。まひろがいる。まひろは、この部屋を開き、えみりを開き、また読もうとする。
一人用のコーヒーサーバーに布のドリッパーをセットし、豆を入れる。注ぎ口の細いケトルを傾け、可能な限り細く緩やかに、円を描きながらお湯を注ぎつつ、えみりは言い直す。
「私は、まるで鍵のついた一冊の本の様だ」
コーヒーの香りが部屋に舞いあがる。
「この何もなさのなかで」と、えみりは呟いて、淹れたてのコーヒーを飲む。
「この誰もいなさの前で」
「証人のない生活のなかで」
「わたしは、わたしでなくてもよいのだ」
えみりは自分のことばを噛む。部屋の中は夜明けの青白い光で満たされた水槽になる。
「わたしでいなければならない理由など、何ひとつない」
呟いてしまうと、満足してゆっくりとコーヒーをすする。
えみり。それは必ずしも正しくない。確かに何もないし、誰もいない。しかし、きみの瞳のなかには一匹の蛍が住んでおり、すべてを知っている。独りではない。もちろん、私のそういう声はえみりには届かない。彼女はコーヒーを飲みながら考える。今度は声には出さない。
わたしでなくともいいわたしが、なぜこんなにもわたしなのだ。と、えみりは心の中で呟く。
カップの中からコーヒーが減り、時が過ぎる。
玄関の扉を開けた瞬間、部屋の中に満ちていた青白い朝が、いっせいに外に零れる。もともとは、えみりの部屋の形に収まっていた蒼白のゼリーが、彼女の呟きや煙草の煙と共に、夜明けの世界へ流入してゆく。わたしという小さな水が、無限に近い海に零れてしまったみたいだ。と、えみりは思う。この瞬間ばかりは、私もえみりの瞳から零れて、朝の風に溶けてしまいそうになる。
町は静かで、まるで死んでいるかのようだ。九月の夜明けの風は、まさしく死者の頬のように冷たい。さらに、その死は広い。国の。県の。町の。一番外れにある土地を選んで、えみりは一年前に東京から引っ越してきた。周囲には見捨てられた畑が拡がり、地平線の彼方に整列したミニチュアのように小さな隣町が並んでいる。町までの道のりの間には、滅びたガソリンスタンドがあり、倒産した商店があり、廻らない風車があり、空っぽのガスタンクがあり、誰も通わない学校があり、幽霊しか集わない廃屋がある。それらを通り抜けて、牛乳配達がやって来る。三輪の配達バイクに乗って、化粧をしていない若い女が、冷たい風を浴びて鼻を赤くして牛乳を配達に来る。年齢を訊くと、十九歳だと言っていた。えみりよりも十二歳年下だ。
「おはよう」と、えみりは微笑む。牛乳配達の少女は深々とお辞儀をして、えみりの身体にまだ沈殿している夜を吹き飛ばすような、よく通る声で「おはようございます」と挨拶を返す。混じり気のない笑顔をしている。えみりのための牛乳瓶を、配達用の箱から取り出し、両手でうやうやしく差し出す。訓練された兵士のように動きが素早く、声が大きい。彼女を最初観た時は驚き、だんだん面白くなり、今では愛おしく感じる。
「ありがとう」と言って、えみりはそれを両手で受け取る。
「こちらこそ。いつもありがとうございます」と言って、少女はもう一度、お辞儀をしてからバイクに跨り、道を戻り隣町へ帰ってゆく。彼女を見ると、死んだ世界から少しだけ命が芽吹く。ただ、その表面の風は依然として冷たい。
牛乳配達の女が去ってしまうと、えみりは牛乳の蓋を開け、飲みながら朝日の訪れを見る。青白い世界に色が付きはじめる。夜が消えて、朝がやって来る。死者たちの頬に紅が差し、別人となって蘇る。
尖った柔らかい朝日が身体を刺す瞬間、えみりは自分の身体が千匹の黒い小鳥になって明るくなり始めた空一面に飛散してしまうような錯覚を覚える。そのようにして、えみりは、これまでに三十六万五千匹以上の黒い小鳥となって世界に散ってゆき、またそれを見送ってきた。
蘇る世界のなかへ、無数の鳥たちが羽ばたいてゆく。世界中に。
えみりの住む平屋は、もともとは都会から移住してきた芸術家たちのシェア・アトリエだった。その中で、芸術観の対立だか、住人間の恋愛感情のこじれだかが原因で、詳しくは分からないが一人が死んだ。人の命を失わせるほどの芸術観や恋愛感情も、不吉な死のあった家屋の価格が下がるという仕組みも彼女には理解できないのだが、そのおかげで平屋の価値は下がり、えみりは東京で貯めた貯金を頭金にして、その平屋を購入することが出来た。
立地といい、造りといい、価格といい、これ以上の物件は考えられなかった。彼女は東京で働きながら貯めた金を頭金にして、そのアトリエを購入した。
えみりの希望していた住居の条件は以下の五点。
・年老いた母の住む実家から十キロ以内の場所にあること。
・平屋であること。
・庭付きであること。
・隣家まで最低でも300メートル離れていること。
・築年数十年以上の中古物件であること。
アトリエは、この条件を全て満たしていた。細かな希望条件は他にもあったが、それはえみり自身の手によって実現された。例えば、屋内に扉は少なければ少ないほどよい。彼女はリビングとキッチンを隔てる四枚の引き戸と、必要以上に大きな押入れの扉を外し、細かく破壊して庭で燃やした。例えば、屋内は無地であれば無地であるほどによい。彼女は壁紙を全て剥がし、ペンキとローラーでこれを白い象牙色に塗った。
今のところ、幽霊の類は現れていない。
あるいは、平屋はすでに幽霊によって満たされており、わたしだけがそれに気づいていないのかもしれない。とえみりは思う。
えみりの居室にあるもの。
・簡素なベッド。毛布と掛布団が一枚ずつ。不愛想な枕。
・書き物机。普段はここで食事をとる。引き出しの中には筆記用具。ノート。ライター。ペーパーナイフ。カッターナイフ。煙草の葉が入った小瓶と、ヘンプの巻紙。心臓の形をした灯り。
・折り畳み式の座卓。まひろが訪れた時だけ二人で使う。
・衣類。全て無地。普段着。部屋着。礼服。正装。すべて合わせても、小さな衣装ケースに収まる。洗濯は浴室で行う。
・受話器とプッシュボタンが一体型の電話。床に置いてある。えみりはスマートフォンを持たない。
・財布。
・鞄。濃い茶色の革製。鍵束と財布と本が入っている。
・貴重品の入ったファイル(登記簿。父の遺言書。戸籍謄本、通帳、印鑑など)
・小さなラジオ。SDカードを入れれば、MP3音楽プレーヤーとしても使える。
・まひろから借りた本。現在借りている本は「夜の樹(カポーティ)」「日の名残り(カズオ・イシグロ)」「ロンメル進軍(ブローディガン)」
・えみりと彼女の蛍。
牛乳瓶を洗ってしまうと、えみりは冷蔵庫から卵を二つ出してボウルに割り入れ、泡だて器で執念深く混ぜる。黄身と白身の境界が全くなくなるまで混ぜた後、少量の牛乳と塩と白胡椒で味付けをする。熱したフライパンにバターを引き、オムレツを作る。その間に、魚焼きグリルでパンを一枚焼く。小麦が焼けるいい匂いが辺りに漂う。オムレツは半月を溶かして型に嵌め、よりふんわりさせたかの様に美しく仕上がる。バターを塗ったパンとオムレツをアカシアのワンプレートに乗せ、野菜を添える。真っ赤なミニトマトと、手でぽきぽきと砕いた胡瓜。窓から差し込む光を見ながら、えみりは朝食を食べる。
電話のベルが鳴る。食べかけのパンを皿に置いて、えみりは立ち上がり、電話に出る。
「おはよう。えみり」とまひろが言う。
「おはよう。まひろ」とえみりが答える。
「ごめんね。何か食べてた?」とまひろが謝る。えみりは改めて口の中のものを嚥下して、こちらこそ。と謝る。
「朝ごはん、食べていたのね。何を食べていたの?」とまひろが言う。
「いつもの。パンとオムレツと野菜」
「あのすばらしいオムレツ。えみり。あなたのオムレツは素晴らしい。他のどんな惑星よりも美しい。私はあんな美しく欠けた月を、他に見たことがない。今すぐにでも、それを食べたい」
えみりは笑う。
「あのね。今日、午後の五時くらいに会いにいってもいい?」と、まひろは訊く。いいよ。と、えみりは答える。
「なにか、欲しいものある?」と、まひろは訊く。
「なにも」と、えみりは答える。
「そうだよね。じゃあ、あたしが決める」と、まひろは言う。
「待ってる」と、えみりは答える。
受話器を置くと、窓から差し込んできた光が部屋の青白さを呑みこんでしまっていることに気づく。朝がやって来たのだ。
鳥たちが表で鳴き、えみりの瞳は、まひろが褒めてくれたオムレツのように美しく輝く。褒められたことが嬉しかったからだ。
朝食を食べ終えてしまうと、身支度を整えて、えみりは軽自動車に乗る。サングラスを掛けて、ゆっくりと車を走らせる。過疎化が進み、人の数が減り続ける地方だが、さびしい風景ほど太陽の光が強く輝いて見えるのは何故なのだろうと、えみりは思う。カーステレオで、ヴァシュティ・バニアンの「ジャスト・アナザー・ダイアモンド・デイ」を流す。さびしい風景が、さびしい音楽によって癒され、そのどちらもが美しく輝く。人通りの少ない県道を走り、曲がりくねった山道を通り抜けて、十八曲を聴き終わる頃、車は彼女の生家で停まる。屋敷といっていいほど大きな家に、えみりの母親は独りで暮らしている。
玄関の鍵は開いている。母親は、居間で煙草を吸いながらテレビを観ている。硝子製の大きな灰皿は吸殻でいっぱいだ。
「おはよう。母さん」とえみりは言う。
「ああ。おはよう」と母親は、えみりの方を見ないで言う。「あんた。昨日も来なかった?」
「来たのは三日前だよ。母さん」えみりは途中のスーパーマーケットで購入した日用品や野菜を買い物袋から取り出しながら言う。
「そう。だったらいいんだけど。あんたはあんたの暮らしがあるわけなんだから、そんなに頻繁に見に来なくてもいいのよ」
「うん。まあ、お父さんにも言われてるし。煩わしいかもしれないけど、たまには様子見に来させてよ」とえみりは言う。母親は死んだ父の名前を呼び、涙ぐむ。えみりは母親の肩をぽんぽんと叩いて慰め、エプロンを付ける。
台所に立ち、米を研いだり、野菜を切ったり、冷蔵庫の中の食品の賞味期限を確認したりする。
父親は去年、がんで死んだ。病巣の発見から死までは速やかで、すべてが終わってしまった今でも、母の心は、父の死に対する準備を整えられずにいる段階で止まってしまったままだ。えみり、お母さんのことを頼む。というのが小さな町で町会議員を務めていた父親の遺言だった。その折、丁度えみりも東京を離れ地方に住居を探そうとしていたところであり、偶然にも住みたくなるような傷ついた平屋を見つけ彼女は、生家から山を挟んで二つ隣の田舎町に引っ越してきたのだった。
父が亡くなった後、母はその死を嘆くだけの無気力な生活を送り、放っておくと家はすぐにごみと、それにたかる虫でいっぱいになった。えみりは週に二度、様子を見に来ては最低限の家事をして帰る。
「しのぶから、連絡はあった?」
と、煙草を吸って咳き込みながら、母親は訊く。しのぶは、えみりの三つ年上の兄であり、まひろの元夫だ。まひろと離婚してから行方不明になった。
「ない」とまひろは言う。
「しのぶから、連絡はあった?」
と、煙草を吸って咳き込みながら、母親は訊く。しのぶは、えみりの三つ年上の兄であり、まひろの元夫だ。まひろと離婚してから行方不明になった。
「ない」と、えみりは言う。これは本当だ。行方をくらまして一年一カ月。兄からの連絡はない。
「しのぶも、結婚さえ間違わなければね」と母は言う。ある場合において被害者とは、先にそう名乗ったものがなるのだ。と、えみりは思う。そもそも、まひろへの度重なる暴力と浮気で訴えられかけていたのは兄の方だ。最終的には兄が全財産を持って蒸発したという顛末も含め、すべての責任の所在(元凶という言い方をした)は、まひろにあると母親は考えている。
「あのひとからは?あのひとと連絡とり合ったりしていないの」と、母親は訊く。あのひと、というのは、まひろのことだ。
「していないよ」と、えみりは言う。これは嘘だ。えみりにとって、まひろは唯一、連絡を取っている人間である。生活に於いて。現実に於いて。夢想に於いて。思考に於いて。読書に於いて。いるときも、いないときも。えみりはしばしば、まひろと連絡を取っている。
「もう、あのひとはうちとは関係ないよ。母さん」と、えみりは言う。蝿のたかる三角コーナーから生ごみを片付ける。
「関係ないけど、しのぶの行方とか手がかりとか、知っているかもしれないじゃない。知っていて言わないのよ。あのひとは」
「兄さんはきっとだいじょうぶだよ。どこかで元気にしているよ」
「じゃあ、なんで連絡してこないのよ」と母親は声を荒げる。さあ。なんでだろうね。とえみりは言う。鼓膜の一部を軽自動車の車内に置いてきたので、聴きたくない情報は概ね蝿の羽音と同化している。まひろは、背後から投げつけられる母親の言葉に対し、よく滑る油を塗った相槌を返しながら家事を続ける。シンクに放棄された汚れた食器を全て洗う。収納は母親に任せる。ある程度は動いた方がいい。
「あんた、あのひとと妙に仲がよかったよね。しのぶはそれも気にしてたんじゃないの」
「もう、あのひとの話はやめたら。母さんにとっていいことないよ」
「そうだろうね。いいことはない。あのひとのおかげさまでね。なんであんたは、あんなのと仲がよかったんだろう」
母親はまた咳き込み、ティッシュの中に痰を吐く。えみりは新聞紙を丸め、シンクの縁に止まった蝿に振り下ろす。大きな音に驚いて、母親が何?と声を上げる。
「蝿。ぶっ殺した」と、えみりは言う。
母親が背後でまひろの悪口を喋っている間に、えみりは料理をする。母親にテレビの音量を上げてくれるように頼み、なるべく声が届かない環境を作る。
米を炊き、細かく千切りにした茗荷の味噌汁を作る。
茄子の皮を剥き、乱切りにする。皮はきんぴらにし、果肉は茹でてからごま油と醤油と山椒で煮びたしにする。
三日前に来た時に、スパイスとヨーグルトに付け込んでおいたタンドリーチキンをグリルで焼く。
レタスと玉葱とズッキーニと生ハムをイタリアンドレッシングでマリネにする。
人参を千切りピーラーで細く切り、オリーブオイルと酢と塩で和えてラペにする。
卵を三つ茹でて皮を剥き、酒と醤油と鰹節と砂糖を混ぜた漬け汁に浸ける。
インスタントラーメンや、パウチ入りの米もたくさん備蓄していあるので、えみりに何かあったとしても暫くは生きていけるだろう。
母親は、まひろの悪口に飽きてしまうと、父との思い出を話しだす。とても立派なひとだった。わたしは彼を愛し、助けることに必死だった。と、時折涙ぐみながら語る。ねえ、わたし、いい妻でいられるようにがんばったの。お父さんは幸せだったと思う?一年以上、えみりが家事をしに通うなかで、二人の会話は定型化した。同じ話題。同じ内容。同じ反応。母親も、自分も、その地点から進む気がないのだ。と、えみりは思う。
「母さん。安心して。父さんは幸せだったと思うよ」とえみりは言う。
「ほんとう?じゃあ、わたし、よくやったの?」と母親は言う。
「うん。きっとね」と、えみりは言う。
「ありがとう。えみり」と母親は涙ぐむ。えみりは、聴いていてなるべく暗くならない話題(若かりし母の趣味だった乗馬の話や、今の趣味である陶芸の話など)に話を誘導しながら、屋内を掃除する。母親は殆どの時間、リビングに座ってテレビを観ているか、クロスワードをしているだけなので、家はそれほど汚れてはいない。トイレと浴室と洗面台を掃除してしまうと、えみりは家の中から集めたごみと、その日自分が母親についた嘘を、すべてごみ袋に入れて口を固く縛る。
「母さん。わたし、午後から仕事があるの。もう行くね。なにか急ぎの用事があったら電話して」と、えみりは言う。
「ねえ。えみり。あんた結婚しないの?もう三十過ぎでしょ」と、母親は言う。
「それ急ぎ?」と、えみりは言う。
「違うけど。まあ、しのぶさえ戻ってきてくれればねえ」
「それじゃあね。母さん。ごはん、あっためて食べて」と、言ってえみりは家を出る。
家の前のごみ置き場の網のなかに、ごみ袋を放り投げる。袋の口を固く縛ってしまっていたので、えみりは片手に残った先ほどの母親との会話を放る先を探す。渡り鳥たちの黒い影が、青く澄んだ空を飛んでいるのが見えた。えみりはその内の一羽に、手に持った会話をぽんと投げ、再び軽自動車に乗り込む。
渡り鳥は東へ飛び、えみりを乗せた車は西へ走り出す。
えみりは、来た時とは別の山を越えて都市部に向かう。カーステレオの音楽をブリジット・フォンテーヌに切り替える。可能な限り、法定速度を守り運転をする。えみりは今の仕事の採用面接の際、履歴書の特技・趣味欄に〈安全運転〉と書き、雇用主から小さな失笑を買ったが、それは全くの本当だった。安全運転が好きだ。
途中のコンビニエンス・ストアでアイスコーヒーを買う。セルフレジに手間取っていた喪服姿の老婦人に声をかけ、操作の手助けをした。
「お嬢さん、ありがとうね。まったく世の中どんどん、わけが分からなくなるわねえ」と仏花を手にした老人は言う。「これから、お墓参りに行くの。夫の命日でね。私のお葬式もこんな風に簡単に出来るようになるのかしら。もし出来るなら、早くそうしてほしいわ。大げさな葬式なんてまっぴらよ」
「そんなそんな」と、えみりは言う。
確かに、色んな事が自動化され、簡略化されてきている。と、えみりも思う。老婦人に会釈をして車に戻り、エンジンをかける。
「そんなそんな、なんだ?」
と、えみりはアイスコーヒーを飲みながら運転し、独り言を言う。
簡略化される言葉。自動化する日々。
「そんなそんな。そんな。そんなそんなそんな日々は」と、えみりは言う。考えているうちに、車は職場に到着し、カーステレオから流れるブリジット・フォンテーヌは歌うのを止める。
都市部の外れにある、その広い敷地はかつて保育園だったそうだ。経営不振と人材不足によって閉鎖した保育園の建物と敷地を双子が買い取り、改装して福祉事業の事務所にしている。敷地の入口の看板には「貝がら双子サービス」と書かれている。
姉が貝掛あさか。妹が貝掛いるま。二人は一卵性の双子だ。しかも六月六日生の双子座。えみりよりもちょうど十歳年上で、あさかが訪問介護事業を。いるまが家事代行事業を管理して経営している。えみりは、その両方に非常勤として所属し、平日の午後に働いている。
「おはようございます」と、事務所の扉を開けて、えみりは挨拶をする。事務机の二つの椅子がくるりと回り、同じ顔をした双子がえみりの方を向く。
「えみりちゃん。おはよう。元気?」と、あさかが言う。
「クッキー食べる?」と、いるまが言う。
いただきます。と言って、えみりは差し出されたクッキーを摘まむ。
「ねえねえ。えみりちゃん。どっちが、あさかでしょうか?」と、いるまが言う。
「どっちが、いるまでしょうか?」と、あさかが言う。
「元気です。あさかさん。クッキー美味しいですね。いるまさん」と、えみりは答え、名前と一緒に二人の肩をぽんと叩く。あたりー、と言って双子が拍手する。周囲の同僚からも感嘆の声が上がる。親切な同僚が、えみりに紅茶を淹れてくれる。
「絶対に間違わないのよね」と、あさかが言う。
「えみりちゃんだけよね」と、いるまが言う。
自分たちですら、時々間違えるのに。と、双子は言う。
午後の仕事開始まで三十分ほどの時間があり、えみりは同僚の女性の世間話を聴きながらクッキーを齧り、紅茶を飲んだ。
昨夜、晩御飯にスパイスからカレーを作ったのだと同僚が話し、転じて究極のカレーとはどんなカレーであるか。という考察に話は向かい、えみりたちが議論していると、双子を含め、その場にいた全員が一人、また一人と話に参加しだして、各々の意見とレシピを主張した挙句、謎が謎を呼んでついに答えは見つからなかった。
どの正解も定かではない世界の中で、どれかひとつを選んだ結果に生きている。と、えみりは思う。
どれかひとつ。我が人生。
一年前。仕事を辞めて東京から越してきたばかりの時期。時折母親の様子を見に生家を訪れる時以外、えみりは軽自動車を乗り回し、ただ見慣れない地方都市を彷徨っていた。何も考えたくない時期だったし、実際に何も考えていなかったのだと思う。行動は目的を知らず、思考は言葉に固まらず、生活は意思を持たなかった。
荒涼とした地方の景色は、えみりの心を静かに慰めた。滅びた文明の跡を吹き抜ける風のように、町から町へ、彼女は車を走らせた。
真夜中、ノートに何かを書くことで、かろうじて自分の意識と触れ合うことができたが、それ以外の時間を、えみりは専ら目的のない緩やかな移動に費やした。
『鳥は飛ぶことによって。魚は泳ぐことによって。自らが淀むことを防いでいる。』
えみりは、その頃のノートにそう書いている。
『淀みが、私に流れよと言う』とも。
双子と出会ったのは、そんな時期だ。
ただぼんやりと法定速度を守る一種の自動運転システムと化していたえみりの意識が「貝がら双子サービス」と書かれた看板の傍を通過した一瞬はっと醒めたのは、そこがいったい何のサービスを提供するのだろう、という疑問が彼女の無意識を横切ったからだ。何故、貝がらとサービスの間に双子が挟まれているのだろう。貝がらと双子とサービスはどのように関係しているのだろう。疑問に誘われるように、軽自動車は次の交差点で左折した。左回りに大きく迂回した後、車は「貝がら双子サービス」のある広い道に戻り、その路肩に停まった。えみりは車から降りると、看板の傍の掲示板に貼られた求人票を読んだ。
〈清掃員・ヘルパー募集!〉と、求人票には書いてあった。〈家事代行業、訪問介護のスタッフを募集中。無資格の方、歓迎。資格支援制度あり。交通費支給。〉
もともとは保育園だった事務所から、あさかが出てきて、えみりに会釈した。次に、いるまが出てきて、えみりに会釈した。なるほど、双子だ。と、えみりは思った。同じ顔をしている。双子は、えみりの傍に早足で歩いてきて、明るい声で挨拶をした。
「こんにちは」とあさかが言った。
「ご興味がおありで?」といるまが言った。
えみりはやや口ごもってから、頷いた。
「面接します?」と、いるまが言った。
「面接しません?」と、あさかが言った。
「面接します」と、えみりは答えた。
「貝掛あさかです」と、あさかは言った。
「貝掛いるまです」と、いるまは言った。
「双子です」と、二人は同時に言った。まだ保育園の痕跡をところどころに残す事務所で、面接は行われた。明るい壁紙には、セロテープを剥がした時についたであろう傷と、画鋲で開けた穴の跡があちこちに見られた。かつてはそこには、子供たちの写真が貼られていたのだろう。
「出水えみりです。お紅茶いただきます」と、えみりはお辞儀をして、二人がてきぱきと淹れてくれた温かい紅茶を一口飲んだ。ティーパックで淹れたセイロンティーの底に、ひとさじ分の苺ジャムが沈んでいた。
「うちの求人票が気になりました?」と、あさかは言った。
「どのへんが気になりました?」と、いるまは言った。
「ええと。どんなサービス内容なんだろうって思って。ごめんなさい、求人票というよりも『貝がら双子サービス』という会社名の方が気になってしまったんです」と、えみりは正直に言った。
そうよねえ。と双子は頷いた。
「ちょっとノリで決めすぎてしまったのよ」と、あさかが言った。
「もう少し、事業内容を察しやすい名前がよかったんだろうね」と、いるまが言った。反省の言葉とは裏腹に、終わったことは仕方ないという語調だった。
「わたしたちの仕事は、今のところ、家事代行と訪問介護です。でも、将来的にやってみたいことは他にもたくさんあるの。だから敢えて、具体的なサービス内容を看板に含めず見切り発車してしまったの。この敷地を買い取ったのが先月。営業を開始したのが今月」と、いるまが言った。
「わたしたちの名字が貝掛なんだけど、貝がらの方が語呂がいいんじゃない?って話になって。双子は見ての通り。そしてサービスを提供する。そのサービスっていうのは、そうだな、色々なものを綺麗にしたり、片付けたりするサービスかな。出水さんは、そういうの好き?つまり、物事を片付けること」と、あさかが言った。
えみりは少し考えてから答えた。
「好きかどうかは考えたことはありませんが、散らかっていたら片付けたいと思います。なんであれ」
「そうかあ」と、あさかは言った。
「そうよねえ」と、いるまは言った。
面接の中で、えみりは少しの身の上話をした。高校を卒業すると同時に故郷を出て、東京の広告会社で八年ほど働いていたが、いくつかの事情が重なって退職し、近くの町に引っ越してきた。今は無職で、失業保険を受け取りながら、なんとなく日々を過ごしている。日中は専ら、目的のない移動と、傷んだ住居のリフォームに費やしている。
「見知らぬ土地での、目的のないドライブ。威力偵察の一種みたいね」と、いるまが言った。
「リフォームって。どういうことするの?」と、あさかが言った。
「威力偵察。うまいこと仰いますね。まさに、その通りだと思います。今のところ、敵戦力不明。リフォームは普通ですよ。壁を塗ったり、傷を埋めたり、水道管の錆びを取ったり。まあ、ゆっくりと」
双子は、なるほどなるほどといった具合に何度も頷いた。そして、お互いの顔を見てもう一度頷き、よかったらうちで働いてみないか。と、えみりを誘った。
「見切り発車の割に仕事の依頼は少なくないし、やるべきことは無尽蔵にあるの」と、あさかは言った。
「高齢化社会だし、世の中どこもかしこも散らかってるのよ」と、いるまは言った。えみりは額に親指を当てて、少しの間考えた。
「あの。こちらから条件を提示する失礼をお許しください。二つほど希望条件があるんですけど」と、えみりは言った。
「失礼なんかじゃないですよ」と、あさかは言った。
「当然の権利ですよ」と、いるまは言った。
そこで、えみりは以下の条件を羅列した。
・当面、非常勤としての雇用を希望する。平日の午後に勤務したい。
・PC、スマートフォンを持たない生活をしているし、これからも持つつもりはない。仮に仕事で必要になったとしても。業務連絡は固定電話のみで行いたい。
・一か月間から三カ月間の試用期間を設けてほしい。この間、賃金は低めに設定してくれてかまわない。
双子は、顔を見合わせてから「いいよね」とお互いに確認を取った。そして、えみりの方を向き直り「うん。いいよ」と言った。
「なんだ、よかった。深刻な顔して言うから何かと思っちゃった」と、あさかは言った。
「人殺したことありますけど、いいですか?って言うかと思っちゃった」と、いるまは言った。えみりは目を見開き、黙ったまま双子を見つめた。鋭い三日月のように唇を歪ませて不気味に笑ってみせた。
「なになに、こわい」と、あさかは言った。
「ないですよね。人殺したこと」と、いるまは言った。
えみりは、すぅっと柔かな笑顔に戻り「ないですよう」と、言った。やーだーと双子が笑い、えみりの肩を叩いた。
「ロシアンティー、とてもおいしいですね」と、えみりは微笑んだ。
(えみりから、まひろに送付された手紙。消印は、えみりが移住してから間もなくの頃)
前略 まひろへ
まひろ。ずいぶん遠く離れてしまった。貴方と。
しかも私は、貴方にも伝えていた計画通り、パソコンやらインターネットやらから、自分を切り離した。それだけじゃない。あの夜、あなたに話したように、私は今まで私にくっついていた色んなものを切り離したかった。そして実行に移した。
切り離されてしまうと、何故今まで繋がっていたのかも、すぐに分からなくなった。
これはある種の濾過だ。本当に離れられないものだけが残る。
でも、まひろ。私は貴方からは切り離されていない。それだけは強く感じることが出来る。
むしろ私は、貴方との繋がりを強く感じるために、他との絆を切り離したのだとすら思える。
今度、私が切り離したもので、しりとりをしよう。「愛」ではじまり「私」で終わるしりとりを。そして、ふたりでシャンパンを二本呑もう。
実は、もう仕事を決めてしまった。当初は半年くらい、ぶらぶらしてようと思ったのだけれど、これも縁だ。双子のオーナーが経営している会社で、清掃と訪問介護をしている。双子はとても面白いひとたちで、今度是非、あなたに話したい。
実家、職場、私が手紙を書いているこの家を結んだ二等辺三角形が、私の主な活動範囲になった。面積にして約二十七キロ平方メートルの宇宙。
過疎化の進んだ荒涼とした地方だけれど、私は気に入っている。十分にある空が。何よりも無欲な土が。忘れられた山や森が。人気を孕まず伸びる道が。私を彼方にさらってくれる。私は毎日のように、それを見送っている。葬送のようだな。と、よく思う。ある視点から見ると、私という歴史は、途切れることのない葬送の長い蛇のようだ。
来週にはあなたに会えるのが、とても嬉しい。本をありがとう。よく噛むように読んでいる。特にM・ドリスの『朝の少女』は二周読んだ。感想を語り合うのが、とても楽しみ。
まひろ。一つお願いがある。
もし本当に私を訪ねて来てくれるならば、なるべく何も持たずに来てほしい。私たちは、過去によって強く結びつき、お互いにたくさんの秘密を抱えているけれど、そのことごとくを、私の(私と貴方の)部屋に持ち込まないでほしい。わかってもらえるだろうか。私は、この部屋で、なるべく貴方と二人きりになりたいのだ。私の実家や、しのぶの事や、東京での事。そういうものを、可能な限り持ち込まないでほしい。
でも、お酒と本は持ってきて。貴方の薦めてくれるお酒と本はいつも最高。もちろん、貴方自身も。
午後。えみりは二軒の家を回って家事をこなした。
一件目は脚の悪い独居老人の家。街外れの古い一軒家で、夕食の作り置きと洗濯と掃除をした。
座椅子に座った老人は、タブレットを器用に操り、プロ野球の珍プレー動画を観て大声で笑う。時折、笑いすぎて激しく(内臓を吐くかと思うほど激しく)咳き込み、その度に、えみりは慌てて駆けつけては老人の背中をぽんぽんと叩く。
えみりちゃん、えみりちゃん。見てくれよ。腹痛え。ひーひーと笑いながら老人は言う。えみりはタブレットを覗く。2メートルはあろうかという長身の外国人打者が、頭部を掠めた危険球に怒り、ヘルメットを地面に叩きつける。振り返ってキャッチャーの鳩尾を蹴ってから、全速力で走りピッチャーに襲い掛かる。
「うわ。まずキャッチャーを蹴ってから、ピッチャーに向かうなんて。すごい発想」と、えみりは言う。
「いやあ。プロだぜ。きっと乱闘のために雇われたんだよ、こいつ」と、老人が言う。
若い頃は落語家を目指していたという老人は、独自に開発した「野球高座」というプロ野球を題材にした話芸を、仕事を終えたえみりに披露する。野球史の名珍エピソードを落語調に話す、一本につき五分から十分程の芸だが、ネタは豊富で語りも上手く、えみりは毎回、手を叩いて笑う。
「なあ。えみりちゃん。おれ、真剣に考えてみたんだけどよ。やっぱわかんねえよ。触りたいもんは触りたい。それじゃ駄目なもんかね」杖をつきながら玄関先に立って、老人は言う。えみりが仕事を終えると、彼は必ず玄関先まで見送りに来る。
「駄目ですね。納得できない。わたしは、その触りたい理由を知りたいわけですから」と、えみりは無表情で答える。
「だってよ。生きることと同じなんじゃねえかな。理由なんてわからないけど、生きなくちゃって思いながら生きてきたぜ。身体が弱った今でもそう思ってる。だからさ。それと同じなんだよ。理由はわからないけど、おれはえみりちゃんのおっぱいを触りたい」
「何度も言いますけど〈理由はわからないけど、とにかく〉っていうのは、駄目です。納得のいく説明をしてください」
「そんなこと説明できる奴はいねえよ」
初対面時に突き付けられた、胸を触らせろ、という老人の要求に対して、えみりが提示したこと。
「何故触りたいのか。わたしを納得させられる理由を説明してください。それが出来ないまま勝手に触れたら、あなたを張り倒して私は二度とここに来ません」
今のところ、老人はえみりを納得させることが出来ていないが、こつこつ真剣にその努力を続けている。えみりもえみりで、何故、老人が自分の乳房を触りたいのかについて考えている。そして、二人とも納得のいく答えを出せていない。
「これってセクハラかな」と、老人は笑う。
「セクハラです。せめて自分自身くらいは、何故セクハラをするのかという理由を把握しておいてください」と、えみりは言う。
「すまねえ」と、老人は言う。「考えてみるよ」
二件目は都市部にある、シングルマザーの母娘の家。オートロック式の高級マンションの七階にある。
弁護士の母親は街の法律事務所で働いている。えみりは、多忙な母親に代わって家事をするとともに、娘の安否と動向の確認を頼まれている。私立高校の受験を控えた娘は、半年前から不登校。日中は室内に引き籠って勉強している。と、母親からは引継ぎを受けているが、実際のところ娘は殆どの時間を、ネットゲームとパソコンでの作曲に費やしている。
インターホンを鳴らすと、顔色の悪い娘が、鍵とチェーンロックを外し、えみりを迎える。合鍵は預かっているが、誰かが在宅している場合(特別の事情のない限り)鍵は内側から家主の手によって開けてもらうことになっている。とは言え、娘が自分の手で扉を開けてくれるようになったのは、ごく最近の事だ。それまでは特別な事情があった。娘は特別に人見知りだったのだ。
「ここ、こんにち、は。えみり、ささ、さん」と、娘は言う。緊張のために、吃音が震え、えみりの目を見ることが出来ない。
「こんにちは。お掃除と洗濯。夕食の作り置きをはじめさせていただきますね」と、えみりは言う。家人に開始と終了の報告と挨拶をする義務がある。
「今日は、昼食召し上がりました?」と、えみりは訊く。
「ま、まだです」と娘は言う。
「先に何か召し上がりますか?」
「しし、シーフードヌードル。かな」娘は不器用に笑う。
シンプルなデザインかつ高額そうな家具と電化製品が配置された部屋だが、床には使用済みのバスタオルや、たたんでいない洗濯物や、コンビニのビニール袋が。机の上には、飲みかけのスターバックスのカップや、スパークリングワインや、昨夜食べたであろうカップ焼きそばの空容器だのが放置されている。
えみりはお湯を沸かし、パントリーからシーフードヌードルを取り出して熱湯を注ぎ、娘に差し出す。えみりは一分で机の上を片付け、娘は一分半で蓋を剥がす。
「お腹空いていたんですか。朝食は?」と、えみりは生姜を擦りながら訊く。
「たた、食べてません。食べるの、わ、忘れてました」と、娘は言う。
「生姜どうぞ」と言って、えみりは擦り下ろした生姜を娘に勧める。ありありあありがとう。と、娘は言って、ヌードルの中に生姜を入れる。えみりは、娘の対面に座り、机の上で開いた両手を組んで彼女を見つめる。
「この間の宿題、考えてくれました?」と、えみりは訊く。ふたりの宿題。ナイン・インチ・ネイルズの曲〈スター・ファッカーズ・インク〉の歌詞を訳してみましょう。
「う、うん。え、えみりさん来るから、さささっきまで訳してたの。〈スター・フッカーズ・インク〉」と、娘は言って、スマートフォンから音楽を流し、ヌードルをすすりながら、その歌詞についての意見を述べる。イントロが終わると同時に、うつむいていた目が、えみりを直視する。
「ささ、最初は、星を犯す。株式会社、星を犯す奴ら、だと思ったの。で、でも、全体通して訳してみたら、スターって偶像としてのスターの意味なのかなって思いました。メディアが作り上げた偶像と、それを妄信するものたちへの皮肉。だ、だとすれば、スターとファックしてる奴ら。スターとファックしてる奴らの会社。って訳した方が正確かなって」
「そうね。きっと訳の正確さとしてはそうなんだと思います。でも、星を犯す奴ら。って訳すセンスもすてきですね」
娘は顔を真っ赤にして照れてしまい、ヌードルと、ありがとうという言葉を喉に詰まらせる。母親とは殆ど口をきかないという娘は、自分の趣味の分野に関しては饒舌に語る。インダストリアル・メタル。ネットゲーム。アニメ。作曲。
「でも、えみりさん。ファックってこの場合、どう訳したらいいんだろう。調べたら、『性行為』という意味と共に『物事をダメにする』『破滅させる』みたいな意味も持つって。何故、性行為と堕落や破滅が同音異義なの。性行為自体が堕落や破滅的な行為ってこと?だとしたら、人が産まれてくること自体、堕落であり、破滅的行為なの?」
真剣になればなるほど、娘から吃音が消える。
「ファックの反対語って、なんだと思いますか」とえみりは訊く。
「『性行為』『物事をダメにする』の反対。なんだろう」
「メイクラブっていうんじゃないでしょうか」と、えみりは言う。娘は顔を赤らめる。
「ともあれ、お母様には英語の勉強をされてました。と言えますかね。これで一応」と、えみりは言う。
「ス、スター・ファッカーズ」と、娘は言う。
「ごちそうさま。あり、あああ、あり、ありがとう。えみりさん」
シーフードヌードルを食べてしまうと、娘は勉強をすると言って部屋に戻った。ありがとう。という発語が最も苦手なようだ。だが、懸命に伝えようとする。
えみりはまず、換気のために窓を開けてから、ケトルを火にかける。買ってきた野菜の皮を剥き、ひき肉を炒めた鍋に放り込んで、調味料を適当に入れてから落し蓋をする。米を研いで炊飯器にセットし、お湯が沸いたら耐熱ボトルでジャスミン・ティーを作る。熱湯が琥珀色に染まるまでの間、用意した二枚のゴミ袋のなかに片っ端からごみを放り込む。トイレ・風呂・キッチンの掃除をし、さらに集めたごみを袋の中に放り込む。あちこちに脱ぎ散らかされた服を籠に集め、あとは全自動洗濯機に任せる。散らかった物を部屋の隅に寄せ、床と机に空間を作り、掃除機をかけて雑巾がけをする。最後に、隅にまとめた物を可能な限り整頓・分類して部屋の中に再配置する。時間が余ったので、ささがきごぼうと千切りにした人参の皮をごま油で炒め、きんぴらを作る。
娘の部屋からは時折、リフレインするメロディーが漏れてくる。パソコンで作曲をしているのだろう。リフレインは、目の見えない怪物が、何を求めているのか自分でもわからないまま、巨大な叫び声をあげているように聴こえる。
家事が終わる頃には、部屋の空気がすっかり入れ替わっている。えみりは窓を閉じて、鍵をかける。
家事が完了すると、可能な限り住人の確認をとり、退去の挨拶をしなければならない。えみりは、娘の部屋から漏れるひび割れたリフレインに合わせて扉をノックする。リフが止まり、娘が僅かに部屋の扉を開ける。
「すみません。家事の確認をお願いしてもいいでしょうか」と、えみりは言う。娘は何度もこくこくと頷き、部屋を出て来る。
両目とも視力2・0のえみりの目が、灯りを消した部屋で輝くブルーライトと娘の小さな身体と扉の隙間を一瞬で潜り抜け、PC画面の隅のブラウザのタブを見る。
〈死にたい〉
〈母親 人格障害〉
〈トレント・レズナー〉
〈マリリン・マンソン〉
〈ぼくは人が嫌いだし ぼくも人が嫌いだ〉
〈メイクラブ 意味〉
〈女性向け 無料アダルト〉
〈人と関わらない仕事〉
〈自己肯定感 いらない〉
〈キャッツ ポッサムおじさんの猫とつき合う法〉
えみりがこの家に派遣されてきた当初、娘は対面を避けて、部屋から極力姿を見せなかった。しかし、仕事の開始と終了を告げる際に、必ず部屋に流れている音楽のビートに合わせてノックしてくる家事代行業者の顔に興味が湧き、扉の隙間から恐る恐る顔を覗かせて以来、二人は少しずつ会話を交わすようになった。音楽の話題を媒介にすると、娘は何も憚らずよく喋った。
「え、え、えみりさんは、あ、あたしのせいで、あああああの、あの人に叱られたりしない?」
確認書類にサインをした後、玄関で靴を履くえみりに向かって、娘は振り絞るように言う。
「お母様に叱られる?何故ですか」と、えみりは訊き返す。
「だって、あ、あたしを見張って、べべ、勉強させたりしないといけないんじゃないの」
「違いますね。わたしの仕事は家事代行ですから。確かに、お母様からは頼まれました。家事を手伝わせたり、勉強を促したり、日中のあなたの行動を報告したりしてほしいと。ですが、それはわたしどもが受けられる業務内容から逸脱しますので、お断りさせていただきました」と、えみりは言う。娘の表情が、安心と寂しさの中間で、宙ぶらりんになる。
「めめ、め、迷惑かけて、ごめんなさい」と、娘は言う。
「迷惑なんかじゃありません。わたしの迷惑観にまで踏み込んできてはいけない」と、えみりは言う。
沈黙。娘はうつむく。フローリングの床に向けて涙が落ちる。えみりはすっと手を伸ばし、中空で涙を掌に受ける。娘は驚いて顔をあげる。何かを言おうとする。しかし、余りにも脆く柔らかすぎる彼女の心は、まだ言葉の形に凝固することが出来ない。かろうじて、液体の形をとり、体外に排出されるのみだ。
「あなたの、好きにしていいんですよ」と、えみりは言う。
ぽかんと口を開け、何を言っていいかわからないでいる娘に、えみりは声をかける。
「すきな歌、歌うといいですよ。そこにすべて書いてありますから」
「な、なにが?」と娘は言う。
「すべてですよ。あなたの望む答えのすべて。あなたが選んだ曲のなかに、全部書いてあります。問題は、あなたがそれに忠実であるかどうかなんです」
「え、ええ、えみりさん、にも、そういう曲、あるんですか」
「もちろん」
「ど、どんな曲」
「〈リンダリンダ〉です」
娘はかすかに微笑み、えみりは挨拶をして退去する。扉が閉じる瞬間、娘は微笑んだまま、もう一度小さな声で「スター・ファッカーズ」と囁く。
二件の仕事が終わる頃、街には青白い海月のような宵闇が降り始める。えみりの運転する車は、海月の中を浮遊する、さらに小さな海月のような静けさで、貝がら双子サービスへ戻る。
「ただいま戻りました。今日も色々と片付けてきましたよ」と、えみりは言う。事務所には双子の経営者しかおらず、彼女たちは同時に「おかえりなさい」と、言ってえみりを迎える。
あさかが熱い紅茶を淹れ、いるまが缶に残った二枚のクッキーを小皿に乗せて出してくれた。えみりは、顧客から署名を貰ったサービス内容証明書と、仕事用に支給された携帯電話を双子に渡し、今日の仕事の内容を話す。
いるまに、不登校の娘から精神的なストレスを感じる。と、報告する。
「その娘の話を聞いてから考え始めたんだけど、小さくてもいい。マンションか空き家を借りて、そこでアート活動を中心にしたフリースクールを作りたいの。鬱屈した魚たちの泳ぐ水槽を、ちょっとだけ広く、安心できるものにしてみたいの」と、いるまは言う。
あさかに、野球好きの老人の体調とセクシャル・ハラスメントについて報告する。あさかは真剣な顔をして、えみりに謝る。「ごめんね、えみりちゃん。今ね、このちょっと広すぎる事務所を、リハビリ予防、リハビリ志向のデイサービスに利用できないか考えているところ。欲求不満は別の形で発散しないと、鬱屈するものね。誰だって」
「それでね。あたしたちも、ちょっと相談に乗ってほしいことがあるんだけど」と、いるまが言う。
「公私ともに一つずつあるんだ。今、時間いいかな」と、あさがが言う。えみりは時計を見る。まひろが到着する時間から、帰路の時間を引くと十五分余る。
「五分でしたら」と、えみりは答える。
相談の一つは、正社員になる気はないかという誘いだった。双子はフリースクール、デイ・サービス、カウンセリング・ルーム、古物商など、複数の事業展開を考えており、そのうちの一つの将来的な管理者として、えみりを雇用したいと言う。
「えみりちゃんは、仕事に自分を捧げることをしない。その割に、持てる範囲の仕事に対しては絶対の責任感を持っている。いい意味で保守的だと思う。仕事の内容と時間に対する許容量をよく把握していて、その中で全力を尽くし、はみ出す部分は断ることが出来る。わたしたちは放っておくと、何処までも手を拡げてしまう性格だけど、だからこそ、保守的な人材を中間管理職的な意味合いで配置したいと思っているの」と、あさかは言う。
「すみません。とてもありがたいのですけれど」と、えみりは頭を下げる。
「そうよね。色々あるものね。でも、また誘わせてもらうわ。誘うのは無料だし。無料大好き」と、あさかは言う。
この誘いは何度か受けているが、その度にえみりは頭を下げて断っている。実家の母の見守りのためにフルタイムでは働けないし、貯金と貝がら双子サービスの給与で今のところ金銭面の不自由はない。もう暫くの間は、なるべく何もない生活を続けたい。と、えみりは正直に説明をする。その度にあさかは了承するが、誘うのは無料だからという信念のもと、忘れたころにまた話を持ち掛ける。
「もう一つの相談なんだけど、えみりちゃん、斧いらない?」と、いるまが言う。
「斧。どんな斧ですか」と、えみりは言う。言いながら、どんな斧なら必要だと言うのだ、と思う。
「木こりが使うような斧だね。各種スポーツ漫画では筋トレにも使われているタイプのやつ。引っ越し前の家の清掃の仕事があって。不用品回収のオプションで、いるまが回収してきたの」と、あさかが言う。
「セガサターンとかホットサンドメーカーとかは可能な限り、みんなで分けたんだけど、斧だけ残っちゃって。どうしようって思った時、えみりちゃんが浮かんだのよ」と、いるまが言う。
「何故、わたしが」と、えみりは言う。
「あのね。グーグルマップであなたの住所を上空から見たの。そしたら、周りが見事に荒野じゃない。わたしがホーム・インベージョン・ムービーを作るなら、まず、えみりちゃんの家で撮るよ。なにが言いたいかというと、つまり不審者に対する防犯グッズとしてよ」
えみりは掌を向けて、いるまの話を遮る。
「ありがとう。いるまさん。でも、大丈夫。包丁もたくさんあるし、庭には鉈もある。第一、木こりの使うような斧があったって、わたしじゃ使いこなせないもの」
「無料だよ?」と、あさかが言う。
「いや。あさかさん。金銭的に無料でも、物が増えるというコストは、わたしにとって有料に等しい。ので結構です。それに、大型の不用品の解体に使えるんじゃないですか。斧」
「なるほど」と、あさかが言う。
「訓練が必要だね」と、いるまが言う。
えみりは、まだ少し熱い紅茶を一息に飲み干し、カップの底に残った一匙分の苺ジャムを唇で吸い込む。薄いクッキーを二枚重ねて口に入れ、ごちそうさまでした。と言って立ち上がる。皿とカップを洗い、ついでにシンクをざっと磨いて、双子に退勤の挨拶をする。
「丁度五分だね。今週もお疲れ様。えみりちゃん」と、いるまが言う。
「お急ぎだね。デートかな。あれ、これもセクハラ?」と、あさかが言う。
「また来週。よろしくお願いします」と、えみりは微笑んで答える。
えみりは職場から、とても静かに軽自動車を発進させる。アクセルもブレーキもゆっくりと踏む。振動と加重は少なければ少ないほうがいい。仕事は終わったのだ。ゆりかごの中の赤子が時の流れに気づかないように静かに帰ればいい。
夕暮れから夜への推移と同じスピードで、えみりは家へ向かう。光から闇へ。仕事から私事へ。社会から秘密へ。日没に、継ぎ目のない移動が行われる。そこに境界線は存在しない。そのどちらも、わたしなのだ。と、えみりは思う。
えみりが今日、会話した人々とその内容を一通り思い浮かべた後、車はまた人気のない赤信号で停まる。
「まひろ」と、えみりは呟く。
さらに一時間の音のない移動を経て、車が家にたどり着く頃には、辺りは宵闇と鈴虫の鳴声に包まれており、三日月が剃刀のように笑う。
えみりは車から降り、庭に置いてある古びた椅子に座る。秋の風が彼女の身体を撫ぜる。青白い宵闇の中に、ぽつぽつと寂しいピアスの様に灯る街灯を、えみりはじっと眺めている。
どれだけじっとしていても、荒れ地を通る車はない。静寂の膜を経て、夜空は鈴虫たちの声で満たされる。その鈴の音があまりにも大きく響くので、彼女は自分の鼓膜そのものが、ひとつの森になってしまったように感じる。
「そうではない。人間たちの音が少ないというだけのことなんだ」と、えみりは自分に向けて呟く。
かつて生活していた東京や、日中に働いてきた都市部の音響を想う。人の社会に纏わる音は、常に何かを隠している。自分を含めた人間たちの作る音が静まることで、もともとそこに暮らしていた音の影が、ようやく姿を見せるのだ。自分の呼吸や鼓動。風の流れる音。微小な生物たちの声。月光でさえ、音を孕んでいるように感じる。懐かしい森が耳の中で何かを囁く。
「古い森。言葉のない、私の古い森」と、えみりは呟く。「永遠に三十一歳を足した、私の森」
そんな事を呟いていると、自分が一本の樹木になってしまったように思う。
どの位の時間であったのか、わからない。家の中で電話が鳴るまで、えみりは月光による光合成を必要とする一本の樹木のように、そこに立ち尽くしていた。
えみりが家の鍵を開けて中に入り、手探りで電灯を点けると、室内に満ちていた暗闇と、その中を漂っていた蛍たちが、一斉にえみりの瞳に吸いこまれる。
留守にしている間、私とは別の小さな蛍たちが、がらりとした部屋の中を飛び回っているのだ。えみりの気配の残り香。防犯能力を持たないお留守番たちが、帰宅と同時に、彼女の瞳の中に戻る。
えみりは靴を脱いで部屋に上がり、まだ呼び出し音を響かせている電話に近づく。何故ある種の電話は、呼び出し音だけで内容をこちらに察させてしまうのだろう。と、えみりは思う。きっと無意識が演算をしているのだろう。
「えみり。まひろです」と、受話器の向こう側でまひろが言う。思った通りだった。声の硬さと雑音から、受話器の向こうは東京で、今は仕事が立て込んでいるのだ。と、えみりは察する。
「まひろ」と、えみりは言う。
「えみり。ごめん、まだ東京なの。退勤前に厄介ごとが起きてしまって。わたしの都合を考えられない何処かの誰かが、自分の都合だけをわたしに押し付けてくるの。憐れんで。そしてごめん」
「かわいそうな、まひろ。謝る必要なんてない」と、えみりは言う。
「ちょっと何時に片付くかわからないんだ」と、まひろは言う。
「まひろ。来るのは別の日にした方がいい。夜の高速道路は寒いし危ない。あなたに何かあったらと思うと、わたしはとても心配になる」
「いやだ」と、まひろは言う。「会いに行くって言ったら、会いに行くんだ。そういう決意から生まれる活力もある。電話したのは遅刻の報告と、声を聴いてその活力を得るためなんだよ。とにかく、また電話する」
「疲れていたら、ほんとうに無理しないでね。これはお願い」
えみりの言葉を最後まで聞かずに、電話は切れる。
えみりは薬缶を火にかけ、コーヒーを淹れるためのお湯を沸かす。疲れや焦りによって、まひろに災いが降りかからないことを祈る。お湯が沸くまでの時間を使って、自分の心を言葉に出してみる。
「あなたを待つ間。わたしは二人でいられる」と、えみりはを言う。「わたしのなかに二人おり、あなたのなかに二人いる」
お湯が沸くと、えみりはゆっくりと一人分のコーヒーを淹れる。薬缶の中で液体の沸騰が静まってしまうと、いよいよ彼女は荒地の広大な静けさの中心になる。
「どれだけ離れても、独りになれない生き物」と、えみりは独り言を言う。
えみりは、オリーブオイルで皮目を香ばしく焼いた鶏肉を、スライスしたトマトとチーズと大蒜といっしょにフライパンで煮込む。一人分のスパゲティが茹で上がる頃、フライパンの中ではトマトの赤とチーズの黄色が崩れてどろどろに混ざり合う。パスタをフライパンに入れ、混ぜあわせて深皿に盛り付ける。湯気のたつパスタ皿とフォークを書き物机に置き、粗熱を取っている間に庭に出て、バジルとルッコラの葉を手で収穫する。さっと洗ってから千切って小皿に盛る。オリーブオイルと塩で和える。
椅子に座り、左手で文庫本を開きながら、えみりはつるつるとスパゲティを食べる。食べてしまうと、食器をシンクに放り込み、郵便受けから夕刊新聞を取る。机の引き出しから煙草の葉とヘンプ紙を取り出し、一本巻いて火を点ける。煙を吸い込むと、一日の疲れが、温かく香しい煙となって彼女の腑に満ちる。
新聞は、相変わらず悪いニュースばかり一面に置いている。世界が終わる日まで、その慣習は続くのだろうか。と、えみりは思う。世界が終わる日の新聞は、いったい何を報じるのだろうか。
煙草がゆっくりと短くなる。今日も報道は、自分の知らない世界を報じているようだ。思い出にすがり寂しく暮らす母のことも、失踪した兄のことも、夫の墓参りに行くおばあさんのことも、働き者の双子のことも、野球好きの老爺のことも、怒りを秘めた内気な少女のことも、まひろが仕事で来られなくなったことも、独りきりでスパゲティを食べる自分のことも、どれひとつとして報じられていない。
「世界とは何処なのだろう」と、えみりは思う。自分がその一部に生息していることはわかる。だが、その全像を直接見ることは出来ない。魚が海のすべてを。鳥が空のすべてを見ることが出来ないのと同じように。
燃え尽きる寸前の煙草の煙が、彼女の唇から延びる。まひろの顔が浮かぶ。えみりのブレンドした煙草の匂いを嗅いで、まひろは必ず「いい香り」と言ってくれる。
「世界とは何処なのだろう」と、えみりは呟く。
「誰がそこに住んでおり、あなたは何処にいるのだろう」
「あなたのことは、誰が報じるのだろう。それは報じられなければならないのに」
呟いてしまうと、えみりは水道の水で煙草の火を消し、皿を洗う。
『すべての人間が日付を忘れてしまうような青白い秋の朝に、牛乳配達の配達の少女の溌溂とした挨拶と笑顔が、S郡在住の一人の女性の心を温めることに成功しました。少女はこれまでにも幾度となく女性の心を温めており、女性はそのお陰で心が凍てつかずに済んでると話しています。少女が今までに温めた心の温度は、累積すると人間大の小規模な休火山二つ分ほどに相当するとのことです』
『H町で独居生活を営む七十五歳の女性が、同じ一日に閉じ込められています。本人だけがそれに気付くことなく、去年亡くなった夫の思い出を反芻して過ごしていますが、周囲の人たちは敢えてそれを指摘することをしない方針を固めています。その理由について、キーパーソンの女性は、本人が望んでいるのならば無理に変えることがないという見解を示しています。また、同じ一日に閉じ込められているの者は他にも大勢おり、そこから抜け出すことが果たして本人にとっていい事なのかどうかという点については、まだ十分な議論を必要とするとの見方であるとのことです』
『I町のコンビニエンスストアで、セルフレジの操作に苦心していた八十代とみられる女性が、世の中がどんどん簡略化されていると指摘しました。女性は自分の葬儀もこのように簡略化して行ってほしいと話しており、これに対する見解と見解を出す責任者の所在は未だ不明である模様です』
『T町で訪問介護・家事代行を営んでいる〈貝がら双子サービス〉に於いて、『究極のカレーとはどのようなものであるか』という議論がスタッフ間で活発に行われました。様々な意見が発せられる中、話はどのような場所で食べるカレーが最高かという議題に移行し「空腹」と「キャンプ」の話題でさらに盛り上がりましたが、未だ結論には至っておりません』
『D市在住の八十歳の男性の趣味は野球をテーマにした創作落語。自宅に訪れる訪問介護スタッフに披露するため、日中は専ら台本の執筆や噺の練習に励んでいるとの事です。訪問介護スタッフはお陰で野球に、特にパリーグのBクラス球団について詳しくなってしまったと笑顔で話しています。また、この男性は一人の女性介護スタッフに対し「胸を触らせて欲しい」などの発言を繰り返しており、それに対し女性は「何故ですか」と問い返していますが、未だ明確な回答は導き出せていません。両者の納得のいく回答が待たれています』
『同じくD市に住む不登校の少女が、自宅を訪問する家事代行の女性と共に「ファック」という言葉の意味について吟味しました。少女は、六歳の時に母親と離婚・別居して以来一度も会っていない父親とワーカホリックで殆ど家に帰らない母親に対して、本人すら望まない寂しさを感じており、それは強い怒りと衝動に姿を変えて彼女自身を食い破ろうとする寸前にある模様です。「賢い子で、豊富な知識と語彙を持ちあわせているが、助けを求める言葉だけを知らない」と、家事代行の女性は話しています』
『人間の樹木化が進んでいます。時折自分も半ば樹木になっていると話す独り暮らしの女性。過疎化によって広大な荒地と化した場所にぽつんと建つ平屋で暮らす彼女は、管理者のない荒涼とした広さが人間から言葉を奪い樹木化させるのだと話しています。人間が人間であるためにはある程度の人工的な狭さと境界線と言葉が必要であり、街と家々がその役目を果たしていると、専門家は考えています』
『理由もわからないまま、荒野に咲く小さな花が涙を流しました。夜空に散った涙は星の様に輝き、地上をその屈折率で湾曲させています。ですが、おそらく明日は無事訪れるであろうという楽観的な永遠観から、今夜も涙は空と大地を美しく潤すばかりであると見られています。なお、この現象はそれ自体が永遠と呼ばれ、夜は無数の涙の集合体であるということは、まだ一般に多く知られてはいません。涙の理由について、すべての花は黙秘を続けています』
報道を終えてしまうと、えみりは家の外に出る。夜空には星が瞬き、吹き抜ける風が哭いている。えみりはゆっくりと呼吸し、ゆっくりと鼓動し、ゆっくり荒野を歩き回る。
「世界から取り残された報道を掬い上げ、私の言葉で再度報道したとしても、さらにそこから零れ落ちてゆくものがある」
「言葉の網の隙間から、報じられなかった無数の小さな事件たちが」
「私の及ばない場所で泣いている花の涙が、この手をすりぬけて零れる」
「むしろ、零れ落ちるものこそが実態であり」
「言葉や報道や歴史は、その僅かな抜け殻に過ぎないのではないだろうか」
「形のない世界が隠されている。形ある肉体のなかに」
「恋人の耳の奥と、私の心臓のなかに」
「その二つだけは確かだから」
えみりは夜空を見上げる。
一面に広がって流れる天体は、彼女にとって、あまりにも巨大な美しい謎そのものに見える。
その広さに酔って、えみりは自分が地面に立って夜空を見上げているのか、天体に立って夜空を見下ろしているのか、失認する。
「わたしは巨きな謎に乗っている」と、えみりは呟く。「そして、巨きな謎と共に去ってゆく」
夜の中で、私が光る。彼女の瞳のなかの蛍が、闇に塗りつぶされた孤独の天体と彼女を照らす。誰にも気づかれないまま。
幾重にも重なった独語と夜の帳の隙間を歩いた。
誰一人聴く者のない荒野の中を、好きなだけ喋り、好きなだけ歩いてしまうと、えみりは自分の家に戻る。
浴室の蛇口を捻って、開いた唇をモチーフに造られた浴槽に湯を落とす。かつてこの平屋で製作に勤しんでいた芸術家たちの一人が造った物らしい。どちらかと言えば食虫植物に似ていると、えみりは思っている。最初は入浴の度に唇の中でゆっくりと溶かされる虫になった気がしたが、次第に慣れた。
浴槽に湯を溜めている間にシャワーを浴び、煉瓦型のオーガニック石鹸で全身を洗う。洗ってしまうと、温かい唇の中に浸かり、髪の尖端から水滴が落ちる音を聴きながら沈思する。
生暖かい沈黙のなかに、一日が溶けてゆく。
沈黙は自分の形によく馴染む。と、彼女は思う。言葉よりもそれは、自分に似ているし、自分もまた沈黙の方に似ている。むしろ日中、わたしの身体で話したり働いたりしているのは、いったい誰なんだろう。独りに戻り、静寂に戻ると、えみりはそのことについてよく考える。
母親に対し、よそよそしく話しながら家事をする自分。双子や職場のスタッフに対し、笑顔でカレーのレシピについて語り合う自分。仕事先で会う人々に対し、一定の距離を取って接する自分。街中の大勢の中の一人として振る舞う自分。すべてが知らない人間のようだ。そして、その通りなのだろう。と、えみりは思う。この沈黙に比べれば。
浴室鏡の中に映っている自分をじっと見つめてみる。えみりが鏡で自分の顔を見つめるのは、とても久しぶりのことだ。久しぶり過ぎて、どちらが自分なのかすぐに分からなくなる。
えみりは鏡の中の女に微笑む。微笑みに対して、三秒遅れて鏡像が笑う。
「それでは、地平線に隔離され、唇の中で独り呟いている貴方は一体誰なのだ」と、鏡像が言う。
沈黙。
「幾重にも重なった独語と、無数の自分の隙間を歩いている」と、えみりは答える。
浴室から出て身体を拭き、寝間着に着替えてしまうと、えみりは部屋の隅のベッドに座り、三十分ほど黙って本を読む。まひろが貸してくれたカポーティの短編集は、秋の夜をますます冷たい孤独で満たす。「ぼくにだって言いぶんがある」を読んでしまうと、歯を磨いて部屋の灯りを暗くする。
一日の仕事がすっかり片付いてしまうと、えみりは書き物机に座る。引き出しから、ノートと筆記用具と心臓の形をした灯りを取り出す。灯りに火を点け、ノートを机の上に開いて書きはじめる。
一日の記憶と、幾重にも重なった独言の隙間と、無数の自分の影からやって来る言葉を収穫し、紙上へ再配置する。その時、えみりは人の形をした輪転機になる。自分自身に魂を明け渡して筆記する無垢の一粒になる。
彼女は余りにも書くことに没入しているために、私が飛び廻っていることに気づかない。私は、えみりが一日の間に集めた光景を瞳から持ち出し、光の鱗粉と粘糸にして撒き散らす。鼓動とノートの周りを自由に飛び、暗い部屋の中で彼女を照らす。えみりが書き終わるとともに、彼女の瞳に戻る。
えみりはノートと筆記用具と心臓の形をした灯りを、また引き出しの中にしまい、独り用のベッドに横になって眼を閉じる。私もえみりの瞳の中で眠る。
真夜中。すべての蛍が、えみりの瞳のなかで安らかに夢を見ている時間。彼方から地鳴のような音が響いてくる。普段ならこの時間に、虫たちや風や月光の他、荒地の空気を揺らすものはない。えみりの瞳のなかで、敏感な蛍たちが数匹目覚める。表で砂利を踏む音がする。足音はゆっくりと、えみりの家に近づいてきて、さらに数匹の蛍たちが目を覚ます。音をたてないように細心の注意を払って、誰かがドアノブを回し、扉をゆっくりと開ける。
足音を立てずに入った来た人影が靴を脱ぐ。マーチンのエンジニアブーツ。地面を揺らす巨大なエンジンを搭載した二輪車のギアチェンジのために、丈夫な靴を選んだ。えみりは薄目を開ける。ベッドの下に手を入れ、潜ましてある鉈の柄を握るが、すぐに手を放す。昼間、いるまにホームインベージョンムービーの舞台として選ばれた事と、まひろがいつ訪れてもいいように鍵を掛けずにおいた事。二つの理由から、念のためベッドの下の隙間に、鉈を隠して眠りについたのだった。しかし、もう鉈は必要ない。
まひろはブーツを脱いでしまうと、何重にも重ね着した防寒着を一枚一枚脱ぎ捨てながらベッドに近づく。黒いフライトジャケット。厚手のセーター。裏起毛のパンツ。あちこちにカイロを貼りつけた肌着とタイツが計四枚。毛糸の靴下。ゆうに二〇〇㎏を超える大型二輪に乗り、夜の冷たい空気を切り裂いて何時間も走って来たまひろの身体は冷え切っている。寒さに歯をがちがちと震わせながら静かに毛布をめくる。強張った体のなかで、眼だけが柔らかく微笑んでいる。えみりの眠るベッドに下着姿で潜り込む。氷のように冷たく凍てついたまひろの肌が、ぬくぬくと温まったえみりの身体にくっつく。えみりはびくんと全身を震わせる。目を閉じたまま抱きしめられるままになり、時間をかけて自分の体温をまひろに半分渡す。
まひろは寒さと疲れから。えみりは眠気と安心から。多くの言葉を話さない。ふたりは、それしか言葉を知らないように、お互いの名前を何度か囁く。
まひろはえみりのうなじを隠す髪をかきあげ、そこに彫られた小さなタトゥーにキスをする。子犬の瞳と同じくらいの大きさの、太陽をモチーフにしたトライバル。その刻印の存在と在処はふたりしか知らない。
えみりとまひろの体温が、ひとつの肉体のそれのように溶け合う。震えの止まった身体が柔らかくベッドに沈みこむ。彼女たちにしか解読できない沈黙のなかを、無数の蛍たちが重なり合って、柔らかい闇に溶けてゆく。
「おやすみ」と、えみりが囁く。