(3)いつか暴発する
十三歳の夏に、一学年上の先輩に好きだと言われた。自転車置き場だったか、体育館裏だったか、覚えていないが放課後に人気のない場所に呼び出されて告白された。図書委員会の先輩で、委員の仕事を色々と親切に教えてくれる人だった。小さな声でぼそぼそ喋る猫背の少年。
まひろは、幾つかの意味で何を言われているのかわからなかった。そもそも、ひとを好きになるというきもちが、わからなかった。
ひとはひとを好きになるのだ、という噂は聞いたことがある。だが、それは読み方だけを知っていて意味がわからない難しい単語のようだった。まひろにとって、ひとは好きになるための生き物などではなかった。顔色を窺って、その暴力を受けないように反応するための生き物だ。
曇り空の灰色と、真夜中に見上げる月明かりと、感情のなさそうな生き物の目(鳥や魚や昆虫)と、観葉植物と、川や湖の水音と、砂漠や廃墟の写真集は好きだ。だが、これらは、そこに人がいないという理由から好きなのだ。
それに、よしんば噂がほんとうだったとして、自分を好きになる人間がいるという可能性を信じることが出来なかった。まひろにとって自分とは、支配と暴力の間を行ったり来たりする顔のない振り子でしかなく、人に好かれるに足る存在であると想像がしたことがない。責められたり殴られたりした後、母親から「愛している」と言われることはある。だが、それが愛を模した一種の呪いでしかないということには、さすがにうすうす感づいていた。顔を真っ赤にして話す目の前の内気な少年が母親と同じことをするとは思えないが、だとしたら、このひとは一体何を言いたいのだろう。と思った。
まひろが知りたかったのは、好きだという言葉よりも、その奥にある具体的な願望だった。それを知らなければ、叶えることができないからだ。
ありがとう。でも好きだと言われてもどうしたらいいのか、わたしにはわかりません。と、まひろは正直に言った。猫背の少年は、とりあえず友達からはじめてくれないだろうか。と気の毒なくらいに緊張しながら言った。まんがのようにだらだらと汗を流して話す彼を見て、わかりました。と、まひろは答えた。断って相手を不機嫌にさせるよりも、細かいことを考える前に承諾してしまったほうが危険が少ないという経験則から導き出された返答だった。
だが、この新しい友達は、まひろを不安にさせた。相手の求めるところを察して従えなければ、何らかの被害を被る。というのが、当時のまひろの世界観だった。被害を忌避するためには従うべき欲望が明確であるほどによかったのだが、少年が何を求めているのか、当時のまひろには、さっぱりわからなかったのだ。
放課後になると、少年はまひろの教室の前まで、一緒に帰ろうと誘いに来た。周りには冷やかされたが、少年はあまり気にしていない様子だった。他の同級生のように無邪気にはしゃいだりすることの少ない落ち着いた少年だったが、逆にその大人びた雰囲気のせいで結構人気があるんだよ、と同級生が教えてくれた。
飼っているゴールデンレトリバーの可愛さだとか、ユーチューバーの恋愛事情だとか、家族旅行で見た美しい海の色だとか、少年の他愛もない話を聞きながら一緒に下校した風景を、大人になってからも、まひろはたまに思い出す。二人はセイタカアワダチソウの生い茂った川沿いの道を歩いて帰った。朱い落陽の溶ける水面を、無数の蜻蛉や羽虫が飛んでいた。時折、釣り人が魚を釣り上げる水音が、ぱしゃっと響いた。空気は夜に溶けてゆく太陽の香りがした。
ある程度の時を経て、はじめて口の中に広がる味もある。甘酸っぱい果実そのもののような落陽に包まれた夕暮れの風景。あの内気な猫背の少年にとっては、二人で話をしながら夏の夕暮れを歩いて帰るだけで十分だったのだ。夕暮れは彼にとって、特別な味がしたことだろう。だが、その頃のまひろにとっては、すべてが無味無臭だった。
「先輩は私に、どうして欲しいですか」と、何度か率直に質問してみたが、少年は恥ずかしそうに口ごもってしまい、明確な答えが返ってくることはなかった。
今でこそ、世の中には相手に多くのことを求めない穏やかな愛もあるのだと、まひろにも理解できる。だが、その頃のまひろにとってそれは、知らない国の知らない風習に等しい未知だったし、一緒にいるだけで満たされる安心があるということも、二つか三つほど高次元の情報に相当した。意味が分からないのではなく、存在することを知らなかった。
同じ太陽を食べつつも、人々はそれぞれ、全く別の味を感じる。
少年はまひろに、型落ちのスマートフォンをプレゼントした。彼の兄からのおさがりで、通話機能は使えないがWi‐Fiに接続して端末として使える。それを使って、自分とSNSで繋がって欲しい。と、少年は言った。使い方がわからないと、まひろが言うと、図書委員の仕事を教えてくれた時の様に丁寧に、設定や使い方を一から教えてくれた。
幸運にも、自宅のルーターの裏にパスワードが印字されていたため、家族に知られることなくネットに接続することが出来た。自分自身は依存症と言っていいほどスマートフォンを手放さない母だったが、まひろがネットに接続することに対しては、まだ時期が早いと考えていた。まひろの方も母親の考えがわかっていたので、わざわざねだったことがない。
スマートフォンをプレゼントされた事。そもそも、親しく付き合っている男子がいることを、まひろは家族に隠した。言えば、詰問があり、不機嫌があり、場合によっては母親の暴力があるだろうと予測した。
まひろの成長と共に、母親からの叱責や暴力は減っていったが、それは母親の情緒が安定に向かったからではない。どのようなきっかけで母親が不機嫌になるのかを、まひろの方が予め予測して回避に努めたからだ。父親はますます家に寄り付かず、母親はスマートフォンで誰かの悪口ばかりを拾って読んでいた。
刺激しないための方策として、ひとまず沈黙に勝る安全装置はない。
そのため、日々の膨大な沈黙の一部は秘密となり、まひろの身体に沈殿していった。
いつか酷いことになる。という少女期の漠然とした予感は、自らに溜まってゆく秘密がいずれ暴発することを、無意識が予め知っていたためだと、まひろは考える。
暴発の予感は必ず当たる。私たちのなかの秘密が、それを知っている。
必ず破裂することを。私たちが裂けることを。
家族に隠れて、まひろと少年は他愛もないメッセージのやり取りをした。二人で帰る通学路での会話と同じく、どちらかと言えば少年が話を投げかけ、まひろが相槌を打つ形でのやり取り。どんな話に対しても、まひろは積極的に興味を示し、会話を拡げる努力をした。
どう反応すれば喜ばれるのかをまず考え、相手が気持ちよく話せるように会話を導く素養が、まひろにはあった。相手が上機嫌でいる間は暴力や叱責を受ける可能性が減るという考え方から、それは磨かれた。
まひろなりの生存戦略として彼女の前半生で練磨され続けた能力だったが、少年を含めたある種の(数少ない)人間のなかには、それに対して違和感を覚える者もいた。
彼らは、まひろが殆ど常に相手を機嫌よくするためだけに喋っていることに気づく。そして、そこに彼女自身の欠落を発見し、彼女にそうさせている自分に対しても欠落を感じる。
そして最後には必ず、悲しそうな顔をする。彼女に好意を抱いている者ほど、それに気づき、悲しそうな顔をするのだ。