(4)壊れるべきは壊れる
少年との穏やかな交際は、そう長く続かなかった。スマートフォンが母親に見つかったことが破局のきっかけだった。
校則で禁じられているスマートフォンを学校へ持って行くことをはせず、まひろはそれを自室の机の中にしまっておいたのだが、母親が時折、まひろの部屋のあらゆる扉と引き出しを開けて調べていることを知らなかった。
母親は引き出しの奥にしまわれたスマートフォンを発見すると、四桁のパスコードを突破し(安易にも誕生日に設定していた)その中身を隅から隅まで調べてから、まひろの帰りを待った。帰宅し、目を合わせずにただいまを言って自室に向かおうとする娘を呼び止め、彼女は犯人に証拠品を見せるかのようにスマートフォンを掲げた。そしてゆっくりと暗唱した。
「毒親。恩着せがましい親。境界性人格障害。自己愛性人格障害。ニルヴァーナ。平気で嘘をつくひとたち。父親、家にいない。仮面夫婦。家庭内別居。影響。死にたい。一人暮らし。小説家になる」
まひろは、自分の内臓がその場から逃げ出したがっているのを感じた。ありとあらゆる臓器が、ここにいたくないという信号を強烈に発し、発汗とめまいになって彼女を駆り立てた。母親が羅列した単語は、まひろの検索履歴の一部だった。
「いかさま山羊」
そう母親が言った時、まひろは胸を抑えて、その場に崩れ落ちた。
「そんなとこに座ってないで、こっちに来てちゃんと椅子に座りなさいよ」と、母親は言った。
いかさま山羊は、少年にも内緒でまひろがメッセージのやりとりをしているSNSアカウントの名前だった。〈死にたいという小さな光〉とプロフィールに記したそのアカウントは、どちらかと言えばネガティブな内容ばかりを書き込むまひろのアカウントに対して、理解と共感を示すメッセージを何度も送って来た。話して辛さが少しでも減るのなら、話してみてくれないか。と、いかさま山羊は言った。後から推測するに〈死にたい〉などのキーワードで検索していたのだろう。山羊と繋がっているアカウントは、どれも一度はその言葉を口にしていた。
それまでのまひろにとって、負の感情を抱くことは罪悪だった。言葉にしろ、態度にしろ、まひろが辛苦を発することは母親の強い怒りを呼んだからだ。少しでもそれらが表出しようものなら、母親は、まひろがどんなに恵まれているのか。自分がまひろのためにどれほど多くのものを捧げてきたのかを大声で聞かせ、他者と比べて自分は恵まれていると思え。と怒声をあげた。それでも、辛いだの苦しいだのと甘えたことを言うのは、自分や、より恵まれない人の何分の一かでも辛さを味わってからにしろ。そう言って、まひろの髪を掴んで家から締め出した。
そのような罰から発する罪の意識から、まひろは自分のフラストレーションを心の向こう側に封印していたのだが、SNSにおける匿名という非実在的なイメージが、限定的にその封印を解いた。SNSは現実というよりも、現実に似せたフィクションであり、フィクションの世界でならば、何を言っても自由ではないのか。そういう考えから、まひろは殆どはじめて、他人に本音を打ち明けた。
「離婚するしないは自分の勝手なのに、私のためみたいに言わないんで欲しいんです」
「じぶんがどんなに一生懸命に尽くしている良い人間なのかを、聞いてもないのに何故かアピールしてくる。コンプレックスの裏返しじゃないかなと思う。第一、本当に良い人間は、良い人間であることについて他人の承認を必要としないのではないでしょうか」
「欲求不満の解消?それで八つ当たりが収まるんなら、どんどん解消してほしい。あの人はもう、麻薬中毒患者みたい。怒りに依存してる」
スマートフォンを操作しながら、母親はまひろが、いかさま山羊に送ったメッセージを読み上げた。
「よく言うわ」と、母親は言った。まひろは震える声で、はじめて母親に対して明確な怒りをこめて「返して」と言った。
「返しません」と、母親は言った。「がっかりだよ。あんたには本当にがっかり。あたしが十何年もがまんしてきたのは、何もわかってもらえてなかったってわけだ。全部無駄だったって。ねえ、あたしが何を怒ってるのかわかる?あんたがあたしについて、わかってくれない事じゃない。こそこそと、どこの誰だかも知らない奴に好き放題なことを言ってることに対して頭にきてんのよ。言うなら言うで正々堂々あたしに言いなさいよ。しかも何?これ読んだら全部あたしが悪いことになるじゃない。あんたの方に原因がないって本当に言えるの。ねえ!怒りに依存ってなによ。あたしが怒りたくて怒ってるとでも思ってんの?」
喋っているうちに、怒りが膨張して怒鳴り声になった。怒鳴り声が大きくなるごとに、まひろには母親の言葉の意味が分からなくなった。言葉は意味を失い、それは怒りと恐怖を示す鳴り止まないサイレンとなって、鼓膜を苛んだ。脳を直接殴られているような音がした。
「お願いだから、返して」と、まひろは哀願した。
「ねえ、いかさま山羊のこと、先輩は知っているの」
その言葉でまひろは、母親がスマートフォンのなかのすべてに目を通しているだろうことを理解した。「先輩は知らない」と、小さな声で答えた。
「あたしの方から、先輩には連絡しておいたからね」と、母親が言う。まひろは青ざめる。なにを。とだけ、震える小声で訊いた。
「勝手なことをしないでくださいって。子供にいつネット環境を開放するかは、あたしの方で色々考えてるし、男の子との付き合いだってまだ早い。あんたら、いくつだと思ってるの。ちょっと普通じゃないよ。はっきり言って気持ち悪い」まさに気持ち悪いものを見る目をして、母親は言った。
「そんなこと、先輩に送ったの」
「まあ、もう少し柔らかい言い方ではあるけどね。わかりました。ってだけ返事来たよ。あんたもわかりなさい」
キレる。という言葉の意味を、まひろは初めて知った。足元や空気中を這う自分の血管がぶちぶちと音を立てて千切れてゆく音を確かに聴いた。まだ歴史の浅いこの言葉は、自分と世界を繋ぎとめる理性が、諦めによって切断される音を指すのだと思った。内臓たちよ。わたしを見捨てて逃げ出してしまえ。と、思った。心から悪いと思った。耐え難いストレスに悲鳴をあげる自分の内臓にも。優しくしてくれた先輩にも。
あの時、諦めずに冷静に反論を続けるか、すべてを諦めて言いなりになるか、どちらかを選べばよかったのだろうか。と、後になってから、まひろはしばしば思い返す。だが、どのような選択をし、例えそれによって母子関係の決壊を回避したとしても、別の形で決壊は訪れたことだろう。と、彼女は結論する。壊れるべきものは、必ず壊れるのだと。
まひろは黙って、玄関に向かった。ちょっと待ちなさいよと言う母を無視して外に出ようとすると、母親はまひろの髪を掴んで引きずり倒し、鼻血が壁に飛ぶまで娘を殴った。遠くから、親を無視するなっていつも言ってるでしょう!という叫び声がした。表情筋と脳を繋ぐ回路が切れ、鼓膜と感覚が切れ、視界と認識が切れた。無抵抗と沈黙だけが、まひろに出来る最後の抵抗になった。
腕が痺れるまで殴ってしまうと、母親はまひろを抱きしめて、ねえ、わかって。あんたのためなの。あんたが大事だから。ごめんね。と、泣きながら謝った。まひろははじめて、母親を許さずにこれを無視した。許しが返ってこないと知ると、母親はさらに逆上して、再びまひろを殴った。あたしはあんたを許すって言ってるのに、あんたはあたしを許さないって言うの?と、母親は叫んだ。まひろは身心を繋いでいた全ての回路を切断し、勝手にしろと言い残して考えることをやめた。
いくつかの壊れる音が聴こえた。それは母親の叫び声だったし、帰宅した父親の母親に対する怒声だったし、硝子の割れる音だったりした。ずっと音もなく壊れていたものが、今、音をたてて壊れなおしているだけだ。と、まひろは思った。一切の意思を渡すまいと、まひろは胎児の姿勢でうずくまった。母親が何度髪を掴んで引きずりまわしても、帰って来た父親が泣きながらまひろを抱きしめても、二人が刃傷沙汰すれすれの喧嘩をはじめ室内のことごとくを破壊しても、まひろはその場に横たわって身体を丸めた。胎内回帰への姿勢では、もちろんなかった。彼女は、今ある大事なものをかき集めてハラワタにすべて隠し、それが壊されないように守ろうとしたのだ。
その時、なにを守ろうとしていたのか、まひろ自身にもはっきりとはわからない。だが、どうしても守らなければならなかったことだけはわかる。誰にも渡してはならないと思ったことも。
だが、必死で守ろうとしたものを、なんと呼べばいいのかだけがわからない。