(5)予言者を飼う
真夜中。窓から差し込む月明かりが、横たわったまひろの顔を照らしていた。十六人の兵士たちに蹂躙された後のような家のなかに人の気配はなく、粉々に割れたすべての破片が、ただしんとしていた。
眼を開けていたのか、閉じていたのかわからないが、数時間眠っていたらしい。強い尿意に促されて、まひろはよろよろと起き上がってトイレに向かった。乾いた血が、ぱらぱらと床に落ちた。壁に手をつきながら歩き、やっと便座に座ると、産まれてから一番長い排尿をした。
家の中で、凡そ壁に投げつけられて割れる類のものは全て割られていたし、踏みつけられて歪む類のものは全て歪んでいたし、怒りを叩きつけられて壊れる類のものは全て壊れていた。
父親が好んで見ていたアメリカの刑事ドラマを思い出した。犯行現場をプロファイリングすることによって犯人像を予測するスマートな心理分析官が主人公だった。徹底的に破壊されたこの現場を見て、スマートな彼はどのような分析をするのだろう。と、思った。こんなもんに心理もクソもあるのだろうか。こんな、ただの惨状に。
玄関に父親の靴はなかった。寝室から、母親のいびきが聴こえた。そっと覗くと、母親は涎を垂らして眠っていた。ジャック・ダニエルの瓶が足元に転がっており、部屋全体がひどくウィスキー臭かった。
割れた食器や灰皿や窓硝子の破片が床を埋め尽くしていた。父親の吸う煙草の吸殻や、鍋からぶちまけられたスープや飲みかけだったアイスコーヒーがそれらを汚していた。あちこちにまひろの血が跳ねて付着していた。
窓から差し込む柔らかい月光が、壊れた家庭を照らしていた。
廃墟を見る時に感じるような、寂しさと清々しさが交わる空気のなかで、まひろは自分でも驚くほどの安らかさを感じていた。いつかこんなことになると思っていた。こうなる材料はすべて揃っており、その中で暮らしていることを、わたしは知っていた。知っていながら、ただ何もしなかっただけだ。そう思った。
いつの日か、母親の干渉や暴力に耐えきれなくなって彼女を拒否する日が来るだろう。母親は娘の反抗に逆上して暴力を振るい、その後泣いて謝るだろう。だが、許すことにも疲れ、まひろは何もかも放棄するだろう。求めるものが与えられないとわかると、母親は再度逆上し、もういいと喚き散らして暴力に戻るだろう。父親は母親を責め、まひろを助けようとするが、結局は母親の暴力に負けて家を出るだろう。彼は、一度はまひろを連れ出そうとするが拒否されればすぐに諦めるだろう。まひろは母親同様、父親も信じないだろう。現状を、彼が避けようとした母親からの怒りが爆発した結果であることを認めず、自分たちを一方的な被害者の立場に置こうとする父親の手をとることはないだろう。誰もが「自分は悪くない」と叫びながら暴れることだろう。被害者たちは、すべてを壊すだろう。壊されたものだけが、潔いだろう。
殆ど寸分の狂いもなく、すべてはまひろが考えていた通りになった。この日が来るのをずっと恐れていた。自分が耐え切れなくなり、家庭が決壊してしまうことを。だが、実際に決壊してしまえば、もう何も恐れなくていい。
この日から、まひろは自分のなかに、ひとりの予言者を飼うようになった。予言者は言う。私たちは予め、壊れるだろうという予言のなかに暮らしており、壊されることによってはじめてそこから自由になれる。
まひろはなるべく足音を立てずに、割れた破片の隙間を歩き、洗面所で顔を洗った。固まった鼻血が溶けて、排水溝に流されていった。顔を上げ、鏡を見た。とても久しぶりに、自分の顔を見た気がした。
マッチを擦れば引火して爆発するのではないかと思うほど酒気に満ちた部屋の中で、母親のいびきの隙間をかいくぐって、まひろは荷造りをした。いびきは獣の鳴声のように大きく、多少の物音で目を覚ますとは思えなかったが、なるべく音をたてずに荷物をまとめ、母親の財布から金を盗み、少年から貰ったスマートフォンを回収した。
アディダスの黒いスニーカー。トリコロール柄の厚手の靴下。レーヨンのジーンズ。無地の黒いトレーナーと、フード付きのモスグリーンのフライトジャケット。肩掛けのトートバッグ。
汚れが目立ちにくく、適度な防寒性があり、人目を引かないありふれたデザインであること。まひろが無意識に選んだのは、そういう衣類だった。これから汚れ、寒さに晒され、隠れて過ごすことを、彼女は無意識に想定したのだ。これもまた、一種の予言だったと言える。事実、その通りになった。
家を出る前に、まひろは玄関に掛けてある鏡に映る自分の顔を見た。殴られた頬は時間が経つにつれ熱を帯びて腫れあがり、そのせいで顔の半分は岩山のようにごつごつと歪んでいた。まるでモンスターだなと心のなかで呟いて、まひろは笑った。鏡の中のまひろは、取り残されることが哀しかったのだろう、ひとすじ涙を流していた。
フライトジャケットのフードを被り、顔の半分をマスクで隠して、まひろは脱獄囚のように身を潜めながら夜の町を歩いた。十月の涼しい風が、熱を持って腫れあがるまひろの頬を優しく撫でていた。
行く当てもなく、頼れるひともいなかった。友達がいないわけではなかったが、傷ついた自分を見せることができるほど信頼できる相手はいなかった。人を不快にさせないことを主軸として生きているまひろには心を開ける友人ができなかったし、そもそも親密さというものが体感として理解できなかった。安心感から生ずる感情や関係性があるということが。
それでも、行く当てをなくし、無意識に拠り所を探そうとするまひろの心に、二人の人間の姿が浮かんだ。先輩といかさま山羊だ。まひろはファミリーレストランに入って無料の無線LANに接続し、メロンソーダを飲みながら少年にメッセージを送った。
母親が少年に送ったメールについて謝ってから、会いたいですと送ると、すぐに、何処にいるの?と返信が来た。居場所を伝えると、少年は家を抜け出し、自転車に乗って会いに来てくれた。
腫れあがったまひろの顔を見て、少年は怯えと戸惑いの色を顔に浮かべた。まひろはそれを察して、反射的に明るい笑顔を作った。すみません、モンスターみたいですよね。と、彼女は言った。いやあ、母と喧嘩になってしまいまして。失礼なメッセージを送ってしまって、すみませんでした。ごめんなさい。これ、お返ししますね。夜遅くにすみません。早口にそう言って、スマートフォンを返してから、店を出ようとした。
ちょっと待って。と、まひろを引き留め、少年は説明を求めた。母親が送ったメッセージに従い自分との交際を止めるつもりなのか。その怪我は家族に殴られたのか。家に帰って平気なのか。自分に何かできることはあるか。何故つくり笑いをして話を避けようとするのか。真剣に心配してくれたが、心配されればされるほど、まひろはどう答えていいのかわからなくなり、何を謝っているのか自分でもわからないまま、謝罪した。
他人に助けを求めるためには、それなりの信頼と努力が必要だが、まひろにはその一切が欠けていた。傷ついたまひろを見て、少年が浮かべた戸惑いの表情について、迷惑をかけてしまった。と、まひろは解釈した。迷惑をかけた相手に頼るわけにはいかなかった。何故なら、頼ることによって、より迷惑をかけてしまうことになるからだ。
何を言っても、「だいじょうぶです」と「ごめんなさい」しか言わないまひろから話を聞くことを、少年は悲しそうな顔で諦めた。失望されたと思ったまひろは、より深く頭を下げて謝り、スマートフォンを返したかっただけなんです。もう家に帰りますから、そんなに心配しないでください。と、嘘を吐いた。
少年と別れたまひろは、しばらくの間、右足と左足を交互に差し出すだけの運動そのものになった。何も考えたくなかった。心を空っぽにして、何処を目指しているわけでもなく歩き続けているうちに、県を横断する大きな河に巡り合い、導かれるように、水の流れに沿って歩き続けた。
澄んだ風の流れる、良く晴れた真夜中だった。満ちかけた月が、静かに地上を照らしていた。まひろは、真夜中という時間がそれほどまでに美しいものだということを知らなかった。言葉を失った自分と、人のない夜の静けさが、二枚のうすものがふわりと重なり合うように感じられた。行く当てもなく、何も求めていないという点に於いて、自分たちは同じ生き物なのだと思った。そう思うと、静かな夜に生息する寄る辺ない全てに対して、強烈な愛おしさを感じた。何の条件付けもなく、夜は少女の生息を許した。
河沿いの草地に生息する虫の声が愛おしかったし、月を横切る鳥が愛おしかったり、草花の呼吸とその香しさが愛おしかったし、無料の神秘を描く空が愛おしかったし、それらを見るために我が足を支えてくれる大地が愛おしかった。じぶんという身体を、なんの抵抗もなく受け入れてくれる、真夜中の空気に感謝を感じた。何もかもを失った夜は美しく、このまま、愛おしいという気持ちだけを抱いて歩き続ける、一個の自然になってしまいたいと思った。
だが、そういうわけにもいかないことを、まひろは知っていた。彼女は予言だったのだから。予言し、それに沿う、ひとつの運命だったのだから。歩みを止めるわけにはいかなかったのだ。
予言がなお、彼女を呼んでいた。