(7)傷の実態的誕生

 家を出てから経過した時間がわからなかったし、自分のいる場所がどこなのかもわからなかったし、置かれている状況もわからなかった。確かなことは、下腹をえぐるような空腹感だけだった。なんでもいいから食べたいと思いながら当てもなく歩き、たどり着いたコンビニエンスストアで食料を買った。

 会計の時、化粧の濃い女性店員が、まひろに「だいじょうぶ?」と声をかけた。さっきも見知らぬ外国人に言われたなと思いながら、何故?という顔で相手の目を見ると、女性はエプロンから絆創膏を一枚取り出し「おばちゃん、いっぱい持ってるから、これ持っておいき」と言って、まひろに差し出した。なんと返していいのかわからず「おばちゃんじゃないです」とだけ、まひろは言った。いいえ、お若いです。おばちゃんと称するほどの年齢じゃないと思います。と言いたかったのだが、言葉がうまく出てこなかった。今度は女性の方が呆気に取られて言葉を失ってしまったが、まひろの言わんとすることに気づくと微笑んで「ありがとね。痛いとこに貼ってね」と、彼女の手に絆創膏を握らせた。

 駐車場に座り込み、サンドイッチといちごミルクを胃袋に流し込んでしまうと、停めてある車のウインドウに映った自分の顔を眺めてみた。母親に殴られた部分の腫れは殆ど引いており、一体なにを心配して「だいじょうぶ?」と言われたのかが分からなかった。痛いところに貼ってねと渡された絆創膏を、何処に貼っていいのかもわからなかった。
 生きて彷徨う〈わからない〉の塊になって、まひろはふらふらと歩きだした。

 聞いたことのない名前の小さな町を彷徨いながら、この国はなんて親切なんだ。と、まひろは思った。電柱には住所が書いてあり、青看板は道筋を案内し、ところどころに地図がある。従って駅までたどり着けば路線図があり、指定された乗車券買えば、何処へでも行ける。なんてことだ。この国があまりにも親切すぎて、わたしは家に帰れてしまう。親切な案内のせいで、現在地もすぐにわかってしまった。家から三〇キロほど離れた場所にある地方都市だった。電車に乗れば九十分で家に着いてしまう距離にあった。

 乗り込んだ各駅停車の列車の中に、まひろ以外の乗客の姿はなかった。遅めの午前の車窓から差し込む眩しい光が、まひろの身体の上をきらきらと横切っていった。荒野ならばよかった。すべてが名前のない荒野で、地図も道しるべもなければ、わたしは家にたどり着けずにすむのに。と、まひろは思った。

 自宅へたどり着いたのは正午近くだった。家のなかがどうなっているのかは、想像もつかなかった。当日にいたるまで、まひろがそれを忌避するために繰り返し予測してきたのは、自分の反発で母親が怒り狂い、誘発によって父親との仲も決定的に破綻し、さらに飽き足らず関係性も含めた家のなかの何もかもが母親の怒りによって破壊される場面までであり、実際に起きてしまった後のことは考えたことがなかった。予測によって避けられると考えていたからだが、思い知ったように壊れるべきものは必ず壊れる。

 玄関に鍵はかかっておらず、父親の靴はなかった。薄暗い家の中に灯りはついておらず、リビングの方から昼のワイドショーの声がした。廊下の隅に大きなごみ袋が置かれていて、昨夜壊れた物が分別されず詰め込まれていた。

 リビングへ行くと、母親はソファに座りスマートフォンをいじっていた。まひろに気づくと、顔だけで振り向き、あら。おかえりとだけ言って、再び画面に視線を戻りしてタップとスワイプを続けた。

 まひろは冷蔵庫を開け、飲みたくもないコカ・コーラの蓋を開け、一口飲んだ。甘ったるい炭酸が喉を焼いた。テレビの中では、知らない俳優の不倫報道が流れており、一瞬、昨日のすべてが夢だったのではないかと思ったが、壁に飛んだ自分の鼻血の痕や、割られ尽くされがらがらになった食器棚を見て、そうではないことを確認をした。

「学校には風邪だって言ってあるから。ご飯食べた?」と、振り向いて母親は言った。その落ち着いた声色は昨日とは全く違っており、一昨日とはまったく同じだった。見たこともない生き物を見るような目で、ふたりは見つめ合った。表情だけですべてを伝えてしまうと、母親はまたスマートフォンに視線を戻し、テレビのボリュームを少し大きくした。まひろは「食べた」とだけ落ち着いた声で答え、リビングを出た。長い間、顔色を窺って生きてきた彼女には、母親の表情と態度がなにを示しているのか、すぐに理解することができた。昨夜のことは、すべてごみ袋に入れて片付けてしまいたいのだ。まひろにも、それに関して触れないことを求めているのだ。

 まひろは、洗面所で服を脱いで、鏡の前に立った。顔の腫れは殆ど引いていたが、母親に殴られた口のなかは切れていたし、いかさま山羊に破られた部分は未だ痛んだ。鏡のなかの自分が、まるで別人のように見えたが、だとしたらもとの自分がどのような姿をしていたのか、もう思い出すことができなかった。ジャケットのポケットから、見知らぬ町のコンビニエンスストアでもらった絆創膏が落ちた。

 私はこの日、実態となって産まれた。まひろは母親の顔剃り様の剃刀を左の手首に当て、ゆっくりと引いた。一秒遅れて、剃刀の軌跡に裂け目が、赤く笑うように開いた。流血するほどの傷ではなかった。開いた傷口に、あまりにもたくさんの感情が流れ込んできた。それは殺意だったし、渇愛だったし、命乞いだったし、緊縛された沈黙だった。私はそのすべてを吸いこむための、彼女の限りない空洞として産まれた。隠れてしまいたい。と。まひろは言った。私は彼女を匿った。まだ血の溢れる傷口に潜り込んだまひろの、長い長いかくれんぼがはじまった。