動物園に夜が来る。動物園に夜が来る。
 僕は青白い月明かりを頼りに床を探り、落ちていた2つのチョコレートのうちの一つを拾い上げて齧った。昼間、マナーの悪い客が僕たちの檻に投げたアポロ。一つを口に入れ、もう一つはポケットの中に入れた。
 月明かりが檻の中を青白い水族館の様に照らし、鉄格子の影が僕を貫いている。マッチで煙草に火を灯すと、優しい煙が肺のなかで蛇みたいに踊る。柔らかい藁の上に座り込んで格子越しに夜空を見上げ、あの詩を思い出した。二人の囚人が星を見上げたってやつ。星はあんまり見えなくて、月光と月面は、だんだん白骨みたいに冷めていく。二人の囚人が鉄格子から外を眺めた。 一人は泥を見た。一人は星を見た。

 この檻に住んでるもう一匹、メスのリリーはとっくに眠った。彼女は動物園のなかにあって酒も煙草もやらない。なにが好きかって言うと、餌を貰うことと、歌を歌うこと。日に4度の食事をそりゃあ嬉しそうに食べる。それを見るのは嫌いじゃない。ほんとうに美味しそうに食べるんだ。今日も朝食の時、僕の分のアスパラのベーコン巻きとおむすびと味噌汁をあげた。夕方の間食時間に出た、マシュマロとチョコレートもあげた。昼と夜のメニューは忘れてしまったけど、結構いいのが出たと思う。僕らが美味しそうに餌を喰わなきゃ、飼育員とお客さんが困るからだ。そっちは僕が自分で平らげた。僕はともかくリリーの食事にいたってはタイムスケジュールが組まれるショーとして成立している。リリーが餌を美味しく召し上がると、客たちは手を叩いて大喜び。でも、なにがおかしいっていうんだ。メシ食ってるだけじゃないか。そんなもんが楽しいんなら、じぶんちで鏡見ながら笑顔でメシ食ってりゃいいんだ。

 昨日、飼育員にきいてみた。俺たちの檻にステレオをいれちゃ駄目かな。小さいやつでもいいからさ。俺、自分の好きな曲を聴きたいよ。あんたらよくあんな音楽を拡声器から一日中聴いていられるね。平和の音楽なんて、嘘だらけじゃないか。
 飼育員は優しく微笑んで首を振った。それを決めるのは私じゃないからねえ。あまり難しく考えないほうがいいよ。優しく微笑んでそう言った。いつもの返答だ。飼育員たちは決まって考えすぎちゃ駄目だ、と微笑む。断る、と僕は答える。それすらも笑いの種だ。ねえ、お客さん、この仔はいつも決まって断るんですよ。飼育員は客に説明する。客はへーだのほーだのふーんだのと呟いて感心したふりをする。
「この動物園の音楽はクソだ。おれはあんなの聴きたくない。なにより、訴えを親切に笑顔で聴いてるふりして、何一つ対応しないでいるあの態度が気に食わねえ」
そんなふうにあたりちらすと、じゃあ私歌うよ。と、言ってリリーは立ち上がり、発声練習を始めた。唇のわきに食べかすのワカメを付けながら。そして今日の昼、リリーは歌った。横隔膜をふるふると震わせて。ジョニ・ミッチェルっていう歌手の曲。これがまた大うけで、客は手を叩いて喜び、スマートフォンで檻の中を撮影してた。あいつらは歌を歌うリリーの撮影をするのが好きなだけで、誰一人として歌なんて聴いていないくせに。
 僕は聴いてた。聴きながら、何故だか空を見上げてしまった。そんなに上手い歌声じゃないけど、昇天みたいに透きとおったファルセットだった。歌声は文字通り、空に吸い込まれていったんだ。

 たくさん歌って喉が掠れてしまったみたい。腹筋も激痛。そう言ってリリーは、藁の上に横たわり、眼を閉じた。いつもはどうでもいいことばかり喋っているリリーの声がないと、夜の動物園はいよいよ滅びた星の遺物みたいにしーんとした。僕はリリーの傍へ寄り、微かに上下する彼女のお腹を撫でた。
 リリーの寝顔をじっと見ていると、いつものように彼女を抱いて安らかに眠りたいという選択肢に直面する。この時分、もう昨日と同じでそれしかすることがなさそうだ。リリーの長いまつげが、白骨色の月光で陰をつくる。ずっと前、この檻にやって来た時、リリーは動物園ぐるみで歓迎された。メスが来るのは初めてだったからだ。彼女は顔を赤らめて、あら、こりゃアタリかも知れないわと言った。僕は来る脱走の日に先駆けて毎夜身体を鍛えていて、自分で言うのもなんだけれど結構イイ身体してた。リリーは切れ長の瞳とすべすべした肌が美しかったから前の動物園でも人気者だったそうだ。彼女がやって来た初日、僕たちが檻の隅に座ったままお互いを意識し、やがてじりじりとお互いの距離を縮めていき、とうとうはじめて手を繋いだ時なんか、客は笑い転げて喜んだものだ。けれど、僕たちがそこらへんサービスしてやってたんだということを忘れて欲しくない。もちろん半分はドキドキしていたのだけれども。最初握った時、彼女の掌は思ったより温かく、僕はその体温から一瞬にして七億の星を手に入れることが出来た。

 何事も最初を過ぎると、意見が食い違いってやつがでてくる。僕の望みは脱走することで、リリーの望みは僕とここに残ることだった。
 ここを出たくないか?率直にリリーに訊いた。彼女は「あー」と「うー」の中間の発音をして考え込んだあとに言った。
「あたしはバカだからよくわかんないけど、ここのこと、そんなに嫌いじゃないの。こういうもんだって思わないとやっていけないことばっかりだし、それに、ごはんもあるし、あんたともいれるし…」
こういうんもんだってなんだ。そんなことあるか。って僕が言うと、リリーは首を傾げて横になってしまった。考え疲れるとリリーは考えることをやめてしまう。僕たちはそのあとバトミントンをやって、セックスしてから眠った。
 リリーのお腹を撫でているうちに、ゆっくりとした寝息に呼ばれるように、僕も微睡んでいった。眠りに落ちる前、リリーの歌声が聴こえた気がした。リリーは体を起こし、今度は横たわった僕の髪を撫でながら、小さな声で歌っている。明日客の前で歌うための歌の練習をしているのだろうと思った。掠れた歌声が、月光に呼ばれて夜空に舞い上がっていく。この旋律は知っている。大昔の曲で、「砂漠」って歌だ。掠れた声で、僕を起こさないようにだろう、小さな小さなファルセットで歌っていた。

鋼鉄のドアをたたき壊して、逃げ出した二人は、何もない景色のなかで、ただ戸惑うだけ

Blankey Jet City「砂漠」