青ざめた夜明け前に、私の老犬が死のうとしている。
 産まれたときから凶々しく、いつも私に襲いかかってきた黒犬が、誰も来ない山の中で死のうとしている。

 私たちは首筋に深い傷痕を持っていて、それはかつて、黒犬が私を殺しかけた時にお互いが負ったものだ。
 あの時、私は黒犬に首筋を噛まれ傷を負い、黒犬は私のナイフでの応戦によって首筋に傷を負った。
 噛まれた後、私は床に横たわって、溜まっていく自分の血を見ていた。不思議と何も思わなかった。
 黒犬は私を噛んでしまうと、傍に座りこんで私をずっと見ていた。勝利の遠吠えぐらいあげればいいのに、と思った。
 意識と血だまりがすうっと遠くへ消えていった。
 死には至らなかったのものの、私は呼吸と声のほとんどを失い、回復にとても長い時間を要した。

 産まれた時から、ありとあらゆる手段で黒犬は私を襲った。
 時に後ろから、時に甘えるふりをして、時に殺意を隠さず、私に襲いかかった。
 何度いなくなればいいと思ったかわからないが、捨てるわけにはいかなかった。
 何しろ私の犬なのだ。捨てれば他を襲うだろう。
 しかたなく、私たちは毎日少しの時間でも散歩をし、ともに眠った。
 それでも犬は私を噛むのだが、ほんの時折、尻尾を振ることもあった。
 例えば、私たちが何もかも忘れてしまうほど美しい夕焼け空を見た時などがそうだ。私たちは燃えるような落陽が地平を呑みこもうとしている光景に目を奪われ、つかのま、お互いの存在を忘れた。だが、はっと我に帰って見つめ合うと、やはり黒犬は私に襲いかかり、私は力ずくで抱きしめることによって、それを拘束しなければならななかった。お互いに、ずっと我を忘れているわけにもいかない。

 そんな黒犬も老いには勝てない。
 憎しみに燃えていた瞳の炎はいつしか燃え尽きかけていて、それは毎夜、一点に向けて収束していく星々の最期の一粒のようだった。
 死ぬのか、と訊くと、たぶんな。と黒犬は答えた。昔はただの狂犬としか思えなかった黒犬の言わんとしていることが、今では瞳の反射からなんとなく理解できるようになっていた。
 私は軽トラックの助手席に黒犬を乗せて、人気のない冬の山へ向かった。
 トラックに載せるときも、黒犬は手足の力を抜いて、私に噛みつこうとはしなかった。

 冬の山で、夜の間中私たちは焚火をした。
 揺らめく炎のなかで、私は数えられるだけ自分らの傷痕を数えた。
 これは父親がはじめて私に暴力をふるったとき。
 これは愛していた人が、私ではない人を好きになってしまったとき。
 これは私の作った悲しい唄を聴いて誰も泣いてくれなかったとき。
 これは内臓の一部に嘘しか喋らない腫瘍ができてしまったとき。
 これは私が私自身に対して諦めてしまったとき。
 いちいちお前は私に噛みつき、時には食い破ったな。と、私は黒犬に言った。
 黒犬はもう目が見えていないようだったが、話は聞こえているようだ。
 眼は川底の小石のように、しんとしていた。尖った両耳だけが私の言葉にあわせてぴくん、ぴくん、と震えていた。幽かな鼻息が焚火のゆらぎにあわせて鳴っていた。
 もう、私に噛みつかないのか、と私は訊いた。
 そんな必要はない。と、犬は答えた。もうお前を食い破る必要はないし、そうするだけの力も残っていない。それよりも、夜と炎が美しい。
 私は頷いた。夜が明け、炎が燃え尽きるころ、黒犬は死ぬだろう。
 昔二人でよく一緒に吸った煙草を持ってきた。値上がりに次ぐ値上がりで、紙巻き煙草はあのころより30倍も手に入りにくくなっていた。
 私は焚火の火で煙草に火を点けた。一息、思い出を吸いこむと、私たちのすべての傷痕が一斉に震えた。
 私は煙を吐き出しながら、犬の口の端に煙草を差し込んだ。
 犬はうまそうに煙草を吸い、煙を吐くと、満足そうに眼を閉じた。
 焚火のゆらぎと、寝そべった犬の体が呼吸によって上下するリズムは最初同じくらいだったのだが、徐々に黒犬が遅れていった。呼吸が弱くなっているのだ。
 漆黒の夜の中に青白い水溶液が少しずつ混ざり、真っ黒な景色の彼方に山稜の影が浮かび上がる頃、黒犬は呼吸を止めた。
 私は黒犬の前に手を差し出した。いつもだったら、噛みつくであろう黒犬は、もうぴくりとも動かなかった。私は殆どはじめて、犬の名前を呼んだ。
「おやすみ、私の憎しみ」
 私は黒犬の体を抱いた。心臓の鼓動の最期の一拍と、その直前の一拍の間に、私たちのすべての夜と、傷痕の歴史が吸い込まれていった。

 私は誰も来ない山の中腹の開けた場所で黒犬を火葬した。煙になった私の黒犬が、澄んだ山の空気へ溶けていった。
 焚火の始末をし、小さな十字架を地面に刺した。
 東京に帰らなくてはならない。
 百万匹の黒犬の子が、腹を空かせて私を待っているのだ。