(6)いかさま山羊
足の裏に水膨れが出来るまで夜の河沿いを歩き続けた後、まひろは寝床と食料を求めて、街の方角へと移動した。疲れと、行く当てのない無力感が、彼女から思考を奪っていた。人間たちが箱庭の中に昆虫を放り込み、その生態と行動を見下ろして観察するように、自分がどこに向かうのかを上空から観察して面白がっている奴がいるんじゃないかと思った。憎しみを感じたが、見上げる力は残っていなかった。
母親の財布から盗んだ会員証を使ってネットカフェに入店し、個室で横になって身体を休めた。店内販売のカップヌードルとコカ・コーラでとりあえずの空腹を満たし、四時間ほど眠った後、貪るように闇金ウシジマくんを読んだ。あまりに酷い話ばかりで、自分の境遇が少しましに思えた。
好きなだけまんがを読んでしまうと、店のパソコンを使ってSNSにログインした。いかさま山羊からメッセージが届いていた。最後に〈死にたい〉と投稿して以来、更新がないがどうしている?という内容だった。行くところがなくて困っている。と、まひろは山羊に送り、その理由と経緯を簡単に説明した。ネット上で〈家出〉と検索すると、推奨される行き場所や持物までもが案内されるが、自分の求める情報はそういう類のものではない。しかし、そもそも自分が今どんな情報を求めているのかが分からず困っている。と、まひろは送った。
すぐに返信が来た。今、きみに必要なのは安全に休める場所と時間だ。よく一人で孤独にがんばった。誰にでも出来る事じゃない。と、山羊は言った。普通ならば、母親の支配と自己愛に吸収されて自分の頭でものを考えたり判断したりが出来なくなるところだ。だが、きみは違う。支配されない、強い心を持っていた。立派に戦ったんだ。行く当てがなく不安だと思うがSNS上で〈家出〉と検索するのはやめておいたほうがいい。家出少女を標的にした性犯罪や誘拐・監禁。最悪の場合、殺人事件に巻き込まれる可能性もある。
何故、そういった事件が後を絶たないのか、今のわたしにはよくわかる。と、まひろは送った。人には家が必要なのだ。居場所が。身体を休めてゆっくり眠れる場所が。まずはそれからなのだ。私が欲しいのは、どうしたら安心して眠れる場所を手に入れられるかなのだけれど、ネットにも載っていなければ、教えてくれる誰かもいない。
いかさま山羊は、まひろの所在を訊き、自分の住んでいる場所はその隣県である。と、言った。事情があって家にいることが出来ない行き場のない少年少女のためのシェアハウスを知っている。きみに紹介したい。と、山羊は言った。
いかさま山羊が到着するまでの三時間で『血の轍』と『殺し屋1』と『アシュラ』と『ヒミズ』と『タコピーの原罪』を読んだ。どれも痛々しいまんがだったが、読んでいるうちに、自分のなかの痛みが登場人物の痛みとぶつかって、相殺されるような感覚を覚えた。
何故、人は生きる痛みを嫌いをながら、一方でそれを表現し、またそれを読もうとするのだろう。まひろが、そういう疑問を明確に抱いたのは、この日からだった。何故、他人の痛みを読むことによって、自分の中の一部が癒されていくのを感じるのだろう。
傷が、別の傷に結ばれてゆく。運命の赤い糸の正体など、もはや暗黙のうちに人々は承知している。それが何故、赤いのかということも。
「まず、これだけは信じてほしい。ぼくは味方だ。よくがんばったね」と、隣県から三時間かけて軽自動車を走らせ、まひろを迎えに来た山羊は言った。ネットカフェを出ると、辺りは夕闇に包まれようとしていた。まひろは山羊に言われるままに軽自動車の助手席に乗り込み、車窓の向こうが再び夜に沈んでいくのを眺めた。
「すぐにわかったよ」と、いかさま山羊は言った。「きみは、きみの書く文章にそっくりだった」
「文章?SNSで書いてたやつですか」と、まひろは言った。
「そう。ぼくはなんのとりえもない中年だけど、ひとつだけ人より優れた能力を持っている」と、運転しながら山羊は言った。普段なら、それはなんですかと訊き返すところだが、疲れと無力感のせいか、言葉が出てこなかった。山羊は勝手に話を続けた。
「人間の内面は外見に表れる。例えば、清潔感やセンスは大きな手掛かりだ。メイクの仕方や、髪や歯の手入れとかね。そして、言葉と言うものもまた、ひとつの外見なんだ。よく観察してみれば、ちゃんと内面を覗ける。例えそれが匿名のSNSだったとしても」
まひろはこの男の顔を殆ど思い出すことが出来ない。父親と同じくらいの年齢だと推察した。体臭と肌のくすみが似ていたからだ。中肉中背で、親切な不動産の様な話し方をした。すでにSNSで、母親のことをはじめとした個人的な事情を話していたせいか、普段なら抱くはずの警戒心を抱かなかった。ネット上でのいかさま山羊は、徹底して聞き役を貫き、まひろから話を聞きだした。世界で唯一じぶんのきもちを正直に打ち明けたのが顔も知らない人間であるというのが不思議だった。
「ぼくはきみに似た境遇の子を、もう何人も保護したけど、全員が自分の言葉通りの外見をしていたよ。例外なく」
「わたしの言葉って、どんなでした」と、まひろは言った。
「きみそのものだ。傷ついていて、守ってほしいと思っている。安心したいと思っている。でも、それらを呪いの言葉で固める。愛されないという絶望の殻で覆う。誰も、その殻を割ることは出来ない」と、いかさま山羊は言った。
家出人の集まるシェアハウスに向かう途中、いかさま山羊はスターバックスのドライブスルーに寄って、ベンティサイズのフラペチーノを買ってくれた。自分の分は払います、と、まひろは言って代金を差し出したが、山羊は受け取らなかった。これから必要になるから持っていたほうがいい。と、彼は言った。
夜道を走る車のなかで、まひろは、相談の形を選び、いかさま山羊に話しかけた。頼られたり、相談を受けることを好むタイプの人間だと考えたからだ。
「山羊さんを待っている間、ネットカフェでまんがを読んでいたの」と、まひろは言った。
「どんなまんが?」と、いかさま山羊は言った。『闇金ウシジマくん』『血の轍』『アシュラ』『殺し屋1』『ヒミズ』『奇子』と、まひろが答えると、いかさま山羊は嬉しそうに笑った。なんというか、痛々しい本ばかりだなあ。
「そうなの。ずいぶんとまあ、みんながひどい目にあってた。破滅したり、拷問されたり、復讐されたり。なんであんな辛いことを描くんだろう。そして、何故わたしは好んでそれを読むんだろうって思って」
「それは君だけじゃない。多くの人々が、安全圏から他人の苦痛を眺めることを好むからだ。だから金を払ってでも、それを見に行ったり読んだりする。痛みは循環して、スパイラルになるだろう。誰かが、誰かのために痛みを製造する。需要があり、供給があるというわけだ。この循環は欲望に沿って段々拡大する。一種の経済活動だな。みんなが惨劇を欲しがってる。世界が腐っていた方が安心する奴らがいるんだよ」
メッセージのやり取りをしていた時と同様、いかさま山羊は穏やかな笑みを浮かべながら淀みなく話す。
「わたしはもっと別の理由もある気がする」と、まひろは言った。
「別の理由」と、いかさま山羊は言った。
「傷と同時に、ひとは癒しを求めているんじゃないかって思うの。癒されるためには、まず傷つかなくてはならない」
「パンドラの箱に最後に残ったのが希望であるというよりも、最後に希望を残すためにパンドラの箱が創られた。みたいな言い方だね」
「そう。傷と癒しは切り離せない。むしろ、癒されるために傷つこうとする人すらいる。お母さんもそうだったのかもしれない。わたしを殴ることで、癒されたかったのかもしれない。だから殴った後に、抱きしめたのよ。そうするしかできない病があって、しかもそれを愛と呼ぶ人もいる」
「きみは賢いね。そして、とてもかわいそうだ。でも、今だけは安心していいよ。悪いようにはならない。ぼくは味方だ。きみの味方になりたい」と、山羊は言って、左手でまひろの頭を撫でた。
「ねえ。山羊さん。あなたも傷ついていますか」と、まひろは言った。薄笑いを浮かべて運転していた男の顔の表面が、一瞬剥がれ落ちたように見えた。作り笑いの消えた男の顔から、まひろは目を逸らした。
「何故、そう思うの?」と、山羊は言った。
「あなたが自分で言ったのよ。世界が腐っているほうが安心する奴らもいるって。よくわかる。わたしがそうで、あなたもそうだという事が。わたしに寄ってくるのは他人か自分を傷つけたがっている人たちばっかりだし、わたしも、そういうひとにしか心を許すことができない。本棚に並ぶたくさんの本の中から惨劇の本ばかりを選ぶように。だから、あなたも惨劇なのよ、きっと」そう思ったが、言わない方がいいと判断して「なんとなく」とだけ、まひろは答えた。真実だとすれば、それは現状を破壊する類の真実であるという予感がしたからだ。行く当てもなく、疲れ果てた少女は、もうこれ以上なにも破壊したくなかった。そのためなら、自分自身だけは、どんなに破壊されてもかまわないと思った。
急な眠気に襲われ、まひろはそのまま目を閉じた。隣で、いかさま山羊の薄笑いが完全に剥がれたような気がした。
安心していい。ぼくは味方だ。という、いかさま山羊の言葉を信じたわけではなかった。あの時買ってもらったフラペチーノの中に薬物が混入されていたのかもしれない。あるいは、張り詰めていた精神的な疲れが車内の生温い暖房と保護されたというかりそめの安心感で一時的に切断されたのかもしれない。
気が付くと柔らかいベッドに寝かされ、耳元で山羊がなにか囁いていた。安心するのにいちばんの方法がある。きみは身を任せるだけでいい。何も考えなくていい。そういうことを繰り返し囁いていた。山羊の身体からは、有機的な金属の匂いがした。それは今までに嗅いだことのない匂いで、凡そ人間には思えなかった。言葉を話すというだけの得体の知れない生き物が、自分の服を脱がして皮膚の上で這いまっているようだった。その正体を知るために相手の心臓の音を聴いておけばよかったと、後になって思う。だが、その時まひろは山羊の言う通り、安心するために何も考えずに身を任せる、ひとつの柔らかいベッドの延長と化していた。侵入される感触がどうしても嫌で、唇を手で覆いキスを拒んだこと。破られるような痛みによって一度目を覚まし、自分の身体の上で蠢く山羊を見てすべてを理解して、諦めてもう一度目を閉じたことを覚えている。
殆ど抵抗はしなかった。身体にも意識にも抵抗するだけの力など残ってはいなかったし、母親が怒って暴れだした時と同じように、諦めればいつかは終わる。と、静かに自分を納得させたからだ。すべてが終わってしまうと、まひろは山羊に抱かれたままもう一度深く眠った。金属的な指が、自分の目から零れた涙を拭いた感触があった。眠りに落ちるまで、山羊の手が子供を寝かしつけるように、まひろの身体を優しくぽんぽんと叩いていた。
ここまでは概ね、予言通りだった。予言できなかったのは、次に目を覚ました時に山羊の姿がなかったことだ。気配もなく、荷物もなく、書置きもなかった。まひろのジャケットのポケットから、母親の財布から盗んだ三万円のうち二万円が消えていた。
いかさま山羊の不在と消滅を確認してから、まひろは裸のまま、もう一度ベッドに座り込んだ。金を盗まれていたせいで、山羊が二度と戻らないだろうことは理解できた。
前後の記憶が曖昧で、ここが何処で自分が誰なのか、うまく思い出すことが出来なかった。誰かがピンセットで自分を摘まみ、見知らぬ映画のワンシーンの中に置き去りにしたのかと思った。思わずカメラを探したが、彼女を見つめるレンズは何処にもありはしなかった。取り残された部屋の中で、まひろはたった独りきりだった。何処から来たのかもわからず、何処にいくのかもわからなかった。
見渡してみると、部屋のすべては柔らかいキングサイズのベッドを中心にして作られていた。ついさっきまで、いかさま山羊が自分を破いていたベッド。真っ白なシーツに、まひろの破られた部分から流れた血が付着していた。
壁紙も、冷蔵庫も、玄関に備え付けられた自動支払機も、備え付けの電話も、質素な化粧台と椅子も、シャワーも、浴槽も、煙草の焦げ跡が残るカーペットも、照明も、照明を消した時の暗闇も、その部屋のすべては寝具のために用意されたものだった。
すべては寝具から生じ、寝具へと帰るのだ。と、まひろは思った。もう一度なにもかもを諦めて、ベッドに横たわって目を閉じた。ベッドは、世界の終りのように柔らかかった。
枕元で鳴る電話の呼び出し音で目を覚ました。受話器の向こうで、誰かが「お時間ですが」と言った。何もわかっていなかったが、まひろは「わかりました」と言った。
見知らぬ床に散乱した洋服を着てから、ひどく空腹なことに気づいた。部屋を出ようとすると外側から施錠されていた。玄関の脇に備え付けられた自動精算機が「退出の際は、ご精算をお願いします」とアナウンスをした。親切なアナウンスに従い、一泊分の金を払って、狭い廊下を通り、薄暗い階段を降り、建物の狭い出入口から出ると、雲一つない青空の中心で太陽が眩く輝いていた。無数の光の棘がまひろを貫いた。通りがかった黒い肌をしたドレッドヘアの外国人が、まひろの顔を見て「ダイジョブ?」と声をかけた。まひろは「だいじょうぶだよ」という気持ちをこめて彼に微笑みを返した。