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 私は気がついた時、最早すでにここにいたような気がするわ。
 罪子は天井を仰いでそう言った。細い顎が僕を指した。彼女の黒い瞳が空を見ていた。冥王星に卵を産むという、嘘の概念をもたない一族の話を、彼女がいつかしてくれたことがある。
 彼女はきっと、空の果て、マグネシムの森の中、自らが産み捨てた卵を見ていたに違いない。
 僕はピアノを弾きたいと思った。残酷なシャボン玉みたいなやつを。

 私は気がついた時、最早すでにここにいたような気がするわ。
彼女はそう言った。
 昔のことなんてすぐに忘れてしまうの。昔の顔も、姿も、記憶も、感情も。
 見て、と彼女は言って、窮屈な純白のシャツの前を開けて僕に胸を見せた。心臓の当たりに、懐中時計が埋め込まれていた。秒針はこの世にあり得ない時間を指していた。耳を澄ませてみて、と彼女は言った。この部屋は地平線に隔離されたような静寂で満たされている。僕は耳を澄ませた。静寂の音以外にはなにも聴こえなかった。
「秒針は動いている、けど歯車の音がしないの」
彼女はそう言った。

 鼓動・・・。


 秒針の壊れた懐中時計を心臓に埋め込んだまま、彼女は生きている。何もしない、という行為をとても好んだ。僕らは裸のまま交互にコーヒーを入れて僕らのベッドに運んだ。時々はコーヒーの代わりに冷やしたウォッカも運んだ。
 五分に一度煙草に火を点ける彼女の横顔、常に夢に酔っているような彼女の瞳の奥を僕は見ていた。その瞳はめったに僕を見なかった。故郷の匂いがする煙草の白煙が、透過とゆらぎを繰り返してたゆたっていた。掠れて、耳を澄まさなければ聴こえない彼方の風のような彼女の呟き声を、僕もまた夢に酔うように聴いていた。
「孤独を名乗る人たちが、徒党を組んで私に触れようとしている」と、彼女は言った。「いまだ私の手の中にある太陽を奪い取ろうとしている」呟きながら、時折彼女はマジナイのように僕の身体に触れ、撫でた。そして急に白日夢から覚めたように、ねえ、犬くん?と、僕に言った。そうでしょう?太陽を奪い取ろうとしているでしょう?とでも言いたげにだ。わん、と僕は答えた。僕は彼女の寓話に対してそれしか言わないし、彼女もそれを知っている。彼女がこの部屋で僕をそのように造形したのだ。
 わん、わんわん。

 朝。少しだけ冷たい白壁に裸の背中をくっつけて、僕らお互いの眼を見ないまま寄り添っていた。
「人間が傷ついている」と彼女は呟いた。この世の終わりをいっぱいに閉じ込めた瞳が、世界の果てを見ているようだ。と、僕は思った。
「ねえ、犬くん、人間が傷ついているわよね」と、彼女は言った。
傷ついているのは君だ。と、思いながら、僕はわん、と呟いた。
君が傷ついているんだ。わんわん。

 僕の身体にくっついた彼女の体温はあたたかだった。部屋には陽が差し込もうとしていた。
 殺意と慈愛の巡り混ざった彼女の心象吐露が繰り返されるこの部屋の中で、くっついた僕らの体温だけが、未来ある哲学だった。

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 壁一面にかけられた時計。一つ一つが、デタラメな時間を刺している。反対側の壁に仕掛けられた八面鏡の中で、時計は無限に分裂している。無尽のカメラ・オブスキュラ。その中の時計の秒針の尖端から血が流れている。60秒間、360度にゆっくりと廻りながら、変な色をした血が流れている。
「ゆっくり?」と、罪子は言った。怪訝な顔をして。
僕は床で丸まっていた体を彼女の方に向けて、罪深い彼女の瞳を見た。時間の流れの感じ方について、彼女は何か言いたげだった。
 時間の性質は変化する。と、僕は言った。時間は早くも遅くもなる。僕たちもまた、速かったり遅かったりする。一万年も、一秒も。ねえ、考えてみると、あの秒針から流れる血はいつもゆっくり流れて行く。プロペラみたいに速く廻ったら、遠心力で血があちこちに飛び散るね。

「人は、喋るオモチャみたいよ。あんたも」と、罪子は言った。僕の話なんかひとつも聴いてはいないのだ。最も、この部屋では、僕もまるで独り言を言ってるみたいに思える。僕たちは裸で、罪子の両の鎖骨の間には、昨晩剃刀で浅く切った小さな×印が赤く輝いている。僕はその交差点を見ていた。雨の気配を感じて、傷口はひくひくとうずいていた。夕立が近いんだ、と、僕は思った。外はきっと曇っているだろう。砂時計がサラサラと砂を落とす。小さな机にぽつりと一つ置かれた罪子の砂時計は不思議で、いつ見ても上砂が落ちきっていない。誰かがこの砂時計をひっくり返すまで(罪子も僕もまだ暫くそれをしないだろう)僕たちはこの部屋を出る事はないだろう。自分が憎いの。と、彼女は言った。もう9日間も、僕らはこの部屋を出ていない。銃殺される僕の血で染まった赤い壁。グラスの中の腐った水。灰色になってしまったパセリ。勝手気ままに膨張と伸縮を繰り返す秒針。
 罪子が何かを求めて僕の方へ手を伸ばした。僕は枕の下からサイレンサー付きのマグナムを出して彼女に渡した。ピエトロ・ベレッタM92。

「永遠って何?」
拳銃のスライドを引いて、弾丸をチェンバーに送りながら、罪子は言った。「私を殺す時計たちの背後には、そいつがいるのよ」
「巨人だよ」と、僕は言った。「もしも、永遠というものが実在するならば、僕たちは何時も幼い」
「幼い」と、彼女は言った。瞳が、狂った猫のようだった。
「今日の晩ご飯は?」と、彼女は言った。僕の額に真っ赤に煮えたぎった銃口を突きつけながら。拳銃は、彼女の気分によってその性質を変える。ゆうべは痛いくらいに冷えきった氷の温度をしていた。
「卵だ。お前産めよ」と、僕は言った。オムレツにしよう。心の中でそう呟いた時、彼女が引き金を引いた。僕は脳死する前の誰にも見えない小さな一瞬に、壁に貼り付こうとする僕の血を恐るべきスローモーションで見る事が出来る。それを見ながら、彼女への僕の膨大な感情を、僕の存在総てで感じる事が出来る。砂時計にしてみれば、砂一粒落とすより短い、ほんの小さな時間。僕の永遠はそこにある。
 生き返ったら、彼女に愛していると言おう。と、僕は思う。そして、永遠について彼女に教えよう。僕たちは永遠の連なりの中に生きていると。 僕は死んだ。暗闇と、現世の境目で、百万回のさよならが聴こえた。
 夜半過ぎに僕が生き返るまで、彼女が何をしているのか僕は知らない。


 彼岸花が好きなんだな。と、僕は言った。窓辺に飾られた赤い花。僕らの体は衰弱し、肋骨なんて浮き彫りになってるのに、あの花の鮮血のような色が褪せない。赤いから好き、と、彼女は言った。声はもう掠れていた。 僕たちはもう口づけすらしなかった。
 部屋の中からは一日一日と、時計が消えていく。僕らが寄りかかっている白い壁。その向かいの白壁にずらりとかけられていた無数の時計が、一日一日と消滅していく。僕らは日付を見ていないので、正確にそれが一日おきに消滅するのかは分からないが、とにかく刻々と時計は消えていった。つり下げられた懐中時計が消え、一時間おきに鐘を打った古時計が消えた。太陽の消滅とともに日時計が消え、ゆっくりと蒸発した所為で水時計も消えた。無数のわずかな誤差を伴う無数の秒針の音の減少とともに、この部屋は静かになっていった。随分静かになったね。と、罪子は言った。彼女の唇はかさかさに乾いていた。僕のもだ。僕はもう立ち上がってスープを作る事すらしなかった。

 壁にかけられた時計は総て消滅し、僕らの目の前には顔のないマネキンが一体立っている。マネキンの心臓には、文字盤と秒針が埋め込まれていて、それがコチコチと稼働している。
いちびょう・・・いちびょう・・・。
と、罪子は死にかけた鳥の声で呟いていた。
「ねえ、一秒って何かしら」
 時計がいつ消滅するのか、僕は気づかない。僕らはもうずっとこうして壁に寄りかかり、向かいの壁の時計を眺めているのだから。あり得るとしたら、それは瞬きの時に消えている。僕らの瞼が、ほんの一瞬ぱしりと閉じるその時に、何処かで時計が消えている。
いちびょう・・・と、僕も思った。その単位の正確な定義と証拠は、もうとっくに失われていた。あの無数の時計達はそれぞれどこかネジがいかれてて、秒針の移動速度もバラバラだったからだ。
 あの時計の中の、どれか一つが正しかったのだろうか?それとも、総ての時計が狂っていたのだろうか。

 僕が罪子の肋骨を指でなぞっている間に、最後の時計が消えた。彼女の体温は心なしか、冷たくなっていっているように思えた。
 最後の時計がマネキンと一緒に消えた。と、僕は言った。自分でも驚くほど力ない声だった。死にかけているのだ。
 目の前にはくすんだ白壁がいちまい残された。もうあんなのは見たくない、罪子の顔をもう一度見たい、と思った。でも、僅かに顔を動かす力さえ僕には残っていなかった。ひょっとしたら、自分で気づいていないだけで、僕はとっくに死んでいたのかもしれない。
「まだ、残ってる」と、罪子が言った。もう一度きみの声が聴きたい。と、僕は力を振り絞って呟いたが、唇がわずかに動くだけで声は出なかった。
「まだ、残ってる」と、罪子はもう一度言った。僕の手を握り、彼女は自分の胸へと導いた。心臓が鼓動していた。とくん。とくん。と、心臓が撃っていた。本当だ、と僕は呟いた。彼女の手を取り、僕の胸に当てた。
 心臓が鼓動していた。